『夢中問答』は、臨済禅師夢窓疎石(むそうそせき)が、足利尊氏の弟直義(ただよし)の発した九十三の問いに応えたものであり、二人の親密な関係を語るものである。「問。世情の上に浮かべる喜怒憎愛のやまぬほどは、偏(ひとへ)にこの念を対治することを心にかけて、かやうの凡情(ぼんじやう)皆やみて後に始めて本分の工夫をばなすべきやらむ。答。たまたま人界(にんかい)の生(しやう)を受けて、あひがたき仏法にあひながら、今生(こんじやう)にこれを明らめずば、何の生(※生まれ変わり)をか待つべきや。人の命は出入(いでいり)の息を頼みがたし。暫時なりとも、世事に心を移さむやと、かやうに志を励ます人は、世情にひかれて、工夫を忘るることあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起こることあれども、その憎愛の念の起こる所について、猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなかなか修行の力となるべし。然(しか)れども、道心(※求道心)の深切ならぬ故に、順逆の縁(※因縁)に転ぜられて(※妨げられて)、一向に工夫を忘るる人のために、先づ浅近(※卑近)の道理にて、世情を尽くしはてて、然(しか)して後に、始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果(※修行)を証せる人は、順逆の縁にあうても、憎愛の念は起こらずといへども、これを得法の人とは名づけず。薄地(はくぢ ※苦に追われる)の凡夫より悟入(ごにふ)する人は、喜怒の情は、いまだ尽きざれども、これをば得法の人と名づけたり。されば先づ世情をつくして、後に悟るべしとは申すべからず。妄情(まうじやう)の起こる時、これを和らぐる道理を思ひ出でたる処にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心深切なる人は、寝ることを忘れ、食(じき)することをも忘れると言えり。かやうの人は、時々は困ずることもあり、飢ゑたることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寝食の時も、さまたげなし。それまでの道心はなき人の、飢ゑを忍び、睡りを念(ねう)ずれば(※がまんすれば)、身も疲れ、病も起こりて、なかなか道行(だうぎやう)の障(さわ)りとなる故に、飢ゑをやすめむために物を食し、身をやすめむために枕をせよとすすむれども、寝食の時は、しばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人云はく、行(ぎやう)の時は、行の処を看取せよ。見聞(けんもん)の時は見聞の処を看取せよ。覚知の時は覚知の処を看取せよ。喜びの時は喜びの処を看取せよ。嗔(いか)りの時は嗔りの処を看取せよと、云々。これはこれ古人苦口叮嚀(くこていねい)の垂誠なり。かやうに修行せば、悟らずといふことなけむ。」凡人の悟りは、情欲感情を克服してから、改めて始めるものではなく、その克服そのものへの努力が、悟りに至るのであるから、歩く時は、歩くことそのことをよく思え。見聞きの時は、見聞きそのものをよく思え。知り覚える時は、知り覚えることそのことをよく見て思え。喜ぶ時は、喜びの元をよく思え。怒る時は、怒りの元をよく思え。政治知識を身につけていた後醍醐天皇は、国の実権を己(おの)れの手に戻すため鎌倉幕府の討幕を二度企て、二度目の失敗の後、元弘二年(1332)隠岐島に流されるが、翌年脱出し、反幕の武士を集め、幕府の命で兵を挙げた足利尊氏は、後醍醐天皇の意を受けて寝返り、京都六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉北条軍を攻め落し、鎌倉幕府は滅び去る。京都に戻った後醍醐天皇は、新政の元(もとい)に尊氏に命じ、鎌倉で遁世していた世評高い夢窓疎石を呼び寄せ、この三人と尊氏の弟直義の関係はこれより深まるのであるが、公家貴族、武家の言い分を統率出来ず、経済も失敗した後醍醐天皇の新政は三年で潰(つい)え、鎌倉幕府の消え残り北条時行の反乱の鎮圧に、後醍醐天皇の命に背いて向かった尊氏は、朝敵とみなされ、新田義貞楠木正成との戦(いくさ)の末、比叡山に逃げ込んだ後醍醐天皇の座に、光明天皇を据える。後醍醐天皇は、三種の神器を携えて吉野に逃れ、もう一つの朝廷を山の中で始めるのであるが、暦応二年(1339)「只生々(シヤウジヤウ)世々(セゼ)ノ妄念トモナルベキハ、朝敵ヲ悉亡(コトゴトクホロボ)シテ、四海ヲ泰平ナラ令(シ)メシト思計也(オモフバカリナリ)。朕(チン)則(スナハチ)早世ノ後ハ、第七ノ宮ヲ天子ノ位ニ即奉(ツケタテマツ)テ、賢士(ケンシ)忠臣事ヲ謀(ハカ)リ、義貞義助ガ忠功ヲ賞シテ、子孫不義ノ行(オコナヒ)ナクバ、股肱(ココウ)ノ臣トシテ天下ヲ鎮(シズム)ベシ。之(コレ)ヲ思フ故ニ、玉骨(ギヨクコツ)ハ縦(タトヒ)南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄(コンパク)ハ常ニ北闕(ホクケツ ※北の宮城)ノ天ヲ望(ノゾマ)ント思フ。