御衣黄(ぎょいこう)はソメイヨシノに遅れて咲く桜であるが、その際立つ特徴は、花弁の色にある。御衣の黄、とは朝廷の貴族らが着るものに好んだ萌黄であり、花弁がその萌黄のような薄緑をしているからであるが、この桜を知った者は萌黄桜とも緑桜とも名づけず、御衣黄と呼ぶようになった。御衣黄は、蕾から花弁が開いて数日はその萌黄に近い色をしているが、次第に薄緑を無くしてゆき、外に一枚一枚の身の端を丸めながら淡い黄色味の残る白色になり、同時に芯の底から紅色が滲(にじ)み上がり、星のように見える筋を花弁に作る。西陣の雨宝院(うほういん)に、その御衣黄の木がある。雨宝院は町中の小さな寺であるが、弘法大師空海の創建であるという。空海の祈禱で病癒えた嵯峨天皇が己(おの)れの別荘時雨亭を譲り渡し、空海はそれを雨宝堂と名づける。どちらの名にも雨の字があるが、雨宝は、祀った雨宝童子の名である。雨宝童子は、天照大神が日向の世に現れた十六歳の姿であるといい、ここでいう天照大神は、大日如来が姿を変えて現れたとする神である。雨宝は法雨の転化で、法雨は、雨のように遍(あまね)く人の心を潤す仏の教えである。左手に宝棒、右手に宝珠を持つ雨宝童子は、十六歳の力とその知恵を表す自信と不安の姿であり、恐らくは常に立ち戻るべき姿である。十六歳の少年は、己(おの)れの力で降らせるはずの雨を待っている。窓辺で雨が上がるのを待つのは、下の歳の少年である。雨宝院は、晴れの日でも、狭い境内いっぱいに枝を伸ばす桜や松や地の幾種もの花のせいで、雨の日のように薄暗い。その狭い中に本堂、大師堂、不動堂、稲荷堂、庚申堂、観音堂が棟を寄せ合い、願いを持って秘かに縋(すが)る近くに住まう者の、まずその秘かなる信心に足る寺の様子として、繁茂する草木は人目を憚(はばか)るその薄暗さを保っているのである。雨宝院の本尊は、象頭人身の歓喜天(かんぎてん)である。歓喜天は、悪神がその欲望のゆえに、欲望を満たすために善神と交わり、遂には仏法を守護する者となった神である。十六歳の雨宝童子の名を持つこの寺は、この歓喜天秘仏をその懐(ふところ)に隠し持つが故(ゆえ)に、愈々(いよいよ)寺の秘かさは本物として参る者を説得させるのである。今年の陽気は京都の桜を早く開かせ、この日見た雨宝院の御衣黄も、半ば以上すでに花を落とした姿だった。八重の御衣黄ソメイヨシノのように花片(はなびら)を散らさず、花の姿のまま地に落ちる。枝の上での十日余りの色の変化を見過ごした、紅の滲(にじ)む花が幾つも木の下に落ちている。落ちた花は、死に花であろうか。枝に葉を出し尽くせば、後(あと)は長く退屈な時間が待ち受けているばかりである。それは何も、この御衣黄に限ったことではないが。

 「東の國の博士たちはクリストの星の現はれたのを見、黄金や乳香や沒薬(もつやく)を寶(たから)の盒(はこ)に入れて捧げに行つた。が、彼等は博士たちの中でも僅(わず)か二人か三人だつた。他の博士たちはクリストの星の現はれたことに氣づかなかつた。のみならず氣づいた博士たちの一人は高い臺(だい)の上に佇(たたず)みながら、(彼は誰よりも年よりだつた。)きららかにかかつた星を見上げ、はるかにクリストを憐れんでゐた。「叉か!」」(「西方の人 7博士たち」芥川龍之介芥川龍之介全集第九巻』岩波書店1978年)

 「「廃棄物貯蔵施設」秋にも着工 大熊と双葉、19年度運用開始へ」(平成30年4月24日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 『宇治拾遺物語』に「聖宝僧正(しやうぼうそうじやう)、一条大路渡る事」と題して次のような話が載っている。「昔、東大寺に、上座法師の、いみじくたのもしきありけり。つゆばかりも、人に物与ふることをせず、慳貪(けんどん)に罪深く見えければ、そのとき、聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、惜しむ罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。「御坊、何事したらんに、大衆(だいしゅ)に僧供(そうぐ)引かん」と言ひければ、上座思ふやう、ものあらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんも、よしなし。