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 平安京の東西の通りの一つ、四条坊門小路が蛸薬師通(たこやくしどおり)という名に取ってかわられたのは、通りの東の外れに蛸薬師堂が建った天正十九年(1591)より後のことであるが、その天正十九年には、豊臣秀吉の命で室町通姉小路の北にあった円福寺が、この蛸薬師堂の建つ地に移転し、その同じ年にこの薬師如来を本尊とする永福寺が円福寺に合併し、その子院となっている。が、いま蛸薬師堂に円福寺の名は見当たらない。円福寺は明治十六年(1883)、蛸薬師をここに置き去りにして、三河国額田郡岩津村に移り、その同じ地にあった岩津城主松平親則菩提寺妙心寺が檀家を置いて、居抜きとなった円福寺の空き家に移って来たのである。この蛸薬師堂と円福寺の元の場所は地名として残っている。地図を見れば、二条通とその一つ南の押小路通の間に蛸薬師町、その一つ南の御池通と次の姉小路通の間に円福寺町とあり、二つの町の真ん中を室町通が南北に通っていて、この二つの寺の位置が近かったことが分かる。が、その近さが合併に関わることなのかどうかは分かっていない。現在の妙心寺子院、蛸薬師堂の正式名は、浄瑠璃山林秀院永福寺である。その寺の伝えでは、この名にある林秀という名の者が、剃髪して比叡の薬師如来に参り、老いてその月参りが困難になり、養和元年(1181)、薬師如来に身の傍(そば)で拝める薬師仏を願うと、夢で薬師仏のありかを知らされ、そのお告げの場所で掘り出した石の薬師如来を、林秀は堂に祀る。時経(た)って建長(1249~1256)の頃、僧侶善光が、寺に引き取った病気の母が云った「好物の蛸が喰いたい」の願いを叶えるため、忍んで魚屋で蛸を買うが、見咎(とが)められ、母の病気のためであることをもってその薬師如来に念じ、箱の蓋を開けると、中の蛸のその足が八本の経巻に変身したのだという。別の話がある。林秀が薬師如来を祀った堂が水沢の近くだったため、沢の薬師、沢薬師(たくやくし)と呼ばれるようになった。もう一つは、蛸屋の家の土間に夜な夜な光るものがあり、掘り出すと碓(うす)の壺石で、そこに薬師像が浮かび上がっていた。病気の母の好物が蛸でなくても、魚をタブーとするこの坊主の話は成立する。恐らく語りのはじめにタク、タコの言葉があった。蛸薬師堂の前の、新京極通を上ったところに誓願寺がある。この二つの寺の移転合併の頃の誓願寺の住持は、落噺(おとしばなし)、落語の祖安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)である。タクが蛸になっても蛸薬師の物語りは、世の中に落語のように受け入れられたのである。生臭いのは、円福寺妙心寺の入れ替わりである。『京都大事典』(淡交社1984年刊)は、このことを二つの寺同士が「寺名・寺歴を交換した。」と述べている。居抜きどころではない。奇妙で滑稽な話である。僧侶善光の母は、語りによれば、蛸を喰わなかった。が、病は癒えた。善光が経を唱えると、経巻から姿を戻した蛸が光を発し、その光を浴びて、善光の母は病いが治ったのである。

 「はじめて聞いた。いはれを聞かされても、どうてえことないけど。」(石川淳狂風記集英社1980年)

