「此世は自分をさがしに來たところ 此世は自分を見に來たところ」あるいは「物買つて來る 自分買つて來る」「おどろいて居る自分に おどろいて居る自分」これらは陶芸家河井寛次郎(かわいかんじろう)が書き残した言葉である。(『いのちの窓』東方出版2007年刊)河井寛次郎文化勲章人間国宝を断った職工精神を曲げなかった者であるが、これらの言葉は紛れもなく芸術家の口から出た言葉であり、芸術家がこのような言葉を云うことはこの世において許される。許されるということは、甘やかされているということである。たとえば魚屋の店先で「此世は自分さがしに來たところ」という言葉を店主から聞くことはない。あるいは仮にそういう考えを持ったとしても、そう考える者ほど公に口に出したりはしない。「物買つて來る 自分買つて來る」と河井寛次郎は云う。物を買うという行為に己(おの)れの意思が反映しているのは、云うまでもなくその通りであり、その意思の表わしにはそうするだけの理由があり、その理由の元(もとい)は己(おの)れ自身に他ならないということである。なぜそれを欲しいと思うのか、あるいはどうしてそれを選んだのか。たとえばこれから家を買う、あるいは家を建てる。そのためには、あるまとまった額の金が必要となる。その金は自分の稼いだものからか、あるいは人から貰ったものかもしれないもので支払うことになる。たとえば銀行から金を借りるにせよ、その金が自分で稼いだもので返すのであれば、その者は一定の仕事に就いているということであり、その仕事で得る収入というものは、天と地ほどの差がこの世にはある。その者がいま就いている仕事は、その者の希望に叶ったものではなく、かといって嫌々就いているというわけでもないかもしれないが、別の仕事を選んでいれば、違った収入を得ることが出来たかもしれないと思うことはあるかもしれない。そう思うその者は自分を顧(かえり)みる。顧(かえり)みる己(おの)れは、世間にとってどの程度の者なのか。どこそこの学校を出て、どこそこの生まれで、どのような家族がいて、どのような趣味があって、あるいは何の趣味もなくて、どのような人付き合いをしてきたのか。家を買う段になって、その者はそのような己(おの)れにまつわる事柄を次々に思い浮かべ、と同時に何ほどかのこれからの身の振り方についても思うかもしれない。家に庭は欲しいだろうか。その庭に草花を植えるのなら、その草花の選びにはまたその者の意思の反映があるのであり、その意思は過去の何がしかの思いにまつわることから来ているのかもしれない。その者は新しい棚に食器を買い揃える。百円で買うことが出来る茶碗をその者が選ばなければ、その者はまた茶碗に対して何ほどかの思いがあるということであり、百円の茶碗を選ぶこともその者の意思の反映であれば、その意思はその者が思うよりずっと深く、ずっと遠いところからやって来ていないと断定することは出来ない。その者の新居の生活は、新しく買い揃えたものや、前の住まいから持ってきたものに取り囲まれている。そのどの一つも己(おの)れの意思の反映されていないものはなく、貰い物すらも、その贈り手には己(おの)れの意思が反映されているはずであり、それらのもののどの一つからでも自分の元(もとい)を遡(さかのぼ)る入り口となる。その入り口を入れば、次々と己(おの)れの過去が現れ、様々な己(おの)れの意思を見ることになる。が、その様々に現れ出る意思は目先のことに処した意思であり、そう思いつつもその者は目先の己(おの)れを捲(めく)り続けなければならない。茶碗を目の前に置いて、己(おの)れとは何かと己(おの)れを捲(めく)ってゆく。が、それは結局は玉葱の皮を剥(む)いていくことであることに思い至る、あるいはそうであることを思い出す。行きつく先は、その者の父親と母親の精子卵子の結合であり、原子分子の塊(かたまり)にすぎないと思い、あるいはそう思った己(おの)れを思い出すのである。そうであれば己(おの)れの意思は、あるいは精神は細胞の反応にすぎない。細胞の反応に過ぎないと思うことは空しい。が、そのことはきっかけに過ぎないのであり、その反応から生まれた意思はそのきっかけを空しくさせないてはならないと思う己(れ)となるのである。河井寛次郎は、昭和十二年(1937)四十七歳で自ら設計した自宅を持った。建築を請け負ったのは、大工であった寛次郎の兄である。その建物は河井寛次郎記念館として、坂になる手前の五条通りから逸れた路地にある。母屋は、吹き抜けになった囲炉裏のある板間と畳の間が階上と階下にあり、河井寛次郎と家族の生活の品々がそのままに置かれている。その品々は、柳宗悦(やなぎむねよし)らと起こした民芸運動で「自分を見に來たところ」のものである。朝日文庫『京ものがたり』(2015年刊)に次の話が載っている。「筑紫(哲也)が記念館を最後に訪れたのは、2008年2月の夕暮れ。毛糸の正ちゃん帽をかぶってふらりと姿を見せたのを、寛次郎の親族は記憶している。再発した肺がんの治療中。亡くなる8カ月前のことだ。柱時計の音が響く、囲炉裏のある居間。40年来の定位置の椅子に腰掛け、いつものように、無言で1時間ほど過ごしていたという。」筑紫哲也は年に数回、ここに訪れていたという。ここには、筑紫哲也の家にはないものがあった。それは、己(おの)れを空しさまで思い行きつく手前の、筑紫哲也が生きて買って来なかった、選ばなかった別の己(おの)れを思う姿である。