さりながら、衆中にて、かく言ふことを何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじきことを思ひめぐらして言ふやう、「賀茂祭の日、ま裸にて、たふさぎばかりをして、干鮭太刀にはきて、やせたる牝牛に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『われは東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて、渡り給へ。しからば、この御寺の大衆より下部(しもべ)にいたるまで、大僧供(だいそうぐ)引かん」と言ふ。心中に、さりとも、よもせじと思ひければ、かたくあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、鐘打ちて、仏に申して去りぬ。その期(ご)近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集まりぬ。上座もありけり。しばらくありて、大路の見物の者ども、おびたたしくののしる。何事かあらんと思ひて、頭さし出(いだ)して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部(わらはべ)つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。その年の祭りには、これを詮(せん、一番の見もの)にてぞありける。さて、大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。このこと、帝(みかど)きこしめして、「聖宝はわが身を捨てて、人を導く者にこそありけれ、今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて、召し出(いだ)して、僧正までなしあげさせ給ひけり。上(かみ)の醍醐は、この僧正の建立なり。」聖宝のまだ若い時分、けちで欲深い東大寺の寺務頭の法師に、どうすれば衆徒にものを恵んでくれるかと挑み、上座法師は出来そうもない提案、賀茂祭でふんどしに干鮭を差して牝牛に乗り、己(おの)れを名乗って行けと聖宝に示すと、当日聖宝はそれを実行して上座法師の目論見は外れ、聖宝は、心動かされた帝から僧の最高位である僧正の位を貰う。この帝は、宇多法皇であり、宇多法皇の第一皇子が醍醐天皇である。この醍醐の名は、その埋葬場所に近い醍醐寺からつけられた諡号(しごう)であり、醍醐寺は聖宝が笠取山に開いた寺である。醍醐天皇の世を「延喜の治」として、天皇親政の理想とされ、その両輪となっていたのが左大臣藤原時平と右大臣菅原道真である。藤原時平は、関白藤原基経(もとつね)の長男であり、基経の娘の穏子(おんし)は醍醐天皇中宮である。醍醐天皇の皇太子となった第二皇子保明親王(やすあきらしんのう)と、保明親王の死後三歳で皇太孫となった時平の娘仁善子との間の保明親王の第一皇子慶頼王(やすよりおう)も、皇太孫のまま醍醐天皇から天皇を引き継ぐことなく五歳で死亡する。時平は、政治手法の合わない学者道真が、醍醐天皇を退けた後宇多法皇の第三皇子であり己(おの)れの娘婿齊世親王(ときよしんのう)を皇位につけようとしていると、醍醐天皇に讒言(ざんげん)し、道真はその嘘によって太宰府に弾き飛ばされ、怨死する。この死後の、時平の血を引く二人の皇太子孫の死が、この道真の祟りとされたのである。世継ぎは、国家の一大事である。醍醐天皇が縋(すが)ったのが、真言修験者聖宝であり、聖宝が上醍醐に祀った准胝観音(じゅんていかんのん)である。斯(か)くして保明親王の死と同じ年、中宮穏子の腹から後の朱雀天皇となる寛明親王(ゆたあきらしんのう)が生まれ、村上天皇となる成明親王(なりあきらしんのう)が生まれる。醍醐天皇は二人の子の誕生を、聖宝と聖宝を継いだ弟子の観賢の祈禱によるものあると思わぬはずはなかった。下醍醐の金堂の裏に、長尾天満宮という社(やしろ)がある。ここには菅原道真が祀られ、境内の衣装塚には道真の衣装と遺髪が納められているといい、生前道真がこの場所を己(おの)れの墓所にするよう聖宝に望んでいたからだといわれている。醍醐天皇は道真の死後、道真を右大臣の位に戻した。が、道真の怨霊は鎮まらなかった。朝廷が道真を祀る北野天満宮を建てるのは、延喜三年(903)の道真の死から四十四年後である。醍醐の花見は、慶長三年三月十五日(1598年4月20日)豊臣秀吉下醍醐に新たに七百本の桜を植えさせ、家人、諸大名の女房ら千三百人と宴を張ったものである。招待を受けた大坂城北政所は、秀吉に次のような文を書き送っている。「一筆申し上げまいらせ候、この春、醍醐の春にあひ候へとの御おとづれ、こよのう御うれしく存じまひらせ候。誠にうつしえの花にのみ、としどし山家の花をながめ、春を暮し侍りつる。