昭和四十二年(1967)立命館大学の一回生だった高野悦子の、六月十五日の日記に紫野大徳寺塔頭大仙院が出て来る。「きのう長沼さんと山川さんと酒井さんとの四人で大徳寺へ行く。黄梅院と大仙院をみる。季節はずれらしく人がいなかった。黄梅院の庭石におりてみたり、たたみの上に横になったりしてのんびりとみた。武野紹鷗(たけのじょうおう)の日本最古の茶室がある。四畳半の部屋に小さな炉のついているいたって簡素なものであった。大仙院の床の間(日本で初めての)をみても質素そのものであり、幅の細い掛け軸と黒光りする段も何もついていない床、そして一本のききょうが全体をひきしめていた。簡素そのものだ。でもそこに静寂な美しさがあった。大仙院の住職に山川さんはすっかり気にいられた。あのお坊さんはふざけているのかまじめなのかわからない。何とかかんとかいわれながら、五〇円のまっ茶代をはらわされた。」(『二十歳の原点序章』高野悦子 新潮文庫1979年刊)大仙院の方丈は国宝であり、その庭は室町文化枯山水の例として教科書に載るほどのものである。白い築地塀に挟まれた狭い鉤型の曲がりには大石が立ち、その傍らに幾つかの組み石が並び、小高く椿が植えられ、白砂には筋目が入り、渡廊下を間に石の舟が浮かび、その筋目を追って方丈の南へ回れば、二つの砂山を置いただけの庭に至る。大石は瀧を表わし、組んだ石の間に盛った白砂は流れ落ちる水であり、下り行き大河となり、その果てが大海である。案内の手引きで参拝の者は、そのような知識をなぞるように庭の石と砂を見る。庭の作者は大仙院開祖の古岳宗亘と方丈の襖絵を描いている絵師の相阿彌の間で揺れ、いまは古岳宗亘である。元来の禅の修行の場は深山幽谷であるが、町中にあるいは町外れの生活の場に、石と砂でそれを見立てることを日本の禅は発明する。目の前にあるものはその通りに目の前にあるものと限るのではなく、目の前にないもの、目に見えないものが恰(あたか)も目の前にあると思うことは、想像するという変のない頭の働きであるが、石と砂の庭を前にすれば、それは禅的思考であると言葉は説明する。が、禅はその先にある。見えるものを思って見えないものを思っても、在るものを思って無いものを思っても、禅はその先にある。その先に何かあると思わなければ修行とはならない。が、云うまでもなく先回りをして悟りを思うことは修行ではない。栃木県西那須野から京都立命館に入ってまだそれほどの日を経ていない高野悦子の日記には、初々しい弾んだ気分が表われている。「たたみの上に横になったり」出来たのは当時の空気である。が、その二年後の昭和四十四年(1969)の、たとえば五月二十八日の日記の気分は一変している。「五月二十八日 晴。私は何故に十九日全学バリ闘争をたたかったのか。学生を商品としかみず、それを管理し、またそれに対する闘いを抹殺しようとしている大学当局へのたたかい。すなわち、十二月以降の闘争が提起した大学の理念に関する問題を抹殺し隠蔽し、開講という旧来の秩序維持を行おうとすることに対する我々の大学解体への闘い、そこにおいて私は当局、民青、秩序派との対決を決意した。現代におけるブルジョア大学の解体の闘いとして私は私を位置づけた。そして二十日朝、私たちは機動隊の封鎖解除という洗礼をうけたのである。ブルジョア大学解体と掲げて闘おうとした我々に襲いかかった機動隊は我々の圧殺、全バリ闘争の予防的圧殺を行なった。第一にはっきりさせなければならないのは、私の闘いが、すなわちブルジョア大学解体の闘いが、政府ブルジョアジーや侵略を目ろむものに、七〇年の安保を控えて恐れを感じさせているのである。大学臨時措置法の本質が、二十日早朝の恒心館および正午の機動隊の学内乱入においてあらわれたのである。七〇年安保をむかえる政府の闘争圧殺であった。」(『二十歳の原点高野悦子 新潮社1971年刊)史学科に在籍していた高野悦子学生運動に身を置き、寺巡りをすることなど最早なくなり、六月二十四日の午前二時半過ぎ、山陰線の貨物列車に飛び込み自殺する。日記はその二日前まで書き綴られていた。胸苦しい文章である。この時代、政治は見えるが如くに見えているものと高野悦子には思えたのである。見えることは、理解として容易(たやす)い。学生の理解は見えることにあり、見えぬ魑魅魍魎にまでその理解は及ばず、この国に革命は起こらなかった。国は管理すべきことを学び、学生運動は寝物語のように、翌朝には誰も思い出すこともない。が、高野悦子の日記は寝物語としては苦い味を保っているのである。水上勉は『京都古寺』で大仙院を、土産物売り場が幅を利かせる観光寺と評している。大仙院の方丈の縁の低さは、そこに膝を屈して見れば、名高きその庭を不意に身近に思わせる。それは大方の戸建ての住み慣れた家の床の高さと同じである。ひと時そう感じれば、たとえば目に見えぬ、あるいは取り壊されていまはない実家の情景に観光気分は押しやられ、目の前の石と砂の庭に、裏庭にあった一本の無花果(いちじく)の木を思い出すのである。

 「兵隊の夢はもう一つある。もう一度兵隊になっている。戦争はもう終わっているのに、どういうわけかあらためてまた兵隊になっている。位はいくらか上級になっている。一度除隊になってからまた招集された人はあった。しかしこの老いた作家、三輪俊介は、現在作家であるかないかも全くはっきりしないまま、しかも戦争はたしか終結しているのに、また兵隊となっているのである。」(『うるわしき日々』小島信夫 読売新聞社1997年)

 「「除染土」…資材化進む 飯舘・長沼地区、環境再生事業を公開」(令和元年五月二十五日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)