停滞し続けた梅雨前線により、数十年ニ一度ノ大災害ガ起キルゾと皆に迫った、コレマデニ経験シタコトノナイヨウナ大雨が京都にも降った。桂川に架かる渡月橋の橋脚が濁流に飲み込まれ、橋の北詰から小倉山に沿う参道にも泥水が溢れ出て、境の印だった街灯がその泥水の上に突っ立っている、見たことのない光景に変わり果て、南詰の嵐山の裾道も水を被(かぶ)って見えなくなった。一週間前、嵐山の裾道には茶屋が掛かっていた。伏見月桂冠の紅白の幕で河原に立てた足元と頭上を覆い、茣蓙(ござ)を敷いた床に安テーブルと座布団を幾つか並べ、二人連れの客ばかりが座に着いて呑み食いをしていた。深くはない水の面は波も立たず、小倉山のこちら側は梅雨の晴れ間の日が当たり、向こうの茶屋は山陰(やまかげ)で、幕を揺らす風が見える。聞こえる水の音は川音ではなく、茶屋の側(そば)で上から山肌を削って落ちて来る水の音である。茶屋の客の声は聞こえて来ない。座布団を枕にして横になる客を眺めながら桜の木蔭に暫(しばら)く居ると、保津川下りの川舟がゆらゆらやって来る。川の名は桂川であるが、渡月橋の辺りは大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、橋を潜(くぐ)れば淀川に行きつくまでは桂川であり、保津川と呼ばれるのは、亀岡から嵐山の手間までであり、保津川の上流はまた大堰川と呼ばれている。保津川の川下りは、その渓谷の急流を水を被りながら揺られ下るのであるが、終点は何事もない穏やかさであり、乗り客の水の上に浮かぶ胸騒ぎも、ここに来れば鎮まり、その心鎮まりは、水の上でなければ味わうことが出来ない様(さま)であると思えば、浅瀬から川原に下りる時の舟のひと揺れは、陸地の安堵と些(いささ)かの胸騒ぎを呼び起こす。乗り客を下ろした川舟は、先の川面に無人のまま停め置かれ、二つの山の峡(かい)を流れる川は、元の静けさに戻る。向こう岸の茶屋にいた一組が、団扇(うちわ)を置いて腰を上げる。その中年の二人が日陰の裾道を歩いて行くのを目で追っていると、カチャンと器の立てる音が響いて来る。それは使った器を店の者が下げに来て出した音なのであるが、その下げる手つきが雑なのではなく、それほど響く場所で下げものをしているということなのであるが、時折り鳴く鳥の声よりも胸に響く音だったのである。それは落とせば割れる器の音である。学校給食や社員食堂や病院食の器は、このような音は立てない。割れる器でも、町中(まちなか)の料理屋でも家の台所でも、このようには響かない。濁流はいづれ治まり、茶屋はまた同じ場所に店を掛ける。泥を被った器は泥を落とされ、同じ音を響かせる。が、その音は対岸にいなければ、対岸にいる者の耳にしか響かない。

 「薄暗い車室の奥から、テレーズは自分の生涯のこの清浄な時代をながめる───清浄ではあるが、もろい、さだかならぬ幸福の光のさしている時代。そして、あの歓喜のどんよりした光、あれがこの世における自分の唯一のわけまえであろうとは、そのころは夢にも知らなかった。彼女の当りくじのすべてが、たえがたい夏のさなかの暗い客間の中に、───あの赤いレプス織の長椅子の上の、そろえたひざで写真のアルバムを押さえているアヌのそばに、───つきていたとは、何ものも予告してくれなてはいなかったではないか。あの幸福はどこからわいてきたのか?」(フランソワ・モーリヤック 杉捷夫訳 『テレーズ・デスケイルゥ』新潮文庫1952年)

 「第1原発「処理水」…先送りせず解決を 自民第7次復興提言案」(平成30年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 御室仁和寺(おむろにんなじ)と呼ばれる大内山仁和寺は、仁和四年(888)の本堂落成であるが、その歴史は、上皇となった後の、昌泰二年(899)に出家し第一世となった宇多法皇から始まる。仁和寺第二世性信入道親王は、三条天皇の第四皇子であり、第三世覚行法親王は、白河天皇第三皇子である。天皇皇子が出家し門主となる門跡はこの仁和寺から始まり、門跡となった皇子が天皇を継げず、結婚も出来ず、その血が断たれることになることもこの門跡仁和寺から始まるのである。庶民と係わりのない、皇族貴族のために国家の鎮護を掲げた真言門跡寺院は、門跡寺院であるが故に、世に示すその権力が衰えれば財力も衰え、人材もまた衰え、吉田兼好は近くに住んで目にした仁和寺坊主の仕出かした失敗滑稽の幾つかを、『徒然草』に書きとめている。応仁・文明の乱(1467~1477)で戦火を蒙(こおむ)った仁和寺は伽藍の全てを失い、その跡地はそのまま荒野となり、所を変え堂宇一つとなっていた門跡仁和寺が再興するのは、第二十一世覚深入道親王の時であり、後水尾天皇の兄である覚深入道親王は、後水尾天皇中宮和子の兄である徳川家光に訴え、紫宸殿、清涼殿、常御殿を御所から貰い受け、それぞれ金堂、御影堂、御殿とし、新たに五重塔を建て、荒野は門跡寺院の見栄えを取り戻すのであるが、慶応三年(1867)の王政復古伏見宮第三十世純仁法親王が還俗し、皇室と仁和寺の関係は終わる。翌年鳥羽伏見の戦いが起こると、仁和寺嘉彰親王となった純仁法親王は、その軍事総裁となり、仁和寺霊明殿の水引で作った「錦の御旗」を薩長軍の先頭に掲げ、会津・桑名軍を賊軍に貶(おとし)めるのである。昭和二十年(1945)一月二十五日、三度首相となった近衛文麿が、聖戦完遂祈願と称して仁和寺霊明殿を参拝し、仁和寺の西に己(おの)れが建てた陽明文庫虎山荘に第三十九世岡本慈航を誘い、招いていた岡田啓介元首相、海軍大臣米内光政と話し合いを持ち、翌二十六日には、昭和天皇の弟高松宮が同じ場所で近衛文麿と食事を共にする。この者たちの口にした事柄は、日本の無条件降伏であり、皇室維持のため、責任を追及されるかもしれぬ昭和天皇を落飾させて金堂に住まわせ、仁和寺門跡を復活させることである。