松平容保京都守護職就任で、従い上洛した会津藩家臣藩兵が寝起きした場所が、黒谷金戒光明寺である。藩兵の任務は、右も左も分からぬ京都の警護と尊攘派との戦闘だった。五年余の警護、禁門の変、鳥羽伏見の戦いで死んだ三百を超える者の墓が、境内墓域の外れにあった。緩い傾斜の参道を上って来た初老の男が、墓地の入り口で手桶の用意をし、連れの女を置いて石段を登って行った。女は羽織ったコートの上からでも分かる身重だった。その男が勧めた傍らのベンチに、その女は腰を下ろさなかった。ベンチの上の空を、雲が覆っていた。塔頭栄摂院と龍光院の間(あいだ)道で、カレーの匂いが漂っていた。長安院の朱色の門の前(おもて)に、明治乳業の青と白の牛乳受けが置いてあった。会津藩墓地には、前日の雨の水溜りが出来ていた。その水溜りを避けた幾つかの靴跡が赤土の地面にあった。会津、長谷川留次郎墓、文久三癸亥年九月五日。会津、長谷川常之助墓。守彦神霊、中島晴時墓、文久三癸亥年五月二十三日。和田軍兵衛墓、慶應元年五月十六日。会津、鹽田行義之墓。会津猪苗代、見称十郎左衛門、元治元甲子年三月。会津木村勝四郎墓、慶應二丙寅年九月十二日。武光神霊、菊地荘助墓、慶應二丙寅年十二月。これら没した者らは、カレーも牛乳も口にしたことのない者らである。墓地口の、葉の回りを枯らした隈笹が、風にざわついていた。風が吹き来る径を辿ると、真正極楽寺真如堂に行き着いた。馬酔木が咲き始めました、という立札が立っていた。

 「道元禅師の言う「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり。空闊(ひろ)くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」(「座禅箴」)の世界。鳥が鳥である、のではなくて、鳥のごとし、という。しかもその「鳥のごとし」が無限に遠く空を飛ぶ。鳥としての「本質」が措定されていないからである。この鳥は鳥という「本質」に縛られていない。だが、「本質」がないのに、この鳥は鳥として分節されている。禅の存在体験の機微に属するこの事態を、禅独特の無「本質」的な存在分節と私は呼びたい。」(井筒俊彦『意識と本質』岩波文庫1991年)

 「タンク堰から汚水漏れ 747トン、地中に染み込む」(平成27年3月11日 福島民友ニュース・minyuーnet掲載)