若(モシ)命(メイ)ヲ背(ソムキ)義ヲ軽(カロン)ゼバ、君モ継体(ケイタイ)の君ニ非ズ、臣モ忠烈ノ臣ニ非ジ。」(『太平記』巻二十一「先帝崩御事」)とする凄(すさ)まじい怨念の綸言を残してこの世を去る。「政道一事モ無キニ依テ、天モ災ヲ下ス事ヲ不知(シラズ)。斯(カカリケ)レ共道ヲ知(シル)者無レバ、天下ノ罪ヲ身ニ帰シテ、己(オノレ)ヲ責(セム)ル心無リケルコソウタテ(※ますますひどい)ケレ。サレバ疾疫飢饉、年々ニ有テ、蒸民ノ苦ミトゾ成ニケル。──夢窓国師左武衛督(足利直義)ニ被申(マウサレ)ケルハ、「近(年)天下ノ様ヲ見候ニ、人力ヲ以テ爭(イカデ)カ天災ヲ可除(ノゾクベ)候。何様(イカサマ)是(コレ)ハ吉野ノ先帝崩御ノ時、様々ノ悪相ヲ現(ゲン)ジ御座(ゴザ)候(サフラヒ)ケルト、其神霊(ジンレイ)御憤(オンイキドホリ)深クシテ、国土ニ災ヲ下シ、禍(ワザハイ)ヲ被成((ナサレ)候ト存(ゾンジ)候。──哀(アハレ)可然(シカルベキ)伽藍一所御建立候テ、彼御菩提ヲ吊(トフラ)ヒ進セラレ候ハゞ、天下ナドカ静(シズマ)ラデ候ベキ。」(『太平記』巻二十四「天龍寺建立事」)憤死した後醍醐天皇の怨念を恐れ、その魂を鎮めるため、夢窓疎石の進言で足利尊氏と直義は、天龍寺を建立する。が、その光厳上皇の勅として幕府が建てる伽藍は、壮大でなければならない。「此為ニ宋朝(※元)ヘ宝ヲ被渡(ワタサレ)シカバ、売買利ヲ得テ百倍セリ。」として、直義は貿易船の上納金でその資金を賄ったのである。康永四年(1345)、後醍醐天皇の七回忌、天龍寺落慶法要に尊氏は「衣冠正ク」、直義は「巻纓老懸(マキフサノオイカケ)ニ蒔絵(マキエ)ノ細太刀帯(ハイ)テ」共に出るのであるが、文和三年(1352)、直義は敵(かたき)となった尊氏の軍に降伏し、その一カ月後不自由の身で急死する。幕府の実質の政務と所領の沙汰を取り仕切る直義と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は、勝ち戦(いくさ)の所領の互いの配分の遣(や)り口が気に入らず、直義は師直の暗殺を企(たくら)む。が、密告で露見し、この関係を憂慮した尊氏は師直を解任する。師直はその翌月軍を引き連れ、尊氏直義兄弟に弓を弾く構えを見せ、直義は失脚する。失脚し夢窓疎石の授戒で出家した直義は、吉野の南朝に出向いて降伏し、尊氏の庶子である直義の養子直冬の九州討伐に向った、師直を執事に復帰させた尊氏に対して挙兵する。この室町幕府を二分する戦いは、一度(ひとたび)は、尊氏が出した師直・師泰兄弟の出家を条件に幕を閉じ、師直・師泰兄弟はその二日後、直義派の者に殺される。その火種は、師直に担がれていた尊氏の嫡子義詮(よしあきら)に残り、政務に就いた義詮と補佐役の直義とが上手くいく道理はない。引退を表明した直義は、各地で起こる反幕挙兵への尊氏らの対応に不穏を察し、一派を引き連れて京を脱出する。尊氏は、直義を追討する条件を受け入れて南朝と講和を結び、北陸から鎌倉に下り、伊豆に追い詰められた直義は、尊氏に降伏する。天龍寺の庭園は、天下の名園であるという。天龍寺開山の夢窓疎石の作である。この名園に対して、言葉で決着をつけようとするとこうなる。「夢窓国師が作庭した独特の瀑布、石橋、岩島などは巨然、馬遠、夏圭らの宋、元の画家が画いた唐様山水を想わせる石組である。それは独立する意思も、組み合わされた石も、平安時代の「こゝかしこの立石どもゝ、皆転びうせたるをわざとつくろふもあいなき(※つまらない)わざなり」(源氏物語、松風の巻)とする石組、遣水、前裁の風情に調和した、和風の、草の自然描写的石組とはまったく異質な、禅的な立石法であった。これは国師の長い禅僧生活の中にはぐくまれた感覚が日本の造庭法に画期的変革を齎(もたら)したものであった。滝口右(北)上の、主護石「被雲石」は全庭第一の高所に立ち、その形は高峯、峻嶽の象であるが、また一段と別格な石で、白衣の観音大士が結跏趺坐(けっかふざ)の姿とも察せられる。後醍醐天皇の御菩提を弔う国師の本願大慈悲の顕れであろう。説明の便宜上、寺伝の石名によると、石橋前の岩島は補陀落山(ふだらくせん)を意味し、その主石を「補陀石」という。主人岬(主人島、北岬)と客人岬(客人出島、南岬)との石組の対称的地割の面白さは、「主人岬」の主石は陸上に立ち、横石は岸より水へ這い降りる状態、岬の端石は岸から離れようとするところにある。これに対し「客人岬」の主石は水の中より立上り、これにつぐ量の横石は岬の鼻石となり、端石は岸からすでに離れて独立している。庭に向って左右(南北)の抑えの役を果たす石を、秘伝書(※作庭秘伝の書)では「二神石」あるいは「二王石」という。これに相当すつ天龍寺の庭石は左(南)に屏風石様に側立する大石「光禅石」があり、右(北)には主人岬の東に礼拝石を兼ねる黄褐色の大石「臥月石」がある。「月見石」とも呼ばれる。この「臥月石」の東に数組の石組とさつきの植え込みがある。これは方丈と書院を双方より限る目的で筋違(すじか)いに大石二個が立ち、離れて見れば一連の目をさえぎる石組となり、近づけば園路を挟む左右の石となる。この立石法は滝口の左(南)側にある「不即不離の石組」とまったく同じ手法で、その上客人岬にある馬瑙石(大理石)の形に見られる独特の感覚とも共通している。これにより国師が自ら全庭にわたって手を下されていたことがわかる。