が、この国の歴史はそうならず、原爆二つを列島に落とされ、昭和天皇は、「爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」と語って降伏し、大政翼賛会総裁だった近衛文麿は、A級戦犯者となり、収監出頭期限の日の朝、青酸カリを飲んで自殺する。京福電鉄北野線御室仁和寺駅は、線路の両側に蔽いがあるだけの小さな停留の駅であるが、降りて、道が上る先に見える石段の上の仁和寺のニ王門を目にすれば、寺と駅の関係を作ることに高度な配慮の手が入っていることが分かる。それは見覚えがありながら新鮮に思える、いささか心が動く光景である。ニ王門を入った境内は広々と何もなく、先にある中門から振り返ってニ王門を見れば、その何もなさに懐かしさを覚えるのであるが、部外者を寄せつけぬ虎山荘を、西の木の間に垣間見れば、ここは紛れもなく昭和が息する生々しい場所であり、まもなく平成が終わるという皇室の事柄は、暦の最初の文字が変わることではなく、今でも切れば血の吹き出る事柄なのである。

 「中村吉治博士は「古代日本の土地所有制について」という論文で、次のようにいわれる。すなわち、種の発芽や成育をさまたげるだけの目的で「しきまき」(頻蒔、二重に播種する。天津罪あまつつみ)が行なわれるとすると、これはすこし手がこみすぎている。もっと簡単で有効な方法がいくらでもあるはすである。そこで、種をまくことによって、その土地の耕作権を得るという習俗がもしあったとすれば、耕作権のうばいあいには、当然に人のまいた上にまた種をまくということ、つまり「しきまき」という行為が生じうる。そして、それは一般的にタブーとされておかなければならない重大な行為である。こう解釈する方がすなおな解釈であろう。中村博士はこういう風に解釈されることによって、この「しきまき」が罪とされた背景に、土地の所属・耕作が、そのように動くもの、きまった所有になっていないもの、という事実を仮定されるのである。」(虎屋俊哉『延喜式』日本歴史叢書8吉川弘文館1964年)

 「東京電力内に「横断チーム」組織へ 第2原発廃炉費用など検討」(平成30年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 安永九年(1780)に世に出た『都名所図会』の神泉苑の記述を読めば、その文間に隠れ潜む事柄があるとしても、この池にまつわる来し方のあらましの元(もとい)は知ることが出来る。「神泉苑御池通大宮の西にあり。(真言宗にして、東寺宝菩提院に属す)善女竜王社(ぜんによりゆうわうのやしろ)は池の中島にあり。(例祭は八月朔日なり)二重塔は大日如来を本尊とす。池を法成就池(ほふじやうじゅいけ)といふ。むかし大内裏の時は、封境広大にして天子遊覧の地なり。(『拾芥抄』に曰(いは)く、二条の南、大宮の西八町、三条の北、壬生の東云々)池辺には乾臨閣を営みて、近衛次将を別当職とし、庭中には巨勢金剛石(こせのかなおかいし)を畳みて風光を貯(たくは)ふ。守敏は諸竜を咒(じゅ)して瓶中(へいちゆう)に入れ、弘法大師は天竺無熱池の善女竜神を請じ、天下旱魃(かんばつ)の愁ひを扶(たす)けて叡感を蒙(こうむ)り、小野小町も和歌を詠じて、雨を降し、鷺は宣旨(せんじ)をうけて羽を伏せ蹲(うづくま)れば、官人これを安々と捕らしむ。帝(みかど)御感(ぎよかん)のあまり五位の爵を賜はりしもこの所なり。また白河院御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、鵜この池中に入りて金覆輪の太刀を喰うて上りけり。これより銘を鵜丸といふ。崇徳院に伝はり、六条判官為義にこの御剣を賜はりける。祇園会もこゝに始り、弘仁三年(812)には嵯峨帝この苑中に於いて花の宴あり。これ花宴の始りなり。───星霜漸く累(かさ)なり、遂に建保(1213~18)の頃より荒廃に及ぶ。承久の乱(1221年)後には武州の禅門(北条泰時)、築地を高うし門(かど)を堅めて修造ある。その後また荒れて旧跡幽(かすか)なりしを、元和(1615~24)の頃、筑紫の僧覚雅といふ人、官に申して再興し、真言霊場となす。北野右近馬場、この神泉苑等は纔(わづか)なりといへどもこれ大内裏の遺跡なり。」延暦十三年(794)の平安京造営に伴い、大内裏の位置から南東にあった湧水の池と周りの森を、天皇皇族の行楽の場に整備したのが、神泉苑の始まりであるが、旱魃となった天長元年(824)、苑は新たな意味を持つ場となる。淳和天皇の命で、東寺の空海と西寺の守敏が、旱(ひでり)でも水の枯れないこの池の辺で雨乞いの呪力を競い、空海が解き放った善女竜神が天に昇り、全土に遍(あまね)く雨を降らせることが出来たとして、神泉苑は雨乞い、あるいは湧水の清きによる疫病祈禱の場所となるのである。平安の世が終わり、政治権力が天皇朝廷から武士の手に移ると、京の中心にありながら苑は顧みられることもなくなり、死体、糞屎の捨て場と成り果てるのであるが、時下り、関ケ原の戦で勝った徳川家康は、この荒れ廃れた神泉苑の北の大部を削るように御所に門を向けた二条城を建て、その湧水は堀の内を巡ることとなり、残りは東寺の寺地となって、いまも平安禁苑の片鱗を見ることが出来るというのである。神泉苑は、空海が呼び寄せたという善女竜神を祀る小島に架かるあざとい朱色の太鼓橋と、苑の端の料亭が浮かべている、舳に竜の頭を付けた舟を除けば、周りに鬱蒼と桜が繁る何の変もない池である。その日、胴長を履いた男二人が腰まで池の水に浸かり、大きなたも網で水に浮いた塵や枯葉を掬っていた。『都名所図会』の挿絵にはない南門の石鳥居を入って、池を右手に回った奥に建つ鎮守稲荷社に幾本かの色の薄いアジサイが咲いていて、その葉蔭に「幻生童子、元禄十五午年」と彫られた、頭の欠けた五十センチほどの墓石があるのに、足が止まった。その並びにあるもう一つの墓には「──尼、文化元甲子」と彫られている。