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 JR嵯峨野線花園駅の北西に、こんもりとした緑の丘陵があり、それが雙ヶ岡(双ヶ丘、ならびがおか)で、樹木の根の下は雙ヶ岡一号墳、二ノ丘谷古墳、三ノ丘古墳と名づけられた古墳群である。南北朝の頃、この西麓に『徒然草(つれづれぐさ)』の作者兼好(けんこう)の住まいがあったとされている。兼好は、『大徳寺文書(だいとくじもんじょ)』中の田地売券によれば、正和二年(1313)六条有忠から山城国山科小野庄(おののしょう)の水田一町を九十貫文で買い、そこに住まいを持っている。「さても猶世を卯の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野の山里」は、官職を辞した兼好が卯の花、空木(ウツギ)の花の房のようにひと茎に群がり咲く一家係累で雁字搦(がんじがら)めの世、世俗と縁を切って世捨人となった歌である。世捨人、遁世者(とんせいしゃ)となっても、水田一町からの収入が兼好にはあった。あるいは、南朝の流れの源(みなもと)となる後二条大覚寺統歌人二条為世の門下であった兼好は、北朝の後ろ盾であった足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の艶書、恋文の代筆をしたという『太平記』巻二十一の「塩谷判官讒死ノ事(えんやはんがんざんしのこと)」の記事がその通りであれば、南北朝の内乱にあっての兼好の身過ぎ世過ぎの振り幅であり、小野庄の住まいから雙ヶ岡西麓に庵を持つまでの幾度かの転居の振り幅とも重なって来る。この兼好の振り幅は、『徒然草』の記述の振り幅とも重なって見える。見聞観察から導き出される『徒然草』の結語断定は、その切れ味が小気味良い分、兼好の思索の限界とも受け取られかねない表裏を伴っている。思索の過程その経過に興味が移る時、兼好の断定はその先にあらかじめ待って在るもののように目に映る。思考、思索の過程に滲(にじ)み現われるものが、時にその者の人間臭さであるが、『徒然草』の振り幅、無常観も仏道修行も処世術も和歌も有職故実も、どれもあらかじめの教養であり、手持ちの教養として兼好の手の内にある限り、兼好の体臭はそこからは臭っては来ない。兼好の体臭は、買った水田の収入であり、南朝から北朝へすり寄った身過ぎ世過ぎにあるのである。落葉に埋まった雙ヶ岡の小径を辿り、一の丘の頂上に立つと、三門がやや右に向いた御室仁和寺(おむろにんなじ)が見える。遥か遠くに、でなく、遥か近くに、山に後ろを囲まれたその景色は懐かしい絶景である。『徒然草』に、仁和寺の僧の滑稽話があり、悪ノリで足鼎(あしかなえ)を頭から被って抜けなくなった件(くだり)は有名である。西麓に住んだ兼好が、この位置から仁和寺を眺めなかったはずはない。この眺望の位置から、理想とした仏道の、僧の愚行を見て取っていたのである。「ならびの岡に無常所まうけて、かたはらに桜を植ゑさすとて ちぎりおく花とならびの岡のべにあはれいくよの春をすぐさむ」建てた墓のそばに植えた桜とあと何年春を迎えることが出来るだろうか、と詠んだ兼好の没した地は、京都でないとされている。兼好が没した地は、恐らく振り幅の最も振れた場所である。ホオジロが鬱蒼とした木の間で啼き、雙ヶ岡ではめったに人と出会わない。

 「まもなくコンヒスが戻って来た。手摺に寄り、深呼吸をした。空と海と星、宇宙の半分が私たちの前に拡がっていた。飛行機の音はまだ聞こえていた。こんなとき、アリスンは決って煙草の火をつけたものである。それに倣(なら)って私も煙草の火をつけた。」(ジョン・ファウルズ 小笠原豊樹訳『魔術師』河出書房新社1979年)

 「福島県産米、酒輸出に『逆風』 英国民投票、英国がEU離脱へ」(平成28年6月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)