云々。」(「天龍寺の庭」久恒秀治『京都名園記』誠文堂新光社1969年刊)あるいは、『太平記』の決着は短い。「石ヲ集メテハ煙嶂(エンシヤウ)ノ色ヲ假(カ)リ、樹ヲ栽ヱテハ風濤ノ声ヲ移ス。慧宋(エサウ)ガ煙雨ノ図、韋偃(ヰエン)ガ山水ノ景ニモ未ダ得ザリシ風流也。」言葉で決着をつけないのであれば、足元、方丈軒下の雨落から白砂が始まり、緩(ゆる)い弧を幾度か描く池の縁には芝が生え、池は水を湛え、池の向こう岸は、松楓の繁る築山が迫り、水辺にはこちらを向いて立ったままの石の群が並ぶ。築山には登り道があり、その頂上から京都の市街を見ることが出来るほど築山は大きく、その後ろは地続きの亀山であり、南の山が嵐山である。夢窓疎石は、作庭の後に天龍寺十境と題する詩を詠み、大堰川(おおいがわ)に架かる渡月橋をその一つとしているのであるが、方丈の縁からは大堰川渡月橋も見えない。見ることの出来ない川と橋を、夢窓疎石はこの庭の景色に隠し持たせたのである。後醍醐天皇側の軍を破り、光明天皇を据えた建武三年(1336)八月十五日から二日後の十七日、足利尊氏清水寺に「願文」を奉納している。「この世ハ夢のことくに候。尊氏にたう心(道心)たハ(賜わ)せ給(たまい)候て、後生たすけをハしまし候へく候。猶なおとくとんせい(遁世)いたしたく候。たう心たハせ給候へく候。今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさせ給候へく候。今生のくわほうをハ直義にたハせ給候て、直義あんおん(安穏)にまもらせ給候へく候。」この十四年後の観応元年(1350)、直義の誅伐相手となった師直・師泰側を率いた尊氏は、天龍寺で撤退途中の軍の休息を乞うが、夢窓疎石はそれを拒絶する。尊氏と直義が着飾って落慶法要に出たのはその五年前の康永四年(1345)である。『太平記』は、直義の死を尊氏による毒殺としている。尊氏と直義の和議を何度も図った夢窓疎石の死は、観応二年(1351)である。天皇も公家も武家も殺し合い、領地をぶん取ることに血眼(ちまなこ)になっていた時代に作られたのが、天龍寺の庭である。尊氏と直義の目に映った庭景色に、容易(たやす)く近づくことが出来ると思うのは、間違いである。

 「ぼくの三人の登場人物を前にして、彼らを行動させるという問題が生じてくる。例の騎士は森を通ってやってくる。猫は妖精に向って進んでいく。ただひとり妖精は、林間の空地で踊っている。もし期待の方が実際に起こることよりも豊かで、手段の方が目的よりも確かであるなら、彼女は骨折り損とはいえないだろう。」(「メリュジーヌの本」アルベール・カミュ 高畠正明訳『直観』新潮社1974年)

 「原発事故「国にも責任」 福島地裁判決、5億円の賠償命令」(平成29年10月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 織田信長と十一年の間、石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如(けんにょ)の死後を継いだ嫡男教如(きょうにょ)が、その継職の顕如の譲状を巡って秀吉と揉め、僅(わす)か一年後に顕如の弟准如(じゅんにょ)に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教教団の姿は、それを俯瞰(ふかん)して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(こうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海と、臨済宗の最高位南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華宗徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教は、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から、地面の拡張を請われ、三代将軍家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは言うまでもなく、東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は、幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その東本願寺の二町(にちょう)東、寄進地の百間四方が、十三代宣如(せんにょ)が隠居所とした渉成園(しょうせいえん)である。舟を浮かべたという池があり、池の中に点々と小島があり、小流れがあり、水辺や築山に茶室があり、持仏堂があり、楼閣のような左右に登り階段がある四畳半の花見の二階部屋があり、燈籠(とうろう)が立ち、梅林があり、松が生え、大広間の亭の前に広々とした芝地がある。が、いま印月池(いんげつち)と名づけられている池には、水が一滴もない。侵雪橋(しんせつきょう)と呼ばれている反橋(そりばし)の工事のため、水を抜いているのである。池に水がなければ、趣(おもむき)は変わる。あるいは趣は損(そこ)なわれ、あるいは茫然と失われる。