目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを渡る者や屈強な者の力では耐え得ぬ物を、ある頻度で一定の間渡す場合には、筏(いかだ)や舟を並べた上に板を置く浮橋を、流れの上に架けるかもしれない。その岸から岸へ人や物の往来が頻繁になる、あるいは頻繁にしようとする場合には、金を投じて木や石やコンクリートで恒久的な橋を架けることになる。その場合、誰もが恒久を願うのであるから、橋は頑強に造られる。が、それほど頑強でもなく造られた木の橋が、大山崎に近い木津川に架かっている。橋の名は上津屋橋(こうづやばし)、あるいは木津川流橋(きづがわながればし)、あるいは短く「流れ橋」と呼ばれ、全長356.5メートル、幅3.3メートルで八幡市(やわたし)と久世郡久御山町(くみやまちょう)を結んでいる。人と自転車だけを通すこの橋は、その時の予算の都合で、橋脚の上に組んだ板を載せただけの造りになっている。手摺も、夜照らす明りもない。川の水位が上がると、板は水の上に浮かんで流されるので「流れ橋」と言う、という。板はワイヤーで橋脚と繋がっていて、流れ去ってしまうことはないが、大水で橋脚から流れ落ちることがあっても「やむなし」という、およそ人間の造るものらしくない、鳥が作る鳥の巣のような橋なのである。その歴史は、昭和二十八年(1951)三月に完成し、その年の七月に流されて以降、平成二十六年(2014)八月の流出まで二十一回、「流れ橋」は橋脚の上から「やむなく」板を失っている。久御山町の側の、ひと息では上れない土手の下には田圃と茶畑が広がり、どの田圃も鍬入れが終わっている。板を失えば半年の間使えないというこの橋は、この田畑道の延長なのである。この辺りに住む者でない者が、時代劇にも使われる「流れ橋」を渡りに来る。見上げる土手の先には空以外に何もなく、土手の上に立って田圃を見下ろし、あらためて向こう岸まで橋脚の連なる「流れ橋」に目を遣る。単純な景色であり、橋を渡ろうとする者の心は、景色の明快さにつられるように、明確になる。敷かれた板の、幾つも空いた古い留め孔の跡をそのまま古い留め孔の跡と見、下の浅い水の流れをただ浅い水の流れと見、川の大方を占める草の生えた砂地を砂地と見たままに受け入れ、興味をどこかの一方に傾ければ忽(たちま)ち落下してしまう可能性があるのであるから、足と目の感覚は明確であるはずの心を素通りして、明確にならざるを得ない。橋を渡りに来ただけの者は、渡り終えると、向こうの土手を上ってひと眺めし、土手を下り、橋を渡って戻って来る。向こう岸から来た者は、こちら側まで渡って来ると、踵(きびす)を返し、戻って行く。何枚か撮った「流れ橋」の写真のうちに、若い家族の姿が写っている。河原に下り、橋を遠目に撮った一枚である。その橋の上を歩く家族の母と娘の長い髪が、風に巻き上げられている。この日、それほどの風が吹いていた記憶はないのであるが。

 「しかし今のかれはすぐその手を止めて放心状態に入った。かれはテーブルの木目を細い目でぼんやりとみつめ、その形のリズムを楽しんでいるように視線をうごかしていた。かれはあるいは、木目を遠浅の海水浴場に擬し、それを崖の上から見下ろしている気持になっているのかもしれなかった。」(三木卓『野いばらの衣』講談社1979年)

 「格納容器水中「1.5シーベルト」 第1原発1号機、強い線源か」(平成29年3月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身は軍人への恨みつらみである。一通目の手紙の出だしはこうである。「ね、おまえは、わたしの大切な恋なのに、これが見通せなかった浅はかさには程があるわ、かわいそうに。おまえは欺(だま)されたのです。おまえは、当てにならぬ希望で釣って、わたしまで欺したのです。おまえが、たくさんの幸福を期待していた情熱も、いまとなっては、死の絶望のほかは、なにも与えることはできない。それも、無残に捨てられた女だけが知る絶望です。どうしてですって。あんなにして、行っておしまいになったのですもの。悲しくて、悲しくてどう思案しても、つれないお仕打ちを、うまく言い表わす言葉は見つかりません。」(リルケ 水野忠敏訳『ポルトガル文』角川文庫1961年刊)尼僧の名は、マリアンナ・アルコフォラドといい、十二歳で修道院に入り、フランス軍人シュヴァリエ・ド・シャミリイと知り合ったのは1666年、二十五歳での時で、翌1667年、シャミリイはフランスに戻っている。1580年、ポルトガルスペイン帝国ハプスブルク朝に併合され、その三十年後の1640年、王政復古戦争、ポルトガル革命が起り、尼僧マリアンナの恋人シャミリイが去った翌年、1668年、ポルトガル・ブラガンサ朝が独立を果たす。