幻生童子とは、妙に作り物めいた名のようであるが、墓のいわれは分からない。この池で命を落とした子どもの供養に、その親が建てたものかもしれない。生きていたことがまぼろしであったような我が子。本名を明かさなかった森田童子の訃報があった。命終は四月二十四日である。六十五歳である。森田童子は、唄うつもりはなかったと云った。自分が作った歌を、誰も唄うことが出来なかった、あるいは誰も唄おうとしなかったので、仕方なく唄うことになったのであると。ある日の夜、彼女の歌を聴いた帰り、中央線西荻窪駅のホームで、ついさっきまでライブハウスで唄っていた彼女がぽつんと電車を待っていて、サインを貰うことを思いついたのであるが、紙の持ち合わせもペンも無く、持っていた文庫本に、彼女のボールペンで「ぼくが君の思い出になってあげよう。」と書いて貰ったのである。森田童子は、あるいは彼女の言葉は、センチメンタルに過ぎた。生きて、寝て起きて、飯を喰うならば、センチメンタルという心情はあっさり途切れてしまうか、跡形もなく消えゆくものなのである。その消えゆくものに、森田童子は自ら唄うことで責任を負ってしまったのである。あの声は、その果てのない不安の戦(そよ)ぎである。

 「私は何のために、あの船酔いの苦しい旅に出かけたのだろう。それも今では思い出せない。その頃は何やら思い屈することばかり重なって、都会生活にうちひしがれそうになっていたのであろう。今ではうすぼんやりしたそんな記憶だけが残っている。そこいらに着物を脱ぎすてて、脱ぎすてたのを風にとられないよう石で押えて、そうして向き向きに臥(ね)そべりながら、一月の海の中に、ぼんやりつかりながら話合った島々の老人たち、それから藤本さん、彼らも恐らくもうこの世界の人ではあるまい。」(「式根島三好達治三好達治随筆集』岩波文庫1990年)

 「【原発ゼロへ 第2原発廃炉表明】突然表明に波紋 憶測行き交う」(平成30年6月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 借景庭園でいの一番に名の挙がるその庭に面した濡れ縁を、三人の女が仏殿の角を曲がって一人ずつ現れ、その端まで歩いて行く。先頭の老婆は九十手前の様子で杖を突き、その後ろを七十ほどの女、六十ほどの女が続き、前の二人の面立ちは目鼻に似たところがあるが、最後の一人はどちらにも全く似ていない。三人の身なりは、畏(かしこ)まったものではないが、普段着を外出に着替えたようなものを着ている。戸口に立つ老婆を残して二人が内に入り、室の隅の仏壇に向かう。老婆がそのどちらかに声を掛け、杖を握らないもう一方の手で提げたバッグから畳んだ千円札一枚を取り出し、顔の似た女に手渡す。二人は一瞬顔を見合わせ、軽い困惑と軽い戸惑い表情を浮かべる。その軽い困惑は、老婆に金を出させたことによるもののようでもあるし、その千円という額によるものかもしれない。老婆に似た女が浄財の千円を仏壇の前の箱に納め、並んで手を合わせ、戸口の老婆は立ったまま戸に身を預けるようにして、手を合わせる。が、どの者もそう熱心一念という様子ではなく、型通りに手を合わせ終えると、老婆に似た女は老婆の足元まで戻って、腰を下ろし両膝を九の字に折る。最も若い女は、その二人から二三歩離れた室の中ほどで膝を崩すようにして座る。老婆は、仏殿の角の柱に立ったまま凭れ掛かり、庭に顔を向ける。が、老婆の立つところからは、この圓通寺(えんつうじ)の庭の売りである比叡山の姿は見えず、傍らの顔の似た者の位置からも、やや離れて座るもう一人の者の位置からも、恐らくは見えない。塀のように低く刈り込んだ生垣と、数本の杉檜の向こうにある比叡山を見ることが出来るのは、室の中央から右寄りであり、この三人は、見慣れた者として、いま右寄りにいる庭を見慣れぬ者らのために話すのを控え、恐らくはその位置に留まっているのである。庭は長方で、平らで、半ば禿た苔が覆い、左寄りの生垣に沿って丈の低い石が、島の様で並べられている。が、その石の幾つかは三分の二を土の中に埋められているという。比叡山は、枝を打った杉檜の間に、そのなだらかな稜線を左右に伸ばしている。圓通寺の元(もとい)は、後水尾法皇の山荘幡枝御茶屋である。後水尾法皇は、後に修学院離宮比叡山の麓に造り、足の遠のいたその茶屋を寺にして残すことを思いつくが、徳川幕府はそれを認めなかった。「若狭の国主、京極忠高の室が寛永十四年(1637)六月十二日忠高の卒して後、この地に寡居していた。これが圓通寺の開祖円光院瑞雲文英尼である。円光院は園左大臣基任の第三女で、後光明帝の母である「壬生院」の姉であり、霊元天皇の母である、新広義門院国子には叔母に当たる。「新広義門院」は元「新中納言局」と号し、園基音公の女(むすめ)で、円光院と同家であったため、法皇夫妻は「高貴宮(あてのみや)」(霊元天皇)の御養育を文英尼にお命じになった。───幡枝御茶屋が、禁中よりの御祈禱所として、また、主人若狭守忠高の菩提を弔うための寺としたい円光院の願いが幕府を通ったのは「東福門院」に代って霊元天皇の母親役を文英尼が勤めたことによってである。また、文英尼がかつて京極忠高に嫁したのは、先妻が卒したためで、その先妻が徳川秀忠の女(むすめ)、東福門院和子の姉初姫であった。すなわち文英尼は東福門院の義理の姉にも当たる。文英尼は東福門院にも、幕府にとっても、また天皇家にさえ大切な人であったのである。文英尼は林丘寺の元(玄)瑤尼のすぐ上の兄君である輪王寺門跡守澄法親王などの斡旋により、東福門院の崩じた翌年、延宝七年(1679)妙心寺の百九十六世禿翁周禅師を請じ、これを開山としてついに寺とすることができた。霊元天皇は圓通寺に年々三十石あて扶持されることを約されたが、翌延宝八年(1680)後水尾法皇が八月十九日崩御された後を追って、十一月十一日文英尼もまた七十二歳で寂した。」(「圓通寺の庭」久恒秀治『京都名園記』誠文堂新光社1968年刊)老婆が濡れ縁を辿って仏殿から出て行き、その後に顔の似た女が続いた。