つげ義春の漫画『無能の人』に、石を売る話がある。多摩川の河原にボロ布で小屋を掛け、棚や足元に赤ん坊の頭ほどの石を並べ、中で身を縮めるようにして男が店番をしている。男は己(おの)れの描く漫画に行き詰まった漫画家である。小屋を通りがかった者が男に、この石の出どころを訊くと、男はこの河原で拾ったものだと応える。ただで拾った石にお金を出して買うヤツはいない、と通りがかりの男が云う。漫画家の男もそう思っている。が、売り物である石は、河原に転がる無数の石から「選ばれた石である」と称することは出来る。選んだのはこの男である。丸みを帯びた形や表面の模様を、面白いと思う者がこの世にいないとは限らない。黄色い模様が星の形に見え、白い線の上下を引繰り返せば山奥に瀧が現れて来る。ある者が石一つを部屋に残してある日失踪する。その黒茶色の石はどこか猫が蹲(うずくま)っているように見えなくもない。その者の失踪の理由は借金かもしれないし、人間関係の縺(もつ)れかもしれないが、回りにいた者らにはその理由が分からない。住人が消えてガランとした六畳間に、その猫のような石が置いてあった。ある者が、その石は失踪した男がある男から貰ったもので、その男も行方不明になっていると云う。いやその男は刑務所に入っているだけだ、人殺しで。その刑務所に入っているという男は、その石をどうして持っていたのか、同じように誰かから貰ったのか、それともどこかで拾ったのか。その男も貰ったんだ、と別の男が云う。そんな話を聞いたことがある。それが恩のある者で、捨てるに捨てられなかったそうだ。その恩のある者はどうしてその石を持っていたのかは、その男は聞いていたのか。その嫁の父親から貰ったんだ、結婚の祝いに。たとえば一つの石には、このような謂(いわ)れがあるかもしれず、ある石を手に入れた者がそのことが理由で幸福の階段を上がり、それを手離した瞬間に不幸の坂を転げ落ちる。あるいはその逆の語り話も、この世には星の数ほどある。神社や寺の境内にあるものの一切は持ち帰ってはならないという言い伝えを子ども時代に聞いたことがある。草花、木の枝、木の実、木の葉、砂の一粒でも黙って持って帰るとバチが当たるというのである。が、融仙院良岳寿感禅定門の戒名を刻んだ石川五右衛門の墓石は削り取られ、持ち去られるという。削り取った者はバチが当たることを覚悟してでもそのご利益の夢に縋(すが)るのである。嵯峨車折神社(くるまざきじんじゃ)は、持ち帰り用の小石を売っている。手に入れた者はその小石を身から離してはならず、その日常を金で買った神の分身と共に過ごすのである。それから幾日か幾十日か幾百日の後、その者の願いが叶ったならば、身の回りに石がなければ河原から石を一つ拾い、その石に神への言葉を書いて報告する。車折神社の本殿の前にはその言葉を記された石が積み重なり、小山となっている。ことは、祇園の茶屋の女将が売掛け金の回収を願ったことにはじまるという。願い事はどうてもいい。ここに願い事を聞き入れてくれる神がいるということを、その女将は石ころをもって目に見えるように証明したのである。

 「新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這つて歩いてゐるのを見たのだ。石が這つて歩いてゐるな。ただそう思うてゐた。しかし、その石塊(いしころ)は彼のまへを歩いてゐる薄汚い子供が、糸で結んで引摺つてゐるのだということが直ぐに判つた。子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天變地異も平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかつたのだ。」(「葉」(『晩年』)太宰治太宰治全集 第一巻』筑摩書房1955年)

 「「台風19号」福島県内7人死亡 25河川氾濫、中・浜通り浸水多数」(令和元年10月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 刈稲を置く音聞きに来よといふ 飯島晴子。田圃に実る稲穂の実物を、見ることも触ることもないまま一生を終える者はいるかもしれない。海から大網を引き上げる時の漁船の揺れや、屠殺場の豚の悲鳴を知らない者はそれ以上にいる。変わった句である。刈った稲を置く音を聞きに来い、と云っているのは農家である。この農家は作者に対して、新米を食べに来いとも、稲刈りを手伝ってくれとも云っていない。風が吹いて揺れ撓っている時にも、稲は音を立てる。