誰もいない、という言葉には嘘が含まれている。誰もいないと辺りを見て思う者がそこにいて、ここ渡月橋が架かる桂川の川縁の駐車場に係の者が二人、警備の者が一人いる。あるいは金閣寺の参道口に警備の者が二人いて、奥の駐車場に係の者が一人棒を持って立っている。それ以外の人影はない。早朝であればこの者らもいない、誰もいないひと時があるのかもしれない。いまより以前、二月(ふたつき)前であれば、やがてどこからともなく人は現れ、観光バスが駐車場を埋める。が、いまは土産物屋もものを食わせる店も全部シャッターを下ろし、幟旗を仕舞い、一時間経っても、半日経っても誰もやって来ない。夜が来ても、恐らくは明日になっても、人はここには現れない。太宰治は、筆扱いが不自由になった戦争さ中の昭和二十年、『お伽草紙』の題で四篇の小説を書いている。「私はこの「お伽草紙」という本を、日本の國難打開のために敢闘してゐる人々の寸暇に於ける慰勞のささやかな玩具として恰好のものたらしむべく、このごろ常に微熱を發してゐる不完全のからだながら、命ぜられては奉公の用事に出勤したり、また自分の家の罹災の後始末やら何やらしながら、とにかく、そのひまに少しづつ書きすすめて來たのである。」(「舌切雀」太宰治太宰治全集 第七巻』筑摩書房1976年刊)その『お伽草紙』の前書きにはこうある。「母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう(防空)壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は繪本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に讀んで聞かせる。」この「五歳の女の子」は、四月二十日に七十八歳で亡くなった太宰治の長女津島園子である。「浦島太郎といふ人は、丹後の水江とかいふところに實在してゐたやうである。丹後といへば、いまの京都府の北部である。あの北海岸の某寒村に、いまもなほ、太郎をまつつた神社があるとかいふ話を聞いたことがある。私はその邊に行つてみた事が無いけれども、人の話に依ると、何だかひどく荒涼たる海濱らしい。そこにわが浦島太郎が住んでいた。」(「浦島さん」)太宰が、実在していたようであるという浦島太郎は、『日本書紀』にこう記されている。「(雄略天皇)二十二年の春正月(むつき)の己酉(つちのとのとり)の朔(ついたちのひ)に、白髪皇子(しらかのみこ)を以て皇太子(ひつぎのみこ)とす。秋七月に、丹波國(たにはのくに)の餘社郡(よさのこほり)の管川(つつかは)の人瑞江浦嶋子(みづえのうらしまのこ)、舟に乗りて釣す。遂(つい)に大龜を得たり。便(たちまち)に女に化爲(な)る。是(ここ)に、浦嶋子、感(たけ)りて婦(め)にす。相逐(あひしたが)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り覠(み)る。語(こと)は、別巻(ことまき)に在り。」(『日本書紀』巻第十四 雄略天皇)ここにある「別巻」は、いまは失われているとされているが、逸文として残る「丹後國風土記」に「浦嶼子(うらしまこ)」の項がある。「丹後(たにはのみちのしり)の國の風土記に曰(い)はく、與謝(よさ)の郡(こほり)、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫(たみ)、日下部首(くさかべのおびと)等が先祖(とほつおや)の名を筒川の嶼子(しまこ)と云ひき。爲人(ひととなり)、姿容(すがた)秀美(うるは)しく、風流(みやび)なること類(たぐひ)なかりき。斯(こ)は謂(い)はゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子といふ者なり。是(こ)は、舊(もと)の宰伊預部(みこともちいよべ)の馬養(うまかひ)の連(むらじ)が記せるに相乖(あひそむ)くことなし。故(かれ)、略(おほよそ)所由之旨(ことのよし)を陳(の)べつ。長谷(はつせ)の朝倉の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)の御世(みよ)、嶼子(しまこ)、獨(ひとり)小船に乗りて海中(うみなか)に汎(うか)び出でて釣するに、三日三夜を經るも、一つの魚だに得ず、乃(すなは)ち五色の龜を得たり。心に奇異(あやし)と思ひて船の中に置きて、卽(やが)て寐(ぬ)るに、忽(たちま)ち婦人(をみな)と爲(な)りぬ。其の容(かたち)美麗(うるは)しく、更比(またたぐ)ふべきものなかりき。嶼子(しまこ)、問ひけらく、「人宅(ひとざと)遙遠(はろか)にして、海庭(うみには)に人乏(な)し。詎(いづれ)の人か忽(たちまち)に來つる」といへば、女娘(をとめ)、微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、「風流之士(みやびを)、獨(ひとり)蒼海(うみ)に汎(うか)べり。近(した)しく談(かた)らはむおもひに勝(た)へず、風雲(かぜくも)の就(むた)來つ」といひき。嶼子(しまこ)、復(また)問ひけらく、「風雲は何(いづれ)の處(ところ)よりか來つる」といへば、女娘(をとめ)答へけらく、「天上(あめ)の仙(ひじり)の家の人なり。請(こ)ふらくは、君、な疑ひそ。相談(あひかた)らひて愛(うつく)しみたまへ」といひき。ここに、嶼子(しまこ)、神女(かむをとめ)なることを知りて、愼(つつし)み懼(お)ぢて心に疑ひき。女娘(をとめ)、語りけらく、「賤妾(やつこ)が意(こころ)は、天地(あめつち)と畢(を)へ、日月(ひつき)と極(きは)まらむとおもふ。但(ただ)、君は奈何(いかに)か、早(すむや)けく許不(いなせ)の意(こころ)を先(し)らむ」といふき。嶼子(しまこ)、答へらく、「更(さら)に言ふところなし。何ぞ懈(おこた)らむや」といひき。女娘(をとめ)曰(い)ひけらく、「君、棹(さお)を廻(めぐ)らして蓬山(とこよのくに)に赴(ゆ)かさね」といひければ、嶼子(しまこ)、從(つ)きて往(ゆ)かむとするに、女娘(をとめ)、教へて目を眠らしめき。卽(すなは)ち不意(とき)の間に海中の博(ひろ)く大きなる嶋に至りき。其の地(つち)は玉を敷けるが如し。闕臺(うてな)は晻映(かげくら)く、樓堂(たかどの)は玲瓏(てりかがや)きて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携へて徐(おもぶる)に行きて、一つの太(おほ)きなる宅(いへ)の門に到りき。女娘(をとめ)、「君、旦(しま)し此處(ここ)に立ちませ」曰(い)ひて、門を開きて内に入りき。卽(すなは)ち七たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。亦(また)、八たりの堅子(わらは)來て、相語りて「是(こ)は龜比賣(かめひめ)の夫(をひと)なり」と曰(い)ひき。茲(ここ)に、女娘(をとめ)が名の龜比賣(かめひめ)なることを知りき。乃(すなは)ち女娘(をとめ)出で來ければ、嶼子(しまこ)、堅子(わらは)等が事を語るに、女娘(をとめ)の曰(い)ひけらく、「其の七たりの堅子(わらは)は昴星(すばる)なり。其の八たりの堅子(わらは)は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、卽(すなは)ち前立(さきだ)ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)、共に相迎へ、揖(をろが)みて坐定(ゐしづま)りき。ここに、人間(ひとのよ)と仙都(とこよ)との別(わかち)を稱説(と)き、人と神と偶(たまさか)に會(あ)へる喜びを談義(かた)る。乃(すなは)ち、百品(ももしな)の芳(かぐは)しき味(あぢはい)を薦(すす)め、兄弟姉妹(はらから)等は坏(さかづき)を擧(あ)げて獻酬(とりかは)し、隣の里の幼女等(わらはども)も紅(にのほ)の顔(おも)して戯(たはぶ)れ接(まじ)る。仙(とこよ)の哥(うた)寥亮(まさやか)に、神の儛(まひ)逶迤(もこよか、うねうね進む)にして、其の歡宴(うたげ)を爲(な)すこと、人間(ひとのよ)に万倍(よろづまさ)れりき。茲(ここ)に、日の暮るることを知らず。但(ただ)、黄昏(くれがた)の時、群仙侶等(とこよひとたち)、漸々(やくやく)に退(まか)り散(あら)け、卽(やが)て女娘(をとめ)獨(ひとり)留(とど)まりき。肩を雙(なら)べ、袖を接(まじ)へ、夫婦之理(みとのまぐはい)を成(な)しき。時に、嶼子(しまこ)、舊俗(もとつくに)を遺(わす)れて仙都(とこよ)に遊ぶこと、卽(すで)に三歳(みとせ)に逕(な)りぬ。忽(たちま)ちに土(くに)を懐(おも)ふ心を起こし、獨(ひとり)、二親(かぞいろ)を戀ふ。。故(かれ)、吟哀(かなしび)繁く發(おこ)り、嗟歎(なげき)日に益(ま)しき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「此來(このごろ)、君夫(きみ)が貌(かほばせ)を觀(み)るに、常時(つね)に異なり。願はくは其の志(こころばへ)を聞かむ」といへば、嶼子(しまこ)、對(こた)へけらく、「古人(いにしへびと)の言(い)へらくは、少人(おとれるもの)は土(くに)を懐か(おも)ひ、死ぬる狐は岳(をか)を首(かしら)とす、といへることあり。