フランス軍はその独立の支援に、ポルトガルに駐留していたのである。「この現在の悩みにも不満ですし、いまだにあなたに対しありあまる愛情をもっているこのわたしにも不満です。と申しても誤解なさらぬように、残念ながら、あなたのなさったことに、満足しているなどというつもりはないのですから。わたしは死にませんでした。わたしは嘘を申しました。わたしはじぶんの命を縮める努力と同じ努力をして、命を長らえようとしているのです。」(『ポルトガル文』第三の手紙)東山妙法院に、「ポルトガル国印度副王信書」と呼ばれる国宝の手紙が残っている。ポルトガルの支配下にあったインドの副王が、天正十六年(1588)に豊臣秀吉に宛てた手紙である。1588年、ポルトガルはスペインの支配下にあった。その支配下のインド副王から、天下統一を果たした秀吉を褒めたたえ、ポルトガル宣教師たちへの秀吉の好意を感謝し、今後とも「慈愛を垂れ給うよう」、よろしく頼むというのがその内容である。信書は三方を装飾で縁取られ、第一行目に王冠を載せた秀吉の家紋「五七の桐」を置き、十七行の最後の日付は1588となっているが、1587の7の数字を8に書き換えた跡が残っている。これは持参者と同行だった日本に戻る遣欧使節の出航が、翌年に遅れたためであるという。秀吉の出した伴天連(バテレン)追放令は天正十五年(1587)であるが、この信書は追放令がポルトガルに伝わる前のものであり、秀吉の手元に届いたのは、書かれた1587年から四年後の1591年である。妙法院は、秀吉の建てた大仏殿のあった方広寺の東側にある。妙法院は、その大仏の月毎の千僧供養のため、建仁寺辺にあった寺を大仏経堂として移したものであるという。その千人の僧侶の食事の用意をした台所の棟、庫裡(くり)は国宝である。二十メートルの吹き抜け天井の煙出しまで、煤(すす)で汚れた梁と貫が剝き出しに幾重にも走り、板間は黒光りして冷たく、ひと時そこに佇(たたず)むことは、歴史の一端に触れることでもなく、歴史を味わうことでもなく、歴史のただ中に包まれているような畏れと安堵がある。この安堵とは、己(おの)れのする息と巨人のような庫裡のいまの息とが、厳(おごそ)かに交わることが分かる、ということである。「ポルトガル国印度副王信書」は、その印刷コピーが、薄暗い宝物庫のガラス戸棚の中に飾ってあった。真物は、京都国立博物館の倉庫に仕舞ってある。文久三年(1863)、会津藩薩摩藩らの公武合体派が起こした八月十八日の政変で追放された長州藩と、三條實美ら七人の急進派公卿は、この妙法院に集(つど)い、その翌十九日の未明、雨の中を蓑笠草鞋(みのかさわらじ)の姿で、長州に下って行った。未明も、蓑笠も人目を忍んでということである。『ポルトガル文』の最後の手紙の結びは、こうである。「わたしは静かな心境に達することができそうな期待が持てるようになりました。そしてそれを最期までやり遂げるでしょう。それが、もしもできなければ、わたしは不甲斐ないこの自分に叛逆(はんぎゃく)するなにか非常の手段を用いるほかなくなるでしょう。それでも、その知らせを受けるあなたは、それほど深くは悲しんでは下さらないでしょう。……でも、あなたには、していだだきたいと思うことは、何一つなくなってしまいました。わたしはばかな女です。一つ覚えのくりごとをまた始めましたわ。あなたをあきらめる、あなたのことは二度と思い出さない、これは必要なすべてです。お手紙をさしあげるのも、いっそさっぱりと止められそうな気さえしてきました。あなたへの感情が死に絶えてしまうさまを、くわしくお知らせする義務が、そのときのわたしに、まだ残っているでしょうか。」建物の内を一周して庫裡に戻り、いま一度吹き抜け天井を見上げてみる。『ポルトガル文』も「ポルトガル国印度副王信書」も三條實美らの七卿落ちも、無関係にばらばらの事柄でありながら、それらを入れ替わり立ち代わり思うことで、この庫裡の中では、それらは相(あい)照らす如くにすれ違う。

 「種まきの済んだばかりの畑から、過去五年の堆肥と、新しいこやしの匂いが漂ってくる。この匂いとともに、同じくらいかすかに、オーケストラの音が漂ってくる。時おり、音楽からはぐれた一音やフレーズが聞こえる程度だ──ちょうど、長いあいだ折りたたんでおいた恋人からの手紙を久しぶりに開いてみると、幽霊のような判読不能な一連のしみと、文脈から遊離した「元気で過ごしているこ…」しか見えないように。」(リチャード・パワーズ 柴田元幸訳『舞踏会へ向かう三人の農夫』みすず書房2000年)