が、水を抜いて乾いた田圃で、根元から鎌で刈り取って地に置いた稲束の立てる音を、農家の者は聞きに来いと云うのである。機械が袋詰めまでする今日の田圃で、この稲の音はしない。この稲の音は機械化される前の音か、機械が入ることの出来ない不便な田圃の音である。一年に一度きりの、農家には耳慣れた音であり、収穫に思うところがあるのは当たり前のことであろうが、腰を屈め黙々と刈ってゆく農家の者は、その稲の重みが立てる音にいちいち耳を傾け、手を休めることはしない。仮にその音に、他所者(よそもの)に対して説明がつく思いがあったとしても、総じて農家の口は重い。いつであっても農家にとっての重要事は刈稲の地に置く音ではなく、それは天候でありここに至るまでの技術のはずである。それらの説明は音では出来ない。稲を寝かせた音で説明をつけようとする者が俳人である。ある日稲刈りを見た作者の飯島晴子は、その稲の音が耳に残った。それがどうして耳に残ったのかは、その時には分からなくても後のち思いつくかもしれない。その後のちの考えの手立てとして、飯島晴子は農家の口を借り、その口が聞きに来よと云ったとしたのである。飯島晴子は、京都の人である。子ども時代に御室仁和寺(おむろにんなじ)のそばに住み、家の裏は田圃であったという。仁和寺前の一条通を西に向かえば、広沢池(ひろさわのいけ)に出る。広沢池の西側、北嵯峨の田圃で稲刈りが始まっていた。烟は籾殻を燃やしているのである。飯島晴子は、七十九歳で自死している。稲刈り機の響く田圃に立って、稲束の地に置く音が聞こえるとすれば、それは飯島晴子の耳を通った音である。

 「雨戸の隙間からさし入った光が障子をほんのりと明るくしている。船溜りに漁師どもの声がする。しのびやかな櫓の音もする。帆を上げるためにきりきりと滑車を滑らせる綱の音もきこえる。おっつけ夜は白むであろう。けさも川は霧でとざされているだろうか。夜具にくるまり、目をつむっている私に川が見えてくる。名前のない川である。」(「諫早菖蒲日記」野呂邦暢野呂邦暢作品集』文藝春秋1995年)

 「福島県の高校生が六ケ所村訪問 核燃料の課題向き合う」(令和元年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 アーユージャパニーズ。目が合って一方的に話を始めたその者はその前に、あの氷のようなものは何を意味しているのか、とひとり言のようなものいいで云った。首に身分証をぶら下げた七十前後の痩せた小柄な女である。その氷のようなものは、山門の石段に伸びる参道の傍らにあった。ここはツクツクボウシの鳴きしきる東山法然院である。女は、山門の内の石段を下りてゆく恐らくは夫婦であろうどちらも白髪の白人ふたりに英語で声を掛ける。白人夫婦は、その氷のようなものを足を止めて見ていた。その氷のような柱は、杉の根方や苔と石の間に幾本か傾いて立ち、白砂の中にもその欠片(かけら)のようなものが幾つか転がっている。身分証をぶら下げた女は、ステンレスのプレートを見落としたのかもしれない。それには、「つながる、西中千人」と書いてある。あるいはそれを読んだ上で、何を意味しているのか分からないということなのか。身分証にミチコとあるのを見れば、女も恐らく日本人であるのであろう。それでも日本人が日本人に、その氷のようなものの意味を問うているのである。質問に質問で返すというのは、行儀のいいことではない。例えば、あなたはどう思うのか、あるいはあなたも日本人ではないのか。女は正直なのかもしれない。「つながる」と題されても、その氷のようなものからは何も頭に浮かんで来ないし、そうであれば案内をしている白人夫婦の質問に応えることが出来ない。が、同じ日本人であるあなたなら、もしかしたら知って説明が出来るのではないか、これを作った者も同じ日本人なのであるから。が、ミチコという身分証をぶら下げた女が云った、あなたは日本人かという問いは、苔や白砂の上に氷のような柱が立ち並ぶのを前にして、一瞬身を怯(ひる)ませる。その一瞬は女には長く、女は続けてもう一つの質問を口にする。山門の内の石段を下りた細い参道の石畳の両側に、巨大な豆腐か蒟蒻を置いたような砂の山があり、白沙壇(はくさだん)というらしいが、これは何であるのか。それには型通りの答えがある。上に筋目をつけた平らな砂山は水を表わし、その間を通ることで身を浄めるというのである。そのことは知っていると、ミチコという女は応える。が、その説明ではもの足りないという口振りをこの女はするのである。人間が水で身を浄めるということは、どの宗教にもある。インドでも日本でも、神に触れる前に川の水に浸る。