僕(やつかれ)、虚談(そらごと)と以(おも)へりしに、今は斯(これ)、信(まこと)に然(しか)なり」といひき。女娘(をとめ)、問ひけらく、「君、歸らむと欲(おもほ)すや」といへば、嶼子(しまこ)、答へけらく、「僕(やつがれ)、近き親故(むつま)じき俗(くにひと)を離れて、遠き神仙(とこよ)の堺(くに)に入りぬ。戀ひ眷(した)ひ忍(あ)へず、輙(すなは)ち輕(かろがろ)しき慮(おもひ)を申(の)べつ。望(ねが)はくは、蹔(しま)し本俗(もとつくに)に還(かへ)りて、二親(かぞいろ)を拝(をろが)み奉(まつ)らむ」といひき。女娘(をとめ)、涙を拭(のご)ひて、歎(なげ)きて曰(い)ひけらく、「意(こころ)は金石(かねいし)に等しく、共に万歳(よろづとし)を期(ちぎ)りしに、何ぞ鄕里(ふるさと)を眷(した)ひて、棄(す)てること一時(たちまち)なる」といひて、卽(すなは)ち相携へて徘徊(たもとほ)り、相談(あひかたら)ひて慟(なげ)き哀しみき。遂に袂を拚(ひるが)へして退(まか)り去りて岐路(わかれぢ)に就(つ)きき。ここに、女娘(をとめ)の父母(かぞいろ)と親族(うから)と、但(ただ)、別(わかれ)を悲しみて送りき。女娘(をとめ)、玉匣(たまくしげ)を取りて嶼子(しまこ)に授けて謂(い)ひけらく、「君、終(つひ)に賤妾(やつこ)を遺(わす)れずして、眷尋(かへりみたづ)ねむとならば、堅く匣(くしげ)を握りて、慎(ゆめ)、な開き見たまひそ」といひき。卽(やが)て相分かれ船に乗る。乃(すなは)ち教へて目を眠らしめき。忽(たちまち)に本土(もとつくに)の筒川の鄕(さと)に到りき。卽(すなは)ち村邑(むらざと)を瞻眺(ながむ)るに、人と物と遷(うつ)り易(かは)りて、更(さら)に由(よ)るところなし。爰(ここ)に、鄕人(さとびと)に問ひけらく、「水の江の浦嶼(うらしま)の子の家人(いえひと)は、今何處(いづく)にかある」ととふに、鄕人(さとびと)答へらく。「君は何處(いづこ)の人なればか、舊遠(むかし)の人を問ふぞ。吾(あ)が聞きつらくは、古老等(ふるおきなたち)の相傳(あひつた)へて曰(い)へらく、先世(さきつよ)に水の江の浦嶼(うらしま)の子といふものありき。獨(ひとり)蒼海(うみ)に遊びて、復(また)還(かへ)り來ず。今、三百餘歳(みももとせあまり)を經(へ)つといへり。何(なに)ぞ忽(たちまち)に此(こ)を問ふや」といひき。卽(すなは)ち棄(す)てし心をいだきて鄕里(さと)を廻(めぐ)れども一(ひとり)の親しきものにも會(あ)はずして、既(すで)に旬日(とをか)を逕(す)ぎき。乃(すなは)ち、玉匣(たまくしげ)を撫(な)でて神女(かむをとめ)を感思(した)ひき。ここに、嶼子(しまこ)、前(さき)の日の期(ちぎり)を忘れ、忽(たちまち)に、玉匣(たまくしげ)を開きければ、卽(すなはち)瞻(めにみ)ざる間に、芳蘭(かぐは)しき體(すがた)、風雲(かぜくも)に率ひて蒼天(あめ)に翩飛(とびか)けりき。嶼子(しまこ)、卽(すなは)ち期要(ちぎり)に乖違(たが)ひて、還(また)、復(ふたた)び會(あ)ひ難(がた)きことを知り、首(かしら)を廻(めぐ)らして踟躕(たたず)み、涙に咽(むせ)びて徘徊(たもとほ)りき。ここに、涙を拭ひて哥(うた)ひしく、常世(とこよ)べに 雲たちわたる 水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 言持ちわたる。神女(かむをとめ)、遙(はるか)に芳(かぐは)しき音(こゑ)を飛ばして 哥(うた)ひしく、大和べに 風吹きあげて 雲放れ 退(そ)き居りともよ 吾を忘らすな。嶼子(しまこ)、更(また)、戀望(こひのおもひ)に勝(た)へずして哥(うた)ひしく、子らに戀(こ)ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世(とこよ)の濱(はま)の浪の音聞こゆ。後の時(よ)の人、追(お)ひ加へて哥(うた)ひしく、水の江の 浦嶼(うらしま)の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば またも會(あ)はましを。常世(とこよ)べに 雲立ちわたる たゆまくも はつかまどひし 我ぞ悲しき。」太宰の「浦島さん」の浦島太郎も、助けた亀の背に乗り龍宮に行く。が、太宰の書く亀はこういうことを云う。「それぢや私だつて言ひますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が龜で、さうして、いぢめてゐる相手は子供だつたからでせう。龜と子供ぢやあ、その間にはひつて仲裁しても、あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。しかし、まあ、五文とは値切つたものだ。私は、も少し出すかと思つた。あたなのケチには、呆れましたよ。私のからだの値段が、たつた五文かと思つたら、私は情け無かつたね。それにしてもあの時、相手が龜と子供だつたから、あなたは五文でも出して仲裁したんだ、まあ、氣まぐれだね。しかし、あの時の相手が龜と子供でなく、まあ、たとへば荒くれた漁師が病氣の乞食をいぢめてゐたのだつたら、あなたは五文はおろか、一文だつて出さず、いや、ただ顔をしかめて急ぎ足で通り過ぎたに違ひないんだ。あなたたちは、人生の切實の姿を見せつけられるのを、とても、いやがるからね。それこそ御自身の高級な宿命に、糞尿を浴びせられたやうな氣がするらしい。あなたたちの深切は、遊びだ。享樂だ。龜だから助たんだ。」が、海に入ってしまうと太宰の筆の面白さは鈍り、龍宮は気の抜けたものの如くに、乙姫は一言もしゃべらず平凡な書き振りで、浦島太郎は当たり前のように龍宮にいることに退屈し、微笑むだけの乙姫に別れを告げ、土産に二枚貝を貰い、亀の背に乗って陸に戻る。三百年経っている。「ドウシタンデセウ モトノサト ドウシタンデセウ モトノイヘ ミワタスカギリ アレノハラ ヒトノカゲナク ミチモナク マツフクカゼノオトバカリ」ここに至って太宰は云う、「何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を發見したいものである。」開けた玉手箱、二枚貝から出た煙に包まれ、浦島太郎は瞬く間に三百歳の年寄になる。が、太宰は白髪を垂らす浦島太郎は不幸ではなかったと書く。「思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招來をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。」浦島太郎は玉手箱を開けることで龍宮での出来事も、海に入る前の家族と過ごした思い出も忘れ、記憶から消え失せ「不幸ではない」者になったというのである。「丹後國風土記」の乙姫は、龍宮、蓬莱にあっても前世、人の世の頃の事ごとを忘れることが出来ず憂える浦嶼子(うらしまこ)をあわれに思う、せっかく不老不死の身になったというのに。乙姫は一度だけ浦嶼子(うらしまこ)に人の世に戻る機会を与える。機会とは試すということである。浦嶼子(うらしまこ)は、開けなければ不老不死のまま龍宮に戻ることが出来る玉手箱によって試された。浦嶼子(うらしまこ)は、打ち上げられた砂浜で生き返った。三百年が経っていた。浦嶼子(うらしまこ)は誰も経験したことのない喪失感に襲われる、が、いま一度龍宮に戻る気は起きなかった。行ってみた蓬莱の不老不死というものに飽きてしまっていたのである。浦嶼子(うらしまこ)は一歩踏み出すため、龍宮には二度と戻らない覚悟で玉手箱を開ける。己(おの)れの容貌が一変し、浦嶼子(うらしまこ)の胸に三百年前にこの世を離れ死んだ時の淋しさがやって来る。三百年前に味わうはずであった淋しさが、玉手箱を開けたことによって浦嶼子(うらしまこ)に追いついたのである。清水寺にも人はいない。出歩くなと命じられているからである。玉手箱を持っていない浦島太郎は、家に閉じ籠る。浦嶼子(うらしまこ)が見るのは、三百年後の世界である。

「佐五が帰ってから、源次郎は朝炊いた残り飯で、昼を済ませた。そして外に出た。四月半ばの空は、雲ひとつなく晴れて、真青な空からさんさんと日がふりそそいでいた。花が匂い、どこかで遠音に閑古鳥が啼いている。佐五が言い残していったようなことが、この町のどこかで起きているとは、信じ難いほど、町は明るい光に包まれ、何ごともなげに、混みあって人が歩いている。」(『闇の傀儡師(かいらいし)』藤沢周平藤沢周平全集 第十五巻』文藝春秋1993年)

