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 喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏である。その遠慮深げだった云いは、桜はどこで見ても桜であり、同じように奇麗であるという物云いに対する、些(いささ)かの異議でもあったが、桜について日本人に物云うことへの、韓国人の遠慮であったかもしれない。その元同僚は、二十歳で来日し、京都生まれの韓国人と結婚して二人の子を儲けた後、その夫と死別した六十余歳の女性である。天神川は、北の鷹峯からはじまり、北野天満宮の辺りまでの流れを紙屋川と呼び、南に下って吉祥院天満宮の西で桂川に注ぐまでを天神川と呼ばれている。元同僚の云う天神川の桜は、その口振りによれば、四条通から五条通の間の辺りを指していた。御池通で御室川と合流してからの天神川は、真っ直ぐな幅二十メートル余の、底の深い、浅い流れの川である。桜並木は、東の縁(ふち)沿いにあった。並んで走る葛野(かどの)中通に挟まれ、枝の下の叢(くさむら)には小径が通っている。川の西側は車の往来のある天神川通である。冷たい風が吹くこの日の空は曇り、日の暮れ様(よう)が緩慢な夕刻、並木の外れに並ぶ三つのベンチの内の二つで、数人の者が缶ビールを呑みながら持参のものを喰っていた。宴を張っているのは、その者らだけである。母子三人が、幾枚か写真を撮って帰り、五条通の方からやって来た中年の夫婦らしき者が、空いていたベンチに座り、ニ三分で腰を上げて行った。葱のはみ出た買い物袋を提げた者が、頭上を見上げながら通って行く。その後ろをやって来た者が、家に帰る途中かもしれぬ足を止めて桜を見上げる。その二人が去ると、人の通りが暫(しばら)く途絶える。日中響いていたかもしれぬ、鳥の声もしない。この桜並木の際の枝は、どれも川の底に向って撓(しな)い、それは何者かによってそうさせられたのではなく、人によって植えられた後は、己(おの)れの意思をもって枝を曲げ伸ばした、桜の身体とでもいうべき様(さま)であり、その並びの一本一本が、自らを花で覆っている様(さま)にも、この桜の身体の強靭な意思を思うのである。桜に限らず、大木(たいぼく)は擬人化され易い。ここの桜は、平凡で愚直な桜である。が、愚直でなければ示すことの出来ない意思を、この桜の幹に触(さわ)れば感じることが出来る。そのように感じなければ、日がとっぷり暮れた薄闇の中で、俄(にわか)にしみじみとした気分に襲われたりはしない。通りを挟んで天神川ホールという葬儀場が、東側にある。桜の咲く時期にこの場所で死者を送った者は皆、この愚直な桜を目にすることになるのである。

 「日毎夜毎(ひごとよごと)を入り乱れて、尽十方(じんじつぽう)に飛び交はす小世界の、普(あま)ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期(き)なしと思はるゝなかに、絹糸の細きを厭(いと)はず植ゑ付けし蚕(かいこ)の卵の並べる如くに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半(よは)を背中合せの知らぬ顔に並べられた。」(夏目漱石虞美人草(ぐびじんそう)』岩波漱石全集第三巻1966年)

