「嵯峨お松明」は、五山の送り火鞍馬の火祭りとをもって京都三大火祭りの一つとされている。頃は三月十五日、所は清凉寺、嵯峨釈迦堂境内である。江戸期にはその番号を振った提灯が意味を持ち籤(くじ)によって決まった並べる高さで米相場を予想したという十三本の赤提灯を掲げた本堂前に、赤松の古枝を藤蔓で編んだ円錐を逆さまにした形の高さ七メートルの大松明が三基据えられる。護摩壇の赤松に火が点き、読経の中護摩木が焚かれると人垣の輪の中に檀家総代を先頭に式服を纏った僧侶と提灯を掲げあるいは手に持った数十人の檀徒が大松明の回りを何周か練り歩いた後、一斉に松明に火が入る。豊作を呼ぶという天狗の顔に見立てた縄で作った十二の輪を縦に帯びた三基の大松明は、かつてそれぞれ早稲、中稲、晩稲に見立てられ、その燃え方で農家がその年の米の出来を占ったといい、あるいは、旧暦二月十五日、新暦三月十五日は釈迦入滅の日とされ、釈迦が荼毘にふされる様を表しているのだともいう。三月十五日、午後七時過ぎ、丸太町通の西の果てで交わる門前通に入れば、薄暗さの中にぽつぽつ釈迦堂に向かう人の姿が現れ、着いた山門前の露店には子ども連れが群がっていて、ひっきりなしに出入る者らとすれ違いながら門を潜れば、大松明を遠巻きに囲んだ人垣の後ろ、同じように囲んで立ち並ぶ露店との間を大勢の者らが行きつ戻りつしながらぞろぞろ行き交っている。喰い物屋、おもちゃ屋、スーパーボール掬い、籤引き屋の前で屯(たむろ)しているのは教室の外で会う私服に着替えた地元の小学中学の同級生であろう。そこここで肉の焼ける匂いや甘い香りをかぎながら仲間同士で声を掛け合い、あるいは誰々を見かけたかなどと話し込み、PTAの上着を羽織った者らがその者らの間を縫うように巡回していて、後ろで子どもがソースの垂れで服を汚し、金髪や赤毛の若者が英語で何事かをしゃべり続け、幼稚園に子どもを入れるのに前の日から並んだ話が傍らの中年女の口で語られ、あるいは物静かな老夫婦は辛抱強くロープの前で立ち続け、そちこちで携帯電話の明かりが灯り、いよいよ八時に近づくと人垣は千人を超すばかりに膨れ上がり、中に入ればもはや身動きも取れぬまま火がつくのを待つことになる。八時過ぎ、人垣の一角を割って法被姿の者が中に入り赤松の枝の護摩壇に火を点ければ忽ち風に煽られた炎はものすごい勢いで燃え上がり、その火の粉のかけらが大松明のひとつの先に火をつける。人垣に歓声が上がるが、これは順に従っていないまだ火がついてはならぬ「事故」である。が、火のついた松明は「消すわけにもいかず」なすがままに燃え、北西から吹く風にもうもうと煙とともに音を立てて燃え上がり、舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注ぎ出すと軽い悲鳴が上がって輪が崩れ、控えていた消防隊員が割れた人垣に「空」を作る。火のついてしまった松明は下に凋むその姿とともに炎の勢いを鈍らせて燃え尽き、それを待って提灯を掲げ、老僧と法被姿の檀徒が輪の中に入って来る。そして大松明を何度か巡った後、竹竿の先に刺した護摩壇の火をつけた藁束を中空に掲げ、二つの大松明の中へ振るい落す。松明は忽ち燃え上がるとまた炎は北西の風に煽られ、煙とともに舞い上がった火の粉が風下の人垣に降り注いで割れる。が、消防隊員が「空」を作っても風が止めば人垣はもとに戻っていく。その初めの一時の松明の炎の勢いは人垣の最前に並ぶ顔を火照らせる以上の熱を持って一瞬皆の怯む様子が人垣中を小波のように駆け巡り、それでもその瞬間も燃えさかる「火」に見入ってしまう何事かをそれらの眼差しはありありと語っていたのである。二基の内の一基は燃え進みが悪く、それから二度藁束の火がつけられ、やがて松明は下に向かって燃え尽き、地に落ちた枝の残り火がすっかり消えるのを待って消防隊員が水をかけたのであるが、その頃には人垣はすかすかにほどけ、その大分は「引く波の如く」に姿を消し、露店は店じまいをはじめている。一基は「事故」で早々に燃え、一基の燃えつきの悪かった今年の「嵯峨お松明」の占いは些(いささ)か不穏である。が、京都の春はこれより到来するという。

 「その年の冬はたくさん雪が降った。しかし降るのはたいていいつも暗くなってからだった。昼間は寒さで身が切られるようであり、白い光のためにきらきらと輝いていた。エドワードは青い防寒服を着、赤い手袋をはめ、新しいオーバーシューズをはいていた。そしてルーシィは、部屋をきちんと整頓すると彼を明るい色の冬服に着がえさせて、マーケットまで買物車を押しながらいっしょに連れて行くのであった。エドワードはルーシィの横について歩きながら、新しく雪が積もったところに来ると赤いシューズを片方ずつそのなかへ突っ込み、いつもたいへん慎重にいっしょうけんめいそれを引き抜くのであった。」(『ルーシィの哀しみ』フィリップ・ロス 斎藤忠行・平野信行訳 集英社文庫1977年)