 「福島県産「473品目」基準下回る 放射性物質検査19年度結果」(令和2年5月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「対岸の桜」という小説がある。向こう岸をいう「対岸」は火事という続き言葉を持っている。鴨川の向こう岸で火事があった。燃えたのは一軒の古本屋である。「隔岸観火」は、火種を抱えた敵の自滅を待つ戦略だという。十一月の半ばを過ぎたその日は小春の陽気で、「私」は仕事に就いていて、その古本屋から以前に注文をしていた本が手に入ったという電話を貰う。「私」はその日は受け取りに行かなかったが、その翌日早朝に古本屋は火事に遭い、眠っていた「私」はそのことを知らなかった。五坪余りの店の二階がその主(あるじ)の住まいで、身元不明の遺体は連絡の取れない主であろうというのがその朝のニュースで、遺体は後に一人住まいをしていた本人であると確認される。「私」は便所に立ち、顔を洗ってそのことを知るのであるが、朝食を摂り、その日も仕事に行かなければならなかった。「私」は地面家屋の売買を仕事にしていて、燃えたその店舗は「私」が四年前にその主に売ったものだった。火事場の手前の角でも焦げ臭さが漂っていた。ガラスが割れた一階の戸は残っていたが、瓦屋根は焼け落ち、二階の壁もほぼ燃えてなくなり、両隣りも半焼けの有り様である。店の中の書棚に詰まった本は黒焦げになって残り、床に散乱した半ば燃えた本と燃えなかった本は、水を吸って分厚く波打っている。遺体が古本屋の主と確認されたのであれば、誰かが検死を終えた主に立ち会ったのには違いない。主には妻も子もなかったということを「私」は知っているが、その両親兄弟のことは、「私」は何も知らない。主は東北、福島の生まれだった。年は五十半ばで、左足が不自由だった。そのことが逃げ遅れた原因だったかもしれないと「私」は思う、四年前「私」の後ろについて上がった狭くて急な階段を、大丈夫ですよと云っていたのであるが。その主は東京からやって来て、店を探していると云った。「私」は後のちのトラブルを避けるため、相手を見定めなければならない。その男は現金はあると云った。高校の教師をある時期までやっていたとも云った、退職してからこれまで古本屋をやる準備をしていたと。「私」は鴨川の向こうにある、二年近く買い手のつかないガタのきた空き店舗をその男に見てもらった。気に入らなければもう少し値の張る物件を見てもらうつもりだったが、男はがらんとした一階を見廻し、不自由な足で二階に上がり、窓を開けて外を眺め、あの煙突は銭湯ですかと訊いた。この物件に風呂はなかった。「私」がそうだと云うと、男はここでいいと云った。話がついた後「私」が、原発の影響はどうだったのかと訊くと、福島ですか、影響があったところとなかったところがある、生まれた実家にはなかったと応えた。あの時は東京で、いまはこうして遠く離れて何を知っているわけではないが。店はそれから三月(みつき)で開き、「私」は年に二三度中を覗く程度でつき合いはなかったが、主から聞いたこんな話を覚えている。本は生きている者からではなく、死んだ者から仕入れるというのである。本物の本持ちは、生きている間は手放さない。その者の死を知った時直ちにその者の家に行き、悔やみを述べ、名刺を置いて来るのだという。決して人の死を願うのではないが、死によって世に残った本の入手を願い、商売根性で云えば総じて遺族は相場値を知らないから、と。「私」は、主の商売根性がどれほどのものであったかは分からない、果たして儲かっていたのかどうかということである。読んでいた本に「家にゑても見ゆる冬田を見に出づる」という句が載っていた。相生垣瓜人(あいおいがきかじん)という俳人の句である。俳句を趣味にする者ではないが、「私」はこの句を忘れがたく頭の隅に留め、その日に寄った古本屋の主に相生垣瓜人について訊いてみると、主は知っていると応え、恐らくその句は『微茫集』という句集に載っているとも云ったのである、いま手許にないが。「私」は、見えているものをあえて見に行くところの面白さを云うと、主はそれは中学生に教える答えで、と云ってから、教師面をすれば高校生になら実際に見に行った先で何を見るかが大事だと教えるんだろうな、と云った。いや面白いのは云う通り、どうしても見に行ってしまう百姓の姿なんだ。「私」はその句集が欲しいと思い、主に頼んだのが半年以上前のことであり、火事の前日、手に入ったという電話を受けたのである。それは偶々(たまたま)売りに来た者がいたのか、市場で仕入れたのか、あるいは死んだ者の蔵書の中にあったのかもしれない。が、それは火事のさ中で恐らくは燃え尽きてしまったのであろう。「私」が佇(たたず)んでいた火事場に、花を手に持った女が現れる。女は薄い花束を開いている戸に立て掛け、しゃがんで手を合わせた。その首筋の影は四十を過ぎた者のように、「私」の目に映る。「私」はその女に、身内の者か、知り合いの者かと訊かずにおれなかった。女は、十八までここに住んでいた、元の私の実家だと云う。そうであれば「私」は、元の店を手離したこの女の父親を知っているのである。そのことを云うと、女はえっと驚いた様子を見せ、暫(しばら)く口を噤(つぐ)んだままでいた。ここを相続しなかった女が親と過ごしたのは、十八までのことなのである。「壁とかにお茶の匂いが残ってはりまへんでしたか。」この女は元の店が、実家がお茶を売っていたことを云っているのだ。「確かに匂いは残ってはりました。」と、「私」が応える。「亡くなったお方は何を気に入って、こんな戸もうまく閉まらへん店を買うたのですか。」「不自由な足つこうて二階に上がって、窓からあの銭湯の煙突を見て決めはったんです。」

 「ホームレスが病気を患っている可能性は、新型コロナウイルスに感染する可能性よりも低いだろうか。派遣労働者として働いているシングルマザーにとって、体を崩して子どもに負担をかける怖さは、新型コロナウイルスの怖さよりも小さいだろうか。学校に馴染めない子どもたちが学校によって傷つくリスクは、この子たちに新型肺炎が発症するリスクよりも低いだろうか。権力を握る者たちは、毎日危機に人びとを晒してきたことを忘れているのだろうか。なにより、新型コロナウイルスが、こういった弱い立場に追いやられている人たちにこそ、甚大かつ長期的な影響を及ぼすという予測は、現代史を振り返っても十分にありうる。」(「パンデミックを生きる指針━歴史研究のアプローチ」藤原辰史 B面の岩波新書4月6日)

 「福島県で9人感染 新型コロナ、10代から60代」(令和2年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 西賀茂の京都市営小谷墓地に、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の墓がある。墓地は毘沙門山の裾にあり、山は京都ゴルフ倶楽部のゴルフコースになっている。魯山人の墓は山裾を上った日当たりのいい外れにあり、墓石には「北大路家代々之靈墓」と彫られ、裏は「昭和十四年十二月建之 十二歳北大路和子書」と刻まれている。傍らの墓誌は二行で、「禮祥院高徳魯山居士 昭和三十四年十二月廿一日歿 俗名魯山人行年七十六歳、凉月院珠映浄和禪定尼 平成二十年七月廿九日歿 俗名和子行年八十一歳」と記されている。墓に差した二枚の水塔婆の主は、北大路泰嗣である。北大路和子は魯山人の三番目の妻中島きよとの間の長女で、北大路泰嗣はその和子の長男で魯山人の孫である。魯山人は最初の妻安見タミとの間に二男があり、長男櫻一は昭和二十四年(1949)四十歳で亡くなっている。次男武夫の死はそれより早く大正十四年(1925)、十六歳である。タミとの結婚は明治四十一年(1908)で、大正三年(1914)に離婚し、大正五年(1916)に結婚した藤井せきとの間に子は無く、せきとの離婚は昭和二年(1927)で、同じ年にきよと入籍し、きよとの離婚は昭和十三年(1938)で、同じ年熊田ムメと結婚し、翌昭和十四年(1939)に離婚、翌昭和十五年(1940)中道那嘉能(梅香)と結婚し、昭和十七年(1942)年に離婚、この年魯山人は五十九歳である。七十六歳で亡くなった時、魯山人の子で残っていたのは長女の和子ひとりだった。が、和子は最後まで面会を許されなかったという。その和子の字が北大路家の墓に刻まれ残っているのである。不安定な筆運びではあるが、勢いのある和子の字を使って、魯山人は昭和十四年(1939)に自分の墓を建てた。その前年に和子の母きよと離婚し、料理研究家熊田ムメと四度目の結婚をしている。昭和十一年(1936)に大事件が起きる。己(おの)れが開いた赤坂山王の料亭「星岡茶寮」から、魯山人は追放されるのである。大正五年(1916)三十三歳の魯山人は、二番目の妻藤井せきの父親の家作だった神田駿河台の自宅に「古美術鑑定所」の看板を掲げる、二十歳で京都から東京へ出て来て十三年後のことである。「古美術鑑定所」は後に骨董販売「大雅堂芸術店」となり、子ども時代に知り合いだった美術印刷便利堂の田中傳三郎の弟、中村竹四郎が加わり「大雅堂美術店」となった後、魯山人は売り物の器に料理を盛って客に出すようになる。魯山人は料理に自信があった。六歳で養子に入った木版師福田武造・フサの家で、魯山人は賄いを手伝って褒められ、後には任されるまでになっている。魯山人は、上賀茂神社の神事雑務を生業とする社家(しゃけ)の北大路清操(きよあや)と同じ社家の出の登女(とめ)の子とされているが、清操は登女の腹の子が己(おの)れの子ではないことを知って割腹自殺し、房次郎と名づけられた子は生まれると一旦は比叡山を越えた農家に預けられ、すぐにまた預けたとされる清操の近所に住む巡査夫婦の手に戻り、その巡査が行方をくらましその妻が病死すると、巡査夫婦の養子だった者同士が夫婦となって養父の駐在を継ぎ、巡査となったその夫が精神を病んだ末に死に、残された養女が己(おの)れの子と幼い義理の弟の房次郎を連れて実家に戻ったといい、その養女の母親が房次郎を嫌い折檻するのを見かねた者が、福田夫婦に房次郎の養子話を持ち掛けたのだという。