天正十八年(1590)天下統一を果たした豊臣秀吉は、翌十九年京都市中の東西南北を後に御土居と呼ばれる高さ四メートル前後の竹を植えた大堤で囲い、賀茂川から鴨川に沿ったその東の御土居の内、六条通から鞍馬口通の間に、市中にあった百十七の寺院をかつての東京極大路沿いに集め、東京極大路とその南に続く通りは寺町通と名を変える。集められた百十七のおもな寺院の内訳は、浄土宗が五十六、日蓮宗が八、時宗天台宗が五、真言宗がニ、臨済宗曹洞宗が一である。御土居の建設は防衛と洪水を防ぐためとされ、寺の強制移転は、地元町民との切り離しがその理由とされている。「凡(すべ)ての仏僧をその寺院より立ち退かせ、かの溝渠のまはりの一定の場所に集り住ましめたり。かかることは甚だ難渋にして、是人に非ずんば何人も敢てすること能はざりし所なるに、而(しか)も数日の期間にこの事を迅速に行はれたり。仏僧並にその信徒の憤懣は大にして、その困却は甚だしかりき。彼ら民衆との交際を絶たれ、疫病やみ、または癩人の如く隔離せられ、百千の宗派一団とせられたるのみならず、その所得は没収せられ、その寺領より追はれ、糊口の資を得ず、施与を離れ、再びその寺を建つ望もなければ、或は新に他のたつきの道を講じ、或は助なく布施を得ず窮迫せり。されば、都に於けるわが宗門の為めには好都合なりき。」(宣教師ルイス=フロイスからゼススコンパニア総長に宛てた手紙)この寺町の北の外れ、鞍馬口通に天寧寺(てんねいじ)がある。前に立つと比叡山の景色が絵のように見え、額縁門と呼ばれるというその山門脇に、このような京都市の案内札が立っている。「天寧寺 山号は萬松山と号し、曹洞宗に属する。当寺は、もと会津福島県)城下にあったが、天正年間(一五七三~一五九二)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。」「移転された」という云い回しの意味は計りかねるが、この移転には事情があった。天正十七年(1589)伊達政宗会津蘆名義広に攻め込み、この時天寧寺は戦火で堂宇が消失している。翌十八年伊達政宗浅野長政に促され豊臣秀吉に服属し、前年の蘆名との一戦を、私闘を禁じた「惣無事令」を破ったとして得たばかりの旧蘆名領の会津を秀吉に没収される。元亀二年(1571)織田信長比叡山を焼き討ちし、恐らくこの後より天台松陰坊は廃寺となっていた。寺町の御土居には、鞍馬口荒神口、粟田口の三つの出入り口があり、地図を見れば鞍馬口には浄土宗の正善寺と曹洞宗の天寧寺、荒神口には浄土宗の知恩寺天台宗行願寺、粟田口には浄土宗の誓願寺真言宗戒光寺が通りを挟んで向かい合わせに並んでいる。浄土宗でないこれらの寺は、このような配置から御土居の出入りと浄土宗に目を配るという意図が見て取れるのであり、天寧寺も恐らくはその意図を担っていたのに違いない。織田信長を悩ませた本願寺浄土真宗には手をつけず、かつて京都五山と呼ばれた臨済宗からの移転は一寺で、京都に広がりのなかった曹洞宗は没収したばかりの会津から呼び寄せている。寺を失った天寧寺の十代祥山曇吉にとって、京都移転は渡りに舟だったのかもしれない。天寧寺の山内、境内は町中にあって広さはないが、丹精の伝わる庭であり、敷きつめた白砂利とその縁に植えられたひと群れのアヤメの姿は疎(おろそ)かならざる美意識である。天寧寺から寺町通を歩いて一二分のところに、本能寺から持ち帰った織田信長の骨灰を埋葬したという信長の帰依のあった阿弥陀寺があり、その門に立て掛けた看板に「信長忌」とあった。六月二日のことである。向日葵や信長の首斬り落とす 角川春樹。この句以前に、俳句でこのような劇的な詠み方をした者はいなかった。

 「沿線の水銀灯のため、ここでは星の光もだいぶ薄らいで思え、反対に海の上はいよいよどす黒く感じられる。かなたの島の灯台の光が一定周期で水面を掃いているが、その明かりはあまりにも弱い。ただ、岸近くで崩れる波の線が一本、二本と、そこだけ白く浮き上がる。何者かの見えない手が、大きな黒板にチョークで真一文字に太い線を引いては消し、引いては消ししているみたいだった。」(「星」阿部昭阿部昭集 第四巻』岩波書店1991年)

 「1日最大500トン放出 東電方針、第1原発処理水満杯23年春に」(令和3年5月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)