西洞院通(にしのとういんどおり)一条上ルの大峰図子町(おおみねずしちょう)に、大峰寺跡と説明札(ふだ)を立てた黒い門構えがある。平安時代、大峰殿とも呼ばれた、修験者の坊舎が立ち並ぶ大峰寺がこの地にあったのであるが、後に荒廃し、その証拠の、仏像を刻んだ二メートルの石塔が只一つ残り、その石塔は役行者(えんのぎょうじゃ)の塚であるとも、その法孫である日円の塚であるとも、あるいはこの大峰野辺で火葬された藤原道長の娘、三条天皇中宮藤原妍子(ふじわらのけんし)の火葬塚であるともいわれ、いまは金色の帳(とばり)が下がった小堂の中に納まっている。が、手前をフェンスで塞がれていて、その小堂に近づくことは出来ない。その金色の帳の下(もと)に供えられている、まだ首の垂れていない大輪小輪の菊の花の様子から、目を敷地の端で隣りの新築家の壁塗りをしている職人の手の動きに移して眺めていると、閉じた黒門の脇の出入り口から女の子どもが二人入って来て、その出入り口の板戸を押さえいた石で戸を閉じ、黒門の内に隠れるように身を低くする。子のひとりは、小さな赤いバケツを手に持っている。小堂の奥も残りの一方も家が建て込み、三方塞がりだった敷地は、この子ども二人に四方塞がりにされてしまう。門の外を、虫取り網を持った男の子どもが向こうを向いたままゆっくり通って過ぎて行く。子どものひとりが外に首を伸ばし、もうひとりがくすくす笑う。男の子どもが戻って来て、また門の前を過ぎて行く。隠れんぼの隠れる者は、その胸をときめかすのであろうが、見つける側の者には隠れる者にはない、どこへでも行くことが出来る自由があるにはあるのである。『今昔物語』の巻二十の第九の「天狗を祭りし法師、男に此の術を習はしめむとしたること」と題する話に大峰寺が出て来る。「今は昔、京に外術(ぐえずつ)と云う事を好みて役とする下衆法師有りけり。履(はき)たる足駄・尻切などを急(き)と犬の子などに成して這はせ、又懐より狐を鳴かせて出(いだ)し、又馬・牛の立てる尻より入(いり)て、口より出(いづ)など為(す)る事をぞしける。年来(としごろ)、此様(かくやう)にしけるを、隣に有りける若き男を極(いみじ)く▢(欠)ましく思ひて、此の法師の家に行きて、此の事習はむと切々(ねむごろ)に云ひければ、法師の云はく、「此の事は輙(たやす)く人に伝ふる事にも非(あら)ず」と云ひて、速にも教へざりけるを、男懃(ねむごろ)に「尚(なほ)習はむ」と云ひければ、法師の云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習はむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)人に知らしめずして、堅固の精進を七日して、浄く新しき桶一を儲けて、交飯(かしきがて)を極めて浄くして、其の桶に入れて、自ら荷(にな)ひ持て、止事(やむごと)なき所に詣で習ふ事なり。我は更に教へむに能(あた)はず、只其(そこ)を導く許(ばかり)なり」と。男、此れを聞きて、法師の云ふに随ひて、努々((ゆめゆめ)人に知しらしめずして、其の日より堅固の精進を始めて、注連(しりくへ)を曳(ひ)きて、人にも会はずして、籠居(こもりゐ)て七日有り。只極めて浄くして、交飯(かしきがて)を儲けて、浄き桶に入れたり。而(しか)る間、法師来て云はく、「汝ぢ実(まこと)に此の事を習ひ取らむと思ふ志有らば、努々(ゆめゆめ)腰に刀を持つ事なかれ」と懃(ねむごろ)に誡(いまし)め云ひければ、男、「刀を持たざらむ事安き事なり。難(むずかし)からむ事をそら、此の事にも懃(ねむごろ)に習はむと思ふ志有れば、辞(いな)び申すべきに非(あら)ず。況(いはむ)や刀差さざらむ事は難しき事にも非(あら)ざりけり」と云ひて、心の内に思はく、「刀差さざらむ事は安き事にて有れども、此の法師の此(か)く云ふ、極めて恠(あや)し。若(も)し刀を差さずして、恠(あや)しき事有らば、葢(かひ)しかるべし」と思ひ得(え)き、密かに小さき刀を返々(かへすかへ)す吉(よ)く鐃(と)ぎてけり。精進既(すで)に明日(あくる)日七日に満ちなむと為(す)る夕(ゆふ)べに、法師来たりて云はく、「努々(ゆめゆめ)人に知らせで、彼(か)の交飯(かしきがて)の桶を、汝ぢ自(みづか)ら持ちて、出立(いでたつ)べきなり。尚々刀持つ事なかれ」と誡(いまし)め云ひて去りぬ。暁に成りぬれば、只二人出(いで)ぬ。男は尚恠(あや)しければ、刀を懐に隠し差して、桶を打ち肩に持ちて、法師を前に立てて行く。何(いづ)くとも思(おぼ)えぬ山の中を遥々(はるばる)と行くに、巳(み)の時許(ばかり)に成りて行く。「遥かにも▢(欠)来たりぬるかな」と思ふ程に、山の中に吉(よ)き造りたる僧坊有り。男をば門に立てて、法師は内に入(い)りぬ。見れば、法師、木柴垣の有る辺(ほと)りに突(つ)い居て、咳(しはぶ)きて音なふめれば、障紙(しやうじ)を曳き開けて出(い)づる人有り。見れば、年老いて睫長なる僧の、極めて貴気(たふとげ)なる出(い)で来たりて、此の法師に云はく、「汝ぢ、何ぞ久しくは見へざりけるぞ」と云へば、法師、「暇(いとま)さぶらはざるに依りて、久しく参りさぶらはず」など云ひて、「此(ここ)に宮仕へ仕(つかま)つらむと申す男なむさぶらふ」と云へば、僧、「常に此の法師、由(よし)なし事云ひつらむ」と云ひて、「何(いど)こに有るぞ。此方(こなた)に呼べ」と云へば、法師、「出(い)でて参れ」と云へば、男、法師の尻に立ちて入(い)りぬ。持ちたる桶は、法師取りて、延(えん)の上に置きつ。男は柴垣の辺(ほとり)に居たれば、房主(ばうず)の僧の云はく、「此の尊(みこと)は若(も)し刀や差したる」と。男、「更に差さぬ」由を答ふ。此の僧を見るに、実(まこと)に気疎(けうと)く怖ろしき事限りなし。僧、人を呼べば、若き僧出(い)で来たりぬ。老いたる僧、延(えん)に立ちて云はく。「其の男の懐に刀差したると捜(さぐ)れ」と。然(しか)れば、若き僧寄り来たりて、男の懐を捜(さぐ)らむと為(す)るに、男の思はく、「我が懐に刀有り。定めて捜(さぐ)り出(いで)なむとす。其の後は我れ吉(よ)き事有らじ。然(しか)れば、我が身忽(たちまち)に徒(いたづら)に成りなむず。