あさからぬ御さたどもいとめでたく存じ候。局々もめしつれ候へのよし、積もりぬ鬱々を醍醐の山の春風に散らしすてんこと、おさおさしき恩風にてこそ候へ。」朝鮮に戦さを仕掛けて膠着した「積もりぬ鬱々」を抱えた天下人秀吉は、この年の八月にこの世を去る前に、花見ぐらいしか思いつくことはなかった。醍醐寺はこの花見を機に、秀吉秀頼の金で伽藍の再建を果たし、いまは人波が出来るほどの花見客が訪れる。空のよく晴れたこの日も、下醍醐の境内は人で溢(あふ)れ返っていた。白壁の築地の内の並木の桜は、見られることに馴れた枝の様(さま)で咲き誇り、老木はどれも黒々と見事な枝振りであるが、権力を持った手で撫で育てられ身についた傲(おご)りのようなものを、その満開の立ち姿に漂わせている。麓の下醍醐から四百五十メートル余の高さの上醍醐まで、大人の足で六十分掛かるという。醍醐の桜を見に来た者で、上醍醐まで足を伸ばす者はほとんどいない。上醍醐への登り道は、人の手が入っているが、途中のガタのきた険しい石段は、登り馴れない者には、油断ならないものである。自販機で水を買った時、入山受付の男が、「上に着いたら醍醐水がありますよ。」と声を掛けた。途中で二、三度ペットボトルの水を口にする。どこやらで鶯の啼く声がして、山を下りて来る二組の者らとすれ違う。下から登って来る者の姿はなく、辺りに桜は生えていない。登りつめた所から緩い下りと上りを過ごすと、上醍醐の域に出る。斜面を削って散らばるように建つ清瀧宮拝殿、清瀧宮本殿、准胝堂、薬師堂、五大堂、如意輪堂、開山堂が上醍醐の伽藍の全てであるが、聖宝が醍醐天皇の子授けを祈った、醍醐寺の元(もとい)である准胝堂は、平成二十年の落雷で堂も准胝観音も焼失し、草の生えた空き地があるだけだった。この空き地の下が、馬蹄の形に掘り削られた醍醐水の湧く所である。水の湧く所の上に、祈禱場所を置くことに恐らく修験者聖宝の意味があった。ここへ登らなければ、水を飲む喉の実感のように、その意味は分からない。下醍醐の、醍醐天皇を弔う国宝五重塔の建造は、朱雀天皇からその弟村上天皇に引き継がれ、天暦五年(951)落成を見たのであるが、その発案は、醍醐天皇の第三皇子代明親王(よしあきらしんのう)であるという。代明親王の母親は、醍醐天皇の更衣藤原鮮子で、両天皇の腹違いの弟である代明親王は、皇太子にならなかった。菅原道真を祀る長尾天満宮の鳥居の奥は、人姿もなくひっそりしていた。

 「しかし見送りだの、別れの挨拶だのが、いかに日常生活の中でフィクティヴな習慣だとしても、そういう虚構のなかでしか見られない真実があることもたしかではないか。私たちは外国を旅行して何かその国のことがわかったりはしない。ただ、その国の人との別れ際に起す感情の重い手ごたえ、それも国と国とが隔てられていればいるだけ重くなって感じられるその手ごたえ、これは外国を廻ってわれわれが得られる見聞のなかで唯一の確かなものではないだろうか。」(「ソビエト感情旅行」安岡章太郎安岡章太郎全集Ⅶ』講談社1971年)

 「夜の森に力強い舞い…笑顔『満開』 富岡で桜まつり、町民ら再会」(平成30年4月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生。桜の花開くこの時期に、この句のような光景はそこここで見ることが出来るであろうが、このように見たとしても、誰でもがこのように言葉に出来るわけではない。見たままを詠めとする写生俳句は、詠む者を試すように、穴の開くほど見よとして、その真意は明かさず、自(おの)ずと見えて来るものが真意の答えであると、気の長い構えこそを佳しとし、知識を仕入れていち早く真意を見極めようとする者を軽蔑する。が、俳句に対してこのように身構えることを嫌う者は、例えば次のような句を作る。枝垂桜わたくしの居る方が正面 池田澄子。この句には、恐らく複数の者らで行ったであろう花見の場面が閉じ込められている。およそどうでもいい桜の正面というものを、このように詠む疎(おろそ)かに出来ぬユーモアは、偏(ひとえ)に作者の直観から生まれたものである。風生の俳句には、このようなユーモアははじめからない。青空から直(じか)に足元の地面に垂れ下がる枝垂桜は、その大きさで風生を圧倒し、この「空より」という云いは、世に住む限り逃れることの出来ない天上から下り来るものとして、見る者に畏れと歓喜を抱かせているのである。今出川通寺町通は、御所の北東で交わるのであるが、その交叉した寺町通を上った所に、広布山本満寺があり、その境内にある一本の大きな枝垂桜の散り初めの姿を、入れ替わり立ち代わり人が囲んでは、その枝ぶりを見上げていた。