乾いて罅(ひび)の入った泥の池は、池ではない。その故(ゆえ)に中に下り、底に立って辺りの写真を撮る者がいる。その様(さま)は夢でなく、水のある景色の方がいまは夢である。水辺に建つ建物は火事に遭い、すべて再建されたものである。臨池亭(りんちてい)、滴翠軒(てきすいけん)、閬風亭(ろうふうてい)にはガラス戸が嵌(は)まり、水のない渉成園をそのように映している。露地を設けた二階建て二間の茶室蘆菴(ろあん)は、昭和三十二年(1957)の再建である。二階四畳半の肘掛窓から外を眺め、ここで点(た)てて喫む茶は煎茶である。窓にいい風が通る。昭和三十二年の窓に吹き込むのは、昭和三十二年の風である。昭和三十二年は、南極越冬予備隊の、南極大陸初上陸の年であり、茨城県東海村の原子炉が、初めて臨界に達した年である。その火は、数を増やし点(とも)り続けたのであるが、六年前の大津波に飲み込まれ、ひとたまりもなかったのである。掲示によれば、下の池に水が戻るのは、十一月である。

 「秋雨のそぼふる夕暮の京都はいかにもよい。よいと思ふだけ、自分は東京がやはりなつかしい。上田君に半日、ワツトーの画、ダヌンチオ、春水なぞ、つまり人種固有の特徴から出た特種の文藝と云ふやうな事を語つた。京都の生活の内面は到底他の土地の人の覗(うかが)ふべからざる処らしく感じられる。」(「斷腸亭尺牘(だんちょうていせきとく)」永井荷風荷風全集 第二十五巻』岩波書店1965年)

 「「放射線量」立体で可視化 小型カメラ開発、JAEA実用化へ」(平成29年9月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「己未年の春二月(つちのとのひつじのとしのはるきさらぎ)の壬辰(みづのえたつ)の朔辛亥(ついたちかのとのゐのひ)に、諸将(いくさのきみたち)に命(みことおほ)せて士卒(いくさのひとども)を練(えら)ぶ。是(こ)の時に、層富縣(そほのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にひきとべ)といふ者有り。丘岬、此をば塢介佐棄(をかさき)と云ふ。又和珥(わに)の坂下(さかもと)に、居勢祝(こせのはふり)といふ者有り。坂下、此をば瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのをかさき)に、猪祝(ゐのはふり)といふ者有り。此三処(みところ)の土蜘蛛(つちぐも)、並(ならび)に、其(そ)の勇力(たけきこと)を恃(たの)みて、来庭(まう)き肯(か)へにす(※帰順しない)。天皇(※神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))乃(すなは)ち偏師(かたいくさ ※一部の軍)を分け遣(つかは)して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り、其(そ)の為人(ひととなり)、身短(むくろみじか)くして手足長し。侏儒(ひきひと ※小人)と相類(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其(そ)の邑(むら)を号(なづ)けて葛城(かづらぎ)と曰(い)ふ。」(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇 神武天皇)土蜘蛛は、大和朝廷服従しなかった辺境の地の首長、民の蔑称(べっしょう)で、風土記には土雲、都知久母とも記されているのであるが、例えば『平家物語』では、蔑称であった言葉が具体的な蜘蛛の化物(ばけもの)として源頼光(みなもとのよりみつ)の前に現われ、頼光に、源家に伝わる二つの剣の内の一つである「膝丸(ひざまる)」を振り下ろされる。「また頼光、そのころ瘧病(ぎやへい ※熱病)わづらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)のものくだり、頼光を綱にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にてあり。鉄の串にさしてぞ、さらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申しける。」(『平家物語』巻第十一 剣の巻下)『拾遺都名所図会』は、この「北野の塚」を、蜘蛛塚として載せている。「蜘蛛塚、七本松通り一条の北西側、圃(はたけ)の中に一丈ばかりの塚あり、これをいふ。古(いにし)へこのところに大いなる土蜘蛛棲みしとなり。『太野記(※『源平盛衰記』)』に「北野のうしろ」とあり。後考あるべし。一名山伏塚といふ。」この塚は、明治二十年代に宅地にされていまはない。が、蜘蛛塚と呼ばれる塚がもう一つある。「源頼光塚、舟岡山の南田の中に有。又の説に蓮台寺のうち、真言院の後檀の上にある所也。」(『名所都鳥』巻第六)千本通鞍馬口上ル紫野十二坊町の上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の塔頭真言院の墓地に「源頼光朝臣塚」の石碑がある。が、この石碑は、昭和初期に鞍馬口通千本西入ル紫野郷ノ上町にあった同じ蓮台寺の塔頭宝泉院の西裏の土饅頭にあったものを移したものであるという。