同じ死にを此の老僧に取り付きて死なむ」と思ひて、若き僧の既に来たる時に、密かに懐なる刀を抜きて儲けて、延(えん)に立ちたる老いたる僧に飛び懸る時に、老いたる僧、急(き)と失せぬ。其の時に見れば、坊も見えず。奇異(あさまし)く思ひて見廻(めぐら)せば、何(いづ)くと思えず大きなる堂の内に有り。此の導きたる法師、手を打ちて云はく、「永(なが)く人徒(いたずら)に成しつる主(ぬし)かな」とて、泣き逆(くか)ふ事限りなし。男、更に陳(のぶ)る方(かた)なし。吉(よ)く見廻(めぐら)せば、遥かに来たりぬと思ひつれども、早う、一条と西の洞院とに有る大峰と云ふ寺に来たるなりけり。▢(欠)男、我れにも非(あら)ぬ心地して家に返りぬ。法師は泣く泣く家に返りて、二三日許(ばかり)有りて俄(にわ)かに死にけり。天狗を祭りたるにや有りけむ、委(くはし)く其の故(ゆへ)を知らず。男は更に死なずして有りけり。此様(かくやう)の態(わざ)為(す)る者、極めて罪深き事供をぞすなる。然れば、聊(いささか)にも三宝(さんぼう)に帰依せむと思はむ者は、努々(ゆめゆめ)永(なが)く習はむと思ふ心なかれとなむ。此様(かくやう)の態(わざ)する者をば人狗と名付けて、人に非(あら)ぬ者なりと語り伝へたるとや。」昔京に、履物を仔犬に変えて地を這わせたり、懐から狐を取り出して鳴かせたり、立った牛や馬の尻の穴から口へ抜け出るような幻術を見世物にしていた悟りの乏(とぼ)しい法師がいた。隣りに住んでその幻術を目にする度に羨ましく思っていた男が、ある日法師を訪ね、頭を下げて教えを乞(こ)う。法師は、「容易(たやす)く教えらえることではない。」と断るが、若い男が尚も頭を下げると、「お前が心底教えを乞(こ)うのであれば、そのことをゆめゆめ人に公言してはならず、七日間慾を断って仏修行に徹した後、新しい桶を一つ用意し、中を浄めて粽(ちまき)を入れ、それを担(にな)ってさる尊い場所に参るがよい。私が出来るのは、その場所までの道案内である。」若い男は法師の言葉に従い、誰にも告げず、垂れ布を回して、仏修行一心の七日間を始める。用意したのは、新鮮な粽(粽)と洗い浄めた新しい桶である。その七日のある日、法師が来てこう云う。「お前が心から幻術を身につけたいと思っているのであれば、ゆめゆめ刀を身につけないように。」それを聞いて若い男は、「刀を持たないことなど何でもありません。たとえ出来そうにないことでも、私が本気で幻術を習いたいと思うのであれば、出来ないなどと云うことは許されませんし、刀を差さないことなどは、難しいことでも何でもありません。」と応えたのであるが、心の内にある考えが芽生えた。「刀を携えないことが、重大なこととは思わないが、この法師のもの云いは、どこか疑わしい。もし刀を持たずに不測の事態が起きたら、取り返しがつかないぞ。」若い男はそう思い、秘かに小刀を丹念に砥いで用意した。期限の仏修行が最後の一日となった日の夕方、法師が若い男の元にやって来てこう念を押した。「ゆめゆめこのことを他言せず、出発の時は粽(ちまき)の桶の仕度をし、くれぐれも刀だけは携えてはならぬ。」日の出の刻が来て、法師と若い男は出発する。若い男は刀を懐に隠し持ち、桶を肩から下げて、法師を先に立てながらその後ろをついて行く。どことも知れぬ山の中を遥々(はるばる)やって来て、九時も過ぎた頃、目の前に立派な僧坊が現れる。若い男を門の外に待たせ、法師が中に入り、小柴垣の傍(そば)で畏(かしこ)まったまま、咳払いをひとつしようとすると、その時障子戸が開き、睫(まつげ)の長い、高い身分を思わせる老僧が現れ、法師に、「お前は随分久しく顔を見せなかったな。」と云うと、法師は、「忙しくしておりまして、長々と参ることが出来ませんでした。」と応え、「こちらで修行し仕えたいと申しております男を連れてまいりました。」と云う。老僧は、「お前はいつもつまらぬことを云い出すものだな。」と云い、「その者はどこにいる、ここへ呼べ。」と云うと、法師が若い男に「こちらに参れ。」と声を掛けると、若い男は法師の後ろに続いて入って来る。法師は男から桶を受け取り、老僧のいる濡れ縁の上に置く。老僧が「この者は、刀を携えてているか。」と云うと、柴垣を背にしていた若い男は、「まったくそのようなものは持っておりません。」と応え、老僧を見れば、老僧は途轍(とてつ)もなく薄気味悪く、怖ろしい顔になっている。老僧は若い僧を呼び出し、「この者、刀を隠し持っているに違いない。懐を捜れ。」と告げる。若い僧が、若い男の元に寄って、その懐に手を伸ばす。若い男の中で思いが駆け巡る「懐の刀が見つかってしまうのはもう避けられない。そうなれば最早この身に好いことは起きず、私は無意味な存在になってしまう。どうせ死ぬのであれば、この老僧と差し違えて死のう。」そう思い、若い僧が懐に手を掛けるのを払って刀を抜き構え、若い男は、濡れ縁に立つ老僧に飛びかかっていった───。が、そこには誰の姿もない。老僧は、目の前から消え失せてしまったのである。それだけではなく、立派な僧坊も失せてなくなり、どうなってしまったのかと辺りを見廻すと、若い男はどことも知れぬ大きな堂の中にいるのである。傍(かたわ)らにあの法師が立っている。法師は、ハタと手を打ち、「人というものは、永遠に無意味な存在になるほかない。」と呟くと、血迷った如くに泣き崩れてしまう。それを見ても若い男は、何と云ってよいのか皆目分からない。外に出て改めて辺りを見ると、遥か彼方へ行ったつもりであったのが、若い男は、ほんの近くの、一条西洞院にある大峰寺に来ていたのである。若い男は、自分が自分でないような心持で家に帰り、法師も泣き止まぬまま家に戻ったのであるが、それから二三日で死んでしまう。天狗を徒(いたずら)に祭ったからとも思われたのであるが、死に至った本当の理由は分からない。若い男は、法師のようには俄(にわ)かに死ぬこともなく、法師のような幻術使いは、いづれにしても救いようのない罪深い事をするものだ、と思う。些(いささ)かでも仏に帰依しよと思う者は、ゆめゆめこのような幻術を習おうなどとは思ってはならない。幻術を使う者は、天狗と名づけられ、人にあらざる者である、と語り伝えたということである。身の不自由な者は、苦しくなって外に頭を出す。通りを見渡しても、二人を捜しているはずの男の子どもの姿はない。男の子どもは、今度は捜される側として、どこかに隠れているのかもしれない。あるいは、大峰寺で我に返った『今昔物語』の若い男のように、遊び相手を見失い、茫然と家に帰る途中であるのかもしれない。