魯山人、子ども時代の福田房次郎は、賄いをすることで養父母に対して道がついたことを学んだのであるが、養父武造の傍らで字を習い、紙を買わせて応募させる「一字書き」コンクールに入選を繰り返し賞金を得るという成功体験をする。武造と取引のあった印刷屋の子が田中傳三郎である。明治三十六年(1903)看板職人になっていた二十歳の房次郎は、名乗り出た市中にいた伯母、北大路清操の姉の口から初めて己(おの)れの出生を聞かされ、実母登女が東京にいることを知る。かつて御所勤めをしていたことのある登女は、男爵四條隆平(たかとし)の家で住み込みの女中をしていた。上京し突如目の前に現れた房次郎に登女は、その姿を見かね着替えの古着を買い与えただけで、親として房次郎とは接しなかったという。が、そのまま東京で書道教室を開き、日本美術協会美術展で応募の「千字文」が一等二席に入ると、二人の関係に道がつく。房次郎は入選の後、洋画家岡本太郎の祖父岡本可亭の内弟子となり版下書きの仕事の傍ら、岡本家の賄いもするようになる。岡本太郎の母岡本かの子は、子どもの目で見た房次郎の食材に拘(こだわ)る様を小説「食魔」に書き残している。明治四十三年(1910)、房次郎はこの年の八月に併合した韓国に、母登女と一緒に渡っている。京城には、登女の前夫との間の鉄道員になった息子がいた。この時房次郎には、京都から東京に呼び寄せ入籍した安見タミとの間に長男櫻一がいて、タミは二人目を身ごもっていたが、房次郎は朝鮮行きをタミに伝えていない。京城の京龍印刷局の書記に就いた房次郎は、二年半の間上海にも移動し、中国の陶器や書や篆刻を見、料理を味わったという。日本に戻り東京日本橋に再び書道教室を開き、版下書きを始めた房次郎は、和本出版商の藤井利八を通して滋賀長浜の文具商河路豊吉と関係が出来る。二番目の妻となる藤井せきは、この利八の娘である。河路豊吉は数寄者(すきしゃ)だった。書画骨董の目利きで、文人画家を支援する茶人が数寄者である。房次郎は道が通じた河路豊吉の前で初めて濡額を刻り、その独特の筆と彫りは趣味人を引き寄せ、後々北陸鯖江の古美術商窪田卜了軒(ぼくりょうけん)、金沢のセメント商細野燕臺(えんだい)の食客となるのであるが、その前に房次郎には会いたい人物があった、京都の数寄者、内貴清兵衛(ないきせいべえ)である。内貴清兵衛に房次郎を引き合わせたのは、便利堂の田中傳三郎である。内貴清兵衛は、初代京都市長内貴甚三郎の長男で、継いだ家業の呉服屋を弟に追われた後も日本新薬、島津電池製作所などの役員をし、広大な田畑宅地の上がりで食っていた。この時三十一歳の房次郎は、四つ上の内貴清兵衛の住まいとなっていた別荘に上がり込み、食通で料理もこなしていた清兵衛の身の回りの雑用やら賄いも受け持つようになり、清兵衛の目を通して、維新で寺や大名が手放し出回った古美術骨董の値打ちを身につけるのである。大正三年(1914)京都市中に借家住まいをさせていたタミと離婚し身軽になった房次郎は、清兵衛の元も離れ、金沢の数寄者細野燕臺の食客となる。食客でありながら房次郎はここでも台所を預かり、燕臺の家の者を喜ばせている。燕臺は、自分で染付をした焼き物を食器に使っていた。これを見た房次郎の驚きの様は、後に魯山人となって数十万の器を焼いたことを思えば想像がつく。房次郎は胸ときめかせ、燕臺の器を焼いた山代温泉の須田靑華窯で初めての染付をした。大観とも名乗りはじめた房次郎は燕臺を通して金沢でもう一人の数寄者、太田多吉と出会う。太田多吉は料亭「山の尾」の主(あるじ)で、己(おの)れの指示で焼かせた器だけを店で使っていた。房次郎、福田大観はこの太田多吉から改めて玄人の料理知識を聞き知るのである。大正五年(1916)実兄が死んで北大路姓を継ぎ魯卿とも名乗るようになる三十三歳の房次郎は、藤井せきと結婚し、「古美術鑑定所」を開く。田中傳三郎の弟中村竹四郎は、東京で出版社「有楽社」を起こした兄彌二郎が発行する『グラフィック』で著名人の写真と談話の聞き書きを担当し、『食道楽』で東京市中の評判の店の記事を編集していた。大正六年(1917)二十八歳の竹四郎は、兄傳三郎に引き合わされた房次郎の肉体、手と目と舌から生まれ出た言葉に魅せられ、二人は大正九年(1920)「大雅堂美術店」を開くのである。が株の大暴落で商売は躓(つまず)き、房次郎は客に出す茶に加え、売り物に料理を盛ってもてなすという前代未聞のことをする。客はそのようにもてなされたことに驚き、自ずと出された器を見る目が改まる。魯山人と名乗る骨董屋の料理に評判が立つ。客筋は、竹四郎がかつての仕事で面識のあった政治家実業家らである。「大雅堂美術店」は「美食倶楽部」を名乗り、会費を払った者に料理を出すようになる。人を雇い、食材は魯山人が自ら仕入れ、売り物で間に合わなくなった器を山代須田靑華窯と京都東山窯で揃え、ここに古物を真似た魯山人の焼き物がはじまるのである。が、大正十二年(1923)関東大震災が起こる。店舗を失った魯山人と竹四郎は、すぐに芝公園に葦簀張りの店「花の茶屋」を出し、二百人いたという会員の常連を呼び戻し、その僅(わず)か二年後葦簀茶屋は、名高き料亭「星岡茶寮」に大化けするのである。打ち捨てられていた華族の茶道場「星岡茶寮」を斡旋した東京市電気局長長尾半平も、「星岡茶寮」の再興として売った寮債を初めに買った貴族院議長徳川家達(いえさと)も「美食倶楽部」の会員であり、再興資金はこれら名士の財布から順調に集まった。が、相談を受けた内貴清兵衛は、魯山人に金を出さなかったという。このことで魯山人が何も思わなかったはずはない。魯山人にとって学ぶべき対象は、越えるべき対象なのである。「星岡茶寮」の料理人は当時の常識だった口入れ屋からではなく新聞で募集し、女中は水商売の経験者は採らず、茶や生け花を習わせ、客に酌をさせず、室に芸者は上げない。料理は一品づつ出し、その器やら灰皿やら花瓶やら火鉢やら数千の品々はすべて魯山人が手を入れ焼いたものである。このような料亭は世間のどこにも無かった。食材の吟味に手間と金を掛け、目新しさの際立った「星岡茶寮」は繁昌し、後には「星岡の会員に非ざれば日本の名士に非ず」と人の口に上るまでになるのである。魯山人は小学校を出ると薬屋へ丁稚奉公に行くが勤まらず、養父の木版を手伝い、西洋看板職人、書道教授、版下書き、朝鮮公務書記、濡額篆刻製作、骨董商、「美食倶楽部」を経て、料亭「星岡茶寮」の顧問となり、遂に北鎌倉山崎に己(おの)れの窯「星岡窯(せいこうよう)」を持つまでになる。この間藤井せきと離婚し、妊娠していた「星岡茶寮」の女中頭の中島きよを入籍させ、魯山人は「星岡窯」に建てた母屋で生活を始めるのであるが、きよと長女和子は入籍から六年の後まで、魯山人のいない不可解な転居を重ねる借家住まいをさせられている。窯を持った魯山人は益々焼き物にのめり込み、百貨店で開く個展の図録にしたたかに有力者の推薦文を載せる一方で、星岡窯の職人だった荒川豊蔵が幻の志野焼の窯跡を発見したのを機に発行しはじめた『星岡』の誌上で、料理をはじめ陶芸、絵画、書、あるいは茶道の既成流行の権威を叩きのめす如くに否定してゆく。「星岡茶寮」の登記上の経営者は、中村竹四郎だった。年下の竹四郎が魯山人に見せるハンカチを持たせるような姿は、従業員から二人が夫婦のように見えたという。が、情況が変わる。経営者でない魯山人が独断で大阪「星岡茶寮」の出店を決め、従業員を次々に馘にしたことで従業員の間に不満が募り、食器製作の参考と称して高額な骨董に許可なく売り上げをつぎ込み、経営が立ち行かなくなるまでになっていたのである。が、魯山人は、すべて「星岡茶寮」運営のため、理想の「星岡茶寮」実現のために疑いなく良かれと思っていたのである。昭和十一年(1936)七月、魯山人の元に竹四郎の弁護士から封書が届く。「被通知人 北大路房次郎 通知人(中村竹四郎)ハ 自己ノ経営ニ係ル東京星岡茶寮 大阪星岡茶寮ニ於ケル割烹営業 並ニ鎌倉星岡窯ニ於ケル陶磁器製造ニ付 被通告人ヲ料理並ニ窯業ノ技術主任トシテ雇傭中ノ処 今般都合ニ因リ解雇 一切ノ関係ヲ謝絶致候ニ付 此段御通知ニ及候也。」魯山人は日頃の態度、その不遜をカケラも見せず、一読怯える様子を見せたという。魯山人の内心は竹四郎との和解であり、それを察した内貴清兵衛と荒川豊蔵が二人の和解の席を設ける。が、魯山人はその席に姿を現さなかった。後に魯山人は裁判を起こし、九年後の昭和二十年(1945)申し立ては星岡茶寮の三店は竹四郎、星岡窯は魯山人との案で和解するが、二人の関係は解雇通知で終わっていた。裁判の間魯山人は、栄養剤「わかもと」の販売促進用の器や東京火災保険五十周年の記念品数千点を焼き、太平洋戦争が始まると窯の火が制限され、職人が兵に取られ、焼き物の数が減るが、海軍提供の薪で航空隊の食器などを焼いている。中島きよとの離婚はこの間のことで、きよは和子を魯山人の元に残し、星岡窯の職人と駆け落ちしたのだという。和子の字で魯山人が墓を建てるのはその翌年昭和十四年(1939)である。昭和二十年(1945)裁判で竹四郎の所有となった星岡茶寮の三店は空襲で全焼する、が、魯山人の星岡窯は戦災に遇わなかった。戦後、銀座に魯山人の作品だけを売る専門の店が出来、軍人らが土産物に買って行ったアメリカで評判になり、来日した彫刻家イサム・ノグチ魯山人の個展を見て感激し、そのまま山口淑子と共に一年余星岡窯に住むことになるのであるが、家の表に干した洗い物を魯山人が叱り、山口淑子に裏に干させたというエピソードは、魯山人魯山人たる一面を物語っているかもしれない。