行けど行けど一頭の牛に他ならず 永田耕衣。これを、行けど行けど一人(いちにん)の人に他ならず、と変えれば忽(たちま)ち「悟り」臭「仏教」臭が鼻につく。いや、牛であっても「悟り」臭は残る。どこまで行ったところで牛は牛であると。が、その先へ行けば行くほど牛は「本来」の「本当」の「本物」の牛に近づくのではないか。であればその先とはどこで、その「本物」の牛とは何か。『今昔物語集』にこのような牛が出て来る。「今は昔、播磨守佐伯公行と云ふ人有りけり。其れが子に、佐大夫▢とて、四条と高倉とに有りし者は、近来有る顕宗と云ふが父なり。其の佐大夫は、阿波守藤原定成朝臣が共に、阿波に下りける程に、其の船にて守と共に海に入りて死にけり。其の佐大夫は、河内禅師と云ひし者の類親にてなむ有りけり。其の時に、其の河内禅師が許に黄斑(あめまだら)の牛有りけり。其の牛を、知りたる人の借りければ、淀へ遣りけるに、樋集(ひづめ)の橋にて、牛飼の車を悪しく遣りて、車の片輪を橋より落したりけるに引かれて、車も橋より落ちけるを、「車の落つるなりけり」と思ひけるにや、牛の踏みはだかりて動かで立てりければ、鞅(むながい)の切れて、車は落ちて損じにけり。牛は橋の上に留まりてぞ有りける。人も乗らぬ車なれば、人は損ぜざりけり。弊(つたな)き牛ならましかば、引かれて牛も損じなましを。然れば、極(いみ)じき牛の力かなとぞ、其の辺の人も讃めける。其の後、其の牛を労(いた)はり飼ひける程に、何にして失せたりとも無くて、其の牛失せにけり。河内禅師、「此は何なる事ぞ」とて、求め騒ぎけれども無ければ、離れて出でにけるかとて、近くより遠きまで尋ねさせけれども、遂に無ければ、求め繚(あつか)ひて有る程に、河内禅師が夢に、彼の失せにし佐大夫が来たりければ、河内禅師、「海に落ち入りて死にきと聞く者は何で来たるにか有らむ」と、夢心地にも怖しと思ふ思ふ出で会ひたりければ、佐大夫が云はく、「己(おの)れは死にて後、此の丑寅(うしとら、北東)の角の方になむ侍るが、其れより日に一度樋集の橋の許に行きて苦を受け侍るなり。其れに、己れが罪の深くて、極めて身の重く侍れば、乗物の堪へずして、歩(かち)より罷(まか)り行くが極めて苦しく侍れは、此の黄斑(あめまだら)の御車牛の力の強くて乗り侍るに堪へたれば、暫く借り申して乗りて罷り行くを、極(いみ)じく求めさせ給へば、今五日有りて六日と申さむ巳(み)の時許に返し申してむとす。強(あなが)ちにな求め騒がせ給ひそ」と云ふと見る程に、夢覚めぬ。河内禅師、「此(か)かる恠(あや)しき夢をこそ見つれ」と人に語りて止みにけり。其の後、其の夢に見えて六日と云ふ巳の時許(ばかり)に、此の牛俄(には)かに何(いづ)こより来たりとも無くて歩び入りたり。此の牛、極(いみ)じく大事したる気(け)にてぞ来たりける。然れば、彼の樋集(ひづめ)の橋にて車は落ち入り、牛は留まりけむを、彼の佐大夫が霊(りやう)の、其の時に行き会ひて、力強き牛かなと見て、借りて乗り行きけるにや有りけむ。此れは河内禅師が語りしなり。此れ極めて怖しき事なりとなむ、語り伝へたるとや。」(巻第二十七第二十六「河内禅師の牛、霊の為に借らるる語(こと)」)播磨守佐伯公行という人の子で佐大夫▢という四条高倉辺りに住んでいた者は、いまいる顕宗という者の父である。その佐大夫が阿波守藤原定成朝臣のお供をして阿波に下っている時、船が遭難し守(かみ)と共に死んでしまった。その佐大夫は河内禅師という人の親類であるということである。その頃、この河内禅師の家で黄斑の牛を飼っていて、知り合いが借りに来たので淀へやったところ、樋集橋(ひづめばし)の上で牛飼いが下手をしたため車の片輪が橋からはずれ、そのはずみで車が川に落ちそうになったのを、「車が落ちてしまう」と思ったのであろうか、牛は踏ん張り動かず立っていたため、ついに鞅(むながい)が切れ、車は落ちて壊れてしまった。牛はこの期に及んで橋の上に踏みとどまったのである。誰も車に乗っていなかったのでさいわい怪我をした者はなかった。ひ弱な牛であったら車と一緒にどうにかなってしまっていたにちがいない。それでこの牛を知る者は褒めたのである。そのようなことがあってこの牛を大事に飼っていたのであるが、どうしていなくなったのか誰も知らぬまま牛はいなくなった。河内禅師は、「これはどうしたことだ」と探し回ったけれども見つからず、逃げたのかもしれないと近所から遠くまで探させたがどうしても見つけることが出来ずほとほと探しあぐねていると、河内禅師の夢に、あの死んだ佐大夫が現れ出て来たので、河内禅師が、「海に落ちて死んだと聞いた者がどうしてやって来たのだろう」と、夢心地にも怖ろしく感じながら恐る恐る顔を合わせると、佐大夫はこう云った、「私は死んでからこの家の北東の隅におりましたが、日に一度樋集橋の袂に行って苦を受けております。しかし私の罪が深いせいか身体がとにかく重くてとても乗り物には乗れず、歩いて参るのですがとても苦しくてならず、この黄斑(あめまだら)の御車牛なら力が強く私が乗ってもびくともしませんでしたので、暫くお借りして乗せていただいておりましたが、あなたが大変お探しなさっておいでですので、これより五日の後、六日目の巳の刻(午前十時)頃、お返し申し上げるつもりおります。あまり大騒ぎしてお探しなさいますな」こう夢に見て醒めた。河内禅師は、「こんな不思議な夢を見ました」と人に語って、牛を探すのをやめた。そしてそれからその夢を見た六日目の巳の刻頃、その牛は突然どこからともなく姿を現わし門の中に入って来たのだ。それは大変な大仕事をしてきたような様で帰って来たのである。そうであればあの樋集橋で車が川に落ちてもこの牛が踏みとどまったのをたまたま行き遭わせた佐大夫の霊が何と力の強い牛と見定め、借りて乗って行ったのであろうか。このことは河内禅師が直に語ったことだ。これはじつに怖ろしいことであると語り伝えているということである。が、怖ろしかったのはこの牛の方ではなかったか。正体の知らぬけた外れの重さのものを乗せ、その者の命ずるままどこまでも行かなければならなかったのであるから。この話の中で車の片輪が橋から外れた牛が「車の落つるなりけり」と思ったのではないかと書いている。この「落つるなりけり」と思って足に力を込め両目をひん剥いて踏ん張ったこの牛は「本物」の牛のように思える。頭悪き日やげんげ田に牛暴れ 西東三鬼。