 「浪江・請戸の慰霊碑に「氏名」刻まれず 町民以外の津波犠牲者」(平成29年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平清盛の長男平重盛次男平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子建礼門院に仕えた女房である。仕えた時期は承安三年(1173)から治承二年(1178)の十七八の年からの五年ほどであり、久寿二年(1155)生まれの建礼門院とは二、三の年下である。年下の恋人であった平資盛(すけもり)は、元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いの果てに入水(じゅすい)し、右京大夫(うきょうのだいぶ)は「弥生(やよひ)の廿日(はつか)余りの頃、はかなかりし人の水の泡となりける日なれば、れいの心ひとつに、とかく思ひいとなむにも、我が亡からむのち、たれかこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出(い)づべき人もなきが、たへがたくかなしくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。我が身の亡くならむことよりも、これがおぼゆるに、いかにせむ 我がのちの世は さてもなほ むかしの今日を とふ人もがな」(『建礼門院右京大夫集』)水の泡となった資盛(すけもり)の命日を、自分のように思い出す人がいないことが、自分が死ぬことよりも悲しい、自分が死んだ後も誰か資盛(すけもり)を弔って欲しい、と素直な己(おの)れの心境を書き残す。同じ壇ノ浦で我が子安徳天皇と入水(じゅすい)し、源氏方に引き上げられた建礼門院徳子は、京に連れ戻され、剃髪し、大原寂光院に設けた庵で隠棲する。その翌年文治二年(1186)の春、裏山に花摘みに行っていた建礼門院の元を、後白河法皇が密かに訪れ、「互ひに御涙にむせばせ給ひて、しばしは仰せ出(い)ださることもなし。ややありて、法皇御涙をおさへ、「この御ありさまとは、ゆめゆめ知りまゐらせ候はず。」」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おおはらごこう))と、後白河法皇は息子高倉天皇の中宮徳子の変わり果てた有様を嘆き、建礼門院は「生きながら六道を見てさぶらふ」と、平家の滅亡、身に降りかかった生き地獄を切々と後白河法皇に語るのである。同じ年のその秋、右京大夫(うきょうのだいぶ)が建礼門院を訪ね来る。「女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、やうやう近づくままに、山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目もあてられず。昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふかたなし。秋深き山颪(おろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、われも人もいひ出(い)でたりし、むせぶ涙におぼほれて、言(こと)もつづけられず。今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき。 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき。」(『建礼門院右京大夫集』)大原にいると聞いていたが、簡単に会いに行くことは出来ず、建礼門院を慕う、已(や)むに已(や)まれぬ己(おの)れの気持ちに従って訪ねると、その侘しい山道に足を踏み入れただけで涙が零(こぼ)れ、住まいの生活の様子は見るに堪(た)えられるものではなく、昔を知る者には信じ難(がた)く、辺(あた)りの様子もこれほど悲しく感じられる山里もなく、かつて着飾って仕えていた者たちも、いまは墨染を着た三四人だけで、その者たちと「それにしてもまあ」と口にしただけで、涙が零(こぼ)れ落ちて仕舞う。宮中では仰ぎ見ていた、とても現実の出来事と思うことのできないいまの建礼門院の様子が、ただただ悲しいのである、と右京大夫(うきょうのだいぶ)はかつて仕えた建礼門院との再会を思うのである。建礼門院は、大原の寒さに耐えられず、あるいは人目を避けての隠棲暮しが困難になり、山を下り、洛中東山で余生を送ったともいわれている。右京大夫(うきょうのだいぶ)は、四十年(しじゅう)前の建久六年(1195)、再び宮中に入り、後鳥羽天皇に仕えている。食うため生きるための他に、出仕した理由があったのかどうかは分からない。が、栄華の絶頂を極めた建礼門院の、変わり果てたみすぼらしいその姿を見て涙を零(こぼ)した右京大夫(うきょうのだいぶ)が、またしても宮仕えをしたことを思うのである。その心の割り切りを、思うのである。慶長四年(1599)、豊臣秀頼の母親淀君によって改修された寂光院の本堂は、平成十二年(2000)の放火によって焼失したが、再び同じ場所にいまは再建されている。寂光院は、山門の内にではなく、山門に至る石段の石の中にある。狭い荒れた石段を上がりきるまでの参拝者の頭の中にこそ「本物」の寂光院はあり、建礼門院の物語りも恐らく、参拝者が踏む足元の石段にあるのである。

 「あまり問題にされないことだか、日本神話で、神は「人」を創らない──生まない。伊邪那岐伊邪那美の男女神が生み出すものは、「国」であって「神」であって、「人を創る」ということはしていない。「人」は。神によって生み出されることはなく、いつの間にかこの日本に存在している。」(橋本治小林秀雄の恵み』新潮社2007年)