昭和二十八年(1953)日米会長だったロックフェラー三世からアメリカでの展覧会と講演の依頼を受けた七十歳の魯山人は、ついでに欧州を巡る計画に拡げ、翌昭和二十九年(1954)方々から搔き集めた金で旅に出、西洋料理を食い、ピカソシャガールと面談する。が、帰国から亡くなる七十六歳の年まで魯山人は借金の返済に追われ、焼き物を焼き続けなければならなくなる。昭和二十三年(1948)に結婚した和子とは、この頃はすでに絶縁状態にあった。たびたび和子が魯山人の蒐集品を無断で持ち出し売り捌いていたからである。昭和三十年(1955)とその翌年に打診された人間国宝の指定を、魯山人は断る。かつては個展の図録にお墨付きの推薦文を書いてもらうため有力者に活鯛や高級墨の付け届けまでしたのであるが、職人に給料も払えぬほどの窮乏にあっても、魯山人は意地を通したのだ、と云えるのかもしれぬ。昭和三十四年(1959)十二月、横浜の病院で魯山人は息を引取る。死因はタニシなどに寄生するジストマ虫による肝硬変である。魯山人は、傲岸不遜(ごうがんふそん)だったと云われている。三番目の妻だった中島きよは、魯山人を「怖い人」だったと云う。朝晩の風呂の後、替えの下着とビールを用意させ、その下着の洗濯はきよの母親がやっていた。売り物の器を取り巻きの者にタダで遣り、妻には生活費を渡さなかった。墓の字を書いた長女和子に向かって、叱り言葉でなく自分の子ではないと云った。「星岡茶寮」の従業員に人扱いしないような言動、料理についた髪の毛一本で全員を坊主にし、一度ならず女中に「手をつけた」ことがあった。機関紙『星岡』に写真つきで私信の相手の字を貶(けな)し、己(おの)れの作る料理以外の料理を悉(ことごと)く貶(けな)した。魯山人は晩年、ラジオドラマを聞いて涙を流すことがあったという。追放事件の後の和解の席で、中村竹四郎は内貴清兵衛に諭され、泣いた。が、戸の裏にいた魯山人は出て行かなかった。妻きよは絶えず叱責され、母親の前で泣いた。ひと時星岡窯にいた長男の櫻一は、焼いた器を魯山人に叩き割られて泣いた。身重で幼い櫻一を抱えていた最初の妻安見タミは、房次郎に一言も告げらずに朝鮮に行かれてしまって泣いた。長女和子は実の子ではないと云われて泣き、面会を許されず魯山人の死の床で泣いた。理不尽に馘になった「星岡茶寮」の従業員も泣いた。人間国宝を辞退した時、魯山人は回りの者に選考委員の格を疑い、芸術家の無位無冠を語ったという。が、この云いだけでは魯山人の息遣いには近づかない。魯山人はたとえ爪の垢ほどでも、責任を負わされることを恐れた。人間国宝となった者は国から助成金を貰う以上、今までのような無責任な言動は慎まなければなれないかもしれないし、あらぬ批判の的となるかもしれない。勲章を得て職人に給料が払うことが出来るようになることよりも、そのことで想像のつかない社会的責任を負うことの方が、魯山人には何より耐えがたいことだった。竹四郎との和解の席に現れなかったのも、その後に不自由な身となって負わされるであろう己(おの)れの責任を只々恐れたからである。こう想像すると北大路魯山人の青臭い息が、顔近く生臭く臭って来る。魯山人は執拗に「美」を語った。その「美」は自然の中にあり、あるいは自然そのものであるとも語っている。その「美」への執着の原点を訊かれた魯山人は、三つの時負ぶわれて見た躑躅ツツジ)の赤い色だったと云っている。が、それは一つの思い出には違いないが、相手の期待に沿う善意の応えにすぎない。魯山人の云う「美」への本当の衝動は、恐らくは魯山人にも説明がつかなかったはずである。説明が出来るもの、説明がつくことは面白くないのであり、面白くないものに、人は突き動かされることはないのである。魯山人は「そのこと」を説明がつかないこととして、他人と分かり合うことが出来なかった。そうではない、分かり合うことなど出来ないのである。故(ゆえ)に魯山人は傲岸不遜(ごうがんふそん)の男に見えた。晩年の魯山人が流した涙は、最後まで分かり合うという誘惑に屈しなかった者の崇高な涙である。そうであれば魯山人の回りで流した涙も、同じ崇高な涙でなければならない。

 「夏の暑さがつづくと、たべものも時に変わったものが欲しくなる。私はそうした場合、よくこんなものをこしらえて、自分自身の食欲に一種の満足を与える。雪虎━これはなんのことはない、揚げ豆腐を焼き、大根おろしで食べるのである。その焼かれた揚げ豆腐に白い大根おろしのかけられた風情を「雪虎」といったまでのことである。もし大根おろしの代わりに、季節が冬ででもあって、それがねぎである場合には、これを称して「竹虎」という━京都の話である。これはまったく夏向きのもので、朝、昼、晩の、いずれに用いてもよい。まず揚げ豆腐の五分ぐらいの厚さのもの(東京では生揚げと称しているもの)を、餅網にかけて、べっこう様の焦げのつく程度に焼き、適宜に切り、新鮮な大根おろしをたくさん添え、いきなり醤油をかけて食う。」(「夏日小味」北大路魯山人『星岡』9号・昭和6年6月『魯山人著作集第三巻』1980年)

 「第1原発・処理水500~600倍に希釈 海洋放出時の東電検討案」(令和2年3月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 日常を過ごす中で、がらんとして何もない部屋に立つ時、その者はこののちその部屋を借りるのかもしれず、あるいは中にあった家具などすべて外に運び出し、最早鍵を掛けて出てゆくばかりのところかもしれぬ。もし忘れもののないよういま一度見廻したところであれば、その部屋は過日、不動産屋の後ろにつき従って目にした時の部屋に戻ったわけであるが、がらんとした目の前の部屋は、その者の中ではじめと仕舞いの意味を帯びて目に映ることになる。転居を繰り返した者であれば、そのような二つの意味を帯びてがらんとした部屋を幾つも頭の中に持っている。京都御苑の南西(みなみにし)に、拾翠亭(しゅうすいてい)という入母屋の二階建の建物がある。明治の世となるまで九條家の別荘だった建物である。その最後の当主、公爵九條道孝の四女節子は大正天皇皇后貞明であり、昭和天皇の母である。維新で明治天皇と共に九條家もまた東京に移り、その母屋は一旦解体されて東京の住まいとなり、今は東京国立博物館の庭の隅に建っている。茶会や歌会に使われたという拾翠亭は、一階の広間と小間に炉が切られ、一階にはもう一間、二階には二間半の座敷が一間あり、小舟を浮かべることが出来る庭の池を除けば、建物に浮世離れしたところはない。壁も戸の作りも、京都の町なかに残る古い商家のそれよりも簡素である。これははじめから簡素な茶室を旨として作られたのではなく、恐らくは徳川の世の公家の余裕のない懐具合によるものである。とある二月の日の射さないその日、拾翠亭は一階も二階も戸はすべて開けてあり、室には床の間の小さな花瓶に丈を短く切った花が二三活けてあるだけでがらんとしている。室にも外の庭にも人の気配はなく、畳は足の裏に冷たい。その者はこの室をこれから借りるわけでもなく、借りていて出てゆくところでもない。何やらひと様の家に黙って上がり込んだようでもあるが、この室にはひと様の生活らしきものは花を除けばまるでなく、家に主(あるじ)があるわけではないから、室で待っていても誰かやって来るわけではない。何をするわけでもなく、かといって横になるようなことは認められない、薄ら寒い室に座っていることには我慢がいる。一階から二階へ室を移してもその我慢は変わらない。畳の上では屈するべき膝を一旦は折り、落ち着かぬ理由を見定めぬまままた立ち上がり、窓に寄る。ひと様の家に上がり込んで、二階から冬の庭を見下ろす。真後ろで、同じように見下ろす者の気配がある。振り返っても誰もいないことは分かっている。気配は、九條家の誰かが残していったものに違いない。記憶は人が思うところに残り、あるいは思うところに現れる。拾翠亭の無人の室は、主(あるじ)であった九條家の人らを記憶し、感傷に云えば、がらんとした室に残っているのは、最後に窓辺に立った者の視線である。

 「さっきから、着飾った婦人と何度もすれちがっているみたいだ。気持ちが妙に浮きたつ。でも、だれもいない。香りのせいなのだ。菩提樹の黄色い花がきつすぎるほどにおっているだけ。遠くの丘が暑さにゆるゆる溶けて、稜線の緑が空の青にじんわりにじんでいる。その上に綿雲が白く点々。気が遠くなるほどのどかだ。」(「菩提樹の香る村」辺見庸『もの食う人びと』共同通信社1994年)