 「父は小机をあてがわれて、字の稽古をした。新聞の記事をそのまま写したり、漢字を拾って書き並べたりした。本を読む根気はなく、読んでも理解できないようだった。父の机の上には、左手で書かれた鉛筆の字で埋まった紙切が、片寄せて重ねられていた。」(「故山」上田三四二『祝婚』新潮社1989年)

 「飯舘・長泥地区曲田一部、避難指示25年春解除へ 施設操業踏まえ」(令和6年5月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 岡崎。

 

 千本ゑんま堂大念仏狂言は「閻魔庁」にはじまり「千人切り」で終わるという。が、最終四日の夜に足を運ばず、完結しない思いに保存会が撮った「動画」を見れば、西国に逃げる源義経が連れ添った静と途中で別れた後壇ノ浦で怨霊平知盛と戦う「船弁慶」にはじまり、大酒呑みの悪太郎が酔って正体を失くし伯父に頭を剃られ坊主になって騒動を起こす「悪太郎」、白拍子に化けた寺に因縁のある鬼神と坊主が釣鐘を前に戦う「道成寺」が終わると、「千人切り」の登場人物為朝(ためとも)、烏、親鬼、子鬼の四役が面を取った素顔で本堂の檀のゑんま像の前に並び、老尼の鉦打ち鳴らしての読経の後、為朝が老尼から文字を記した白布を巻いた金剛杖を授かる。守護役人為朝は、鬼や盗賊を成敗し善心を取り戻させるのがその役回りであるという。観客の待つ舞台に立った烏が弓を放つ動作で六方を浄めると、面をつけない演者と鉦笛などの裏方のすべてが舞台に勢ぞろいし、まず烏が為朝に扇で煽られ前に出れば、為朝は扇を縦に持ち換えて上下に動かす。烏はその動きにつられるように床の上で二度跳び跳ね、それでも為朝に襲いかかるしぐさに為朝が金剛杖を振り下ろせば、烏は後ろ向きに頭上に渡した弓で受け止め、次の一振りでもんどりうって床に切り倒され、烏は善心を取り戻す。このような手合わせが子どもから順に、たとえば裏方は座蒲団で振り下ろされる金剛杖を防いだりしながらユーモラスに繰り返され、最後に親鬼が切られ、舞台の上の演目「千人切り」は終わる。が、演者と裏方らはそのまま本堂の檀に集り、太鼓を打ち鳴らす中念仏を唱えながらゑんま像をゆっくり巡り、終えると烏が舞台で背負っていた泥棒除けという「千人切矢」を「どうですかあ」と子どもらが声を上げて参拝者に授与する。「千人切矢」がなくなると、参拝者が檀の前に並び、為朝から身体のあちこちを金剛杖で切る動作でさすられ、無病息災の加持を受ける。参拝者が厳(おごそ)かな顔で笑えば、大念仏狂言は本当の仕舞いとなる。明かりを落した舞台の前のパイプ椅子に人影はない。この席に観客が戻るのは来年の五月である。

