「鵜飼はいとほしや(※あさましい) 万劫(まんごふ)年経(としふ)る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世(げんぜ)はかくてもありぬべし 後生(ごしやう)わが身をいかにせん」(『梁塵秘抄』巻第二)「湿る松明(たいまつ)振り立(たて)て 藤衣の玉襷 鵜籠を開き取出(とりいだ)し 島津巣下ろし新鵜ども 此河波にさつと放せば。面目の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追廻し、潜(かづ)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報(むく)ひも後(のち)の世も、忘(わすれ)果てて面白や。漲(みなぎ)る水の淀ならば、生簀(いけす)の鯉も上(あがる)らん、玉島川にあらねども、小鮎さ走るせせらぎに、かだみて(※怠けて)魚はよも溜めじ、不思議やな篝火の燃えても影の闇(くら)くなるは、思出(おもひいで)たり、月になりたる悲しさよ。」榎並左衛門五郎原作、世阿弥改作の謡曲「鵜飼」の第五段の後半である。第三段は、禁漁区で鵜飼漁をした罪で川に沈められた鵜使いの語りである。「鵜舟にともす篝火の、後(のち)の闇路をいかにせん。実(げに)や世中(よのなか)を憂しと思はば捨(す)つべきに(※出家すべきであるのに) 其心さらに夏川(なつかは)に、鵜使ふ事の面白さに、殺生をするはかなさよ、伝へ聞く遊子伯陽は、月に誓つて契りをなし、夫婦二(ふたつ)の星となる(※牽牛・織姫)、今の雲の上人(うへひと)月なき夜半(よは)をこそ悲しび給ふに、我はそれには引替へ、月の夜比(よごろ)を厭(いと)ひ、闇になる夜を喜べば。鵜舟にともす篝火の、消て闇こそ悲しけれ。つたなかりける身の業(わざ)と、つたなかりける身の業と、今は先非(せんぴ)を悔ゆれども、かひも波間に鵜舟漕(うぶねこぐ)、これ程惜しめ共(ども)、叶(かな)はぬ命継(つ)がむとて、営む業の物憂さよ、営む業の物憂さよ。」鵜飼は見る側も、鵜を操る鵜使いも面白く、篝火を消して漁を終えた暗闇、あるいは篝火の光が見えない月の夜を物悲しいものであると語る一方、話は鵜使いの殺生の罪悪に、僧が為す法華経の功徳を説く。芭蕉長良川の鵜飼を見物し、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(かな)」を作る。芭蕉の教養は、鵜飼を実際に見て飛躍したわけではなく、発見もなく、謡曲「鵜飼」から「おもしろうて」と「悲しき」を大胆に切り抜いた。そうではあるが、物悲しさが芭蕉の実感であることは、「やがて」という一語が証明しているはずである。嵐山の大堰川(おおいがわ)に夜、鵜舟が出る。川に点る明りは、鵜舟の篝も屋形船の軒提灯も揺れている。漕ぎ手が櫂で舟べりを叩く音は、鵜を煽(あお)るのだという。鮎を見定める鵜の頭に、篝の火の粉が降りかかる。若い鵜ほど舟から離れ、紐で己(おの)れの首を絞めるという。引き上げられ、鮎を吐き出せば、大袈裟な歓声が屋形船で沸き上がる。やがて船べりを叩く櫂の音が遠ざかり、篝火も遠ざかる。物悲しさは、櫂の音が已(や)んでからでも、篝火が消えてからでもない。「只一人鵜河見にゆくこゝろ哉(かな) 蕪村」鵜舟が浮かぶ河はすでに物悲しく、それを見に行く蕪村の心が、物寂しくないはずはない。

 「医学の要諦なんてものは簡単だ。大宇宙と小宇宙をくまなく学ぶ。そうすれば、とどのつまりは神の思し召すところへと行くだろう。学問の成果を拾いまわってもムダなことだ。しょせん、人間は、自分が学べることしか学ばない。」(ゲーテ 池内紀訳『ファウスト集英社1999年)