 「改正福島特措法が成立 帰還困難区域内に「復興拠点」」(平成29年5月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鳶尾草(イチハツ)や一椀に人衰へて 綾部仁喜。鳶尾草はアヤメを小ぶりにしたようなアヤメ科の花であり、アヤメよりも早く、水のないところに、いま頃の時期に咲く花である。俳句はこの鳶尾草の花、あるいはイチハツという言葉に、人が衰えるというありきたりな様子を並べるのであるが、「一椀に」という言葉は、この俳句をありきたりにさせていない。たとえば、一椀分の食事も摂(と)れないほど食欲が衰えるという切実さは、誰の身にも起こり得る。あるいは、一つの茶碗を使い続けて、ある日ある時その割れもせぬ茶碗に比べ、自分の心身の衰えを自覚するということもあるかもしれない。あるいは、理想の椀、碗を追い求め、その椀、碗を作り得たか、作り得ぬまま肉体が衰えるに至った者を云い表わしたとすれば、俳句はありきたりである。毎日来る日も来る日も、一椀分の飯を食べ続けてきて、いま己(おの)れの身に衰えがやって来た。一椀は食事の単位であり、一杯の飯を食べ続けてきたことで、こうして生き延びたのであり、生き延びたことで、己れの衰えを味わうことになった。衰えを味わうことが出来るほど、その者は生きることが出来たのである。「一椀」は、生きるための必要な単位であり、生きることの持続を、俳句作者は「一椀」という単位に託したのである。衰えは変化である。人の衰えは死に向かうが、その変化を面白いと受け止めよ、という思いが「一椀に」の「に」に込められているのではないか。兄桓武天皇に、藤原種継(たねつぐ)暗殺への関わりを疑われ餓死自殺し、「怨霊」となった早良親王(さわらしんのう)は、洛北上高野の崇道神社(すどうじんじゃ)に、崇道天皇と諡(おくりな)を貰い、桓武天皇の命で祀られているが、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)にも早良親王は、怨霊神として祀られている。上御霊神社には、早良親王のほか、桓武天皇との父光仁天皇、白壁王の妃、聖武天皇井上内親王と、藤原百川ももかわ)の策謀で皇太子を廃されたその子他戸親王(おさべしんのう)の他五名の怨霊を、魂鎮めのために祀り、明治天皇は次々の皇子の早死を憂い、霊元天皇の後継で揉め、佐渡流罪となった霊元天皇典侍(ないしのすけ)の父小倉実起(さねおき)公卿一家らの怨霊を祀るよう命じた。その上御霊神社の南の空堀と境内に鳶尾草が咲いている。ここの鳶尾草は、一椀を自分の意思で拒み、強引な衰えを迎えた人魂に添えられたものである。

 「二つの記憶が残っている。最初のは何か格別なものを証明しているわけではない。二つ目は、まあ、革命期の雰囲気を確実に見きわめさせるものだ。」(ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳『カタロニア讃歌』早川文庫1984年)

 「デブリ除去で『新技術』開発 第1原発、レーザーと噴射水活用」(平成29年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏である。その遠慮深げだった云いは、桜はどこで見ても桜であり、同じように奇麗であるという物云いに対する、些(いささ)かの異議でもあったが、桜について日本人に物云うことへの、韓国人の遠慮であったかもしれない。その元同僚は、二十歳で来日し、京都生まれの韓国人と結婚して二人の子を儲けた後、その夫と死別した六十余歳の女性である。天神川は、北の鷹峯からはじまり、北野天満宮の辺りまでの流れを紙屋川と呼び、南に下って吉祥院天満宮の西で桂川に注ぐまでを天神川と呼ばれている。元同僚の云う天神川の桜は、その口振りによれば、四条通から五条通の間の辺りを指していた。御池通で御室川と合流してからの天神川は、真っ直ぐな幅二十メートル余の、底の深い、浅い流れの川である。桜並木は、東の縁(ふち)沿いにあった。並んで走る葛野(かどの)中通に挟まれ、枝の下の叢(くさむら)には小径が通っている。川の西側は車の往来のある天神川通である。冷たい風が吹くこの日の空は曇り、日の暮れ様(よう)が緩慢な夕刻、並木の外れに並ぶ三つのベンチの内の二つで、数人の者が缶ビールを呑みながら持参のものを喰っていた。宴を張っているのは、その者らだけである。母子三人が、幾枚か写真を撮って帰り、五条通の方からやって来た中年の夫婦らしき者が、空いていたベンチに座り、ニ三分で腰を上げて行った。葱のはみ出た買い物袋を提げた者が、頭上を見上げながら通って行く。その後ろをやって来た者が、家に帰る途中かもしれぬ足を止めて桜を見上げる。その二人が去ると、人の通りが暫(しばら)く途絶える。日中響いていたかもしれぬ、鳥の声もしない。この桜並木の際の枝は、どれも川の底に向って撓(しな)い、それは何者かによってそうさせられたのではなく、人によって植えられた後は、己(おの)れの意思をもって枝を曲げ伸ばした、桜の身体とでもいうべき様(さま)であり、その並びの一本一本が、自らを花で覆っている様(さま)にも、この桜の身体の強靭な意思を思うのである。桜に限らず、大木(たいぼく)は擬人化され易い。ここの桜は、平凡で愚直な桜である。が、愚直でなければ示すことの出来ない意思を、この桜の幹に触(さわ)れば感じることが出来る。そのように感じなければ、日がとっぷり暮れた薄闇の中で、俄(にわか)にしみじみとした気分に襲われたりはしない。通りを挟んで天神川ホールという葬儀場が、東側にある。桜の咲く時期にこの場所で死者を送った者は皆、この愚直な桜を目にすることになるのである。