 「私達夫婦の仲人をしてくれた亀井さんが、名前をつけてくれました。美穂、といふ名前です。男の子だつたら穂太郎がいゝと亀井さんはいひ、私も、のんびりしたいい名前だと思ひました。ルナアルの「にんじん」は不幸な少年ですが、それでも彼には、名づけ親のやさしい小父さんがゐます。にんじんがその名づけ親の許に泊まりがけで遊びに行くくだりは、あの本の中でも楽しい頁です。亀井さんはいま吉野の桜を見に旅行中です。私は明日、市役所に出生届をしに行かうと思つてゐます。」(「美穂によせて」小山清小山清全集』筑摩書房1969年)

 「処理水5回目放出が完了」(令和6年5月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 千本ゑんま堂は、縮んだ背筋を僅かばかり傾け歩く高齢の尼僧が引き継いでいるが、はじまりは平安後期とされ、『都名所図会』にはこうある。「千本閻魔堂は蓮台寺の南にあり、引接寺と号す。宗旨は真言なり。本尊は閻魔大王にして、法橋定朝の作。当寺の開基は定覚律師と鐘の銘にあり。大念仏は文永年中(1264-1275)に如輪上人はじめ給ふ。この寺の桜に普賢象といふあり。弥生の頃、花盛りを待ちて狂言をはじむるなり。一説にむかし笙の窟(しやうのいはや、奈良吉野の大峰山)の日蔵上人、冥土にいたり給へば帝(醍醐天皇)いまして、上人に向ひて宣(のたま)ふやうは、われ娑婆の業因深うして今浅ましきくるしみを受けたり。汝娑婆に帰りてわが為に千本の卒塔婆を供養すべしと、一首の歌を詠じ給ふ。いふならく奈落の底に入りぬれば刹利(せつり、最上位の位)も首陀(しゆだ、最下位の位)もかはらざりけり。日蔵感涙袖あまり、急ぎ帰ると思へば夢なり。この旨を奏聞して舟岡山に千本の卒塔婆を建て、当寺を造立し、いかめしき(盛大な)御とぶらひ供養をしけるとなり。」大念仏は念仏法会のことで、夜通し続く念仏踊りの眠気覚ましにはじまった狂言が、江戸の頃からは法会が失せ、狂言だけを催すことになったという。五月一日から四日にかけて大念仏狂言は昼夜催され、三日の昼に出掛ければ炎天下、舞台前のパイプ椅子の座席はすでに埋まっている。本堂の湿った薄暗い蝋燭の灯る中を抜けた社務所で御守を求める者もいるが、赤い提灯を幾つもぶら下げた門を潜って来る者のほとんどはそのまま本堂に建て増した安普請の小屋の如き舞台の方に向かい、午後一時、鉦と太鼓の音とともに毎年はじめに演じられるという「閻魔庁」が幕を開ける。鬼に引き紐で縛られた白装束の子どもが演じる亡者が小突かれながら坐って待ち構える閻魔大王の前に跪(ひざまづ)き、なおもその前で髪振り乱す鬼に責め立てられ、両手で目をこすって泣いていた亡者は堪らず懷から一本の巻物を取り出すと、鬼の目が眩む。開いた巻物にはこの亡者の前世での善行が記されているらしい。そうと分かると閻魔大王は亡者に繋がっていた紐で鬼を手繰り寄せ亡者を放つよう申しつけて去る。閻魔大王を見送った鬼は申しつけに従わず亡者をいじめ、亡者の巻物で目が眩み、いじめれば巻物で目が眩み、ついに鬼は巻物を渡せば負ぶって極楽へ連れて行くと約束し、信じて渡した巻物を懐に収めた鬼が亡者を負ぶって舞台を去って行く。観客の拍手が止むと、暑さに耐えかねたように席を立つ者もいて、立ち見もばらばら綻ぶように入れ替わる。次の演目は「寺譲り」である。「閻魔庁」は笛鉦太鼓の音を背にセリフを発しない見世物であったが、千本ゑんま堂の大念仏狂言壬生狂言、嵯峨狂言と違い演者はセリフを掛け合う。鉦と太鼓に誘われるように寺の隠居がしずしずと現れ、寄る年波なれば沙弥(さんみ、若い坊主)に寺を譲ろうと述べ、沙弥を呼び、その旨伝えると、沙弥は目の前の柱を両手で揺すって隠居に叱られ、寺を任すということだと云われれば、四股を踏んで柱に体当たりし、また叱られ、寺を持つということだと云われれば、床の敷居に這いつくばって持ち上げようとする。が、沙弥は目出度く寺の住持となる。