 「「双葉」初解除!帰還困難一部先行 復興拠点立ち入り規制緩和」(令和2年3月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 数本の早咲きの白梅や蠟梅(ろうばい)や寒桜やシナマンサクが咲いたぐらいで、立春を過ぎた京都府立植物園に人が大挙してやって来ることはない。広場の芝生は枯れ、菖蒲池の水は抜かれたままで、薔薇園の薔薇は刺さった棒のように剪定され、これから種を蒔くであろう土は均(なら)され、木々の根元には去年の落葉が積もり、針葉樹の下にも積もったままになっている。時折寒風の吹く園が、それでも無人ではなく閑散とした様子なのは、数えるほどの襟巻厚着の者の姿があるからで、その内の幾人かがひと時、目の色を変え一本のプラタナスの大木の下に集まることがあった。その者らは首にぶら下げた双眼鏡かカメラの望遠レンズを梢の辺りに向けて見上げ、野鳥を探していたのである。ジョウビタキがいるというのであるが、道具を持たない者の目には何も見つからない。それでも暫く見上げていると、真上の空を旅客機が白い雲を棚引かせながらゆっくり横切って行った。操縦士犬と枯草馳けまろぶ 西東三鬼。これは昭和十二年(1937)の句である。遙か上空での緊張を強いられる飛行機の操縦から解放された操縦士が、己(おの)れのか、あるいは居合わせた者の飼い犬と地面を転がり回っている、というそれだけの句である。が、ここには純粋なとでも形容したくなる青春性が云い止められている。青春というものは職業に就いたと同時に終わる、と云ったのは開高健だったと記憶するが、そうであれば操縦士と青春性とは相容れない。この若い操縦士は、憧れの果てに恐らくは飛行操縦士になったのであろう。当時操縦士は命懸けの職業者として世の人の羨望の的であり、この操縦士はそのような人の目も気にせず、勤務を終えると嬉々として犬と戯れているのである。職業に就くことと相容れない青春性であるからこそこの操縦士の振る舞いは、職業に就いてなお消えない純粋な青春性と云えるのである。この句の発表の年に、日中戦争がはじまっている。この操縦士は、戦争の時代の操縦士でもあるのである。操縦士の操縦する飛行機は時に雲の中を、時に雲の上を飛ぶ。雲である水蒸気は時に寒気によって氷り、雲の下の大気も冷たければ氷ったまま雪となって落ちてゆく。この時期植物園の一角に、スノードロップと名づけられた花が群がり咲いている。水仙のような茎で、水仙よりも背が低く、先の割れた鶉の卵のような白い花を下向きにつけ、開けば三枚の花弁の内に緑色のハサミのような模様のある花である。スノードロップを訳せば、雪雫、雪の滴(したた)りであろうが、雪が滴ったのであれば、それは既に水であり雪ではない。空から降り落ちて来た雪は、そのまま地に留まることは稀であり、いずれは融けて水となって土に浸み、土から滲み出して川となるか、植物の根に吸われる。川の面からあるいは海の面からあるいは地面から蒸発した水は、再び空の寒気に冷やされて雲となり、また雨となり雪となって落ちて来る。植物に吸われた水は植物のあらゆる基(もとい)となる。ここに、地上に降っても再び雪になりたいと思う雪があった。が、その雪は土で融けるとすぐに根に吸われ、スノードロップの白い花に転生する。この雪は本当の雪になることが出来ず、そうであるが故に花として儚(はかな)い早春性を持つのである。

 「《死》への過程を《生》のエネルギーの衰退にしてしまうことは、あまりにも常識に失する。そうではなく《生》を《死》に推し進める別の新しいエネルギーが発動していると感じ、その活機の刻々を洞見する立場なのだ。他に何度か書いたが、ココのところが端的にすぎてヨク分って貰えない気重さが、何かしらまつわっていた。実験として、私は毎年鉢植に茄子を飼い育てる。開花から結実、そしてその実の萎縮、伴って原木の枯死。実は獲らすにどこまでも放置しておけば、ミイラになる。出来ればそのミイラも、飽くまで放置して《無》になるまで眺め入る日々を重ねんとする志だ。ココまで書きしるせば読者の想像は、期せずして《衰退のエネルギー》の有り体を自己身心に滲透証感することは、易々として可能であろう。」(「老いおもしろ」永田耕衣永田耕衣文集 濁』沖積舎1990年)

 「【風評の深層・トリチウムとは】眼前に「処理水」…77万ベクレル」(令和2年2月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 節分の厠(かわや)灯してめでたさよ 篠原温亭。この厠は外厠であろう。一家の主(あるじ)が一年に一度の、家族総出の「騒動」を了(お)えて厠に立った。思わずも高揚した気分は、出す小便とともにしみじみと静まってゆく。めでたさは連綿と続いてきた行事のめでたさであり、家族のあるめでたさであり、小便が滞りなく出る己(おの)れの身体のめでたさである。隣りの家から「鬼は外」の声が聞こえて来れば、それもまためでたいのである。「節分は都の町のならはしに、五條の天神にまふでて、をけらもちをかいもてきつつ、家内のかみなかしも是をいはふ。夜にいればむくりこくりのくるといひて、せど門窓などかたくさして、外面にはいはしのかしらとひらぎのえだを鬼の目つきとてさし出し、うちにはゑびす棚大こく柱のくまくまに灯をひまなくたて、沈香などかほらす。大内(だいり)の儺(おに)やらふは、晦日あなれど、地下(じげ、下級官吏、庶民)は今宵豆を煎りて、福は内鬼は外へと打ちはやし、また、わが齢をもかの豆をもて数へつつ、いくつといふに一つあまして、身を撫づることをしはべる。」(『山之井』北村季吟 正保五年(1645)刊)京の町の習わしでは、節分の日には五條天神から朮と餅を貰って来て家中の者で祝う、と北村季吟は書き記し、秋里籬島は『都名所図会』(安永九年(1780)刊)の五條天神社の項に、「節分には白朮・小餅(せふのもち)・宝船を禁裏に上(たてまつ)る。」と宝船を加え記している。『義経記』の中で、横笛を吹き鳴らす牛若丸と千本目の刀を狙っていた弁慶の出会いの場となる五條天神のこの習わしは、いまも続き、節分の二月三日の一日に限り、参拝者は神朮と勝餅と宝船を貰うことが出来る。朮は焚いて疫病を払い、餅は神に供える豊作祈願であり、宝船は縁起担ぎに正月二日枕の下に敷いて寝るものであるが、五條天神の宝船は縦四十センチ横五十センチ余と枕の下に敷くには些(いささ)か大きく、その船には七福神も宝物も乗っていない。描かれているのは、数本の拙(つたな)い線でするすると引いた一艘の舟と、その上に乗せられた四本ばかりの葉のついた稲穂である。舟底に揺れる波の一筋が走り、これが日本で最も古い宝船の図であるという。この宝船は室町の皇族等が枕ではなく床の下に敷き、年の節目に溜まった邪気を夢の中でその舟に乗せて流したというのである。僅(わず)かな稲穂の束を乗せた無人の舟が穏やかな水の上に浮かび、それは動いているのか、留まっているのか分からない。どこから流れ着いたのか、これからどこかへ流れてゆくのかも分からない。人がひとりも乗っていないのは、はじめから乗っていた者はなく、ここは人のいない場所なのかもしれぬ。もしそうであり、そうであるにも関わらず舟が浮かび、刈り取った稲穂が乗せてあるのであれば、それは神が舟を作り、稲を刈ったということなのであろう。以前という言葉があり、そう口に出して云うことがある。この宝船は、誰も知る者のいない以前の世に浮かび、以前は、と口にする者にその生まれる遙か以前を知らしめる。節分や灰をならしてしづごころ 久保田万太郎。これは火鉢で手を温めていたやや以前の世のことである。

 「夕闇がせまってきた。午後の雨で空気も冷え冷えとし、まるで冬のようにわびしく暗い夕方になった。空には星ひとつ見えず、つめたい氷雨がしとしと降りだした。表から見える家々のランプが、悲しげにちらちらと揺れていた。風が、町の沼地側からではなく、北よりの寒い真暗な松林の方角から吹きはじめた。」(「悲しき酒場の唄」カーソン・マッカラーズ 西田実訳『悲しき酒場の唄』白水社1990年)

 「「すべて検査」希望40% 県産米の全量全袋検査、消費者アンケート」(令和2年2月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 年末が近づくと町内会を通して、「平安神宮守護」という札が配られる。これは京都府下の住民は皆平安神宮の氏子であり、この一枚の札により諸々から皆を守護するというものである。「明治二十五年(1892)の初め、文明評論家・歴史家として著名な田口卯吉(1855~1905)が桓武天皇の平安奠都(てんと)の事情を研究するため、京都を訪れた。その際、田口卯吉は京都商業会議所副会頭の中村栄助と会い、来たる明治二十八年(1895)は平安遷都後満千百年に当たる故、京都市としても然るべき記念事業を催してはどうかと勧めた。中村はこの勧めに感動し、自ら陣頭に立って京都府知事(北垣国道)、公爵・近衛篤麿など要路の人々に説き勧め、記念事業の実現に尽力した。こうして桓武天皇奠都千百年紀念祭の施行、平安神宮の創建、第四回内国勧業博覧会の開催が計画されるに至った。」(角田文衛 復刻版『平安通志』解説 新人物往来社1977年刊)この第四回内国勧業博覧会は、明治二十八年(1895)四月一日から七月三十一日まで開催された後、会場は取り壊され、平安神宮だけがその跡地に残ったのである。平安神宮の祭神は、桓武天皇孝明天皇である。創建時の祭神は桓武天皇で、昭和十五年(1940)皇紀二千六百年と称する年に国中が紀元二千六百年を祝い、第百二十一代孝明天皇が新たに祭神としてに加えられる。翌昭和十六年(1941)に太平洋戦争がはじまる前夜の年である。日本海軍が真珠湾を奇襲したアメリカの黒船に誰よりも怯(おび)え、開港を頑(かたく)なに拒んだ者が孝明天皇である。平安奠都千百年の祭りに京都市参事会が編集発行した『平安通志』に、まだ祭神となっていない孝明天皇は明治の文体でこう記されている。