芭蕉の『野ざらし紀行』に、梅林と題した「梅白しきのふや鶴を盗まれし」の句がある。童謡の一節と云われれば、口ずさむことに抵抗は起きないが、この句には「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」の前書がある。三井秋風(みついしゆうふう)は、豪商三井三郎左衛門の養子俊寅、六右衛門で、談林俳人であり、洛西御室の西、鳴滝に別荘花林園を持っていた。この句を解釈する者は、芭蕉が秋風を、梅を愛(め)で鶴を飼っていた中国宋の隠士林和靖(りんわせい)になぞらえ、白梅の花の盛りの花林園に鶴がいないのは盗まれたからですね、と軽口を云って挨拶の句としたとする。隠士林和靖の名は、実際に二人の遣り取りの中で出たのかもしれないが、金持ち道楽者の秋風を高名な隠士になぞらえ、大袈裟な詠み振りをしたとして、当時この句は批判されている。鳴滝は、御室川が北の山裾から流れ来る井出口川と交わり下るところにある。切り立った崖の段々を、なだらかに下るような小ぶりの滝水である。青モミジがしな垂れる滝の前後の、住宅を流れる川筋はいまはコンクリートや積み石で固められ、保存された様で景色に情緒はない。嵐電北野線鳴滝駅から御室川鳴滝辺りまでの、緩やかに上る住宅地一帯が「鳴滝」と呼ばれる地区である。昭和十年(1935)前後、山中貞雄ら若い脚本家がこの地に住み、鳴滝組と呼ばれる脚本家集団を作った。彼らが、時代劇のセリフを普通の話し言葉にしたのである。太秦の撮影所は、鳴滝駅から二つ目の帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から数分の場所にあった。眠狂四郎市川雷蔵は、三十八歳で亡くなる昭和四十四年(1969)まで鳴滝音戸山(おんどやま)に住んでいた。山中貞雄は、『人情紙風船』を撮った昭和十二年(1937)八月、前月にはじまった日中戦争に召集され、翌十三年(1938)、黄河の泥水で赤痢に罹り、河南省関封の野戦病院で二十八歳で亡くなる。「梅白しきのふや鶴を盗まれし」への批判に対して、去来は『去来抄』で、「此句、追従に似たりと也。これらは物のこゝろをわきまへざる評なり。」と反論するが、この句が挨拶の句であることは疑わず、「句体の物くるしきは、その比の風なり。」と鶴の比喩にいささか問題があると述べている。芭蕉は、秋風が鶴までは飼っていないのを、盗まれたんですか、とお道化てみせた。この句にあるのは、その時の二人の気分であることに間違いはない。が、俳句は創作物である。読む側はこの気分に留(とど)まる必要はない。果たして鶴は、誰に盗まれたのか。鶴は鶴に盗まれたのである。人間に飼われていた鶴は、空を飛んでやって来た鶴に誘われ、ついて飛んで行った。人間は梅の花の下で、鶴に盗まれた鶴のことを思うである。

 「このつる植物(ナツフジ)は普通、藪の中とか生垣とかに生えるが、庭で栽培されることもある。近くの低木や高木に巻きつき、分枝して密生した枝によって木々の一部を被ってしまう。7・8月の開花期には、木々の梢から垂れさがった総状花序は素晴らしい眺めであり、……日本ではこうした野趣豊かな美しさが珍重され、文化的な手が加えられていない自然の豊かさを、庭にそのまま移すことが好まれるのである。」(シーボルト 大場秀章監修・解説『日本植物誌』ちくま学芸文庫2007年)