 「放射線教育…「解決型」に モデル校指定、発信できる力養成」(平成29年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京の三名水と云い伝えられている五条堀川にあった佐女牛井(さめがい)は影も形もなく、御所の縣井(あがたい)はとうの昔に涸れ、梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井の水は、その云い伝えの通りであるとすれば、平安時代から地上に湧き出ている。梨木神社は御所の東、藤原良房の娘明子(あきらけいこ)で清和天皇の母、染殿皇后の里御所、旧三條邸の場所に、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の発議で明治十八年(1885)、内大臣三條實萬(さんじょうさねつむ)を祭神として創建された神社である。三條實萬は、江戸末期の日米修好通商条約の勅許と徳川家定の将軍継嗣問題の重なりに幕府の意向に反対した者として、安政の大獄安政五年~六年(1858~59))で隠居落飾の処分を受け、その年に亡くなり、久邇宮朝彦親王もまた、当時青蓮院門跡第四十七世門主、尊融入道親王(そんゆうにゅうどうしんのう)として永蟄居を命ぜられている。尊融入道親王文久二年(1862)に赦免され、国事御用掛となり、翌年還俗して中川宮を名乗る。その文久三年(1863)、尊攘長州藩に意をそわせた三條實萬の子、公家急進派の三條實美(さんじょうさねとみ)は攘夷決行のための祈願、孝明天皇の大和行幸を企てるが、徳川家茂孝明天皇の異母妹和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を降嫁させ幕府の立て直しを図る公武合体派、会津藩薩摩藩らに同調していた中川宮朝彦親王らが起こした八月十八日の政変、御所を塞いだクーデターで、三條實美らの公家急進派は失脚し、長州藩は京都から追放される。慶応三年(1867)の大政奉還尊攘派は復権するが、中川宮朝彦親王は、明治五年(1872)まで謹慎状態にあり、後(のち)明治八年(1875)に伊勢神宮祭主となる。久邇宮(中川宮)朝彦親王の三男が久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)で、その娘良子(ながこ)が昭和天皇香淳皇后である。明治天皇の元で内大臣となった三條實美は、明治二十二年(1889)二カ月の内閣総理大臣兼任を経て、明治二十四年(1891)に死去し、大正四年(1915)梨木神社に合祀される。いま梨木神社の参道、一の鳥居から二の鳥居の間に、真新しいマンションが建っている。本殿の修繕費用捻出のため、参道にあった何百本もの萩を薙(な)ぎ倒し、地面を六十年の期限付きで業者に貸したものだという。一の鳥居は潜る用をなさず、神社から見捨てられたものとして、股を開いた奇妙ななりで、前を向いているのである。名水染井の水は、門を入った手水舎の水になっている。水は竹の切り口からも、捻った蛇口からも出て来る。云うまでもなく染井の水は、梨木神社が建つ以前から、地上に湧き出ている水である。不味い水は分かるが、旨い水の味は、分からない。

 「近ごろ撮りました私ども家族のスナップ写真をお送りいたします。しあわせそうでしょう? いちばん上の娘は八月で一二歳になりました。名前はシーラといいます。ついでながら申しあげますと、この子は夫の先妻の娘でして、主人は戦争中に最初のつれあいを亡くしたのです。下の子はメリーといいまして、先週で四歳になりました。」(ヘレーン・ハンフ編著 江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地』講談社1980年)

 「【復興の道標・不条理との闘い】自信持ち語る力を 原発視察、若者の学びに」(平成29年3月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 建武三年(1336)、自身の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字を許した足利尊氏に、天皇の位を取上げられた後醍醐天皇は、朝廷に偽物の三種の神器を渡して奈良の吉野に逃れ、逃れてなお己(おの)れの正統を主張し、その主張するところが自(おの)ずと朝廷となり、尊氏が擁した光明天皇北朝に対して南朝と呼ばれ、両朝が闘争関係にあった鎌倉幕府後の五十余年が南北朝時代である。足利高(尊)氏と新田義貞によって鎌倉幕府は滅んだが、後醍醐天皇の試みた天皇政治は、武家の新しい力を到底ねじ伏せることが出来なかった。