場面変り、檀家のゴ左衛門がやって来て生憎の天気傘を貸して欲しい、と頼まれた住持となった沙弥が寺に一本きりの傘を貸したことを隠居に伝えると、隠居は次からはこう云って断れと諭す。「傘はこの間、逮夜(たいや、命日の前日)に参り、おりふし道にて雨に遭い、持って帰って縁側に干しておいたら、比叡颪(ひえいおろし)がドッと来て、宙に舞い上り、落ちたところが骨は骨、紙は紙とバラバラになりましたよって、荒縄でひっ括り、天井裏に吊り下げてございますれば、今日のお間にはあいなりませぬ」場面変り、隣村のシブシロウ左衛門がやって来て、道中馬が脛を痛めたので馬一頭拝借したいと住持の沙弥に頼む。住持の沙弥は「馬はこの間、逮夜に参り、おりふし雨に遭い、持って帰って縁側に干しておいたら、比叡颪がドッと来て、宙に舞い上り、落ちたところが骨は骨、紙は紙と━━」と応えれば、観客の笑いが起こる。この辺りまで立ち見をしていたが暑さに勝てず、本堂の庇の下に逃げ込み、聞こえて来るセリフに耳を傾けていると、ヒエッと女の声が上がる。その方を見れば、入り口の石段に腰を下ろしていた年の入った女が後ろに仰向けに倒れている。傍らにいた中年の女が倒れた女に声をかけるが返事はない。別の女が脈を取り、体を揺すって名前を訊くが、周りを取り囲まれ倒れた女が返事をしたかどうか分からない。誰か救急車を呼んでと中の一人が声を上げると、傍らにいた中年の女が携帯恵電話で通報し、高齢の女性が倒れ、熱中症かもしれない、八十才くらい、意識はない、千本ゑんま堂の本堂前などと伝えるが、舞台の客席にいる者からは見えないこの事態は観客の誰も知らず、舞台の上では、傘の断りを馬の断りに使った住持の沙弥が隠居に叱られ、馬の断り方はこうだと諭される。「馬はこの間脛を痛め、下の町の塩屋から塩薦(しおこも)を取り寄せ、足にグルグル巻いて、馬部屋にウマしておりますれば、今日の間はえまいりません」サイレンの音が鳴り響いて来る。と、倒れていた女が目を覚ましたようで、誰かが大丈夫かと声をかける。女は片肘をついてゆっくり起き上がる。舞台では、新町のおのうという女が現れ、「みょうにちはてての三年にございますれば、檀那寺へ参り、ご回向をたのもうとぞんじ、まずは案内をかいましょう、おたのもうしましょう」と云っている。救急車が赤い提灯が下がる門の前に停まり、薄水色のビニールの防護服に身を包んだ隊員が一人駆け足で、その後ろから同じ格好の隊員二人がストレッチャーを押して来る。早速聞き取りファイルを開いた隊員に倒れた女は大丈夫だと応えたらしく、隊員は病院には行かなくてもいいからせっかくきたのだから救急車の中で血圧などを調べさせてくれと説得する。舞台の声は、自分が住持となったことを笑ったおのうという女に沙弥が、馬の断り方で「ご隠居様はこの間脛を痛め、下の町の塩屋から塩薦を取り寄せ、足にグルグル巻いて、馬小屋にウマしておりますれば━━」と掛け合い、観客が笑う。倒れた女は説得に従ったようで仰向けのまま隊員に持ち上げられ足を畳んだストレッチャーに乗せられる。女の白いズボンの尻の辺りが濡れているのが見てとれる。電話を掛けた中年の女がすかさずペットボトルのお茶を倒してこぼしたようだと口にする。が、女は気を失った時尿を漏らしたのかもしれない。舞台のおのうはゲラゲラ笑って住持の沙弥の云い分を取り合わず、笑い声を残したまま舞台を去り、おのうとのやり取りを隠居に伝えると住持の沙弥は隠居から、ものの分からぬ者にこの寺を任すわけにはいかない、とっとと出て行ってもらいましょうと云われ、私がこの寺の住持ご隠居様こそ出て行きなされ、さもないとご隠居様とおのうの仲を檀家衆に触れて回ります、と脅す。が、出て行けという権幕に住持の沙弥はお許しくださいましょうと謝り、いや出て行けと掛け合いながら二人は舞台から去る。拍手が起こる。まだ提灯の下る門の前に救急車の姿がある。倒れた年寄りの女は運ばれる前、観客の笑い声を耳にしただろう。仰向けの目に青空を映し、自分の名前を隊員に伝えた女の年は八十ではなく七十六であった。