 「5238人全員が1ミリシーベルト未満 福島県6月内部被ばく検査」(平成28年8月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鵺(ぬえ)は鵼とも書き、トラツグミの別名であり、トラツグミと同じ声で鳴く頭が猿、胴が狸、足が虎、尾が蛇(くちなは)の化け物の名である。二条城西北の二条児童公園の隅にある鵺大明神の祠は、その化け物鵺を祀っている。平安の末、夜な夜な内裏に住まう近衛帝を怯(おび)えさせていた、上空立ち込める黒雲に弓を弾き、命(めい)を受けた源頼政はその正体である鵺を射落とした。『平家物語』巻四第四十句「鵼」の段は、その鵺退治の顛末(てんまつ)を記し、最後に「さてこの変化(へんげ)のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。」と結んでいる。世阿弥はこの「鵼」を元に、謡曲「鵺」を書き、川を流れ下った鵺の亡霊に、その心の様を語らせている。「頼政は名を上げ、我は名を流すうつほ舟に押し入(いれ)られて淀河の、淀みつ流れつ行末の、鵜殿も同じ芦の屋の、浦はのうきすに流れ留まつて、朽ちながらうつほ舟の、月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入にける、遥かに照らせ山の端の、遥かに照らせ、山の端の月と共に、海月(かいげつ)も入にけり、海月とともに入にけり。」「我」は、「悪心外道の変化(へんげ)となつて、仏法王法の障(さわ)りとならむ」と自ら語り、仏の教えにも国の権力にも従わず、盾突くために鵺に変身したというのである。が、警固の頼政に射落とされ、一本の丸太舟に押し込められた魂は、闇から闇を彷徨(さまよ)って出ることは叶(かな)わず、闇の隙間に射した月の光に晒された自分の正体は、自分では見ることが出来ない、得体の知れぬ姿なのである。鵺を射落とした源頼政は、保元の乱後白河天皇側につき、平清盛源義朝らと崇徳上皇方と戦い、後(のち)の平治の乱では、藤原信頼、義朝側から清盛側に寝返り、栄華を極め権力を恣(ほしいまま)に孫の安徳天皇を位につけた清盛に対して、以仁王(もちひとおう)と共に挙兵して破れ、宇治平等院で自害する。頼政の手で射落とされた「仏法王法の障りとならむ」鵺の魂は、一瞬その姿を世に晒し、頼政の魂に乗り移っていたのである。鵺は、暗きより暗き道に入り、闇から月の光を渇望する。頼政が死んでも、清盛が死んでも、鵺の魂は不死である。鵺大明神の前に、復元された鵺池がある。鵺池は、頼政が鵺を射落とした矢の先を洗った池である。二条児童公園は、刑務所の跡地利用である。刑務所の一角で、鵺池は水を溜め、夜は月を映していた。

 「先の見える盲人たちが、そんなものがあるはずもない場所で、愛を、愛を、とその必要性を説いた。悪徳役人たちは、昨日の卵がまだファイルボックスの引出しに残っているというのに、雌鶏が月曜日分の卵を産んでいるのを見た。」(ガルシア=マルケス 鼓直訳『族長の秋』ラテンアメリカの文学13集英社1983年)

