「対岸の桜」という小説があり、「私」という不動産業を営んでいる人物が、長年東京で教師をしていたという片足の不自由な者に鴨川の向こうの物件を紹介し、その者は古本屋を始めたのであるが、五年足らずで火を出して亡くなるというのがその話のこれまでの話である。その火事があってから一年経ったある日、その古本屋の主(あるじ)の知り合いだという女が「私」の元を訪れる。事前にその女から「私」に連絡はなかった。女は東京からやって来て、「私」のことは亡くなった古本屋の主の兄から聞いたのだと云う。火事の後の一切の事は、福島に住む主の兄が済ませていた。その兄は焼け跡を更地にし、その更地を「私」が買い取ったのである。火事の原因が漏電かもしれぬとされたのであるが、そうであれば「私」に些かの責任がないとはいえないと「私」は思ったのである。女は五十を過ぎた年の様子で、目立たない化粧をし、痩せていず太ってもいず、小奇麗な身なりをしている。「私」が事務所の中に通すと、座る間もなく女は、「まだ売れてないのであれば、あの土地を売っていただけませんか。」と「私」に云った。火事で死人の出た土地である。目の前の女は事情を知った上でそう云っているのである。土地は売れていない。「物件は確認していますか。」と「私」が訊くと、女は、「いえ、まだ。」と応え、「案内をして貰うのが順序として最初ですね。」と云って頬のあたりの表情をくずした。「私」は古本屋の主の知り合いであると名乗るその女を車に乗せ、女が買いたいというその場所に向かう。女がその車の中で口を開いた。「あの人の左足が不自由になったのはわたしのせいなんです。何か聞いていましたか、あの人から。」「私」は、普段につき合いがあったわけではないということは口に出さず、いいえとだけ応える。「わたしが車を運転していて、事故を起こして、あの人の足をあんなふうにしてしまったんです。あの人とは学生の時からつき合っていて、一緒に卒業して、二人とも教師になってつき合いも続けていたんですが、いざ結婚しようという話になってわたしに迷いが出たんです。漠然とした迷いでもやもやしたままその日ドライブに行って、帰り道にわたしが運転を代わって、目の前の車に気づくのが遅れて、ハンドルを切ったんですが、あの人が座っていた助手席の方がぶつかって。考えごとをしていてあの人に云われてハッとして、遅れたんです。あの人の左足だけが不自由になってしまいました。退院した後にあの人は結婚しようと云ってくれたんですが、わたしは事故を起こした時も迷っていたんですと正直に応えました。一緒になって不自由になった相手の足に毎日負い目を感じ、不自由になった者はいつかそのことで相手を責めるかもしれない、そういうことを克服出来る者もいれば、出来ない者もいる、とあの人はわたしに云いました。わたしは結局一緒にならない方を選びました。あの人はわたしに失望したと思います。それから一度も会うことはありませんでした。それで亡くなったという知らせをあの人のお兄さんから聞いたんです。あの人が教師を辞めて、京都で古本屋をやっていたなんて。あっ、さくら。」車は出雲路橋を渡っていて、女は鴨川の土手の桜を見つけてそう云ったのである。それから古本屋のあった場所に着くまで女は黙っていた。更地の前で止めた車から降りると、女は手を合わせ、「小さいですね。こんなちっぽけな場所で。」そこまで云って、女は込み上げて来るのを堪えるように黙った。更地に生えた雑草に交じってたんぽぽが咲いている。「どうして京都に店を構えたかご存じですか。あの人のお兄さんは何も知らないと云ってましたが。」「私」は知りませんと応えた。店を決めたのが二階の窓から銭湯の煙突を見た時ですと云おうとしたのを止め、「私」は目の前の更地の買い手となるかもしれない女に、恐らくしていないのだろうと思いながら、結婚をしているかどうかを訊いた。女は、していないと応えた。古本屋の主もこの女もしないことに殉じたのである。「京都にそそのかされたんですね、あの人。わたしもそそのかされてみます。」このもの云いは、この土地を買う気持ちに変わりがないということであろう。女は、日を改めて契約に伺うと云ってから、「さっきのさくらを見ていきます。」と、「私」が車で送るのを断った。その日の夜、自分の家に戻った「私」は、部屋の灯りを点け、床に桜の花びらが一枚落ちているのを見つける。部屋の窓は締め切っていて、近くに桜の木もなく、桜の木の下を通った記憶も「私」にはなかった。その桜の花びらを不可思議に思い、「私」はその夜そのまま床に就いたのである。

 「喜劇の次元の悲愴さはまさしく悲劇の対極、対です。悲喜劇というものが実在するように、悲劇と喜劇は両立しないわけではありません。人間的行為の経験は悲喜劇にこそあります。我々はこの経験の核心にある欲望の本質を先人よりはよく知っていますから、倫理の見直しが可能であり倫理的判断が可能となるのです。それは<最後の審判>としての価値を持つ次のような問いで表されます。「汝は汝に宿る欲望に従って行動したか」。」(『精神分析の倫理【下】』ジャック・ラカン ジャック=アラン・ミレール編 小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳 岩波書店2002年)

 「福島第1原発処理水、海洋放出へ 政府方針、風評対策など強化」(令和3年4月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)