生まれ育った町にある二つの神社の例大祭は七月二十四、二十五日に行われ、神輿が出、後には町内各地から笛太鼓の山車も出るようになったのであるが、子ども時代の祭りの記憶は貰った小遣いを遣う露店と境内でやっていた民謡のど自慢であり、そののど自慢の声は神社から近くもない家まで響いて来て、祭りに足を向けなくなった十代に夜聞いた唄う声は、同じ境内で八月にやっていた盆踊りの声であったかもしれないが、のど自慢は昼から夜まで延々とやっていた記憶があり、そうであれば網戸越しに聞いた夜の声は、スピーカーから大音量で発せられたのど自慢の声である。欲しくて買った面やピストルは、数日もすればどれも飽きてしまうものであった。くじや輪投げは、当たれば出した小銭以上の値打ちの賞品を得た幸福と優越心を高めてくれるものであり、はずれれば、中の芯が折れている不良鉛筆を手にするのである。輪投げで狙ったのは、万年筆やオイルライターだった。それらは薄く四角い木の台の上に立ち、輪はその木の台ごとすっぽり嵌めなければならなかった。ある年の祭りの翌朝早く、一人で神社まで行ったのは、翌日でもやっている露店がまだあると誰かに聞いたからだったのかもしれないが、行ってみると道端に並んでいた露店は既になくなっているか、あってもシートで覆われているか、あるいは片づけの最中だった。が、輪投げの露店は昨夜のままでその場所にあり、昨日の賑わいがまったくないにもかかわらず、その一角だけがそのままであることが現実ではないような光景だったのである。テキヤのあんちゃんの姿はなく、隣りの露店では男が片づけをしている。ズボンのポケットに、輪投げ一回分の金があった。一度躊躇してから、傍らの投げ輪に腕を伸ばして手に取ると、隣りの露店の男と目が合った、がその男は何も云わない。輪を万年筆目掛けて投げる。が、輪は台の端を残して引っ掛かる。その輪を抜いて、もう一度構えた時、また隣りの男と目が合うと、男の目は薄ら笑っている様子で、今度はオイルライターを狙って投げると、台まですっぽり輪が嵌ったのである。その時輪投げ屋のあんちゃんが戻って来る。一回分の金はあるが、もう一回分の金は持っていない。いやそもそも許可もなくやったこと自体、謝罪すべきことに違いない。練習なら金取らないけど、練習されたら商売にならない、とテキヤのあんちゃんが云う。後の祭り、という言葉がある。機会を逃したことの空(むな)しさというような意味である。この言葉が、祇園祭の後祭(あとまつり)から来ているという説がある。祇園祭の前祭(さきまつり)と後祭は、交通事情を理由に宵山山鉾巡行も統一の同じ日程で暫(しばら)く行なっていたのであるが、数年前よりもとの祭りの姿である前祭と後祭に戻った。その七月二十三日の宵山、二十四日の山鉾巡行の後祭は、前祭に比べ山の数が少なく見劣りがし、後の祭りと侮(あなど)られ、前祭を見逃した者が後悔をすることだというのである。が、後祭の規模をあげつらって後の祭りという言葉の意味が生まれたのでは、恐らくない。前祭と後祭の両方を見ることではじめて祇園祭という千年を超える祭りに触れることが出来、そうしなければ平安京を襲った疫病を祓ったことが元(もとい)である七月ひと月を費やす祇園祭を分かるということにはならない、ということなのである。後祭の後という言葉の味わいは、前祭にはない。祭りの後という言葉を聞くと、感傷やら寂寥やら空しさやらの心が、低きに流れていくように働いてしまう。が、子ども時代のあの年の祭りの翌朝の輪投げは、そのどれでもない。オイルライターの立つ四角い台にすっぽり嵌った金を払わずに投げた輪は、いまでも嵌ったままなのである。

 「その時太鼓が夜空全体に鳴り響いた。ラダー太鼓やコンゴー太鼓、あるいはブックマン太鼓、大いなる契約の太鼓、それにあらゆるヴードゥー教の太鼓がとどろきわたり、たがいに呼び交わし、山から山へと応答し合い、海岸から高まり、洞窟から湧き出し、木々の根もとを走り抜け、渓谷や川床を駆け降りて行った。まるで巨大な円周を備えた太鼓が、包囲の輪をしだいに縮めながら、サン=スーシに攻め寄せてくるように思われた。地平線のように広がっていた太鼓のとどろきが、じりじりとその輪を縮めはじめた。使者も錫杖棒持者も控えていない玉座は、台風の目のようなものだった。」(アレホ・カルペンティエル 木村榮一・平田渡訳『この世の王国』水声社1992年)

 「東電、大津波の確率把握 旧経営陣公判、震災前に50年以内に4割超」(平成30年7月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)