例えば河原町通を下って七条通の手前、整然と幾重にも瓦を埋め込んだ築地塀の上に群がる竹が目に入れば、そこが渉成園(しょうせいえん)である。北は上数珠屋町通、南は下数珠屋町通、西を間之町通に囲まれ、さらに西へ東洞院通烏丸通を越えればこの渉成園の持ち主である親鸞が創始の浄土真宗東本願寺である。渉成園、別名枳殻邸(きこくてい)については2017年9月12日にこのように記した。「織田信長と十一年の間、大坂石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如の死後を継いだ嫡男教如が、その繼職の顕如の讓状を巡って秀吉と揉め、僅か一年後に顕如の弟准如に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教集団の姿は、それを俯瞰して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(ごうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海、臨済宗の最高位南禅寺以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華経信徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教のすべては、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から地面の拡張を請われ、三代家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは云うまでもなく東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その本願寺の二町東、寄進地の百閒四方が十三代宣如が隠居所とした渉成園である。」この時は、舟を浮かべて茶席に向かったという印月池(いんげつち)と名づけられた池に架かる反り橋の工事のため一滴の水もなかったが、「この日」は底の泥を見透かす水を湛えていた。京都に在った「この日」の夏目漱石の明治四十年(1907)四月四日(木)の日記のようなメモにこのような記述がある。「東本願寺 台所 枳殻邸 渉成園 嗽枕居 双梅居 印月池 傍花閣 丹楓渓 滴翠軒 臨池亭 廻棹廊 紫藤岸 五松塢 縮遠亭 臥龍堂」案内図から拾い書きしたような書き振りで、そこには何の感慨も感想も綴られていない。桜はすでに散っていたのであろうか、枳殻(カラタチ)が咲くにはまだ早く、ツツジにも早く葉の繁りも覚束ない梅や桜に色づきもこれからの松の木立ちで、ここに書き並べた茶室などのほとんどが明治十七年(1884)の再建であれば漱石の目にどのように映ったのであろう。一月末の渉成園をあらためて辿っていけば、まだ蕾の小ぶりの白梅が並ぶ塀の裏の細道を抜け屋根を高く上げた門を潜れば目の高さの上に丈を揃えた生垣の内が隠居所から接待の場に様変わりしたことが分かる池に脚を浸した畳広間の臨池亭(りんちてい)と滴翠軒(てきすいけん)で、この名前のない池からいまはまだ裸の幾本もの桜の植わる間を小流れが広い印月池に注いでいて、この桜を見るための階段を犬の耳のように二階の両側から垂らした傍花閣(ぼうかかく)があり、桜が咲いていればその「桜の園」を抜ければ目の前に印月池が現れるのである。印月池には二つの中島があり、その大きな島の土に埋もれかけた石段を上った高みの「小さな」崖に建つのが茶室縮遠亭(しゅくえんてい)であり、モミジや松や低く刈り込まれたツツジが植わり、所々の置かれた石や小岩は目に険しさを思わせる。山間(やまあい)のような険しさは池の淵の丹楓渓(たんぷうけい)にも作られていて、樹の枝の撓みかかるこの「渓」の小径を伝って島へ反り橋で渡り、もう一つの橋、唐破風屋根を中に掲げた回棹廊(かいとうろう)で向こう岸に辿り着く。園の西側の岸は芝地が広がっている。ここに立つまでの間、禅寺に見る波を描いた白砂も苔の上の静謐もなく、岸辺から見渡す築地塀の立つ東と南の内にはビルを隠すには低い竹や樹木が立ち並び、ひそやかに園を包んでいる。