一月十四日の雪は、渡月橋の欄干にも岸に寄る屋形船の屋根の上にも嵐山や小倉山の木々の枝にも降り積もり、その降りしきるさ中、景色は雪の思うままに従いみるみる姿を変えたのであるが、雲が南の方から割れ出すと降る雪の劣勢は太陽に晒され、やがて静かに已(や)み一面の雪景色はいよいよ光り輝いた。翌日には雪景色は醒めて元に戻ったが、嵯峨の黄色く葉の萎びた大根畑の畝の日陰に僅かばかりの雪が残っていた。日ごろ見慣れた者の目には何ほどの思いも起こさぬかもしれぬが、そうでない者にはこのような景色にも些(いささ)かの思いを起こさせる。流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子。「大根の葉が非常の早さで流れてゐる。之を見た瞬間に今までたまりにたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである。」(句集『虚子』序)と、虚子は書いている。覗き込んだ冬の小川の水の上をうねりながら大根の葉が流れて行った。寒さに縮こまる気持ちに一本筋が通ったような胸のすく思いがあるにはある。が、蕪村に、易水(えきすい)に葱(ねぶか)流るゝ寒哉(さむさかな)、という句がある。虚子の頭のどこかにこの句があったかもしれない。蕪村のこの句は、虚子の句のように見たままを詠んだのではなく頭でこしらえた作りものである。司馬遷の『史記』の「刺客列伝」に記されている荊軻(けいか)は、秦王の暗殺に失敗して殺される。「居ること之を頃(しばら)くして、会(たまたま)燕の太子丹秦に質たるも亡(に)げて燕に帰る。燕の太子丹は故(もと)嘗(かつ)て趙に質たり。而(しこう)して秦王政は趙に生まれ、其の少き時丹と驩(よろこ)ぶ。政立ちて秦王と為るに及びて、丹秦に質たり。秦王の燕の太子丹を遇すること善からず。故に丹怨みて亡(に)げ帰る。帰りて為に秦王に報(むく)ゆる者を求むるも、国小にして能はず。其の後、秦日兵を三東に出だし、以て斉・楚・三晋を伐ち、稍(ようや)く諸侯を蚕食し、且(まさ)に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐れる。是に於いて太子予(あらかじ)め天下の利なる匕首(ひしゅ)を求めて、趙人徐夫人の匕首を得て、之を百金に取る。工をして薬を以て之を焠(にら)かしめ、以て人に試みるに、血縷を濡らせば、人たちどころに死せざる者無し。乃(すなは)ち裝して為に荊卿を遣はさんとす。燕国に勇士秦舞陽なるもの有り。年十三にして人を殺し、人敢(あ)へて忤視(ごし)せず。乃ち秦舞陽をして副と為らしむ。荊軻待つ所有り、与(とも)に俱(とも)にせんと欲す。其の人遠きに居りて未だ来ず。而(しか)るに行を治むるを得ず。之を頃(しばら)くするも、未だ発せず。太子之を遅しとし、其の改悔(かいかい)せしを疑ふ。乃ち復(ま)た請(こ)ひて曰はく、「日已(すで)に尽く。荊卿豈(あ)に意有りや。丹請ふ、先づ秦舞陽を遣はすを得ん。」と、荊軻怒り、太子を叱して曰はく、「何ぞ太子の遣はすや、往きて返らざる者は、豎子(じゅし)なり。且(か)つ一匕首を提げて不測の強秦に入る。僕の留まる所以(ゆえん)の者は、吾が客を待ちて、与に倶にせんとすればなり。今太子之を遅しとす。請ふ、辞決せん。」と、遂に発す。太子及び賓客その事を知る者は、皆白装束冠を以て之を送る。易水の上(ほとり)に至り、既に祖して、道を取る。高漸離(こうぜんり)筑を撃ち、荊軻和して歌ひ、変徴(へんち)の聲を為す。士皆涙を垂れて涕泣(ていきゅう)す。又前(すす)みて歌を為(つく)りて曰はく、「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒く、壮士一たび去りて復た還らず。」と。復た羽聲(うせい)を為して慷慨(こうがい)す。