 「川俣と楢葉で震度5弱、男女2人けが 処理水放出、一時停止」(令和6年3月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 鴨川に架かる御池大橋の西詰、橋の袂の歩道の端に「春の川を隔てゝ男女哉」と刻んだ焦げ茶色のなだらかな山のような句碑がある。その前文に「木屋町の宿をとりて川向の御多佳さんに」とあり、木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのだいが)に宿を取ったのは夏目漱石であり、「川向の御多佳さん」は、土建業の旦那に落籍(ひか)され、二年で死別した後「一中節をよくするほか、絵画・文芸のたしなみもあり、尾崎紅葉谷崎潤一郎の知遇を得た」(『漱石全集第ニ十巻』注解 岩波書店1996年刊)祇園の芸妓、お茶屋大友(だいとも)の女将磯田多佳である。夏目漱石は大正五年(1916)十二月九日に亡くなるが、その前年の大正四年(1915)の三月、四度目の京都の地を踏み、その日の日記にこう記している。「十九日(金)朝東京駅発、好晴、八時発。梅花的皪。岐阜辺より雨になる。展望車に外国人男二人、女五人許(ばかり)。七時三十分京都着、雨、津田君雨傘を小脇に抱えて二等列車の辺を物色す。車にて、木屋町着、(北大嘉)、下の離れで芸妓と男客。寒甚し。入湯、日本服、十時晩餐。就褥、夢昏沌冥濛。」二等車両に漱石の姿を探した「津田君」とは、東京で漱石に画を教え、本の装丁も手掛けた津田青楓で、この三月から伏見深草の貸別荘桃陽園に滞在していた。胃からの大量吐血で生死を彷徨った「修善寺の大患」の後、入退院を繰り返しながら二月に朝日新聞の連載『硝子戸の中』を終えた漱石に静養を勧めたのが津田青楓で、漱石の妻鏡子もまた津田に頼んでいたのである。「二十日(土)朝静甚し。硝子戸の幕をひく。東山吹きさらされて、風料峭(りょうしょう、春風の冷たさ)、比叡に雪斑々。忽ち粉雪、忽ち細雨、忽ち天日。一草亭(西川一草亭、津田青楓の兄)君来、自画十五六幅を示さる。鶏、雀に蘆、雀、馬蓼、雀に蘆、椿、皆美事なり。此朝、臥牀中一号二号三号の恋を聞く。津田君から。「先生の顔は赤黒い」「あなただつて同じだ」「そんな事はない」「夫(それ)でも若い時は綺麗でしたか」「えゝ今よりは」「いゝえ他の人に比べて綺麗でしたか」「えゝ」「ぢや女に惚れられましたか」「えゝ少くとも今茲(ここ)に三つあります」云々 三人で大石忌(祇園一力亭での大石良雄の法要)へ行く。小紋に三ツ巴の仲居。赤前垂。「此方へ」「あちらから」と鄭寧に案内する。舞があるから見る。すぐ御仕舞になる。床に蕎麦が上げてある。薄茶の席へ通る。美くしい舞子と芸者が入れ交り立ちかはり茶を出す、見惚れてゐる。仏壇に四十七士の人形が飾つてある。菜飯に田楽が供へある。腰懸をならべた所で、蕎麦の供養がある。紺に白い巴を染め抜いた幕。三年坂の阿古屋茶屋へ入る。あんころ一つ。薄茶一碗、香一つ。木魚は呼鈴の代り。座敷北向、北の側、山家の如し、絶壁。(祇園から建仁寺の裏門を見てすぐ左へ上る)。清水の山伝 子安の塔の辺から又下る。小松谷の大丸の別荘を見る。是も北に谷、其又前に山を控へて寒い。亭々曲折して断の如く続の如く、奇なり。石、錦木を植ゑたり。小楼に上る。呉春蕪村の画中の人、腹いたし。電車にて帰る。晩食に御多佳さんを呼んで四人で十一時迄話す。」多佳は西川一草亭から漱石が京都に来ることを聞き及んでいて、この日津田に呼ばれ、はじめて顔を合わせるのであるが、明治四十三年(1910)に多佳は自分が図案した虞美人草の湯呑を病気見舞いに漱石に送っている。この時多佳は関係のあった画家浅井忠がデザインを手掛けた陶器を売る九雲堂の女主人であった。その年の九月十八日(日)の漱石の日記にはこう記されている。「昨夜東洋城(松根東洋城、俳人)帰京の途次寄る。九雲堂の見舞のコツプ虞美人草の模様のものをくれる。戸部の一輪挿是は本人の土産也。地方にて知らぬ人余の病気を心配するもの沢山ある由難有(ありがた)き事也。京都の髪結某余の小さき写真を飾る由。金之助(祇園の芸妓梅垣きぬ)といふ芸者も愛読者のよし。東洋城より聞く。」漱石は、二十一日は西川一草亭の住まい去風洞で食事を摂り、津田青楓の桃陽園に足を伸ばして一泊し、翌二十二日は仏国寺、萬福寺、宇治平等院を巡り、興聖寺奥の温泉に浸かって、「━━雨中木屋町に帰る。淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれと電話で頼む。飯を食はす為に自分で料理の品を択んであつらへる。鴨のロース、鯛の子、生瓜花かつを、海老の汁、鯛のさしみ。御多佳さん河村の菓子をくれる。加賀(大阪の実業家加賀正太郎)の依頼(多佳の口添えで加賀の別荘に名をつけこと)。一草亭来。」「二十三日(火)朝青楓来。一草亭来。今日はある人の別荘を見る計画なり、一草亭曰くある別荘の主人は起きるすぐ店へ出、夕方家へ帰る、別荘を見る余暇なし、細君にすゝめられて雪の降る日など一寸ひる位迄は我慢して家に居れど東京から手紙が来てゐるかも知れないと云つて出掛る。とうとう折角の別荘を見ずに死んでしまつた。他の一人は他からかういふ家に起臥して嘸(さぞ)よからうと云はれて、どう致して此所にゐて人にでもつらまつた日には尻を落付けられて甚だ迷惑するから出来る丈早く店へ出るといつた。腹工合あしく且天気あしゝ。天気晴るれど腹工合なほらず。遂に唐紙をかつた三人で勝手なものをかいてくらす、夕方大阪の社員(朝日新聞社員)に襲はる。入湯。晩食。御梅さん(芸妓梅垣きぬ)としばらく話す。」「二十四日(水)、寒、暖なれば北野の梅を見に行かうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方へ行つて今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ夕方懸けたつて仕方がない。車を雇つて博物館に行く。写真版を買ふ。伏見の稲荷迄行つて引き返す。四条通りの洋食屋へ連れて行くまづい。四条京極をぶらぶらあるく。腹工合あしし。帰つて青楓に奈良行の催促をする。晩に気分あしき故明日出立と決心す。」「二十五日(木)寐台車を聞き合せる。六号。胃いたむ。寒。縁側の蒲の上に坐布団をしき車の前掛をかけて寐る。其前青楓来。奈良行の旅費を受持つから同行を勘弁してくれとたのむ。一草亭から、蘆に雀の画(御多佳さんの持つていつたの)をもらふ。御多佳さんがくる。出立をのばせといふ。医者を呼んで見てもらへといふ。寝台を断つて病人となつて寐る。晩に御君さん(祇園芸妓野村きみ)と金之助(梅垣きぬ)がくる。多佳さんと青楓君と四人で話してゐるうちに腹工合少々よくなる。十一時頃浅木さんくる。ニ三日静養の必要をとく。金之助の便秘の話し。卯の年の話し。先生は七赤の卯だといふ。姉危篤の電報来る。帰れば此方が危篤になるばかりだから仕方がないとあきらめる。」「二十六日(金)終日無言、平臥、不飲不食、午後に至り胃の工合少々よくなる。医者くる。」「二十七日(土)夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。三人共飯を食ふ。牛乳を飲んで見てゐる。御多佳さん早く帰る。あとの二人は一時過迄話してゐる。金之助が小供を生んだ話をする。御君さんは金神さまの信心家自分はないといふ。」「二十八日(日)昨夜三(人)が置いて行つた画帖や短冊に滅茶苦茶をかいては消す。一草亭より蕉雨の書画帖をかしてくれる。一草亭は西園寺さんより小燕といふ小鳥をもらふ。牡丹と藤、百合、を小僧に持つてこさせる。医者来、人工カルゝスをくれる。」「二十九日(月)又画帖をかく、午後御多佳さんがくる、晩食後合作(連歌)をやる。」二十四日に漱石は、北野天満宮の梅を見に行く約束を破った多佳に腹を立て、聞けば多佳は前の日から別荘に名をつけてくれと頼んだその別荘の持ち主加賀正太郎と宇治へ舟遊びに出掛けていると知ると、腹の虫がおさまらず博物館に出掛け、伏見稲荷までぶらついて戻り、青楓に奈良への誘いの電報を打ち、果ては東京へ帰ると云い出す。が、多佳は二十五日の「天神さんの縁日」に晴れて暖かければという心づもりだったのである。