立春のはたのひろものさものかな 橋閒石。「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が「平(ことむ)け訖(を)へぬ(平定した)」「葦原ノ中ツ國」へ「高木神」を通じて「太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)」に「降(くだ)り坐(ま)して知らしめせ(降り下って治めよ)」と告げると、「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)」はその支度をしている間に「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」という子が生まれたのでこの際、この「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」を降り下らせてはどうかと申し述べると、「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」はこの申し出を受け入れ、その命に従い、いざ「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」が降り下ると、その途中の八衢(やちまた)の辻で「高天原」と「葦原ノ中ツ國」を照らす者が現れ、「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が「高木神」を通じて「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」に何者かを問うように命ずる。「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」は、母「伊邪那美命イザナミノミコト)」のいる根の国に行くこと叶(かな)わず泣き嘆き、父「伊邪那岐命イザナギノミコト)」に「天」から追放され、「高天原」に別れを告げに行った弟「須佐之男命(スサノオノミコト)」を見てよからぬことをしに来たと思い「天の石屋戸」に隠れ世を暗くした姉「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」を卑猥煽情の踊りで穴から誘い出した神である。この「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」の問いにその者は道案内役の「猨田毘古神(サルダビコノカミ)」と応える。そして「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」を「葦原ノ中ツ國」へ道案内した「猨田毘古神(サルダビコノカミ)」を今度は、問い質した「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」が伊勢まで送り届けよと「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」から命ぜられ、「是(ここ)に猨田毘古ノ神を送りて、還りて、乃(すなは)ち悉(ことごと)に鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭(はた)の狭物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問言(と)ひし時に、諸の魚皆「仕へ奉らむ。」と白(まう)す中、海鼠(なまこ)白(まう)さざりき。爾(しか)に天宇受賣命、海鼠(なまこ)に云ひしく、「此の口や答へぬ口。」といひて、紐小刀以ちて其の口を拆(さ)きき。故、今に海鼠(なまこ)の口拆(さ)くるなり。」(『古事記』)立春のはたのひろものさものかな。立春を迎えたこの世に、あるいはこの世の何かに仕え従っている身につけた鰭の大きな者や鰭の小さな者よ。そして従わず無理矢理口を裂かれた者よ。立春の京の和菓子のうすみどり 鶴濱節子。

 「唯見る、此處は一面の庭園で有ます。此庭東には大湖に水をたゝへて泉水にかたどり、遠山の翠を畳んで築山に比べ、北には千丈の岩壁を廻らして靑屏風に眺めて居ります。天に入る雲の棧道は苔滑にして行くに危ふく、所々の山陰から煙の立昇るのは、是村々のある證據(しょうこ)で、鶏犬の聲も幽(かすか)に聞こえて居ます。徑路羊腸として雁齒の危きを爲す所に、自然石の石橋天門の様にかゝッて居るが、其處を一人の柴刈が薪を背負ッて渡ッて居ます。」(「夢現境」嵯峨の屋おむろ『明治文學全集17二葉亭四迷・嵯峨の屋おむろ集』筑摩書房1971年)

 「福島第1原発で汚染水5,5トン漏えい 浄化設備建屋の排水口から」(令和6年2月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 寺之内通の辺り。