平成二十一年(2009)、創刊九十年のキネマ旬報が撰んだ日本映画オールタイムベストテンの七位に山中貞雄が監督した『丹下左膳余話 百萬両の壺』が入っている。一位以下はこうである。一位、小津安二郎東京物語』、二位、黒澤明七人の侍』、三位、成瀬巳喜男浮雲』、四位、川島雄三幕末太陽傳』、五位、深作欣二仁義なき戦い』、六位、木下恵介二十四の瞳』、七位、黒澤明羅生門』,同、長谷川和彦太陽を盗んだ男』、十位、森田芳光家族ゲーム』、同、黒澤明『野良犬』、同、相米慎二台風クラブ』。このうちの八作品が白黒映画で、『丹下左膳余話 百萬両の壺』が最も古く、昭和十年(1935)の公開である。山中貞雄は公開の三年後、中国河南省開封赤痢に罹り、陸軍歩兵曹長として二十八歳で亡くなる。『丹下左膳余話 百萬両の壺』の主役は大河内傳次郎である。「大河内傳次郎。明治31~昭和37(1898~1963)映画俳優。福岡県に生まれる。本名大辺男(ますお)。初め新国劇で室町次郎と名乗ったが、大正15年(1926)日活に入り、伊藤大輔監督の「忠治旅日記」三部作に出演、その独自の風貌で時代の虚無を表現し、人気を博した。特に「新版大岡政談魔像篇」の丹下左膳は適役とされた。代表作に「興亡新撰組」の近藤勇、「大菩薩峠」の机竜之介、「盤獄の一生」など。」(『京都大事典』淡交社1980年刊)。大河内傳次郎という役者は「その独自の風貌で時代の虚無を表現し、人気を博した。」とある、が、山中貞雄の『丹下左膳余話 百萬両の壺』では、問答無用に殺すことでその関係の結末を得る人殺しの態度は引っ込み、隻目隻手に女物の長襦袢姿の丹下左膳は、矢場(遊興場)の用心棒の居候として他愛のない騒動に巻き込まれる。百萬両の在りかを塗り込めてあるという壺を金魚鉢代わりにしている、父親を殺された子どもの面倒を見ることになるのがその騒動であり、丹下左膳は矢場の女将に頭が上がらず、その壺を探しているのが、さる藩とその藩の次男坊で、その次男坊がさる道場に婿養子に行かされ、その婚礼に貰った祝いの品がその壺で、薄汚いことを理由にその壺は屑屋に売り払われ、その次男坊は矢場の客として通い出し、騒動はこの者らの間でドタバタ巡りをする。話のはじめ、行きがかりで父親が殺されたことを、それを知らずに待っている子どもに伝えなければならなくなるのであるが、丹下左膳にはそれが出来ない。この思い悩む姿を、冷血な人殺しだった丹下左膳の「別の顔」として観客は見ることになる。欲得づくの大人と預かり子に苦手な人情を試される刀傷で右目が潰れた右腕のない異様な男は子煩悩な父親のように振る舞い、それは時に滑稽であり哀れであり、このような「別の顔」は本来の「顔」でないとして原作者から拒まれ、「百萬両の壺」は丹下左膳の続き物から「余話」として区別されることになる。が、公開から七十四年後の日本映画の七位となるのである。恐らくこの「別の顔」をいかに面白可笑しくするかが山中貞雄の課題であった。そこで山中貞雄は閃(ひらめ)いた。以下は推測である。大河内傳次郎丹下左膳を演じるのではなく、丹下左膳大河内傳次郎を演じる。が、丹下左膳は架空の人物であるから、丹下左膳の皮を被って大河内傳次郎は普段の通りの己(おの)れの振る舞いをする。これが天才山中貞雄による丹下左膳の「別の顔」に息を吹き込む方法であり、「別の顔」はニヒリストの「顔」を自ら食い破ることが出来たのである。平成十六年(2004)、豊川悦司が同じ『丹下左膳 百萬両の壺』を演じた。が、これはニヒリスト丹下左膳を一度も演じないまま丹下左膳の化粧をしただけの豊川悦司の死に絵であった。嵯峨小倉山に大河内山荘がある。大河内傳次郎が三十四歳から三十年かけて作った別荘である。この山荘の元(もとい)は小倉山の一角を買って建てた、己(おの)れを守護する仏像を安置する持仏堂であるという。大河内傳次郎は己(おの)れの残りの二十年をここに移り住み、死に場所もここであった。山荘は、主な建物の書院数寄屋造りの住まいと持仏堂と茶屋の三つが六千坪の斜面の平らに建っていて、それぞれを結ぶ石を並べた小径の両側がびっしり樹木が植わって辿り着くまでの視界は前方だけに限られ、どこで立ち止まっても敷地の全体を見渡すことが出来ず、そうでありながら所々から京都の市街や比叡山や背後にある嵐山を目にすることが出来る不思議な作りが施されている。小倉山の下を流れる大堰川が、渡月橋から桂川となって下った先に架かる桂橋の西詰に桂離宮がある。桂離宮も書院と持仏堂と茶亭を巡るには土に並べた石を踏んで行くのであるが、その大小の石の感触、石の上の行く歩き難(にく)さが大河内山荘にもある。大河内傳次郎の頭の中に桂離宮があったかどうかは定かではない。が、大河内傳次郎の「顔」はフィルムの中にだけあるのではなく、この小径に置いた様々な石にも残っている。石の並び方から大河内傳次郎を想像するのではない。据えた石の一つ一つがこのことに三十年をかけた大河内傳次郎なのである。

 「すると喜びが急に胸にこみあげてきたので、彼は息つくためにしばらく立ちどまったくらいだった。過去は、と彼は考えた、つぎからつぎへと流れだす事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている、と。そして彼には、自分はたった今その鎖の両端を見たのだ━━一方の端にふれたら、他の端がゆらいだのだ、という気がした。」(「学生」アントン・チェーホフ 松下裕訳『チェーホフ小説選』水声社2004年)

 「県外避難者2万8505人 前回調査比454人減少、福島県が発表」(令和3年3月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)