 「シディ・ベリュオは野獣を馴らす術に優れていて、つねに獅子を玩(もてあそ)ぶ姿で知られていた。またシディ・アブデルラアマン・エル・メジュウブは碑文と預言に長けていたが、単に聖者であるはかりではなかった。精神に乱調を来たしていて、あらゆる知の根源と直接自然の交感をはたすことができた。」(「時に穿(うが)つ」ポール・ボウルズ 四方田犬彦訳 『優雅な獲物』新潮社1989年)

 「野口英世の記録ノート…『故郷』到着 ガーナから記念館に寄贈」(2018年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都府立植物園発行の、週刊植物園五月四日号の週刊見頃情報に、ハンカチノキの名があった。この木の名前に記憶はあったが、実物はまだ見たことがない。東京上野桜木に住まいのあった頃、休みの日に木蔭のベンチに座りに行った小石川植物園に、ハンカチノキが植わっていたが、花の時期は知らないままでいた。小石川植物園は、上野桜木から言問通を下り、本郷西片から白山通に抜けて自転車で二十分ほどのところにあった。「忘れ得ぬ他人と言えば、去年の秋梅雨のころのある日、傘を差して、小石川植物園の塀に沿うた道を歩いていると、いきなり「どこへ行くの。」と見知らぬ女に声を掛けられた。思わず「図書館。」と答えると、「あら、じゃ、いっしょに行きましょう。」と、女は恰(あた)かもこちらのことをよく知っているかのように近づいて来、並んで歩きはじめた。この物怖じしない素振りが私を不安がらせた。四十過ぎの、家庭の主婦とも思えない、化粧ッ気のない女である。足を速めると、女も足を速め、また元の歩調に戻すと、女も無言で合わせて来る。どうあっても付きまとうて来る気配である。図書館へ着くと、併(しか)し女は自然に別の本棚の方へ行ったのでほっとしていると、しばらくしてまた近寄って来た。厚い博物図鑑を私の前へ広げ、「この虫は食べられるでしょうか。」と言う。見れば、大きな芋虫の極彩色の絵が描いてあった。驚いて女の顔を見返すと、目を血走らせて、「いいえ、私たちは食べていました。」と言う。その切迫した物言いが、全身の毛が凍るほどに恐ろしかった。───私もまた「芋虫を食べて」生きて来たに相違なかった。」(車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂文藝春秋1998年)正式の名を東京大学大学院理学系研究所附属植物園であるという小石川植物園は、原生林のような林を持つ広大な敷地がコンクリートの塀で囲まれていて、北側の裏の塀は大人の手が届かない高さがあり、東と西は狭い坂道に沿ってうねり、南には共同印刷の工場があり、並ぶ民家の傍らのその下請け工場が、いつも山のように重ねた製本前の紙の束を軒先に晒しているところである。植物園の入り口は南東の隅にあった。白山通から西に坂を上って北東の角から東の坂を下れは、そのまま入口に着くのであるが、子どもがする遠回りのように反時計回りに、小庭のついた二階建団地や古い洋館風の学生寮が建つ裏道から、使い道の目途の立たない草の生えた広い空地の間の西の坂を下って、日の当たる南の塀へ曲がって行くのである。学校帰りの子どもの遠回りでは、初めて見る虫や景色と出会うかもしれないが、この塀沿いの遠回りには、新たな世界を見つけ出すということは、恐らくない。馴れた道にこそ発見の元(もとい)があるというもの云いは、型通りに使われればよい云い回しであり、この遠回りの心持ちにはむしろ邪魔になる。その植物園の大きさに時間を費やすだけの遠回りの心持ちというのは、変のない気安さである。道の気安さは、川原の土手にも、田圃道にも、山道にもあるかもしれない。が、この道は、片側に鬱陶しい塀が立ちはだかっているにもかかわらず、心持ちは気安いのである。塀に沿って自転車を漕いで行く時、視線の片側は遮られ続け、目に見えるのは塀によって半分にされた世界である。残りの半分は、塀が倒れることでもない限り、在ることで起こる諸々の一切に注意を向ける必要のない、ないも同然の世界である。そうであればこの気安さは、目の前の世界が半分になっていることで味わうということなのであろうか。ハンカチノキは、フランスの宣教師アルマン・ダヴィッドが、1860年代に中国四川省で見つけ、ダヴィディア・インヴォルクレイタと名づけられ、日本では、折って結わいた白いハンカチのような花の形からそう呼ばれている。京都府立植物園のハンカチノキは、三メートルほどの高さから葉の間にそのハンカチのような花を幾つも垂らしていた。丸い蕾のような花に下がった大小二枚の三角の花弁は、苞葉という葉であるという。木の下にはその白い苞葉が、捨てられたハンカチのように何枚も落ちている。その一枚を、ひとりの女が拾って、傍らの盲人の男の手に触らせた。女は三十前後、男は五十代である。二人の姿は、咲きはじめたバラ園でも見掛けていた。二人の口数が少ないのは、親子であるからかもしれない。女は、色は白と云った。生まれつき全盲の者は、色は分からない。その言葉は色を示さず、ノートの白やシーツの白や雪の白の感触を思い出すことだという。この盲人がハンカチノキを触るのが初めてであれば、この者の知る白色に、この花の感触が加わるのであろうか。盲人の男は花を女に戻し、女は元の木の下に屈(かが)んで置いた。盲人は意思があって植物園に来たのか、あるいは付き添う娘のような女に連れられて来たのかは、二人の様子では分からない。盲人は、植物も、その植物が生えている世界のすべてを見ることが出来ない。このことは、目が見える者がその目を閉じただけでは分からない。盲人も、目が見える者が塀によって世界が半分になる気安さは、恐らく分からない。が、盲人も手を触れながら塀を伝って歩くのであれば、その二度目には、気安さを覚えることがあるのである。