が、武士勢力大覚寺統八条院領と持明院統の長講堂領の膨大な荘園を背景に南北両朝に分かれたまま、己(おの)れの力を使い果たすまでその力づくの主張を已(や)めなかった。明徳三年(1392)、尊氏の孫、三代将軍義満に従い、後ろ盾の勢力が衰えた南朝第四代後亀山天皇北朝後小松天皇に譲位することで南北朝時代は終わる。その合一、後亀山天皇後醍醐天皇から受け継いだ真物の三種の神器、鏡玉剣を北朝に譲り渡した場所が嵯峨大覚寺である。吉野から行列して上洛した後亀山天皇はそのまま大覚寺を住まいとし、隠居の身となるが、六年後再び吉野に遁走する。この遁走は、両統が交互に天皇になるという約束を違(たが)えた幕府への抵抗であり、南朝大覚寺統の生き残りはその後も燻(くすぶ)るような反乱を繰り返すのである。足利尊氏は、暦応(りゃくおう)二年(1338)に後醍醐天皇が吉野で亡くなると、自分に討伐の命を下した後醍醐天皇の菩提の弔いに、夢窓疎石の進言で領地を寄進し、中国元に天龍寺船を出して費用を捻出し、大覚寺の西の嵯峨の地に天龍寺を建てる。一時出家を試みた尊氏の、心の揺れがそうさせたのである。その尊氏は明治の末、南朝正統論者によって逆賊として教科書に載るのである。後醍醐天皇が吉野に逃れた同じ建武三年(1336)、足利尊氏の軍に火を放たれ伽藍の大方を失った大覚寺の、大沢池(おおさわのいけ)の畔(ほとり)の老木の下に、石仏が並んでいる。鎌倉期のものであるとされているが、誰が彫り、いつからそこにあるのかは分かっていない。七百年前の目鼻が辛うじて残っているものもあり、丈が一メートル余のひと並びを、胎蔵五仏であると説明する者もいる。塩をしょっぱいと云うように説明すれば、胎蔵五仏は密教世界を表わす両界曼荼羅の一方、胎蔵曼荼羅の中心である。「胎蔵界曼荼羅の中心部を中胎蔵と云ひ、又中台八葉院と称す、八葉の蓮華開敷せる形なり。中台を大日如来とし、四方の四葉に四仏を現じ、四維の四葉に四菩薩(普賢・文殊・観音・弥勒)を現ず、即ち南方開敷華王如来(かいふけおうにょらい)、東方宝幢如来ほうとうにょらい)、北方天鼓雷音如来(てんくらいおんにょらい)、西方無量寿如来(むりょうじゅにょらい)、中台の大日如来と合して五仏なり。」(『佛教大辭典』大倉書店1917年刊)胎蔵曼荼羅は、別の言葉ではこう説明する。「生来煩悩(ぼんのう)にわずらわされず純化しやすい仏性(ぶっしょう)は上昇して光り輝き(遍知院へんちいん)、煩悩に包また鈍重な仏性は、強烈な衝撃(明王みょうおう)の忿怒(ふんぬ)によって目覚め、黒煙を上げて燃え上る(持明院じみょういん)、仏性への目覚めは蓮華の慈悲となり(観音院(蓮華部院))、金剛杵(こんごうしょ)のごとく魔を破壊する勇気ともなり(金剛手院(金剛部院))、仏性の澄明な光をともした者は、智者の導きによって着実に智慧への階梯を上る(漸悟ぜんご)(釈迦院)。一方、度し難い者も、電撃的な閃(ひらめ)きによって悟りへの道へ飛躍する(頓悟とんご)(虚空蔵院こくうぞういん)、菩薩に点火された仏性の光は、さまざまな実践を通して光輝を増し(地蔵院、文殊院、除蓋障院じょがいしょういん、蘇悉地院そしつじいん)、迷える衆生(しゅじょう)に浸透する(最外院さいげいん(外金剛部院))」(『仏教大辞典』岩波書店1987年刊)仏教の言説は目が眩(くら)むほど際限がないのであるが、そのひと抓(つま)みを云えば、塩はしょっぱく、仏教は解脱である。仏像、石仏はその教えを直観として見よ、とするものである。真新しい石仏よりも、朽ち果てた石仏に心が動き、敬意を払う者は、その理由を考える。信心が本物であれば、恐らくそのように濁った見方はしない。朽ち果てた石仏に長い時間の経過を見るのであれば、それは子どもでも分かる。それを見続けることが出来ないことに、人は敬意を払うのではないか。人は七百年見続けることは出来ない。その敬意を払う行為の一つは、この石仏のために、石仏がこうしてあることに、この石仏の傍(かたわ)らで起きた事ごとを思うことである。

「ががの声にじさまは目を覚ましました。じさまの夢は浅く、終始雑夢に漂っているが、覚めるとなにも忘れてしまうのです。しかし、囲炉裡の薪は燠(おき)になりながらも、まだ燃えている。じさまは思わず身震いしました。その薪はたしかにだだが、じさまに風邪を引くなと言ってあの笑顔で火種に足してくれたものです。」(森敦『われ逝くもののごとく』講談社1987年)