 「だが、そういう感覚に行き当らずにいられなかった。そんな避けられない偶然の出会い方こそ、まさに、その感覚がよみがえらせたある過去とその感覚が引き出したもろもろの心像との真実性に、検印をうつものであった。まして、われわれは光のほうに向ってうかびあがろうとするその感覚の努力を感じ、ふたたび見出された現実というものの喜びを感じるのである。」(「見出された時」マルセル・プルースト失われた時を求めて井上究一郎・淀野隆三訳 新潮社1974年)

 「福島県、子ども18万6508人 前年比6114人減、最小更新」(令和6年5月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 牡丹蕊(しべ)深く分け出づる蜂の名残哉 芭蕉。牡丹の荒らされた惨状とその花の「誘惑」に溺れ花粉まみれになった蜂の「慾」の毒々しさ、ふてぶてしさが「深く分け出づる」なのであろう。蜂はいままだ荒々しい息をしている。恐らくこの芭蕉の句を念頭に、永田耕衣は次の句を詠んだ。牡丹花に虻が生きたるまま暮るる。虻は牡丹の至福の心地良さにどっぷり浸り時を忘れ、我を忘れ、生きること、生きていることすら忘れてしまっているようだ。耕衣の「生きたるまま暮るる」は芭蕉の「深く分け出づる」に対する言葉であり、鋭く見た芭蕉のいい表わしより冷徹な眼差しで二、三歩高みに進んだ「文学的」表現である。この「文学的」という意味は、たとえば藤田湘子の、金の虻よろめき出でし牡丹かな、と較べれば一目瞭然である。「生きたるまま」はすべてを包括してとどめを刺し、「よろめき出でし」は表現として只々卑(いや)しい。白牡丹われ縁側に居眠りす 川端茅舎。ぼうたんや眠たき妻の横坐り 日野草城。「ここ」では牡丹の傍らで人が「生きたるまま」居眠りし、あるいはうとうとしている。牡丹に息を濃くして近寄れる 草間時彦。「息を濃くして」は「深く分け出づる」前の蜂もそうであったかもしれぬ。見てゐたる牡丹の花にさはりけり 日野草城。思わずも牡丹に触れてしまった日野草城は、このようにも牡丹を詠んだ。ぼうたんのひとつの花を見尽さず。私は牡丹という花のひとつですらその魅力を見尽くすということは到底出来ない。が、この花を「見尽く」した句も世にはあるのである。牡丹散つてうちかさなりぬニ三片 蕪村。白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子。

 「夜の微光、電光に照らされた雨の輝きとでもいった微光がガラス窓から射しこみ、屋根と樋を流れ、洗い、落下していく雨の音が聞こえていた。ときおり、偶然にも雨の音と人声とが同時にはたととまることがあったが、そのたびにひとしお寒さがましていくような感じだった。そんな瞬間、ジーニアは闇のなかにじっと目を見ひらいて、アメーリアのたばこの火を見わけようと苦心した。」(「美しい夏」チェーザレパヴェーゼ 菅野昭正訳 白水社1964年)

 「汚染水1日80トンに減少、福島第1原発 地表舗装の対策効果」(令和6年4月26日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都府立植物園にて。

 