樹齢九十年というその桜は、狭い庭を覆うように容(かたち)佳く枝を八方に垂らし、風が来ると、遅れて揺れる枝が庭一面に花片(はなびら)を撒(ま)き散らし、小さい子どもが握って取った花片を若い母親に示して見せる。本満寺の境内の半分は墓地で、残りの二割は貸し駐車場になっている。墓地の入り口の子院一条院の門の横と、L字の駐車場にもソメイヨシノが一本ずつ、満開の白い花をつけているが、寄って見る者の姿はない。境内の隅の鐘楼の縁に座ると、その両方が見え、背を向けた方にある枝垂桜の賑やかさから遠く隔たった場所のように日が当たっていて、そのがらんとした平凡な景色は、どこかで見たことのある景色を呼び起こし、この景色がそのいくつかのかつて見た景色の組み合わせのようであるならば、それは夢の中で見る景色と同じであり、柔らかな風が吹いて来ると、ますますそのようにも見えて来るのである。平凡な場所に咲く桜ほど、人に胸を衝く思いをさせるものはない。寺町通に、古い木造の屋敷が売りに出ていた。その木戸の隙から若い桜の木が見えた。これも胸を衝かれる光景である。

 「タブーによって神聖化された慣習的行動様式が破壊される度合いに応じて、人々はどこからどこへ世の中が流れるのかを自分で見きわめ、多様な進路の前に自主的な選択を下さざるを得なくなる。外的権威にかわって、今や内的な理性が判断と選択のよるべき基準となる───というより特定の状況に絡めとられていた「道理」が閉じた社会体制から剥離されて、一般的抽象的理性に昇華する。」(丸山眞男『忠誠と反逆』筑摩書房1992年)

 「楢葉仮設住宅「無償提供」終了 全域避難7町村初、生活再建へ」(平成30年4月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 謡曲「東北」は、とうぼくと読む。世阿弥元清の作である。京に上った東国出の三人の僧が、京の鬼門に当たる北東の地に建つ寺、東北院(とうぼくいん)に咲く梅の香に誘われやって来る。東北院は、三人の娘を次々に天皇に嫁がせて世の頂点を極め、死後浄土に取り憑かれた藤原道長建立の法成寺の、その長女彰子発願の法華三昧堂の名であり、その位置もまた境内の艮(うしとら、北東)に当たっていた。彰子は一条天皇中宮であり、子は後一条、後朱雀天皇となり、紫式部和泉式部(いづみしきぶ)らが仕え、一条天皇の死後落飾し、上東門院(じょうとうもんいん)と名乗り、東北院を住まいとした。東国の旅僧三人が目にしている東北院は、道長の法成寺の伽藍がすべてこの世から消え失せた後にも残った寺である。旅僧が、寺の門前の者に問う。「このあたりの人のわたり候か。」「このあたりの者とお尋ねは、いかやうなる御用にて候ぞ。」「これは都初めて一見のことにて候。これなる庭に色美しき梅花の候。名の候か教へて給はり候へ。」「さん候。あれは古(いにしへ)和泉式部の植ゑ給ひしにより即ち梅の名も和泉式部と申し候。心静かに御一見候へ。」梅の木の名を和泉式部であると教えた門前の者が去ると、僧らの前に今度は里の女が現れ、その名は和泉式部ではないと云う。「先づこの寺に上東門院の住ませ給ひし時、和泉式部はあの方丈の西の端を休み所と定め、この梅を植ゑ置き軒端の梅と名づけ、目がれせず眺め給ひけるとなり。」名は違っても、梅の木は和泉式部が植えたものに間違いない。「げにげに聞けば古(いにしへ)の、名を残し置く形見とて、」「花も主(あるじ)を慕ふかと、」「年年(としどし)色香もいや増しに、」「さもみやびたるその気色、」「今も昔を、」「残すかと、」言葉を掛け合わすうちに、旅僧は、里の女に思いを寄せてゆく。里の女が云う。「露の世になけれども、この花に住むものを。」私はすでにこの世にはなく、霊として梅の花に住んでいる。そして「われこそ梅の主(あるじ)」と云うと、夕暮れに染まった梅の花の陰に隠れるようにその姿が見えなくなる。旅僧らは、里の女こそは和泉式部の霊であると確信し、夜梅の木の傍らで、その霊に捧げる法華経を読誦していると、里の女から姿を変えた和泉式部が現れる。「あらありがたの御経やな。唯今(ただいま)読誦し給ふは譬喩品(ひゆほん)よのう。思ひ出でたりこの寺に、上東門院の住ませ給ひし時、御堂関白(藤原道長)この門前を通り給ひしに、御車の内にて法華経の譬喩品を高らかに読誦し給ひしを、折節式部この御経の声を聞いて、門(かど)の外(ほか)、法(のり)の車の、音聞けば、われも火宅(かたく)を出でにけるかなと、かやうに申したりしこと、今の折から、思ひ出でられてさむらうぞや。」