 「400人以上帰還か 避難指示解除後の福島南相馬」(平成28年8月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昨年五月に急死した私小説車谷長吉は、短編集『金輪際』の最後に置いた短編「変」に、「私は夕食後、二階の自室に引き取って、明治の内閣総理大臣樞密院議長陸軍大将元帥従一位公爵山縣有朋(やまがたありとも)関係の資料を読んでいた。この世の悪を極めた男である。」の文を挿し挟み、山縣有朋に対する興味関心をさりげなく記していたが、生前それはかたち、作品にはならなかった。昭和十六年(1941)太平洋戦争開戦の年、南禅寺門前の山縣有朋の別荘無鄰菴(むりんあん)が山懸家から京都市に譲渡されている。山縣有朋が作った明治十五年(1882)布達の「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」は、開戦した日本陸軍の精神の基(もとい)だった。自由民権思想を弾圧し続けた山縣有朋の没年は大正十一年(1922)であり、昭和の日本も「軍人勅諭」を唱えた日本陸軍の末路も山縣有朋は見ていない。祇園祭宵山の日の午(ひる)の無鄰菴は、人影も目立たず、深閑としていた。無鄰菴庭園は名園であるという。庭師七代目小川治兵衛三十七歳の作であり、山縣有朋の創意が隅々に及んでいると、その解説には加えられている。母屋の建つ西になだらかに低くなる庭園は、東の奥で尖るように狭くなり、そのどんつき行き止まりにある、琵琶湖疎水を引き入れた一旦池のように溜まる水の流れが、二つの野川のように芝の起伏の中で分かれていく。芝は明るく丸みを持ち、母屋から見る視界の両側にはスギやモミが立ち並び、その木蔭は苔生(む)し、庭地が右に折れるところの巨石の様は渓谷の景を一瞬催させ、東のどんつきから見れば、水の面にカエデが幹を傾け、木の間の湧き水の広がりを思わせる。庭の背景は東山である。母屋の畳の上からその庭を、五十半ばの男と七十半ばのその母親と思われる容子の二人が見ている。二人の後ろの畳に腰を下ろし、庭の水音を聞いていると、男がどうぞと自分の坐っていた場所を譲るように立ち上がり、南に向いた畳に移る。片足を伸ばし、もう一方の膝を立てて坐っている母親が、このあとどこへいくんか、と男に声を掛ける。昼をどこぞで摂(と)って清水に行く、と男は応え、そろそろ行くかと云って腰を上げる。庭に顔を向けたまま母親が確かに、クニオと云ったのであるが、男は何も応えず、畳の上に立っている。外廊下の縁の沓脱石に、その二人の靴が並んでいる。伸(の)し餅のような沓脱石は、異様な大きさである。山縣有朋は、自然景色に見せかける庭の外れ、庭の下り口に人の力を示すその石を置いた。庭の自然は、この一個の沓脱石で山縣有朋にねじ伏せられている。男とその母親とおぼしき二人は、静かに靴を履いて出て行った。「国を」と、「この世の悪を極めた」山縣有朋は何度も口にした。国は、大日本帝国という名前の国である。男の母親の口から出た「クニオ」に、「国を」の響きはなかったが。

 「父親に丁寧に挨拶をして、俺は引き下がるように家の外へ出た。母親が持たしてくれた紙包みを持った。さっきのスルメをくれたのだが、この場合貰って、お礼を言ったほうがいいだろうと思ったからだ。」(「闇」深沢七郎『極楽まくらおとし図』集英社1985年)