二十五日の多佳の日記にはその「約束ごと」には触れずこう記されている。「昨日おとゝひと二日宇治へ行きしため先生をおたつねせず、どうしておいでやらとひるすぎ大嘉へゆく。まださむけれど二十日よりは日に日に少しあたゝかくなつた様なり。先生は南向の方の縁側へ横になりだまつてねておゐでになり、津田さんが先生には一昨日より御気分わるく、今夜の汽車で東京へ帰るとおつしゃるゆへ何とかしてとめてくれとなり。大分お顔色もわるく昨日より何もあがらぬため、元気なさそうにてもしやお帰りの途中にてわるふなつては難儀なり津田さんも心配なされるゆへどうぞニ三日待て少しでもお快うなつてからと色々言葉をつくしてお止めせしに、二日も訪(と)ふてくれぬから淋しさにこんなにわるふなつたなどゝ苦しい中からじやうだん口をおきゝになる。先生のお笑ひになる時少し口をゆがめて目尻に皺をよせて軽ふお笑ひになるのが又なつかしい。漸くお帰りもお見合わせになり浅木さんといふお医者さんをよぶ━━。」この騒動の後に多佳に宛てて漱石が詠んだのが「春の川を隔てゝ男女哉」である。その後体調を持ち直した漱石は二十九日、多佳の店大友で舞妓の舞を見たその深夜またも胃の不調を訴え、医者が呼ばれ、床に就いたまま二晩大友で過ごし、多佳の四月一日の日記によれば、「七時起きいでたづねしにけさ少し心よいときゝ嬉しと思ふ。されど昨日朝より今も猶何一口上らず。どこから聞へしや朝日新聞より電話にて手当は行きとゞいてゐるかおいしやは誰に見せてゐるかと津田さんへたづねられる。心落ちつかず此のまゝわるふなられて来ては難儀ゆへ東京の奥さんへおしらせ━━」し、鏡子が三日にやって来て、漱石は四月十六日、鏡子と東京へ帰っていく。が、漱石と多佳の「関係」はこれで終りではなかった。漱石が多佳に出した礼状への多佳の返信を読み、漱石はこのような手紙を書いて多佳に送る。「御多佳さん『硝子戸の中』が届かないでおこつてゐたさうだが、本はちやんと小包で送つたのですよ。さつき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかといふ名前が載つてゐるといつて来たのです。私はあの時三四十冊の本を取寄せて夫(それ)に一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違いはありません。もしそれが届いてゐないとするなら天罰に違いない。御前は僕を北野の天神様へ連れて行くと云つて其日断りなしに宇治へ遊びに行つてしまつたぢゃないか。あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは来ないものと思つて御出で。本がこないと云つておこるより僕の方がおこつてゐると思ふのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送つたのです。然し先年北海道の人に本をやつたら届かないといふので其人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまぎれ込んでゐた例もあるからことによると郵便局に転がつてゐるかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども届かない訳がないのに届かないのだから郵便局にひそんでゐやしないかと思ふのですが、それを問ひ合せる勇気がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし、さうしたらすぐ送ります。君の字はよみにくゝて困る。それに候文でいやに堅苦しくて変てこだ。御君さんや金ちやんのは言文一致だから大変心持よくよめます。御多佳さんも是からサウドスエで手紙を御書きなさい。芋はうまいが今送つてもらひたくない。其外是と云つて至急入用なものもない。うそをつかないやうになさい。天神様の時のやうなうそを吐くと今度京都へ行つた時もうつきあはないよ 以上」手紙を読んだ多佳はすぐに弁解謝罪の手紙を漱石に出した。が、漱石は容赦をしなかった。「━━あなたをうそつきと云つた事についてはどうも取消す気になりません。あなたがあやまつてくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覚がないといふに至つてはどうも空とぼけてごま化してゐるやうで心持が好くありません。あなたは親切な人でした夫(それ)から話をして大変面白い人でした。私はそれをよく承知してゐたのです。然しあの事以来私はあなたもやつぱり黒人(くろうと、玄人)だといふ感じが胸のうちに出て来ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。たゞ一度つき合ひ出した━━美しい好い所を持つてゐるあなたに対して冷淡になりたくないからこんな事をいつ迄も云ふのです。中途で交際が途切れたりしたら残念だから云ふのです。私はあなたと一ヶ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を沢山見ました。然し倫理上の人格といつたやうな点については双方とも別段の感化を受けずに別れてしまつたやうに思ふのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいふと、私があなたをそらとぼけてゐるといふのが事実でないとすると私は悪人になるのです。夫(それ)からもし夫(それ)が事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかへてあやまるのが人格の感化といふのです。然し今私はあなたが忘れたと云つてもさう思へないやつぱりごま化してゐるとしか考へられないのだから、あなたは私をまだ感化する程の徳を私に及ぼしてゐないし、私も亦あなたを感化する丈の力を持つてゐないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点に於て交渉のないのを大変残念に思ひます。是は黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとか云へば夫(それ)迄ですが、私は折角つき合ひ出したあなたに対してさうした黒人(くろうと)向の軽薄なつひ合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいゝ加減な挨拶をしてゐれば手数が省ける丈で自分の方は楽なのですが私はなぜだかあなたに対してさうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでゐるとしか考へられないのです。それで是丈の事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい。又真面目に聞いて下さい。━━白川の蛙の声はいゝでせう。私は昨日の朝の真中へ椅子を持ち出して日光を浴びながら本をよみました。私には此頃の温度が丁度適当のやうです。本は売り切れてもう一冊もありませんから小売屋から取寄せてそれを送る事にしませう。京都の郵便局になければ此方でさがしたつて判る筈がありません。書留小包でないから調べてくれるにしても出ては来ません。こんな事は滅多にない事です。此間芝川さんが来てくれました。こう此位にしてやめにします 以上」漱石のいう「北野の天神様へ連れて行く」約束は、多佳の方にもしかすると漱石に誤解させるような、たとえばこの時期話に上る「天神さん」は二十五日の縁日が京都の「常識」で、たとえば「よそ者(さん)」に対して遠回しにものを云い自分の方から決して断定的なもの云いをしない、といったような京都独特の「もの云い」があったのかもしれない。が、その「もの云い」が京都生粋の「もの云い」であればあるほど生粋の京都人たる多佳は江戸っ子漱石の「もの云い」に対して譲れぬものが腹の底にあったかもしれぬ。それを見透かし漱石はこのように執拗に多佳を責めたのかもしれない。「春の川を隔てゝ男女哉」京都で羽を伸ばして男と女を「夢見た」のは漱石の方であった。多佳は漱石が亡くなった後も鏡子夫人の許を度々訪ねたという。人に死し鶴に生れて冴え返る 夏目漱石

