「此世は自分をさがしに來たところ 此世は自分を見に來たところ」あるいは「物買つて來る 自分買つて來る」「おどろいて居る自分に おどろいて居る自分」これらは陶芸家河井寛次郎(かわいかんじろう)が書き残した言葉である。(『いのちの窓』東方出版2007年刊)河井寛次郎文化勲章人間国宝を断った職工精神を曲げなかった者であるが、これらの言葉は紛れもなく芸術家の口から出た言葉であり、芸術家がこのような言葉を云うことはこの世において許される。許されるということは、甘やかされているということである。たとえば魚屋の店先で「此世は自分さがしに來たところ」という言葉を店主から聞くことはない。あるいは仮にそういう考えを持ったとしても、そう考える者ほど公に口に出したりはしない。「物買つて來る 自分買つて來る」と河井寛次郎は云う。物を買うという行為に己(おの)れの意思が反映しているのは、云うまでもなくその通りであり、その意思の表わしにはそうするだけの理由があり、その理由の元(もとい)は己(おの)れ自身に他ならないということである。なぜそれを欲しいと思うのか、あるいはどうしてそれを選んだのか。たとえばこれから家を買う、あるいは家を建てる。そのためには、あるまとまった額の金が必要となる。その金は自分の稼いだものからか、あるいは人から貰ったものかもしれないもので支払うことになる。たとえば銀行から金を借りるにせよ、その金が自分で稼いだもので返すのであれば、その者は一定の仕事に就いているということであり、その仕事で得る収入というものは、天と地ほどの差がこの世にはある。その者がいま就いている仕事は、その者の希望に叶ったものではなく、かといって嫌々就いているというわけでもないかもしれないが、別の仕事を選んでいれば、違った収入を得ることが出来たかもしれないと思うことはあるかもしれない。そう思うその者は自分を顧(かえり)みる。顧(かえり)みる己(おの)れは、世間にとってどの程度の者なのか。どこそこの学校を出て、どこそこの生まれで、どのような家族がいて、どのような趣味があって、あるいは何の趣味もなくて、どのような人付き合いをしてきたのか。家を買う段になって、その者はそのような己(おの)れにまつわる事柄を次々に思い浮かべ、と同時に何ほどかのこれからの身の振り方についても思うかもしれない。家に庭は欲しいだろうか。その庭に草花を植えるのなら、その草花の選びにはまたその者の意思の反映があるのであり、その意思は過去の何がしかの思いにまつわることから来ているのかもしれない。その者は新しい棚に食器を買い揃える。百円で買うことが出来る茶碗をその者が選ばなければ、その者はまた茶碗に対して何ほどかの思いがあるということであり、百円の茶碗を選ぶこともその者の意思の反映であれば、その意思はその者が思うよりずっと深く、ずっと遠いところからやって来ていないと断定することは出来ない。その者の新居の生活は、新しく買い揃えたものや、前の住まいから持ってきたものに取り囲まれている。そのどの一つも己(おの)れの意思の反映されていないものはなく、貰い物すらも、その贈り手には己(おの)れの意思が反映されているはずであり、それらのもののどの一つからでも自分の元(もとい)を遡(さかのぼ)る入り口となる。その入り口を入れば、次々と己(おの)れの過去が現れ、様々な己(おの)れの意思を見ることになる。が、その様々に現れ出る意思は目先のことに処した意思であり、そう思いつつもその者は目先の己(おの)れを捲(めく)り続けなければならない。茶碗を目の前に置いて、己(おの)れとは何かと己(おの)れを捲(めく)ってゆく。が、それは結局は玉葱の皮を剥(む)いていくことであることに思い至る、あるいはそうであることを思い出す。行きつく先は、その者の父親と母親の精子卵子の結合であり、原子分子の塊(かたまり)にすぎないと思い、あるいはそう思った己(おの)れを思い出すのである。そうであれば己(おの)れの意思は、あるいは精神は細胞の反応にすぎない。細胞の反応に過ぎないと思うことは空しい。が、そのことはきっかけに過ぎないのであり、その反応から生まれた意思はそのきっかけを空しくさせないてはならないと思う己(れ)となるのである。河井寛次郎は、昭和十二年(1937)四十七歳で自ら設計した自宅を持った。建築を請け負ったのは、大工であった寛次郎の兄である。その建物は河井寛次郎記念館として、坂になる手前の五条通りから逸れた路地にある。母屋は、吹き抜けになった囲炉裏のある板間と畳の間が階上と階下にあり、河井寛次郎と家族の生活の品々がそのままに置かれている。その品々は、柳宗悦(やなぎむねよし)らと起こした民芸運動で「自分を見に來たところ」のものである。朝日文庫『京ものがたり』(2015年刊)に次の話が載っている。「筑紫(哲也)が記念館を最後に訪れたのは、2008年2月の夕暮れ。毛糸の正ちゃん帽をかぶってふらりと姿を見せたのを、寛次郎の親族は記憶している。再発した肺がんの治療中。亡くなる8カ月前のことだ。柱時計の音が響く、囲炉裏のある居間。40年来の定位置の椅子に腰掛け、いつものように、無言で1時間ほど過ごしていたという。」筑紫哲也は年に数回、ここに訪れていたという。ここには、筑紫哲也の家にはないものがあった。それは、己(おの)れを空しさまで思い行きつく手前の、筑紫哲也が生きて買って来なかった、選ばなかった別の己(おの)れを思う姿である。

 「いまぼくが空を飛べるとして、何か父のためにしてやれるだろうか。遠くから救急車のサイレンの音が近付いてくる。できれば父には、死んでも透明なままでいてほしいものだ。空を見上げる。多少小降りになってきた。駅前に引き返した。あの蹴飛ばした仔犬はどうなったかな? もし無事でいてくれたら、ぜひとも連れて帰ってやりたいと思った。」(「さまざまな父」安倍公房『飛ぶ男』新潮社1994年)

 「「木戸川の水」ボトル販売開始 国内最高水準の放射性物質検査」(平成30年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)