カメラを構えた大男に前を遮られ、横にずれると、足の裏があるものを踏んだ。そっと足を持ち上げた。蝉の抜け殻だった。真ん前に来た月鉾の囃子の最中にも関わらず、フシャというその音が、耳に届いた。四条通河原町通を経てきた山や鉾が、烏丸通を一千年を超えるそののろのろとした足取りで、揃いの黒笠法被の曳子に曳かれ、やって来る。通りの両側に設けられた一席三千百八十円の観覧席がびっしり人で埋まっている。空は晴れ、雨にならない雲があった。鉾は華麗豪華な織物を四方に纏い、山には由来の人形が揺れを堪える如くに鎮座し、松が立ち、水引が風に靡く。時に先を行く裃姿の氏子に、観覧席から声が掛かる。お辞儀を返す氏子に拍手が湧く。ほんま暑いなあ。いま行きよったんが月鉾かいな。幕間のように巡行が途切れ、佛教大学の学生が配っていた団扇を貰う。金と赤はええなあ、と大男が連れの女に云う。どれもそれも金と赤や。フシャという音だった、と思う。足をもう一度上げてみる。土の穴蔵を這い上がるためだけにその形になった大きな前足の爪が、二つ並んでいた。頭上の欅の枝でクマゼミが、使い込んだ機械のような音を出して鳴いている。生まれ育った福島でも東京でも馴染みのない鳴き声だ。見渡せばそちこちの幹に抜け殻がしがみついている。空蝉という言葉は知っている。うつせみ、というその韻にはどうにもうべなえないなと思った記憶もある。うつそみ、うつせみ、この世、この世の人を万葉集で虚蝉、空蝉と漢字を当てて書いたことが原因であると知れば、空蝉に纏いついている「はかなさ」という意味の出どころが平安貴族の気取りであると、腑に落ちた記憶もある。七歳の時、梅干しをいくつも口に放り込み腎臓を患って亡くなった近くの一つ年上の子どもの仏前に、寺で捕まえた蝉を虫籠に入れ供えたことがあった。子どもには、ほかに供えるものがなかったのである。翌朝には全部腹をみせ、籠の中で死んだはずである。盆の終わり、空の虫籠が戻って来た。子どもは、死んだ蝉をどうしたか、とは想像しなかった。祇園祭は疫病を払う祈願祭礼である。夜には山鉾が清めた道を、神輿が練り歩く。最後の船鉾が目の前を過ぎると、観覧席にいた者たちが次々と席を立ち、瞬く間に通りの両側にパイプ椅子の列が残された。巡行は終わったわけではない。船鉾も、その前を行く岩戸山も、西に向かって、いまも粛々と進んでいるのである。

 「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山」(『万葉集』二十八)

 「世界と比較可能な線量マップ作成へ IAEA専門家チーム」(平成26年7月19日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)