 「テレビが毎日歌や踊りやお話をしてくれる。こたつはとてもあたたかい。眠くなるとこのまま横になって寝る。いい人になろうと思う。いい人に為るといい夢ばかり出て来る。」(日本画家不染鉄から倉石美子に宛てた昭和四十年(1965)十二月六日消印の絵ハガキの言葉)

 「葛尾の復興拠点認定 22年春の避難指示解除目指す」(平成30年5月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西陣聖天雨宝院の庭の空を蔽うように枝を回(めぐ)らす赤松を「時雨の松」と呼ぶのは、幕末に参拝した久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)が雨に遭って、その下に宿ったからだという。その当時の名は中川宮であった久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、天保九年(1838)得度し、興福寺一乗院門主尊応(そんおう)となり、嘉永五年(1852)青蓮院(しょうれんいん)四十七世門主尊融(そんゆう)となり、第二百二十八世天台座主となるが、日米修好通商条約の勅許、あるいは徳川の世継ぎを巡り大老井伊直弼と意見を違え、安政六年(1859)の安政の大獄による相国寺桂芳軒での蟄居の命に、万延元年(1860)の桜田門外の変での直弼の死まで従い、還俗し中川宮を名乗って国事御用掛の身分となり、公武合体派の公卿として文久三年(1863)八月十八日の政変尊王攘夷派の長州藩を京都から追い出すのであるが、公武合体派が二度目の長州征伐に失敗し、徳川慶喜が身を翻して大政奉還すると、中川宮は、薩長主導で出来上がった明治新政府の流れに押し流されるように広島藩での遠方謹慎を明治五年(1872)まで強いられ、伏見家に復帰した後に一代宮家久邇宮を創設し、明治八年(1875)伊勢神宮祭主に就き、明治二十四年(1891)に世を去る。朝彦親王の子の邦彦親王の娘が昭和天皇香淳皇后であり、朝彦親王今上天皇の曽祖父である。七宝作家並河靖之は弘化二年(1845)川越藩松平大和守家臣高岡九郎左衛門の三男に生まれ、安政二年(1855)親戚の青蓮院坊官職の並河家の養子となって家督を継ぎ、入道尊融親王の近侍として相国寺の蟄居、広島での謹慎に同行し仕えるのであるが、維新後の、流れから外れた親王への仕えでの収入は低く、兎、鶏を飼い、団扇の骨作りなどの商売を起こすも悉(ことごと)く失敗し、宮家仕えの同僚桐村茂三郎に誘われ、明治六年(1873)自宅で七宝業を始めるのである。その二年後に国内博覧会で賞を受け事業が軌道に乗ると、並河は職人を奪い去られる裏切りを桐村から受ける。いつの世にもある話である。仕切り直した並河の次の試練は、輸出した製品の質の低下である。断腸の思いで五十余人の職工をすべて馘にし出直した結果は、明治十七年(1884)ニューオリンズ万国博覧会一等、明治二十二年(1889)パリ万国博覧会金賞、明治三十三年(1900)パリ万国博覧会金賞、明治三十七年(1904)セントルイス万国博覧会金賞である。パリ万博の栄誉で売れた金で並河は、明治二十六年(1893)住まいと工房を新築する。その住まいには幾人もの外国人が直接買い付けに来るほどであったのであるが、大正三年(1914)に第一次世界大戦が始まると、七宝工芸品を欲しがる者は世界から瞬く間に消えて仕舞う。七宝工芸品のほとんどは海外が市場の輸出品であり、値の高さから日本人が買う品物ではなく、日本人が手にするのは国表彰の副賞としてであった。七宝工場は、大正十二年(1923)に閉鎖され、並河は昭和二年(1927)に世を去る。京都日出新聞の訃報記事は並河を、「勲章の製造家」と書いた。明治三十九年(1906)、政府賞勲局から勲章製造の命を受け、東京に工場を開いていたのである。娘婿が継いだその工場も、並河の死の二年後に役目を終える。七宝作家ではなく、勲章の製造家として忘れ去られていった並河の作品の大半は海外にあり、日本にあるものは、並河が手放さず残しておいたものだけであるという。銀製の壺があり、漆黒の地に幾本もの藤の花房が垂れ下がっている。その花弁の一枚一枚の輪郭は、リボン状の金線を立てて描くように折り曲げたものであり、その色は微細なその枠にガラス質の釉薬を乗せて焼き付け、幾度も磨いたものである。この技が空前絶後なのである。それまで見たこともない並河の技に世界は驚き、並河の死の後、これを超える技の七宝は生まれていない。この有線七宝と呼ばれる技法は、その表現の制約の故(ゆえ)に、細密緻密な花や蝶の絵柄はすべて死に絵に見える。そう見えざるを得ない七宝の性質の故に、並河はその技法を極限まで至らしめたのである。東山にある並河の作品とその下画を展示する並河靖之七宝記念館は、並河が建てた当時の住まいであり、工房であり、来客との商談の場所である。並河は外国人客のため、鴨居の高さを通用の五尺七寸から六尺に変えたという。二方のガラス障子から見渡すことが出来る庭は、七代目小川治兵衛の作である。「三条北白川裏白川筋に在り其地は広からされとも奇巨巌を畳み池を作り、中島を築き石橋を架し囲むに古樹名木を以てし遠く疎水の水を引き滝を造り、淙淙として緑樹の間より瀉ぎ下る池水清澈遊鱗溌溂濠梁の思いあり庭中岩石並燈籠等に優物多し」(『京華林泉帖』京都府1909年刊)目を見張るのは、飛び石と二枚の沓脱石と、舟の形をした手水鉢の巨大さである。池に迫(せ)り出す二方の畳廊下は水面に浮かぶ石に柱を支えられ、沓脱石の傍らの舟形の手水鉢の下もまた床下を深く掘り抉(えぐ)られた底から石柱で支えられ、そこには水は無く、その床下には青い大きな石が潜むように据えられている。林のように木が繁り、木の間から池が覗き、その池の水の上に浮かぶかのように住まいが建てられ、沓脱石の大きさは恐らくその重しの役目をなし、水を湛えた舟形の手水鉢が涸れた穴の上に浮かんでいる様(さま)は、外国人客の興味驚きを誘(いざな)う仕掛けでもあろうが、七宝の息苦しい不自由な美とは相容(い)れない、並河の自由をここに見るのである。「人間の身の上は分からぬもので、維新前には異人の首を斬ってやろうと威張ったものが、今は其異人から金を取ることを商売にするようになりました。」と並河は云っているが、この言葉は並河の何かを伝えるものではない。久邇宮朝彦親王の身の回りの雑用係から、世界の富豪の財布の紐を解かせる美の技を身につけたにもかかわらず、世の移ろいに遂には誰からも忘れられた男が、並河靖之である。並河靖之七宝記念館はその京町家の住まいをそのまま使い、通り庭と呼ばれる、玄関からそのまま奥の庭に抜けることが出来る土間の炊事場には、京に暮らす者の張りつめた空気と、忘れられたこの男に対する血を受け継いだ身内の温(ぬく)もりが残っている。輸入ガラスを嵌めた時代もののガラス障子の汚れのなさは、世に忘れられた男を身内に持った一家の誇りに違いないのである。