 「「定期健診にもっと力を」 甲状腺がん子ども基金・シンポジウム」(平成28年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、四代目伊藤源左衛門が画師若冲となるのは、高倉錦小路の青物問屋枡屋の家督を弟に譲った宝暦五年(1755)、四十歳の時である。はじまりの遅い若冲は、その遅い分、その一筆から絵とは何かと問わざるを得なかった。明和二年(1765)相国寺に寄進した「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の「蓮池遊魚図」には、黄土色の地に蓮の葉と花、鮎と追河(オイカワ)が描かれている。蓮の花は六本で、その内の四本は花弁が開き、内一本は白色で、三本は紅色である。画面左端に沿って茎を伸ばす白色と、その下隅に咲く紅色の蓮は横から見た花の形であり、もう一本画面上部にある紅蓮は真上から花を覗いた様に描かれている。白蓮のすぐ下に茎を伸ばした紅蓮の蕾があり、画面右端の上部に、横から見た開く途中の紅蓮がある。蓮の葉は左の上隅と下隅、右端の半ばに描かれ、右端で一枚萎(しお)れている。葉にはどれも朽ちた斑(ふ)が入っている。画面下部に池の水が黄土色の濃淡の雲形の曲線で描かれ、その上に、枯れて縮(ちぢ)んだ蓮の葉が数枚浮き、流れの内から菖蒲のような尖った葉が何本も突き出ている。鮎は画面中央に九匹、どれも横から見た姿を左下に向けて尾を反らせ、オスの追河は一匹、鮎の群の下に、鮎と同じ姿で描かれている。蓮の花は水面から茎を伸ばし、葉はその水面に浮き、鮎と追河は水中に潜って真横から見なければ見えない姿で蓮の茎の間で泳いでいる、というのが「蓮池遊漁図」である。若冲の絵を時に、奇想といい、既成概念に囚われない自由があり、細密描写を称え、そこには一瞬の永遠があるという。「草木国土悉皆成仏」がその根本思想であるともいわれている。若冲の絵は、問いである。何を描いているか、どう描かれているかは、絵とは何かの後次である。若冲の絵は、絵とは何かと問う行為であり、問う過程そのものである。それは考える手段であり、奇想、自由はその印象に過ぎず、描かれたものの分析は、若冲の問いに対する理解を遠ざける。若冲の絵に自由があるのではなく、若冲は、描くことで絵が何であるかを問い続けたという理解であれば、見る側にこそ自由はあり、若冲の絵の前でどこへでも行くことが出来る。若冲の「動植綵絵」三十幅は、その複製を相国寺境内の承天閣美術館で見ることが出来る。実物は明治二十二年(1889)、窮乏した相国寺から金壱萬円で宮内省に引き渡され、御物となっている。

 「わたしが今お話ししたとおりに彼がわたしに話したとはお考えにならないでください。おそらく違っていたところもあると思います。わたしが少しずつ彼から聞き出していったのです。」(「ドロテーア」ノサック 神品芳夫訳『死神とのインタヴュー』岩波文庫1987年)