 「浪江、避難指示「3月31日」解除、避難区域で最多1万5327人」(平成29年2月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨か雪という天気予報の朝、晴れ間ののぞく空から吹かれ漂う小さな雪の一粒の発見があり、忽(たちま)ち空が雲に覆われ、その数の数えは最早追いつかない雪の降り現われは、雨とならない大気の冷たさの説明である。寒さの最中に熱さを思うことは、一つの逃避であるとすれば、熱さではなく別の寒さを思い起こすということは、どういうことであろうか。ロス・マクドナルドに『さむけ』という探偵小説があり、ジョン・ル・カレに『寒い国から帰ってきたスパイ』というスパイ小説がある。どちらもそそる題名であり、その題名の通り『さむけ』は、人を殺す寒さであり、『寒い国から帰ってきたスパイ』は、嘘をつく国の寒さである。物語りの細部は記憶にない、が、その題名にそそられ、心に触れた寒さは、読む行為の豊かさとしていまも記憶している。『寒い国から帰ってきたスパイ』は1963年の発表であり、ケネディ大統領の暗殺された年であり、『さむけ』の発表は、1964年である。私小説車谷長吉(くるまたにちょうきつ)の小説『赤目四十八瀧心中未遂』にある「見知らぬ市(まち)へはじめて降り立った時ほど、あたりの空気が、汚れのない新鮮さで感じられる時はない。その市(まち)の得体の知れなさに、呑み込まれるような不安を覚えるのである。その日の朝早く京都小山花ノ木町の知人の家を出て、鴨川べりへ出ると、川が一面に凍っていた。尼ヶ崎は霙(みぞれ)まじりの雨だった。シベリアから南下した烈しい寒気団が日本列島を天から圧していた。」は、車谷長吉の過去の実感の投影であり、ここ数日のいまの京都の実感である。『赤目四十八瀧心中未遂』の「私」と、同じアパートに住む「アヤ子」との心中は、題名の通り未遂に終わる。心中場所の赤目で入った食堂でビールを飲みながら、「私」は「アヤ子」から、「あんたは、あかんやろ」と呟かれる。「私」は、「己(おの)れの心が、ふたたび「冷え物。」になって行くのが、はっきり感じられた。」(『赤目四十八瀧心中未遂』)この「冷え物」は、冷(さ)めた食い物であり、それは冷え者としても同じであり、喰えない者、融通の利かない強情者であり、「愚図」であり、「腑抜け」であり、「臆病者」であり、書かれた車谷長吉自身の姿である。車谷長吉は、二十五歳で広告代理店のサラリーマンの身分を捨て、小説原稿を書く生活に入るが、三十歳で行き詰まり、故郷播州飾磨(しかま)に逃げ帰り、調理師学校に通った後、昭和五十二年(1977)京都西洞院通(にしのとおいんどおり)丸太町上ルの料理屋柿傳で下働きをしている。車谷長吉の『文士の生魑魅(いきすだま)』にこのような一文がある。「私は京都の料理屋で料理場の下働きをしていた。三十一歳だった。朝五時に起きて、料理場の拭き掃除、便所掃除、朝飯の拵(こさ)えにはじまる毎日だった。本を読むいとまはなかったし、文士になりたい、という悪夢も九割はあきらめていた。……仕事が終わるのは夜十一時である。それから私はこの本(野呂邦暢の『諫早菖蒲日記』)を持って、京都御所の外苑へ行き、外灯の下で、夜中の二時、三時まで立ってむさぼり読んだ。」料理屋の寮の相部屋では、明りを点けて本を読むことは許されなかったのである。車谷長吉はその後料理屋を転々とし、昭和五十七年(1982)小説「萬藏の場合」が芥川賞候補になるが、その落選の知らせを、神戸元町の料理屋みの幸の料理場で聞いたという。車谷長吉が『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞するのはそれから十六年後、平成十年(1998)五十三歳の時である。

 「因(ちな)みに「冷位」というのは、例の心敬の「氷ばかり艶(えん)なるはなし」に通じる、世阿弥の「冷えたる曲」の論を体した、私近来の志を霊的に表記したつもりの造語である。」(永田耕衣 句集『冷位』コーベブックス1975年)

 「(汚染)土のう破損 「元請けの指示で切った」 現場作業員が関与認める」(平成29年2月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 油小路通(あぶらのこうじどおり)は、その西の堀川通と東の西洞院通(にしのとういんどおり)の間を南北に走り、東西に走る六角通から五条通までの堀川通の間は、醒ケ井通(さめがいどおり)が挟まり、北の紫明通(しめいどおり)から錦小路通西洞院通の間には小川通が挟まり、錦小路通から途切れ、仏光寺通から塩小路通までの油小路通西洞院通の間に挟まれた小川通は、天使突抜通あるいは東中筋通と呼ばれている。平安京造営で引かれた、油小路通の名前の謂(いわ)れは分からない。小川通が終わる紫明通の一筋南の寺之内通油小路通も一旦途切れ、通りは尭天山報恩寺に突き当たる。報恩寺には、「撞かずの鐘」と呼ばれる鐘がある。