『妙法蓮華経』譬喩品(ひゆほん)第三に、「国・邑(むら)・聚落に大長者有るが若(ごと)し。その年は衰え邁(お)い、財富は無量にして、田・宅及び諸(もろもろ)の僮僕(どうぼく)を多く有せり。その家は広大なるに、唯一つの門のみ有り。」とはじまるたとえ話がある。その軒の傾いた古い家に突然火が起こり、長者の大勢の幼い子どもだけが中に取り残されて仕舞う。が、子どもらは、長者の叫ぶ声も火事の状況も何も分からず、楽しそうに遊び、走り回っている。長者は案じ、門の外に子どもらが欲しがっている羊車や鹿車や牛車があるから、早く出て来るように中に声を掛ける。と忽(たちま)ち子どもらは燃える家、火宅から競って飛び出して来た。長者は、約束した通り、どの子どもにも風のように走る宝の車を与えた。「諸(もろもろ)の菩薩及び声聞衆とこの宝乗に乗じて、直ちに道理(さとりの壇)に至らしむ。この因縁をもって、十方に諦(あきら)かに求むるに更に余乗無し。仏の方便をば除く。」和泉式部は、冷泉天皇中宮だった太皇太后昌子内親王の役人、大江雅致とその女房だった母の間に生まれ、大江雅致と関係のあった和泉守橘道貞と結婚し、娘小式部をもうけたが、陸奥守となった道貞は、和泉式部を捨てる。理由は、冷泉天皇の第三皇子弾正尹為尊親王(だんじょうのいんためたかしんのう)との恋愛関係にあるとされ、二十六歳で為尊皇子が死亡すると、その弟である第四皇子太宰帥敦道親王(だざいのそちあつみちしんのう)と関係が出来、召人として宅に入り一子をもうけるが、敦道親王も二十七歳で死亡し、その宅を出た和泉式部は上東門院彰子に仕え、後に藤原道長の家司、藤原保昌と再婚する。君恋ふる心は千々にくだくれどひとつも失せぬものにぞありける。物おもへば沢の螢も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる。暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月。これらの和歌は、和泉式部が秘かに書き残したものではなく、読み手があるものとして詠んだものであり、その読み手は、目の前の読み手だけを思い描いていない。平安時代に生きた和泉式部の和歌は、室町時代世阿弥の心にも届き、世阿弥和泉式部の霊の口から、「門(かど)の外(ほか)法(のり)の車の音聞けばわれも火宅を出でにけるかな」と歌わせたのである。和泉式部の霊の云いを聞いて、旅僧は云う。「げにげにこの歌は、和泉式部の詠歌ぞと、田舎までも聞き及びしなり。さては詠歌の心の如く、火宅をば早や出で給へりや。」「なかなかの事火宅は出でぬ、さりながら、植ゑ置く花の台(うてな)として、詠み置く歌舞の菩薩となって、」「なほこの寺にすむ月の、」「出づるは火宅、」「今ぞ、」「すでに、」そのすべてに仏性が宿るとする自然を詠む和歌というものは、「法身説法の妙文」であり、その和歌を極め、色恋に迷う者を癒し救う功徳によって和泉式部は火宅、煩悩苦痛の三界を出て「今ぞ、」「すでに、」菩薩となった。世阿弥和泉式部にそう語らせる。が、和泉式部は云う。「げにや色に染み、香に愛でし昔を、よしやな今更に、思ひ出づれば我ながら懐かしく、恋しき涙を遠近人(おちこちびと)に、洩(も)らさんも恥ずかし。」旅僧らの前で舞いを舞う、和泉式部の心の様(さま)は、梅の匂いに思わずも火宅の内にあった頃を思い懐かしみ、和泉式部はその菩薩となった目から涙を零(こぼ)したのである。「これまでなりや花は根に、鳥は古巣に帰るとて、方丈の燈火(ともしび)を、火宅とやなほ人は見ん。こここそ花の台(うてな)に、和泉式部がふしどよとて、方丈の室に入(い)ると見えし。」舞い終えた和泉式部が、夜の明かりが点る方丈に入ってゆく。この世を火宅と思い住み暮らしたその方丈へ、菩薩となった和泉式部が戻ってゆくとは、どういうことか。涙を零した菩薩が、人に戻るということではない。人に戻ることが出来ないことで、和泉式部という菩薩は涙を零したのであるから。東北院はたびたび被災し、いまは吉田神社のある神楽岡の東に、小寺として残っている。境内に白梅の古木があり、謡曲「東北」に因(ちな)んで元禄に植えたものであるという。謡曲「東北」は、この白梅に宿ることはないが、物語りは語られるために、この白梅を必要とするのである。庭の荒れた東北院は、人の入山を許さず、白梅は花をつけていたが、かいだのは、崩れかけの山門からはみ出た沈丁花の匂いだった。