 「いまぼくが空を飛べるとして、何か父のためにしてやれるだろうか。遠くから救急車のサイレンの音が近付いてくる。できれば父には、死んでも透明なままでいてほしいものだ。空を見上げる。多少小降りになってきた。駅前に引き返した。あの蹴飛ばした仔犬はどうなったかな? もし無事でいてくれたら、ぜひとも連れて帰ってやりたいと思った。」(「さまざまな父」安倍公房『飛ぶ男』新潮社1994年)

 「「木戸川の水」ボトル販売開始 国内最高水準の放射性物質検査」(平成30年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 洛西小倉山にある二尊院のニ尊は、その本尊である釈迦と阿弥陀のことである。中国唐の善導の『散善義』に、「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」という喩(たと)え話がある。「人が西に向かって行くと、忽然として二つの河に出会う。火の河は南、水の河は北にありそれぞれ河幅は百歩、深くて底無く、南北には無限に続く。両河の中間に広さ4,5寸の白い道があって、両側から水と火とが絶えず押し寄せている。曠野(こうや)に頼るべき人もなくひとりぼっちで、しかも群賊悪獣が後ろから迫っている。引き返しても、立ち止まっても、前に進んでも死を免れない。そこで河にはさまれた白道を進んで行こうと決意すると、たちまち東岸に声があって、「汝、ただ決定(けつじょう)してこの道を尋ね行け。必ず死の災難はなからん。もしとどまれば即ち死なん」と勧め、また西岸の対岸から、「汝、一心正念して直ちに来たれ。我れ、汝を護らん」と呼ぶ者がある。東岸の群賊たちは、この道は嶮悪で死ぬに間違いないから我れ我れの所へ戻れと誘う。しかし、その誘いに一顧だもすることなく、一心に白道を直進し、西岸に達して安楽の世界に至り、諸難を離れ、善友とともに喜び楽しむことができたという。」(『岩波仏教辞典』第二版2002年刊)この東岸の声の主が釈迦で、西岸の声が阿弥陀である。フランツ・カフカに「掟の門前で」という掌篇がある。このような話である。「掟の門前に、ひとりの門番が立っている。この門番のところへ、ひとりの男が田舎からやって来て、掟のなかに入れてくれと頼む。けれども門番は、いまは いれてやるわけにはいかぬと言う。男はよく考えた上で、それでは のちほど入れてもらえるのかと、尋ねる。「それは ありうる」と、門番がいう、「しかし、いまは だめだ」 掟にいたる門は いつも開いているし、門番は脇に退いたので、男は身をかがめて、門越しになかを見ようとする。門番はそれに気づいて、笑いながら言う、「そんなに見たいなら、やってみるがいいさ、入るなという わしの禁を破ってでもな。ただし言っとくが、わしは強いぞ。でも、わしは いちばん下っぱの門番にすぎん。ところが、広間から広間に入るごとに いくらでも門番がいてな、つぎつぎに強くなるのだ。三番目のは見ただけでも、わしでさえ とても耐えきれん」 こんなに厄介なことだとは、田舎から来た男は 夢にも思ってはいなかった。掟は、いつでも誰でも 入っていいもののはずじゃないか、彼はそう考えたが、いま、毛皮のマントを着た門番を、彼の大きなとんがり鼻を、長くて 薄くて 黒い韃靼(だったん)のひげを、仔細に見ると、この様子では、入れてやるという許可をもらうまで 待つほうがいいと、決心をする。門番は彼に、床几を与え、門の脇のところに坐らせる。そこに彼は、何日も、何年も坐っている。入れてもらおうと、いろんなことを試みる。そして嘆願を繰り返しては、門番を疲れさせる。門番はしょっちゅう彼に ちょっとした訊問をし、故郷のこと、その他あれこれのことを 根掘り葉掘り尋ねる。しかしそれは、お偉方がするのとおなじ 気乗りのしない質問である。そして決まって最後には、まだ入れるわけにはいかぬと繰り返す。男は今度の旅のために、充分な支度をしてきたのだが、門番に掴ませるためには どんな高価なものでも、なにもかも使い切ってしまう。門番のほうは、なんでも受け取るのだが、受け取りながらこう言うのだ、「わしがもらっておくのは、お前さんのほうでなにか し残したことでもないかと 後悔してはいけないという、それだけのことだ」 何年もの間、男は門番を、ほとんど絶え間なく観察している。他の門番のことは忘れてしまい、この最初の門番が、掟に入るための唯一の障害だと 思われてくる。