夕に鳴る鐘の数で口論となった機屋の十三歳の織子(おへこ)が、相手の十五歳の丁稚(でっち)に言い含められ寺男が一つ減らしてその日の夕に鐘を撞いたため、悔しさに鐘楼に掛けた帯で首を吊って以来、除夜にしか撞かないという鐘である。南の方を下(さが)ル、北の方を上(あが)ルという京都の云いで、鄙(ひな)びた報恩寺から油小路通を下(さが)ッて最初に交差する今出川上ルには、平清盛らを率いた弟後白河天皇と朝廷の実権を争った保元の乱で破れ、讃岐に流された崇徳上皇(すとくじょうこう)を祀る白峯神宮と、徳川家康に洛北鷹峯の地を貰うまで住んでいた本阿弥光悦の屋敷跡がある。崇徳上皇は自分の血で経を写し、爪や髪を伸ばし続けて天皇家を呪い、死後その怨霊が京洛を襲ったとされ、前の孝明天皇が果たせず、明治天皇白峯神宮を造り、名誉の回復のため、その霊を讃岐から京に慶応四年(1868)帰還させたのである。次に交わる元誓願寺通を下ッた油小路頭町(あぶらのこうじかしらちょう)には、慶長ヤソ会天主堂教会跡の駒札が立っている。建物は美しかったが、教会がこの地にあったのは、慶長十七年(1612)の徳川幕府の弾圧までの十年足らずの間であった、と駒札は記している。次の一条通を下ルと、茶道千家十職(せんけじっそく)の一つ、茶碗師樂吉左衛門家の樂焼美術館がある。その謳(うた)い文句は、「手のひらの中の宇宙 楽焼」である。次の中立売通西入ルには、壁にヴィーナスやライオンの頭のレリーフがある逓信技師岩元祿が設計した重要文化財、大正十年(1921)竣工の旧京都中央電話局西陣分局の建物がある。その灰色の壁の色は、取り残された最先端の身の竦(すく)みである。下立売通を下ッた人形店に、桃の節句雛人形が飾ってある。「お内裏様とお雛様ふたり並んですまし顔」のその顔が見ているのは、宇宙の何事かである。二条通を下ッた、二条城を前に並んだホテルの一つ、昭和四十四年(1969)学生運動の最中、二十歳で鉄道自殺した立命館大学学生、日記『二十歳の原点』を残した高野悦子がアルバイトをしていた京都国際ホテルは、いまは解体され、囲みの内では、新しいホテルの工事が始まっている。彼女の自殺の現場は、その下宿先から毎日目にしていた、まだ高架になっていない国鉄山陰線円町駅の手前の踏切である。油小路通蛸薬師には、織田信長が自害し果てた本能寺跡の碑、空也が念仏を広めた道場、空也紫雲山光勝寺がある。錦小路下ル、仏光寺下ルには織物問屋染物屋の間(あい)に京都有形文化財の町家野口家住宅、商家秦家住宅が建っている。秦家の向いは、祇園祭太子山の会所である。その山車(だし)に乗る太子像は、四天王寺建立の材を探して山城の森に入った若き聖徳太子である。五条上ル西には、山本亡羊(やまもとぼうよう)読書室舊跡の碑がある。山本亡羊は安永七年(1778)に生れ、安政元年(1859)に没した本草学者であり、読書室は私塾である。平成二十六年(2014)、この土蔵から維新時に岩倉具視が使った暗号表が見つかっている。仏壇仏具屋が軒を連ねる珠数屋町(じゅずやちょう)の正面通を西へ進めば、堀川通の向うに西本願寺がある。正面通東入ルの煉瓦造りの洋館は、西本願寺伝道院である。七条通を越し、木津屋橋上ルにある本光寺の前に、「伊東甲子太郎(いとうかしたろう)外数名殉難の地」と記した駒札が立っている。「伊東甲子太郎常陸茨城県)の出身で、学問もでき、剣は北辰一刀流の名手であった。元治三年(1864)に門弟ら七人を率いて新撰組に入隊し、参謀として重視された。しかし、尊王派であった伊東は次第に隊長近藤勇と相反するようになり、慶応三年(1867)三月に同士十五人とともに新撰組を離脱して御陵衛士となり、高台寺月真院を屯所とした。その後薩摩藩の援助を受け、盛んに討幕を説いた。しかし新撰組との対立は深く、同年十一月近藤勇は、伊東を招いて酒をふるまい、酔った伊東をその帰路この地で刺殺した。この知らせを聞いた伊東一派は直ちに駆け付けたが、待ち伏せていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた。世にこれを油小路七条の変という。京都市油小路通は、京都駅の線路を潜ると、堀川通と合流し、道幅は格段に広くなるが、その南の先には然(さ)したる歴史は刻まれていない。やり羽子(やりばね、羽子つき)や油のやうな京言葉 高濱虚子。 

 「こうした不幸者たちのいくらかは、おそらく自分自身から何かが滲み出るのを漠然と感じるからであろう。まるでそうした神秘的な発散物が外へ出ないようにするかのごとく、あらゆる出口を閉ざして、みずからも緊張した固い表情をつくる。それとも、彼らが仮面を前にしてそうした凍ったような死の表情をつくるのは、模倣の精神や暗示の結果であろう──彼らもやはりとても影響を受けやすく、感じやすいのだ。」(ナタリー・サロート 三輪秀彦訳『見知らぬ男の肖像』河出海外小説選1977年)