 「先日、田舎の友人が魚つりに来いといつて手紙をよこした。但し「山は招く、川は招く。ヤマベ、白ハヤ、一日に二百尾は確実。酒は純日本酒、吟醸の…」といふやうな手紙であつた。私はそれを読んだとき法螺だと思つたが、日がたつて行くにつれ、どうも法螺ではないかもしれぬと思ふやうになつた。それで先日その友人に前もつて電報を打ち、つりの仕度をととのへて私は出発した。」(「レンゲ草の実」井伏鱒二井伏鱒二全集 第十一巻』筑摩書房1998年)

 「福島第1原発に外国人実習生 管理区域外6人、東電方針を逸脱」(平成30年5月2日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 御衣黄(ぎょいこう)はソメイヨシノに遅れて咲く桜であるが、その際立つ特徴は、花弁の色にある。御衣の黄、とは朝廷の貴族らが着るものに好んだ萌黄であり、花弁がその萌黄のような薄緑をしているからであるが、この桜を知った者は萌黄桜とも緑桜とも名づけず、御衣黄と呼ぶようになった。御衣黄は、蕾から花弁が開いて数日はその萌黄に近い色をしているが、次第に薄緑を無くしてゆき、外に一枚一枚の身の端を丸めながら淡い黄色味の残る白色になり、同時に芯の底から紅色が滲(にじ)み上がり、星のように見える筋を花弁に作る。西陣の雨宝院(うほういん)に、その御衣黄の木がある。雨宝院は町中の小さな寺であるが、弘法大師空海の創建であるという。空海の祈禱で病癒えた嵯峨天皇が己(おの)れの別荘時雨亭を譲り渡し、空海はそれを雨宝堂と名づける。どちらの名にも雨の字があるが、雨宝は、祀った雨宝童子の名である。雨宝童子は、天照大神が日向の世に現れた十六歳の姿であるといい、ここでいう天照大神は、大日如来が姿を変えて現れたとする神である。雨宝は法雨の転化で、法雨は、雨のように遍(あまね)く人の心を潤す仏の教えである。左手に宝棒、右手に宝珠を持つ雨宝童子は、十六歳の力とその知恵を表す自信と不安の姿であり、恐らくは常に立ち戻るべき姿である。十六歳の少年は、己(おの)れの力で降らせるはずの雨を待っている。窓辺で雨が上がるのを待つのは、下の歳の少年である。雨宝院は、晴れの日でも、狭い境内いっぱいに枝を伸ばす桜や松や地の幾種もの花のせいで、雨の日のように薄暗い。その狭い中に本堂、大師堂、不動堂、稲荷堂、庚申堂、観音堂が棟を寄せ合い、願いを持って秘かに縋(すが)る近くに住まう者の、まずその秘かなる信心に足る寺の様子として、繁茂する草木は人目を憚(はばか)るその薄暗さを保っているのである。雨宝院の本尊は、象頭人身の歓喜天(かんぎてん)である。歓喜天は、悪神がその欲望のゆえに、欲望を満たすために善神と交わり、遂には仏法を守護する者となった神である。十六歳の雨宝童子の名を持つこの寺は、この歓喜天秘仏をその懐(ふところ)に隠し持つが故(ゆえ)に、愈々(いよいよ)寺の秘かさは本物として参る者を説得させるのである。今年の陽気は京都の桜を早く開かせ、この日見た雨宝院の御衣黄も、半ば以上すでに花を落とした姿だった。八重の御衣黄ソメイヨシノのように花片(はなびら)を散らさず、花の姿のまま地に落ちる。枝の上での十日余りの色の変化を見過ごした、紅の滲(にじ)む花が幾つも木の下に落ちている。落ちた花は、死に花であろうか。枝に葉を出し尽くせば、後(あと)は長く退屈な時間が待ち受けているばかりである。それは何も、この御衣黄に限ったことではないが。

 「東の國の博士たちはクリストの星の現はれたのを見、黄金や乳香や沒薬(もつやく)を寶(たから)の盒(はこ)に入れて捧げに行つた。が、彼等は博士たちの中でも僅(わず)か二人か三人だつた。他の博士たちはクリストの星の現はれたことに氣づかなかつた。のみならず氣づいた博士たちの一人は高い臺(だい)の上に佇(たたず)みながら、(彼は誰よりも年よりだつた。)きららかにかかつた星を見上げ、はるかにクリストを憐れんでゐた。「叉か!」」(「西方の人 7博士たち」芥川龍之介芥川龍之介全集第九巻』岩波書店1978年)

 「「廃棄物貯蔵施設」秋にも着工 大熊と双葉、19年度運用開始へ」(平成30年4月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 『宇治拾遺物語』に「聖宝僧正(しやうぼうそうじやう)、一条大路渡る事」と題して次のような話が載っている。「昔、東大寺に、上座法師の、いみじくたのもしきありけり。つゆばかりも、人に物与ふることをせず、慳貪(けんどん)に罪深く見えければ、そのとき、聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、惜しむ罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆(だいしゅ)に僧供(そうぐ)引かん」と言ひければ、上座思ふやう、ものあらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんも、よしなし。さりながら、衆中にて、かく言ふことを何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじきことを思ひめぐらして言ふやう、「賀茂祭の日、ま裸にて、たふさぎばかりをして、干鮭太刀にはきて、やせたる牝牛に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『われは東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて、渡り給へ。