 「娘は鉄柵にしがみついて、テレビから眼を離そうとしない。私は背中の赤ん坊の重さにその場に腰かけてしまい、路地とガラス窓とに隔てられたテレビの画面に見入った。賑やかな番組だった。見ているうちに、出演者の一人が妙な具合に体をくねらせだした。テレビの前に坐っている家族の笑いだすのが見えた。私も、なんとなくおかしくなり、笑った。」(「幻」津島佑子『黙市』新潮社1984年)

 「「古里壊滅…変わらない」 いわき原発訴訟、原告は救済不十分」(平成30年3月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 その日の日の出過ぎに雨があり、天気予報は終日の曇りで頭上には青空があり、これから向かう西風を吹き下ろして来る嵐山の上空は、灰色い雲に覆われていたのであるが、丸太町通が西に尽き、南へ下れば渡月橋に至る長辻通で雪が舞い出し、向こうに常寂光寺(じょうじゃっこうじ)の山門が控える道まで来て、雪と風の俄(にわ)かの勢いに、道端の茶店の玄関に逃げ込み、雪を払い、軒先から町中(まちなか)の東の空を見れば、まだらに青い色が浮かんでいる。ガラス戸の京名物鰊(にしん)そばがぱたぱた鳴る軒を借りた茶店は、十二月下旬から三月下旬まで休業の紙が貼ってある。道を挟んでいまは何も植わっていない畑の向こうに、芭蕉の弟子、向井去来の草庵を再建した落柿舎が見えるが、出入る人の姿はない。常寂光寺の山門を出て来た母娘のような二人連れが、雪の中を傘もなく歩いて過ぎる。その二人とすれ違うようにやって来た中国人らしい男女三人の若者が、降る雪と常寂光寺の背後の小倉山にカメラを向ける。頭を上衣のフードで覆った老夫婦が通り過ぎ、若い女が一人、若い男が一人着るものを濡らして茶店の前を通り過ぎて行く。来る途中の嵯峨公園のブランコで子どもを遊ばせていた若い中国人の夫婦がやって来て、前を走る子どもを振り向かせ、ビデオカメラを向ける。と、風が止み、雪が止み、中国人の子どもが空を見上げる。雲が瞬く間に消え失せ、前の畑に日が射して来る。天正十三年(1586)十一月に起きた大地震の被害犠牲の鎮魂のため、豊臣秀吉が京都東山に奈良東大寺の大仏を凌ぐ大仏建造を発願し、文禄四年(1595)その大仏殿の落成供養を千僧供養と称し、仏教界すべての宗派の僧を一同に集めた際、日蓮宗が二分する。千僧供養に出仕すれば、「法華経」を信じない者への不受不施、布施を受けても布施を行ってもならないとする戒律を破ることとなり、不受不施を通した日奥は妙覚寺を去り、受不施派との宗論の果てに徳川家康によって対馬に流され、その後不受不施派は幕府から邪教として禁じられ、明治に至るまで地下信仰となる。その日奥に同調し、本圀寺を去った三十五歳の日禛(にっしん)が隠居所としたのが、小倉山の常寂光寺である。その文禄五年(1596)の正月、日禛は、秀吉の実姉智(とも)の出家の戒師となっている。文禄四年(1595)、智の長男であり、秀吉の養子となって関白を継いだ秀次が、突如謀反の疑いを掛けられ、高野山切腹させられる。秀吉と淀の間に世継ぎの秀頼が生まれたためである。秀次の首は鴨川三条の河原に晒され、秀吉の命で、その傍らで秀次の妻子、側室ら三十九人が斬首される。秀次の母智は、わが子らの弔いのため剃髪し、瑞龍院日秀となったのである。その日秀が開いた瑞龍院は、嵯峨の村雲にあった。日禛の常寂光寺から僅かの距離のところである。日禛が常寂光寺を開いたのも同じ文禄五年(1596)である。日禛はその年の四月、本圀寺を去り、日蓮が流罪となった佐渡に渡り、三百年前の日蓮の足跡を辿った後、京に戻り、和歌の素養を持って藤原定家百人一首を編んだ小倉山に小寺を構えた。日蓮宗の聖地から和歌詠みの聖地へ、言わば憧(あこが)れの地からまた憧れの地へ、教えに殉じて先の人生を折ったこの男の身の処し方、心の様(さま)は、透けて見えるようにいかにも分かり易(やす)い。恐らくは日禛の口から発した言葉も分かり易く、分かり易さは言葉の力となり、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)を支援に持ち、小倉山の地の寄進を受けたに違いない。「常寂光土」は、永遠絶対の浄土を意味し、死後ではなく、境地としていまあるこここそが浄土であるとするものであるが、日禛は小倉山のその場所を、目に見えて分かる「常寂光土」であるとし、己(おの)れの寺を「常寂寺」と名乗った。山門を入れば、斜面に石段があり、その前に茅葺の仁王門があり、斜面に生えた幾本もの楓やモミジの枝に一枚の葉もなく、紅葉の色にいまは目を眩(くら)まされることもなく、地面は苔に覆われ、石段を上がれば本堂で、その石段の途中で、潰(つぶ)れた鈴のような音が、その方向を眩ますように鳴るのが耳に残り、本堂まで上がれば、嵯峨野を見渡すことが出来る山の高さまで来ている。