 「日毎夜毎(ひごとよごと)を入り乱れて、尽十方(じんじつぽう)に飛び交はす小世界の、普(あま)ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期(き)なしと思はるゝなかに、絹糸の細きを厭(いと)はず植ゑ付けし蚕(かいこ)の卵の並べる如くに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半(よは)を背中合せの知らぬ顔に並べられた。」(夏目漱石虞美人草(ぐびじんそう)』岩波漱石全集第三巻1966年)

 「浪江・請戸の慰霊碑に「氏名」刻まれず 町民以外の津波犠牲者」(平成29年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平清盛の長男平重盛次男平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子建礼門院に仕えた女房である。仕えた時期は承安三年(1173)から治承二年(1178)の十七八の年からの五年ほどであり、久寿二年(1155)生まれの建礼門院とは二、三の年下である。年下の恋人であった平資盛(すけもり)は、元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いの果てに入水(じゅすい)し、右京大夫(うきょうのだいぶ)は「弥生(やよひ)の廿日(はつか)余りの頃、はかなかりし人の水の泡となりける日なれば、れいの心ひとつに、とかく思ひいとなむにも、我が亡からむのち、たれかこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出(い)づべき人もなきが、たへがたくかなしくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。我が身の亡くならむことよりも、これがおぼゆるに、いかにせむ 我がのちの世は さてもなほ むかしの今日を とふ人もがな」(『建礼門院右京大夫集』)水の泡となった資盛(すけもり)の命日を、自分のように思い出す人がいないことが、自分が死ぬことよりも悲しい、自分が死んだ後も誰か資盛(すけもり)を弔って欲しい、と素直な己(おの)れの心境を書き残す。同じ壇ノ浦で我が子安徳天皇と入水(じゅすい)し、源氏方に引き上げられた建礼門院徳子は、京に連れ戻され、剃髪し、大原寂光院に設けた庵で隠棲する。その翌年文治二年(1186)の春、裏山に花摘みに行っていた建礼門院の元を、後白河法皇が密かに訪れ、「互ひに御涙にむせばせ給ひて、しばしは仰せ出(い)ださることもなし。ややありて、法皇御涙をおさへ、「この御ありさまとは、ゆめゆめ知りまゐらせ候はず。」」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おおはらごこう))と、後白河法皇は息子高倉天皇の中宮徳子の変わり果てた有様を嘆き、建礼門院は「生きながら六道を見てさぶらふ」と、平家の滅亡、身に降りかかった生き地獄を切々と後白河法皇に語るのである。同じ年のその秋、右京大夫(うきょうのだいぶ)が建礼門院を訪ね来る。「女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、やうやう近づくままに、山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目もあてられず。昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふかたなし。秋深き山颪(おろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、われも人もいひ出(い)でたりし、むせぶ涙におぼほれて、言(こと)もつづけられず。今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき。 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき。」(『建礼門院右京大夫集』)大原にいると聞いていたが、簡単に会いに行くことは出来ず、建礼門院を慕う、已(や)むに已(や)まれぬ己(おの)れの気持ちに従って訪ねると、その侘しい山道に足を踏み入れただけで涙が零(こぼ)れ、住まいの生活の様子は見るに堪(た)えられるものではなく、昔を知る者には信じ難(がた)く、辺(あた)りの様子もこれほど悲しく感じられる山里もなく、かつて着飾って仕えていた者たちも、いまは墨染を着た三四人だけで、その者たちと「それにしてもまあ」と口にしただけで、涙が零(こぼ)れ落ちて仕舞う。宮中では仰ぎ見ていた、とても現実の出来事と思うことのできないいまの建礼門院の様子が、ただただ悲しいのである、と右京大夫(うきょうのだいぶ)はかつて仕えた建礼門院との再会を思うのである。建礼門院は、大原の寒さに耐えられず、あるいは人目を避けての隠棲暮しが困難になり、山を下り、洛中東山で余生を送ったともいわれている。右京大夫(うきょうのだいぶ)は、四十年(しじゅう)前の建久六年(1195)、再び宮中に入り、後鳥羽天皇に仕えている。食うため生きるための他に、出仕した理由があったのかどうかは分からない。が、栄華の絶頂を極めた建礼門院の、変わり果てたみすぼらしいその姿を見て涙を零(こぼ)した右京大夫(うきょうのだいぶ)が、またしても宮仕えをしたことを思うのである。その心の割り切りを、思うのである。慶長四年(1599)、豊臣秀頼の母親淀君によって改修された寂光院の本堂は、平成十二年(2000)の放火によって焼失したが、再び同じ場所にいまは再建されている。寂光院は、山門の内にではなく、山門に至る石段の石の中にある。狭い荒れた石段を上がりきるまでの参拝者の頭の中にこそ「本物」の寂光院はあり、建礼門院の物語りも恐らく、参拝者が踏む足元の石段にあるのである。