彼は、不運なめぐり合わせを呪う。最初の数年は、あたりかまわず大声で、のちに年老いてくると、もう誰に言うともなく、ぶつぶつ つぶやいているだけである。彼は子供じみてくる。永年 門番を研究しているうちに、彼のマントのなかの蚤とも知り合いになって、蚤にまで自分を助けてくれ、門番の気持ちを変えさせてくれと頼む始末。おしまいには視力が弱まって、自分のまわりが実際に暗くなったのか、それとも単なる目の錯覚なのかが分からない。それでも彼はいま、闇のなかに一条の輝きが、確乎として掟の扉から差してくるのを見分けている。もう、彼の命も永くはない。死の間際に 彼の頭のなかでは、門前で過ごした永年のあらゆる体験が、これまで番人に まだ一度もしたことのなかった一つの質問に凝集する。彼は門番に、手招きをする。硬直してくる身体を、もう起こすことができないのだ。身の丈の差が、男にとって非常に不利なふうに 変わってしまったものだから、門番は深く彼のほうに 身をかがめなくてはならない。「この期に及んで、まだなにを知りたいのかね?」と、門番は尋ねる、「強欲な奴だ」「みんな、掟を手に入れたいと懸命じゃないか」と、男、「永年の間、わたしのほかに 誰も入れてくれと言って来なかったのは、どうしたことなんだ?」 門番は、男がすでに臨終であることを知り、かすんでゆく聴覚に なんとか届かせようと、大声でわめく、「ここでは誰も、ほかに許可をもらった者はいない。この入り口は、お前さんだけのために 定められていたんだからな。さあ、閉めてくるとするか」(「掟の門前で」フランツ・カフカ 吉田仙太郎訳『カフカ自撰小品集Ⅱ』高科書店1993年刊)法然は、善導の『観経疏』に称名念仏という言葉を見出し、「南無阿弥陀仏」という念仏言葉を唱えるでけで誰をも悟らせ、浄土往生が叶(かな)うとし、その弟子親鸞は、『歎異抄』にこう語る。「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。」あるいは、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死(しやうじ)をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。」あらゆる煩悩苦悩から結局逃れることが出来ない凡人衆生を憐み、成仏させることが阿弥陀仏の本願であり、自分の力のみを信じ、善行を誇る者はその自立の意思を捨てない限り、救いの対象とはならない、と親鸞は云うのである。カフカの小説は寓話であるとして、読む者はその喩えが何の喩えなのかと思う誘惑にかられ、それを読み解くという言葉に置き換え、そういい換えた者が得ようとするのは、その答えである。喩え話である「ニ河白道喩」は、答えは皆の手元に用意されている。「東岸は娑婆世界、西岸は浄土、群賊は衆生の六根(※煩悩を起こす眼・耳・鼻・舌・身・意)・六塵(※執着の対象として心を汚す色・声・香・味・触・法)・五陰(※五縕ごうん、人をつくる元。色縕・受縕・想縕・行縕・識縕)・四大(※地・水・火・風)、火の河は衆生の瞋憎、水の河は衆生の貪愛、白道は浄土往生を願う清浄の心。───現世では釈迦の教法に帰依し、死後は阿弥陀仏誓願を頼みとせよ。」(『岩波仏教辞典』)「ニ河白道喩」の者は追いつめられ、追いつめられるということは、この世に生きて生活を送っているということであるが、南無阿弥陀仏を唱えることで浄土へ往くことが出来た。衆生、生きているすべての者は、自力で死を思い、考えようとする。が、恐らく免れ得ないという答えのほかは思いつかない。考えることは煩悩である。それ以上死を思うな、死のことは阿弥陀仏に委ねよ、と浄土教は説くのである。委ねるという行為も厳密には自力であるが、これは生きよ、生きていよという強い意思を通じてのことにほかならない。カフカの「掟の門前で」は寓話ではない。田圃の畦道に咲く曼珠沙華曼珠沙華という花であることのほかに何も意味しないように、「掟の門前で」の掟は掟であり、門番は門番であり、田舎者の男は田舎者の男である。この男が阿弥陀に己(おの)れの死を委ねたかどうかは分からない。ただこの男の死によって、掟の門は閉ざされたのである。二尊院の墓地は小倉山の中腹にあり、市街を見渡すことが出来る高さにある。墓地には阪東妻三郎が眠っている。生活する地べたよりも高い所にある墓は、身軽になった死の構えのように心地よく目に映る。