もう一人の女が出て行くまでに、暫(しばら)くの間があった。庭に顔を向けて座れば、背になる仏殿の奥の襖に、墨で草木と鳥の絵が余白の多い図柄で描かれている。その痛みの烈しい襖の向こうから女の声が聞こえて来る。その声にはっとしたように、残っていた女が立ち上がり、濡れ縁に出て、姿が見えなくなる。龍安寺の石庭の趣(おもむき)に近い、あるいは趣を真似たこの庭の生垣を土塀に変え、杉檜や他の樹木をすべて取り払った庭景色を想像することで、この庭のこの庭たらしめているものに理解が導かれるという。が、そのような想像を施さなければ、庭たらしめているものへの理解は遠く、危(あや)ういものであるということでもあるのである。石組と平らな苔の地面は素朴である。刈り込んだ生垣も単純なしろものである。が、木の間に見える奥の比叡山はどうであるか。この場所でしか見ることが出来ない比叡山の姿、という時のこの場所は、限定された特長のある場所であるということであり、この比叡山がよく見えるという特長はこの場所として正しいのである。が、その正しい、真っ当な景色をそのまま作り庭に置くとどうなるか。真っ当な山の姿は、その真っ当さ故(ゆえ)に忽(たちま)ちに絵に描いたような俗物に早変わりしてしまうに違いないのである。この真っ当であることが危ういのであり、それがため、この庭を作った者は、山を遮る影のように杉檜を植え、その危うさから逃れようとしたのである。例えば、室の奥の襖まで見る位置を移して見れば、杉と檜に数本の室の柱が加わり、その真っ当な危うさは、揺るぎない景色となって浮かび上がって来るのである。奥の襖の向こうの声は、母の足の悪さを訴え、一人暮らしの生活が困難になりつつあると云う。老人ホームに入ってもらえば、私たちは安心なんですとも云う。このようなことを云う女の声が、比叡山の借景と重なるのであるが、とちらも何ほどの関係もない。仏殿を出て、廊下伝いに裏側に回ると、中庭を挟んだ向こうの、障子戸を半分開けた室に、先ほどの老婆に似た顔の女と、傍らで作務衣の坊主頭の男が片膝を立て話を聞いている姿が見える。繰り返せば、この寺の庭の景色と、母親の行く末を案じ訴える女の声とに関係はない。が、その女の声は、圓通寺という寺が己(おの)れの胸の内を自(みずか)ら発している声として、もう一つ別の柱の影のような一筋を、庭から見える比叡山の前に加えたのである。

 「このほかに何という木であったか、五倍子(ふし)に似た実のつく木があった。五倍子よりはずっとかたくてかつ大きく、一カ所に丸い孔があいており、中はからっぽで、そこへ唇をあてて吹くとヒューヒューと鳴った。ホロブエと言った。十歳ばかりのころこのホロブエを美しくみがいて宝物のように持っていたことがあったが、どうしたものかなくなってしまった。そしてその木もお宮を再建するとき伐られてしまった。」(宮本常一『家郷の訓』岩波文庫1984年)

 「震災関連「自殺」は100人超 福島県最多、避難生活の長期化影響」(平成30年6月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西洞院通(にしのとういんどおり)一条上ルの大峰図子町(おおみねずしちょう)に、大峰寺跡と説明札(ふだ)を立てた黒い門構えがある。平安時代、大峰殿とも呼ばれた、修験者の坊舎が立ち並ぶ大峰寺がこの地にあったのであるが、後に荒廃し、その証拠の、仏像を刻んだ二メートルの石塔が只一つ残り、その石塔は役行者(えんのぎょうじゃ)の塚であるとも、その法孫である日円の塚であるとも、あるいはこの大峰野辺で火葬された藤原道長の娘、三条天皇中宮藤原妍子(ふじわらのけんし)の火葬塚であるともいわれ、いまは金色の帳(とばり)が下がった小堂の中に納まっている。が、手前をフェンスで塞がれていて、その小堂に近づくことは出来ない。その金色の帳の下(もと)に供えられている、まだ首の垂れていない大輪小輪の菊の花の様子から、目を敷地の端で隣りの新築家の壁塗りをしている職人の手の動きに移して眺めていると、閉じた黒門の脇の出入り口から女の子どもが二人入って来て、その出入り口の板戸を押さえいた石で戸を閉じ、黒門の内に隠れるように身を低くする。子のひとりは、小さな赤いバケツを手に持っている。小堂の奥も残りの一方も家が建て込み、三方塞がりだった敷地は、この子ども二人に四方塞がりにされてしまう。門の外を、虫取り網を持った男の子どもが向こうを向いたままゆっくり通って過ぎて行く。子どものひとりが外に首を伸ばし、もうひとりがくすくす笑う。男の子どもが戻って来て、また門の前を過ぎて行く。隠れんぼの隠れる者は、その胸をときめかすのであろうが、見つける側の者には隠れる者にはない、どこへでも行くことが出来る自由があるにはあるのである。『今昔物語』の巻二十の第九の「天狗を祭りし法師、男に此の術を習はしめむとしたること」と題する話に大峰寺が出て来る。「今は昔、京に外術(ぐえずつ)と云う事を好みて役とする下衆法師有りけり。履(はき)たる足駄・尻切などを急(き)と犬の子などに成して這はせ、又懐より狐を鳴かせて出(いだ)し、又馬・牛の立てる尻より入(いり)て、口より出(いづ)など為(す)る事をぞしける。年来(としごろ)、此様(かくやう)にしけるを、隣に有りける若き男を極(いみじ)く▢(欠)ましく思ひて、此の法師の家に行きて、此の事習はむと切々(ねむごろ)に云ひければ、法師の云はく、「此の事は輙(たやす)く人に伝ふる事にも非(あら)ず」と云ひて、速にも教へざりけるを、男懃(ねむごろ)に「尚(なほ)習はむ」と云ひければ、法師の云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習はむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)人に知らしめずして、堅固の精進を七日して、浄く新しき桶一を儲けて、交飯(かしきがて)を極めて浄くして、其の桶に入れて、自ら荷(にな)ひ持て、止事(やむごと)なき所に詣で習ふ事なり。