源頼光は、藤原道長の側近であり、その父は、鎮守府将軍源満仲(みなもとのみつなか)であり、満仲の父は、清和源氏の祖、六孫王源経基(みなもとのつねもと)であり、経基は清和天皇の第六皇子貞純親王である。頼光は伊予、美濃、摂津などの国司を歴任して財を成し、道長の住まい土御門殿の再建に、その家具調度の一切を自腹で揃えたという。一条天皇の「摂津国大江山夷賊追討の勅命」を受け、四天王、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)を率いて「酒呑童子(しゅてんどうじ)」を征伐したのが頼光である。その頼光が高熱で臥(ふ)せっているところを、土蜘蛛の化物が襲いかかり、化物は返り討ちに遭って「北野の塚穴」に逃げ込んだ。北野は、菅原道真を祀る北野天満宮である。その頼光が退治した蜘蛛塚と称するものが、二つ存在していたのである。『源平盛衰記』の土蜘蛛は、七尺の法師に化けて頼光の前に現われ、能の『土蜘蛛』は、その僧形が、病む頼光に無数の紙の糸を擲(なげう)つのである。源頼光は実在し、蜘蛛塚と称するものも二つこの世にあった。が、土蜘蛛の化物はどうか。この話が説話であれば、権力に盾突く、土に籠(こも)る、土蜘蛛と呼ばれた者は悪とは言い切れない。土蜘蛛の法師は、頼光に向って「苦しめ、苦しめ、乱世が欲しい」と言ったというのである。あるいは頼光は財を成して、怨みを買ったかもしれぬ。二つの蜘蛛塚は、作り話の証拠としてあったのではない。怨みの重さと殺された者への畏敬の念の深さが、恐らく二つの塚を生んだのである。退治された者への哀れさの共鳴が、二つなのである。この蜘蛛塚と称するものがなければ、頼光の話は何ほどの面白味もない。上品蓮台寺にある、「源頼光朝臣塚」の石碑の傍らの楠(くす)の大木に、蟬の抜け殻が幾つもしがみついていた。蟬の幼虫の形(なり)は、土の中で何年も過ごすための形である。

 「スペインから流れてきたテージョ河は、大西洋に注ぎだす前に、リスボン付近で湾のような大河になる。地図にはその大河を横断する航路が点線で記されていた。どうやら、コメルシオ広場の先にあるテレイロ・ド・パソという駅からフェリーが出ているようだ。私は、不意にそのフェリーに乗りたくなってきた。」(沢木耕太郎『一号線を北上せよ』講談社2003年)

 「セシウム検出限界値下回る 二本松で「早場米」全量全袋検査」(平成29年8月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 ひらいたひらいた なんのはながひらいた れんげのはながひらいた ひらいたとおもったら いつのまにかつぼんだ。手を繋(つな)ぎ、輪になってする「ひらいたひらいた」の遊戯で、ひらいていた輪がつぼんだことを、いつのまにかと思うのは、輪の中で目を閉じてしゃがむ幼児である。目を開け、輪の動きを見ていれば、いつのまにかの云いは成り立たない。目を開けている幼児がいれば、目を閉じるように先生から注意を受けるのである。このように子どもでも分かる言葉として、いつの間に、は使われるが、輪の中で目を開けていれば、つぼんだことが、いつの間にではないことが分かる。その幼児だけは、輪がせばまってゆく情報を知ることが出来るのである。蓮華(れんげ)、蓮の寺法金剛院は、JR嵯峨野線花園駅の前にある。法金剛院は明治30年(1897)、国鉄に譲る前の京都鉄道が線路を敷設し、その南半分の敷地を失い、昭和43年(1968)線路に並ぶ丸太町通の拡張で、再びその拡張分の地面を失い、削られることに甘んじたことを歴史とする寺であり、削られたことで、埋もれていた平安時代の庭の復活を見た寺である。その元(もとい)は、桓武天皇より四代の朝廷に仕えた清原真人夏野(きよはらのまひとなつの)の狩場の別荘地であり、その死後双丘寺、天安寺となり、死後怨霊となって恐れられた崇徳天皇の母、鳥羽天皇中宮待賢門院(たいけんもんいん)が、養父白河法皇の追善に法金剛院としたものであり、その待賢門院は、皇后の高陽院、美福門院に己(おの)れの居場所を奪われ、この寺で落飾、尼となり、鳥羽天皇の第二皇女上西門院(じょうさいもんいん)も母待賢門院の死後、引き継いだこの寺で落飾している。上西門院は、神護寺を再興した文覚が、北面の武士として仕えていた、後白河天皇の姉であり准母である。阿弥陀堂を三つ並べた、法金剛院のその苑池は、浄土の如くであったというのであるが、時経って荒廃し、落葉に埋もれ、土に埋もれ、九百年後に身を削られた代償でその浄土の一部が発掘され、再び日の目を見たのである。蓮は浄土の池を埋めて花開き、浄土の径も鉢植えの蓮が埋め、誂(あつら)えたような昨日降った雨の粒が、葉の上で揺らいでいる。が、いまここに浄土を見る者は恐らくいない。目に見える極楽浄土は、その教えもろ共土に埋もれるほどに衰え、誰もそれを思わなくなった。そのことを、いつの間にかとは、歴史家であれば認めない。時間に対する無責任な甘えは、言うまでもなく歴史家にはない。

 「──新石町はうまくいってます、ええ、由太夫という人をご存じですか、その人がね、あなたの代りに、新石町の稽古所で、冲也ぶしを教えているそうです。」(山本周五郎『虚空遍歴』山本周五郎全集15新潮社1982年)