 「528品目の基準値超『ゼロ』 16年度・福島県産農林水産物検査」(平成29年4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡廃止により最後の門主・昌仁入道親王が還俗(げんぞく)し、御車路広小路にあった本房が大原に移ってからである。その大原の地は、保元元年(1156)より延暦寺が、叡山を下りた天台隠者の動きを取り締まる政所を置いたところであり、応仁の乱で焼けた折の、洛中にあった本房の移転先であり、門跡の主(あるじ)を失い、仏像仏具だけで再び戻った場所なのである。往生極楽院は、高松中納言実衡の妻・真如房尼(しんにょぼうに)が実衡の死を悼んで寛和元年(985)に建てた庵(いおり)であり、梶井本房の移転の後に、叡山政所の傍(そば)にあった庵は、本房に組み入れられ、遂にはその本堂となるのである。この経緯(いきさつ)のため往生極楽院は、苔生(む)した境内の片隅に、毛色の違う貰われ子のようによそよそしく建っている。その往生極楽院の、平安藤原時代の阿弥陀三尊像は国宝である。極楽から、死ぬ者を迎えに来た阿弥陀如来は足を組んで座り、立てた右手の掌(たなごころ)をこちらに向けている。左右の脇侍(きょうじ)菩薩、手を合わせる勢至(せいし)菩薩と、蓮台を捧げ持つ観音菩薩は折った両膝の間を広げ、背を前に傾けていて、このように座る菩薩の姿は珍しいのだという。観音菩薩の持つ蓮台が内側、腹の方に僅かに傾いているのは、往生者を乗せ終え、彼岸に帰る姿であるという。この両の菩薩の太腿の太さは、生きては見ることの出来ない極楽浄土からやって来た者として、信ずるに足ると思わせるような迫力、説得力を持っている。観音菩薩の表情は、薄く開けた両の目を手の蓮台の上に向けているように見える。であれば、蓮台に乗せた往生者を零(こぼ)さぬように内に傾けているという説明は、なるほどそうなのかもしれない。が、この阿弥陀三尊は拝み見る者の前に、このように常にいるのである。極楽からの来迎の姿として、常に見える所に在るのである。常に在るということは、念仏往生者をいつまでもここで待っている、ということなのではないか。往生は死であり、黄金の阿弥陀三尊は、有無を云わさぬ何人にも来る死を待つ姿であり、唯一人の死を待つことを許されている姿なのではないか。

 「はったいの粉(こ)は真夏の匂いがする。かんかん照りのひなたの匂い、むせかえるような雑草のにおい、はるかに遠い、わら屋根の村のにおい、物音が死んだような町の午後の匂い。」(「はったいの粉」平山千鶴『京のおばんざい』光村推古書院2002年)

 「浪江、川俣・山木屋、飯舘「避難指示」解除、帰還には課題山積」(平成29年3月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを渡る者や屈強な者の力では耐え得ぬ物を、ある頻度で一定の間渡す場合には、筏(いかだ)や舟を並べた上に板を置く浮橋を、流れの上に架けるかもしれない。その岸から岸へ人や物の往来が頻繁になる、あるいは頻繁にしようとする場合には、金を投じて木や石やコンクリートで恒久的な橋を架けることになる。その場合、誰もが恒久を願うのであるから、橋は頑強に造られる。が、それほど頑強でもなく造られた木の橋が、大山崎に近い木津川に架かっている。橋の名は上津屋橋(こうづやばし)、あるいは木津川流橋(きづがわながればし)、あるいは短く「流れ橋」と呼ばれ、全長356.5メートル、幅3.3メートルで八幡市(やわたし)と久世郡久御山町(くみやまちょう)を結んでいる。人と自転車だけを通すこの橋は、その時の予算の都合で、橋脚の上に組んだ板を載せただけの造りになっている。手摺も、夜照らす明りもない。川の水位が上がると、板は水の上に浮かんで流されるので「流れ橋」と言う、という。板はワイヤーで橋脚と繋がっていて、流れ去ってしまうことはないが、大水で橋脚から流れ落ちることがあっても「やむなし」という、およそ人間の造るものらしくない、鳥が作る鳥の巣のような橋なのである。その歴史は、昭和二十八年(1951)三月に完成し、その年の七月に流されて以降、平成二十六年(2014)八月の流出まで二十一回、「流れ橋」は橋脚の上から「やむなく」板を失っている。久御山町の側の、ひと息では上れない土手の下には田圃と茶畑が広がり、どの田圃も鍬入れが終わっている。板を失えば半年の間使えないというこの橋は、この田畑道の延長なのである。この辺りに住む者でない者が、時代劇にも使われる「流れ橋」を渡りに来る。見上げる土手の先には空以外に何もなく、土手の上に立って田圃を見下ろし、あらためて向こう岸まで橋脚の連なる「流れ橋」に目を遣る。単純な景色であり、橋を渡ろうとする者の心は、景色の明快さにつられるように、明確になる。敷かれた板の、幾つも空いた古い留め孔の跡をそのまま古い留め孔の跡と見、下の浅い水の流れをただ浅い水の流れと見、川の大方を占める草の生えた砂地を砂地と見たままに受け入れ、興味をどこかの一方に傾ければ忽(たちま)ち落下してしまう可能性があるのであるから、足と目の感覚は明確であるはずの心を素通りして、明確にならざるを得ない。橋を渡りに来ただけの者は、渡り終えると、向こうの土手を上ってひと眺めし、土手を下り、橋を渡って戻って来る。向こう岸から来た者は、こちら側まで渡って来ると、踵(きびす)を返し、戻って行く。何枚か撮った「流れ橋」の写真のうちに、若い家族の姿が写っている。河原に下り、橋を遠目に撮った一枚である。その橋の上を歩く家族の母と娘の長い髪が、風に巻き上げられている。この日、それほどの風が吹いていた記憶はないのであるが。