我は更に教へむに能(あた)はず、只其(そこ)を導く許(ばかり)なり」と。男、此れを聞きて、法師の云ふに随ひて、努々((ゆめゆめ)人に知しらしめずして、其の日より堅固の精進を始めて、注連(しりくへ)を曳(ひ)きて、人にも会はずして、籠居(こもりゐ)て七日有り。只極めて浄くして、交飯(かしきがて)を儲けて、浄き桶に入れたり。而(しか)る間、法師来て云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習ひ取らむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)腰に刀を持つ事なかれ」と懃(ねむごろ)に誡(いまし)め云ひければ、男、「刀を持たざらむ事安き事なり。難(むずかし)からむ事をそら、此の事にも懃(ねむごろ)に習はむと思ふ志有れば、辞(いな)び申すべきに非(あら)ず。況(いはむ)や刀差さざらむ事は難しき事にも非(あら)ざりけり」と云ひて、心の内に思はく、「刀差さざらむ事は安き事にて有れども、此の法師の此(か)く云ふ、極めて恠(あや)し。若(も)し刀を差さずして、恠(あや)しき事有らば、葢(かひ)しかるべし」と思ひ得(え)き、密かに小さき刀を返々(かへすかへ)す吉(よ)く鐃(と)ぎてけり。精進既(すで)に明日(あくる)日七日に満ちなむと為(す)る夕(ゆふ)べに、法師来たりて云はく、「努々(ゆめゆめ)人に知らせで、彼(か)の交飯(かしきがて)の桶を、汝ぢ自(みづか)ら持ちて、出立(いでたつ)べきなり。尚々刀持つ事なかれ」と誡(いまし)め云ひて去りぬ。暁に成りぬれば、只二人出(いで)ぬ。男は尚恠(あや)しければ、刀を懐に隠し差して、桶を打ち肩に持ちて、法師を前に立てて行く。何(いづ)くとも思(おぼ)えぬ山の中を遥々(はるばる)と行くに、巳(み)の時許(ばかり)に成りて行く。「遥かにも▢(欠)来たりぬるかな」と思ふ程に、山の中に吉(よ)き造りたる僧坊有り。男をば門に立てて、法師は内に入(い)りぬ。見れば、法師、木柴垣の有る辺(ほと)りに突(つ)い居て、咳(しはぶ)きて音なふめれば、障紙(しやうじ)を曳き開けて出(い)づる人有り。見れば、年老いて睫長なる僧の、極めて貴気(たふとげ)なる出(い)で来たりて、此の法師に云はく、「汝ぢ、何ぞ久しくは見へざりけるぞ」と云へば、法師、「暇(いとま)さぶらはざるに依りて、久しく参りさぶらはず」など云ひて、「此(ここ)に宮仕へ仕(つかま)つらむと申す男なむさぶらふ」と云へば、僧、「常に此の法師、由(よし)なし事云ひつらむ」と云ひて、「何(いど)こに有るぞ。此方(こなた)に呼べ」と云へば、法師、「出(い)でて参れ」と云へば、男、法師の尻に立ちて入(い)りぬ。持ちたる桶は、法師取りて、延(えん)の上に置きつ。男は柴垣の辺(ほとり)に居たれば、房主(ばうず)の僧の云はく、「此の尊(みこと)は若(も)し刀や差したる」と。男、「更に差さぬ」由を答ふ。此の僧を見るに、実(まこと)に気疎(けうと)く怖ろしき事限りなし。僧、人を呼べば、若き僧出(い)で来たりぬ。老いたる僧、延(えん)に立ちて云はく。「其の男の懐に刀差したると捜(さぐ)れ」と。然(しか)れば、若き僧寄り来たりて、男の懐を捜(さぐ)らむと為(す)るに、男の思はく、「我が懐に刀有り。定めて捜(さぐ)り出(いで)なむとす。其の後は我れ吉(よ)き事有らじ。然(しか)れば、我が身忽(たちまち)に徒(いたづら)に成りなむず。同じ死にを此の老僧に取り付きて死なむ」と思ひて、若き僧の既に来たる時に、密かに懐なる刀を抜きて儲けて、延(えん)に立ちたる老いたる僧に飛び懸る時に、老いたる僧、急(き)と失せぬ。其の時に見れば、坊も見えず。奇異(あさまし)く思ひて見廻(めぐら)せば、何(いづ)くと思えず大きなる堂の内に有り。此の導きたる法師、手を打ちて云はく、「永(なが)く人徒(いたずら)に成しつる主(ぬし)かな」とて、泣き逆(くか)ふ事限りなし。男、更に陳(のぶ)る方(かた)なし。吉(よ)く見廻(めぐら)せば、遥かに来たりぬと思ひつれども、早う、一条と西の洞院とに有る大峰と云ふ寺に来たるなりけり。▢(欠)男、我れにも非(あら)ぬ心地して家に返りぬ。法師は泣く泣く家に返りて、二三日許(ばかり)有りて俄(にわ)かに死にけり。天狗を祭りたるにや有りけむ、委(くはし)く其の故(ゆへ)を知らず。男は更に死なずして有りけり。此様(かくやう)の態(わざ)為(す)る者、極めて罪深き事供をぞすなる。然れば、聊(いささか)にも三宝(さんぼう)に帰依せむと思はむ者は、努々(ゆめゆめ)永(なが)く習はむと思ふ心なかれとなむ。此様(かくやう)の態(わざ)する者をば人狗と名付けて、人に非(あら)ぬ者なりと語り伝へたるとや。」昔京に、履物を仔犬に変えて地を這わせたり、懐から狐を取り出して鳴かせたり、立った牛や馬の尻の穴から口へ抜け出るような幻術を見世物にしていた悟りの乏(とぼ)しい法師がいた。隣りに住んでその幻術を目にする度に羨ましく思っていた男が、ある日法師を訪ね、頭を下げて教えを乞(こ)う。法師は、「容易(たやす)く教えらえることではない。」と断るが、若い男が尚も頭を下げると、「お前が心底教えを乞(こ)うのであれば、そのことをゆめゆめ人に公言してはならず、七日間慾を断って仏修行に徹した後、新しい桶を一つ用意し、中を浄めて粽(ちまき)を入れ、それを担(にな)ってさる尊い場所に参るがよい。私が出来るのは、その場所までの道案内である。」若い男は法師の言葉に従い、誰にも告げず、垂れ布を回して、仏修行一心の七日間を始める。用意したのは、新鮮な粽(粽)と洗い浄めた新しい桶である。その七日のある日、法師が来てこう云う。