が、それはやがて手を濡らし、口を漱ぐだけに省略される。神というものを、恐らくは軽んじはじめたからである。仏の前でも当然人は俗に塗(まみ)れ、慾に塗れ、汚(けが)れている。であれば手を合わせる前に人は水で身を浄め、己(おの)れが汚れていることを認めなければならない。法然院の水は、砂である。庭に敷いた砂は、水に見立てられる。故(ゆえ)に砂山は水なのである。この砂、水の山の間を通ることで身を浄めるということは、人が認めたのではない。仏がそれを良しとしたのである。そう日本人は考えるのである。日本という国で生まれ、日本語でものを考える者は、アーユージャパニーズと訊かれれば、イエスと取り合えずは応える。が、なぜ砂は水なのか、あるいはなぜ水は砂であるのか。あの参道に立つ氷のような柱は、溶かしたガラス瓶で出来ているのであるが、ガラスはガラスであり、それが「つながる」と題されても、ミチコという身分証をぶら下げた女が何も思い浮かばないとしたら、それは紛れもなく日本人であるからに違いない。日本人の直観は奥ゆかしく、分からぬ己(おの)れ自身を疑うかもしれない。がその直観の見定めは、砂を水と思うことであり、ガラスをガラスと思いなすことである。

 「私の家のテラスのみかげ石の柱のところに一本の丈髙いバラの木が伸びている。今年の花はとうにおわり、その根元にモントブレチアの低いこんもりとした繁みと、いくらか老化しすぎたクルマユリが生えている。これはおそらく一週間後には最初の花をつけるだろう。このユリの葉かげから、私は強い日光で目がくらんでいたが、何か黒いものが音もなく、影のようにふわっと舞い上るのを見た。それは小鳥ではなかった。蝶であった。」(『蝶』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 岩波書店1992年)

 「「東電強制起訴」19日判決 東京地裁、大津波予見可能性焦点」(令和元年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 太秦蜂岡の広隆寺に国宝弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)がある。「十一月(しもつき)の己亥(つちのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ、厩戸豐聰皇子(うまやとのとよとみみのみこ)、聖徳太子)諸(もろもろ)の大夫(まへつきみたち)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「我(われ)、尊(たふと)き佛像(ほとけのみかた)有(たも)てり。誰(たれ)か是(こ)の像(みかた)を得て恭拜(ゐやびまつ)らむ」とのたまふ。時に、秦造河勝(はたのみやつこかはかつ)進みて曰(い)はく、「臣(やつかれ)、拜(をが)みまつらむ」といふ。便(すで)に佛像(ほとけのみかた)を受(う)く。因(よ)りて蜂岡寺(はちのをかでら)を造る。」(『日本書紀』巻第二十二、豐御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇十一年(603)十一月)妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が聖徳太子を悼(いた)んで作らせた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)に聖徳太子の言葉が残されている。「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)」仏は仏法であり、仏法は海の向こうより渡って来た教えであり、欽明天皇は国としてこれを受け入れ、聖徳太子推古天皇の元でこれを国の元(もとい)の一つとした。聖徳太子の手許に一体の仏像があった。それは日本で作られたものではなく、海の向こうから送られて来たものともいわれている。その仏像を聖徳太子は、海の向こうからやって来て、灌漑土木養蚕の技術で後に平安京となる地を開拓した秦一族の秦河勝に譲った。秦河勝聖徳太子の側近であったが、仏像を太子から譲り受けた者は他にはいない。その仏像が、当時は金色に塗られていた弥勒菩薩半跏思惟像であるという。聖徳太子秦河勝もこの世にどっぷり浸かっていた者である。