 「彼等が異端なのではなく、彼等を異端とするから、異端に成るのである。そうして彼等は、かの書に言う『党派』であり、『肢(えだ)』なのだ。手足である『肢』がなくて何が『体』なものか。それが存在することこそが、むしろ『体』を『体』たらしむる所以である。死と絶望の宗教を持つ彼等をも含んで、人間は素晴らしいものである筈だ。」(『路上の人』堀田善衛 新潮社1985年)

 「廃棄物は通常の原発600基分 福島第一の廃炉、早く議論すべき理由」(令和6年3月9日 朝日新聞DIGITAL)

 白川、知恩院

 

 雛の軸睫毛向けあひ妻子睡(ね)る 中村草田男芭蕉の『奥の細道』は「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行かふ年も又旅人也。」と名調子ではじまり、この先も名調子はこのように続く。「舟の上に生涯をうかへ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。いつれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやます、海浜にさすらへて、去年の秋江上(かうしやう、川のほとり)破屋に、蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春改れは、霞の空に、「白川の関こえむ」と、そゝろかみの、物に付てこゝろをくるはせ、道岨神のまねきにあひて、取もの手につかす、もゝ引の破をつゝり、笠の緒付かへて、三里に灸すゆるより、松嶋の月、先(まづ)心もとなし。住る方は人に譲りて、杉風(さんぷう、杉山杉風)か別墅(べつしよ)に移るに、草の戸も住替る代そ雛の家 表八句(連歌の初折面の句)を書て、庵の柱に懸置。」いつからなのか思い出せないが、年が改まってからついにそぞろ神にでも憑りつかれたようにそうしないと落ち着かずこのままでは狂ってしまいそうで、手招く道祖神の姿まで見えてきて、いよいよその覚悟に住まいを人に譲って弟子の杉風の別宅に移り、「草の戸も住替る代ぞ雛の家」と詠んで柱に残したのである。この雛の句は『俳諧一葉集』に「日頃住ける庵を相しれる人に譲りて出ぬ。此人なん妻を具しむすめ孫を持(もて)る人なりければ」と前文をつけ載せている。元禄二年(1689)のこの年四十八歳だった芭蕉は、これまで妻子を持ったことはない。その芭蕉が三月二十七日にその一歩を踏み出すもの狂いの旅の前に「雛の家」を詠んだのである。芭蕉独特の洗練を極めた詠みっぷりの裏にあるのは、この旅の首途(かでど)にあってついに妻子を持ち得なかった己(おの)れの姿であろう。かつての住まいで雛人形を飾る一家を思い、この期に及んで芭蕉は己(おの)れに躓(つまづ)いたのではなかったか。雛祭る都はづれや桃の月 蕪村。

 「ある日、牧場の草を全部刈りとって、小屋に積み上げてくれたら、これでけの金を支払おうと言って相当な額を示され、大鎌を渡された。言われただけの金が入れば、一ヵ月間はなんの心配なく好きなだけ眠ることができるし、その間にひょっとすると長年の夢が正夢になるかもしれないのだ。セバスティアンは上半身裸になると、鎌を肩にかつぎ、牧草地を端から端まで歩き回った。いちじくの樹冠吹き出した風にあおられて、まるで流れるように揺れさやぎ、その藍色の木陰の下に生えている苔の上には、風に吹かれてふわりと舞い降りてきた、洗ったばかりのワイシャツのように真っ白なあひるが二羽休んでいた。」(「閉じられたドア」ホセ・ドノーソ 染田恵美子訳『ラテンアメリカ文学アンソロジーサンリオ文庫1987年)

 「原発事故後の健康調査、知見を発信 福島医大、東京で初のシンポ」(令和6年3月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鷹峯光悦寺。

 