 「九十ニ歳になる父は四国の伊予西条の生まれである 幼いころ千葉の伯父の養子にもらわれた それ以来千葉を動かない 最初わたしはわたしの血の半分をはぐくんだ土地をあるいてみたいと思った 四国を好きになったら 自分を肯定できるだろう 四国を嫌いになったら 自分を嫌いになるだろう わたしはわたしを歩くことになるだろうと思っていたが 歩くほどに わたしは父を歩くことになった 四国の子だった父を───こんなに青い風土と別れねばならなかった父の幼年の 代参をしなければならないと思ったのだ 父には関係のない話だが」(「父の国」高橋順子『お遍路』書肆山田2009年)

 「処理水の再浄化「必要なし」 規制委員長、科学的安全性踏まえ」(平成30年10月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載) 

 白河夜船(しらかわよふね)という言葉がある。この言葉は四つの漢字から成り立っており、それぞれの漢字にも、その漢字を組み合わせた言葉にもそれぞれの意味を持ち、しらかわよふねといま読めば、白い河と夜の船あるいは白い河に浮かぶ夜の船という意味であるが、眠り込んでいた間のことをまったく知らない、覚えていないという意味であると、世にある辞書は紐解く者に教える。この言葉の場合意味があるというよりも、意味が込められているということであり、水位七メートルという数字が、ある川ではその七という数字に氾濫の危険を及ぼすという意味が込められていることと同じである。その者がある者に、京に行ってあちこち見て廻ったと云うと、ある者は京のしらかわはどうだった、どんなところだったと訊き返し、その者は、船で夜通っただけだから見ていない、分からないと応える。辞書の云いは、その者は京都に行ったことはなく、ある者に訊かれたしらかわを川だと思い、夜船で通ったと嘘の言い訳をしたというのである。岩波広辞苑は、この遣り取りの元を俳諧指南書『毛吹草(けふきぐさ)』によるとしている。その『毛吹草』(岩波文庫1971年刊)の巻第二にある「世話(※俚諺りげん、ことわざ)古語」にはこうある。「しら川よぶね 見ぬ京物がたり」二つの言葉は隣り合わせに置かれ、それぞれの意味の説明はなく、この言葉の前後には、次のようなことわざが並んでいる。「三がいにかきなし 六だうにほとりなし をんなに家なし 壁に耳 垣に目口 岩も物いふ 君は舟臣は水 いぼあひもち げすない上臈(しやうらう)はならす たのむ木(こ)のもとに雨もる かひかふ虫に手をくはるゝ まごかはんよりゑのこかへ おなしあなのきつね すまひもたつかた 兵庫のものは御免ある 一樹(じゆ)のかげ一河(が)のながれ 一むらさめのあまやどり 袖のふりあはせも他生(たしやう)の縁 燈台もとくらし 遠目はかりの箒木(はゝきゞ) 秘事(ひじ)はまつげのごとし すきにあかゑぼし たでくふむし めんめんのやうきひ きによりてほうをとけ あはぬふたあれはあふふた有 すつる神あれは引(ひき)あぐる神有 こせうまるのみ しら川よぶね 見ぬ京物がたり 国にぬす人 家にねすみ 僧に法(ほう)あり 狸ねいり 鼠のそらじに 船頭のそらいそぎ」よくある話として、行ったことのない者がさも見て来たように京の都を語ることが「見ぬ京物がたり」であり、「しら川よぶね」は、その見ぬ京物がたりの一つであると、ここでは知識をつけ足している。「白川は江州(こうしゅう ※近江国)との国さかいの山中村の奥に源を発して、京都盆地に流れこむが、いまは鴨東の山ぞいに静かなながれをはこんでいる。そのながれにそって、白川の地名は、その流域全体を指していたのだ。そのなかでさらに三条の北で一部が賀茂川流入するまでを北白川、それよりさき南へのながれを南白川とも称していた。しかし地名としては源に近い白川村に、北白川の名が与えられて、白川は白河と書かれて、今の岡崎のあたりをさすようになったのだ。白河の地は、藤原頼通の伝領した別業の地であったが、「天狗などむつかしきわたり」といううわさはあったが、ふかい緑の森のなかをその名も白川の清らかな水を見出した貴族たちが、その邸館や社寺をつぎつぎに立てて行ったことも無理ではなかった。京のたてこんでくる町をのがれて、白河に移り住む人も出てきたのである。このような新しい白河の位置を決定的にしたのは、白河院にはじまる院政政権の院庁が、この付近に定められたことであろう。そしてその付近には、法勝寺をはじめとする六勝寺など、かずかずの寺々が建てられた。おそらく当時の人々は、商業の町の発達とともに政治の都は白河に移ったとも考えたであろう。京・白河という並称が行われはじめたことでも、そのことが察せられる。」(『京都』林屋辰三郎 岩波新書1962年刊)白川とは、川の名であり、またその流域の地名でもある。見たこともない京の都であっても、白川という地が白川という川の流域の一部を指しているということを知っていれば、訊かれたしらかわがそのどちらであっても、夜船で眠っていて見ていないという言い訳は成り立ち、知らないと応えたことが、必ずしも行っていないとする理由にはならなくなる。改めて広辞苑の云いを書き写せばこうである。「(「毛吹草」によれば、京を見たふりをするものが、京の白川のことを問われ、川の名と思って、夜船で通ったから知らぬと答えたことからという)熟睡して前後を知らぬこと。」白河夜船に込められている、熟睡して前後を知らぬことという意味は、実際に京に行った者が夜船で寝過ごし、白川という川も土地も見なかったので知らないと云ったとしてもあり得ることである。京において、しらかわを川だと思うことは誤りではない。が、行ったことのない理由とされるのはどうしてなのか。『京都の地名』(平凡社1979年刊)にはこうある。「承応二年(1653)の新改洛陽並洛外之図によると白川本流が廃絶しており、それに代わって白川の支流であった小川(こがわ)が新たに白川として登場している。従って現在、平安神宮(現左京区)前の慶流橋から疎水と分れて南へ流れ、知恩院古門前(現東山区)を西に流れて四条通の北で鴨川運河に合流する川も白川とよぶが、これは昔の小川であり、かつての白川本流ではない。」この新改洛陽並洛外之図の図面情報を信じれば、白川の流れが消えてなくなった時期があるということになる。そうであれば、しらかわを川だと思って夜船で寝ていて分からないという云いが嘘であるとして、「白河夜船」が京を見たふりをした者の話として言葉が出来たということはあり得ないことではない。元禄三年(1690)刊行の『名所都鳥』は、白川をこう記している。「白川 愛宕郡。水上は、北しら川南禅寺の奥より出て、寺の門前より西へながれて粟田白川橋の下、知恩院古門前より大和橋へながれ三条と四条の間へ出たり。又白川といへる所、きよくしづかにして、仙客(せんかく ※仙人、鶴)も遊びつべき気色也。まことに和朝の桃源ともいふべし。むかし此所に兵乱おこる時は、宇治の里人妻子をかくす所なり。そこへ行に坂ひとつ有。道きはめてほそく、一人此路をふせぐ時は、たとへたけきものゝふもたやすく入きたる事なし。今は土民の家もちかくかまへて、卯月頃の茶つみいと興有。又白川の名みちのく、筑前の奥にもあり。今爰(ここ)にいふは京の白川也。」ここでいっている白川は、小川が変じた白川のことであり、加えて宇治にも白川という名の地があるといい、その白川の地はいまも白川の地名で茶畑として残っている。その者は、しらかわを川だと思った。白川はその名の通り、水の澄んだ涼しげな川なのだろう。そのような川を夜船に乗って、一杯ひっかけて、うとうとしてそのまま横になったら、どんなにか心地良いことだろう。京にはそのような川があるに違いない。知恩院古門の手前の白川に、一本橋と呼ばれる石の橋が架かっている。二枚組の御影石を六枚渡した幅六十七センチの橋である。比叡山千日回峰行を了(お)えた修行者が、粟田口尊勝院にその報告のため入洛の時、はじめて渡る橋であるという。一本橋の長さは十一・七メートルあり、組になった石はわずかにくの字に内に傾いている。すぐ傍らには車の通ることの出来る橋が架かっており、一本橋は日常生活に欠かせないという存在ではなく、その意味では無くしても差し支えない橋である。が、この橋が何度か架け替えられて残るのは、橋そのものより、いまも水底薄く流れ続けている白川に対する周りの者の執着の思いがあるからに違いない。一本橋を渡る足元はまことに心細い。これは千日修行を経た者こそが、改めて思い知るべき心細さなのかもしれない。