 嵯峨に暮れて戻れば京は朧かな 日野草城。花見で一日過ごした嵯峨と、日が暮れて戻った京との間には「距離」がある。「京」ではない嵯峨から戻った市中が朧に霞んで見えるのは、その「京」と己(おの)れの間にもまた「距離」が出来ているということかもしれない。朧が素直にそのまま春の天気の現象であると読むのは平凡に過ぎ、ほろ酔い気分で戻ったのかもしれぬというのは不粋な読みで、むしろ酔っていないからこそ朧に見えるのを不可思議に感じているのではないか。その花見のあとの心が「揺れている」のが朧なのであろう。たとえば夢の中で住み馴れた町を見るような。六條はいとど朧やよるの雨 立花北枝碓井小三郎が明治二十九年(1896)から大正四年(1915)にかけて出版した『京都坊目誌』の首巻五の「横通」に三條通以南として「三條通、六角通、蛸藥師通、古門前通、新門前通、新橋通、錦小路通、四條通、綾小路通佛光寺通、高辻通松原通、萬壽寺通、柿町通、五條通、楊梅通鍵屋町通、的場通、馬場通、藥罐町通、魚棚通、萬年寺通、花屋町通、上枳殻馬場通、正面通、御前通北小路通、七條通、下魚棚通木津屋橋通三哲通、東鹽小路通、梅小路通、大佛南門通、八條通、針ヶ小路通、九條坊門通、信濃小路、九條通」と東西の通りが並ぶが、六条通の名はない。芭蕉の弟子であった立花北枝が見た京に六条通はなかったのである。が、魚棚通(うおのたなどおり)の項を見ればこう記されている。「東は下寺町に起り。西は醒ヶ井通に至る。凡(およ)そ古(いにしへ)の六條大路にして。延暦中の開通とす。文明以來全く荒廢し。天正中再開する所なり。街名起原、近世下魚棚より移り、魚鳥類の市場を設け毎朝盛に賣買せしより此名を呼ぶ。明治に至り市場振はず、既に名ありて實無きが如し。」あるいは松原通の項にはこう記されている。「東は清水寺門前に起り。西は松原西入に至り郡界に接す。寺町以西は凡そ古の五條大路にして。延暦中の開通とす。賀茂川以東は六波羅を經て清水に達する故道なり。文明以來荒廢し。天正中再開して繁昌の街と爲る。街名起原、古の五條通なり。應仁亂後街路凋落し。人家希少なり。獨り玉津島神社の並木の松樹のみ繁茂す。當時世人の口稱を以て松原と呼びしに起ると。」この「五條大路」が松原通となった経緯はこうである。「現在の松原通は、その昔は五条通だった。五条通から松原通に変わったのは、豊臣秀吉が東山大仏殿を造営したとき、六条坊門小路(現五条通)の鴨川に橋がなかったため、参詣人のため、五条大橋を六条坊門に移してしまった。天正十八年(1590)のことだ。当初は大仏橋と呼ばれたが、正保二年(1645)石橋に改修して旧名の五条橋としたため、六条坊門小路が五条通と呼ばれた。以来、本家の五条通の名は橋とともに失われ松原通となった。近世まで五条松原通と呼ばれたから、ますますややこしい。」(『京都の大路小路』小学館1994年刊)六條が「いとど(ひとしお)朧」なのは、六條大路が魚棚通と名を変え、六條坊門小路が五条通と名を変えてしまっていたからなのである。折鶴をひらけばいちまいの朧 澁谷道。この朧は、目の前にあるものがあってなきが如くのものであるということを改めて思い出させる。仮縫の身におよびたる朧かな 杉本雷造。仮縫というまだ定まっていないあやうさが、自分自身という存在がそもそも何の確信もないあやふやで不完全なものにすぎないのではないかと己(おの)れに迫って来る。仮縫が朧であれば、すなわち私自身も朧であると。

 「桜の咲く季節になると、僕はいつも一人の少年を思い出すのである。小学校一年の入学式の時、トンボを捕まえるアミを片手に、僕らのクラスに入ってきた少年がいた。誰もが父母につきそわれ、桜が満開の校庭で校長先生が挨拶をしている時に、背の高い、頭がぼうずのその少年は、一人クラスから離れ、「チョウがチョウが」と歌うような声をだし、強い風にあおられた桜の花びらをアミですくっていた。」(「桜の木の下で」沢野ひとし『太田トクヤ傳』本の雑誌社1985年)

 「処理水放出を一時停止 福島第1原発で停電、掘削でケーブル損傷か」(令和6年4月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 松尾大社の山吹。

 

