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 1962年刊の林屋辰三郎の岩波新書『京都』に、太秦(うずまさ)にある蛇塚の口絵写真が載っている。手前に広がる茶畑の茶の木の丈と比べれば、写真でも無造作に大石を積み上げたような蛇塚のその大きさが分かる。蛇塚は土が失せて露出した、六世紀末から七世紀に築かれた全長七十五メートルに及ぶという古墳の石室で、墳墓の主は当時一帯を勢力下においた「帰化秦氏をおいてほかに考えることはできない」と林屋辰三郎は云い、「太秦を訪れ、蛇塚の上に立つとき、わたくしは京都の誕生以前がしのばれて歴史の胎動をひしひしと感じる。」と述懐している。蛇塚は、いまは回りにフェンスが立ち、石室の入り口は鉄の柱で支えられ、人がその上に立つことは出来ない。写真にあった茶畑は、隙間もなく住宅で埋まり、人の背丈を越える石で出来たその建造物は、ぐるりを囲んだ二階建の家屋から見下ろされている。目の前にあるのは、地面の上の歴史が追い詰められた果ての姿だった。これは、歴史に対する人の、容赦のない態度である。たとえ息苦しくても、歴史はその場所から出て行くことは出来ない。四十過ぎの男がやって来て、蛇塚の前で足を止め、解説札を読み始めると、女の住人が二階のベランダに干してあった布団を叩いて、中に取り込んだ。男は塚を一周して、来た道を戻って行った。男が戻って行った先には、松竹の撮影所があった。撮影所は古びたブロック塀で囲まれ、沿って歩くと、中で金槌で物を叩く音がしていた。広隆寺の境内の石碑に、「廣隆寺は、推古天皇十一年(六〇三)聖徳太子が▢▢▢▢▢▢▢秦河勝に尊像を授けて創建せられた山城国最古の寺で太子建立日本七太寺の一つである。云々」と縁起が刻まれていて、聖徳太子が、と秦河勝の間の七文字分が切り取られ、さらの御影石の片が嵌め込まれていた。秦河勝(はたのかわかつ)は秦一族の長であり、蛇塚古墳の埋葬者かもしれないとされる人物である。『都名所図会』(安永九年(1780)刊)は、「太秦広隆寺は洛陽二條通の西なり。太秦は里の名とす。むかし応神天皇の御宇、秦人日本に来り。蚕を養ひ機織を巧み、帛綿をつくりて、人々の膚をあたゝめ侍りぬ。故に膚を秦と訓じて氏を賜り、天皇ふかく賞したまひ、此地をくだし給ひぬ。秦氏則秦始皇の廟を建てけるより、太の字を加へて太秦と訓(よ)みけるなり。当寺のはじめは、推古天皇十二年八月に、大和国斑鳩宮にて、聖徳太子近臣秦河勝を召して宣(のたま)ふやうは、我昨夜夢見る。是より遥北の方に一村あり。楓林繁茂し、清香常薫じ、林中に大なる朽木あり。無量の賢聖諸経の要文を誦し、あるは天童妙花を供じ、又木より光を放ち微妙の声あって妙法を演(の)ぶる。今われ彼地に往かん。川勝は則(すなわち)駕をめぐらして前駆す。其日葛野の大堰に臨んでこれを見給ふに、夢の如し。楓林の中に大圍の桂樹あり。異香薫じ、其樹の空虚(うつぼ)に奇瑞の宝閣あり。光明赫々として蜂多集り、声を発す。随身これを払へども尽きず。凡人は蜂と見れども、太子は賢聖と見そなはし給ふ。則仮宮を蜂岡のもとに造りて、川勝に勅し、百済より奉る仏像を安置し、これを蜂岡寺といふ。後に広隆寺と改む。広隆は川勝の名なり。」と、聖徳太子秦河勝の奇譚のような縁起を記している。駐車場に乗りつけたバスから降り立った中年男女の一行が、縁起の碑の傍らを通って拝観受付所に向かい、そのうちの何人かは足を止めて縁起文を読んだ。世阿弥は『風姿花伝』で、秦河勝をこう書いた。「日本国においては、欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の河に洪水の折節、河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉の鳥居の辺にて、雲客、この壺を取る。中にみどり子あり。貌柔和にして、玉の如し。これ降人(ふりびと)なるが故に、内裏に奏聞す。その夜、帝の御夢に、みどり子の云はく、「我はこれ、大国秦始皇の再誕なり。日城に機縁ありて、今現在す」と云ふ。帝、奇特に思し召し、殿上に召さる。成人に従ひて、才智人に越え、年十五にて大臣の位に昇り、秦の姓を下さるる。「秦(しん)」と云ふ文字、「はだ」なるが故に、秦河勝これなり。上宮太子、天下少し障(さわり)ありし時、神代・仏在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを、かの河勝に仰せて、同じく六十六番の面を御作にて、即ち、河勝に与へ給ふ。橘の内裏、紫宸殿にて、これを勤す。天下治まり、国静なり。上宮太子、末代のため、神楽なりしを、「神」といふ文字の偏を除けて、旁(つくり)を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽(たのしみ)を申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉り、この芸をば子孫に伝へ、化人(けにん)跡を留めぬによりて、摂津国難波浦より、うつぼ舟に乗りて、風に任せて西海に出づ。云々」御影石に刻まれた秦河勝の名前の前の空白は無慙だった。ビルの通路で見かけても何も思うところがない黄色いモップも、参拝者が手を合わせている本堂太子殿の濡れ縁を拭けば、無慙な代物だった。秦河勝の秦一族は、平安の終わりとともに凋落する。林屋辰三郎は、全勢力財産を平安造都で使い果たしたせいである、とその理由を云う。魚でなければ、尾鰭は水に流される。名前の前を切り取られた秦河勝は、もはや歴史の上では何者でもないと読み取れなくもない。駐車場の端に止めた自転車に行き着くまで、後ろで団栗がぽろりぽろりと枝から落ちて音を立てた。団栗は風もないのに、降り始めの雨のように枝から落ち続けた。

 「われわれは上機嫌で墓地からもどってきました。ところが一週間もたたぬうちに、生活はもとどおりになってしまったのです。」(「箱にはいった男」アントン・バーヴロヴィッチ・チェーホフ 松下裕訳『チェーホフ全集8』ちくま文庫1993年)

 「大熊町が建設受け入れ 中間貯蔵、行政区長了承」(平成26年12月16日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)