「動いている間は、浄土は見えない。」また鈴の動く音がすると、俄(にわ)かに裏の竹林が風に騒ぎ、空が翳(かげ)り、雪が降り出して来る。葉の茂る樹の下で宿っていると、髪をべとつかせた肥った若い白人の女が、上にある展望台へ行く小道を上って行く。その後を追うように、今度は黒いトレンチコートに黒い革鞄を手に提げた中年の男が、舞う雪の中を上がって行く。天気の急変した境内から人影が途絶える。「浄土を思う者がいなければ、多分浄土というものは存在しない。」まだ横殴りの雪の中を、白人の女が下りて来て、黒いコートの男が下って来る。順序は狂っていない。が、その仕事の途中のような様子の男が目に残る。晴れ間の戻った展望台から、京都タワーの姿がはっきり見ることが出来る。が、今日の晴れ間はいつまで続くか分からない。小道を下りながら、雪で髪を濡らした肥った白人の女のことを考える。女が旅行者であれば、自国へ帰り、訊かれて旅の話をするかもしれない。「ジョウドには雪が降っていた。」潰れた鈴の音のその鈴は、黒い猫が首に付けていた。日禛は五十七歳で没した。日禛が死ぬまで日蓮宗不受不施派を通したのであれば、たとえば「法華宗」を理解しない飼い猫の死にはどう向き合うのか。いま黒い猫は、日向で寝そべり参拝者に頭を撫でられているが。

 「私の好きなギボシは、七月のうちに花も終つてゐたが、素枯れかかつた花の茎が倒れかかり、菊芋と教へられた黄色い花は、次ぎ次ぎに咲き盛つては黒く腐つてゐたが、丈高い茎は、頭が重く、倒れかかつて来ると、狭い庭を塞いで縁側に届く始末なので、倒れないやうに、紐で結はへておかねばならなかつた。それと並んで、何という花なのか知らないが、子供が道の端から引いて来た、向日葵に似た茎をもつた野生植物が、傍若無人に伸び、且(か)つ茎を肥らし、ために他の植物は痩せるほどであつたが、それが漸(ようや)く黄色い総(ふさ)のやうな花を附けはじめてゐた。」(上林曉「夏暦」『現代日本文學体系65井伏鱒二・上林曉集』筑摩書房1970年)

 「放射線教育「難しい」6割超 福島県内の学校アンケート」(平成30年3月4日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北野天満宮の絵馬堂に、天満書が展示してあった。学問の神となった菅原道真を前にして、正月二日に書いた書初である。迷路のように立てたベニヤ板に、一千を超える書初が隙なく貼られ、初日の出や飛翔や富嶽といった言葉が、僅(わず)かずつ姿を違えた文字となって並んでいる。白い紙の上の黒い墨の文字の巧拙は、直(じか)に書いた者の生々しさを保っていて、子ども時代の教室に貼り出され、晒(さら)された級友のそれぞれの筆遣いを思い起こさせる。冬休の課題に書初があった。休みに入って間もなく、石油ストーブを焚いた畳の上で、課題の言葉を書いたのであるが、幾度も書き損じ、どうにも筆を握る手に身が入らない。子どもの考えは、早く習字の課題を終えて仕舞うことであり、書初という言葉は、課題という言葉に載った言葉の飾りに過ぎないと思ったのであるが、筆を進めながら妙な後ろめたさのようなものを感じたのである。もういくつ寝れば正月はおのずとやって来て、だからといって世界が一変してしまうわけではなく、新年も年改まるも言葉の上のことである。そうであると思っていたのであるが、後ろめたさを感じるのである。その年の瀬に、ストーブの火の燃える音に耳を澄ませながら、書初の、その意味に従わないことの後ろめたさを、何者かへの畏(おそ)れのようなものとして思ったのである。子どもの直観としてこの畏れは、己(おの)れがこの世にこのように留まっているための、遠くからやって来る畏れではないかと思ったのである。筆始の天満書は一般、高校、中学と並べられ、二歳、一歳、零歳の字も貼ってあった。その者らが親に腕を支えられて書いた字は、一や〇である。零と壱のなり麗(うるは)しき真葛原 久乃代糸。

 「心地よい夕べだ。全身がひとつの感覚器官となり、すべての毛穴から歓びを吸いこんでいる。私は「自然」の一部となって、不思議な自在さでそのなかを行きつ戻りつする。曇天で風が強く、肌寒いほどだし、とくに心をひかれるものがあるわけでないが、シャツ一枚になって石ころだらけの湖のほとりを歩いていると、「自然」を構成するすべての元素がいつになく親しみ深く思われてくる。」(H.D.ソロー 飯田実訳『森の生活』岩波文庫1995年)