士皆目を瞋(いか)らし、髪盡(ことごと)く上がりて冠を指す。是に於いて荊軻車に就きて去る。終(つい)に已(やむ)に顧(かえり)みず。」荊軻が燕に来てからしばらくして、秦で人質になっていた太子丹が燕に逃げ戻って来た。太子丹ははじめ趙の国に人質に取られていて、趙で生まれた政とは子ども時代に仲がよかったが、その父が死んで秦王となってからも丹は秦の人質にされ、その扱いに腹を立て、秦王を怨んで逃げ帰ったのである。そしてすぐに秦王に復讐を誓ったのであるが、弱小の己(おの)れの国の中にそれを叶えてくれる人材は見つからない。それからというもの秦は連日兵を山東に出撃させ、斉・楚・三晋に攻め込んで勝利し、いよいよ燕に攻め入ろうとしていた。燕の太子に仕える者らは皆戦々恐々とし、追い詰められた太子は最後の用意に世に二つとない匕首を探し、趙の徐夫人の手になる匕首を百金で手に入れ、職人に毒を塗って鍛え直させた。その匕首を試された者は皆血をひと雫垂らしただけで死んだ。それから太子は人を介して荊軻にその役目を託し、十三の時に人を殺して以来誰もその者の顔を見返すことが出来ない秦舞陽という猛者(もさ)を一人つけることにした。が、荊軻には別の考えがあった。荊軻は己(おの)れの友と事をなそうと思ったのである。が、その友は遠くにいて便りを送ってもまだやって来ない。そう決めた以上荊軻は待つほかなく、腰を上げることが出来ずにいると、太子は荊軻が心変りしたのではないかと疑い、改めて問い正した。「もう日は沈んでしまったぞ。荊軻殿、何か考えがあるのであれば、秦舞陽を先に遣ってはどうか。」これを聞いた荊軻は忽ち怒り、「こんな青二才を遣っても帰って来られないことぐらい太子はご存じなはずです。匕首一つで強国秦に入ることがどれだけ危険なことか。ある客人を待っているんです。その者と一緒にやるつもりでした。しかし太子がもう待てないとおっしゃるのであれば、分かりました。出発します。」太子とその取り巻き達は覚悟を秘め全員葬式で着る白装束姿で見送りに来、易水(中国河北省易県辺りに発する川)の畔に出て、道祖神荊軻の成就を祈った。高漸離が筑(楽器)をかき鳴らし、荊軻がそれに合わせて歌を歌うと、もの悲しい声の響きにその場にいた者は皆涙を流した。荊軻は改まって前へ進み出、即興の詩を詠んだ。「風がもの寂しく鳴って易水は寒々としている。ここからいまひとりの若者が去ろうとしている。恐らくこの若者は二度と還って来ない。」激しい調子で何度も繰り返す荊軻の心は昂り、それにつられた者らは目が吊り上がり、髪が逆立った。ついにその時が来た。荊軻は馬車に乗り込むと一度も後ろを振り返ることはなかった。蕪村は、荊軻が心を昂らせた易水の流れに葱を投げ込んでその寒さを詠んだ。蕪村が心の中で投げ入れたのは葱ではなく、荊軻匕首であったのかもしれぬが。虚子が川に流したのは大根の葉である。虚子は目の前を流れて行った大根の葉で救われるのである。鹿王院(ろくおういん)の裏の通りの、北向きに玄関のある何軒かの家の前に同じような融けた雪の塊があった。通り過ぎ暫くしてからそれが雪達磨の成れの果てであることに気づいた。恐らくはこの家々の子どもらが薄く積もった雪を搔き集めて作ったのである。それも前の日の、雪の日の出来事である。

 「荊軻がはじめて秦王の顔をまともに見すえたのは、王の地図を開き終ったその時である。あたりに声一つない。ふいに、床へ落ちる小さな金属音が沈黙を砕いた。地図に巻き込まれてあった匕首である。と同時に、荊軻のまるくなって走る躰と秦王とが交錯した。」(「犯行」高橋隆(「私の文章修行」(車谷長吉『錢金について』朝日新聞社2002年)収録))

 「都民1000人風評調査、放射線誤解浮彫り 「健康に影響」4割」(令和4年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)