 「なぜそうしたかと云うと、アメリカの海事法で、漂流している船に会った時は人を救助したあと、船体をその場で燃やしてしまうことになっている。もしそのまま放っておくと、あとで他の船が見つけた時、空船だということを知らずに自分の走っているコースから離れて救助に来るから、それだけ大きな迷惑をかけることになる。それで乗組員だけ救けて、船は火をつけて海上で燃やしてしまうのです。」(『浮き燈台』庄野潤三 新潮日本文学55「庄野潤三集」新潮社1972年)

 「津波に備え第1原発「防潮堤」増設検討 北海道東部沖地震想定」(平成30年9月15日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 緑蔭をよろこびの影すぎしのみ 飯田龍太。緑蔭は単なる木蔭ではなく、空間としての広がりを持ち、太陽が位置を変えても、その空間の大方は保たれ、緑蔭を乞うのは夏であるから、緑蔭を通して見る外の世界は燦たる日光に個々の輪郭を失い、緑蔭が深ければ、内側にある輪郭もまた明瞭ではなくなる。緑蔭にいると、よろこぶ様子の人影が傍らを通り過ぎて行った。人影がひとりとは限らない。よろこびの様子は、その表情だけとは限らない。暑さを逃れ来た者が、その涼しさへの安堵にあってよろこび事を口にする。が、その者らは緑蔭に留まっていたのではない。あるいは留まっていたのかもしれないが、やがて出て行ってしまう。そのことを、すぎしのみ、と飯田龍太はいう。ただよろこぶ人影だけが過ぎて行ったという、そう断じただけの龍太の心の様(さま)は、このように言葉をなぞっただけではいつまでも立ち現われて来ない。木立ちの中にテニスコートがあった。それがどこであったのか、いまは思い出すことが出来ない。そのようなテニスコートなど、どこにでもありそうな気がする。コートの片側には、海岸が迫っていたかもしれない。その片側の木立ちが濃い緑蔭をなしていて、小径が一筋蛇のように曲がりくねっている。その小径は、はじめからそのように通したのではなく、海岸への近道というのでもなく、ある者が気まぐれに通ったところが、後のちそのまま通り道になってしまったような草いきれのする小径だった。その小径を辿ったところにテニスコートが現れたことを思い出したのは、テニスボールを打つ音が雑木林の向こうからしているからである。この日の気温が三十九度を超えるさ中、人影のない妙心寺の境内の白築地を辿って、塔頭桂春院の門を潜ったのであるが、通された書院は思いの外蒸し暑く、苔の生えた狭い庭の向こう側で何人かの者らがテニスボールを打ち返す音が響いている。雑木林は、書院の庭と地続きにあるのではなく、すぐ下にあるもう一つの庭の境に繁り、下までの傾斜は植込みで仕切られ、濡れ縁から下の庭の様子は見ることが出来ず、目の前の雑木は途中の高さにある枝葉であり、そのようにいまいるところの高さを意識させる庭から見れば、やや低い位置に見えないテニスコートはあることになる。テニスコートからは、ボールの音のほかに、若い人声もしている。耳に入って来るのはそれだけではなく、クマゼミがそちこちで頻(しき)りに鳴いている。木の葉を揺らすような風はいくら待っても来ず、隅の畳の上に置いてある蚊取り線香の煙が、軒先まで上って消えてゆくのが見える。隣りの棟の方丈に移っても、纏(まと)わりつくような蒸し暑さは変わらないが、テニスボールを打つ音からは遠ざかる。桂春院は、京都に己(おの)れの寺を持ちはじめた武将に混じって、旗本だった石川貞政が持った寺であり、寺は京都の滞在先でもあり、庭はその時の慰めである。その頃にはまだ、緑蔭という言葉は使われていない。方丈の濡れ縁から見える下の庭の樹木の並びは、緑蔭ではなく、木下闇(こしたやみ)であり、闇は涼しいとは限らない。たとえば、よろこびの影すぎしのみといった飯田龍太がいた緑蔭を過ぎたのは、生臭い人間ではなく、一匹の蝶々である。龍太はその蝶の様(さま)に、いままで味わったことのない心の動きを感じる。蝶も、緑蔭で憩うということがあるかもしれない。その翅を使う様が、悦びのように龍太の目に映る。そのように目に映り、心が動いた様がよろこびの影すぎしのみ、という境地なのではないか。可憐ではかなげな蝶と緑蔭の涼しさを悦びとして共に持ったことに疑いがないこととして、恐らく龍太はすぎしのみ、と心に留め置こうとしたのである。あの時緑蔭の小径を辿って行きついたテニスコートに、ひとりの人の姿もなかった。木々の間からはボールを打つ音が小気味よく聞こえていたのであるが。

