庇の下のベンチに腰を下ろしている小奇麗な身なりの老婦人に、顔の似た娘と思しき者が、「退屈してるの」と声を掛ける。堂を廻(めぐ)って祈る千度参りをさっきまでは二人でしていたのであるが、老婦人は途中で止め、庇の陰に入っていた。千度参りは、数え年の回数で堂を廻り、病の平癒や無病息災を願うのである。ここ家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざんこうみょうへんしょういんしゃくぞうじ)は、千本通上立売上ルにあり、釘抜地蔵尊と呼ばれている。苦を抜く、苦抜地蔵と呼ばれていた空海作と伝わる石地蔵が、「寺伝」に残る物語りでその名称が釘抜地蔵に変わったのである。「汝は前世に人を怨み、仮の人形をつくり、両手に八寸釘を打込んで呪いたることあり、その罪障によって苦しみを受く。われが救うてとらせよう。」両手を病んだ油小路上長者町の商人紀ノ国屋道林が、詣でた七日目の夜の夢に地蔵が現われ、こう告げると、目を覚ました道林の両手の痛みは已(や)み、翌朝その石地蔵は二本の釘を手に握っていたという。その老婦人の数え年が八十であれば、千度参りは八十回の堂廻りである。参る者は廻った回数を忘れぬよう、あらかじめ廻る回数分の竹棒を手に握り、一廻りで一本竹棒を元の場所に返していく。その老婦人は途中で止め、あるいは中断し、その娘と思しき者は千度参りを続けている。老婦人は、聞き取れない小さな声で何か応え、それから日向のどこかを見ている。紋黄蝶が一匹、日向を横切ってゆく。千度参りに二人三人が加わってゆく。老婦人が手提袋からペットボトルの茶を出して一口飲む。老婦人が娘と思しき者と一緒に始めた千度参りを途中で止めたことに、心が動かされる。そこには地蔵にはない、人の意思が存在している。

 「こうして、時間は大時計によってのみ測られるものではなくなった。もとよりこれはすべての都市で同一の時刻を告げていたわけではなかった。それまで商人はある町で自分の懐中時計を合わせたり、乗合馬車に備えつけの振り子時計で旅の所要時間を測ったりしていたが、彼らは次の宿駅でその所要時間を知ること、あるいは少なくとも町ごとに一貫した時間が施行されることを願っていた。」(ジャック・アタリ 蔵持不三也訳『時間の歴史』原書房1986年)

「楢葉・木戸川で「サケ漁」始まる 来春1000万匹放流へ採卵」(平成28年10月16日福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 例えば、地下鉄烏丸御池駅から京都駅までは六分であり、京都駅から宇治駅までは奈良線快速で十九分、普通で二十七分であり、この電車の所要時間が平安時代に貴族の別業〔別荘〕があった宇治までの現在の距離である。宇治川に架かる宇治橋は、宇治駅から三分ほど歩けば西詰で、川向うの京阪宇治線宇治駅の改札からは真ん前に見え、橋から眺める上流の山の重なる景色は、その距離を思えば何事かであり、市中から直接来なければその何事かは、恐らく実感しない。橋の東詰にある通圓(つうえん)茶屋の露台に座り、いずれも六十半ばの年恰好の四人の男が、抹茶ソフトクリームを舐めている。傍らの四台の自転車は、彼らのもののようである。通圓茶屋は、広辞苑に「茶人通円が宇治橋の東詰で茶を売っていたという店。」と載る茶店である。その通円の二項目に「狂言の一。通円という茶坊主の亡霊が現われて、旅僧に弔いを頼み、宇治橋供養で茶を点死(たてじに)にしたことを語り舞う。」とある。「通円」は、近衛天皇を悩ませた鵺を射落とし、高倉の宮以仁王を擁して平家討伐を企てて敗れた源頼政の最期を描く謡曲頼政」をもじった狂言である。「去程(さるほど)に源平の兵(つはもの)、宇治河の南北の岸にうち臨み、鬨(とき)の声叫びの音、波にたぐへて夥(おびただ)し、橋の行桁(ゆきげた)を隔て戦ふ、味方には筒井の浄妙、「一来法師(いちらいほっし)、敵味方の目を驚かす、角(かく)て平家の大勢、橋は引いたり水は高し、さすが難所の大なれば、「左右(さう)なふ渡すべき様(やう)もなかつし処に、田原の又太郎忠綱と名乗つて、「宇治河の先陣我なりと、名乗もあへず三百余騎。