聖徳太子と共に推古天皇の元で政(まつりごと)を仕切っていた蘇我馬子(そがのうまこ)は、世の病いを仏の祟りとして惧れ尊ぶ崇仏者として、病いを仏そのものの所為(せい)だとする排仏者の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)を殺害し、崇峻天皇を殺害させた。この馬子の傍らにいた聖徳太子はこう云うのである。「この世は虚しく、仏法だけが正しい」呪法に熱心な仏教信者が、それを排除しようとする者を殺しても、その教えそのものは真理として揺るがない。七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)という教えがある。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)」どのような悪もなさず、あらゆる善を行い、自分自身の心を浄めることが諸仏の教えである。教えを守って祈れば良いことがある。あるいは念仏を唱えるだけで浄土に行くことが出来る。あるいはその教えるところの境地、悟りのためには修行が不可欠であり、その修行の後色即是空空即是色の意味するところを教え伝える者となるのである。あるいは修行の果てに悟りが待っているのではなく、修行することが、修行の継続の状態が悟っているということである、とするのである。あるいは三時(さんじ)という考えがる。三時とは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)であり、正法は釈迦入滅後の五百年あるいは千年の間「教え」があり、それを実践し悟りを開く者がいる期間であり、像法はその後の、「教え」と修行者はいても悟る者の現れない千年の期間であり、末法は像法の後の、「教え」だけがあって、修行そのものが衰え、悟ることが不可能となる時である。聖徳太子のいう仏の「教え」だけが真理であるが、この世の行きつく先にはその「教え」は省みる者の誰もいない「教え」としてしか残らないのである。その「教え」るところに、弥勒菩薩が出て来る。弥勒菩薩は釈迦入滅の五十六億七千万年の後この世に現れ、救済されずにいる仏を乞(こ)う者のすべてを救う未来仏であるという。三時の教えを採(と)れば、五十六億七千万年先、仏法は衰えている。そして弥勒菩薩はやって来る。が、真理であるところの仏法を身につけた者はこの世にいない。七月十八日、京都伏見の京都アニメーションのスタジオが、一人の男によって撒かれたガソリンに火を点けられて全焼し、働いていた三十五人が死亡し、三十四人が負傷した。容疑者の四十一才の男は下着泥棒、コンビニエンスストア強盗の前科があり、強盗で懲役三年六カ月の判決を受け、三年服役している。就いた仕事は、埼玉県庁文書課の仕分け、新聞配達、コンビニ店員、郵便配達などである。この男はアニメーションにする話を書いていたという。そして男はアニメーションの会社に火を放った。この男の住んでいたアパートのドアの内には、「電気、クーラー消す」と書いた紙が貼ってあった。広隆寺弥勒菩薩聖徳太子の元にあったものであれば、聖徳太子は日日(にちにち)この仏像を拝み、弥勒菩薩はその薄く開いた両目で聖徳太子を見たのであろう。弥勒菩薩は、「教え」によって作られた仏であろうか。そうであるならば弥勒菩薩が教え救うということは、人がこの世でそう思いそう為すということである。弥勒菩薩が「教え」によって作られた仏でないのであれば、人は真理であるところの「教え」を金輪際手放さず、ひたすら弥勒菩薩を待たねばならない。

 「私は三時間ほど釣りをして、二度川のなかに落ち、とうとう、小魚を一匹釣りあげた。お前は釣りを知らないね、と、インディアンは言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。どこもここもまちがってる、と、彼は言った。釣りをしたことがあるのかい。ないよ、と、私は言った。俺もそう思った、と、彼は言った。どこがまちがってるの、と、私は言った。そうだな、と、彼は言った。とくにまちがっているというところはない。ただ、お前は自動車を運転するスピードで釣りをしているんだ。」(『わが名はアラム』ウィリアム・サロイヤン 清水俊二訳 晶文社1980年)