 「あまり問題にされないことだか、日本神話で、神は「人」を創らない──生まない。伊邪那岐伊邪那美の男女神が生み出すものは、「国」であって「神」であって、「人を創る」ということはしていない。「人」は。神によって生み出されることはなく、いつの間にかこの日本に存在している。」(橋本治小林秀雄の恵み』新潮社2007年)

 「528品目の基準値超『ゼロ』 16年度・福島県産農林水産物検査」(平成29年4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡廃止により最後の門主・昌仁入道親王が還俗(げんぞく)し、御車路広小路にあった本房が大原に移ってからである。その大原の地は、保元元年(1156)より延暦寺が、叡山を下りた天台隠者の動きを取り締まる政所を置いたところであり、応仁の乱で焼けた折の、洛中にあった本房の移転先であり、門跡の主(あるじ)を失い、仏像仏具だけで再び戻った場所なのである。往生極楽院は、高松中納言実衡の妻・真如房尼(しんにょぼうに)が実衡の死を悼んで寛和元年(985)に建てた庵(いおり)であり、梶井本房の移転の後に、叡山政所の傍(そば)にあった庵は、本房に組み入れられ、遂にはその本堂となるのである。この経緯(いきさつ)のため往生極楽院は、苔生(む)した境内の片隅に、毛色の違う貰われ子のようによそよそしく建っている。その往生極楽院の、平安藤原時代の阿弥陀三尊像は国宝である。極楽から、死ぬ者を迎えに来た阿弥陀如来は足を組んで座り、立てた右手の掌(たなごころ)をこちらに向けている。左右の脇侍(きょうじ)菩薩、手を合わせる勢至(せいし)菩薩と、蓮台を捧げ持つ観音菩薩は折った両膝の間を広げ、背を前に傾けていて、このように座る菩薩の姿は珍しいのだという。観音菩薩の持つ蓮台が内側、腹の方に僅かに傾いているのは、往生者を乗せ終え、彼岸に帰る姿であるという。この両の菩薩の太腿の太さは、生きては見ることの出来ない極楽浄土からやって来た者として、信ずるに足ると思わせるような迫力、説得力を持っている。観音菩薩の表情は、薄く開けた両の目を手の蓮台の上に向けているように見える。であれば、蓮台に乗せた往生者を零(こぼ)さぬように内に傾けているという説明は、なるほどそうなのかもしれない。が、この阿弥陀三尊は拝み見る者の前に、このように常にいるのである。極楽からの来迎の姿として、常に見える所に在るのである。常に在るということは、念仏往生者をいつまでもここで待っている、ということなのではないか。往生は死であり、黄金の阿弥陀三尊は、有無を云わさぬ何人にも来る死を待つ姿であり、唯一人の死を待つことを許されている姿なのではないか。

 「はったいの粉(こ)は真夏の匂いがする。かんかん照りのひなたの匂い、むせかえるような雑草のにおい、はるかに遠い、わら屋根の村のにおい、物音が死んだような町の午後の匂い。」(「はったいの粉」平山千鶴『京のおばんざい』光村推古書院2002年)