銜(くつばみ)を揃へ川水に、少もためらはず、群居るー群鳥の翅を並ぶる、羽音もかくやと白浪に、ざつざつと打入て浮ぬ沈みぬ渡しけり 忠綱ー兵を下知〔命令〕して曰(いは)く、水の逆巻く所をば、岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てて、強きに水を防がせよ、流(ながれ)む武者には弓(ゆ)筈(はず)を取らせ、互ひに力を合すべしと、唯一人の下知によつて、さばかりの大河なれども、一騎も流れずこなたの岸に、喚(おめ)いて上がれば味方の勢は、我ながら踏(ふみ)もためず、半町計(ばかり)覚えず退(しさ)つて、切先を揃へて爰(ここ)を最後と戦ふたり。さる程に入り乱れ、われもわれもと戦へば、頼政が頼みつる兄弟の者〔頼政の子・仲綱兼綱〕も討れければ、今は何をか期(ご)すべきと唯一筋に老武者の是(これ)までと思ひて、是までと思ひて 平等院の庭の面、これなる芝の上に、扇うち敷き、鎧脱ぎ捨て坐を組みて、刀を抜きながら、さすが名を得し其身とて。埋木(うもれぎ)の、花咲く事もなかりしに、身のなる果ては、哀(あはれ)なりけり。跡弔(と)ひ給へ御僧よ、かりそめながらこれとても、他生の種の縁に今、扇の芝の草の陰に、帰るとて失せにけり、立帰るとて失せにけり。」(「頼政新日本古典文学大系57『謡曲岩波書店1998年刊)「さても宇治橋の供養、今を半ばと見えしところに、都道者〔都の巡礼〕とおぼしくて、通円が茶を飲み尽さんと、名のりもあえず三百人、名のりもあえず三百人、口わき〔左右〕を拡げ、茶を飲まんと、群れ居る旅人に、大茶(おおじや)を点(た)てんと、茶杓(さしやく)をおっ取り簸屑(ひくず)ども〔茶を箕でふるって残った屑〕、チャッチャッと打入れて、浮きぬ沈みぬ点てかけたり。通円下部を下知していわく、水の逆巻く所をば、砂ありと知るべし。弱き者には柄杓を持たせ、強きに水を擔(にな)わせよ。流れん者には茶筌(ちゃせん)を持たせ、たがいに力を合わすべしと、ただ一人の下知によって、さばかりの大場なれども、一騎も残らず点てかけ、点てかけ、穂先を揃えて ここを最期と点てかけたり。さるほどに入れ乱れ、我も我もと飲むほどに、通円が茶飲みつる、茶碗・柄杓を打ち割れば、これまでと思いて、これまでと思いて、平等院の縁の下、これなる砂の上に、団扇(うちわ)をうち敷き、衣脱ぎ捨て座を組みて、茶筌を持ちながら、さすが名を得し通円が。埋(うづ)み火の、燃え立つことのなかりせば、湯の無き時は泡も点てられず。跡弔(と)い給え、御聖、かりそめながら、これとても、茶生(ちヤしヨう)の種の縁に今、団扇の砂の草かげに、茶(ちヤ)ち隠れ失せにけり、跡茶ち隠れ失せにけり。」(「通円」日本古典文学大系43『狂言・下』岩波書店1961年刊)頼政の自害の場所が、川を西に渡った平等院の東門を入った左手に、扇の芝と名づけ囲ってある。先ほど見かけた通圓茶屋の男四人が、門を潜り、扇の芝は素通りして、藤棚越しに見える鳳凰堂に歩いて行く。門から鳳凰堂までの距離は短い。平等院鳳凰堂は、西方極楽浄土の言葉をもって語られる。「道長から頼通のころにあっては、仏教思想に二つの特色がある。その一つは阿弥陀信仰であり、その二つは末法思想である。仏教信者が礼拝すべき仏菩薩の種類にも時代々々の流行がある。平安末期は西方極楽の主宰者たる阿弥陀如来を至心信拝し、死後は弥陀の西方極楽に往生せんことを希ったのであった。それ故に阿弥陀堂を建立することが、この時代の風流であった。もう一つは、釈迦入滅後二千年にして釈迦の法は消滅し、爾後五十六億七千万年にして出現する弥勒菩薩の時までは、往生者は救済される事がない、という思想である。後冷泉天皇の永承七年(1052)が正に入滅後二千年目になる。その年に鳳凰堂は建立されておる。それはその年までに造寺または造仏の功を積んだものだけは救済されるからである。……西方十万億土にあるべき阿弥陀如来の浄土は、かかるものであれかしと想う念慮から、努めて西方浄土の現出に心を配った。鳳凰堂はその随一である。」(「宇治の浄環」中村直勝『新・京の魅力』淡交社1963年刊)鳳凰堂の屋根は新しく葺き替えられ、柱の朱色も鮮やかであり、阿字池の水際も当時の如き形状であるという。堂内の阿弥陀如来も光背の精緻な透彫(すかしぼり)も天蓋も金色を十分に留めているが、三面の板扉の九品来迎図も丸柱も色を失い、江戸期に荒廃した頃の落書の跡が残っている。長押(なげし)の上の白壁の五十二体の雲中供養菩薩にも当時の色はまったくない。鳳凰堂の謂(い)われは、屋根の上のニ体の鳳凰によるのであるが、その伽藍に、翼を広げた鳥の姿を見てとったともいわれている。であれば、それは阿弥陀如来を内に乗せ、西方浄土から降り立ったか、あるいはこれから浄土に戻るための羽ばたきの一瞬である。