 「壁パネル撤去開始 第1原発1号機、核燃料取り出しに一歩」(平成28年9月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昭和三十四年(1959)の京都新聞の連載企画「古都再見」に、物理学者湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の題で文を寄せ、二、三十年前のこととして、「博物館から豊国神社・方広寺の鐘のあたりまで、以前よく散歩したことがある。このあたり一帯の閑寂というより、むしろうらぶれた感じにひかれたからである。」と述べている。中間子理論「素粒子の相互作用について」は、昭和十年(1935)の発表である。陽子と中性子の間に中間子を予想した湯川秀樹の脳は、その予想予言に至るさ中に、うらぶれた場所へ湯川秀樹を連れて行ったである。かつて京都に、奈良東大寺の大仏を凌(しの)ぐ大きさの大仏があった。造ったのは豊臣秀吉である。文禄四年(1595)完成の木造漆膠(しっこう)の大仏は、二年後の地震で大破し、秀吉の死後、子の秀頼が金銅で再建中失火焼失し、慶長十七年(1612)三たび再建し、同時に造った梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」によって、豊臣家は徳川家康に滅ぼされる。大仏は寛文二年(1662)の地震で大破した後銅銭にされ、新たに幕府の手で木像で再建されるが、寛政十年(1789)落雷により焼失し、天保十四年(1843)尾張国の篤信者らが上半身の木製大仏を方広寺に寄進し、それも昭和四十八年(1973)の失火で焼失する。湯川秀樹が歩いた当時、最後の大仏はまだ秀吉が築いた巨大な石垣の上の方広寺仮本堂にあった。元の大仏殿跡に建つ豊国神社は、徳川幕府に取り潰された秀吉を祀った豊国社を、秀吉を顕彰する明治元年(1868)の明治天皇の御沙汰によって再建した神社である。「豊太閤側微二起リ、一臂(いっぴ)ヲ攘テ天下之難ヲ定メ、上古列聖之御偉業ヲ継述シ奉リ、皇威ヲ海外二宣へ数百年之後、猶彼(※朝鮮)ヲシテ寒心セシム。其国家二大勲労アル今古二超越スル者ト可申。云々」社殿の費用を京都府が出し、明治十三年(1881)に豊国神社は再建される。豊国神社の門前を走る大和大路通を渡り、正面通を下ってすぐの所に耳塚がある。昭和三年(1928)京都市が編纂発行した『京都名勝誌』には、「文禄慶長征韓の役(1592~93、1597~98)に、我が軍朝鮮の各地に戦勝し、敵の首級を獲ること幾萬なるを知らず。而(しか)も之を内地に送りて實檢に供ふることは容易の業にあらず。されば敵の鼻を切取り、之を鹽(しお)漬にして秀吉に獻(けん)ず。秀吉命じて悉(ことごと)く之を大佛方廣寺門前の地に埋めしむ。世人呼んで耳塚といふ。塚の高さ三間ばかり、上に高さ二丈餘の五輪の大石塔を置く。秀吉が己の建立せし方廣寺の門前に之を埋めしは、これその菩提を弔はんとの意なるべし。云々」とある。ここに云う日本軍の戦勝は部分的であり、苦戦休戦の末、秀吉の死を以て日本軍は撤退し、その戦功を競って切り取られた鼻、あるいは耳は兵だけでなく、一般市民の鼻も切り取られたのである。耳塚の隣に耳塚公園があり、その隅に「明治天皇御小休所 下京第廿七區小学校趾 明治五年五月三十日 御小休」と彫られた石碑が立っている。明治天皇が参議西郷隆盛らを伴った明治五年(1872)の九州西国巡幸の途中に、方広寺の大仏と耳塚に立ち寄った証の碑である。この時明治天皇は二十歳である。翌明治六年(1873)、征韓派の西郷隆盛は、大久保利通らの遣韓反対を受け、参議を辞職し下野する。湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の文中で耳塚に触れてはいないが、付近のさびれは、ゆかりの人物豊臣秀吉にあるのではないかと書く。豊国神社門前の大和大路通正面通の、その門前で極端に道幅が広がり、大仏殿の名残りであるその石垣の石の大きさは、使い途のない、持て余されたものであり、持て余された物寂しい景色である。その一角にある耳塚、塩漬にされ埋められた朝鮮人の鼻は、この界隈が賑やかになることを許さなかったのである。大和大路通の、石垣の向う側の歩道に沿って百日紅サルスベリ)が植わっている。紅色でない百日紅の白い花を見た時、驚いた記憶がある。この通りには、紅、白の他に、薄紫、薄桃色、微かな桃色が混じる白色の花が咲いている。明治天皇は慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いの後の大阪行幸で、天保山から新政府軍となった諸藩の軍艦の訓練を見、その時初めて海を見たという。薄紫の百日紅は、初めて見る者には驚きの色である。

 「鬱蒼たる熱帯林や渺茫(びょうぼう)たる南太平洋の眺望をもつ斯(こ)うした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、スティヴンスンにとって、子供の時の箱庭遊に似た純粋な歓びであった。自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識──その敷地に自分が一杙(くい)打込んだ家に住み、自分が鋸をもって其(そ)の製造の手伝をした椅子に掛け、自分が鍬を入れた畠の野菜や果物を何時(いつ)も喰べていること──之(これ)は、幼時はじめて自力で作上げた手工品を卓子の上に置いて眺めた時の、新鮮な自尊心を蘇らせて呉れる。」(「光と風と夢」中島敦中島敦全集1』ちくま文庫1993年)