 「「石棺」記述を削除 廃炉機構戦略プラン、地元反発で修正版」(平成28年7月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「こんなものがあっても禅宗とは何のかかわりもない。」こんなもの、とは鹿苑寺舎利殿金閣のことであり、これは昭和二十五年(1950)七月二日午前三時、運び込んだ自分の布団に火を点け、金閣を焼失させた修業学僧林養賢が取り調べを受けた西陣署での言葉である。その五年後、金閣は何事もなかったかの如く寸分違(たが)わぬ姿で再建され、その翌年三月、刑期を終えた林養賢は結核による多量喀血で死亡する。金閣寺と銘打ったプラモデルがあり、それを組み立てた子ども時代の記憶がある。完成した金閣寺は所々にセメダインが汚く付着し、屋根の上の鳳凰は、よく見ると傾いていた。数日机の上に置かれた金閣寺は、テレビの上に移り、仏壇に移り、茶箪笥の上に移り、それからどこへ行ったのか記憶はない。青モミジの真っ直ぐな参道は総門の内まで続き、その突き当たる唐門の左手の築地門を潜り、築地に沿って進み折れると、漸く池の向こうに金閣が姿を現わす。漣(さざなみ)が立つ池を挟んで見るそれは、実物というより、行方知らずになったプラモデルとの再会に近い。その光り輝く金色(こんじき)は、足利義満が撫(な)で摩(さす)った時よりも、純度の高い金色である。あの金色のプラモデルの金閣寺を買い求めた理由は、子ども時代の目にすり替わらなければ分からない。応永元年(1394)義満が、九歳の長男義持に将軍職を譲ると、同時に太政大臣の位を手に入れ、翌年自ら発願創建した臨済宗相国寺で出家し、鎌倉承久の乱の後太政大臣に昇りつめた天皇外戚西園寺公経(きんつね)の別荘西園寺を、執務山荘北山殿に造り変え、その庭に建てた舎利殿金閣である。世の頂点に立った義満は応永十五年(1408)三月、北山殿に鱗を模して敷いた五色の砂の上に金銀の造花を撒(ま)き散らし、義満に太政大臣の位を与えた後小松天皇行幸の列を迎えたという。明(みん)貿易で得た義満の財の前に国中が畏怖した瞬間である。義満はその行幸の僅(わず)か三カ月後に世を去り、その遺言で妻日野庸子の死後、北山殿は相国寺の禅寺鹿苑寺となる。このような知識は、プラモデルを組み立てた子ども時代には持っていない。応仁文明の乱で、境内で唯一戦火を被(こうむ)らなかった金閣は、辺りの様変わりした池の畔(ほとり)に立ち続け、学僧の放った火で焼け落ちる。間近で見る実物の金閣は、華奢(きゃしゃ)である。金箔の金色に釣り合わせたのであろう柱の細さが、次男義嗣を天皇にしたかもしれぬ義満の、金閣に対する繊細な見識である。再建された金閣の写真を見たいかとの主治医の問いに、林養賢は、無意味であると断ったという。林養賢に三島由紀夫のいう美意識があったとすれば、その再建は悪い冗談である。

 「重要なのは、さまざまの言説的実践をその複雑さと厚みのうちにおいて明らかにすることである。語るとはなにかを──考えられたことを表現(エクスプリメー)するのとは別なことを、知っていることを表わすのとは別なことを、また一言語体系の諸構造を働かせるのとは別なことを行なうものであることを、示すことである。」(ミシェル・フーコー 中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社1970年)