 「第1原発「処理水」見えぬ着地点 タンク960基115万トン保管」(令和元年8月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 蛇いちご魂二三箇色づきぬ 河原枇杷男。昭和四十八年(1973)青木八束は小説「蛇いちごの周囲」で第三十六回文學界新人賞を受賞し、その年の第六十九回芥川賞の候補になるが受賞しなかった。青木八束は、脚本家田村孟の筆名である。昭和四十四年(1969)三十六歳だった田村孟は連続ドラマポーラ名作劇場『サヨナラ三角』の脚本を途中で投げ出し、以後テレビドラマの脚本は書かないと宣言する。『サヨナラ三角』の演出者の交代に、あるいは交代で起こる演出のムラに抗議し、その抗議が通らず降りたのである。田村孟は昭和三十年(1955)東京大学文学部国文学科を卒業し、松竹大船撮影所に入り、昭和三十六年(1961)一期上にいた大島渚らと松竹を退社して創造社を作る。創造社は大島渚らが理想とする映画を造るための会社であった。が、金が思うように集まらず、田村孟は生活のため会社が取って来たテレビドラマの脚本を書かなければならなかった。田村孟が書いたのは、テレビが日本の茶の間に普及しはじめた頃のドラマである。創造社が造った映画は評価され、田村孟が書いた脚本は、昭和四十三年(1968)『絞死刑』(共作、監督大島渚)、昭和四十四年(1969)『少年』(監督大島渚)、昭和四十六年(1971)『儀式』(共作、監督大島渚)がキネマ旬報脚本賞を受賞する。が、田村孟文學界新人賞を取った年、創造社は解散する。テレビ業界に別れを告げ、大島渚と袂を分かつことになった田村孟が書いた小説が、「蛇いちごの周囲」なのである。田村孟の出身である群馬の、戦後間もない田舎に住む少年の前に東京から若い女がやって来る。戦時中その若い女の姉が、少年の家の分家の長男に嫁ぎ、その長男である夫は戦死し、その後その姉も自殺をしている。話は、少年が東京から来た若い女を「あなた」と語り、若い女が姉の遺品である回転椅子を高校受験を控えた少年に遣るため、リヤカーで姉の嫁ぎ先である少年の家の分家の製材所に取りに行くところから始まる。その分家には、若い女の姉の夫だった長男の両親と知的障害の次男と養女が一人いる。若い女は生前の姉と手紙の遣り取りをしていて、姉とその義父の間に男女の関係があった、あるいは出来たことで姉が自殺をした、あるいは義父に殺されたのではないか、と義父に問う。が、義父ははなから相手にせず、家の跡継ぎのため若い女に知的障害の次男との結婚を迫ったりするのである。事実はどうなのかという疑問に応えるようには、話は展開しない。事実はさして重要ではないとでもいうように、若い女が抱いていた憶測はあっさり否定され、若い女には確たる証拠もなく、それ以上に反論は出来ない。少年は遣り交わす二人の前で、ある女のことを思い出す。その女は田圃の畦道で、防空頭巾に蛇いちごを摘んでいたのである。少年の云いに従って蛇いちごを捨てたその女は、若い女の姉であったかもしれないと思うのであるが、若い女はその太っていた姉を本当は愚鈍な女と思っていて、姉の夫の回りには姉よりも素敵な女が何人もいたと云うのである。少年は若い女が姉の夫のことを云う口ぶりから、その姉の夫を好きだったのではないかと考える。小説は、少年と若い女が曳いて来たリヤカーに乗って坂を下る遊びをするところで終わる。小説の中の人物の関係性は古く、少年が若い女のことを「あなた」として語ることで若い女の物怖(お)じしない青春性や、少年の若い女を思う気持ちにこの小説で狙ったであろう鮮味が醸し出されたことは確かであるが、他の人物は横溝正史の小説から借り出されて来た者たちの如きであった。若い女と他の人物との関係性を濃くすれば、徹底した意地汚い遣り取りをしてしまえば、若い女の青春性はひとたまりもないと考え、恐らく田村孟は他の人物を距離を縮めて来ない気味の悪い存在として置かざるを得なかった。それはしたたかな人物の造形に定評がある脚本家田村孟の小説家としての限界であった。田村孟はその後数篇の小説を発表したのみで、再びテレビドラマの脚本書きに戻ることになるのである。昭和五十一年(1976)『青春の殺人者』(監督長谷川和彦)のキネマ旬報脚本賞受賞で小説の挫折を乗り越えた田村孟は、再び長谷川和彦と組んだ映画『連合赤軍』で長いトンネルに入って仕舞う。昭和五十四年(1979)から取り掛かった『連合赤軍』の第一稿が出来上がったのは、九年後の昭和六十三年(1988)であった。田村孟学生運動を支持する側として見守るような立場にいた。そのことが脚本を書く上で意味を見出す前に自問の末にブレーキを掛けなかったとは云い切れない。結局『連合赤軍』は決定稿に至らず、映画化されなかった。が、そのトンネルのさ中でも咲いた花はあった。昭和五十九年(1984)公開の『瀬戸内少年野球団』(監督篠田正浩)の脚本である。田村孟は、映画の話よりも小説の話をする時に顔がほころんだ。