「お前が心から幻術を身につけたいと思っているのであれば、ゆめゆめ刀を身につけないように。」それを聞いて若い男は、「刀を持たないことなど何でもありません。たとえ出来そうにないことでも、私が本気で幻術を習いたいと思うのであれば、出来ないなどと云うことは許されませんし、刀を差さないことなどは、難しいことでも何でもありません。」と応えたのであるが、心の内にある考えが芽生えた。「刀を携えないことが、重大なこととは思わないが、この法師のもの云いは、どこか疑わしい。もし刀を持たずに不測の事態が起きたら、取り返しがつかないぞ。」若い男はそう思い、秘かに小刀を丹念に砥いで用意した。期限の仏修行が最後の一日となった日の夕方、法師が若い男の元にやって来てこう念を押した。「ゆめゆめこのことを他言せず、出発の時は粽(ちまき)の桶の仕度をし、くれぐれも刀だけは携えてはならぬ。」日の出の刻が来て、法師と若い男は出発する。若い男は刀を懐に隠し持ち、桶を肩から下げて、法師を先に立てながらその後ろをついて行く。どことも知れぬ山の中を遥々(はるばる)やって来て、九時も過ぎた頃、目の前に立派な僧坊が現れる。若い男を門の外に待たせ、法師が中に入り、小柴垣の傍(そば)で畏(かしこ)まったまま、咳払いをひとつしようとすると、その時障子戸が開き、睫(まつげ)の長い、高い身分を思わせる老僧が現れ、法師に、「お前は随分久しく顔を見せなかったな。」と云うと、法師は、「忙しくしておりまして、長々と参ることが出来ませんでした。」と応え、「こちらで修行し仕えたいと申しております男を連れてまいりました。」と云う。老僧は、「お前はいつもつまらぬことを云い出すものだな。」と云い、「その者はどこにいる、ここへ呼べ。」と云うと、法師が若い男に「こちらに参れ。」と声を掛けると、若い男は法師の後ろに続いて入って来る。法師は男から桶を受け取り、老僧のいる濡れ縁の上に置く。老僧が「この者は、刀を携えてているか。」と云うと、柴垣を背にしていた若い男は、「まったくそのようなものは持っておりません。」と応え、老僧を見れば、老僧は途轍(とてつ)もなく薄気味悪く、怖ろしい顔になっている。老僧は若い僧を呼び出し、「この者、刀を隠し持っているに違いない。懐を捜れ。」と告げる。若い僧が、若い男の元に寄って、その懐に手を伸ばす。若い男の中で思いが駆け巡る「懐の刀が見つかってしまうのはもう避けられない。そうなれば最早この身に好いことは起きず、私は無意味な存在になってしまう。どうせ死ぬのであれば、この老僧と差し違えて死のう。」そう思い、若い僧が懐に手を掛けるのを払って刀を抜き構え、若い男は、濡れ縁に立つ老僧に飛びかかっていった───。が、そこには誰の姿もない。老僧は、目の前から消え失せてしまったのである。それだけではなく、立派な僧坊も失せてなくなり、どうなってしまったのかと辺りを見廻すと、若い男はどことも知れぬ大きな堂の中にいるのである。傍(かたわ)らにあの法師が立っている。法師は、ハタと手を打ち、「人というものは、永遠に無意味な存在になるほかない。」と呟くと、血迷った如くに泣き崩れてしまう。それを見ても若い男は、何と云ってよいのか皆目分からない。外に出て改めて辺りを見ると、遥か彼方へ行ったつもりであったのが、若い男は、ほんの近くの、一条西洞院にある大峰寺に来ていたのである。若い男は、自分が自分でないような心持で家に帰り、法師も泣き止まぬまま家に戻ったのであるが、それから二三日で死んでしまう。天狗を徒(いたずら)に祭ったからとも思われたのであるが、死に至った本当の理由は分からない。若い男は、法師のようには俄(にわ)かに死ぬこともなく、法師のような幻術使いは、いづれにしても救いようのない罪深い事をするものだ、と思う。些(いささ)かでも仏に帰依しよと思う者は、ゆめゆめこのような幻術を習おうなどとは思ってはならない。幻術を使う者は、天狗と名づけられ、人にあらざる者である、と語り伝えたということである。身の不自由な者は、苦しくなって外に頭を出す。通りを見渡しても、二人を捜しているはずの男の子どもの姿はない。男の子どもは、今度は捜される側として、どこかに隠れているのかもしれない。あるいは、大峰寺で我に返った『今昔物語』の若い男のように、遊び相手を見失い、茫然と家に帰る途中であるのかもしれない。

 「シディ・ベリュオは野獣を馴らす術に優れていて、つねに獅子を玩(もてあそ)ぶ姿で知られていた。またシディ・アブデルラアマン・エル・メジュウブは碑文と預言に長けていたが、単に聖者であるはかりではなかった。精神に乱調を来たしていて、あらゆる知の根源と直接自然の交感をはたすことができた。」(「時に穿(うが)つ」ポール・ボウルズ 四方田犬彦訳 『優雅な獲物』新潮社1989年)

 「野口英世の記録ノート…『故郷』到着 ガーナから記念館に寄贈」(2018年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都府立植物園発行の、週刊植物園五月四日号の週刊見頃情報に、ハンカチノキの名があった。この木の名前に記憶はあったが、実物はまだ見たことがない。東京上野桜木に住まいのあった頃、休みの日に木蔭のベンチに座りに行った小石川植物園に、ハンカチノキが植わっていたが、花の時期は知らないままでいた。小石川植物園は、上野桜木から言問通を下り、本郷西片から白山通に抜けて自転車で二十分ほどのところにあった。「忘れ得ぬ他人と言えば、去年の秋梅雨のころのある日、傘を差して、小石川植物園の塀に沿うた道を歩いていると、いきなり「どこへ行くの。」と見知らぬ女に声を掛けられた。思わず「図書館。」と答えると、「あら、じゃ、いっしょに行きましょう。」と、女は恰(あた)かもこちらのことをよく知っているかのように近づいて来、並んで歩きはじめた。この物怖じしない素振りが私を不安がらせた。四十過ぎの、家庭の主婦とも思えない、化粧ッ気のない女である。