 「曇天。窓は閉まっている。食堂の、彼のいる側からは、庭は見えない。彼女のほうからは見渡せて、彼女は庭を眺めている。彼女のテーブルは、窓の縁にくっついている。光線がまぶしいため、彼女は、目に皺をよせている。彼女の視線は往ったり来たりする。ほかの客たちも、彼には見えないテニスのゲームを眺めている。彼は、テーブルを変えてほしいと申し出はしなかった。彼女は、見られていることを知らない。今朝五時頃、雨が降った。今日は、ボールを叩く音が蒸暑く、鬱陶(うっとう)しい天候を縫って響く。彼女は夏服を着ている。」(マルグリット・デュラス 田中倫郎訳 『破壊しに、と彼女は言う』河出書房新社1978年)

 「溶融燃料取り出し…1~3号機ごと「工程表」 第1原発廃炉へ」(平成30年8月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 ジム・ジャームッシュの日本の公開が2017年の映画『パターソン』のパターソンは、アメリカ・ニュージャージー州にある市の名であり、市営バスの運転手をしている主人公の名でもある。パターソンは、朝六時過ぎに目を覚ます。同じベッドの傍らに妻が寝ている。パターソンはひとり、椅子の上に畳んで置いた着替えを持って寝室を出て行き、台所で牛乳に浸したシリアルをスプーンですくって口に運ぶ。ふと目についたマッチの箱を手に取り、つくづくそれを眺める。ランチボックスを手に提げ、パターソンは、勤め先まで歩きながら詩を考える。それはこんな風な詩である。「我が家にはたくさんのマッチがある。常に手元に置いている。目下お気に入りの銘柄はオハイオ印のブルーチップ。でも以前はダイヤモンド印だった。それは見つける前のことだ、オハイオ印のブルーチップを。そのすばらしいパッケージ、頑丈な作りの小さな箱、ブルーの濃淡と白のラベル。言葉がメガホン型に書かれている。まるで世に向かって叫んでいるように。「これぞ世界で」「最も美しいマッチだ」───」パターソンは出来つつある詩を、バスの運転席でノートに書き、発車の時刻が来れば中断するのであるが、頭の中では言葉は継続している。バスが町に出れば、乗客の乗り降りがあり、乗客たちの会話がパターソンの耳に入る。が、カメラが捉えている通りの様子はどこか不安定であり、不安気な音楽がその流れる景色に重なり、これは多分運転手パターソンのハンドルを握る緊張を表しているはずである。パターソンの妻は仕事を持たず、部屋のいたる所を白と黒の模様に塗り替えるようなことで時を過ごし、パターソンの昼飯に添えたオレンジに無数の目玉を描くような、どこか浮世から離れたような女である。パターソンは仕事を終えると真直ぐ家に帰り、妻の作った夕食を食べ、飼い犬のブルドッグの散歩がてら馴染みのバーに寄ってビールを飲む。これがこの男の一日であり、翌朝も六時過ぎに起きて、ひとりで朝食を摂り、会社までの道々詩を考え、市内を巡るバスのハンドルを握り、昼は滝の見える公園で食事を摂りながら、また詩を考える。「僕のかわいい君、僕もたまにはほかの女性のことを考えてみたい。でも正直に云うと、もし君が僕のもとを去ったら、僕はこの心をずたずたに裂いて、二度と元に戻さないだろう。君のような人はほかにいない。恥ずかしいけど。」妻はパターソンの詩の才能を疑わず、世間に発表しろと云うが、パターソンはそのつもりがない。が、そのつもりがないことの理由を妻が理解出来るように説明することは出来ないと、パターソンは思っている。この、妻は恐らく理解できないだろうという妻との隔たりを思うことでなお妻を思いやる、パターソンを演じるアダム・ドライバーの表情が、この映画のすべてである。ジム・ジャームッシュは時折り風景を、パターソンの勤める煉瓦造りのバス会社の辺りを、陰影を巧みに夢の如くに描いてみせ、パターソンという町はパターソンという男の頭の中にある想像の町なのかもしれぬという思いを見る側に抱かせる。映画のはじまったその週のある日、妻は自分の夢を叶えたいとパターソンに云う。パターソンはやや戸惑い、どの夢かと遠慮気味に妻に訊く。パターソンはそのように「夢見る」妻を慮(おもんばか)り、慮る必要があると、妻をそう理解している。妻は白黒模様のギターが欲しいと云い、ギターを覚えてカントリー歌手になる夢を叶えたいと云う。妻を慮ればパターソンは、だめであると妻に云うことは出来ない。二人の関係がもし壊れることがあれば、妻も壊れ、自分も壊れて仕舞うかもしれないと思うことが、パターソンは何より怖ろしいのである。波風を避け、波風を立てぬパターソンの慎重な暮らし振りは、外からは味気なく息苦しく思えるかもしれない。が、それは妻を守り、詩を書くことを守るためのパターソンのただ一つの方策なのである。しかし波風は起こる。バーの常連の若い黒人が女に振られた腹いせに、バーで女に拳銃を向け、果ては己(おの)れの頭に向けたところでパターソンがその腕に掴み掛かって男を床に押し倒す。が、その拳銃はおもちゃだった。そうと分かってもパターソンは笑うことが出来ない。パターソンの運転するバスが故障し通りで動かなくなって仕舞うという波風も起こる。が、パターソンは冷静に乗客を誘導し、事態は深刻には至らない。最大の波風は、その週末に起こる。妻が焼いたカップケーキがバザーで売れ、その祝いに夜二人で映画を観て家に戻ると、パターソンの詩のノートがブルドッグによってズタズタにされて仕舞っていたのだ。世に出すためコピーを取っておくよう、妻は云っていたのである。その妻には、慰める手段が何もない。パターソンは「ただの言葉だ」と云うが、それは本心ではなく、動揺は隠しようもなく、自分が書いてきたすべての詩を失ったいま、「心をずたずたに裂いて、二度と元に戻さないだろう。」と書いたパターソンの詩のフレーズが見る者に蘇る。パターソンはひとりで家を出、毎日昼飯を摂りながら詩を考えていた滝の見える公園に来て、日本からやって来たという永瀬正敏扮する詩人に出会う。永瀬が、偶然にもパターソンが敬愛する詩人の詩集を開いたところで、二人は言葉を交わしはじめる。もしかして詩人かと永瀬が訊くと、パターソンは自分はバスの運転手であると応え、永瀬は、バスの運転手は詩的だと云う。が、二人の会話はどこかぎこちない。この永瀬扮する詩人を、ジム・ジャームッシュは固苦しく演出している。パターソンという人物は、恐らく馴れ馴れしい世慣れした者を受け入れることはない、とジム・ジャームッシュはパターソンのために思った。あるいはパターソンは、ジム・ジャームッシュにそう思わせる人物として意思を持ち生きてきたのである。自分の詩を失ったばかりであることを知らない永瀬は、出会った記念のようなつもりで、持っていた一冊の真新しいノートをパターソンに贈る。これは見知らぬ日本人の詩人からの贈り物であるが、ジム・ジャームッシュからパターソンへの励ましのようにも見てとれる。パターソンはその励ましに応えるように、白いページに新しい詩の一行を記し、妻と過ごす生活に戻って行く。「その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終わって行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。」(「雨瀟瀟」永井荷風『雨瀟瀟・雪解他七篇』岩波文庫1987年刊)これは晩年を迎えた永井荷風祈りである。映画『パターソン』は、この世にいないような夫婦、その意味で理想のような夫婦を描いているというものいいでは、この映画を観たことにはならない。これは特別な映画である。ジム・ジャームッシュは、自分の作った登場人物に対して祈っている。バーの拳銃事件もバスの故障も大事に至らないのも、ジム・ジャームッシュ祈りである。パターソンが飼い犬の仕業によって詩を失うことは、一つの試練であるが、それを乗り越えさせ、これ以上この先この夫婦に不幸が起きないようジム・ジャームッシュは祈っている。そのようにジム・ジャームッシュはこの映画を撮っている。

