「田島頼子は面白そうに笑った。それから話を聞いていると、何でも中学生の時に歯医者へ行って、待合室に置いてあったぼろぼろの古雑誌を手に取って見ていたら、児玉のことが出ていて、何もない町、と書いてあった、と言うのだ。話の様子ではどうやら旅の雑誌らしく、写真といっしょに紀行が載っていて、写真の方はよく憶えていないのに、紀行にそう書いてあったのに強い印象を持ったということらしい。児玉は秩父街道筋の旧い宿場で、昔は秩父銘仙の集産地として随分栄えたところだったらしいが、今は全く取り残された静けさだけがあって、梅雨空の下に燕が飛んでいたこと、豆腐屋の喇叭が昔通りの節でどこかから聞こえて来たこと、木造三階建の宿屋があり、その宿屋の窓から眺めたら向いに中将湯の看板が見えたこと、又、その夜に呑んだ酒がとても旨かったことなどを、筆者がいかにも愉しそうに書いていたことを憶えている、と言う。そしてその紀行を読んだ時、あたしもその宿屋の三階の手摺に寄り掛かって、豆腐屋の喇叭を聞きたいな、と思った、と言うのだ。」(「児玉まで」車谷長吉『金輪際』文藝春秋1999年)平安京の時代、紙屋川は西堀川と呼ばれ、京の西の外れの川として流れていた。柏川(かいかわ)、替川、高橋川、高陽川、仁和川、荒見川、神谷川とも呼ばれ、江戸元禄には紙屋川の名で地図に載っている。金閣寺大北山の北、鷹峯千束からその流れは始まり、吉祥院新田で桂川に注ぎ、現在の地理は、北野天満宮より上流を紙屋川と称し、その下流を天神川と称している。北野天満宮から下がる西ノ京の辺りまでは、その住人の住まいの窓の下、橋を渡した玄関先をくねりながら流れ、草木が両岸に茂り、西大路丸太町の交差点を過ぎると、両側に道を従えて川面から住人を隔て、西北から流れ来る御室川と交わり、国道16号天神川通と並走すれば、川幅も広がり、川への近(ちか)しさは無くなる。北野天満宮を下った紙屋川に架かる選佛寺北橋の東詰に、銭湯がある。午後二時にゆと染めた暖簾が掛かる切妻屋根の入口に、電気温泉天然ミネラル温泉と書いた四角い看板が突き出ている。見越しの松の塀を挟んだ銭湯と棟続きの建物の玄関が、銭湯の入口より下がって並び、その下がった所に草の植木鉢がいくつも置かれ、入口の左手には地蔵の祠が祭ってある。植木鉢の角を左に曲がると、飲料水の販売機が立ち、後ろの壁一面に政治家のポスター、町内掲示板、探偵業の広告が張られ、隣は米屋である。米屋はガラス引き戸の上に、タケダプラッシータケダいの一番の看板を掲げている。角に戻った右手は木造町屋が軒を連ね、向いは新建材の民家が路地に並ぶ。角を曲がらず真っ直ぐ東に行けば、選佛寺に出る。裏の底を紙屋川が流れている銭湯米屋のこの路地景色は、車谷長吉の「児玉まで」に書かれた児玉と地続きに繋がっている。実際の児玉を、「児玉まで」の頼子という女も「私」も目にしていない。しかも「児玉まで」の児玉の記事は、過去のもの、古い雑誌記事として書かれ、「児玉まで」の「現在」から遠ざけられている。埼玉にある現実の児玉の地は、この路地とは繋がっていない。小説の中の頼子という女が歯医者の待合室で読んだ、雑誌記事の児玉という何もない町が、目の前の路地景色と地続きになっているのである。繋げているのは、「何もない町」という言葉と、その「何もない町」に行ってみたいというささやかで気まぐれな欲求である。「何もない町」はどこにでもある。しかし気まぐれな欲求は、どこでもいいというわけにはいかない。きまぐれな欲求を満たす「何もない町」は、その者が探し当てた「何もない町」でなければならないのである。

 「ぼくらは川に沿って進んだが、川のほうには目をやらなかった。彼はポケットのなかで銅貨をチャリンチャリンいわせていた。」(ミシェル・ビュトール 清水徹訳『時間割』中公文庫1975年)

 「政府、楢葉の9月5日解除決定、全域避難の町村で初」(平成27年8月8日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)