 「浪江、川俣・山木屋、飯舘「避難指示」解除、帰還には課題山積」(平成29年3月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを渡る者や屈強な者の力では耐え得ぬ物を、ある頻度で一定の間渡す場合には、筏(いかだ)や舟を並べた上に板を置く浮橋を、流れの上に架けるかもしれない。その岸から岸へ人や物の往来が頻繁になる、あるいは頻繁にしようとする場合には、金を投じて木や石やコンクリートで恒久的な橋を架けることになる。その場合、誰もが恒久を願うのであるから、橋は頑強に造られる。が、それほど頑強でもなく造られた木の橋が、大山崎に近い木津川に架かっている。橋の名は上津屋橋(こうづやばし)、あるいは木津川流橋(きづがわながればし)、あるいは短く「流れ橋」と呼ばれ、全長356.5メートル、幅3.3メートルで八幡市(やわたし)と久世郡久御山町(くみやまちょう)を結んでいる。人と自転車だけを通すこの橋は、その時の予算の都合で、橋脚の上に組んだ板を載せただけの造りになっている。手摺も、夜照らす明りもない。川の水位が上がると、板は水の上に浮かんで流されるので「流れ橋」と言う、という。板はワイヤーで橋脚と繋がっていて、流れ去ってしまうことはないが、大水で橋脚から流れ落ちることがあっても「やむなし」という、およそ人間の造るものらしくない、鳥が作る鳥の巣のような橋なのである。その歴史は、昭和二十八年(1951)三月に完成し、その年の七月に流されて以降、平成二十六年(2014)八月の流出まで二十一回、「流れ橋」は橋脚の上から「やむなく」板を失っている。久御山町の側の、ひと息では上れない土手の下には田圃と茶畑が広がり、どの田圃も鍬入れが終わっている。板を失えば半年の間使えないというこの橋は、この田畑道の延長なのである。この辺りに住む者でない者が、時代劇にも使われる「流れ橋」を渡りに来る。見上げる土手の先には空以外に何もなく、土手の上に立って田圃を見下ろし、あらためて向こう岸まで橋脚の連なる「流れ橋」に目を遣る。単純な景色であり、橋を渡ろうとする者の心は、景色の明快さにつられるように、明確になる。敷かれた板の、幾つも空いた古い留め孔の跡をそのまま古い留め孔の跡と見、下の浅い水の流れをただ浅い水の流れと見、川の大方を占める草の生えた砂地を砂地と見たままに受け入れ、興味をどこかの一方に傾ければ忽(たちま)ち落下してしまう可能性があるのであるから、足と目の感覚は明確であるはずの心を素通りして、明確にならざるを得ない。橋を渡りに来ただけの者は、渡り終えると、向こうの土手を上ってひと眺めし、土手を下り、橋を渡って戻って来る。向こう岸から来た者は、こちら側まで渡って来ると、踵(きびす)を返し、戻って行く。何枚か撮った「流れ橋」の写真のうちに、若い家族の姿が写っている。河原に下り、橋を遠目に撮った一枚である。その橋の上を歩く家族の母と娘の長い髪が、風に巻き上げられている。この日、それほどの風が吹いていた記憶はないのであるが。

 「しかし今のかれはすぐその手を止めて放心状態に入った。かれはテーブルの木目を細い目でぼんやりとみつめ、その形のリズムを楽しんでいるように視線をうごかしていた。かれはあるいは、木目を遠浅の海水浴場に擬し、それを崖の上から見下ろしている気持になっているのかもしれなかった。」(三木卓『野いばらの衣』講談社1979年)