 上京の室町通鞍馬口下ル森之木町にある喫茶店の前に立つと「近衛家別邸御花畑屋敷跡。小松帯刀寓居跡」と記された町中(まちなか)で見慣れたそれらのものよりもよほど新しい標石が目に入る。喫茶店の壁に貼った案内を見れば2017年に建てたものである。この薩摩藩家老小松帯刀(こまつたてわき)の家で坂本龍馬を交えて西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、桂小五郎木戸孝允)との間で薩長同盟が結ばれ、その流れに徳川幕府は押し流され木っ端の如く消え失せてしまうのであるが、その場所が二転三転した末に2016年に「ここである」として正式に認められたのだという。はじめ「その場所」は、いまの同志社大学今出川校の地にあった二本松薩摩藩邸であるとされ、あるいは一条通堀川東入ル松ノ下町に小松帯刀寓居参考地として標石が建ち、あるいは近衛家があった室町頭町(むろまちかしらちょう)であったともされ、小松帯刀が借りていた近衛家別邸の登記の賀茂川から引き入れた水路に水車を施し米を搗いていたという「新資料」により森之木町と認定されたのである。「その場所」に現在見た目に何の痕跡もないのであれば、「その場所」が歴史的な場所であったとしても通りすがりの者はただ薄ら寒い風に吹かれその標石と喫茶店の狭い駐車場を眺めるばかりであるが、鞍馬口通が「これより洛中、ここより洛外」とかつて石に記されたところであることを思えば、この場所に何事かを思わないわけではない。ここよりやや南に下がる室町頭町は、風に真向い見渡せば室町小学校がある住宅地に過ぎないが、ここも歴史的地、近衛家の前に三代将軍足利義満の室町殿、別名花の御所があった場所であり、その故(ゆえ)後に「その時代」を室町時代と名づけるのである。この室町時代に「室町小歌」と呼ばれる流行り歌があった。たとえば、「かのせうくんの黛は、みどりの色に匂ひしも、春やくるらむ絲柳の、おもひみだるゝ折ごとに、風もろともにたちよりて、木陰のちりをはらはん、木陰のちりをはらはん(かの昭君(前漢元帝の宮女、匈奴(きょうど)の君主に与えられ服毒自殺した美女)の黛(墨を引いた眉)は、翠の色に匂ひしも、春や暮る(繰る)らむ絲柳(昭君の形見)の、思ひ乱るゝ折り毎に、風もろともにたち寄りて、木陰の塵を払はん、木陰の塵を払はん)。げにやよはきにも、みだるゝ物は、青柳の、いとふく風の心ちして、いとふく風の心ちして、夕暮の空くもり、雨さへしげき軒の草、かたぶく影をみるからに、こゝろぼそさのゆふべかな、こころぼそさのゆふべかな(げに(本当に)弱きにも、乱るゝ物は、青柳の、いと(大変、絲)吹く風の心地して、絲吹く風の心地して、夕暮れの空曇り、雨さへ繁き軒の草、傾く影を見るからに、心細さの夕べかな、心細さの夕べかな)」「世間(よのなか)はちろりに過る、ちろりちろり。なにともなやなふ、なにともなやなふ、うき世は風波の一葉よ。なにともなやなふ、なにともなやなふ、人生七十古來まれなり。たゞ何事もかごとも、ゆめまぼろしや水のあわ、さゝの葉にをく露のまに、あぢきなの世や。夢幻や、南無三寶。くすむ人は見られぬ、ゆめのゆめのゆめの世を、うつゝがほして。なにせうぞ、くすんで、一期(いちご)は夢よ、たゞ狂へ(世の中はちろり(瞬く間)に過ぐる、ちろりちろり。何ともなやなう(何ともしようもなく)何ともなやなう、浮き世は風波の一葉よ。何ともなやなう何ともなやなう、人生七十古來まれなり。ただ何事もかごとも(何もかもが)、夢まぼろしや水の泡、笹の葉に置く露の間に、あぢきなの(どうすることもできない)世や。夢幻や、南無三寶(なむさんぽう、危機に際して仏・菩薩に救いを求める唱え)。くすむ人は見られぬ(真面目くさった者は見ていられない)、夢の夢の夢の世を、現(つう)つ顔して(醒めた顔つきでは)。何せうぞ(どうするつもりか)、くすんで(真面目くさって)、一期(一生)は夢よ、ただ狂へ)」「なにをおしやるぞせはせはと、うはの空とよなう、こなたも覺悟申た。思ひそめずはむらさきの、こくもうすくも物はおもはじ。おもへかし、いかにおもはれむ、おもはぬをだにおもふ世に。思ひのたねかや、人のなさけ。おもひきりしに來てみえて、きもをいらする、きもをいらする(何を仰るぞせはせはと(せっかちに)上の空とよなう、此方(こなた)も覺悟申した。思ひ初め(染め)ずは紫の、濃くも薄くも物は思はじ。思へかし(思ってみたり)、いかに思はれむ、思はぬをだに思ふ世に。思ひの種かや、人の情け。思ひ切りして來て見えて、肝を煎(い)らする、肝を煎(い)らする)」「げにや寒竈(かんさう)に煙たえて、春の日いとゞくらしがたふ、幽室に燈(ともしび)きえて、秋の夜なをながし、家貧にしては信智すくなく、身いやしうしては故人うとし、したしきだにもうとくならば、余所人はいかでとふべき、さなきだにせば世にさなきだにせば世に、かくれすむ身の山ふかみ、さらば心のありもせで、なを道せばき埋草、露いつまでの身ならまし、露いつまでの身ならまし(げに(まったく、実に)寒竈(寒々としたかまど)に煙絶えて、春の日いとど(ますます)暮らし難う幽室(薄暗い部屋)に灯し火消えて、秋の夜なほ長し、家貧にしては親知(親友)少なく、身卑しうては故人(古い友人)疎(うと)し、親しきだにも疎くならば、余所人は如何で訪ふべき(親しかった人ですら足が遠ざかっているのに、全くの他人などどうして訪れたりできるか)、さなきだに(そうでなくてさえ)狭き世に、さなきだに狭き世に、隠れ住む身の山深み、さらば(そうであれば)心のありもせで(いかげんな気持ちのままで)なほ道狭き埋もれ草(自ら道を狭くして埋もれた草のよう)、露いつまでの身ならまし(いつまで露に濡れた身でいるのか)、露いつまでの身ならまし)」「人の心はしられずや、眞実心はしられずや。人の心とかた田の網とは、よるこそひきよけれ、よるこそよけれ、ひるは人目のしげければ(人の心は知られずや、眞実心は知られずや(分からないものだ)。