西陣聖天雨宝院の庭の空を蔽うように枝を回(めぐ)らす赤松を「時雨の松」と呼ぶのは、幕末に参拝した久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)が雨に遭って、その下に宿ったからだという。その当時の名は中川宮であった久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、天保九年(1838)得度し、興福寺一乗院門主尊応(そんおう)となり、嘉永五年(1852)青蓮院(しょうれんいん)四十七世門主尊融(そんゆう)となり、第二百二十八世天台座主となるが、日米修好通商条約の勅許、あるいは徳川の世継ぎを巡り大老井伊直弼と意見を違え、安政六年(1859)の安政の大獄による相国寺桂芳軒での蟄居の命に、万延元年(1860)の桜田門外の変での直弼の死まで従い、還俗し中川宮を名乗って国事御用掛の身分となり、公武合体派の公卿として文久三年(1863)八月十八日の政変尊王攘夷派の長州藩を京都から追い出すのであるが、公武合体派が二度目の長州征伐に失敗し、徳川慶喜が身を翻して大政奉還すると、中川宮は、薩長主導で出来上がった明治新政府の流れに押し流されるように広島藩での遠方謹慎を明治五年(1872)まで強いられ、伏見家に復帰した後に一代宮家久邇宮を創設し、明治八年(1875)伊勢神宮祭主に就き、明治二十四年(1891)に世を去る。朝彦親王の子の邦彦親王の娘が昭和天皇香淳皇后であり、朝彦親王今上天皇の曽祖父である。七宝作家並河靖之は弘化二年(1845)川越藩松平大和守家臣高岡九郎左衛門の三男に生まれ、安政二年(1855)親戚の青蓮院坊官職の並河家の養子となって家督を継ぎ、入道尊融親王の近侍として相国寺の蟄居、広島での謹慎に同行し仕えるのであるが、維新後の、流れから外れた親王への仕えでの収入は低く、兎、鶏を飼い、団扇の骨作りなどの商売を起こすも悉(ことごと)く失敗し、宮家仕えの同僚桐村茂三郎に誘われ、明治六年(1873)自宅で七宝業を始めるのである。その二年後に国内博覧会で賞を受け事業が軌道に乗ると、並河は職人を奪い去られる裏切りを桐村から受ける。いつの世にもある話である。仕切り直した並河の次の試練は、輸出した製品の質の低下である。断腸の思いで五十余人の職工をすべて馘にし出直した結果は、明治十七年(1884)ニューオリンズ万国博覧会一等、明治二十二年(1889)パリ万国博覧会金賞、明治三十三年(1900)パリ万国博覧会金賞、明治三十七年(1904)セントルイス万国博覧会金賞である。パリ万博の栄誉で売れた金で並河は、明治二十六年(1893)住まいと工房を新築する。その住まいには幾人もの外国人が直接買い付けに来るほどであったのであるが、大正三年(1914)に第一次世界大戦が始まると、七宝工芸品を欲しがる者は世界から瞬く間に消えて仕舞う。七宝工芸品のほとんどは海外が市場の輸出品であり、値の高さから日本人が買う品物ではなく、日本人が手にするのは国表彰の副賞としてであった。七宝工場は、大正十二年(1923)に閉鎖され、並河は昭和二年(1927)に世を去る。京都日出新聞の訃報記事は並河を、「勲章の製造家」と書いた。明治三十九年(1906)、政府賞勲局から勲章製造の命を受け、東京に工場を開いていたのである。娘婿が継いだその工場も、並河の死の二年後に役目を終える。七宝作家ではなく、勲章の製造家として忘れ去られていった並河の作品の大半は海外にあり、日本にあるものは、並河が手放さず残しておいたものだけであるという。銀製の壺があり、漆黒の地に幾本もの藤の花房が垂れ下がっている。その花弁の一枚一枚の輪郭は、リボン状の金線を立てて描くように折り曲げたものであり、その色は微細なその枠にガラス質の釉薬を乗せて焼き付け、幾度も磨いたものである。この技が空前絶後なのである。それまで見たこともない並河の技に世界は驚き、並河の死の後、これを超える技の七宝は生まれていない。この有線七宝と呼ばれる技法は、その表現の制約の故(ゆえ)に、細密緻密な花や蝶の絵柄はすべて死に絵に見える。そう見えざるを得ない七宝の性質の故に、並河はその技法を極限まで至らしめたのである。東山にある並河の作品とその下画を展示する並河靖之七宝記念館は、並河が建てた当時の住まいであり、工房であり、来客との商談の場所である。並河は外国人客のため、鴨居の高さを通用の五尺七寸から六尺に変えたという。二方のガラス障子から見渡すことが出来る庭は、七代目小川治兵衛の作である。「三条北白川裏白川筋に在り其地は広からされとも奇巨巌を畳み池を作り、中島を築き石橋を架し囲むに古樹名木を以てし遠く疎水の水を引き滝を造り、淙淙として緑樹の間より瀉ぎ下る池水清澈遊鱗溌溂濠梁の思いあり庭中岩石並燈籠等に優物多し」(『京華林泉帖』京都府1909年刊)目を見張るのは、飛び石と二枚の沓脱石と、舟の形をした手水鉢の巨大さである。池に迫(せ)り出す二方の畳廊下は水面に浮かぶ石に柱を支えられ、沓脱石の傍らの舟形の手水鉢の下もまた床下を深く掘り抉(えぐ)られた底から石柱で支えられ、そこには水は無く、その床下には青い大きな石が潜むように据えられている。林のように木が繁り、木の間から池が覗き、その池の水の上に浮かぶかのように住まいが建てられ、沓脱石の大きさは恐らくその重しの役目をなし、水を湛えた舟形の手水鉢が涸れた穴の上に浮かんでいる様(さま)は、外国人客の興味驚きを誘(いざな)う仕掛けでもあろうが、七宝の息苦しい不自由な美とは相容(い)れない、並河の自由をここに見るのである。「人間の身の上は分からぬもので、維新前には異人の首を斬ってやろうと威張ったものが、今は其異人から金を取ることを商売にするようになりました。」と並河は云っているが、この言葉は並河の何かを伝えるものではない。久邇宮朝彦親王の身の回りの雑用係から、世界の富豪の財布の紐を解かせる美の技を身につけたにもかかわらず、世の移ろいに遂には誰からも忘れられた男が、並河靖之である。並河靖之七宝記念館はその京町家の住まいをそのまま使い、通り庭と呼ばれる、玄関からそのまま奥の庭に抜けることが出来る土間の炊事場には、京に暮らす者の張りつめた空気と、忘れられたこの男に対する血を受け継いだ身内の温(ぬく)もりが残っている。輸入ガラスを嵌めた時代もののガラス障子の汚れのなさは、世に忘れられた男を身内に持った一家の誇りに違いないのである。

 「先日、田舎の友人が魚つりに来いといつて手紙をよこした。但し「山は招く、川は招く。ヤマベ、白ハヤ、一日に二百尾は確実。酒は純日本酒、吟醸の…」といふやうな手紙であつた。私はそれを読んだとき法螺だと思つたが、日がたつて行くにつれ、どうも法螺ではないかもしれぬと思ふやうになつた。それで先日その友人に前もつて電報を打ち、つりの仕度をととのへて私は出発した。」(「レンゲ草の実」井伏鱒二井伏鱒二全集 第十一巻』筑摩書房1998年)

 「福島第1原発に外国人実習生 管理区域外6人、東電方針を逸脱」(平成30年5月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)