 「しかし今のかれはすぐその手を止めて放心状態に入った。かれはテーブルの木目を細い目でぼんやりとみつめ、その形のリズムを楽しんでいるように視線をうごかしていた。かれはあるいは、木目を遠浅の海水浴場に擬し、それを崖の上から見下ろしている気持になっているのかもしれなかった。」(三木卓『野いばらの衣』講談社1979年)

 「格納容器水中「1.5シーベルト」 第1原発1号機、強い線源か」(平成29年3月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身は軍人への恨みつらみである。一通目の手紙の出だしはこうである。「ね、おまえは、わたしの大切な恋なのに、これが見通せなかった浅はかさには程があるわ、かわいそうに。おまえは欺(だま)されたのです。おまえは、当てにならぬ希望で釣って、わたしまで欺したのです。おまえが、たくさんの幸福を期待していた情熱も、いまとなっては、死の絶望のほかは、なにも与えることはできない。それも、無残に捨てられた女だけが知る絶望です。どうしてですって。あんなにして、行っておしまいになったのですもの。悲しくて、悲しくてどう思案しても、つれないお仕打ちを、うまく言い表わす言葉は見つかりません。」(リルケ 水野忠敏訳『ポルトガル文』角川文庫1961年刊)尼僧の名は、マリアンナ・アルコフォラドといい、十二歳で修道院に入り、フランス軍人シュヴァリエ・ド・シャミリイと知り合ったのは1666年、二十五歳での時で、翌1667年、シャミリイはフランスに戻っている。1580年、ポルトガルスペイン帝国ハプスブルク朝に併合され、その三十年後の1640年、王政復古戦争、ポルトガル革命が起り、尼僧マリアンナの恋人シャミリイが去った翌年、1668年、ポルトガル・ブラガンサ朝が独立を果たす。フランス軍はその独立の支援に、ポルトガルに駐留していたのである。「この現在の悩みにも不満ですし、いまだにあなたに対しありあまる愛情をもっているこのわたしにも不満です。と申しても誤解なさらぬように、残念ながら、あなたのなさったことに、満足しているなどというつもりはないのですから。わたしは死にませんでした。わたしは嘘を申しました。わたしはじぶんの命を縮める努力と同じ努力をして、命を長らえようとしているのです。」(『ポルトガル文』第三の手紙)東山妙法院に、「ポルトガル国印度副王信書」と呼ばれる国宝の手紙が残っている。ポルトガルの支配下にあったインドの副王が、天正十六年(1588)に豊臣秀吉に宛てた手紙である。1588年、ポルトガルはスペインの支配下にあった。その支配下のインド副王から、天下統一を果たした秀吉を褒めたたえ、ポルトガル宣教師たちへの秀吉の好意を感謝し、今後とも「慈愛を垂れ給うよう」、よろしく頼むというのがその内容である。信書は三方を装飾で縁取られ、第一行目に王冠を載せた秀吉の家紋「五七の桐」を置き、十七行の最後の日付は1588となっているが、1587の7の数字を8に書き換えた跡が残っている。これは持参者と同行だった日本に戻る遣欧使節の出航が、翌年に遅れたためであるという。