しかし、贅(ぜい)の限り、美の限りを尽くした当時の姿を心に描いただけでは、末法思想による浄土往生は、甘いものを口に入れ甘いと感じるようには、理解はそこには近づかない。関白藤原頼通が、父道長から譲り受けた宇治の別業に極楽浄土を願う阿弥陀堂を造った。最も多くの財を手にした者が、使える限りの財を使って十万億土の彼方(かなた)から強引に、この世に極楽浄土を引き寄せたのである。浄土に行きたい一心で、あるいは浄土に行けない恐怖に打ち勝つために。極楽往生は願いではなく、死ぬことの恐れの裏返しである。チェルノブイリ原子力発電所の石棺は、死の恐怖に蓋をしたものである。東京電力福島第一原子力発電所の、止まらぬ蛇口を素手で押さえているような汚染水タンクと錯綜するパイプの現場は、死ぬ恐怖への必死の祈りである。平等院鳳凰堂の甘さは、爆発事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所の辛さと同じである。通圓茶屋の四人の男が、その男たちだけが阿字池を挟んでしゃがみ、ソフトクリームを舐めた口を閉じ、阿弥陀堂に向って手を合わせている。しゃがんだ高さが、格子戸に開いた丸窓の奥にある阿弥陀如来の目の高さなのである。

 「「沙漠」という言葉は我々がシナから得たものである。これに相応する日本語は存しない。「すなはら」は沙漠ではない。厳密な意味において日本人は沙漠を知らなかった。しからばシナ語としての「沙漠」は何を意味するのであろうか。」(和辻哲郎『風土』岩波書店1963年)

 「東日本大震災から「5年7カ月」 沿岸部で不明者手掛かり捜索」(平成28年10月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 カメラを首からぶら下げた男が、一枚のプレートを読んでいる。プレートは、京都四条病院の救急口の横にあり、病院の場所は、堀川四条の交差点のそばである。男は恐らく、遠くから来た者である。近くの者は、男のようにプレートの前で足を止めたりはしない。男は読んで、プレートの写真を撮る。後ろに下がりもう一枚病院を撮って、信号が変わった堀川通を西に渡って行く。男が読んだプレートにはこう書いてある。「SUS OBRAS HABLAN 二十六聖人発祥の地 ここから西百メートル妙滿寺町に一五九四年フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院学校スペイン使節館が建てられた 一五九七年二月五日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ五名のフランシスコ会士と三名の日本人イエズス会士および十七名の日本人信者で殆どここで活動した人であった ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行われたことを記念して銘板を掲げる 一九七九年駐スペイン大使館カトリック京都司教区」天正十八年(1590)伊達政宗を降伏させ天下統一をなした豊臣秀吉は、朝鮮に派兵した文禄元年(1592)、防備が手薄だったマニラのエスパニャ政庁に対して服属を迫り、使節として国書を携え来て自ら人質となったフランシスコ会宣教師ペトロ・バプティスタに知行、土地を与えた。天正十五年(1587)のバテレン追放令でポルトガルイエズス会は表立った布教を禁止されていたが、フランシスコ会はこれを承認と解し、大っぴらに布教活動を始めるのである。その七月に畿内京坂を大地震が襲った慶長元年(1596)の九月、土佐浦戸に台風で破損した商船サン・フェリペ号が漂着する。エスパニャの貿易商人といわれるアビラ・ヒロンは『日本王国記』に、「九十六年、日本王国ではただならぬことどもが起こる。日本最初の司教到着。ガレホン船サン・フェリーペ号土佐へ漂着」の題の章を設け、その詳細を書いている。「この王国の奉行らが、あの船で運んで来た巨額の財宝を見て、すぐにこれを奪って、自分たちと国王のものにしようと提案した。」「長曽我部(元親)、増田(長盛)、石田(三成)の三人は、彼〔秀吉〕に「それらの財産と生命は海で失われるはずのものであった。地震や朝鮮の役の損失を回復するために、天がそれを日本にもたらしたものである。海で失うべき生命を、我が国が救助したから、エスパニャに不条理をなすことにはならないし、生命を与えるという大きな恩恵を与えたのである」といった。」