日が当たりおおらかな気分にさせるいまは枯れ芝の、その奥に控えている建物群がどれも華美を削ぎ落した簡素な大書院閬風亭(ろうふうてい)とそれに続く、漱石は目にしなかった昭和三十二年(1957)再建の蘆菴(ろあん)、偶仙楼(ぐうせんろう)、園林堂(おんりんどう)であり、前回はこの蘆菴の二階に上がり、その窓辺で昭和三十二年の風を感じたのであるが、「この日」は公開されておらず、阿弥陀如来像を安置する持仏堂、園林堂が公開されていた。この園林堂に足を踏み入れる前に渉成園(しょうせいえん)の名の謂れを改めて「ひも解け」ば、その名は陶淵明の「帰去来辞(ききょらいのじ)」の一節から採られていて、その詩はこのような出だしで始まる。「序 余家貧にして、耕稙するも以て自ら給するに足らず。幼稚室に盈(み)ち、瓶に儲粟無く、生生資する所、まだ其の術を見ず。親故多く、余に長吏為らんことを勧む。脱然として懐(おも)ひ有るも、之を求むるに途靡(な)し。会(たまた)ま四方の事有り、諸候恵愛を以て徳と為す。家叔余の貧苦なるを以て、遂に小邑(しょうゆう)に用ゐらる。時に於いて風波未だ静かならず、心遠役を憚る。彭沢は家を去ること百里、公田の利は以て酒と為すに足れり。少日に及びて、眷然(けんぜん)として帰らん歟(か)の情有り。何となれば則ち、質性の自然は矯励の得る所に非ず。饑凍(きとう)切なると雖(いへど)も己(おのれ)に違(たが)はば交(こも)ごも病む。嘗(かつ)て人事に従ひしは、皆な口腹に自ら役せらる。是(ここ)に於いて悵然(ちょうぜん)として慷慨(こうがい)し、深く平生の志に愧(は)づ。猶(な)ほ一稔(いちじん)を望む、当(まさ)に裳を斂(おさ)め、宵に赴くべきを。尋(つい)で程氏の妹武昌に喪(そう)す。情は駿奔(しゅんぽん)に在りて、自ら免じて職を去る。仲秋より冬に至るまで、官に在ること八十余日。事に因(よ)りて心に順(したが)ふ。篇を命じて「帰去来兮(ききょらいけい)」と曰(い)ふ。乙巳(きのとみ)の歳、十一月なり。帰去来兮(かえりなんいざ) 田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる 既に自ら心を以て形の役(えき)と為す 奚(なん)惆悵(ちゅうちょう)として独り悲しむや 已往(きおう)の諫(いさ)むまじきを悟り 来者の追ふ可(べ)きを知る 実に途(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からず 今の是(ぜ)にして昨(さく)の非なるを覚(さと)りぬ 舟は遙遥として以て軽く上がり 風は飄飄(ひょうひょう)として衣を吹く 征夫(せいふ)に問ふに前路を以てし 晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む 乃(すなは)ち衡宇(こうう)を瞻(め)て 載(すなは)ち欣(よろこ)び載(すなは)ち奔(はし)る 僮僕(どうぼく)は歓び迎へ 稚子門に候(ま)つ 三経は荒(こう)に就き 松菊は猶(な)ほ存せり 幼を携へて室に入れば 酒有て樽に盈(み)てり 壺觴(こしょう)を引いて以て自ら酌(く)み 庭柯(ていか)を眄(み)て以て顔を怡(よろこ)ばしむ 南窓に倚(よ)りて以て寄傲(きごう)し 膝を容(い)るるの安じ易(やす)きを審(つまびら)かにす 園は日に(わた)りて以て趣をし 門は設(もう)くと雖(いへど)も常に関(とざ)せり 策(つえ)もて老を扶(たす)けて以て流憩(りうけい)し 時に首(かうべ)を矯(あ)げて游観(ゆうかん)す 雲は心無くして以て岫(しゆう)を出で 鳥は飛ぶに倦(あ)きて還るを知る 景(かげ)は翳翳(えいえい)として以て将(まさ)に入らんとして 孤松を撫でて盤桓(ばんかん)す」私の家は貧しく、田畑を耕しても生活は厳しかった。幼い子どもが家にたくさんいてろくな蓄えもなく、生きてゆくためにこれ以上どうしたらいいのか、もはやどうするすべもなかった。親戚の多くは心配して、私に官吏になることを勧めてくれ、私も決心して仕官の口を捜したのだが、何の当てもなかった。そうこうしていると、世の中が争いごとで落ち着かなくなり諸侯は良い人材に目を掛けるのが己(おの)れの人徳と考えていた。そこで私の貧苦を見兼ねたある叔父が小さな町の役人の勤めに私を口添えしてくれたのである。