人の心と堅田(琵琶湖西岸)の網とは、夜こそ曳き良けれ、夜こそ曳き良けれ、昼は人目の繁ければ)」(『閑吟集』)あるいは、「御知行まさるめでたきのふつかまつるおどるが手もと、たちみまやにまきおろしの、はるのこまがはなをそろへて參りたりや、もとよりたいこはなみのをとよりくるなみを、たとへ申せは、しんによのさえづり、おんかくのこゑ、しよほうじつさうとひゞきわたれは、ちからいづみがさうじやうして、天よりたからがふりくだる、ありやきやうがり、きよくしんなり(御知行(御領地、扶持)増さる(真猿)めでたき能(めでたきことと)仕(つかまつ)る踊る手許、館御厩(たちみまや)牧(まき)下ろしの、春の駒が鼻を揃へて參りたりや、もとより太鼓は波の音寄り来る波を、譬(たと)へ申せば、真如(永久不変の真理)の囀(さえず)り、音楽の声、諸法実相と響き渡れば、地から泉が相生(そうじょう、同時にに生れ)して、天より宝が降り下る、ありや(いかにも)興がり(興味深い)、極真なり)」「ほうしがはゝがのふには、ほうしがはゝがのふには、先春はわらびおる、さて又夏は田をうへ、秋はいなばにゆきかよひ、冬になればわがやどの、せどのまどにうちむかひて、むよみぬのをおり付、をりたるぬのはなになに、すわうばかまや十とく、ぬのこのおもてかたびらをは誰がおりてくれうぞ、ほうしがはゝぞ戀しき(法師が母が能(のう、働き)には、法師が母が能には、先づ春は蕨折る、さて又夏は田を植ゑ、秋は因幡に行き通ひ、冬になれば我が宿の、背戸の窓に打ち向ひて、六身布(身幅の広い布)を織りつけ、織りたる布は何々、素襖袴や(すわうばかま、普段の上着と袴)や十徳(じつとく、脇を縫いつけた旅行着)、布子(綿入れ)の表帷子をば誰が織りてくれうぞ、法師が母ぞ戀しき)」「物にくるふもござうゆへ、さけのしわざとおぼへたり、はるのみやくは、ゆみにつるかくるがごとくくるふにぞ、ありがもにほひもなつかしや、さきみだれたる花どもの、物云事はなけれども、けひやうげきして、かげ口ひるをうごかせば、花の物いふ道理なり(物に狂ふも五臓ゆへ、酒のしわざと覚へたり、春の脈には、弓に弦掛くるが如く狂ふにぞ、在り香も匂ひも懐かしや、咲き乱れたる花どもの、物云ふ事はなけれども、軽漾(けいよう、さざ波)激して、陰口びるを動かせば、花の物云ふ道理なり)」(『狂言歌謡』)、あるいは、「朝うた三はん よしのゝ山へきさらきかまいりて はなおりもちてかゑるやま人 さくら花のつほみをめされ候へ めてたやはなこそものゝたねなれ 花おりにまいろうよしのゝ山へは おく山のこさうとめとちにはなかさいたか さいて候さいて候八ゑに花かさいて候 あいらしこすゑにはなかつほうた 花のひらきは所領かまさるとひらいた 田主殿をば一もり長者とよばれた あい花はつほうたかなにそめうとて かりうはかま染とてといてはぬうたり そめてほされたはりまのしよしやのかうかき かりうはかまをかちんにそむれはけほんな 京くしかうてたもれ京くしこそな かみもしなゑや京くしこそな くしはかふたそかみかいけつれわかいこ 女子かたきよりかみかなかふて 長かみやれあゆめばそうりにもつれて さばいがみ中をゆゑなかをゆわねばな みやこめいたや中をゆわねばな ゆわぬかみをばねみたれかみとはいわぬか なかいかみおはねみたれかけてさばいた かけておかれたたきより長ひくろかみ みやつかいわしけいものあかりせうしのかけて かみけすりけわひするあかり障子のかけて みやつかいをこのむと人やおもふか みやつかいをしやうにもいしやうあらはや われにおかしやれわろうか上のこそてを つゝみ打はくとう太郎かねのやくはかち原 太郎らも次郎らもけわひせいてはかなふまい けわひしやうにもけわひのとうくをわすれた たもれけわおうわしやうかてつほのあふらを しろかねのこかねの御ゑんにこしをかけて かみとくひまをまちたまゑ とかしけつらしおもふかもつれかいたを いわはまんせふわろうかひんのかみおは(朝歌三番 吉野の山へ如月(きさらぎ、二月)が參りて 花折り持ちて帰る山人 桜花の蕾を召され候へ めでたや花こそ物の種なれ 花折りに參らう吉野の山へは 奥山の小早乙女どちに(仲間のみんな)花が咲いたか 咲いて候咲いて候八重に花が咲いて候 愛らし木末に花が蕾だ 花の開きは所領が増さると開いた 田主殿をば一盛り長者と呼ばれた 藍花は窄(つほ)うたが(絞ったが)何染めうとて 狩裃染めうとて解いては縫うたり 染めて乾(ほ)された播磨の書写の紺掻き 狩裃を搗(かちん)に(搗いて)染むれば下品(けほん、上等でない)な 京櫛買うて賜(たも)れ京櫛こそな 髪も撓(しな)へや京櫛こそな 櫛は買うたぞ髪掻い梳(けづ)れ若い子 女子が丈より髪が長うて 長い髪やれ歩めば草履に縺(もつ)れて 捌(さば)い髪(くしけづったままの髪)中を結へ中を結はねばな 都めいた中を結はねばな 結はぬ髪をば寝乱れ髪とは云わぬか 長い髪をば寝乱れかけて(そのままに)捌(さば)いた(くしけづった) かけて置かれた丈より長い黒髪 宮仕ひをしやうにも衣裳有らばや 我れにお貸しやれ我郎(わろう、男の子)が上の小袖を 鼓打ちは工藤太郎鉦の役は梶原 太郎らも次郎らも化粧為(せ)いでは叶ふまい 化粧為(せ)やうにも化粧の道具を忘れた 賜(たも)れ化粧和尚が手壺の油を 銀の金の御縁に腰を掛けて 髪解く暇を待ちたまへ 解かし梳(けづ)らじ思ふが縺れかいたを(縺れさせたのを) 結はばまんせう(結びましょう)我郎が鬢の髪をば)」(『田植草紙』)これらの歌は、平安の香りとも江戸の匂いとも違う「室町」の蓋を開けて漂う語感が鼻をくすぐるようである。室町小路の名を変えた室町通はこのまま下がれば東本願寺で一旦断ち切られ、その先の十条通を越えて果てるが、二条通から五条通の間はいわゆる「室町筋」と呼ばれる呉服織物和装の卸業が軒を並べ、役行者町烏帽子屋町鯉山町山伏山町菊水鉾町鶏鉾町、白楽天町の両側町に七月の祇園祭には通りを塞いで駒形提灯を掲げた山鉾が建つのである。関守の火鉢小さき余寒かな 蕪村。余寒なほ指になじまぬ琴の爪 山本登茂子。