 「いつもぶらぶら暮らすように運命づけられていたわたしは、それこそなんにもしなかった。何時間もつづけて窓の外の空や、鳥や、並木みちを眺めたり、郵便でとどいたものを残らず読んだり、眠ったりしていた。ときには家を出て、夕方おそくまでそこらをぶらつくこともあった。」(「中二階のある家」アントン・チェーホフ 松下裕訳『チェーホフ小説選』水声社2004年)

 「福島県特化のプロジェクト 環境省、支援策をパッケージ化」(平成30年8月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 生まれ育った町にある二つの神社の例大祭は七月二十四、二十五日に行われ、神輿が出、後には町内各地から笛太鼓の山車も出るようになったのであるが、子ども時代の祭りの記憶は貰った小遣いを遣う露店と境内でやっていた民謡のど自慢であり、そののど自慢の声は神社から近くもない家まで響いて来て、祭りに足を向けなくなった十代に夜聞いた唄う声は、同じ境内で八月にやっていた盆踊りの声であったかもしれないが、のど自慢は昼から夜まで延々とやっていた記憶があり、そうであれば網戸越しに聞いた夜の声は、スピーカーから大音量で発せられたのど自慢の声である。欲しくて買った面やピストルは、数日もすればどれも飽きてしまうものであった。くじや輪投げは、当たれば出した小銭以上の値打ちの賞品を得た幸福と優越心を高めてくれるものであり、はずれれば、中の芯が折れている不良鉛筆を手にするのである。輪投げで狙ったのは、万年筆やオイルライターだった。それらは薄く四角い木の台の上に立ち、輪はその木の台ごとすっぽり嵌めなければならなかった。ある年の祭りの翌朝早く、一人で神社まで行ったのは、翌日でもやっている露店がまだあると誰かに聞いたからだったのかもしれないが、行ってみると道端に並んでいた露店は既になくなっているか、あってもシートで覆われているか、あるいは片づけの最中だった。が、輪投げの露店は昨夜のままでその場所にあり、昨日の賑わいがまったくないにもかかわらず、その一角だけがそのままであることが現実ではないような光景だったのである。テキヤのあんちゃんの姿はなく、隣りの露店では男が片づけをしている。ズボンのポケットに、輪投げ一回分の金があった。一度躊躇してから、傍らの投げ輪に腕を伸ばして手に取ると、隣りの露店の男と目が合った、がその男は何も云わない。輪を万年筆目掛けて投げる。が、輪は台の端を残して引っ掛かる。その輪を抜いて、もう一度構えた時、また隣りの男と目が合うと、男の目は薄ら笑っている様子で、今度はオイルライターを狙って投げると、台まですっぽり輪が嵌ったのである。その時輪投げ屋のあんちゃんが戻って来る。一回分の金はあるが、もう一回分の金は持っていない。いやそもそも許可もなくやったこと自体、謝罪すべきことに違いない。練習なら金取らないけど、練習されたら商売にならない、とテキヤのあんちゃんが云う。後の祭り、という言葉がある。機会を逃したことの空(むな)しさというような意味である。この言葉が、祇園祭の後祭(あとまつり)から来ているという説がある。祇園祭の前祭(さきまつり)と後祭は、交通事情を理由に宵山山鉾巡行も統一の同じ日程で暫(しばら)く行なっていたのであるが、数年前よりもとの祭りの姿である前祭と後祭に戻った。その七月二十三日の宵山、二十四日の山鉾巡行の後祭は、前祭に比べ山の数が少なく見劣りがし、後の祭りと侮(あなど)られ、前祭を見逃した者が後悔をすることだというのである。が、後祭の規模をあげつらって後の祭りという言葉の意味が生まれたのでは、恐らくない。前祭と後祭の両方を見ることではじめて祇園祭という千年を超える祭りに触れることが出来、そうしなければ平安京を襲った疫病を祓ったことが元(もとい)である七月ひと月を費やす祇園祭を分かるということにはならない、ということなのである。後祭の後という言葉の味わいは、前祭にはない。祭りの後という言葉を聞くと、感傷やら寂寥やら空しさやらの心が、低きに流れていくように働いてしまう。が、子ども時代のあの年の祭りの翌朝の輪投げは、そのどれでもない。オイルライターの立つ四角い台にすっぽり嵌った金を払わずに投げた輪は、いまでも嵌ったままなのである。