が、世の中はごたごたしていて落ち着かず、遠い所で役人になる事に躊躇いがあった。その彭沢という所は実家から百里もあるが、支給の田から酒にする分の米も穫れるというので結局仕官することに決めたのである。が、仕官してほんの数日を過ごしただけではっと我に返ったように、私は無性に家に帰りたくたってしまったのだ。どうしてかと云えば、その理由は、私の生まれつきというか身に備わったものであって、後々それを変えることなど出来ないのある。たとえ飢えてもたとえ寒さが厳しくても、身に沿わないことをしていればその仕事もうまくいかないし、しまいには自分も病んでしまう。要は私が人に仕えて来たのは喰うためだったのであるが、いまに至れば情けない思いで胸が詰まり、それまで押し通して来た自分の志からすれば恥じ入るばかりだ。これからやって来る秋の稔りの時期が過ぎたら官服の裾をからげ、とっとと夜逃げでもしたい気分だ。そこへ程氏に嫁いだ妹が武昌で死んで葬儀があったというではないか。私はいますぐ飛んでい行きたい気持ちになって、とうとう自ら官職を辞してしまった。ああ、仲秋から冬までの八十日余よ。私がこうなったのも私の心に従ったまでのことである。これから書く詩を「帰去来兮(かえりなんいざ)」としよう。乙巳(きのとみ)の年の十一月。さあ、帰ろう。故郷の田畑が荒れ果てようとしているのに帰らずにいられようか。いまのいままで目をつぶってきたが、もうくよくよしてもいられない。これまでしたことの過ちを自ら認め、これからすべきことを考える。どうしてよいか迷うほど道を大きく逸れてしまったわけではない。いまの考えを「良し」とし、昨日までの考えを誤りと見なせばよいだけだ。舟が水の上で緩やかに上下に揺れ、風がひゅうひゅうと衣の裾を揺らしていく。行き会わせた旅人に故郷までの道のりを尋ねたが、朝の光はまだ薄暗く見通せないのが残念だ。そしてようやく、我が家の門や屋根が遠くに見えてきて、思わず喜び走り出した。召使いが嬉しそうに私を迎えてくれ、幼子たちは門の前で待っている。庭は荒れかけた様子だが、松や菊はまだまだ大丈夫だ。幼子を抱いて家の中に入ると、樽になみなみと酒が。さっそく徳利と盃を手前に引き寄せ、自分で注いで一口呑み、庭の木を眺めれば、顔がひとりでに綻んでしまう。南の窓辺に凭(もた)れてくつろいでいると、折った膝しか入らないような狭い我が家だからこそ本当に落ち着くのだと思う。それから庭は日ましに味わい深くなり、門を閉ざし、世間との交わりを絶ってしまうまでになった。老いた我が身を杖の助けを借りて歩き回っておもむくままに足を止め、思い出したように顔を上げて景色を眺める。雲は自然のままに山の峰の間から湧き立ち、鳥は飛ぶのに飽きれば塒(ねぐら)に帰っていく。辺りがだんだん暗くなり日が暮れかかってゆくそんな時、私はいつも一本松を撫でながら立ち去りがたい。公開された園林堂の六畳の仏間の内と外四十四面の襖は棟方志功の絵である。「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」と題され昭和三十三年(1958)十一月と記されている。大きく斜めに貫いた幹と隣り合う丸い幹はどちらも杉の大木を表し、外の襖の筆をぐずぐず丸めた如くに散らばっているのは牡丹で、薄青く揺れた線を挟んで浮いているのが太陽と月である。これらはすべて猛烈な勢いで描かれたことを感じさせ、寒い畳部屋で目を見張りつつ思うのは、風の如くに描いて立ち去った棟方志功の後ろ姿である。炉辺にある「家の光」の二月号 遠藤梧逸。

 「王となるか、王におつきの使者となるか、選択を申し渡されたとき、子供の流儀でみながいっせいに使者を志願した。そのため使者ばかりが世界中を駆けめぐり、いまや王がいないため、およそ無意味になってしまったおふれを、たがいに叫びたてている。だれもがこの惨(みじ)めな生活に終止符をうちたいのだが、使者の誓約があってどうにもならない。」(「アフォリズム集成」フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説選集6』白水社2002年)

 「原発の町・志賀「福島のこと、頭よぎった」 能登半島地震ルポ」(令和6年2月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)