「孝明天皇諱(いなみ)ハ統仁(おさひと)、仁孝帝第四子ナリ、母ハ新待賢門院藤原雅子、天保二年六月十四日生ル、煕宮(ひろのみや)ト稱ス、十一年三月十四日、立テ皇太子ト爲リ、弘化三年二月十三日践祚(せんそ)シ、四年九月二十三日紫宸殿ニ即位ス、帝性英邁剛健ニシテ神姿温柔ナリ、祖宗ヲ敬ヒ、神祇ヲ崇ミ、學問ヲ好ミ、名器ヲ重ンジ、最モ心ヲ國家ノ大事ニ盡ス、和氣淸麻呂ノ偉勲ヲ追褒シ、正一位ヲ贈リ、護王大明神ノ號ヲ賜ヒ叉耕作圖ヲ宮障ニ畫カシメ以テ民ノ艱難(かんなん)ヲ視ル、是ヨリ先幕府跋扈(ばっこ)朝廷日ニ衰ヘ、天下唯將軍アルヲ知テ、天子アルヲ知ラズ帝既ニ位ニ卽キ慨然トシテ復興ノ志アリ、會ゝ(たまたま)北亞米利加合衆國使軍艦ヲ率ヰテ浦賀ニ入リ、隣交互市ヲ要求シ、歐魯巴諸國亦互ニ來テ強請スル所アリ、人心恟々タリ、時ニ太平日久ク、天下兵ヲ知ラズ、幕府恐怖、妄ニ其請ヲ許ス、帝深ク之ヲ憂ヒ、堅ク鎖國攘夷ノ旨ヲ取リ、幕府ニ諭シテ海防ヲ嚴ニセシメ、親(みずか)ラ宣命ヲ寫シ之ヲ伊勢大廟及ビ二十二社ニ禱ル、御座ヲ東庭ニ設ケ、七日膳ヲ御セズ、躬(み)ヲ以テ國難ニ代ランコトヲ禱ル、右大臣三條實萬聖體ヲ損センコトヲ懼(おそ)レ之ヲ諫(いさ)ム、帝曰ク、神祖國ヲ肇ムル此ニ一百二十世未タ曾テ外侮ヲ受ケズ、朕ノ世ニ至リ、國體玷辱セバ何ヲ以在天ノ靈ニ謝センヤ、實萬曰ク、陛下獨リ幕府ノ耳目ヲ憚ラズヤ、帝曰ク、朕賊臣ノ手ニ罹ラバ、以テ少シク神靈ニ謝スベキノミト、實萬感泣シテ退ク、幕府擅(ほしいまま)ニ條約ヲ結ブヲ聞キ、悄然トシテ曰ク、朕將ニ位ヲ遜(ゆず)リ罪ヲ大廟ニ謝セントス、左右諫メテ止ム、時ニ天下ノ志士、幕府ノ失政ヲ憤リ、爭テ輦下(れんか)ニ集リ、諸候伯ニ説キ、朝權ヲ囘復スルヲ謀ル、天下騒然タリ、幕府窘窮(きんきゅう)シ、奏シテ皇妹和宮ヲ釐降(りこう)シ、將軍家茂ニ尚シ、以テ物情ヲ鎭シ、朝幕合體以テ攘夷ノ實ヲ擧ゲント請フ、帝已ムヲ得ズシテ之ヲ許シ、躬(みずか)ラ其由ヲ錄シ、宸翰ヲ以テ公卿ニ諭ス、謂フ皇妹ヲ降嫁ス、實ニ忍ビザル所然レドモ之ヲ以テ公武を合體シ、以テ膺懲(ようちょう)ノ典ヲ擧グルヲ得バ、國家ノ爲メ、豈許サゞルヲ得ンヤト、聞ク者感泣セザル無シ、文久二年五月、大原重徳ヲ幕府ニ使シ詔ヲ將軍家茂ニ賜ヒ、諭スニ天下ノ大計三事ヲ以テス、曰ク將軍列侯ヲ率ヰテ入朝シ、内政ヲ釐革(りかく)シ、外夷ヲ處分スルノ方法ヲ議セヨ、二ニ曰ク豐臣氏ノ例ニ依リ、五大藩ヲ以テ、五大老ト爲シ、海備ヲ嚴ニセヨ、三ニ曰ク一橋刑部卿ヲ以テ將軍ノ輔佐ト爲シ、越前中將ヲ以テ大老ト爲シ、以テ幕政ヲ總(す)ベシメヨト、幕府皆勅ヲ奉ズ、三年三月、將軍家茂入朝謁見恩ヲ謝シ、十一日車駕賀茂神社ニ行幸ス、家茂諸侯伯ヲ率ヰテ之ニ扈(こ)ス、四月十一日、車駕石清水八幡ニ行幸シ、躬(みずか)ラ攘夷ノ功ヲ奏センコトヲ禱ル、此日將軍ニ節刀ヲ賜ラントス、將軍疾ヲ以テ從ハズ、事竟(つい)ニ止ム、十二日宮ニ還ル、其儀衛(ぎえい)鹵簿(ろぼ)ノ盛ナル、近古ノ有ラザル所民ニ縱觀ヲ許ス、父老涙下ルモノ有リ、寛永三年二條城行幸ヨリ、此儀斷ルコト二百三十八年、此ニ及ビ將軍ヲ召シ以テ之ヲ行フ、朝廷ノ威權幕府ニ行ハル、復タ此ニ始マル、此時攘夷ノ議益ゝ(ますます)熾(さかん)ニシテ、幕府決スルアタハズ、勤王ノ士其姑息ヲ憤リ、密ニ奏スルニ大計ヲ以テス、八月十三日詔シテ曰ク、大和ニ行幸シ、畝傍山陵ヲ拜シ、春日山ニ於テ親征ヲ議セント、發輦(はつれん)日アリ、勢益ゝ迫ル、而ルニ事俄ニ中變シ、朝議毛利敬親ヲ罪シ、其藩兵ノ堺町門守衛ヲ罷ム、毛利元純等遂ニ兵ヲ引テ國ニ歸リ、三條實美以下七卿共ニ長州ニ走ル、時ニ此月十八日ナリ、之ヲ癸亥ノ變ト云フ、尋(つい)デ元治ノ變ト爲リ、兵闕下(けっか)ニ戰ヒ銃丸禁闕ニ及ビ、京師殆ド焦土トナル、此ヨリ征長ノ師起リ、兵結デ解ケザル數年、外國隙ヲ窺ヒ、兵ヲ擁シテ來リ迫ル、將軍家茂大阪ノ行營ニ薨(こう)シ、時局益艱(えきなん)シ、開鎖ニ黨(とう)紛然相鬩(せめ)ギ、天下収拾スベカラザルノ勢アリ、然レドモ帝堅ク叡旨ヲ執リ、確然動カズ、誓テ外侮ヲ防ギ國難ヲ排シ、以テ邦家ヲ安ンジ祖宗ニ謝セントス、十年一日ノ如シ、是ニ由テ天下ノ人心幕府ヲ去リ翕然(きゅうぜん)トシテ朝廷ニ歸シ、有志ノ士復タ大政ノ王室ヨリ出デシコトヲ望ム、而シテ幕府亦自ラ覇業ノ維持スベカラザルヲ知リ、大機將ニ熟セントス、慶應三年十二月、帝痘瘡ニ罹リ、僅ニ九日ニシテ崩ズ、實ニ十二月二十五日ナリ、年三十七朝野悲慟、考妣ヲ喪スルガ如シ、二十八日、喪ヲ發シ、明年正月廿三日後月輪山陵ニ葬ル…、」史家湯本文彦が筆を執ったこの『平安通志』の孝明天皇の時代年表はこうである。「天保二年辛卯 六月十四日 皇子統仁生ル、煕宮ト號ス、天保三年壬辰 正月 伊能忠敬全國海岸ヲ實測シ、日本全圖ヲ作ル、十月 (光格)上皇密ニ山科勸修寺ニ幸シ、琉球貢使ノ江戸ニ赴クヲ觀ル、是歳 水戸侯齊昭畝傍山陵修造ノ事ヲ幕府ニ建議ス、天保五年甲午 十二月 朝鮮大ニ飢ウ、且ツ京城火ス、幕府金壹萬兩ヲ宗氏ニ貸シ之ヲ賑ハス、天保六年乙未 六月廿一日 皇子統仁ヲ以テ儲君トシ、九月十八日 親王ト爲ス、天保七年丙申 四月七日 (光格)上皇修學院離宮ニ幸ス、九月 凶荒京都飢ウ、幕府町毎ニ米貳斗五升ヲ賑ハス、九月朔 將軍家齊老シ、世子家慶立ツ、大將軍ニ任ス、時ニ年四十五、十月 幕府再ヒ京都ノ飢ヲ賑ハス、天保八年丁酉 二月 大鹽平八郎亂ヲ大坂ニ爲ス、討シテ之ヲ平ク、市街一万八千餘戸ヲ燒ク、天保九年戌戊 十月 蘭人長崎ニ來リ我漂民ヲ護送ス、天保十年己亥 幕府渡邊華山、高野長英ヲ罪ニ處ス、十二月 (光格)上皇勅シテ修學院離宮ノ止止齋ヲ仙洞ニ移ス、是歳 宇田川榕庵舎密開宗ヲ著ハス、化學此ニ始マル、天保十一年庚子 高島秋帆洋式砲術ヲ行ハン事ヲ幕府ニ建議ス、三月十四日 統仁親王ヲ立テ、皇太子トシ、小御所ヲ修メ假東宮トス、十一月 (光格)上皇仙洞ニ崩ス、年七十、水戸侯齊昭、謚號復古ノ議ヲ上ル、天保十二年辛丑 閏正月廿七日 左近衛大將藤原輔煕等ヲ上皇ノ陵ニ遣シ、謚(おくりな)ヲ上リ光格天皇ト云フ、是月 前大將軍家齊薨(こう)ス、年六十九、文恭院ト謚ス、水野忠邦閣老ト爲リ、大ニ幕政ヲ改革ス、天保十三年壬寅 九月幕府令シテ海防ヲ嚴ニス、十二月 幕府旨ヲ奉シ學館ヲ建春門前ニ興ス、名ヲ學習院ト賜フ、藤原貞善、藤原聰長ヲ以テ頭トシ、公卿ニ命シ就テ學習セシム、弘化元年甲辰 十二月二日 改元 弘化三年丙午 正月廿六日 天皇崩ス、年四十七、仁孝ト謚ス、二十三日 皇太子統仁親王践祚ス、弘化四年丁未 九月廿三日 (孝明)天皇即位ス、嘉永元年戊申 二月廿八日 改元 十二月十六日 藤原夙子ヲ立女御ト爲ス、十二月廿一日 大嘗會ヲ行フ、嘉永二年巳酉 天皇釋莫ヲ小御所ニ行フ、十二月 西洋種痘術ヲ傳フ、嘉永三年庚辰 二月四日 釋莫ヲ學習院ニ行フ、嘉永四年辛亥 三月十五日 和氣淸麻呂ニ正二位ヲ追贈シ、護王社ノ號ヲ賜フ、嘉永五年壬子 七月 洪水、三條五條橋壊ル、八月叉洪水、舟橋ヲ以テ往來ヲ通ス、九月廿二日 皇子降誕、祐宮ト號ス、嘉永六年癸丑 四月 幕府水戸老侯齊昭ヲ隠居セシメ、藤田彪以下ヲ禁錮トス、北亞米加合衆國水師提督彼理、軍艦ヲ將(ひきい)テ浦賀來リ、國書ヲ奉シ交通貿易ヲ求ム、阿部正弘將軍ノ旨ヲ受ケ、水戸侯齊昭ヲ起シ幕議ニ參セシム、七月 將軍家慶薨(こう)ス、謚シテ慎徳院ト曰フ、家定繼ク、七月十七日 露西亞國水師提督軍艦ヲ率ヰテ長崎ニ入リ、國書ヲ奉シ交通互市ヲ求ム、是歳 大ニ海防ヲ嚴ニシ、兵船軍器ヲ備フ、安政元年甲寅 正月十四日 彼理重テ浦賀ニ來ル、三月 米國ト條約ヲ締結ス、皇宮、仙院火ス、天皇、下鴨ニ避ケ聖護院ニ徒御ス、此日午下仙洞ヨリ出火、皇居其他百百九十四町、六千九百九十三戸ヲ燒ク、七月九日 幕府軍制ヲ改メ、日本國旗ヲ日章ト定ム、十一月十八日 小濵、郡山、膳所、淀、高槻諸藩ニ命シ、京都ヲ守衛セシム、十一月廿七日 改元安政二年乙卯 二月 皇居造營ヲ創ム、九月ニ至テ、成ル、十一月廿一日 車駕新宮ニ還御ス、此ヨリ先キ聖護院ヨリ桂宮ニ遷御シ、此ニ及ヒ儀仗ヲ備ヘ新宮ニ還御アリ、民ニ縱觀ヲ許ス、此時町奉行淺野長祚事ヲ監シ、安政内裏造營記ヲ編纂セリ、是レ現在ノ皇居ナリ、安政三年丙辰 幕府露英佛ト假條約ヲ締結ス、安政四年丁巳 幕府林大學頭、津田半三郎ヲ上京セシメ、外交事狀ヲ陳奏ス、朝廷斥ケテ聽カス、安政五年戊午 正月廿二日 幕府堀田正睦ヲ上京セシメ外交事狀ヲ奏ス、公卿多ク攘夷論ヲ主張シ、兵庫開港ヲ許サス、三月廿二日 幕府ニ勅答シテ三家以下諸大名衆議ヲ盡シ上奏セシム、四月廿三日 幕府井伊直弼ヲ以テ大老職トナス、六月廿一日 高松、松江、桑名三侯ヲシテ京師ヲ守ラシム、六月廿四日 水戸、尾張、越前三侯登營シテ、假條約ノ不可ヲ諭シ、併セテ繼嗣ノ事ニ及フ、大老直弼斥ケテ容レス、七月五日 幕府水戸老侯齊昭ヲ幽閉シ、尾張侯慶勝、越前前侯慶永ニ隠居謹慎ヲ命ス、七月四日 將軍家定薨ス、家茂繼ク、將軍薨去ハ三家罪ノ前日ニ在レト、大老秘シテ發セス、八月ニ及テ發表ス、八月八日 内勅ヲ水戸老侯齊昭ニ下ス、朝議幕府ノ非政ヲ憂ヒ、齊昭ニ命シ諸藩ヲ率ヰ將軍ヲ助ケ外侮ヲ禦(ふせ)カシメントスルニ在リ、是月 佛艦三艘品川ニ入リ國書ヲ奉シ、交通貿易ヲ求ム、之ヲ許ス、是秋 虎列刺病大ニ流行シ、死スルモノ數萬人、九月 間部銓勝上京シ、内勅關係ノ者ヲ捕ヘ江戸ニ押送ス、幕府外國奉行五員置ク、十月廿五日 家茂將軍ニ任ス、安政六年己未 二月十八日 青蓮院宮ニ謹慎ヲ命ス、三月十一日 鷹司父子、近衛、三條ノ四公、水戸内勅ニ關センヲ以テ落飾退隠ヲ乞フ、幕府横濵ハ開港塲タルヲ以テ商戸ヲ移シ大ニ市街ヲ經營ス、五月廿八日 米露英佛蘭五國ニ長崎、箱館、横濵ニ於テ、自由貿易ヲ許ス、幕府水戸老侯齊昭ヲ永蟄居トシ、一橋侯慶喜ニ隠居謹慎ヲ命シ、其他死罪流竄禁錮ニ處スルモノ多シ、之ヲ戊午ノ大獄ト云フ、八月 幕府朝廷ニ金五千兩、攝家其他二萬兩、九條關白ニ家禄千石ヲ加フ、萬延元年庚申 