 「彼女はさっきから小さな骨のナイフで、頬についた鯨の脂をこすり落とし、それを毛皮の袖になすりつけながら、北極光が空から燃えるような光を投げているのをぼんやり眺めていた。その射光は孤独な雪原と神殿のような氷山を美しい虹の色に染め、ほとんど筆紙に尽くせないほど輝きわたる壮観を展開していた。しかしいま彼女はもの思いをふり払い、私の求めに応じてつつましやかな身の上話をする気持になっていた。」(「エスキモー娘のロマンス」マーク・トウェイン 古沢安二郎訳『マーク・トウェイン短編集』新潮文庫1961年)

 「処理水、4回目海洋放出始まる 福島第1原発、17日完了見込み」(令和6年2月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東本願寺前。

 

  

 うすらひは深山へかへる花の如 藤田湘子。こののち薄氷(うすらい)を目にすることなど最早なさそうな京都の暖かかった冬であるが、この薄氷の句はいわゆる「詩的」な句である。遠くより来りて張りし薄氷(うすごおり) 阿部青鞋。この句も「詩的」であるが、寒さが遠くからやって来るという「感じ」がよく出ている。「うすらひ」が「深山へかへる」とは、いわばやって来るその逆の様子なのであろうが、「花の如」とはどういう意味か。俳句で詠む「花」とは「桜」のことであるから、「花の如」は「桜の如」である。儚(はかな)い薄氷が消え失せた、まるで桜の花びらが風に飛ばされ空の彼方に見えなくなるように深い山懐に帰っていったのかもしれない。落日や薄氷の番して居れば 永田耕衣。「薄氷の番」というおよそ無意味なことをして一日が過ぎた。その間に薄氷は融けてしまったのか、そのまま消えずにまだ残っているのか。「薄氷の番」ぐらいしかすることがない、という上っ面をなぞるように読んでもそれはそれで読み違いではないのであろうが、現実に一日中薄氷を見続けることに要するある種の「力」あるいは「哲学的認識」を思い知るべきであろう。それは傍(はた)から見れば甚だ滑稽な光景かもしれぬが。薄氷の裏を舐めては金魚沈む 西東三鬼。掌をすべる法然院の薄氷 飯塚ゑヰ子。谷崎潤一郎の墓が左京鹿ヶ谷の法然院にある。先ごろ谷崎潤一郎の『細雪』を読み返し、ただの一言も「細雪」が出て来ないことを改めて思い返したのであるが、冬の時期がやってきても他の「雪」も『細雪』には降らない。が、但し「雪」は頻繁に出て来る。大阪船場の旧商家の四人姉妹の三女の雪子の「雪」と、「こいさん」と呼ばれる四女妙子が舞う舞台の出し物の「雪」である。「御寮人さん」と呼ばれる次女の幸子は、四女妙子の舞姿を撮った写真の「傘を開いたままうしろに置き、中腰に両膝を衝いて、上体を斜め左の方に浮かせ、両袖を合わせ小首をかしげて、遠く雪空に消えてゆく鐘の音に聴き入っているところ」が一番好きであったと思う場面がある。この写真を撮った板倉というカメラマンと妙子は関係が出来るのであるが、幸子は板倉の身分が低いと云って先行きの関係に反対する。この妙子がある男と駈け落ちしたり、洪水に見舞われたり、またその男とヨリを戻したり、赤痢に罹ったり、バーテンの子を死産したりする一方、雪子は三十を過ぎても舞い込む見合い話に難癖をつけ悉く断るような女である。「はにかみやで、人前では満足に口が利けない」雪子ではあるが、その断りにはそれなりの断る理由が雪子にはあり、それは高い気位と些(いささ)かの男に対する「反発」「抵抗」のようなものである。話の最後にさる子爵家の御曹司との結婚が決まり、その披露宴のための上京の汽車の中でも雪子の下痢が止まらないのは、雪子の肉体の最後の「抵抗」である。『細雪』は「古き良き上方の女」である「雪子」を「細雪」のように降らしちりばめた話であるかもしれぬ。谷崎潤一郎は敗戦後まもなくから昭和三十一年(1956)まで京都で過ごしている。その三箇所目に移り住んだ下鴨神社の東にある住まいが電機会社に買われ、いまも残っている。訪ねても公開はされておらず、端に回る四ツ目垣の間からその平屋の家屋まで伺い知ることは出来ないが、隣る糺(ただす)の森の塀に沿ってくねるように入り込むその奥まった、冬でもじめじめしていて風が吹けばいつまでも木々のざわめきが止まぬようなその場所は、傍(はた)で感じる以上に陰鬱であったかもしれない。この住まいから熱海に移り住んだ谷崎潤一郎はのちにこのような言葉を残している。「あのまゝあの糺(ただす)の森にゐればよかったと、今でもときどき思ふ。さうしたら京都のあの気候にも馴れ、毎日々々京都でなければ口に出来ないおいしい物を食べて暮らして行けたのにと、よくさう思ふ。それほど好きな京都を見捨てた理由、いや唯一の理由は、あの堪らない夏の暑さと冬の底冷えである。殊に糺(ただす)の森の家は鴨川と高野川とに挟まれ、池や滝があったりしたので湿気が多く、江戸育ちの老人の健康のためには最も不健康であった。」(「京都を想ふ」谷崎潤一郎毎日新聞』1962年12月)法然院谷崎潤一郎の墓は、「これが」と思わず思うほど質素である。この寒空に参拝の者の姿もほどんどない茅葺門の石段を掃いていた年配の小柄な婦人に谷崎の墓のありかを訊けば、深く日除けを被っていた婦人は少しそのツバを上げ、箒を地面に置き、「その少し戻った左手の石段を」と云いながら先にたって歩き出し、石段の手前で足を止め、「ここを上って真っ直ぐ突き当りの手前を右に折れ、ほら、あの枝垂れ桜のところです」と山裾で花も葉もない枝を垂らした木を指さした。礼を云ってその通りの道順で墓の間を迷わず辿り着けば、そのひとところだけコンクリートも砂利も敷かれていないニ三石を踏み上った剥き出しの湿った土に大きな握り飯のような石が二つ離れて置かれているだけである。向かって右に「空」と左に「寂」とともに小さく「潤一郎」と彫ってあり、「寂」の方に谷崎と松子夫人が眠っているという。花の供えはなく、小さな壜に千両の小枝が挿してあるばかりで、これが京都の暑さ寒さから逃げ出した「大谷崎」の墓であるか、と膝を折りひとり厳(おごそ)かに思ったのである。薄氷や初めて切りし嬰(えい、みどりご)の爪 高川明子。

 「明くる日の朝は、まず廣沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に、幸子、悦子、雪子、妙子という順に列(なら)んだ姿を、遍照寺山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。」(『細雪谷崎潤一郎 中公文庫1983年)

 「処理水放出半年、東電「計画通り」 廃炉作業で人為ミス相次ぐ」(令和6年2月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 旧谷崎邸、法然院哲学の道、他。

 