しからば、この御寺の大衆より下部(しもべ)にいたるまで、大僧供(だいそうぐ)引かん」と言ふ。心中に、さりとも、よもせじと思ひければ、かたくあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、鐘打ちて、仏に申して去りぬ。その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集まりぬ。上座もありけり。しばらくありて、大路の見物の者ども、おびたたしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出(いだ)して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部(わらはべ)つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。その年の祭りには、これを詮(せん、一番の見もの)にてぞありける。さて、大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。このこと、帝(みかど)きこしめして、「聖宝はわが身を捨てて、人を導く者にこそありけれ、今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて、召し出(いだ)して、僧正までなしあげさせ給ひけり。上(かみ)の醍醐は、この僧正の建立なり。」聖宝のまだ若い時分、けちで欲深い東大寺の寺務頭の法師に、どうすれば衆徒にものを恵んでくれるかと挑み、上座法師は出来そうもない提案、賀茂祭でふんどしに干鮭を差して牝牛に乗り、己(おの)れを名乗って行けと聖宝に示すと、当日聖宝はそれを実行して上座法師の目論見は外れ、聖宝は、心動かされた帝から僧の最高位である僧正の位を貰う。この帝は、宇多法皇であり、宇多法皇の第一皇子が醍醐天皇である。この醍醐の名は、その埋葬場所に近い醍醐寺からつけられた諡号(しごう)であり、醍醐寺は聖宝が笠取山に開いた寺である。醍醐天皇の世を「延喜の治」として、天皇親政の理想とされ、その両輪となっていたのが左大臣藤原時平と右大臣菅原道真である。藤原時平は、関白藤原基経(もとつね)の長男であり、基経の娘の穏子(おんし)は醍醐天皇中宮である。醍醐天皇の皇太子となった第二皇子保明親王(やすあきらしんのう)と、保明親王の死後三歳で皇太孫となった時平の娘仁善子との間の保明親王の第一皇子慶頼王(やすよりおう)も、皇太孫のまま醍醐天皇から天皇を引き継ぐことなく五歳で死亡する。時平は、政治手法の合わない学者道真が、醍醐天皇を退けた後宇多法皇の第三皇子であり己(おの)れの娘婿齊世親王(ときよしんのう)を皇位につけようとしていると、醍醐天皇に讒言(ざんげん)し、道真はその嘘によって太宰府に弾き飛ばされ、怨死する。この死後の、時平の血を引く二人の皇太子孫の死が、この道真の祟りとされたのである。世継ぎは、国家の一大事である。醍醐天皇が縋(すが)ったのが、真言修験者聖宝であり、聖宝が上醍醐に祀った准胝観音(じゅんていかんのん)である。斯(か)くして保明親王の死と同じ年、中宮穏子の腹から後の朱雀天皇となる寛明親王(ゆたあきらしんのう)が生まれ、村上天皇となる成明親王(なりあきらしんのう)が生まれる。醍醐天皇は二人の子の誕生を、聖宝と聖宝を継いだ弟子の観賢の祈禱によるものあると思わぬはずはなかった。下醍醐の金堂の裏に、長尾天満宮という社(やしろ)がある。ここには菅原道真が祀られ、境内の衣装塚には道真の衣装と遺髪が納められているといい、生前道真がこの場所を己(おの)れの墓所にするよう聖宝に望んでいたからだといわれている。醍醐天皇は道真の死後、道真を右大臣の位に戻した。が、道真の怨霊は鎮まらなかった。朝廷が道真を祀る北野天満宮を建てるのは、延喜三年(903)の道真の死から四十四年後である。醍醐の花見は、慶長三年三月十五日(1598年4月20日)豊臣秀吉下醍醐に新たに七百本の桜を植えさせ、家人、諸大名の女房ら千三百人と宴を張ったものである。招待を受けた大坂城北政所は、秀吉に次のような文を書き送っている。「一筆申し上げまいらせ候、この春、醍醐の春にあひ候へとの御おとづれ、こよのう御うれしく存じまひらせ候。誠にうつしえの花にのみ、としどし山家の花をながめ、春を暮し侍りつる。あさからぬ御さたどもいとめでたく存じ候。局々もめしつれ候へのよし、積もりぬ鬱々を醍醐の山の春風に散らしすてんこと、おさおさしき恩風にてこそ候へ。」朝鮮に戦さを仕掛けて膠着した「積もりぬ鬱々」を抱えた天下人秀吉は、この年の八月にこの世を去る前に、花見ぐらいしか思いつくことはなかった。醍醐寺はこの花見を機に、秀吉秀頼の金で伽藍の再建を果たし、いまは人波が出来るほどの花見客が訪れる。空のよく晴れたこの日も、下醍醐の境内は人で溢(あふ)れ返っていた。白壁の築地の内の並木の桜は、見られることに馴れた枝の様(さま)で咲き誇り、老木はどれも黒々と見事な枝振りであるが、権力を持った手で撫で育てられ身についた傲(おご)りのようなものを、その満開の立ち姿に漂わせている。麓の下醍醐から四百五十メートル余の高さの上醍醐まで、大人の足で六十分掛かるという。醍醐の桜を見に来た者で、上醍醐まで足を伸ばす者はほとんどいない。上醍醐への登り道は、人の手が入っているが、途中のガタのきた険しい石段は、登り馴れない者には、油断ならないものである。自販機で水を買った時、入山受付の男が、「上に着いたら醍醐水がありますよ。」と声を掛けた。途中で二、三度ペットボトルの水を口にする。どこやらで鶯の啼く声がして、山を下りて来る二組の者らとすれ違う。下から登って来る者の姿はなく、辺りに桜は生えていない。登りつめた所から緩い下りと上りを過ごすと、上醍醐の域に出る。斜面を削って散らばるように建つ清瀧宮拝殿、清瀧宮本殿、准胝堂、薬師堂、五大堂、如意輪堂、開山堂が上醍醐の伽藍の全てであるが、聖宝が醍醐天皇の子授けを祈った、醍醐寺の元(もとい)である准胝堂は、平成二十年の落雷で堂も准胝観音も焼失し、草の生えた空き地があるだけだった。この空き地の下が、馬蹄の形に掘り削られた醍醐水の湧く所である。水の湧く所の上に、祈禱場所を置くことに恐らく修験者聖宝の意味があった。ここへ登らなければ、水を飲む喉の実感のように、その意味は分からない。下醍醐の、醍醐天皇を弔う国宝五重塔の建造は、朱雀天皇からその弟村上天皇に引き継がれ、天暦五年(951)落成を見たのであるが、その発案は、醍醐天皇の第三皇子代明親王(よしあきらしんのう)であるという。代明親王の母親は、醍醐天皇の更衣藤原鮮子で、両天皇の腹違いの弟である代明親王は、皇太子にならなかった。菅原道真を祀る長尾天満宮の鳥居の奥は、人姿もなくひっそりしていた。