(アビラ・ヒロンと同時期に日本に滞在していたイエズス会宣教師パードレ・ペドロ・モレホンの原書注釈)「パードレ〔神父〕たちは使節という肩書をおびてルソンからやって来たのにも拘らず、国王〔秀吉〕によって明示されたあらゆる禁令に反して、しかもその王国内で、国王がさきに厳重に禁じた教えを説き、教えているのだとして、パードレらが日本の諸法令や、神と仏の教理の破壊者だとして、告発されるような方策を何とかしてとろうというのであった。それについで、彼らパードレは、わが王国の海岸にうちあげられ、わが役人たちによって保管されているあの財宝が、彼らの国王の臣下だと称しているエスパニャ人のもとに戻るようにと努めていると非難したのであった。太閤様は自国内に己が法令を破る不届者がいるということを聞き及んで大いに怒り、即刻、全パードレと、彼らをマニラから連れて来たという科(とが)で、太閤自ら彼らを預けた法眼殿〔長谷川宗仁〕も、彼らもろとも捕えて殺すように命じたのである。」宣教師モレホンは、「右衛門尉〔増田長盛〕は、船の財物を押さえたのち、航海図を取って航海士(ピロート)ランディーアムに、エスパニャはどういう方法で、フィリピナス〔フィリピン〕、モルーカス、ヌエバ・エスパニャ〔メキシコ〕、ペルーなどを奪ったのか、と訊ねた。航海士は彼に恐怖心を起こさせようと考えて、われわれは世界中と取引しようとしている。もしわれわれを好遇すれば味方となり、虐待すれば、領土を奪う、といった。右衛門尉は、これを聞いて喜んでいった。「そのためにまず修道士(フライレ)が来なければならないだろう」彼〔航海士〕がそうであると答えると、右衛門尉はこの言葉を大坂の太閤様に報告した。そして彼は財物を取上げるため、何か良い口実をひたすらさがし求めていたので、エスパニャ人修道士の大虐殺をおこなった。」と注釈している。(アビラ・ヒロン 佐久間正他訳『日本王国記』大航海時代叢書Ⅺ・岩波書店1979年刊)取り調べたキリシタン宗徒名簿には、三千を超える殉教を望む者の名が連なったという。その中から殉教者を選んだのは、京都奉行石田三成である。殉教者は一条戻橋西詰で耳たぶを削がれ、伏見まで車で引き廻される。その先頭の札にはこう書かれていた。「宣告 これらの使節の称号を帯びて、ルソンより我国へ渡事せし者どもは、余が去(い)んぬる年月すでに厳(おごそか)に禁令を下したるキリシタンの信仰を説き、これを講じて当地に留まりたる故をもちて、先に陳(の)ぶる科(とが)によりて長崎へ送られ、彼処において、改宗せる日本人らもろともに磔(はりつけ)の極刑に処するものなり。しかして総数二十四人の者どもは十字架にかけたるままにさし置くものなれど、他の者どもの見せしめにせんがためなるをもって、何人といえども、この者どもを十字架より降ろすことを許さず。しかして、ここに改めて、何人も今日より以後、敢(あえ)てこの信仰を説くことはもとより、共犯者たることも厳に余は禁ずるものなり、これを犯すにおいては、この法令を破る者ただ一人たりとも、血族一同とともに死罪に処すべきことくだんのごとし。」長崎までの道中、付き添いの信徒二名が殉教者の馬の列に加えられる。長崎西坂の丘での刑の執行は、慶長元年十二月十九日(西暦1597年2月5日)である。殉教者は、刑の執行者に両脇腹を槍で突き刺されたのである。二十六名の内、二十名が日本人である。その職業は、織職、菜種商、医師、僧侶、樋屋、弓矢師、刀研師、大工、左官手伝い、料理方、門番他である。十歳、あるいは十二歳の日本人の少年ルドビコは、丘に連れて来られた時、自分の十字架はどこにあるのかと尋ね、子どもの背丈のそれを見つけて走り寄った、とイエズス会ルイス・フロイスは『日本二十六聖人殉教記』に書いている。フロイスは、日本人イルマン・パウロ三木の十字架の上の説教を書き留める。「ここにおいでになるすべての人々は、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ私が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺(あざむ)こうとは思わないので、人間の救いのために、キリシタンの道以外に他はないと断言する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王〔秀吉〕とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」(ルイス・フロイス 結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社1997年刊)長崎西坂の丘に、日本二十六聖人記念館が建っている。