 「「町に戻り通学すべきか」 楢葉避難指示解除…揺れ動く親子」(平成28年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 一本の木も植わっていない墓地の、日照りの暑さは独特である。上京七本松通仁和寺街道上ルにある具足山立本寺(ぐそくざんりゅうほんじ)に、灰屋紹益(はいやじょうえき)の墓がある。紹益は、六条三筋の遊女二代目吉野太夫を身請けした町衆である。町衆粋人であるが、遊廓に出入りした後水尾天皇とも交わりがあり、その弟である関白近衛信尋(このえのぶひろ)と吉野太夫を競ったという。これは男女の話ではなく、商人と付き合うほど垣根を低くした、あるいは低くせざるを得なかった徳川の世の天皇宮家の様を物語っている。紹益は、本阿弥光悦の甥本阿弥光益の子であるが、紺染めに使う灰の問屋、灰屋紹由(はいやじょうゆう)本名佐野承由の養子であり、紹由は、遊女を身請けした跡取りの紹益を勘当同然にしたが、ある日雨宿りをした家で紹由を懇切にもてなした女主(あるじ)が吉野太夫だったと知ると、紹益の勘当を解いたということになっている。紹益が吉野太夫を身請けした年は寛永八年(1631)八月で、その二カ月前に紹益は、妻と死別している。その死別した妻は、本阿弥光悦の娘で、紹益の実父光益の従姉妹である。養父紹由の没年は、元和八年(1622)で、身請けした年にはこの世にいない。吉野太夫は寛永二十年(1643)、三十八歳で病死し、紹益はその遺灰を酒に混ぜて飲んだという。戯作者曲亭馬琴は、紹益の孫營庵(えいあん)を訪い、紹益のその後を『壬戌羇旅漫録』に記している。「吉野歿(ぼつ)してはるか後、浪華の小堀氏より妻を迎へたり。これにも子なく、七十三歳の時、妾に男子出生す。今の營庵の父紹圓(じょうえん)これなり。紹圓五十餘歳の時營庵出生す。營庵も六十歳ばかりに見ゆ。……營庵又いふ。紹益が菩提寺は、内野新地立本寺にあり(日蓮宗)この寺その頃は今出川町にありしが、その後御用地となり、今の地所に引けたりし時、墓も建てかへしにや詳(つまび)らかならず、石面は紹益と吉野と戒名二行に彫りつけあり、紹益は八十一歳にて歿しぬ。古繼院紹益 元禄四年十一月十二日 本融院妙供 寛永八年六月廿二日。」後水尾法皇は、立本寺第二十世管首日審に帰依し、その本堂の「立本寺」の扁額は、本阿弥光悦の筆であり、紹益の墓が立本寺にあるのは偶々(たまたま)ではない。笠石を載せた横に平べったい紹益の墓石の前面に、南無妙法蓮華経の彫り文字が微かに読み取れるが、その裏は風化が激しく文字を読み取ることは出来ない。紹益の孫が曲亭馬琴に語った享年寛永八年六月廿二日の本融院妙供は、吉野太夫ではなく、紹益の先妻の戒名である。紹益の墓の前に、こちら向きに子紹圓、孫營庵の墓が並んでいるが、吉野太夫の墓はない。五山の送り火の日から幾日も経ていないにもかかわらず、花のない花立ての水は腐り、地面には埃枯草が吹き溜まっていた。吉野太夫の墓は、寂光山常照寺にある。常照寺は、法華信徒本阿弥光悦徳川家康から貰い受けて一族職工集団が移り住み、法華の理想郷とした芸術村の寄進地に建つ、光悦の子光瑳の発願の寺である。吉野太夫の墓は、三方を椿で囲まれ、左右の花立てに鶏頭と桔梗が供えられていた。灰屋紹益、本名佐野重孝の菩提寺立本寺ではなく、洛中より数度気温が低い洛北鷹峯に眠る吉野太夫は、常照寺の過去帳に「佐野紹益先妻」と記されている。

