紅葉が終われば、末枯(うらが)れが目につくようになる。街中の寺の庭先でも、町家の失せた空地でも、鴨川の河原でも、東山三十六峰の山の端でも生えていた草木は、自(みずか)らの意思とも違うただならぬ変化を己(おの)れに齎(もたら)し、雨風に砕け、冬ともなればその大方は地面の上から消え失せる。が、見えぬように消え失せても、草木の意思とも違う何者は根に潜み、約束とも違う仕方で、再びあるいは幾たびも草木として土の上に姿を現す。末枯のひたすらなるを羨(とも)しめり 三橋鷹女。これは草木の枯れてゆく様が羨ましいのではなく、枯れても再び芽吹くことが羨ましいのである。ひたすら枯れることは、芽吹くためのひたすらなのであろうと、作者の鷹女は思わずにはいられないのである。久保田万太郎の小説「末枯」には、三人の男が出て来る。二人の落語家(はなしか)扇朝とせん枝と、一人の支援者タニマチの鈴むらがその三人である。「全体扇朝といふ男は、二代目の梅橋の弟子で、十二三の時分にすでにもう別ビラの真打だつた。器用でもあつたのだらうが、人間が親孝行だといふので、ことのほか梅橋に目をかけられた。十四のとき、両親にわかれ、それからずつと梅橋の手許(てもと)に引取られて、ゆくゆくは三代目梅橋にもなる位なつもりで修行をしてゐるうち、十六のとき、根津の菊岡の楽屋で、平常(ふだん)から仲のよくなかつた兄弟子に喧嘩をうられ、腹の立つたまぎれそこにあつた煙草盆を叩きつけて、相手に怪我をさせた。扇朝にしてみると、(その時分にはまだ扇朝とはいはなかつたが)自分はたゞうられた喧嘩を買つたまでのこと、怪我はさせても、自分にはなんにも悪いところはない位に思つてゐたが、それが師匠の梅橋の耳にはいると、以ての外のことと散々小言をいはれた。━━扇朝はまた腹が立つた。師匠のまるで自分に好意を持つてくれないのにたまらなく腹が立つた。━━勝手にしろとばかり、梅橋のところを飛びだして、そのまゝ東京の土地を離れた。明治二年の秋だつた。」(「末枯」久保田万太郎『筑摩現代文学大系22 里見弴・久保田万太郎集』筑摩書房1978年刊)扇朝はそれから女義太夫の一行に加わり、興行で行った千葉東金の網主の娘と所帯を持つが、三年で網主の元を飛び出して旅芸人に身を落とし、女役者とドサ回りをして暮らしながら、いたたまれぬ寂しさに襲われ、離れて十年の後再び東京に戻って来る。が、元の師匠はこの世にいず、新たに弟子入りした師匠にも程なく死なれると、浪花節の一座に身を落とし、元師匠の代の替わり目に三度(みたび)落語家となるのであるが、落語家扇朝はもはや時代遅れとして客もつかず、四代目梅橋に打ってもらった会に上がって寄席(よせ)を退(ひ)き、昔馴染みでいまは大真打の落語家に最後の独演会を仕切ってもらうが、扇朝がその礼を云わなかったことで、もう一人の落語家せん枝は、義理を欠いたと腹を立て、稽古をつけていた扇朝の出入りを止める。ある日酒の席でタニマチの鈴むらは扇朝を庇い、これ以上の同情をその大真打にさせたくない、されたくないという屈折した扇朝の胸の内を察したように云い、扇朝の噺は当代名人といわれている柳生よりもうまいと、酒の入った口を滑らせてしまう。それはその場にいたせん枝と同門の三橘が、鈴むらに持っていた盃を投げつけるほどの発言だった。鈴むらは、かつては日本橋の大店(おおだな)の若旦那でせん枝、三橘にも目を掛けていたのではあるが、兜町の相場で親から受けた財産を失い、蕩尽し囲っていた吉原の芸妓とも別れ、いまは浅草今戸で夫婦二人の侘しい暮らしをしている身なのである。せん枝は、鈴むらが落ちぶれた丁度その頃両の目が不自由になり、寄席に出ることも出来なくなって妻と二人、母親と同居していた弟の厄介になっていたのあるが、そのせん枝の妻が母親と弟のどちらとも折り合いが悪く、思い余った弟から、目の見えない兄の面倒はみてもその嫁の面倒まではみることは出来ないと云われ、せん枝夫婦は弟の家を出る。目の上の閊(つか)えのとれたせん枝の弟は、箍が(たが)外れたように芸妓遊びで家の金を使い果たし、借金を重ね、ついには兄のせん枝に借金の保証請判を頼みに来る。が、再び高座に上がれるようになっていたせん枝は、頭を下げに来た母親にも、今までの不義理を洗いざらいいいたてて断る。扇朝のことで三橘と悶着があってから暫くの後、せん枝は知り合いの者から鈴むらの噂を聞く。鈴むらは女房の実家からの店を出すための金の援助の申し出を断り、世間に強情を張って、今日も扇朝らと発句の運座を開いて遊んでいると。自分の足元を省みない鈴むらの境涯を、一旦は批難する感情が沸いた目の見えないせん枝は、その夜、本当に見えないのは鈴むらと変わるところがない自分を省みることの出来ない心の目であることに思い至って涙を流し、翌日請判の承諾を女房に云いつける。このような人情話をいまはもてはやす者はいない。このような筋の話は、言葉にすることの出来る、言葉にした話として易々(やすやす)と誰にでも通じてしまうからである。が、易々と分かってしまうことが軽んじられる理由ではなく、易々と分かってしまう自分自身を軽んじられたくないがために、恐らくはその易々と分かる人情を敢(あ)えて遠ざけてしまうのである。鬼ごとの鬼は寂しや末枯るゝ 日野草城。

 「予期したわけではないのに頭が首元に落ち、よく見つめないから気づかないのだが、すべてが静かに停止するのは、おそらく昼夜のあいだのこのようなちょっとした、とびきりやすらかな空白の時なのだろう。それは消えていくものだ。わたしたちはからだを曲げてひっそりと佇んでいる。まわりを見廻すが、もはや何も見えない、空気の抵抗すらも感じず、心の中では記憶にしがみついている。少し向こうに家々が並び、屋根あれば、幸いにも角ばった煙突もついていて、煙突を通って暗闇が家々に流れこみ、屋根裏から、ほかのいろんな部屋へとひろがっていくはずなのだ。明日にはまた一日があり、たとえ信じ難いことながら、すべてをまた目にできるとは、幸せなことなのだ。」(<ある戦いの記録A稿>フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説全集5 万里の長城ほか』白水社2001年)

 「中間貯蔵施設へ1400万立方メートル 汚染土壌など輸送量試算」(平成30年12月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)