その建物の前に、彫刻家舟越保武の二十六聖人の彫刻像がある。その最も小さい像がルドビコである。舟越保武は日本人殉教者フランシスコ・吉の像を作っている時、その顔に不義理のあった父親を見た、と随筆に書いている。その父親カトリック信者で、少年保武の手術で変形した脛の傷口に教会から貰ったという聖水を垂らしたのを見て怒鳴り拒否すると、父親は改めてクレゾールで傷口を消毒し、その聖水は保武の目の前で捨てたという。「フランシスコ・キチの顔をわたくしの父に似せて作ったのではない。そんなことは許されることではない。」(『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』求龍堂2012年刊)

 「ふたりをつなぐものは昔話しかない。お糸さんは娘と孫三人とで暮らしているから、喋ろうと思えば喋ることもあるが、菊蔵にはなんにもないのである。菊蔵には友達というものがない。幼い時の友だち、小学校の友だち、長じていっしょに遊びまわった友だちと、友だちにはその時その時でいろいろあったが、菊蔵はその時が終ると友だちと別れてきた。これはだれだって同じことだ。そして今、七十幾歳かになって、菊蔵はもう友だちが要らない。」(「立切れ」富岡多恵子『当世凡人伝』講談社1977年)

 「福島第1原発・20キロ圏内の海底がれき撤去着手 福島漁連」(平成28年9月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 芭蕉の『野ざらし紀行』に、梅林と題した「梅白しきのふや鶴を盗まれし」の句がある。童謡の一節と云われれば、口ずさむことに抵抗は起きないが、この句には「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」の前書がある。三井秋風(みついしゆうふう)は、豪商三井三郎左衛門の養子俊寅、六右衛門で、談林俳人であり、洛西御室の西、鳴滝に別荘花林園を持っていた。この句を解釈する者は、芭蕉が秋風を、梅を愛(め)で鶴を飼っていた中国宋の隠士林和靖(りんわせい)になぞらえ、白梅の花の盛りの花林園に鶴がいないのは盗まれたからですね、と軽口を云って挨拶の句としたとする。隠士林和靖の名は、実際に二人の遣り取りの中で出たのかもしれないが、金持ち道楽者の秋風を高名な隠士になぞらえ、大袈裟な詠み振りをしたとして、当時この句は批判されている。鳴滝は、御室川が北の山裾から流れ来る井出口川と交わり下るところにある。切り立った崖の段々を、なだらかに下るような小ぶりの滝水である。青モミジがしな垂れる滝の前後の、住宅を流れる川筋はいまはコンクリートや積み石で固められ、保存された様で景色に情緒はない。嵐電北野線鳴滝駅から御室川鳴滝辺りまでの、緩やかに上る住宅地一帯が「鳴滝」と呼ばれる地区である。昭和十年(1935)前後、山中貞雄ら若い脚本家がこの地に住み、鳴滝組と呼ばれる脚本家集団を作った。彼らが、時代劇のセリフを普通の話し言葉にしたのである。太秦の撮影所は、鳴滝駅から二つ目の帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から数分の場所にあった。眠狂四郎市川雷蔵は、三十八歳で亡くなる昭和四十四年(1969)まで鳴滝音戸山(おんどやま)に住んでいた。山中貞雄は、『人情紙風船』を撮った昭和十二年(1937)八月、前月にはじまった日中戦争に召集され、翌十三年(1938)、黄河の泥水で赤痢に罹り、河南省関封の野戦病院で二十八歳で亡くなる。「梅白しきのふや鶴を盗まれし」への批判に対して、去来は『去来抄』で、「此句、追従に似たりと也。これらは物のこゝろをわきまへざる評なり。」と反論するが、この句が挨拶の句であることは疑わず、「句体の物くるしきは、その比の風なり。」と鶴の比喩にいささか問題があると述べている。芭蕉は、秋風が鶴までは飼っていないのを、盗まれたんですか、とお道化てみせた。この句にあるのは、その時の二人の気分であることに間違いはない。が、俳句は創作物である。読む側はこの気分に留(とど)まる必要はない。果たして鶴は、誰に盗まれたのか。鶴は鶴に盗まれたのである。人間に飼われていた鶴は、空を飛んでやって来た鶴に誘われ、ついて飛んで行った。人間は梅の花の下で、鶴に盗まれた鶴のことを思うである。