 「しかし見送りだの、別れの挨拶だのが、いかに日常生活の中でフィクティヴな習慣だとしても、そういう虚構のなかでしか見られない真実があることもたしかではないか。私たちは外国を旅行して何かその国のことがわかったりはしない。ただ、その国の人との別れ際に起す感情の重い手ごたえ、それも国と国とが隔てられていればいるだけ重くなって感じられるその手ごたえ、これは外国を廻ってわれわれが得られる見聞のなかで唯一の確かなものではないだろうか。」(「ソビエト感情旅行」安岡章太郎安岡章太郎全集Ⅶ』講談社1971年)

 「夜の森に力強い舞い…笑顔『満開』 富岡で桜まつり、町民ら再会」(平成30年4月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生。桜の花開くこの時期に、この句のような光景はそこここで見ることが出来るであろうが、このように見たとしても、誰でもがこのように言葉に出来るわけではない。見たままを詠めとする写生俳句は、詠む者を試すように、穴の開くほど見よとして、その真意は明かさず、自(おの)ずと見えて来るものが真意の答えであると、気の長い構えこそを佳しとし、知識を仕入れていち早く真意を見極めようとする者を軽蔑する。が、俳句に対してこのように身構えることを嫌う者は、例えば次のような句を作る。枝垂桜わたくしの居る方が正面 池田澄子。この句には、恐らく複数の者らで行ったであろう花見の場面が閉じ込められている。およそどうでもいい桜の正面というものを、このように詠む疎(おろそ)かに出来ぬユーモアは、偏(ひとえ)に作者の直観から生まれたものである。風生の俳句には、このようなユーモアははじめからない。青空から直(じか)に足元の地面に垂れ下がる枝垂桜は、その大きさで風生を圧倒し、この「空より」という云いは、世に住む限り逃れることの出来ない天上から下り来るものとして、見る者に畏れと歓喜を抱かせているのである。今出川通寺町通は、御所の北東で交わるのであるが、その交叉した寺町通を上った所に、広布山本満寺があり、その境内にある一本の大きな枝垂桜の散り初めの姿を、入れ替わり立ち代わり人が囲んでは、その枝ぶりを見上げていた。樹齢九十年というその桜は、狭い庭を覆うように容(かたち)佳く枝を八方に垂らし、風が来ると、遅れて揺れる枝が庭一面に花片(はなびら)を撒(ま)き散らし、小さい子どもが握って取った花片を若い母親に示して見せる。本満寺の境内の半分は墓地で、残りの二割は貸し駐車場になっている。墓地の入り口の子院一条院の門の横と、L字の駐車場にもソメイヨシノが一本ずつ、満開の白い花をつけているが、寄って見る者の姿はない。境内の隅の鐘楼の縁に座ると、その両方が見え、背を向けた方にある枝垂桜の賑やかさから遠く隔たった場所のように日が当たっていて、そのがらんとした平凡な景色は、どこかで見たことのある景色を呼び起こし、この景色がそのいくつかのかつて見た景色の組み合わせのようであるならば、それは夢の中で見る景色と同じであり、柔らかな風が吹いて来ると、ますますそのようにも見えて来るのである。平凡な場所に咲く桜ほど、人に胸を衝く思いをさせるものはない。寺町通に、古い木造の屋敷が売りに出ていた。その木戸の隙から若い桜の木が見えた。これも胸を衝かれる光景である。

 「タブーによって神聖化された慣習的行動様式が破壊される度合いに応じて、人々はどこからどこへ世の中が流れるのかを自分で見きわめ、多様な進路の前に自主的な選択を下さざるを得なくなる。外的権威にかわって、今や内的な理性が判断と選択のよるべき基準となる───というより特定の状況に絡めとられていた「道理」が閉じた社会体制から剥離されて、一般的抽象的理性に昇華する。」(丸山眞男『忠誠と反逆』筑摩書房1992年)

 「楢葉仮設住宅「無償提供」終了 全域避難7町村初、生活再建へ」(平成30年4月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 謡曲「東北」は、とうぼくと読む。世阿弥元清の作である。京に上った東国出の三人の僧が、京の鬼門に当たる北東の地に建つ寺、東北院(とうぼくいん)に咲く梅の香に誘われやって来る。東北院は、三人の娘を次々に天皇に嫁がせて世の頂点を極め、死後浄土に取り憑かれた藤原道長建立の法成寺の、その長女彰子発願の法華三昧堂の名であり、その位置もまた境内の艮(うしとら、北東)に当たっていた。彰子は一条天皇中宮であり、子は後一条、後朱雀天皇となり、紫式部和泉式部(いづみしきぶ)らが仕え、一条天皇の死後落飾し、上東門院(じょうとうもんいん)と名乗り、東北院を住まいとした。東国の旅僧三人が目にしている東北院は、道長の法成寺の伽藍がすべてこの世から消え失せた後にも残った寺である。旅僧が、寺の門前の者に問う。「このあたりの人のわたり候か。」「このあたりの者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ぞ。」「これは都初めて一見のことにて候。これなる庭に色美しき梅花の候。名の候か教へて給はり候へ。」「さん候。あれは古(いにしへ)和泉式部の植ゑ給ひしにより即ち梅の名も和泉式部と申し候。心静かに御一見候へ。」梅の木の名を和泉式部であると教えた門前の者が去ると、僧らの前に今度は里の女が現れ、その名は和泉式部ではないと云う。「先づこの寺に上東門院の住ませ給ひし時、和泉式部はあの方丈の西の端を休み所と定め、この梅を植ゑ置き軒端の梅と名づけ、目がれせず眺め給ひけるとなり。」名は違っても、梅の木は和泉式部が植えたものに間違いない。