秀吉の出した伴天連(バテレン)追放令は天正十五年(1587)であるが、この信書は追放令がポルトガルに伝わる前のものであり、秀吉の手元に届いたのは、書かれた1587年から四年後の1591年である。妙法院は、秀吉の建てた大仏殿のあった方広寺の東側にある。妙法院は、その大仏の月毎の千僧供養のため、建仁寺辺にあった寺を大仏経堂として移したものであるという。その千人の僧侶の食事の用意をした台所の棟、庫裡(くり)は国宝である。二十メートルの吹き抜け天井の煙出しまで、煤(すす)で汚れた梁と貫が剝き出しに幾重にも走り、板間は黒光りして冷たく、ひと時そこに佇(たたず)むことは、歴史の一端に触れることでもなく、歴史を味わうことでもなく、歴史のただ中に包まれているような畏れと安堵がある。この安堵とは、己(おの)れのする息と巨人のような庫裡のいまの息とが、厳(おごそ)かに交わることが分かる、ということである。「ポルトガル国印度副王信書」は、その印刷コピーが、薄暗い宝物庫のガラス戸棚の中に飾ってあった。真物は、京都国立博物館の倉庫に仕舞ってある。文久三年(1863)、会津藩薩摩藩らの公武合体派が起こした八月十八日の政変で追放された長州藩と、三條實美ら七人の急進派公卿は、この妙法院に集(つど)い、その翌十九日の未明、雨の中を蓑笠草鞋(みのかさわらじ)の姿で、長州に下って行った。未明も、蓑笠も人目を忍んでということである。『ポルトガル文』の最後の手紙の結びは、こうである。「わたしは静かな心境に達することができそうな期待が持てるようになりました。そしてそれを最期までやり遂げるでしょう。それが、もしもできなければ、わたしは不甲斐ないこの自分に叛逆(はんぎゃく)するなにか非常の手段を用いるほかなくなるでしょう。それでも、その知らせを受けるあなたは、それほど深くは悲しんでは下さらないでしょう。……でも、あなたには、していだだきたいと思うことは、何一つなくなってしまいました。わたしはばかな女です。一つ覚えのくりごとをまた始めましたわ。あなたをあきらめる、あなたのことは二度と思い出さない、これは必要なすべてです。お手紙をさしあげるのも、いっそさっぱりと止められそうな気さえしてきました。あなたへの感情が死に絶えてしまうさまを、くわしくお知らせする義務が、そのときのわたしに、まだ残っているでしょうか。」建物の内を一周して庫裡に戻り、いま一度吹き抜け天井を見上げてみる。『ポルトガル文』も「ポルトガル国印度副王信書」も三條實美らの七卿落ちも、無関係にばらばらの事柄でありながら、それらを入れ替わり立ち代わり思うことで、この庫裡の中では、それらは相(あい)照らす如くにすれ違う。

 「種まきの済んだばかりの畑から、過去五年の堆肥と、新しいこやしの匂いが漂ってくる。この匂いとともに、同じくらいかすかに、オーケストラの音が漂ってくる。時おり、音楽からはぐれた一音やフレーズが聞こえる程度だ──ちょうど、長いあいだ折りたたんでおいた恋人からの手紙を久しぶりに開いてみると、幽霊のような判読不能な一連のしみと、文脈から遊離した「元気で過ごしているこ…」しか見えないように。」(リチャード・パワーズ 柴田元幸訳『舞踏会へ向かう三人の農夫』みすず書房2000年)