 「このつる植物(ナツフジ)は普通、藪の中とか生垣とかに生えるが、庭で栽培されることもある。近くの低木や高木に巻きつき、分枝して密生した枝によって木々の一部を被ってしまう。7・8月の開花期には、木々の梢から垂れさがった総状花序は素晴らしい眺めであり、……日本ではこうした野趣豊かな美しさが珍重され、文化的な手が加えられていない自然の豊かさを、庭にそのまま移すことが好まれるのである。」(シーボルト 大場秀章監修・解説『日本植物誌』ちくま学芸文庫2007年)

 「「定期健診にもっと力を」 甲状腺がん子ども基金・シンポジウム」(平成28年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、四代目伊藤源左衛門が画師若冲となるのは、高倉錦小路の青物問屋枡屋の家督を弟に譲った宝暦五年(1755)、四十歳の時である。はじまりの遅い若冲は、その遅い分、その一筆から絵とは何かと問わざるを得なかった。明和二年(1765)相国寺に寄進した「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の「蓮池遊魚図」には、黄土色の地に蓮の葉と花、鮎と追河(オイカワ)が描かれている。蓮の花は六本で、その内の四本は花弁が開き、内一本は白色で、三本は紅色である。画面左端に沿って茎を伸ばす白色と、その下隅に咲く紅色の蓮は横から見た花の形であり、もう一本画面上部にある紅蓮は真上から花を覗いた様に描かれている。白蓮のすぐ下に茎を伸ばした紅蓮の蕾があり、画面右端の上部に、横から見た開く途中の紅蓮がある。蓮の葉は左の上隅と下隅、右端の半ばに描かれ、右端で一枚萎(しお)れている。葉にはどれも朽ちた斑(ふ)が入っている。画面下部に池の水が黄土色の濃淡の雲形の曲線で描かれ、その上に、枯れて縮(ちぢ)んだ蓮の葉が数枚浮き、流れの内から菖蒲のような尖った葉が何本も突き出ている。鮎は画面中央に九匹、どれも横から見た姿を左下に向けて尾を反らせ、オスの追河は一匹、鮎の群の下に、鮎と同じ姿で描かれている。蓮の花は水面から茎を伸ばし、葉はその水面に浮き、鮎と追河は水中に潜って真横から見なければ見えない姿で蓮の茎の間で泳いでいる、というのが「蓮池遊漁図」である。若冲の絵を時に、奇想といい、既成概念に囚われない自由があり、細密描写を称え、そこには一瞬の永遠があるという。「草木国土悉皆成仏」がその根本思想であるともいわれている。若冲の絵は、問いである。何を描いているか、どう描かれているかは、絵とは何かの後次である。若冲の絵は、絵とは何かと問う行為であり、問う過程そのものである。それは考える手段であり、奇想、自由はその印象に過ぎず、描かれたものの分析は、若冲の問いに対する理解を遠ざける。若冲の絵に自由があるのではなく、若冲は、描くことで絵が何であるかを問い続けたという理解であれば、見る側にこそ自由はあり、若冲の絵の前でどこへでも行くことが出来る。若冲の「動植綵絵」三十幅は、その複製を相国寺境内の承天閣美術館で見ることが出来る。実物は明治二十二年(1889)、窮乏した相国寺から金壱萬円で宮内省に引き渡され、御物となっている。

 「わたしが今お話ししたとおりに彼がわたしに話したとはお考えにならないでください。おそらく違っていたところもあると思います。わたしが少しずつ彼から聞き出していったのです。」(「ドロテーア」ノサック 神品芳夫訳『死神とのインタヴュー』岩波文庫1987年)

 「壁パネル撤去開始 第1原発1号機、核燃料取り出しに一歩」(平成28年9月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昭和三十四年(1959)の京都新聞の連載企画「古都再見」に、物理学者湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の題で文を寄せ、二、三十年前のこととして、「博物館から豊国神社・方広寺の鐘のあたりまで、以前よく散歩したことがある。このあたり一帯の閑寂というより、むしろうらぶれた感じにひかれたからである。」と述べている。中間子理論「素粒子の相互作用について」は、昭和十年(1935)の発表である。