「げにげに聞けば古(いにしへ)の、名を残し置く形見とて、」「花も主(あるじ)を慕ふかと、」「年年(としどし)色香もいや増しに、」「さもみやびたるその気色、」「今も昔を、」「残すかと、」言葉を掛け合わすうちに、旅僧は、里の女に思いを寄せてゆく。里の女が云う。「露の世になけれども、この花に住むものを。」私はすでにこの世にはなく、霊として梅の花に住んでいる。そして「われこそ梅の主(あるじ)」と云うと、夕暮れに染まった梅の花の陰に隠れるようにその姿が見えなくなる。旅僧らは、里の女こそは和泉式部の霊であると確信し、夜梅の木の傍らで、その霊に捧げる法華経を読誦していると、里の女から姿を変えた和泉式部が現れる。「あらありがたの御経やな。唯今(ただいま)読誦し給ふは譬喩品(ひゆほん)よのう。思ひ出でたりこの寺に、上東門院の住ませ給ひし時、御堂関白(藤原道長)この門前を通り給ひしに、御車の内にて法華経の譬喩品を高らかに読誦し給ひしを、折節式部この御経の声を聞いて、門(かど)の外(ほか)、法(のり)の車の、音聞けば、われも火宅(かたく)を出でにけるかなと、かやうに申したりしこと、今の折から、思ひ出でられてさむらうぞや。」『妙法蓮華経』譬喩品(ひゆほん)第三に、「国・邑(むら)・聚落に大長者有るが若(ごと)し。その年は衰え邁(お)い、財富は無量にして、田・宅及び諸(もろもろ)の僮僕(どうぼく)を多く有せり。その家は広大なるに、唯一つの門のみ有り。」とはじまるたとえ話がある。その軒の傾いた古い家に突然火が起こり、長者の大勢の幼い子どもだけが中に取り残されて仕舞う。が、子どもらは、長者の叫ぶ声も火事の状況も何も分からず、楽しそうに遊び、走り回っている。長者は案じ、門の外に子どもらが欲しがっている羊車や鹿車や牛車があるから、早く出て来るように中に声を掛ける。と忽(たちま)ち子どもらは燃える家、火宅から競って飛び出して来た。長者は、約束した通り、どの子どもにも風のように走る宝の車を与えた。「諸(もろもろ)の菩薩及び声聞衆とこの宝乗に乗じて、直ちに道理(さとりの壇)に至らしむ。この因縁をもって、十方に諦(あきら)かに求むるに更に余乗無し。仏の方便をば除く。」和泉式部は、冷泉天皇中宮だった太皇太后昌子内親王の役人、大江雅致とその女房だった母の間に生まれ、大江雅致と関係のあった和泉守橘道貞と結婚し、娘小式部をもうけたが、陸奥守となった道貞は、和泉式部を捨てる。理由は、冷泉天皇の第三皇子弾正尹為尊親王(だんじょうのいんためたかしんのう)との恋愛関係にあるとされ、二十六歳で為尊皇子が死亡すると、その弟である第四皇子太宰帥敦道親王(だざいのそちあつみちしんのう)と関係が出来、召人として宅に入り一子をもうけるが、敦道親王も二十七歳で死亡し、その宅を出た和泉式部は上東門院彰子に仕え、後に藤原道長の家司、藤原保昌と再婚する。君恋ふる心は千々にくだくれどひとつも失せぬものにぞありける。物おもへば沢の螢も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる。暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月。これらの和歌は、和泉式部が秘かに書き残したものではなく、読み手があるものとして詠んだものであり、その読み手は、目の前の読み手だけを思い描いていない。平安時代に生きた和泉式部の和歌は、室町時代世阿弥の心にも届き、世阿弥和泉式部の霊の口から、「門(かど)の外(ほか)法(のり)の車の音聞けばわれも火宅を出でにけるかな」と歌わせたのである。和泉式部の霊の云いを聞いて、旅僧は云う。「げにげにこの歌は、和泉式部の詠歌ぞと、田舎までも聞き及びしなり。さては詠歌の心の如く、火宅をば早や出で給へりや。」「なかなかの事火宅は出でぬ、さりながら、植ゑ置く花の台(うてな)として、詠み置く歌舞の菩薩となって、」「なほこの寺にすむ月の、」「出づるは火宅、」「今ぞ、」「すでに、」そのすべてに仏性が宿るとする自然を詠む和歌というものは、「法身説法の妙文」であり、その和歌を極め、色恋に迷う者を癒し救う功徳によって和泉式部は火宅、煩悩苦痛の三界を出て「今ぞ、」「すでに、」菩薩となった。世阿弥和泉式部にそう語らせる。が、和泉式部は云う。「げにや色に染み、香に愛でし昔を、よしやな今更に、思ひ出づれば我ながら懐かしく、恋しき涙を遠近人(おちこちびと)に、洩(も)らさんも恥ずかし。」旅僧らの前で舞いを舞う、和泉式部の心の様(さま)は、梅の匂いに思わずも火宅の内にあった頃を思い懐かしみ、和泉式部はその菩薩となった目から涙を零(こぼ)したのである。「これまでなりや花は根に、鳥は古巣に帰るとて、方丈の燈火(ともしび)を、火宅とやなほ人は見ん。こここそ花の台(うてな)に、和泉式部がふしどよとて、方丈の室に入(い)ると見えし。」舞い終えた和泉式部が、夜の明かりが点る方丈に入ってゆく。この世を火宅と思い住み暮らしたその方丈へ、菩薩となった和泉式部が戻ってゆくとは、どういうことか。涙を零した菩薩が、人に戻るということではない。人に戻ることが出来ないことで、和泉式部という菩薩は涙を零したのであるから。東北院はたびたび被災し、いまは吉田神社のある神楽岡の東に、小寺として残っている。境内に白梅の古木があり、謡曲「東北」に因(ちな)んで元禄に植えたものであるという。謡曲「東北」は、この白梅に宿ることはないが、物語りは語られるために、この白梅を必要とするのである。庭の荒れた東北院は、人の入山を許さず、白梅は花をつけていたが、かいだのは、崩れかけの山門からはみ出た沈丁花の匂いだった。

 「娘は鉄柵にしがみついて、テレビから眼を離そうとしない。私は背中の赤ん坊の重さにその場に腰かけてしまい、路地とガラス窓とに隔てられたテレビの画面に見入った。賑やかな番組だった。見ているうちに、出演者の一人が妙な具合に体をくねらせだした。テレビの前に坐っている家族の笑いだすのが見えた。私も、なんとなくおかしくなり、笑った。」(「幻」津島佑子『黙市』新潮社1984年)

 「「古里壊滅…変わらない」 いわき原発訴訟、原告は救済不十分」(平成30年3月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)