 葦原ノ中ツ國に降り立った天津日高日子番能邇邇藝能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は早速に、笠沙の御前(みさき)で「麗しき美女(をとめ)」木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)と出会い、その父大山津見神(オホヤマツミノカミ)に結婚の許しを請(こ)うと、その姉石長比賣(イハナガヒメ)も一緒に貰ってくれと云われる。しかし天津日高日子番能邇邇藝能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)はその姉の容姿が「甚凶醜(いとみにく)き」ため断ると、石長比賣(イハナガヒメ)は「天つ神の御子の御壽(みいのち)は、木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さむ(木の花のようにはかないことであろう)」と云い、その予言通り、「是を以ちて今に至るまで、天皇命等(すめらみことたち)の御命長くまさざるなり。」一方、天津日高日子番能邇邇藝能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)に嫁いだ木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)はこのようなことを口にする。「妾(あ)は妊身(はら)めるを、今産む時に臨(な)りぬ。是の天つ神の御子は、私に産むべからず。故(かれ)、請(まを)す。」とまをしき。爾(これ)に詔(みことの)りたまひしく、「佐久夜毘賣、一宿にや妊める。是れ我が子には非じ。必ず國つ神の子ならむ。」とのりたまひき。爾(これ)に答へて白(まう)ししく、「吾が妊みし子、若(も)し國つ神の子ならば、産むこと幸(さき)からじ。若(も)し天つ神の御子ならば、幸(さき)からむ。」とまをして、卽(すなは)ち戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞ぎて、産む時に方(あた)りて、火を其の殿に著(つ)けて産みき。故(かれ)、其の火の盛りに焼(もゆ)る時に生める子の名は、火照命(ホテリノミコト)。次に生める子の名は、火須勢理命(ホスセリノミコト)。次に生める子の御名は、火遠理命(ホヲリノミコト)。亦(また)の名は天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホテミルノミコト)。」(『古事記』)「私はいま身ごもっていて、もうじき生まれてきます。その子は天つ神の御子である以上、みだりにお生みするべきではないのですね。ですからこうしてお知らせいたします。」これを聞いた天津日高日子番能邇邇藝能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)は、「それは本当か。お前はたった一夜で身ごもったと云うのか。いや私の子ではない。どこかの国つ神の子ではないのか。」と云い、そう云われた木花之佐久夜毘賣(コノハナナノサクヤビメ)は不機嫌になり、「このお腹の子がもしどこかの国つ神の子などであれば無事に生むことはできますまい。しかし、天つ神の御子ならば無事に生れてくるはずです。」こう応えた木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)はすぐに開き戸のない八尋殿を作って中に籠ると土で隙間を塞いだ。そして己(おの)れの覚悟を示すかの如く、殿に火を放ったのである。その燃え盛る火の中で一番初めに生れたのが火照命(ホテリノミコト)、次に生まれたのが火須勢理命(ホスセリノミコト)、最後に生れたのが火遠理命(ホヲリノミコト)、またの名を天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホテミルノミコ)である。木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)はこれを歓び、卜(うらな)い吉の狭名田で稔った稲で天甜酒(あめのうまさけ)を造って自ら祝ったという。この木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)の別名を酒解子神(サカトケミコノカミ)といい、その父大山津見神(オホヤマツミノカミ)の別名を酒解神(サカトケノカミ)という。この酒解神(サカトケノカミ)と酒解子神(サカトケミコノカミ)が酒造りの神として右京梅津の梅宮大社に祀られている。時折り太陽を覆う薄灰色の雲から小雨がぱらついた二月十一日、たまたま足を運んだ梅宮大社は甘酒祭の日に当り、参拝者に紙コップに汲んだ甘酒を振る舞っていた。寒空の下で飲んだその味は、濃い酒粕と生姜で舌が痺れるような味であった。白梅や父に未完の日暮あり 櫂未知子

 「福沢(諭吉)における「瘦我慢」の精神と「文明」の精神と、「士魂」と「功利主義」との矛盾あるいは二元性ということがしばしば指摘される。抽象的に二つの「イズム」をとりあげるならば、たしかにそうもいえるだろう。しかし思想史の逆説と興味は、まさにそうした抽象的に相容れない「イズム」が、具体的状況のなげかけた「問題性」に対する応答としては結合するというところにある。あたかも幕末動乱に面して武士における家産官僚的要素と戦闘者的要素とが分裂したことに照応して、忠誠対象の混乱は、「封建的忠誠」という複合体の矛盾を一挙に爆発させた。」(『忠誠と反逆』丸山眞男 筑摩書房1992年)

 「あんぽ柿、NYで試験販売 米国に初輸出、しょうゆやみそも」(令和6年2月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 梅宮大社にて。

 

 立春のはたのひろものさものかな 橋閒石。「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が「平(ことむ)け訖(を)へぬ(平定した)」「葦原ノ中ツ國」へ「高木神」を通じて「太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)」に「降(くだ)り坐(ま)して知らしめせ(降り下って治めよ)」と告げると、「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツワレカツカチハヤビアメノオシホノミミノミコト)」はその支度をしている間に「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」という子が生まれたのでこの際、この「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」を降り下らせてはどうかと申し述べると、「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」はこの申し出を受け入れ、その命に従い、いざ「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」が降り下ると、その途中の八衢(やちまた)の辻で「高天原」と「葦原ノ中ツ國」を照らす者が現れ、「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が「高木神」を通じて「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」に何者かを問うように命ずる。「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」は、母「伊邪那美命イザナミノミコト)」のいる根の国に行くこと叶(かな)わず泣き嘆き、父「伊邪那岐命イザナギノミコト)」に「天」から追放され、「高天原」に別れを告げに行った弟「須佐之男命(スサノオノミコト)」を見てよからぬことをしに来たと思い「天の石屋戸」に隠れ世を暗くした姉「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」を卑猥煽情の踊りで穴から誘い出した神である。この「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」の問いにその者は道案内役の「猨田毘古神(サルダビコノカミ)」と応える。そして「天津日高日子番能邇邇藝命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」を「葦原ノ中ツ國」へ道案内した「猨田毘古神(サルダビコノカミ)」を今度は、問い質した「天宇受賣命(アメノウズメノミコト)」が伊勢まで送り届けよと「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」から命ぜられ、「是(ここ)に猨田毘古ノ神を送りて、還りて、乃(すなは)ち悉(ことごと)に鰭(はた)の廣物(ひろもの)、鰭(はた)の狭物(さもの)を追ひ聚(あつ)めて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と問言(と)ひし時に、諸の魚皆「仕へ奉らむ。」と白(まう)す中、海鼠(なまこ)白(まう)さざりき。爾(しか)に天宇受賣命、海鼠(なまこ)に云ひしく、「此の口や答へぬ口。」といひて、紐小刀以ちて其の口を拆(さ)きき。故、今に海鼠(なまこ)の口拆(さ)くるなり。」(『古事記』)立春のはたのひろものさものかな。立春を迎えたこの世に、あるいはこの世の何かに仕え従っている身につけた鰭の大きな者や鰭の小さな者よ。そして従わず無理矢理口を裂かれた者よ。立春の京の和菓子のうすみどり 鶴濱節子。

 「唯見る、此處は一面の庭園で有ます。此庭東には大湖に水をたゝへて泉水にかたどり、遠山の翠を畳んで築山に比べ、北には千丈の岩壁を廻らして靑屏風に眺めて居ります。天に入る雲の棧道は苔滑にして行くに危ふく、所々の山陰から煙の立昇るのは、是村々のある證據(しょうこ)で、鶏犬の聲も幽(かすか)に聞こえて居ます。徑路羊腸として雁齒の危きを爲す所に、自然石の石橋天門の様にかゝッて居るが、其處を一人の柴刈が薪を背負ッて渡ッて居ます。」(「夢現境」嵯峨の屋おむろ『明治文學全集17二葉亭四迷・嵯峨の屋おむろ集』筑摩書房1971年)

 「福島第1原発で汚染水5,5トン漏えい 浄化設備建屋の排水口から」(令和6年2月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 寺之内通の辺り。