 「放射線教育…「解決型」に モデル校指定、発信できる力養成」(平成29年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京の三名水と云い伝えられている五条堀川にあった佐女牛井(さめがい)は影も形もなく、御所の縣井(あがたい)はとうの昔に涸れ、梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井の水は、その云い伝えの通りであるとすれば、平安時代から地上に湧き出ている。梨木神社は御所の東、藤原良房の娘明子(あきらけいこ)で清和天皇の母、染殿皇后の里御所、旧三條邸の場所に、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の発議で明治十八年(1885)、内大臣三條實萬(さんじょうさねつむ)を祭神として創建された神社である。三條實萬は、江戸末期の日米修好通商条約の勅許と徳川家定の将軍継嗣問題の重なりに幕府の意向に反対した者として、安政の大獄安政五年~六年(1858~59))で隠居落飾の処分を受け、その年に亡くなり、久邇宮朝彦親王もまた、当時青蓮院門跡第四十七世門主、尊融入道親王(そんゆうにゅうどうしんのう)として永蟄居を命ぜられている。尊融入道親王文久二年(1862)に赦免され、国事御用掛となり、翌年還俗して中川宮を名乗る。その文久三年(1863)、尊攘長州藩に意をそわせた三條實萬の子、公家急進派の三條實美(さんじょうさねとみ)は攘夷決行のための祈願、孝明天皇の大和行幸を企てるが、徳川家茂孝明天皇の異母妹和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を降嫁させ幕府の立て直しを図る公武合体派、会津藩薩摩藩らに同調していた中川宮朝彦親王らが起こした八月十八日の政変、御所を塞いだクーデターで、三條實美らの公家急進派は失脚し、長州藩は京都から追放される。慶応三年(1867)の大政奉還尊攘派は復権するが、中川宮朝彦親王は、明治五年(1872)まで謹慎状態にあり、後(のち)明治八年(1875)に伊勢神宮祭主となる。久邇宮(中川宮)朝彦親王の三男が久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)で、その娘良子(ながこ)が昭和天皇香淳皇后である。明治天皇の元で内大臣となった三條實美は、明治二十二年(1889)二カ月の内閣総理大臣兼任を経て、明治二十四年(1891)に死去し、大正四年(1915)梨木神社に合祀される。いま梨木神社の参道、一の鳥居から二の鳥居の間に、真新しいマンションが建っている。本殿の修繕費用捻出のため、参道にあった何百本もの萩を薙(な)ぎ倒し、地面を六十年の期限付きで業者に貸したものだという。一の鳥居は潜る用をなさず、神社から見捨てられたものとして、股を開いた奇妙ななりで、前を向いているのである。名水染井の水は、門を入った手水舎の水になっている。水は竹の切り口からも、捻った蛇口からも出て来る。云うまでもなく染井の水は、梨木神社が建つ以前から、地上に湧き出ている水である。不味い水は分かるが、旨い水の味は、分からない。

 「近ごろ撮りました私ども家族のスナップ写真をお送りいたします。しあわせそうでしょう? いちばん上の娘は八月で一二歳になりました。名前はシーラといいます。ついでながら申しあげますと、この子は夫の先妻の娘でして、主人は戦争中に最初のつれあいを亡くしたのです。下の子はメリーといいまして、先週で四歳になりました。」(ヘレーン・ハンフ編著 江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地』講談社1980年)