 「被ばく線量減、管理徹底重要 福島で国際シンポジウム」(平成28年7月9日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 JR嵯峨野線花園駅の北西に、こんもりとした緑の丘陵があり、それが雙ヶ岡(双ヶ丘、ならびがおか)で、樹木の根の下は雙ヶ岡一号墳、二ノ丘谷古墳、三ノ丘古墳と名づけられた古墳群である。南北朝の頃、この西麓に『徒然草(つれづれぐさ)』の作者兼好(けんこう)の住まいがあったとされている。兼好は、『大徳寺文書(だいとくじもんじょ)』中の田地売券によれば、正和二年(1313)六条有忠から山城国山科小野庄(おののしょう)の水田一町を九十貫文で買い、そこに住まいを持っている。「さても猶世を卯の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野の山里」は、官職を辞した兼好が卯の花、空木(ウツギ)の花の房のようにひと茎に群がり咲く一家係累で雁字搦(がんじがら)めの世、世俗と縁を切って世捨人となった歌である。世捨人、遁世者(とんせいしゃ)となっても、水田一町からの収入が兼好にはあった。あるいは、南朝の流れの源(みなもと)となる後二条大覚寺統歌人二条為世の門下であった兼好は、北朝の後ろ盾であった足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)の艶書、恋文の代筆をしたという『太平記』巻二十一の「塩谷判官讒死ノ事(えんやはんがんざんしのこと)」の記事がその通りであれば、南北朝の内乱にあっての兼好の身過ぎ世過ぎの振り幅であり、小野庄の住まいから雙ヶ岡西麓に庵を持つまでの幾度かの転居の振り幅とも重なって来る。この兼好の振り幅は、『徒然草』の記述の振り幅とも重なって見える。見聞観察から導き出される『徒然草』の結語断定は、その切れ味が小気味良い分、兼好の思索の限界とも受け取られかねない表裏を伴っている。思索の過程その経過に興味が移る時、兼好の断定はその先にあらかじめ待って在るもののように目に映る。思考、思索の過程に滲(にじ)み現われるものが、時にその者の人間臭さであるが、『徒然草』の振り幅、無常観も仏道修行も処世術も和歌も有職故実も、どれもあらかじめの教養であり、手持ちの教養として兼好の手の内にある限り、兼好の体臭はそこからは臭っては来ない。兼好の体臭は、買った水田の収入であり、南朝から北朝へすり寄った身過ぎ世過ぎにあるのである。落葉に埋まった雙ヶ岡の小径を辿り、一の丘の頂上に立つと、三門がやや右に向いた御室仁和寺(おむろにんなじ)が見える。遥か遠くに、でなく、遥か近くに、山に後ろを囲まれたその景色は懐かしい絶景である。『徒然草』に、仁和寺の僧の滑稽話があり、悪ノリで足鼎(あしかなえ)を頭から被って抜けなくなった件(くだり)は有名である。西麓に住んだ兼好が、この位置から仁和寺を眺めなかったはずはない。この眺望の位置から、理想とした仏道の、僧の愚行を見て取っていたのである。「ならびの岡に無常所まうけて、かたはらに桜を植ゑさすとて ちぎりおく花とならびの岡のべにあはれいくよの春をすぐさむ」建てた墓のそばに植えた桜とあと何年春を迎えることが出来るだろうか、と詠んだ兼好の没した地は、京都でないとされている。兼好が没した地は、恐らく振り幅の最も振れた場所である。ホオジロが鬱蒼とした木の間で啼き、雙ヶ岡ではめったに人と出会わない。

 「まもなくコンヒスが戻って来た。手摺に寄り、深呼吸をした。空と海と星、宇宙の半分が私たちの前に拡がっていた。飛行機の音はまだ聞こえていた。こんなとき、アリスンは決って煙草の火をつけたものである。それに倣(なら)って私も煙草の火をつけた。」(ジョン・ファウルズ 小笠原豊樹訳『魔術師』河出書房新社1979年)