この違いが恐らくは映画と小説に対する田村孟の思いの差である。が、フォークナーを全部読みなさいと云った時その表情は改まった。いや、車谷長吉の『鹽壺の匙』を褒めた時はほころんでいた。洛北西賀茂に正伝寺がある。かつてデビッド・ボウイが自ら焼酎のCМ場所に選んだという寺である。本堂の手前に鐘楼の立つ空地があり、蛇いちごの実が幾つか生っていた。山裾の上にある方丈の庭の眺望は清々(すがすが)しく、瓦を葺いた低い築地塀越しに東の比叡山の姿が見える。一面白砂を敷いた奥、塀に沿って島のようなサツキや山茶花のこんもりと丸い刈込みがあり、花が咲いて仕舞えばそれは凡庸な風情であるが、雪の積もる写真を見れば、誰が見ても静寂な庭である。覆われて見えないものに抱く畏れは、想像が働くことであり、庭一面に蛇いちごの実を生らせるのも想像を働かせることである。蛇いちごが一面を覆った光景はどぎついかもしれないが、手を加えず放っておけば、すぐ前の叢に生えている蛇いちごが易々(やすやす)と塀を越え庭を覆って仕舞うことはいつでもあり得るのである。「蛇いちごについてありとあらゆることをたて続けに喋った、かわいげに見えるその一粒一粒の中に蛇の卵が一個ずつはいっている、だから食べれば腹の中が蛇だらけになる、それを知っているから仔山羊だって絶対にくわない」(「蛇いちごの周囲」田村孟田村孟全小説集』航思社2012年刊)「「そうですか。苦しい人ですね。」「苦しい?」「いや、死んだ卵で生きるというのは。」(『赤目四十八瀧心中未遂車谷長吉 文藝春秋社1998年刊)田村孟は『連合赤軍』以外にも幾つかの映画にならなかった脚本を残したまま、平成九年(1997)六十四歳で亡くなった。「石膏詰め子殺し事件を題材とする映画、神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』を原作とする映画、ゾルゲ事件を題材とする映画」(『田村孟全小説集』年譜)死卵を産んだ脚本家が苦しくないはずはなく、その顔がほころぶはずもないのである。

 「この地上では誰であれ、信念にかかわって二つのことが問われる。一つは、この人生の信じるに足るかどうかについて。いま一つは、自分の目的の信じるに足るかどうかについて。二つの問いとも、誰もが生きているという事実を通して、すぐさま断乎として肯定でもって答えるので、問いが正しく理解されたのかどうか怪しくなるほどだ。ともあれ人はいまや、この自分自身の基本の肯定に向けて、あらためて努めなくてはならない。」(「八つ折りノートH」フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集⑥掟の問題ほか』白水社2002年)

 「復興情報などまとめた地図 葛尾で「福島アトラス04」完成報告」(令和元年6月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昭和四十二年(1967)立命館大学の一回生だった高野悦子の、六月十五日の日記に紫野大徳寺塔頭大仙院が出て来る。「きのう長沼さんと山川さんと酒井さんとの四人で大徳寺へ行く。黄梅院と大仙院をみる。季節はずれらしく人がいなかった。黄梅院の庭石におりてみたり、たたみの上に横になったりしてのんびりとみた。武野紹鷗(たけのじょうおう)の日本最古の茶室がある。四畳半の部屋に小さな炉のついているいたって簡素なものであった。大仙院の床の間(日本で初めての)をみても質素そのものであり、幅の細い掛け軸と黒光りする段も何もついていない床、そして一本のききょうが全体をひきしめていた。簡素そのものだ。でもそこに静寂な美しさがあった。大仙院の住職に山川さんはすっかり気にいられた。あのお坊さんはふざけているのかまじめなのかわからない。何とかかんとかいわれながら、五〇円のまっ茶代をはらわされた。」(『二十歳の原点序章』高野悦子 新潮文庫1979年刊)大仙院の方丈は国宝であり、その庭は室町文化枯山水の例として教科書に載るほどのものである。白い築地塀に挟まれた狭い鉤型の曲がりには大石が立ち、その傍らに幾つかの組み石が並び、小高く椿が植えられ、白砂には筋目が入り、渡廊下を間に石の舟が浮かび、その筋目を追って方丈の南へ回れば、二つの砂山を置いただけの庭に至る。大石は瀧を表わし、組んだ石の間に盛った白砂は流れ落ちる水であり、下り行き大河となり、その果てが大海である。案内の手引きで参拝の者は、そのような知識をなぞるように庭の石と砂を見る。庭の作者は大仙院開祖の古岳宗亘と方丈の襖絵を描いている絵師の相阿彌の間で揺れ、いまは古岳宗亘である。