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 芭蕉の桜の句の云う、さまざまの事、に対する言葉が、一つことであれば、桜で思い浮かべる一つことは、木下恵介の映画『二十四の瞳』の汽車ごっこである。映画『二十四の瞳』に、高峰秀子扮する大石先生が受け持ちの生徒らと縄で模した汽車で、丘の上の満開の桜を巡りながら歌を唄う場面があった。高峰秀子は分教場の新任で、生徒は尋常一年である。教科書を閉じ教室を出た、先生も子どもらも初々しい幸福な関係が、桜を背景に永遠を得たのである。この後高峰秀子は、生徒の作った落とし穴に嵌って足を負傷したことで分教場を去り、四年後に本校で生徒らと再会する。その次の高峰秀子と生徒の再会は、戦後である。ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋。芭蕉の時代からは発想の及びもつかぬ句である。眼前に海はない。あるいはあるのかもしれない。散っている桜も、目に見えているとは限らない。その桜という花に、青い海に向かって散るという意思、あるいは生物本能が備わっているとは思われない。海に散る桜が美しい、と云っているのではない。ただ、海あをければ海へちる、という言葉だけが、いま眼の前にあるのである。高屋窓秋は、何ごとかを言葉に置き換えたのではない。自ら呼吸するとでも称すべき言葉の連なりを生んだのである。五月、吹き払われなければ、葉桜の根方に縮れた花片と桜蘂があった。棹の鯉幟は、空から降ろされた。

 「例えば、これもくり返し描かれた《馬鈴薯》は暗がりのなかに色と光をまさぐっているように思える。」(「ゴッホ」小川国夫『冷静な熱狂』筑摩書房1980年)

 「8歳までの子ども増えた 避難者の帰還進む」(平成27年5月5日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)