足を速めると、女も足を速め、また元の歩調に戻すと、女も無言で合わせて来る。どうあっても付きまとうて来る気配である。図書館へ着くと、併(しか)し女は自然に別の本棚の方へ行ったのでほっとしていると、しばらくしてまた近寄って来た。厚い博物図鑑を私の前へ広げ、「この虫は食べられるでしょうか。」と言う。見れば、大きな芋虫の極彩色の絵が描いてあった。驚いて女の顔を見返すと、目を血走らせて、「いいえ、私たちは食べていました。」と言う。その切迫した物言いが、全身の毛が凍るほどに恐ろしかった。───私もまた「芋虫を食べて」生きて来たに相違なかった。」(車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂文藝春秋1998年)正式の名を東京大学大学院理学系研究所附属植物園であるという小石川植物園は、原生林のような林を持つ広大な敷地がコンクリートの塀で囲まれていて、北側の裏の塀は大人の手が届かない高さがあり、東と西は狭い坂道に沿ってうねり、南には共同印刷の工場があり、並ぶ民家の傍らのその下請け工場が、いつも山のように重ねた製本前の紙の束を軒先に晒しているところである。植物園の入り口は南東の隅にあった。白山通から西に坂を上って北東の角から東の坂を下れは、そのまま入口に着くのであるが、子どもがする遠回りのように反時計回りに、小庭のついた二階建団地や古い洋館風の学生寮が建つ裏道から、使い道の目途の立たない草の生えた広い空地の間の西の坂を下って、日の当たる南の塀へ曲がって行くのである。学校帰りの子どもの遠回りでは、初めて見る虫や景色と出会うかもしれないが、この塀沿いの遠回りには、新たな世界を見つけ出すということは、恐らくない。馴れた道にこそ発見の元(もとい)があるというもの云いは、型通りに使われればよい云い回しであり、この遠回りの心持ちにはむしろ邪魔になる。その植物園の大きさに時間を費やすだけの遠回りの心持ちというのは、変のない気安さである。道の気安さは、川原の土手にも、田圃道にも、山道にもあるかもしれない。が、この道は、片側に鬱陶しい塀が立ちはだかっているにもかかわらず、心持ちは気安いのである。塀に沿って自転車を漕いで行く時、視線の片側は遮られ続け、目に見えるのは塀によって半分にされた世界である。残りの半分は、塀が倒れることでもない限り、在ることで起こる諸々の一切に注意を向ける必要のない、ないも同然の世界である。そうであればこの気安さは、目の前の世界が半分になっていることで味わうということなのであろうか。ハンカチノキは、フランスの宣教師アルマン・ダヴィッドが、1860年代に中国四川省で見つけ、ダヴィディア・インヴォルクレイタと名づけられ、日本では、折って結わいた白いハンカチのような花の形からそう呼ばれている。京都府立植物園のハンカチノキは、三メートルほどの高さから葉の間にそのハンカチのような花を幾つも垂らしていた。丸い蕾のような花に下がった大小二枚の三角の花弁は、苞葉という葉であるという。木の下にはその白い苞葉が、捨てられたハンカチのように何枚も落ちている。その一枚を、ひとりの女が拾って、傍らの盲人の男の手に触らせた。女は三十前後、男は五十代である。二人の姿は、咲きはじめたバラ園でも見掛けていた。二人の口数が少ないのは、親子であるからかもしれない。女は、色は白と云った。生まれつき全盲の者は、色は分からない。その言葉は色を示さず、ノートの白やシーツの白や雪の白の感触を思い出すことだという。この盲人がハンカチノキを触るのが初めてであれば、この者の知る白色に、この花の感触が加わるのであろうか。盲人の男は花を女に戻し、女は元の木の下に屈(かが)んで置いた。盲人は意思があって植物園に来たのか、あるいは付き添う娘のような女に連れられて来たのかは、二人の様子では分からない。盲人は、植物も、その植物が生えている世界のすべてを見ることが出来ない。このことは、目が見える者がその目を閉じただけでは分からない。盲人も、目が見える者が塀によって世界が半分になる気安さは、恐らく分からない。が、盲人も手を触れながら塀を伝って歩くのであれば、その二度目には、気安さを覚えることがあるのである。

 「テレビが毎日歌や踊りやお話をしてくれる。こたつはとてもあたたかい。眠くなるとこのまま横になって寝る。いい人になろうと思う。いい人に為るといい夢ばかり出て来る。」(日本画家不染鉄から倉石美子に宛てた昭和四十年(1965)十二月六日消印の絵ハガキの言葉)

 「葛尾の復興拠点認定 22年春の避難指示解除目指す」(平成30年5月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西陣聖天雨宝院の庭の空を蔽うように枝を回(めぐ)らす赤松を「時雨の松」と呼ぶのは、幕末に参拝した久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)が雨に遭って、その下に宿ったからだという。その当時の名は中川宮であった久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、天保九年(1838)得度し、興福寺一乗院門主尊応(そんおう)となり、嘉永五年(1852)青蓮院(しょうれんいん)四十七世門主尊融(そんゆう)となり、第二百二十八世天台座主となるが、日米修好通商条約の勅許、あるいは徳川の世継ぎを巡り大老井伊直弼と意見を違え、安政六年(1859)の安政の大獄による相国寺桂芳軒での蟄居の命に、万延元年(1860)の桜田門外の変での直弼の死まで従い、還俗し中川宮を名乗って国事御用掛の身分となり、公武合体派の公卿として文久三年(1863)八月十八日の政変尊王攘夷派の長州藩を京都から追い出すのであるが、公武合体派が二度目の長州征伐に失敗し、徳川慶喜が身を翻して大政奉還すると、中川宮は、薩長主導で出来上がった明治新政府の流れに押し流されるように広島藩での遠方謹慎を明治五年(1872)まで強いられ、伏見家に復帰した後に一代宮家久邇宮を創設し、明治八年(1875)伊勢神宮祭主に就き、明治二十四年(1891)に世を去る。