 「第1原発事故「最大値」…2号機・格納容器内530シーベルト」(平成29年2月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「嵯峨に遊びて、去来が落柿舎(らくししゃ)に至る」ではじまる芭蕉四十八歳、元禄四年(1691)の嵯峨滞在の記『嵯峨日記』に、小督局(こごうのつぼね)の遺跡を尋ねる件(くだり)がある。「松の尾の竹の中に小督屋敷といふ有り。すべて(※どれも)上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り。いづれか確かならむ。かの仲国(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留の橋といふ、このあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪の内に有り。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも(※恐れ多くも)錦繍綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥しして、つひに藪中(そうちゆう)の塵芥となれり。昭君(※中国漢の美女)村の柳、巫女廟の花の昔も思ひやらる。うきふしや竹の子となる人の果て 嵐山藪の茂りや風の筋。」平清盛の娘、高倉天皇の中宮徳子は、その女房の召使いの、寵愛の女童葵前(あおいのまえ)との別離を余儀なくされ気落ちした高倉天皇のため、「主上(しゆじやう、高倉天皇)の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方(徳子)より、なぐさめまゐらせんとて、「小督殿(こがうどの)と申す女房を参らせらる(※お側に差し上げる)。桜町の中納言成範(しげのり)の卿(きやう)の御むすめ、冷泉(れいぜい)の大納言隆房(たかふさ)卿のいまだ少将なりしとき、見そめたりし女房なり。」(『平家物語』巻第三 葵の女御)そうなれば、その大納言隆房は、「今はまた君(高倉天皇)に召されまゐらせて、せんかたなくかなしくて、あかぬ別れ(※未練の別れ)の涙には、袖しほたれてほしあへず(※袖が濡れて乾く間もない)。……今はこの世にてあひ見んこともかたければ(※逢うことも難しいので)、「生きてひまなくものを思はんより(※小督殿を思い続けるより)、ただ死なん」とのみぞ願はれける。」と思いつめてしまう。「太政入道(平清盛)このよしを伝へ聞き給ひて、御姫(徳子)は中宮にて、内裏へわたらせ給ふ(※宮中に召されていらっしゃる)、冷泉の少将(隆房)の北の方(妻)も同じく御むすめ(※清盛の四女)なり。この小督殿ひとかたならずか様(よう)にありしあひだ(※二人の婿に愛されているので)、太政入道、「いやいや、この小督があらんほどは、この世の中あしかりなんず(※娘夫婦の間が良くならない)。小督を、禁中を召し出(い)ださばや」とぞのたまひける。小督殿、このよしを聞き給ひて、「わが身のことはいかにもありなん、君(高倉天皇)の御ため心ぐるしかるべき」と、内裏をひそかに逃げ出でて、いづくともなく失せ給ひぬ。」その小督局の失せた先が嵯峨である。が、高倉天皇は弾正大弼仲国(だんじやうのだいひつなかくに)に行方を探させる。笛の名手仲国は、琴の名手だった小督局を、その琴の音で探し当て、密かに宮中に連れ戻す。が、これを聞き及んで怒った清盛は、「小督殿をたばかり出(い)だして(※だまして出して)、尼にぞなされける。出家は日ごろより思ひまうけたる(※覚悟していた)道なれども、心ならず尼になされて、年二十三にて、濃き墨染にやつれつつ(※姿を変えて)、嵯峨の辺にぞ住まれける。主上高倉天皇)は、か様の事どもを御心ぐるしうおぼしめされけるより、御悩つかせ給ひて(※ご病気にかかられて)、つひに崩御(※亡く)なりぬ。」小督局が連れ戻され、高倉天皇との間に範子内親王を生んだのが、治承元年(1177)であり、中宮徳子が第一皇子言仁親王安徳天皇)を生んだのが、治承二年(1178)である。『平家物語』は、仁安二年(1168)高倉天皇が即位し、「この君(高倉天皇)の位につかせ給ふは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。