 「【復興の道標・不条理との闘い】自信持ち語る力を 原発視察、若者の学びに」(平成29年3月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 建武三年(1336)、自身の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字を許した足利尊氏に、天皇の位を取上げられた後醍醐天皇は、朝廷に偽物の三種の神器を渡して奈良の吉野に逃れ、逃れてなお己(おの)れの正統を主張し、その主張するところが自(おの)ずと朝廷となり、尊氏が擁した光明天皇北朝に対して南朝と呼ばれ、両朝が闘争関係にあった鎌倉幕府後の五十余年が南北朝時代である。足利高(尊)氏と新田義貞によって鎌倉幕府は滅んだが、後醍醐天皇の試みた天皇政治は、武家の新しい力を到底ねじ伏せることが出来なかった。が、武士勢力大覚寺統八条院領と持明院統の長講堂領の膨大な荘園を背景に南北両朝に分かれたまま、己(おの)れの力を使い果たすまでその力づくの主張を已(や)めなかった。明徳三年(1392)、尊氏の孫、三代将軍義満に従い、後ろ盾の勢力が衰えた南朝第四代後亀山天皇北朝後小松天皇に譲位することで南北朝時代は終わる。その合一、後亀山天皇後醍醐天皇から受け継いだ真物の三種の神器、鏡玉剣を北朝に譲り渡した場所が嵯峨大覚寺である。吉野から行列して上洛した後亀山天皇はそのまま大覚寺を住まいとし、隠居の身となるが、六年後再び吉野に遁走する。この遁走は、両統が交互に天皇になるという約束を違(たが)えた幕府への抵抗であり、南朝大覚寺統の生き残りはその後も燻(くすぶ)るような反乱を繰り返すのである。足利尊氏は、暦応(りゃくおう)二年(1338)に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、自分に討伐の命を下した後醍醐天皇の菩提の弔いに、夢窓疎石の進言で領地を寄進し、中国元に天龍寺船を出して費用を捻出し、大覚寺の西の嵯峨の地に天龍寺を建てる。一時出家を試みた尊氏の、心の揺れがそうさせたのである。その尊氏は明治の末、南朝正統論者によって逆賊として教科書に載るのである。後醍醐天皇が吉野に逃れた同じ建武三年(1336)、足利尊氏の軍に火を放たれ伽藍の大方を失った大覚寺の、大沢池(おおさわのいけ)の畔(ほとり)の老木の下に、石仏が並んでいる。鎌倉期のものであるとされているが、誰が彫り、いつからそこにあるのかは分かっていない。七百年前の目鼻が辛うじて残っているものもあり、丈が一メートル余のひと並びを、胎蔵五仏であると説明する者もいる。塩をしょっぱいと云うように説明すれば、胎蔵五仏は密教世界を表わす両界曼荼羅の一方、胎蔵曼荼羅の中心である。「胎蔵界曼荼羅の中心部を中胎蔵と云ひ、又中台八葉院と称す、八葉の蓮華開敷せる形なり。中台を大日如来とし、四方の四葉に四仏を現じ、四維の四葉に四菩薩(普賢・文殊・観音・弥勒)を現ず、即ち南方開敷華王如来(かいふけおうにょらい)、東方宝幢如来ほうとうにょらい)、北方天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)、西方無量寿如来(むりょうじゅにょらい)、中台の大日如来と合して五仏なり。」(『佛教大辭典』大倉書店1917年刊)胎蔵曼荼羅は、別の言葉ではこう説明する。「生来煩悩(ぼんのう)にわずらわされず純化しやすい仏性(ぶっしょう)は上昇して光り輝き(遍知院へんちいん)、煩悩に包また鈍重な仏性は、強烈な衝撃(明王みょうおう)の忿怒(ふんぬ)によって目覚め、黒煙を上げて燃え上る(持明院じみょういん)、仏性への目覚めは蓮華の慈悲となり(観音院(蓮華部院))、金剛杵(こんごうしょ)のごとく魔を破壊する勇気ともなり(金剛手院(金剛部院))、仏性の澄明な光をともした者は、智者の導きによって着実に智慧への階梯を上る(漸悟ぜんご)(釈迦院)。一方、度し難い者も、電撃的な閃(ひらめ)きによって悟りへの道へ飛躍する(頓悟とんご)(虚空蔵院こくうぞういん)、菩薩に点火された仏性の光は、さまざまな実践を通して光輝を増し(地蔵院、文殊院、除蓋障院じょがいしょういん、蘇悉地院そしつじいん)、迷える衆生(しゅじょう)に浸透する(最外院さいげいん(外金剛部院))」(『仏教大辞典』岩波書店1987年刊)仏教の言説は目が眩(くら)むほど際限がないのであるが、そのひと抓(つま)みを云えば、塩はしょっぱく、仏教は解脱である。仏像、石仏はその教えを直観として見よ、とするものである。真新しい石仏よりも、朽ち果てた石仏に心が動き、敬意を払う者は、その理由を考える。信心が本物であれば、恐らくそのように濁った見方はしない。朽ち果てた石仏に長い時間の経過を見るのであれば、それは子どもでも分かる。それを見続けることが出来ないことに、人は敬意を払うのではないか。人は七百年見続けることは出来ない。その敬意を払う行為の一つは、この石仏のために、石仏がこうしてあることに、この石仏の傍(かたわ)らで起きた事ごとを思うことである。

「ががの声にじさまは目を覚ましました。じさまの夢は浅く、終始雑夢に漂っているが、覚めるとなにも忘れてしまうのです。しかし、囲炉裡の薪は燠(おき)になりながらも、まだ燃えている。じさまは思わず身震いしました。その薪はたしかにだだが、じさまに風邪を引くなと言ってあの笑顔で火種に足してくれたものです。」(森敦『われ逝くもののごとく』講談社1987年)

 「浪江、避難指示「3月31日」解除、避難区域で最多1万5327人」(平成29年2月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)