そのどちらもその木の名前を知らないようだった。硬い緑の葉の繁る枝に黄色い実が幾つも生(な)っている。蜜柑の一種のような実である。これは食べられへんのどすか、と初老の男が手押し車で身体を支えている老婆に訊く。昔もろてジャム拵(こしら)へましたえ。ジャムどすか。二人はその前に、親しい間柄とも違う天気の挨拶を交わしている。場所は西陣、浄土宗浄福寺の南門の前である。木は日の当たる門の築地塀の上からのぞいている。そやない、ジャムは別の実おした、浄福さんのやおへん。老婆がそう続けて云うと、男は、戸惑う素振りを瞬時に止め、開きかけた口を向こう向きに閉じ、どこか役割りを終えたような顔つきになる。目の前の実の話は宙に浮いたまま、ひと呼吸あり、他人同士のように頭を下げ、老婆は門の中に入り、初老の男はいま一度その実を見上げる。門を潜った老婆は本堂の前の参道で一瞬足を止め、地面に落ちている実にちらと顔を向ける。塀の内にもう一本植わっている同じ木から落ちた実である。実は、湿った地面に四つ五つ落ちている。この様は、恐らく初老の男の目にも入っていたはずである。男は先ほどから、境内の参道を何度か行きつ戻りつをしていたのである。朱塗りの東門から真っ直ぐに伸びる参道は、両側を築地塀に挟まれ、百メートルほど平らな石を敷き並べてある。その上を男は、両腕を宙に真っ直ぐに伸ばし、足をゆっくり動かしながら歩いていた。参道は本堂に突き当たると、二股に分かれ、一方は本堂の正面に回り込み、もう一方は菩提樹の植わる小庭を抜けて庫裏玄関に導く。男はその二股まで来ると、上げていた腕を今度は左右水平に伸ばし、そのまま本堂の前まで歩いてその恰好を暫く続け、目を閉じ、両腕を下ろして踵(きびす)を返すと、西の地蔵堂の前に歩を進め、片膝を上げてそのまま数秒留め、下ろしてもう一方を同じように持ち上げる。何度かそれを終え、両腕を大きく振りながら南門まで歩いて行ったところで、男は老婆に出くわしたのである。老婆は本堂に手を合わせ、参道を手押し車を押しながら東門から出て行った。初老の男は、両腕を振って地蔵堂まで戻り、片膝立ちのポーズをまた始める。規則正しく繰り返す男の動作は、体操のようでもあり、ここが宗教施設であれば、この者は厳(おごそ)かにも見えるその動作に己(おの)れの祈りを込めていないとは限らない。片膝立ちを終えて参道を戻る時、男は落ちている例の実を目で見る。十一月末の昼下がりの浄福寺は、かような振る舞いが許される閑寂な場所である。が、西に立つマンションの壁に卒塔婆が風でカタカタ鳴り響く墓地であり、門を出れば辺りに、古き良き京都の懐かしく、かつよそ者を寄せつけぬ風情の町家の軒がぽつぽつと残る町中であり、田舎の日向臭い長閑(のどか)さをいう鄙(ひな)びはない。時代を七、八十年遡(さかのぼ)れば、西を通る千本通からこの一帯は西陣京極と呼ばれた芝居小屋、映画館が立ち並ぶ繁華な場所であったのであるが、いまは一筋道の飲み屋街があるばかりで、昼のその通りは人影もなくうら寂しく、数多の人の出入る緊張を経た後の落ち着き払った町の空気を浄福寺も息していれば、その閑寂さはこの空気を吸って吐く閑寂さなのである。境内の大ケヤキは黄ばんだ葉を半ば落とし、庭には見せる紅葉も無く、紅葉見物の観光客が迷い込むこともない。初老の男の体操あるいは祈りは、この町の空気そのものに許されているのである。エドワード・ヤンの台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を二十六年振りに観た。日本の公開は、一九九二年である。約四時間の映画である。四時間あれば途方もない時間も出来事もぶち込まれ、題の通り殺人事件が起きる。家族も学校も不良仲間も住む街も、少年にとっては絶えず息苦しい。その息苦しさを、少年は向こう側に原因があると思っていたのであるが、自分自身にあるのではないかと気づかされたところで事件は起き、映画も終わる。二十六年前に心揺さぶられた記憶は、幾つかの場面を覚えていたのであるが、二十六年後に見直すと、大方の場面は記憶に無い。浄福寺の境内をゆっくり歩きながら、昨夜観た『牯嶺街少年殺人事件』を思い出そうとしても、そのすべてを思い浮かべることは出来ない。が、そのように思い出そうと気持ちが動く、あるいは敬意を払うためにも思い出さなければならないとこの映画は思わせて来るのである。手押し車の老婆は、ジャムを拵(こしら)えた実は浄福寺に生(な)っているものとは違うと云ったが、そのジャムの味は思い出していたのであろうか。それは話の流れからは逸れてしまう味であったが。

 「……私は、戦後復学した中学での、眼鏡をかけた教師が熱っぽくしゃべりつづけた社会科の授業を思ってみた。話し合い。個人主義。自由と平等。人間は対等である。多数決。私は、自分があのころから、これらが人間への、一つの絶望からうまれた手つづきなのを知っていたと思う。しかし、その絶望は、結局は私にとり、一つのあこがれにすぎなかった。幻影であり理想でしかなかった。げんにこの私は、いま、目からウロコが落ちたように、それとはちがう絶望、ただ一つの、本当の自分のそれにもどっている。力。殺意にしか、他人との本当の関係のしかたはないのだということを。私はもはやそれ以外のなんの幻影も信じはしないだろう。祖父と同じ。おれは九十歳の日本人だ。」(「海岸公園」山川方夫山川方夫全集第3巻』筑摩書房2000年)

 「「除染土」21年度までに搬入完了 中間貯蔵、帰還困難区域除き」(平成30年12月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)