……入道相国(にふだうしやうごく、平清盛)かやうに天下をたなごころににぎり給ふあひだ、世のそしりをもはばかり給はず、不思議のこと(※けしからぬこと)をのみし給へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王(ぎわう、祇王)、義女(ぎによ、祇女)とておととひ(※姉妹)あり。これはとぢといふ白拍子のむすめなり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなすことかぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にしてたのしきことかぎりなし。」(『平家物語』巻第一 義王)と、その物語をはじめてまもなくに、清盛が寵愛した遊女義王を登場させ、そのけしからぬことをこう語るのである。「宮中にまた白拍子の上手一人出できたり。これは加賀の国の者なり。名を仏(ほとけ)とぞ申しける。」その仏を、清盛の門前払いにもかかわらず、義王が招き入れると、清盛は忽(たちま)ち虜(とりこ)になるが、「(仏御前が)「かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前の思ひ給はんずる心のうちこそ(※義王の心の様を思うと)はづかしうさぶらへ、はやはやいとまを賜はりて出(い)ださせ給へ」と申しけれども、入道「なんでう、その儀あるべき。ただし義王があるをはばかるか。その儀ならば義王をこそ出(い)ださめ」とのたまふ。」義王は清盛の邸を自ら出て行くと、毎月の百石百貫も打ち切られ、悲嘆に沈み暮らした翌春、清盛が、「いかに義王。そののちなにごとかある(※どうしているか)。さては仏御前のあまりにつれづれに(※退屈そうに)見ゆるに、なにかくるしかるべき(※遠慮はいらぬ)、参りて今様をもうたび、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞのたまひける。」義王は母刀自(とじ)の説得に従い、清盛と仏御前の前で涙を堪えて舞うが、「かくて都にあるならば、また憂き目をも見んずらん(※辛い目を見るに違いない)。いまは都のうちを出(い)でん」とて、義王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。」(『平家物語』巻第一 義王出家)妹義女、母刀自も共に剃髪し、時過ぎてその秋、嵯峨の庵に尼になった仏御前が現われ、義王らを驚かす。「つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、たのしみさかえてもなにかせん。人身(にんじん)は受けがたく、仏教にあひがたし。このたび泥梨(ないり、奈落)に沈みなば、多生曠劫(たしやうくわうごふ、生まれ変わりの長い時)を経(ふ)るとも浮かびがたし。年の若きをたのむべきにもあらず。老少不定(らうせうふぢやう、予測できない寿命)のさかひなり。出(い)づる息の入るをも待つべからず(※死期が来るのにひと呼吸の猶予もない)。かげろふ、いなづまよりもなほかなし。一旦のたのしみにほこりて(※驕って)、後生を知らざらん(※顧みなかった)ことのかなしさに、今朝まぎれ出(い)でて(※こっそり邸を脱け出て)、かくなりて(※尼になって)こそ参りたれ。」義王の没年とされる承安二年(1172)は確かではないが、治承元年(1177)に京に戻った小督局は、その一時を義王らの暮らす庵から一キロ足らずの所に隠れ住んでいたのである。義王らの墓がある往生院祇王寺は、去来の住まいだった落柿舎から数百メートルの場所にあるが、芭蕉は『嵯峨日記』には何も記していない。芭蕉が目にした小督局の墓と称する桜は、その住居跡であるが、渡月橋北詰から大堰川(おおいがわ)をやや上がった引っ込みにあるその住居跡の小督塚は、昭和三十年代に女優の浪花千栄子が設けたものである。塚は塵一つ、雑草の一本も生えてなく清潔だったが、一本の花も供えられていなかった。

 「熊谷直実入道蓮生(くまがいなおざねれんしょう)がしゃにむに上品上生(じょうぼんじょうしょう)をこそと願ったのは、荘厳はなやかな中で極楽往生することが目的ではなく、往生した後、再び極楽から還り来って、娑婆(しゃば)即(すなわ)ち現世の有縁無縁の衆生が極楽へ往生する折の先導役をつとめることに在った。この点に蓮生の特色があり、それは極楽往生を眼目とする法然の専修念仏には欠けていたところではなかったかと私は思う。」(唐木順三『あづま みちのく』中公文庫1978年)

 「福島・富岡の避難解除2月に判断 政府の住民説明会終了」(平成29年1月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)