 「福島県産米、酒輸出に『逆風』 英国民投票、英国がEU離脱へ」(平成28年6月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「花柳の巷と六道の辻の間にあるのが建仁寺、昼下りにはこどもらの遊園となる」と言葉を添えたモノクロ写真には、滑り台で遊ぶ子どもらと、傍らの乳母車の赤ん坊をあやす子どもの背後に、仏殿がぽつんと写っている。この写真の掲載は、昭和三十七年(1962)刊の岩波新書、林屋辰三郎の『京都』の建仁禅寺の頁である。平成二十六年(2014)十一月二十九日の京都新聞に、青絵の具を垂らし流して描いたような新作襖絵の前で、その作者と建仁寺管長、京都市長が並んだカラー写真が載っている。平成十四年(2002)、仏殿から法堂(はっとう)と名称を変えた堂の天井に日本画小泉淳作が描いた「双龍図」がNHKの番組・日曜美術館で取り上げられ、あるいは平成十九年(2007)同じNHKの番組・プロフェッショナル仕事の流儀が小書院の庭・潮音庭の作庭の様子を取り上げている。方丈の前庭・大雄苑は昭和十五年(1940)の作であり、もう一つの小庭・◯△▢乃庭は平成十八年(2006)の作である。その方丈は、慶長四年(1599)に安芸国安国寺から移築された室町期のものであり、昭和九年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和十五年(1940)に再建されている。山門、仏殿は江戸宝暦年間(1751~1764)のものであるとされ、三門は静岡浜松の安寧寺より大正十二年(1922)に、仏殿は明和二年(1765)東福寺より移築されたものである。放生池を挟んだ三門の南に建つ勅使門は、平重盛あるいは教盛の六波羅邸のもの、あるいは室町期のいづこかの遺構であるとされ、方丈の裏にある茶室・東陽坊は、豊臣秀吉天正十五年(1587)に催した北野天満大茶会の長盛茶室を移し建てたものである。建仁寺の境内は斯(か)くの如く、それぞれのものの別々の時間が持ち込まれ、それが幸福な出会いであるという印象を必ずしも受けない。加えれば、元は右京鳴滝の末寺妙光寺のものであった国宝、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」はその複製が庫裡の玄関奥に飾られ、方丈の襖絵の数々、海北友松の「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」「琴棋書画図」「山水図」もすべて複製であり、これらには時間というものはなく、方丈とも境内の他の建物とも庭とも時間が交わり流れることはない。建仁寺は、栄西(ようさい、えいさい)が鎌倉の寿福寺に次いで建仁二年(1202)に建てた臨済宗の禅寺である。元を逃れた宋の臨済渡来僧あるいは留学僧は中国に明るく、貿易を重要視した次の室町幕府は、栄西臨済宗禅寺を官寺五山とするのである。権力者の後ろに立った宗教は、例外なく堕落する。学んだ宋から帰国し、建仁寺に身を寄せた道元は、著書『典座教訓(てんぞきょうくん)』で建仁寺の典座(食事・供膳職)の無知を嘆き、学僧だった一休宗純は、同じ学僧の俗物ぶりを軽蔑し、無名の僧・謙翁の弟子となる。しかし栄西が中国から茶を齎(もたら)したことで禅宗は生き延び、茶は武士と商人を結びつけ、禅寺は宿泊施設となり、その拠りどころとなるのである。が、徳川幕府に寄った寺々は明治維新で土地を奪われ、それぞれに荒廃し、建仁寺は子どもの遊び場子守の場となるのである。『フランケンシュタイン』はイギリスの小説家メアリー・シェリーの小説で、映画にもなり、見た者はあの怪物をフランケンシュタインと記憶してしまうが、フランケンシュタインは人間の死体を繋ぎ合わせてあの怪物を作った学者の名前である。理想の人間となるはずであったそれは、利口で力もあったが、姿が醜く、孤独に陥り絶望する。その怪物の皮膚の縫合あとを、建仁寺の境内に張られている錆びた有刺鉄線を見て思い出したのである。映画の中で、女の子がその怪物を恐れもせず、摘(つ)んだ花を手渡すシーンがある。建仁寺の庭では、梔子(クチナシ)の白い花がそちこちで咲き、至るところでその匂いがしていた。

 「南の国の遠い町に住んでいる男がいて、畑仕事をしていた。男はけして豊かとはいえなかったが、地所はオアシスの縁にあった。午後の間中彼は溝を掘り、一日が終わると庭の端まで行って水門を開き、止めてあった水を引き込んだ。すると水はたちまち溝を走り、大麦や柘榴(ザクロ)の木の苗床へ流れた。空は一面の紅だった。男は自分の庭が宝石を散りばめたように美しく映えているのを知って、石のうえに腰を下ろし、それを眺めた。眺めているうちに、庭はますます紅に染まった。」(「庭」ポール・ボウルズ 四方田犬彦訳『優雅な獲物』新潮社1989年)