 西陣上立売通浄福寺東入ルの雨宝院の南門を入って左傍らに植わる御衣黄を今年は見ることが出来ない、ばかりでなく来年も目にすることが出来ない。門の内の柱に「御衣黄桜は残念ながら枯れてしまいました。」と書いた白い紙が貼ってある。塀越しにも見ることが出来たその木は、やや薄黒くなった裸の枝を中空に晒しているだけである。去年色が染まる前の葉を急に落しはじめたのだという。改めて枝を見上げれば胸を突かれる。原因は分からない。病気であるか、老いたのか。御衣黄は去年の猛暑をやり過ごし、地中に張った根が水を吸わなくなった。吸えなくなったのか、自ら吸うのを止めたのか。木が水を吸わなくなるというのはどういうことなのであろう。自ら感じていたはずの生命が、次第次第に感じなくなっていくのであろうか。一切の声も立てず、樹木の死は穏やかである、とたとえば書くと、樹木の悲鳴に気づかなかったのではないか、と口を挟む者があるかもしれない。この御衣黄は悲鳴を上げていたのかもしれない。が、そのような素振りを見せない樹木もあるのではないか。枯れた樹木は自ら倒れ、あるいは人の手で切り倒される。雨宝院の御衣黄は恐らく切り倒されるのであろう。「残念ながら枯れてしま」ったのであるから。雨宝院の枯れた御衣黄を「見た」足で、上立売通を西へ、千本通を越えて大報恩寺千本釈迦堂の南門を潜る。本堂前の枝垂れ桜が散った境内の目立たぬところに細枝を垂らし御衣黄が咲いている。雨宝院の御衣黄よりも幹はひと回り細く若い木であると分かる。御衣黄の萌黄色は「公家の着る衣」の色であるという。芯から花びらに一筋づつ桜色のすじが入り、やがてその桜色が滲むように広がって御衣黄は散るのである。雨宝院の御衣黄も去年はそのように花を咲かせて散ったのであるが。この日、もう一本の桜を見に南に下がり、壬生通八条角の六孫王神社まで足を伸ばした。六孫王神社の境内には御衣黄の「兄弟」ともいうべき鬱金桜が御衣黄と同じ頃に咲く。六孫王神社鬱金桜は薄く水を張った池に架かるセメントの太鼓橋の袂に咲いている。着いて鳥居を潜った丁度その時、右手に植わるソメイヨシノがサアッと目の前が霞むほど花吹雪を散らせ、思わず足を止める。風が止み、後ろからタクシーが一台鳥居を潜った先で止まる。と、真新しい制服姿の子どもが二人とその親であろう「よそ行き姿」の若い夫婦が降りてきて、拝殿の方には向かわず、丈の低い八重桜の前に子どもを立たせ、携帯電話で半分逆光で陰る二人を撮る。入園入学式の帰りに六孫王神社の桜を目にし、あるいはあらかじめまだ咲いていることを知っていて立ち寄ったのに違いない。またも吹き散る花吹雪の中で、そして止むのを待って父親と母親が自分の携帯電話で子どもだけの写真を何枚か撮ると、待たせてあったタクシーに乗り込み砂利音を立て境内から出て行く。花吹雪の止んだ境内は暫く静まり返る、いま目にした親子の姿などなかったかのように。鬱金桜も御衣黄ソメイヨシノなどと比べれば目にすることの少ない桜である。人目につかないところ、野山で自らひっそり咲いているという桜でもない。そして、人に植えられなければ、人知れず枯れるということもない。

 「「豆まきして豆が残ると、にんじんのしっぽとか入れて、みそ豆、作っていましたね」鬼は外、福は内。福を呼び寄せたあとで作るみそ豆は、あったかご飯に似合う甘辛味。ますの底に残った豆にも、まめまめしく福を見出した。『今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てるとき、胸の奥で少し痛むものがある』(夜中の薔薇『残った醤油』)」(『向田邦子の手料理』向田和子監修 講談社1989年)

 「処理水5回目放出、19日から 福島第1原発」(令和6年4月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨宝院。

 千本釈迦堂御衣黄と普賢象。

 六孫王神社鬱金桜とソメイヨシノ

 寺町通今出川上ル本満寺の枝垂れ桜。

 帷子ノ辻踏切りのソメイヨシノ

 過日新宿御苑鬱金桜。

 