 「格納容器水中「1.5シーベルト」 第1原発1号機、強い線源か」(平成29年3月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身は軍人への恨みつらみである。一通目の手紙の出だしはこうである。「ね、おまえは、わたしの大切な恋なのに、これが見通せなかった浅はかさには程があるわ、かわいそうに。おまえは欺(だま)されたのです。おまえは、当てにならぬ希望で釣って、わたしまで欺したのです。おまえが、たくさんの幸福を期待していた情熱も、いまとなっては、死の絶望のほかは、なにも与えることはできない。それも、無残に捨てられた女だけが知る絶望です。どうしてですって。あんなにして、行っておしまいになったのですもの。悲しくて、悲しくてどう思案しても、つれないお仕打ちを、うまく言い表わす言葉は見つかりません。」(リルケ 水野忠敏訳『ポルトガル文』角川文庫1961年刊)尼僧の名は、マリアンナ・アルコフォラドといい、十二歳で修道院に入り、フランス軍人シュヴァリエ・ド・シャミリイと知り合ったのは1666年、二十五歳での時で、翌1667年、シャミリイはフランスに戻っている。1580年、ポルトガルスペイン帝国ハプスブルク朝に併合され、その三十年後の1640年、王政復古戦争、ポルトガル革命が起り、尼僧マリアンナの恋人シャミリイが去った翌年、1668年、ポルトガル・ブラガンサ朝が独立を果たす。フランス軍はその独立の支援に、ポルトガルに駐留していたのである。「この現在の悩みにも不満ですし、いまだにあなたに対しありあまる愛情をもっているこのわたしにも不満です。と申しても誤解なさらぬように、残念ながら、あなたのなさったことに、満足しているなどというつもりはないのですから。わたしは死にませんでした。わたしは嘘を申しました。わたしはじぶんの命を縮める努力と同じ努力をして、命を長らえようとしているのです。」(『ポルトガル文』第三の手紙)東山妙法院に、「ポルトガル国印度副王信書」と呼ばれる国宝の手紙が残っている。ポルトガルの支配下にあったインドの副王が、天正十六年(1588)に豊臣秀吉に宛てた手紙である。1588年、ポルトガルはスペインの支配下にあった。その支配下のインド副王から、天下統一を果たした秀吉を褒めたたえ、ポルトガル宣教師たちへの秀吉の好意を感謝し、今後とも「慈愛を垂れ給うよう」、よろしく頼むというのがその内容である。信書は三方を装飾で縁取られ、第一行目に王冠を載せた秀吉の家紋「五七の桐」を置き、十七行の最後の日付は1588となっているが、1587の7の数字を8に書き換えた跡が残っている。これは持参者と同行だった日本に戻る遣欧使節の出航が、翌年に遅れたためであるという。秀吉の出した伴天連(バテレン)追放令は天正十五年(1587)であるが、この信書は追放令がポルトガルに伝わる前のものであり、秀吉の手元に届いたのは、書かれた1587年から四年後の1591年である。妙法院は、秀吉の建てた大仏殿のあった方広寺の東側にある。妙法院は、その大仏の月毎の千僧供養のため、建仁寺辺にあった寺を大仏経堂として移したものであるという。その千人の僧侶の食事の用意をした台所の棟、庫裡(くり)は国宝である。二十メートルの吹き抜け天井の煙出しまで、煤(すす)で汚れた梁と貫が剝き出しに幾重にも走り、板間は黒光りして冷たく、ひと時そこに佇(たたず)むことは、歴史の一端に触れることでもなく、歴史を味わうことでもなく、歴史のただ中に包まれているような畏れと安堵がある。この安堵とは、己(おの)れのする息と巨人のような庫裡のいまの息とが、厳(おごそ)かに交わることが分かる、ということである。「ポルトガル国印度副王信書」は、その印刷コピーが、薄暗い宝物庫のガラス戸棚の中に飾ってあった。真物は、京都国立博物館の倉庫に仕舞ってある。文久三年(1863)、会津藩薩摩藩らの公武合体派が起こした八月十八日の政変で追放された長州藩と、三條實美ら七人の急進派公卿は、この妙法院に集(つど)い、その翌十九日の未明、雨の中を蓑笠草鞋(みのかさわらじ)の姿で、長州に下って行った。未明も、蓑笠も人目を忍んでということである。『ポルトガル文』の最後の手紙の結びは、こうである。「わたしは静かな心境に達することができそうな期待が持てるようになりました。そしてそれを最期までやり遂げるでしょう。それが、もしもできなければ、わたしは不甲斐ないこの自分に叛逆(はんぎゃく)するなにか非常の手段を用いるほかなくなるでしょう。それでも、その知らせを受けるあなたは、それほど深くは悲しんでは下さらないでしょう。……でも、あなたには、していだだきたいと思うことは、何一つなくなってしまいました。わたしはばかな女です。一つ覚えのくりごとをまた始めましたわ。あなたをあきらめる、あなたのことは二度と思い出さない、これは必要なすべてです。お手紙をさしあげるのも、いっそさっぱりと止められそうな気さえしてきました。あなたへの感情が死に絶えてしまうさまを、くわしくお知らせする義務が、そのときのわたしに、まだ残っているでしょうか。」建物の内を一周して庫裡に戻り、いま一度吹き抜け天井を見上げてみる。『ポルトガル文』も「ポルトガル国印度副王信書」も三條實美らの七卿落ちも、無関係にばらばらの事柄でありながら、それらを入れ替わり立ち代わり思うことで、この庫裡の中では、それらは相(あい)照らす如くにすれ違う。

 「種まきの済んだばかりの畑から、過去五年の堆肥と、新しいこやしの匂いが漂ってくる。この匂いとともに、同じくらいかすかに、オーケストラの音が漂ってくる。時おり、音楽からはぐれた一音やフレーズが聞こえる程度だ──ちょうど、長いあいだ折りたたんでおいた恋人からの手紙を久しぶりに開いてみると、幽霊のような判読不能な一連のしみと、文脈から遊離した「元気で過ごしているこ…」しか見えないように。」(リチャード・パワーズ 柴田元幸訳『舞踏会へ向かう三人の農夫』みすず書房2000年)

 「放射線教育…「解決型」に モデル校指定、発信できる力養成」(平成29年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)