陽子と中性子の間に中間子を予想した湯川秀樹の脳は、その予想予言に至るさ中に、うらぶれた場所へ湯川秀樹を連れて行ったである。かつて京都に、奈良東大寺の大仏を凌(しの)ぐ大きさの大仏があった。造ったのは豊臣秀吉である。文禄四年(1595)完成の木造漆膠(しっこう)の大仏は、二年後の地震で大破し、秀吉の死後、子の秀頼が金銅で再建中失火焼失し、慶長十七年(1612)三たび再建し、同時に造った梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」によって、豊臣家は徳川家康に滅ぼされる。大仏は寛文二年(1662)の地震で大破した後銅銭にされ、新たに幕府の手で木像で再建されるが、寛政十年(1789)落雷により焼失し、天保十四年(1843)尾張国の篤信者らが上半身の木製大仏を方広寺に寄進し、それも昭和四十八年(1973)の失火で焼失する。湯川秀樹が歩いた当時、最後の大仏はまだ秀吉が築いた巨大な石垣の上の方広寺仮本堂にあった。元の大仏殿跡に建つ豊国神社は、徳川幕府に取り潰された秀吉を祀った豊国社を、秀吉を顕彰する明治元年(1868)の明治天皇の御沙汰によって再建した神社である。「豊太閤側微二起リ、一臂(いっぴ)ヲ攘テ天下之難ヲ定メ、上古列聖之御偉業ヲ継述シ奉リ、皇威ヲ海外二宣へ数百年之後、猶彼(※朝鮮)ヲシテ寒心セシム。其国家二大勲労アル今古二超越スル者ト可申。云々」社殿の費用を京都府が出し、明治十三年(1881)に豊国神社は再建される。豊国神社の門前を走る大和大路通を渡り、正面通を下ってすぐの所に耳塚がある。昭和三年(1928)京都市が編纂発行した『京都名勝誌』には、「文禄慶長征韓の役(1592~93、1597~98)に、我が軍朝鮮の各地に戦勝し、敵の首級を獲ること幾萬なるを知らず。而(しか)も之を内地に送りて實檢に供ふることは容易の業にあらず。されば敵の鼻を切取り、之を鹽(しお)漬にして秀吉に獻(けん)ず。秀吉命じて悉(ことごと)く之を大佛方廣寺門前の地に埋めしむ。世人呼んで耳塚といふ。塚の高さ三間ばかり、上に高さ二丈餘の五輪の大石塔を置く。秀吉が己の建立せし方廣寺の門前に之を埋めしは、これその菩提を弔はんとの意なるべし。云々」とある。ここに云う日本軍の戦勝は部分的であり、苦戦休戦の末、秀吉の死を以て日本軍は撤退し、その戦功を競って切り取られた鼻、あるいは耳は兵だけでなく、一般市民の鼻も切り取られたのである。耳塚の隣に耳塚公園があり、その隅に「明治天皇御小休所 下京第廿七區小学校趾 明治五年五月三十日 御小休」と彫られた石碑が立っている。明治天皇が参議西郷隆盛らを伴った明治五年(1872)の九州西国巡幸の途中に、方広寺の大仏と耳塚に立ち寄った証の碑である。この時明治天皇は二十歳である。翌明治六年(1873)、征韓派の西郷隆盛は、大久保利通らの遣韓反対を受け、参議を辞職し下野する。湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の文中で耳塚に触れてはいないが、付近のさびれは、ゆかりの人物豊臣秀吉にあるのではないかと書く。豊国神社門前の大和大路通正面通の、その門前で極端に道幅が広がり、大仏殿の名残りであるその石垣の石の大きさは、使い途のない、持て余されたものであり、持て余された物寂しい景色である。その一角にある耳塚、塩漬にされ埋められた朝鮮人の鼻は、この界隈が賑やかになることを許さなかったのである。大和大路通の、石垣の向う側の歩道に沿って百日紅サルスベリ)が植わっている。紅色でない百日紅の白い花を見た時、驚いた記憶がある。この通りには、紅、白の他に、薄紫、薄桃色、微かな桃色が混じる白色の花が咲いている。明治天皇は慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いの後の大阪行幸で、天保山から新政府軍となった諸藩の軍艦の訓練を見、その時初めて海を見たという。薄紫の百日紅は、初めて見る者には驚きの色である。

 「鬱蒼たる熱帯林や渺茫(びょうぼう)たる南太平洋の眺望をもつ斯(こ)うした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いて行くのは、スティヴンスンにとって、子供の時の箱庭遊に似た純粋な歓びであった。自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識──その敷地に自分が一杙(くい)打込んだ家に住み、自分が鋸をもって其(そ)の製造の手伝をした椅子に掛け、自分が鍬を入れた畠の野菜や果物を何時(いつ)も喰べていること──之(これ)は、幼時はじめて自力で作上げた手工品を卓子の上に置いて眺めた時の、新鮮な自尊心を蘇らせて呉れる。」(「光と風と夢」中島敦中島敦全集1』ちくま文庫1993年)