 「遅くなって、全員で魚と米の夕食を摂った。暖かな、居心地の良い夜だった。コオロギの鳴く声が聞こえ、風が頬を撫でる。ビロードみたいな空だった。ふたりの伯母さんたちはひとしきり死んだグェンのことで嗚咽(おえつ)し、軀を揺すってしゃくり上げていたが、まもなく眠ってしまった。明るい半月が空にかかった。」(ティム・オブライエン 生井英孝訳『カチアートを追跡して』国書刊行会1992年)

 「「今後、さらに効果現れる」東京電力、凍土遮水壁巡り見解」(平成28年8月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「鵜飼はいとほしや(※あさましい) 万劫(まんごふ)年経(としふ)る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世(げんぜ)はかくてもありぬべし 後生(ごしやう)わが身をいかにせん」(『梁塵秘抄』巻第二)「湿る松明(たいまつ)振り立(たて)て 藤衣の玉襷 鵜籠を開き取出(とりいだ)し 島津巣下ろし新鵜ども 此河波にさつと放せば。面目の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追廻し、潜(かづ)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報(むく)ひも後(のち)の世も、忘(わすれ)果てて面白や。漲(みなぎ)る水の淀ならば、生簀(いけす)の鯉も上(あがる)らん、玉島川にあらねども、小鮎さ走るせせらぎに、かだみて(※怠けて)魚はよも溜めじ、不思議やな篝火の燃えても影の闇(くら)くなるは、思出(おもひいで)たり、月になりたる悲しさよ。」榎並左衛門五郎原作、世阿弥改作の謡曲「鵜飼」の第五段の後半である。第三段は、禁漁区で鵜飼漁をした罪で川に沈められた鵜使いの語りである。「鵜舟にともす篝火の、後(のち)の闇路をいかにせん。実(げに)や世中(よのなか)を憂しと思はば捨(す)つべきに(※出家すべきであるのに) 其心さらに夏川(なつかは)に、鵜使ふ事の面白さに、殺生をするはかなさよ、伝へ聞く遊子伯陽は、月に誓つて契りをなし、夫婦二(ふたつ)の星となる(※牽牛・織姫)、今の雲の上人(うへひと)月なき夜半(よは)をこそ悲しび給ふに、我はそれには引替へ、月の夜比(よごろ)を厭(いと)ひ、闇になる夜を喜べば。鵜舟にともす篝火の、消て闇こそ悲しけれ。つたなかりける身の業(わざ)と、つたなかりける身の業と、今は先非(せんぴ)を悔ゆれども、かひも波間に鵜舟漕(うぶねこぐ)、これ程惜しめ共(ども)、叶(かな)はぬ命継(つ)がむとて、営む業の物憂さよ、営む業の物憂さよ。」鵜飼は見る側も、鵜を操る鵜使いも面白く、篝火を消して漁を終えた暗闇、あるいは篝火の光が見えない月の夜を物悲しいものであると語る一方、話は鵜使いの殺生の罪悪に、僧が為す法華経の功徳を説く。芭蕉長良川の鵜飼を見物し、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(かな)」を作る。芭蕉の教養は、鵜飼を実際に見て飛躍したわけではなく、発見もなく、謡曲「鵜飼」から「おもしろうて」と「悲しき」を大胆に切り抜いた。そうではあるが、物悲しさが芭蕉の実感であることは、「やがて」という一語が証明しているはずである。嵐山の大堰川(おおいがわ)に夜、鵜舟が出る。川に点る明りは、鵜舟の篝も屋形船の軒提灯も揺れている。漕ぎ手が櫂で舟べりを叩く音は、鵜を煽(あお)るのだという。鮎を見定める鵜の頭に、篝の火の粉が降りかかる。若い鵜ほど舟から離れ、紐で己(おの)れの首を絞めるという。引き上げられ、鮎を吐き出せば、大袈裟な歓声が屋形船で沸き上がる。やがて船べりを叩く櫂の音が遠ざかり、篝火も遠ざかる。物悲しさは、櫂の音が已(や)んでからでも、篝火が消えてからでもない。「只一人鵜河見にゆくこゝろ哉(かな) 蕪村」鵜舟が浮かぶ河はすでに物悲しく、それを見に行く蕪村の心が、物寂しくないはずはない。