 「5年後に年20ミリシーベルト未満 宅地・農地除染後の追加被ばく」(平成29年7月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也。何もない、というもの云いに出鼻を挫(くじ)かれる。何かあるだろうと考えていた者は、話を進めることが出来ない。この俳句の「ここには」のここは、天の川とは限らないが、天の川のことであるとすれば、天の川あるいは銀河と名づけらげたものは、己(おの)れが自ら光る恒星の集まりであり、そこに星があることは光りとして確認できる以上、否定出来ない事実である。それでも「何もなかりけり」という云いは、その構造においては、天の川の一つの星に近づけば近づくほど、別の星々との間隔は離れ、元のように何もない空間が広がるばかりであるということであり、近づいたはずの天の川は、依然として頭上に横たわっているのである。そうではなく、「ここ」を天の川としなければ、「ここ」は生きて在る地球上のどこか、あるいは死後ということになる。日常の生活で、何もないという云いは誰でもする。ある店に行ったけれども、欲しいものは何もなかった。有名な観光地に行ったけれども、何もなかった。己(おの)れの生れ育ったところは、何もないところである。何かはあるが、目新しいもの、欲求を満たすもの、あるいは面白いというような感情を揺さぶるものはないというのである。ものごとはあるけれども、そこには何もない。悉(ことごと)くあるものの価値を否定し続けて行った先で待つのは、ニヒリズムである。仏教のいうところの「空」は、現象はあるが、その実体はないと思え、ということであるが、冨田拓也の「何もなかりけり」には、悟り澄ましたニヒリズムのにおいがしないでもないが、ただ天の川を天上、死の後(のち)に行くところとして素直に凡庸に詠んでいるのかもしれない。死後は何もない、というのは一つの考えである。これを正しいと思うことも、一つの考えであり、誤りであるとすることも一つの考えである。が、何もないということ、何もない状態、何もない状況を想像することは難しい。暗闇は、そのあるなしの判断が出来ない状態である。何もないことで満ちているという云いは、言葉の遊びである。「空」をいう仏教は、何もないこととしての「無」へは向かわない。公案の書『無門関(むもんかん)』はいう。「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って、通身に箇(こ)の疑団を起こして箇(こ)の無の字に参ぜよ。昼夜提撕(ていぜい)して、虚無の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。有無の会(え)を作(な)すこと莫(なか)れ。(三百六十の骨節と八万四千の毛穴を総動員して、からだ全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題をひっ提げなければならない。しかも、決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。)」(『無門関』西村恵信訳注 岩波文庫1994年刊)犬にも仏性(ぶっしょう)があるのか、の問に、趙州(じょうしゅう)禅師は「無」と応えるのであるが、別の時には「有」と応え、その仏性、禅の悟りは身体を使って考え得よ、と云うのである。しかし、病の苦痛を味わい、死後を恐れる心を克服出来ない者もいる。その者もまた、何もないという死後を想像することは難しいのであり、極楽浄土、あるいは地獄があると思うほうが易(やさ)しいのである。克服できない欲求は、死後浄土を求め、誰でも念仏阿弥陀仏を唱えるだけで極楽往生出来ると教えられれば、一も二もなく飛びついたのである。もう一度云えば、何もないことを想像することは難しい。草木国土悉皆成仏という天台宗の教えがある。この世にある草木の、生まれ花咲き、実をつけ枯れる様がそのまま成仏の様であり、あるがまま、そのまま何もせずとも成仏出来るという、この本覚思想と呼ばれるものは、死後の、何もないことの想像を、もっとも遠ざけた思考である。有ることを説明するよりも、何もないと突き放すもの云いは、容易である。死がいまよりも身に迫り、絶えず死を思って暮らさねばならぬ者らに、仏教者は、死後何もないとは決して云わなかった。あるひは思ふ天の川底砂照ると 斎藤空華。

 「しかし、もっとも不可解で神秘的な現象は、素粒子という、構造さえもたないものが、にもかかわらず、振動状態にみずからをおくということである。振動状態にあるとき、素粒子は<適当な状態>にあるということである。」(大岡信『彩耳記』青土社1972年)