 この日の前日と前々日に雨が降り、京都一帯肌寒い風も吹いたのであるが、八幡市の背割堤の桜は満開を過ぎた六七割ほどの花がまだ枝に残っていた。背割堤は瀬割堤とも書き、二つの川の交わるところに土を高く積み上げ互いの川筋を侵して洪水などを起こさぬようにしたものであり、木津川と宇治川が合流するところ、その緩やかに曲がる流れに沿った一・四キロあるという大人の背丈の三倍ほどの高さに築いた土手の両側に二百数十本のソメイヨシノが植えられている。合流した二つの川はそのすぐ先で桂川と交わり、一筋となって淀川と名乗るのである。最寄り駅である京阪本線石清水八幡宮駅の真ん前の男山の上に石清水八幡宮があるが、その参道ケーブルの乗り口は閑散としていて駅前をひっきりなしに行き交っているのは、四月七日で終わるはずの桜まつりが十二日まで延長になるほど遅く咲いてまだ散らぬ桜を見に来た、あるいはすでにその景色を目に残し帰って来た者らばかりのようで、時は十一時半を過ぎた辺り、改札を出てすぐのところに長テーブルの店を出す弁当屋の女が、弁当売り切れ、弁当売り切れました、とその仲間にあるいは電車を降りたばかりの者らに声を上げる。その傍らにある店舗の入り口には、この先にコンビニはありません、という貼紙が張ってあり、手ぶらでやって来た者らがそろぞろその店の中に入って行く。この先を迷うことはない。即席の案内板があり人の流れがあり、京阪本線の踏切りには警備員が立ち、道がうねるように盛り上がる東高野街道沿いに京都守口線をまたもや警備の者の指示でぞろぞろ横切って木津川御幸橋の上に立てば、背割堤の桜並木が目に入る。が、その一・四キロの長さは遥か奥の土手の下にいる人の姿が米粒のように見えても、目に映ったものとしてもおいそれと「実感」出来るものではない。橋を渡り終え左手に一歩踏み出せばそれが背割堤の上であり、左右に植わる「出だし」の二本の桜はどこか迎い入れる者の「姿」のように目に映らないでもない。この桜まつりの入り口と称するところで、運営協力金百円を支払い、前を進む家族連れに従い、後ろに東南アジアのどこかの国の若者らを従えて桜の「門」を潜る。三人が並んで歩けば両端の者の腕が桜に届いてしまうほどの径幅である。桜は昭和五十三年(1978)に植えたものであるという。それ以前、ここにはあたかも天橋立の如く松が植えられていたが、松喰い虫にやられすべて桜にられたのである。樹齢五十年ほどであればどれも幹にそれなりの太さとごつごつした手触りの風格を持ち、その多くは左のものは左に右のものは右に土手の端からやや躰を傾け、己(おの)れの頭上の込み合う枝から逃れるように左右のなだらかな傾斜の上を這う如く枝の腕を波打たせている。この枝の木蔭にも叢の斜面にも径の端にも敷いたビニールシートの上で二人連れ数人連れが弁当を開け、ビールなど見当たらぬつつましやかな折りの飯を口に運び、あるいは握り飯を手に持ち、それは「いま」をしみじみ味わう術を身につけた振る舞いのようにも見える。歩を進めるに従って景色が変わるということはない。やがて目はその一年に一度きりの景色に慣れる。目が景色に馴染み、あたかも当たり前のように目に映り、見飽きるという思いはおぼろ気に遠く、いま少し何ごとかを見極めようという思いが募り出したとことで堤は尽き、桜並木は果てる。踵を返し径を戻ってもよいのであるが、「思い」はすでに凋(しぼ)んでいる。円く曲線を描いた石段を左手、木津川の方に降りる。一面の叢の河原から一・四キロの桜並木の全貌が見える。遮るものはない。この「清々しい」景色は町中(まちなか)で見ることは出来ない。半ば呆然と見惚れていると、「撮ってもらえませんか」と声をかけてくる者がいる。六十ほどの年の女で、後ろに夫らしきやや年上の男が薄ら恥じ入るような笑みを浮かべている。女から小型のデジタルカメラを受け取る。「ズームはこのボタンで、横向きで」背割堤の桜並木が左手から奥に遠ざかる手前に二人を立たせ一枚撮る。二人は日光を眩し気に笑っている。

 「山の草むらの中を彼らは小刻みに進んでゆく。それ以上早くは行けないのだ。あせりと動物的な恐れとにせきたてられて、がむしゃらに分け入ってゆく。ときおり、余りにも無謀に突き進むので茂みがはね返って、彼らは後の方にはじき返される。そして絶望だけが先へ先へと進み彼らをはるか後方に置き去りにする。男は山刀をはげしく振りまわす。希望を取り戻したいという気持ちと、自分たちはまだ死んではいないんだと感じたいためと、あれほどか細くお化けのようにひょろりとしていながらも、まるで糊の塊のように彼らの体をはりつけて通そうとしない菅や茨のかたまりを切り裂くためだ。」(「汝、人の子よ」ロア=バストス 吉田秀太郎訳『ラテンアメリカの文学10』集英社1984年)

 「原発事故訴訟 国賠償責任否定の判決が確定 最高裁」(2024年/4/11 毎日新聞・福島)