朝彦親王の子の邦彦親王の娘が昭和天皇香淳皇后であり、朝彦親王今上天皇の曽祖父である。七宝作家並河靖之は弘化二年(1845)川越藩松平大和守家臣高岡九郎左衛門の三男に生まれ、安政二年(1855)親戚の青蓮院坊官職の並河家の養子となって家督を継ぎ、入道尊融親王の近侍として相国寺の蟄居、広島での謹慎に同行し仕えるのであるが、維新後の、流れから外れた親王への仕えでの収入は低く、兎、鶏を飼い、団扇の骨作りなどの商売を起こすも悉(ことごと)く失敗し、宮家仕えの同僚桐村茂三郎に誘われ、明治六年(1873)自宅で七宝業を始めるのである。その二年後に国内博覧会で賞を受け事業が軌道に乗ると、並河は職人を奪い去られる裏切りを桐村から受ける。いつの世にもある話である。仕切り直した並河の次の試練は、輸出した製品の質の低下である。断腸の思いで五十余人の職工をすべて馘にし出直した結果は、明治十七年(1884)ニューオリンズ万国博覧会一等、明治二十二年(1889)パリ万国博覧会金賞、明治三十三年(1900)パリ万国博覧会金賞、明治三十七年(1904)セントルイス万国博覧会金賞である。パリ万博の栄誉で売れた金で並河は、明治二十六年(1893)住まいと工房を新築する。その住まいには幾人もの外国人が直接買い付けに来るほどであったのであるが、大正三年(1914)に第一次世界大戦が始まると、七宝工芸品を欲しがる者は世界から瞬く間に消えて仕舞う。七宝工芸品のほとんどは海外が市場の輸出品であり、値の高さから日本人が買う品物ではなく、日本人が手にするのは国表彰の副賞としてであった。七宝工場は、大正十二年(1923)に閉鎖され、並河は昭和二年(1927)に世を去る。京都日出新聞の訃報記事は並河を、「勲章の製造家」と書いた。明治三十九年(1906)、政府賞勲局から勲章製造の命を受け、東京に工場を開いていたのである。娘婿が継いだその工場も、並河の死の二年後に役目を終える。七宝作家ではなく、勲章の製造家として忘れ去られていった並河の作品の大半は海外にあり、日本にあるものは、並河が手放さず残しておいたものだけであるという。銀製の壺があり、漆黒の地に幾本もの藤の花房が垂れ下がっている。その花弁の一枚一枚の輪郭は、リボン状の金線を立てて描くように折り曲げたものであり、その色は微細なその枠にガラス質の釉薬を乗せて焼き付け、幾度も磨いたものである。この技が空前絶後なのである。それまで見たこともない並河の技に世界は驚き、並河の死の後、これを超える技の七宝は生まれていない。この有線七宝と呼ばれる技法は、その表現の制約の故(ゆえ)に、細密緻密な花や蝶の絵柄はすべて死に絵に見える。そう見えざるを得ない七宝の性質の故に、並河はその技法を極限まで至らしめたのである。東山にある並河の作品とその下画を展示する並河靖之七宝記念館は、並河が建てた当時の住まいであり、工房であり、来客との商談の場所である。並河は外国人客のため、鴨居の高さを通用の五尺七寸から六尺に変えたという。二方のガラス障子から見渡すことが出来る庭は、七代目小川治兵衛の作である。「三条北白川裏白川筋に在り其地は広からされとも奇巨巌を畳み池を作り、中島を築き石橋を架し囲むに古樹名木を以てし遠く疎水の水を引き滝を造り、淙淙として緑樹の間より瀉ぎ下る池水清澈遊鱗溌溂濠梁の思いあり庭中岩石並燈籠等に優物多し」(『京華林泉帖』京都府1909年刊)目を見張るのは、飛び石と二枚の沓脱石と、舟の形をした手水鉢の巨大さである。池に迫(せ)り出す二方の畳廊下は水面に浮かぶ石に柱を支えられ、沓脱石の傍らの舟形の手水鉢の下もまた床下を深く掘り抉(えぐ)られた底から石柱で支えられ、そこには水は無く、その床下には青い大きな石が潜むように据えられている。林のように木が繁り、木の間から池が覗き、その池の水の上に浮かぶかのように住まいが建てられ、沓脱石の大きさは恐らくその重しの役目をなし、水を湛えた舟形の手水鉢が涸れた穴の上に浮かんでいる様(さま)は、外国人客の興味驚きを誘(いざな)う仕掛けでもあろうが、七宝の息苦しい不自由な美とは相容(い)れない、並河の自由をここに見るのである。「人間の身の上は分からぬもので、維新前には異人の首を斬ってやろうと威張ったものが、今は其異人から金を取ることを商売にするようになりました。」と並河は云っているが、この言葉は並河の何かを伝えるものではない。久邇宮朝彦親王の身の回りの雑用係から、世界の富豪の財布の紐を解かせる美の技を身につけたにもかかわらず、世の移ろいに遂には誰からも忘れられた男が、並河靖之である。並河靖之七宝記念館はその京町家の住まいをそのまま使い、通り庭と呼ばれる、玄関からそのまま奥の庭に抜けることが出来る土間の炊事場には、京に暮らす者の張りつめた空気と、忘れられたこの男に対する血を受け継いだ身内の温(ぬく)もりが残っている。輸入ガラスを嵌めた時代もののガラス障子の汚れのなさは、世に忘れられた男を身内に持った一家の誇りに違いないのである。

 「先日、田舎の友人が魚つりに来いといつて手紙をよこした。但し「山は招く、川は招く。ヤマベ、白ハヤ、一日に二百尾は確実。酒は純日本酒、吟醸の…」といふやうな手紙であつた。私はそれを読んだとき法螺だと思つたが、日がたつて行くにつれ、どうも法螺ではないかもしれぬと思ふやうになつた。それで先日その友人に前もつて電報を打ち、つりの仕度をととのへて私は出発した。」(「レンゲ草の実」井伏鱒二井伏鱒二全集 第十一巻』筑摩書房1998年)

 「福島第1原発に外国人実習生 管理区域外6人、東電方針を逸脱」(平成30年5月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)