 「葛尾、「避難指示」解除 4市町村目、川内は14日、全域解消」(平成28年6月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 この時期町中(まちなか)の和菓子屋は、水無月、みなづきと書いた紙を店先に貼り出す。水無月は、外郎(ういろう)の上に小豆を散らした三角形の餅菓子である。半透明の白い外郎は、平安御所の氷献上の行事「氷室の節供」の貴重だった氷を模し、小豆は邪気を祓い、夏越(なごし)の祓いの六月晦日(みそか)に食べれば、厄払いになるという。とある和菓子屋の軒を潜り、声を掛けると、奥から以前応対した初老の女ではなく、白い帽子に白い上っ張りを着た年配の男が現われる。男は固太りの体つきをしているが、いらっしゃいでも、毎度でもなく、どこか落ち着きがない。目は大きく、太い眉で、両頬に薄い赤味がさしている。水無月と草餅を二つづつ頼むと、黙ったまま前屈(かが)みに商品ケースを開け、肩に力の入った手つきで木箱から取り出し、それぞれ二つづつを透明なパックに入れ、輪ゴムで蓋を閉じ、包装紙で包んで袋に入れ、慎重に商品ケースの上に置く。値段を訊くと、一旦開きかけた口を閉じ、両目を宙に漂わせると、次第に男の頬の赤味が濃くなってゆく。男は、値段の合計計算が出来ないか、水無月か草餅の値段を思い出せないか、あるいは覚えていなのかもしれない。そうでなければ、自分が作った菓子の値に、突如疑問を抱いたかだ。男は店の横の壁に掛けたカレンダーの辺りを見ながら、再び口を開きかけては止める。レイモンド・カーヴァーに「スモール、グッドシング(村上春樹の訳では「ささやかだけれど、役にたつこと」)」という小説がある。母親が息子の誕生日のプレゼントにパン屋でケーキを注文し、その誕生日当日の朝、息子が交通事故に遭って意識不明に陥る。駈けつけた病院から一旦戻った家で父親が取った電話の相手は、息子のケーキのことを云うが、父親はそれを知らず、不愉快な思いで切ってしまう。翌日母親が風呂に入りに家に戻ると、また電話が鳴り、相手が息子の名前だけを云うと、母親は恐ろしい思いで電話を切る。三日後息子は亡くなり、夜二人が憔悴しきって家に戻ると、またも電話が鳴り、同じ相手が今度は、息子のことを忘れたのかと云い、母親は漸(ようや)く予約したケーキのことを思い出し、その嫌がらせに怒り、二人はパン屋へ車を走らせる。パン屋は、予約をすっぽかした二人に皮肉を吐くが、事情を知ると非礼を詫び、こういう時こそものを食べてくれ、ささやかだけれど、役にたつと云って、出来立てのパンを二人の前に出し、自分の生きて来た孤独を語り、二人はしみじみ聞き入る。話の筋はこうであり、目の前の和菓子屋の年配の男の沈黙の間に、この話を不意に思い出したのであるが、理由は分からない。男の白い上っ張りの下に履いた黒いズボンに付いている白い粉の汚れは、小説に出て来るパン屋の男のズボンにも付いている汚れであるかもしれない。この小説の筋を、いい話として受け取れば、いい話の小説は飽きられる。たとえば、亡くなった子どもの名前で親の元に届く入学祝商品のダイレクトメールは、不条理に残酷であり、現実に起こる非情を思い知らされるのである。和菓子屋の男の沈黙は、小説一篇とダイレクトメールの非情を思い起こさせて、なお続いている。「ささやかだけれど、役にたつこと」のパン屋を、カーヴァーはこう書いている。「彼は花屋にならなくてよかったと思っている。花を売るよりは、人に何かを食べてもらう方がずっといい。匂いだって、花よりは食べ物の方がずっといい。」和菓子屋の男はついに、水無月と草餅二つづつの合計を口にする。千円で支払うと、和菓子屋はまた、沈黙し、宙に目を漂わせる。

 「まもなく一年間が過ぎようとしている。私は道路の向う側にある木陰の薄暗い場所まで往復するのが習慣になっている。目的地は私が選んだのではないがこの五ヵ月間位は同じ場所におちついた。それ以前は別の場所であった。また、数ヵ所の時もあった。そのころは自分の車で出かけていたのであるが、目的地のせばまった今は歩くことになった。」(「ドッグ・フィールド」若林奮『I.W──若林奮ノート』書肆山田2004年)

 「「凍土遮水壁」山側、凍結拡大へ 海側でセメント注入を追加」(平成28年6月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)