 「正しく伝える『最新の福島』 パネル討論、教訓を社会で共有へ」(平成30年2月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都に生まれ住む者は、京都御苑を「キョウトギョエン」ではなく、ただ「ゴショ」と云う。それはかつての天皇の住まいであった御所がここにあるためであるが、明治天皇が東京へ去り、回りを取り巻くように建っていた公家の空き家が壊され、木が植えられて公園になっても、それは御所の範囲が広がったようなものであり、わざわざ御苑と呼ぶ必要はないということなのである。それを役所がつけた御苑と呼ぶことは、御所に対する何らかの敬意、あるいは親しみを削がれる思いが、恐らく彼らにはあるのである。その御所の東南に富小路公園(とみのこうじこうえん)があり、グラウンドでは野球をしていたのであるが、正午になると、赤いアンダーシャツの者らは道具を片付け、自転車であるいは歩いて出て行き、入れ替わるように今度は、ジーパンやらセーター姿の者らが散らばってキャッチボールを始める。誰もいないその隣りのグラウンドでは、レフトの奥の生垣の間から、母親に促された幼い姉弟が、凧糸(たこいと)を握ってグラウンドを駆け出し、走りながら糸の先の凧を振り返る。凧は十字の骨にビニールの切れ端を張ったような手作りで、それでも走れば、風を生んで揚がるのであるが、足を止めればたちまちビニールの足をひらひらさせて地に落ちる。母親が、風に向けて揚げるように二人に云う。五歳ぐらいのおかっぱ頭の姉が、母親の手の動作を見ながら、西に向かって駆けると、凧は伸びた糸を張って揚がっていく。が、ひ弱な風とビニールの切れ端では長く宙には留まらない。糸を握ってジグザグに走り回る弟は、風の向きを理解することはまだ出来ない。凧(いかのぼり)きのふの空の有り所 蕪村。昨日浮かんでいた空に、いま凧は揚がっていない。あるいは、昨日と同じところに、今日も凧が浮かんでいる。あるいは、もうひとつ別の想像は、目の前に、昨日もいまも凧の揚がっていない空がある。例えば、凧は、平らな水面に投げ入れた小石である。投げ入れたのは蕪村自らである。空に揚げた凧は、それ以前の空を過去のものとしてしまう。過去は一秒前であり、昨日である。風が已(や)めば、揚がっていた凧は空から消え失せ、凧の浮かんでいた空は、過去となり、また昨日となる。その昨日の空の、存在する所はどこか。それは凧の揚がる前であり、凧の浮かぶ空であり、それが消え失せた空である。蕪村は、投げ入れた凧によって、昨日というものを新たに見出しているのである。生まれ育った福島の田圃でも、冬の風は西から吹いていた。テンバダと呼んで揚げた凧は、近所に住む、その年の年男となった者が配ったものである。年男となった者は、前の年の詰まった頃に、男児にテンバダ、女児に紙風船を配って挨拶に回ったのである。田圃には、カスミ網が張ってあった。カスミ網には、逆さまに羽を垂らした鶫(つぐみ)や雀が掛かっていた。テンバダは、そのカスミ網に掛からないように、鳥が嘴から血を流してぶら下がる網を背に、東の空に揚げたのである。富小路公園の凧揚げは、姉の凧が昨日の雨の水の溜りに落下し、後ろ向きで走って来た弟がそれを足で踏んで壊して仕舞いとなった。富小路公園の名は、御所の南の丸太町通と上数珠屋町通の間を南北に走る富小路通から来ている。富小路通は、豊臣秀吉天正の地割により、平安京に引かれていた富小路万里小路(までのこうじ)の間に通された道であり、その東となった富小路麩屋町通(ふやちょうどおり)に、万里小路柳馬場通(やなぎのばんばどおり)と名を変えている。富小路通仏光寺通まで下がり、西へ烏丸通を越してすぐの釘隠町が、蕪村の終焉の場所である。蕪村から見れば、富小路公園で姉弟が凧を揚げていた空は、遥か大未来の空であるが。

 「経験をかさねていかなければ生きられないが、経験がすべてだろうか。たとえば戦争体験みたいなもの、ぼくはインチキくさいとおもう。なんだか固定されているみたいだからだ。体験や経験は、体験をもち、経験をもつ。ところが、<もつ>というのを、ぼくは信用しない。もっていられるものもウソっぽい。ブーバーが言う<内容>みたいなものだろうか。この手でしっかりもっているものしか信用できない、と言う人はおおいだろう。しかし、くりかえすけど、そういう<もの>がなくては生きられないかもしれないが、<もの>ではウソになることもあるのではないか。」(「I・Dカード」田中小実昌『カント節』福武書店1985年)

 「福島第1原発・2号機に「溶融燃料」 格納容器の底部で初確認」(平成30年1月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)