 「医学の要諦なんてものは簡単だ。大宇宙と小宇宙をくまなく学ぶ。そうすれば、とどのつまりは神の思し召すところへと行くだろう。学問の成果を拾いまわってもムダなことだ。しょせん、人間は、自分が学べることしか学ばない。」(ゲーテ 池内紀訳『ファウスト集英社1999年)

 「5238人全員が1ミリシーベルト未満 福島県6月内部被ばく検査」(平成28年8月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鵺(ぬえ)は鵼とも書き、トラツグミの別名であり、トラツグミと同じ声で鳴く頭が猿、胴が狸、足が虎、尾が蛇(くちなは)の化け物の名である。二条城西北の二条児童公園の隅にある鵺大明神の祠は、その化け物鵺を祀っている。平安の末、夜な夜な内裏に住まう近衛帝を怯(おび)えさせていた、上空立ち込める黒雲に弓を弾き、命(めい)を受けた源頼政はその正体である鵺を射落とした。『平家物語』巻四第四十句「鵼」の段は、その鵺退治の顛末(てんまつ)を記し、最後に「さてこの変化(へんげ)のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。」と結んでいる。世阿弥はこの「鵼」を元に、謡曲「鵺」を書き、川を流れ下った鵺の亡霊に、その心の様を語らせている。「頼政は名を上げ、我は名を流すうつほ舟に押し入(いれ)られて淀河の、淀みつ流れつ行末の、鵜殿も同じ芦の屋の、浦はのうきすに流れ留まつて、朽ちながらうつほ舟の、月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入にける、遥かに照らせ山の端の、遥かに照らせ、山の端の月と共に、海月(かいげつ)も入にけり、海月とともに入にけり。」「我」は、「悪心外道の変化(へんげ)となつて、仏法王法の障(さわ)りとならむ」と自ら語り、仏の教えにも国の権力にも従わず、盾突くために鵺に変身したというのである。が、警固の頼政に射落とされ、一本の丸太舟に押し込められた魂は、闇から闇を彷徨(さまよ)って出ることは叶(かな)わず、闇の隙間に射した月の光に晒された自分の正体は、自分では見ることが出来ない、得体の知れぬ姿なのである。鵺を射落とした源頼政は、保元の乱後白河天皇側につき、平清盛源義朝らと崇徳上皇方と戦い、後(のち)の平治の乱では、藤原信頼、義朝側から清盛側に寝返り、栄華を極め権力を恣(ほしいまま)に孫の安徳天皇を位につけた清盛に対して、以仁王(もちひとおう)と共に挙兵して破れ、宇治平等院で自害する。頼政の手で射落とされた「仏法王法の障りとならむ」鵺の魂は、一瞬その姿を世に晒し、頼政の魂に乗り移っていたのである。鵺は、暗きより暗き道に入り、闇から月の光を渇望する。頼政が死んでも、清盛が死んでも、鵺の魂は不死である。鵺大明神の前に、復元された鵺池がある。鵺池は、頼政が鵺を射落とした矢の先を洗った池である。二条児童公園は、刑務所の跡地利用である。刑務所の一角で、鵺池は水を溜め、夜は月を映していた。