元来の禅の修行の場は深山幽谷であるが、町中にあるいは町外れの生活の場に、石と砂でそれを見立てることを日本の禅は発明する。目の前にあるものはその通りに目の前にあるものと限るのではなく、目の前にないもの、目に見えないものが恰(あたか)も目の前にあると思うことは、想像するという変のない頭の働きであるが、石と砂の庭を前にすれば、それは禅的思考であると言葉は説明する。が、禅はその先にある。見えるものを思って見えないものを思っても、在るものを思って無いものを思っても、禅はその先にある。その先に何かあると思わなければ修行とはならない。が、云うまでもなく先回りをして悟りを思うことは修行ではない。栃木県西那須野から京都立命館に入ってまだそれほどの日を経ていない高野悦子の日記には、初々しい弾んだ気分が表われている。「たたみの上に横になったり」出来たのは当時の空気である。が、その二年後の昭和四十四年(1969)の、たとえば五月二十八日の日記の気分は一変している。「五月二十八日 晴。私は何故に十九日全学バリ闘争をたたかったのか。学生を商品としかみず、それを管理し、またそれに対する闘いを抹殺しようとしている大学当局へのたたかい。すなわち、十二月以降の闘争が提起した大学の理念に関する問題を抹殺し隠蔽し、開講という旧来の秩序維持を行おうとすることに対する我々の大学解体への闘い、そこにおいて私は当局、民青、秩序派との対決を決意した。現代におけるブルジョア大学の解体の闘いとして私は私を位置づけた。そして二十日朝、私たちは機動隊の封鎖解除という洗礼をうけたのである。ブルジョア大学解体と掲げて闘おうとした我々に襲いかかった機動隊は我々の圧殺、全バリ闘争の予防的圧殺を行なった。第一にはっきりさせなければならないのは、私の闘いが、すなわちブルジョア大学解体の闘いが、政府ブルジョアジーや侵略を目ろむものに、七〇年の安保を控えて恐れを感じさせているのである。大学臨時措置法の本質が、二十日早朝の恒心館および正午の機動隊の学内乱入においてあらわれたのである。七〇年安保をむかえる政府の闘争圧殺であった。」(『二十歳の原点高野悦子 新潮社1971年刊)史学科に在籍していた高野悦子学生運動に身を置き、寺巡りをすることなど最早なくなり、六月二十四日の午前二時半過ぎ、山陰線の貨物列車に飛び込み自殺する。日記はその二日前まで書き綴られていた。胸苦しい文章である。この時代、政治は見えるが如くに見えているものと高野悦子には思えたのである。見えることは、理解として容易(たやす)い。学生の理解は見えることにあり、見えぬ魑魅魍魎にまでその理解は及ばず、この国に革命は起こらなかった。国は管理すべきことを学び、学生運動は寝物語のように、翌朝には誰も思い出すこともない。が、高野悦子の日記は寝物語としては苦い味を保っているのである。水上勉は『京都古寺』で大仙院を、土産物売り場が幅を利かせる観光寺と評している。大仙院の方丈の縁の低さは、そこに膝を屈して見れば、名高きその庭を不意に身近に思わせる。それは大方の戸建ての住み慣れた家の床の高さと同じである。ひと時そう感じれば、たとえば目に見えぬ、あるいは取り壊されていまはない実家の情景に観光気分は押しやられ、目の前の石と砂の庭に、裏庭にあった一本の無花果(いちじく)の木を思い出すのである。

 「兵隊の夢はもう一つある。もう一度兵隊になっている。戦争はもう終わっているのに、どういうわけかあらためてまた兵隊になっている。位はいくらか上級になっている。一度除隊になってからまた招集された人はあった。しかしこの老いた作家、三輪俊介は、現在作家であるかないかも全くはっきりしないまま、しかも戦争はたしか終結しているのに、また兵隊となっているのである。」(『うるわしき日々』小島信夫 読売新聞社1997年)

 「「除染土」…資材化進む 飯舘・長沼地区、環境再生事業を公開」(令和元年5月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鳥羽城南宮の門前に店を構えるおせきもちの折りに添えられる栞に、「江戸時代この地に「せき女」と申す娘が居て、その大道(鳥羽街道)をのぼって来た旅人に茶屋を設け、編笠の形をした餅を笠の裏にならべて、道ゆく人に食べさせていました。大変心の美しい「せき女」は真心をこめて餅を造り、旅人を慰め、いたわったため大変評判になりました。それで「おせき餅」と名をとどめ、その後も永くそこに名物餅が商われつづけてきました。」とある。