 「「海洋放出」に波紋 第1原発トリチウム水、増え続け処分に苦慮」(平成29年7月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 竹田深草の、龍谷大学短期大学部の正面で交差する二つの通りは、南北が師団街道で、東西が第一軍道であり、どちらも些(いささ)か物々しい。師団街道の師団は、旧帝国陸軍第十六師団のことであり、軍道は南へ第二第三と並び、第二軍道の東の突き当りにあったその司令部の緑青の銅板屋根に赤煉瓦の建物が、払い下げを受けた聖母学院にそのままいまも使われている。龍谷大学とその北側の警察学校には、陸軍兵器廠(へいきしょう)があり、第一軍道を挟んだ南側は深草練兵場であり、京都教育大学には歩兵第三十八連隊、京都教育大学附属高等学校には輜重兵(しちょうへい)第十六連隊があった。騎兵第二十連隊は深草第三市営団地の辺りに、砲兵第二十二連隊は藤森中学校の辺りに、工兵第十六連隊は桃陵団地の辺りにあった。その帝国陸軍第十六師団の末路は、フィリピンレイテ島での一万八千余名の死であり、六百名足らずの生還である。小説家水上勉は、昭和十九年五月に深草練兵場の南にあった中部四三部隊に応召し、輜重輸卒で働かされた、と随筆「醍醐への道」に書いている。この中部四三部隊は、輜重兵第十六連隊である。水上は、教育兵として馬の世話や出陣の荷造りをしていたという。そのある日、同じ二等兵の同僚が牽いていた馬が暴れ、止めようとしたその同僚を引き摺ったまま苗を植えたばかりの田圃に入って走り回り、失態を演じた日ごろ要領のよかったその同僚は、懲罰として重営倉に入れられ、発狂して病院送りになったと人伝(ずて)に聞く。水上は、その日牽いて行った馬を桜の樹に繋いだ醍醐寺で見た五重塔の想い出を書いているが、立ち直った苗の植わった田圃の、その数日の後には消えて仕舞ったに違いない馬の蹄の跡は、紛れもなく戦争の足跡である。数年前に見たテレビの番組に、年のいった老婆が出ていた。途中から見たその番組は限界集落を扱い、腰の曲がったその老婆は、山の中に一人で住んでいて、茄子や胡瓜や隠元豆の植わった家の前の畑から見渡しても、辺りには一軒の人家も見当たらない。老婆は、夫を亡くしてから月に一度様子を見に来る娘に、一緒に住むようにいわれているが、断っているという。カメラの後ろにいる者が、その理由を訊くと、ひとりの方が気楽やけん、と平凡な応えを返した。そう応えて歩き出した老婆に後ろから、淋しくないですか、とその者が声を掛けると、淋しかよ、と老婆は後ろ姿の向うから平板な口調で応えた。野良着姿の老婆が、山道を辿って行った先は、古めかしい人の背丈ほどの社だった。毎日欠かさずお参りをする、と老婆は云う。屋根の落葉を腰を伸ばして手で払い、老婆が暫(しばら)く手を合わせる。カメラの後ろの者が、何をお祈りしたのですか、と訊く。終えて振り向いた老婆は、平和を祈うとります、と神妙に応える。それまで一度も姿を現わしていない、カメラの後ろにいた者の虚を突かれたような顔に、一瞬カメラマンがレンズを向ける。祈りは自分の健康でも子や孫の幸福でもない。老婆の口から出たそれは、ありふれた言葉であるが、人前で口にすることは時に躊躇(ためら)われる言葉である。書かれたその言葉は、正論にして疑わしく、理想として空々しく、読む者に受け流されて仕舞うか、あるいは反抗心をも催(もよお)させるかもしれぬ言葉である。が、この老婆が使ったその言葉は、この世に初めて使われた言葉のように原始的な響きを持ち、地に足をつけた農夫の云い様(よう)であったから、カメラの後ろにいた、世のすべてに疑いを持つようなその者は、虚を突かれたのである。その言葉は老婆にとって切実でも、当たり前のことでもない。山の農耕で使った肉体から、ただ生きるための息のように発せられたのである。虚を突かれた、恐らく都市で暮らしているであろうその者は、老婆が見ている山の景色に顔を向け、カメラの前で軽く笑んだ。その笑みは、例えば若年が勇気を得た時のような表情に見えたのである。その土曜の午(ひる)、第十六師団司令部を校舎の一部にしている聖母学院の門から、下校する児童が一列になって出て来るのに行き会った。引率の教員が腕を広げ、児童に道を渡らせる。足を止めた通行人のある者たちの笑みは、児童らの笑い顔の反映でもあるが、その笑みに、老婆の祈りの言葉を聞いたあの者の笑みを、重ね合わすことも出来るのである。

 「彼は僕にクレイモア地雷を渡し、東西に走る道路沿いの一点を指さした。暗い道路に歩いて出て行きながら、僕は自分が勇敢であると同時に馬鹿なことをしているような気もした。」(ティム・オブライエン 中野圭二訳『僕が戦場で死んだら』白水社1990年)

 「吉野復興相、東電会長・社長に「福島第2原発廃炉」判断を迫る。」(平成29年7月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 栂尾(とがのお)高山寺の表参道は、そのなだらかな道幅から、山寺の懐の深さを予感させる。上りきって左に折れ、方形の踏み石の角と角をずらし並べた参道に立てば、その予感に違(たが)わぬ景色が目の前にある。老楓老杉老檜の巨木の木立ちの様を見通すことが出来るのは、建物の影が一つもないからである。寺の建物は、参道の奥に続く乱れた石段の上と、右手の石垣白塀の内にあって、いまはどれも目に入らない。木の間の参道は、進めば地面を這う木の根や岩であいまいになり、巨木の他に何もないのではなく、苔生(む)した石垣の列があり、かつてあった堂宇、僧房の跡であるというこの石垣は、いまは何もないということを証明するばかりで、このまま石段を上って金堂を拝まない限り、寺の雰囲気からは遠ざかったままである。金堂にある釈迦如来は、その扉が閉ざされている限り拝むことは出来ず、例えば山の上の木蔭に並び立つような墓もない。