三月三日 水戸薩摩脱藩士十七人、大老井伊直弼ヲ櫻田門外ニ斬ル、三月十八日 改元、六月 高松、松江、彦根、郡山、桑名五藩ニ命シテ京師ヲ警衛セシム、淀、高槻、膳所、篠山四藩ニ命シテ四方要口ヲ守ラシム、九月 祐宮ヲ儲君ト爲ス、是歳 水戸藩民兵ヲ起ス、常野亂ル、文久元年辛酉 二月十九日 改元、九月二十日 皇妹和宮、將軍家茂ニ降嫁シ京師ヲ發ス、文久二年壬戌 正月 浮浪ノ士、閣老安藤信正ヲ城下門外ニ傷ク、三月晦 近衛、鷹司二公ノ謹慎ヲ釋ス、四月晦 獅々王院宮ノ永蟄居ヲ釋ス、五月十一日 大原重徳ヲシテ、朝命ヲ幕府ニ下サシム、五月 幕府尾張、水戸、越前、土佐、宇和島諸侯ノ罪ヲ赦シ、閣老安藤氏ヲ免ス、六月廿三日 九條尚忠ノ關白ヲ免シ、近衛忠煕ヲ以テ之ニ代フ、是月 幕府内田垣二郎、榎木釜次郎ヲ和蘭ニ差ハシ、軍艦製造ヲ督シ海軍ノ事ヲ傳習セシム、七月一日 幕府勅令邁奉ノ請書ヲ上ル、七月六日 一橋慶喜ヲ將軍補佐トス、七月九日 越前老侯春嶽ヲ政事總裁職トス、八月廿一日 島津久光ノ從人、英人ヲ生麥村ニ斬ル、閏八月朔 幕府會津侯松平容保ヲ京師守護職トス、閏八月五日 故水戸老侯齊昭ニ從二位大納言ヲ贈ル、幕府諸藩ノ參覲ヲ三年一度滞在百日トシ、其家眷ヲ封地ニ移スヲ許ス、十月三日 三條姉小路兩卿勅旨ヲ奉シテ東下ス、勅旨ハ攘夷期限ヲ定ムルト、親兵ヲ置クノ二件ナリ、十月 正親町三條、中山、大原諸氏時事ヲ建議ス、之ヲ斥ケ、大原氏ヲ幽閉ス、十二月五日 將軍ニ勅使ヲ延見シ、勅旨ヲ奉ス、十一月廿日 幕府井伊、内藤、間部、酒井、堀田、久世、安藤、松平、脇坂、水野諸氏ヲ譴責シ、或ハ其領地ヲ削ル、十一月 故島津侯齊彬ニ從三位中納言ヲ贈ル、品川御殿山英館火アリ、或ハ云フ脱藩ノ諸士之ヲ燒クト、十二月 朝廷參政寄人ヲ置キ國事掛ト號シ、三條實美専ラ其事ヲ督ス、是レ建武ノ中興ノ時ヨリ、五百年ヲ經テ國政管掌ノ官ヲ再興アリシナリ、文久三年癸亥 正月 青蓮院宮復飾、中川宮ト號ス、一橋慶喜松平慶永、將軍ニ先チ入京ス、二月 近衛忠煕ノ關白ヲ免シ、鷹司輔煕ヲ以テ之ニ代フ、二月十九日 英國公使生麥償金ノ事ヲ諭シ、軍艦ヲ以テ幕府ニ逼(せま)ル、江戸戒嚴、三月五日 將軍家茂上洛參内ス、三月十一日 車駕賀茂神社ニ行幸ス、將軍百官諸侯ヲ率ヰテ供奉ス、寛永二條行幸ノ後、二百三十餘年ヲ經テ此ノ行幸ノ儀アリ、三月 將軍上洛京都町人ニ銀五千貫目ヲ頒與ス、三月十九日 十萬石以上諸藩ヲシテ親兵ヲ貢セシメ、三條實美ニ命シ之ヲ督セシム、建武ノ中興ノ後此ニ及ヒ五百十餘年ヲ經テ、朝廷再ヒ親兵アリ、四月十一日 車駕石清水神宮ニ行幸ス、五月九日 閣老小笠原長行英國公使ニ生麥償金卅五萬兩ヲ交附ス、廷議之ヲ非トシ罪ニ處ス、五月十日 長州下關ニ於テ、外國船ヲ砲撃ス、六月九日 將軍家茂遂ニ海路江戸ニ歸ル、七月 英國軍艦鹿児島ニ至リ、生麥償金ヲ求ム、薩人迎戰之ヲ走ラス、八月 幕府供御料十五萬俵ヲ上ル、八月十八日 勅シテ大和行幸ヲ止メ、長兵ノ宿衛ヲ免ス、三條實美等七人長州ニ走ル、勅シテ其官爵ヲ褫(うば)フ、八月十七日 松本奎堂、藤本鐡石等中山侍從ヲ奉シテ兵ヲ大和ニ擧ク、幕府諸藩ニ命シテ之ヲ伐ツ、侍從敗レテ長州ニ走リ、松本藤木等死ス、十月 平野二郎澤宣嘉ヲ奉シ兵ヲ擧ク、幕府伐チ平ク、十二月廿三日 鷹司輔煕關白ヲ辭ス、右大臣二條齊敬之ニ代ル、十二月 瑞士國ト條約ヲ締結ス、元治元年甲子 正月廿一日 將軍三十八諸侯ヲ従ヘ入朝ス、二月十五日 會圖津侯容保ヲ軍事總裁ニ、越前老侯春嶽ヲ京都守護職トス、二月二十日 改元、二月廿五日 一橋慶喜ヲ禁裏御守衛總督攝海防禦指揮トス、四月七日 越前老侯春嶽京都守護職ヲ罷ム、會津侯容保之ニ代ト爲ル、四月廿日 列藩ノ建議ニヨリ、政事一切幕府ニ委任スルノ勅アリ、幕府奏シテ釐革(りかく)スル所多シ、五月二日 將軍江戸ニ還ル、五月晦 武田耕雲齋等兵ヲ擧ケ筑波山ニ據(よ)ル、水戸内勅奉還ノ事ヨリ激セシモノナリ、七月十一日 脱藩士佐久間象山木屋町ニ殺ス、七月十九日 長藩ノ兵闕(けつ)ヲ犯ス、幕府薩會ノ兵防戰之ヲ敗ル、兵燹(へいせん)三日、京師大半焦土トナル、八月 英米佛蘭四國ノ兵、軍艦ヲ率ヰテ長州ニ逼(せま)ル、應戰連日、遂ニ和ヲ講ス、八月八日 幕府征長ノ師ヲ發ス、徳川慶勝ヲ以テ大將ト爲シ、二十三藩ニ命シテ進討セシム、十一月 長藩三宰ヲ誅シ、首ヲ送テ罪ヲ軍門ニ講ス、將軍家茂奏シテ征長ノ師ヲ班(か)ヘス、慶應元年乙丑 正月 長州高杉晋作奇兵隊ヲ募リ藩諭ヲ一定ス、正月十四日 長州ニ在ル三條以下五卿ヲ筑前ニ移ス、二月四日 武田耕雲ノ黨ヲ敦賀ニ斬ル、四月七日 改元、五月十六日 幕府重テ征長ノ師ヲ部署シ、將軍進發ス、九月 横濵在留各國公使、兵庫開港ノ事ヲ幕府ニ逼(せま)ル、十月 將軍辭表ヲ呈シ、軍職ヲ一橋慶喜ニ命セラレンコトヲ請ヒ、併セテ兵庫ノ勅許ヲ乞フ、充(みた)サレス、慶應二年丙寅 六月 白耳義國ト條約ヲ締結ス、八月廿日 將軍家茂大坂ニ薨ス、奏シテ一橋慶喜ヲ繼嗣トス、八月廿五日 勅シテ將軍ノ薨ヲ以テ征長ノ兵ヲ解カシム、此時幕府ノ軍常ニ利アラス、諸藩傍觀大勢已(すで)ニ去リ、慶喜徳川家ヲ繼クトモ未タ軍職ニ任セス、十二月五日 徳川慶喜大將軍ニ任ス、十二月廿五日 天皇痘ヲ患ヒ崩ス、年三十六、慶應三年丁卯 正月九日 天皇践祚、二條齊敬攝政、正月廿七日 孝明天皇ヲ泉山後月輪山陵ニ葬ル、五月廿四日 兵庫開港ヲ許ス、九月四日 丁抹國ト條約ヲ締結ス、九月六日 意多利亞國ト條約ヲ締結ス、十月十四日 將軍徳川慶喜大政返上ヲ請フ、勅シテ將軍慶喜ノ大政返上ヲ允(ゆる)シ、後命ヲ待タシム、十月廿九日 宣明使ヲ遣ハシ大政復古ノ事ヲ月輪山陵告ク、十一月三日 國事掛近衛忠房太政官再興ノ議ヲ上ル、十二月十日 勅シテ攝政、關白、征夷大將軍議奏、傳奏、守護職所司代等ノ職事ヲ廢シ、更ニ總裁、議定、參與ノ三職ヲ置テ、以テ大政ヲ行ハム、十二月十日 大政復古ノ事ヲ公卿ニ告ク、十二月十二日 徳川慶喜二條城ヲ去テ大阪ニ赴ク、十二月廿二日 勅シテ萬機ヲ親裁シ、博(ひろ)ク公議ヲ採ルコトヲ布告ス、大政不振、朝廷式微ヨリ殆ント七八百歳、此ニ至リ朝綱一振、大政復古、天下再ヒ天日ノ光輝ヲ仰クコトヲ得タリ、十二月廿七日 天皇建春門ニ御シ、薩長土肥四藩ノ練兵ヲ觀ル、明治元年戊辰 正月三日 幕府ノ軍京師ヲ犯ス、官軍之ヲ伏見鳥羽ニ破ル、詔シテ嘉彰親王ヲ征討大將軍トナシ、錦旗節刀ヲ賜ヒ之ヲ討ツ、連日交戰皆勝ツ、正月六日 征討大將軍淀城ニ入ル、徳川慶喜海路東走ス、正月七日 詔シテ徳川慶喜ヲ討ス、正月九日 三條實美岩倉具視ヲ副總裁トス、大坂城火ス、正月十日 詔シテ徳川慶喜以下ノ官位ヲ褫(うば)フ、此日大將軍大坂城ニ入ル、正月十五日 天皇元服ヲ加フ、東久世通禧ニ勅シ外國公使ト兵庫ニ會シ、大政復古ノ事ヲ告ケシム、三月十四日 天皇南殿ニ御シ、公卿諸侯ヲ率ヰテ、天神地祇ヲ祭リ、五事ヲ誓約ス、七月十七日 江戸ヲ以テ東京トス、」黒船が来る。隣国などから既に世界情勢を知る藩はあったが、徳川幕府は慌て、朝廷、孝明天皇は異人に拒否反応を示す。が、朝廷の了解なしに大老井伊直弼アメリカと不利な通商条約を結び、天皇を蔑(ないがし)ろにしたとして一部の公家と水戸藩らは攘夷を掲げて幕府に改革を迫り、井伊直弼は討たれる。が、難局に舵を切る力は幕府にも朝廷にもなく、苦し紛れに公武合体の策に出、京都から追い出された攘夷強硬の長州は、徳川から寝返った薩摩と倒幕に傾き、大政奉還をして生き延びようとした徳川慶喜は、戊辰戦争で息の根を止められる。攘夷を譲らなかった孝明天皇は、慕っていたという妹和宮を嫁した徳川家茂の死の四カ月後に世を去り、大政奉還、王政復古と瞬く間に世は移る。この流れの前に置かれた二人の死を、毒殺とする者がいる。孝明天皇の死は天然痘ではなく、筆を舐める癖のあった天皇のその筆の先にヒ素が塗ってあったというのである。後を継いだ明治天皇の即位は、満十四の歳である。北野天満宮は、菅原道真の無念の祟りを惧れ、その霊を祀っている。アメリカ人、異人を懼れ嫌った孝明天皇は、アメリカと戦争をする前の年に神として祀られた。その丹柱の平安神宮を中国からやって来た観光客が手を合わせ、門の前に植えた松の間では親子が凧を揚げ、隣りのグラウンドでは、ばらばらのユニフォームを着た男らがバットで打った球を受け、裏のいまは花のない二つの池のある広い庭を、韓国人の家族が幾人かの日本人に追い越されながら巡り歩く。修学旅行のコースに平安神宮が入っていた。その日は雨で、ビニール傘を手に数人で辿り着いた平安神宮の本殿は、シートに覆われ工事のさ中で、それはその年の正月に起こった左翼の放火による再建工事であるとは誰も知らず、小降りになって閉じた傘の先を後ろに引き摺りながら、無駄足の徒労を地面に刻み、いささかの反抗を示したのである。

 「私はアイスランドにはいったけれど、グリーンランドは知らない。いったことがないのである。ただし、グリーンランドの釣りのことをよく知っているスウェーデン人の釣師にそういう話を耳に吹きこまれてくらくらとなったことがあり、それがどうしたものか話をしているうちにふいに暗部で発芽して、たちまち空までとどく豆の木になってしまったのである。」(「渚にて開高健ロマネ・コンティ一・九三五年』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出の方が確実に実施できる」 政府小委、処理水提言案」(令和2年2月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)