 「「町に戻り通学すべきか」 楢葉避難指示解除…揺れ動く親子」(平成28年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 一本の木も植わっていない墓地の、日照りの暑さは独特である。上京七本松通仁和寺街道上ルにある具足山立本寺(ぐそくざんりゅうほんじ)に、灰屋紹益(はいやじょうえき)の墓がある。紹益は、六条三筋の遊女二代目吉野太夫を身請けした町衆である。町衆粋人であるが、遊廓に出入りした後水尾天皇とも交わりがあり、その弟である関白近衛信尋(このえのぶひろ)と吉野太夫を競ったという。これは男女の話ではなく、商人と付き合うほど垣根を低くした、あるいは低くせざるを得なかった徳川の世の天皇宮家の様を物語っている。紹益は、本阿弥光悦の甥本阿弥光益の子であるが、紺染めに使う灰の問屋、灰屋紹由(はいやじょうゆう)本名佐野承由の養子であり、紹由は、遊女を身請けした跡取りの紹益を勘当同然にしたが、ある日雨宿りをした家で紹由を懇切にもてなした女主(あるじ)が吉野太夫だったと知ると、紹益の勘当を解いたということになっている。紹益が吉野太夫を身請けした年は寛永八年(1631)八月で、その二カ月前に紹益は、妻と死別している。その死別した妻は、本阿弥光悦の娘で、紹益の実父光益の従姉妹である。養父紹由の没年は、元和八年(1622)で、身請けした年にはこの世にいない。吉野太夫は寛永二十年(1643)、三十八歳で病死し、紹益はその遺灰を酒に混ぜて飲んだという。戯作者曲亭馬琴は、紹益の孫營庵(えいあん)を訪い、紹益のその後を『壬戌羇旅漫録』に記している。「吉野歿(ぼつ)してはるか後、浪華の小堀氏より妻を迎へたり。これにも子なく、七十三歳の時、妾に男子出生す。今の營庵の父紹圓(じょうえん)これなり。紹圓五十餘歳の時營庵出生す。營庵も六十歳ばかりに見ゆ。……營庵又いふ。紹益が菩提寺は、内野新地立本寺にあり(日蓮宗)この寺その頃は今出川町にありしが、その後御用地となり、今の地所に引けたりし時、墓も建てかへしにや詳(つまび)らかならず、石面は紹益と吉野と戒名二行に彫りつけあり、紹益は八十一歳にて歿しぬ。古繼院紹益 元禄四年十一月十二日 本融院妙供 寛永八年六月廿二日。」後水尾法皇は、立本寺第二十世管首日審に帰依し、その本堂の「立本寺」の扁額は、本阿弥光悦の筆であり、紹益の墓が立本寺にあるのは偶々(たまたま)ではない。笠石を載せた横に平べったい紹益の墓石の前面に、南無妙法蓮華経の彫り文字が微かに読み取れるが、その裏は風化が激しく文字を読み取ることは出来ない。紹益の孫が曲亭馬琴に語った享年寛永八年六月廿二日の本融院妙供は、吉野太夫ではなく、紹益の先妻の戒名である。紹益の墓の前に、こちら向きに子紹圓、孫營庵の墓が並んでいるが、吉野太夫の墓はない。五山の送り火の日から幾日も経ていないにもかかわらず、花のない花立ての水は腐り、地面には埃枯草が吹き溜まっていた。吉野太夫の墓は、寂光山常照寺にある。常照寺は、法華信徒本阿弥光悦徳川家康から貰い受けて一族職工集団が移り住み、法華の理想郷とした芸術村の寄進地に建つ、光悦の子光瑳の発願の寺である。吉野太夫の墓は、三方を椿で囲まれ、左右の花立てに鶏頭と桔梗が供えられていた。灰屋紹益、本名佐野重孝の菩提寺立本寺ではなく、洛中より数度気温が低い洛北鷹峯に眠る吉野太夫は、常照寺の過去帳に「佐野紹益先妻」と記されている。

 「遅くなって、全員で魚と米の夕食を摂った。暖かな、居心地の良い夜だった。コオロギの鳴く声が聞こえ、風が頬を撫でる。ビロードみたいな空だった。ふたりの伯母さんたちはひとしきり死んだグェンのことで嗚咽(おえつ)し、軀を揺すってしゃくり上げていたが、まもなく眠ってしまった。明るい半月が空にかかった。」(ティム・オブライエン 生井英孝訳『カチアートを追跡して』国書刊行会1992年)

 「「今後、さらに効果現れる」東京電力、凍土遮水壁巡り見解」(平成28年8月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)