この今村せき女という娘は、旅人を慰め、いたわったが故(ゆえ)に「大変心の美しい」者とされているのか、あるいはもとより「大変心の美しい」が故(ゆえ)に旅人を慰め、いたわったということなのかもしれぬが、「心の美しい」という言葉で評されるこの者を、たとえば旅人を慰めいたわったという行為を思うことだけで「心の美しい」者として思い描く時、この「心の美しい」という言葉は、おせきという娘の前で立ち止まる。子ども時代に読んだ作り話に出て来る者の一方は皆「心の美しい」者である。そのもう一方は悪人である。絵師鈴木春信は、明和の三美人と謳(うた)われた谷中笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の看板娘お仙を描いている。首を後ろに傾け、柳腰の割れた着物の裾から脛が見えるその写し絵は売れ、お仙目当ての参拝客で「鍵屋」は賑わったという。が、春信の錦絵は実物のお仙をそのままに写し取っているわけではない。春信の目標は実物に似せて描くことよりも、水茶屋の看板娘の特性、その振る舞いを掬(すく)い取ることにあった。裾を乱し片足を後ろに浮かしている様(さま)は、溌溂(はつらつ)と客をもてなす姿であり、笠森お仙は恐らくは愛嬌のある美人であったと春信の絵は伝えている。おせきもちの店を継ぐ者らに、おせきは「心の美しい」娘と伝えられて来た。が、大人は疑り深いのである。おせき餅は腰の強い小ぶりの餅の上に、丹波大納言の餡(あん)がたっぷり指で掬(すく)って撫でつけたように載っている。餅の風味も餡の甘味も淡泊である。このおせき餅の味が、おせきの時より変えずに受け継がれて来たというのであれば、言葉以上におせきという娘を伝えているのには違いない。が、この餅の味がおせきの人となりを表しているという謂(い)いは軽はずみな謂(い)いであり、この淡い餅を口に入れて味わう者の方こそが恐らくは試され、その者の人となりが立ち現れるのである。たとえば、翌日には固くなってしまう餅の繊細さと、無雑作に載る餡(あん)の大胆さは、おせきの人となりの一端を表しているかもしれない。が、繊細で大胆な悪人もいるのである。おせきが「心の美しい」娘であったかどうかは大事(だいじ)ではない。おせき餅が旨くなければおせきという娘の人となりに思いを巡らすことはない、ということが大事なのである。おせきもちの栞には続きがある。「しかし、慶応四年(1868)正月、日本の新生は明治維新の砲声とともにこの地にも轟(とどろ)き、その鳥羽伏見の戦いで、この辺り一帯は戦場のちまたと変わりはて、民家が次々と焼きはらわれました。」大政奉還、王政復古の後も、辞官納地を渋り外交権を手放さない徳川慶喜を、倒幕に拘(こだわ)る西郷隆盛が江戸で撹乱、挑発すると、大坂城に引き移っていた慶喜は強硬派の意を受け薩摩を討つための軍を上洛させる。旧幕府軍約一万五千人、新政府軍約五千人の内、旧幕府軍の死者は二百八十七人、新政府軍の死者は百十人であり、この戦さにはこれだけの者の犠牲を必要とし、新政府軍が掲げた錦の御旗の絶大な威力で賊軍となった旧幕府軍は戦意を失うのである。旧幕府軍の死者の内、会津藩兵の死者は百十五人であり、それらの多くは賊軍の遺体として放置され、京都守護職に就いた松平容保会津藩に、人足の口入れ雑用で出入りしていた博徒会津小鉄(あいづのこてつ)、本名上坂仙吉(こうさかせんきち)がその遺体を集めて荼毘(だび)に付し、黒谷金戒光明寺に葬るのである。会津小鉄の墓も金戒光明寺にある。おせき餅をこれらの死者に供えても、当然ながら彼らは金輪際それを食うことは出来ない。

 「ぽっと部屋のまんなかに明りが落ちていた、天井から。そして、その明りの円のなかに茶ぶ台が出ていた。茶ぶ台の上に鍋があった。お茶碗が二つとお皿にしゃけが載っていた。それきりだった。茶ぶ台は低くて小さくて丸くて黒ずんでいた。私はぐいと来たものを、ひどく力んでこらえた。しゅんと固くなってこらえた。そしてその子のおごちそうとは、ただ単に餅であることを知った。私に餅はごちそうの部に入らないと思われたが、引窓の明りの円筒形のなかの雑煮はめずらしくて割にうまかった。引窓の綱には煤がいっぱいさがったまま、柱へ巻きつけてあった。うちの台所のと同じ二重式の引戸で、おそらく押しつまってはりかえたのだろう、紙はまっ白だった。」(「ひきまど」幸田文幸田文 台所帖』平凡社2009年)

 「福島県「森林」放射線量は75%減 平均0.23マイクロシーベルト」(平成31年4月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)