 「その時太鼓が夜空全体に鳴り響いた。ラダー太鼓やコンゴー太鼓、あるいはブックマン太鼓、大いなる契約の太鼓、それにあらゆるヴードゥー教の太鼓がとどろきわたり、たがいに呼び交わし、山から山へと応答し合い、海岸から高まり、洞窟から湧き出し、木々の根もとを走り抜け、渓谷や川床を駆け降りて行った。まるで巨大な円周を備えた太鼓が、包囲の輪をしだいに縮めながら、サン=スーシに攻め寄せてくるように思われた。地平線のように広がっていた太鼓のとどろきが、じりじりとその輪を縮めはじめた。使者も錫杖棒持者も控えていない玉座は、台風の目のようなものだった。」(アレホ・カルペンティエル 木村榮一・平田渡訳『この世の王国』水声社1992年)

 「東電、大津波の確率把握 旧経営陣公判、震災前に50年以内に4割超」(平成30年7月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 停滞し続けた梅雨前線により、数十年ニ一度ノ大災害ガ起キルゾと皆に迫った、コレマデニ経験シタコトノナイヨウナ大雨が京都にも降った。桂川に架かる渡月橋の橋脚が濁流に飲み込まれ、橋の北詰から小倉山に沿う参道にも泥水が溢れ出て、境の印だった街灯がその泥水の上に突っ立っている、見たことのない光景に変わり果て、南詰の嵐山の裾道も水を被(かぶ)って見えなくなった。一週間前、嵐山の裾道には茶屋が掛かっていた。伏見月桂冠の紅白の幕で河原に立てた足元と頭上を覆い、茣蓙(ござ)を敷いた床に安テーブルと座布団を幾つか並べ、二人連れの客ばかりが座に着いて呑み食いをしていた。深くはない水の面は波も立たず、小倉山のこちら側は梅雨の晴れ間の日が当たり、向こうの茶屋は山陰(やまかげ)で、幕を揺らす風が見える。聞こえる水の音は川音ではなく、茶屋の側(そば)で上から山肌を削って落ちて来る水の音である。茶屋の客の声は聞こえて来ない。座布団を枕にして横になる客を眺めながら桜の木蔭に暫(しばら)く居ると、保津川下りの川舟がゆらゆらやって来る。川の名は桂川であるが、渡月橋の辺りは大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、橋を潜(くぐ)れば淀川に行きつくまでは桂川であり、保津川と呼ばれるのは、亀岡から嵐山の手間までであり、保津川の上流はまた大堰川と呼ばれている。保津川の川下りは、その渓谷の急流を水を被りながら揺られ下るのであるが、終点は何事もない穏やかさであり、乗り客の水の上に浮かぶ胸騒ぎも、ここに来れば鎮まり、その心鎮まりは、水の上でなければ味わうことが出来ない様(さま)であると思えば、浅瀬から川原に下りる時の舟のひと揺れは、陸地の安堵と些(いささ)かの胸騒ぎを呼び起こす。乗り客を下ろした川舟は、先の川面に無人のまま停め置かれ、二つの山の峡(かい)を流れる川は、元の静けさに戻る。向こう岸の茶屋にいた一組が、団扇(うちわ)を置いて腰を上げる。その中年の二人が日陰の裾道を歩いて行くのを目で追っていると、カチャンと器の立てる音が響いて来る。それは使った器を店の者が下げに来て出した音なのであるが、その下げる手つきが雑なのではなく、それほど響く場所で下げものをしているということなのであるが、時折り鳴く鳥の声よりも胸に響く音だったのである。それは落とせば割れる器の音である。学校給食や社員食堂や病院食の器は、このような音は立てない。割れる器でも、町中(まちなか)の料理屋でも家の台所でも、このようには響かない。濁流はいづれ治まり、茶屋はまた同じ場所に店を掛ける。泥を被った器は泥を落とされ、同じ音を響かせる。が、その音は対岸にいなければ、対岸にいる者の耳にしか響かない。

 「薄暗い車室の奥から、テレーズは自分の生涯のこの清浄な時代をながめる───清浄ではあるが、もろい、さだかならぬ幸福の光のさしている時代。そして、あの歓喜のどんよりした光、あれがこの世における自分の唯一のわけまえであろうとは、そのころは夢にも知らなかった。彼女の当りくじのすべてが、たえがたい夏のさなかの暗い客間の中に、───あの赤いレプス織の長椅子の上の、そろえたひざで写真のアルバムを押さえているアヌのそばに、───つきていたとは、何ものも予告してくれなてはいなかったではないか。あの幸福はどこからわいてきたのか?」(フランソワ・モーリヤック 杉捷夫訳 『テレーズ・デスケイルゥ』新潮文庫1952年)

 「第1原発「処理水」…先送りせず解決を 自民第7次復興提言案」(平成30年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)