この位置からはまだ見えない開山堂は、明恵その人を敬う施設であり、白塀の内の国宝石水院は、明恵の当時の住まいである。この石水院の二間には、仏像ではなく、明恵のささやかなコレクション、複製の「鳥獣人物戯画」、複製の「明恵上人樹上坐禅像」、明恵がその前で右耳を切ったという複製の「仏眼仏母像」、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」の額、愛玩の子犬の置物が並べ掲げられ、その小さくて見過ごされる「仏眼仏母像」を除けば、明恵が身を捧げた仏教は、この場所からも匂って来ない。履物を脱いだ拝観者は皆、東縁から眺める、清滝川を下に見る山の景色に目を奪われてしまうのである。明恵は云う。「凡(およ)そ仏道修行には、何の具足も入らぬ也。松風に睡(ねむ)りを覚まし、朗月を友として、究め来り究め去るより外の事なし。」(「栂尾明恵上人遺訓」)高山寺では、老杉の巨木の間に足を止めてこそ、この明恵の声が響き透るのである。清滝川は、河鹿が鳴き、楓が彩(いろど)る渓流である。高山寺から南に一キロ余くねり下って朱い高雄橋を渡ると、神護寺の参道口がある。神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)、神護寺は、高雄山寺と神願寺との合併の後の名であるが、このニ寺は、道鏡皇位野望を挫(くじ)く宇佐八幡の神託を持ち帰り、平安京造営大夫となった和気清麻呂(わけのきよまろ)の寺であり、高雄山寺は、その子広世(ひろよ)が招(よ)んだ比叡山最澄が奈良仏教のエリート学僧に法華経の講義をし、彼らに密教灌頂、仏位の継承を授け、同じく唐で最澄より高度な密教知識を身につけて帰朝した空海が、年長の最澄に弘仁三年(812)灌頂を授けた寺である。空海に預けた弟子が戻らず、経典より我が元で実践せよと言を返された最澄空海と絶交した舞台であり、仏法、真言密教による国家鎮護を唱えた空海が、東寺、あるいは高野山へ移るまでの十余年を拠りどころとした真言宗のもといの寺である。が、仁安三年(1168)に修験者文覚(もんがく)が見た神護寺は、住む僧もなく、荒廃を極めていたという。その文覚が、神護寺を再興するのである。文覚は、『源平盛衰記』によれば、人の妻を殺した男である。北面の武士だった文覚、十八歳の俗名遠藤盛遠(えんどうのもりとお)は、同僚渡辺渡(わたなべのわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)を手に入れるため、渡を殺すに至るのであるが、実際に殺したのは、渡に扮(ふん)した袈裟御前であったという。この後人殺しの青年盛遠は、那智の瀧に打たれ、山岳荒行を経て、呪術使いの修験者文覚となるのである。『平家物語』による文覚は、空海の仏法王法を保つの思想と神護寺の再興に取り憑かれ、寄進運動の果てに、管弦遊びの最中の後白河法皇に寄進を迫って罵(ののし)り、その流罪先の伊豆国で、平家により流罪となっていた源頼朝と出会い、挙兵を勧め、その過程からは奇妙であるが、治承四年(1180)平家討伐の院宣をその近臣藤原光能(ふじわらのみつよし)を介し、後白河法皇から取り付けるのである。後白河法皇の第三皇子以仁王(もちひとおう)が源氏に出した平家打倒の令旨も治承四年であり、遠藤武者盛遠が仕えたのは、後白河法皇の同母姉、上西門院(じょうさいもんいん)であり、伊豆国に流される前の源頼朝も上西門院の蔵人であり、そうであれば、文覚の伊豆国流罪はあらかじめ別の意味、頼朝の説得を帯びて見えて来るのである。源頼朝後白河法皇の寄進で、文覚の願いの通り神護寺は再興する。が、この後ろ盾二人の死後の文覚は、謀反の謀議、後高倉院の即位の企(はか)り事で、佐渡対馬への再び三度(みたび)の流罪に処され、対馬への途中、鎮西で没する。この文覚の元に叔父の上覚(じょうがく)がいて、八歳で両親を失った明恵は、治承五年(1181)、九歳で俗塗(まみ)れの文覚の弟子になるのである。神護寺の参道は、険しい石段である。その三百数十段を上って構え立つ楼門を潜ると、目の前の地面には何もない。右手に、あるいはその奥に、書院堂宇が並び立つのであるが、平らに削られた山の上に、先ずは何もないのである。荒々しい石段の上の金堂の中に、朱い唇の薬師如来が祀られ、不死であるとされている、空海の出現の折りの住まいとなる大師堂があるが、およそ神護寺には、空海の気配はない。修験者文覚の目にもそう映り嘆いたのであり、文覚の死後、再び荒廃したのであれば、文覚もまた仮りの宿りをした者である。慈円は『愚管抄』にこう書いている。「文学(覚)ハ行(ぎやう)ハアレド学ハナキ上人(しやうにん)ナリ。」神護寺を嫌った明恵は、二度生まれ故郷紀伊国の白上に遁世し、天竺行きを企てる。明恵は釈迦の教えを仮りの宿りとしたのではなく、釈迦の教えが明恵を仮りの宿りとしたのである。

 「さてたまたま、垂直と水平にすすんでいたふたりが、同じ時刻に同じ場所で鉢合わせすることになった。」(ミヒャエル・エンデ 丘沢静也訳『鏡のなかの鏡』岩波書店1985年)

 「「土壌貯蔵施設」10倍の100ヘクタールまで増設 中間貯蔵施設」(平成29年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)