 「先の見える盲人たちが、そんなものがあるはずもない場所で、愛を、愛を、とその必要性を説いた。悪徳役人たちは、昨日の卵がまだファイルボックスの引出しに残っているというのに、雌鶏が月曜日分の卵を産んでいるのを見た。」(ガルシア=マルケス 鼓直訳『族長の秋』ラテンアメリカの文学13集英社1983年)

 「400人以上帰還か 避難指示解除後の福島南相馬」(平成28年8月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昨年五月に急死した私小説車谷長吉は、短編集『金輪際』の最後に置いた短編「変」に、「私は夕食後、二階の自室に引き取って、明治の内閣総理大臣樞密院議長陸軍大将元帥従一位公爵山縣有朋(やまがたありとも)関係の資料を読んでいた。この世の悪を極めた男である。」の文を挿し挟み、山縣有朋に対する興味関心をさりげなく記していたが、生前それはかたち、作品にはならなかった。昭和十六年(1941)太平洋戦争開戦の年、南禅寺門前の山縣有朋の別荘無鄰菴(むりんあん)が山懸家から京都市に譲渡されている。山縣有朋が作った明治十五年(1882)布達の「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」は、開戦した日本陸軍の精神の基(もとい)だった。自由民権思想を弾圧し続けた山縣有朋の没年は大正十一年(1922)であり、昭和の日本も「軍人勅諭」を唱えた日本陸軍の末路も山縣有朋は見ていない。祇園祭宵山の日の午(ひる)の無鄰菴は、人影も目立たず、深閑としていた。無鄰菴庭園は名園であるという。庭師七代目小川治兵衛三十七歳の作であり、山縣有朋の創意が隅々に及んでいると、その解説には加えられている。母屋の建つ西になだらかに低くなる庭園は、東の奥で尖るように狭くなり、そのどんつき行き止まりにある、琵琶湖疎水を引き入れた一旦池のように溜まる水の流れが、二つの野川のように芝の起伏の中で分かれていく。芝は明るく丸みを持ち、母屋から見る視界の両側にはスギやモミが立ち並び、その木蔭は苔生(む)し、庭地が右に折れるところの巨石の様は渓谷の景を一瞬催させ、東のどんつきから見れば、水の面にカエデが幹を傾け、木の間の湧き水の広がりを思わせる。庭の背景は東山である。母屋の畳の上からその庭を、五十半ばの男と七十半ばのその母親と思われる容子の二人が見ている。二人の後ろの畳に腰を下ろし、庭の水音を聞いていると、男がどうぞと自分の坐っていた場所を譲るように立ち上がり、南に向いた畳に移る。片足を伸ばし、もう一方の膝を立てて坐っている母親が、このあとどこへいくんか、と男に声を掛ける。昼をどこぞで摂(と)って清水に行く、と男は応え、そろそろ行くかと云って腰を上げる。庭に顔を向けたまま母親が確かに、クニオと云ったのであるが、男は何も応えず、畳の上に立っている。外廊下の縁の沓脱石に、その二人の靴が並んでいる。伸(の)し餅のような沓脱石は、異様な大きさである。山縣有朋は、自然景色に見せかける庭の外れ、庭の下り口に人の力を示すその石を置いた。庭の自然は、この一個の沓脱石で山縣有朋にねじ伏せられている。男とその母親とおぼしき二人は、静かに靴を履いて出て行った。「国を」と、「この世の悪を極めた」山縣有朋は何度も口にした。国は、大日本帝国という名前の国である。男の母親の口から出た「クニオ」に、「国を」の響きはなかったが。

 「父親に丁寧に挨拶をして、俺は引き下がるように家の外へ出た。母親が持たしてくれた紙包みを持った。さっきのスルメをくれたのだが、この場合貰って、お礼を言ったほうがいいだろうと思ったからだ。」(「闇」深沢七郎『極楽まくらおとし図』集英社1985年)

 「「石棺」記述を削除 廃炉機構戦略プラン、地元反発で修正版」(平成28年7月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)