数本の早咲きの白梅や蠟梅(ろうばい)や寒桜やシナマンサクが咲いたぐらいで、立春を過ぎた京都府立植物園に人が大挙してやって来ることはない。広場の芝生は枯れ、菖蒲池の水は抜かれたままで、薔薇園の薔薇は刺さった棒のように剪定され、これから種を蒔くであろう土は均(なら)され、木々の根元には去年の落葉が積もり、針葉樹の下にも積もったままになっている。時折寒風の吹く園が、それでも無人ではなく閑散とした様子なのは、数えるほどの襟巻厚着の者の姿があるからで、その内の幾人かがひと時、目の色を変え一本のプラタナスの大木の下に集まることがあった。その者らは首にぶら下げた双眼鏡かカメラの望遠レンズを梢の辺りに向けて見上げ、野鳥を探していたのである。ジョウビタキがいるというのであるが、道具を持たない者の目には何も見つからない。それでも暫く見上げていると、真上の空を旅客機が白い雲を棚引かせながらゆっくり横切って行った。操縦士犬と枯草馳けまろぶ 西東三鬼。これは昭和十二年(1937)の句である。遙か上空での緊張を強いられる飛行機の操縦から解放された操縦士が、己(おの)れのか、あるいは居合わせた者の飼い犬と地面を転がり回っている、というそれだけの句である。が、ここには純粋なとでも形容したくなる青春性が云い止められている。青春というものは職業に就いたと同時に終わる、と云ったのは開高健だったと記憶するが、そうであれば操縦士と青春性とは相容れない。この若い操縦士は、憧れの果てに恐らくは飛行操縦士になったのであろう。当時操縦士は命懸けの職業者として世の人の羨望の的であり、この操縦士はそのような人の目も気にせず、勤務を終えると嬉々として犬と戯れているのである。職業に就くことと相容れない青春性であるからこそこの操縦士の振る舞いは、職業に就いてなお消えない純粋な青春性と云えるのである。この句の発表の年に、日中戦争がはじまっている。この操縦士は、戦争の時代の操縦士でもあるのである。操縦士の操縦する飛行機は時に雲の中を、時に雲の上を飛ぶ。雲である水蒸気は時に寒気によって氷り、雲の下の大気も冷たければ氷ったまま雪となって落ちてゆく。この時期植物園の一角に、スノードロップと名づけられた花が群がり咲いている。水仙のような茎で、水仙よりも背が低く、先の割れた鶉の卵のような白い花を下向きにつけ、開けば三枚の花弁の内に緑色のハサミのような模様のある花である。スノードロップを訳せば、雪雫、雪の滴(したた)りであろうが、雪が滴ったのであれば、それは既に水であり雪ではない。空から降り落ちて来た雪は、そのまま地に留まることは稀であり、いずれは融けて水となって土に浸み、土から滲み出して川となるか、植物の根に吸われる。川の面からあるいは海の面からあるいは地面から蒸発した水は、再び空の寒気に冷やされて雲となり、また雨となり雪となって落ちて来る。植物に吸われた水は植物のあらゆる基(もとい)となる。ここに、地上に降っても再び雪になりたいと思う雪があった。が、その雪は土で融けるとすぐに根に吸われ、スノードロップの白い花に転生する。この雪は本当の雪になることが出来ず、そうであるが故に花として儚(はかな)い早春性を持つのである。

 「《死》への過程を《生》のエネルギーの衰退にしてしまうことは、あまりにも常識に失する。そうではなく《生》を《死》に推し進める別の新しいエネルギーが発動していると感じ、その活機の刻々を洞見する立場なのだ。他に何度か書いたが、ココのところが端的にすぎてヨク分って貰えない気重さが、何かしらまつわっていた。実験として、私は毎年鉢植に茄子を飼い育てる。開花から結実、そしてその実の萎縮、伴って原木の枯死。実は獲らすにどこまでも放置しておけば、ミイラになる。出来ればそのミイラも、飽くまで放置して《無》になるまで眺め入る日々を重ねんとする志だ。ココまで書きしるせば読者の想像は、期せずして《衰退のエネルギー》の有り体を自己身心に滲透証感することは、易々として可能であろう。」(「老いおもしろ」永田耕衣永田耕衣文集 濁』沖積舎1990年)

 「【風評の深層・トリチウムとは】眼前に「処理水」…77万ベクレル」(令和2年2月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 節分の厠(かわや)灯してめでたさよ 篠原温亭。この厠は外厠であろう。一家の主(あるじ)が一年に一度の、家族総出の「騒動」を了(お)えて厠に立った。思わずも高揚した気分は、出す小便とともにしみじみと静まってゆく。めでたさは連綿と続いてきた行事のめでたさであり、家族のあるめでたさであり、小便が滞りなく出る己(おの)れの身体のめでたさである。隣りの家から「鬼は外」の声が聞こえて来れば、それもまためでたいのである。「節分は都の町のならはしに、五條の天神にまふでて、をけらもちをかいもてきつつ、家内のかみなかしも是をいはふ。夜にいればむくりこくりのくるといひて、せど門窓などかたくさして、外面にはいはしのかしらとひらぎのえだを鬼の目つきとてさし出し、うちにはゑびす棚大こく柱のくまくまに灯をひまなくたて、沈香などかほらす。大内(だいり)の儺(おに)やらふは、晦日あなれど、地下(じげ、下級官吏、庶民)は今宵豆を煎りて、福は内鬼は外へと打ちはやし、また、わが齢をもかの豆をもて数へつつ、いくつといふに一つあまして、身を撫づることをしはべる。」(『山之井』北村季吟 正保五年(1645)刊)京の町の習わしでは、節分の日には五條天神から朮と餅を貰って来て家中の者で祝う、と北村季吟は書き記し、秋里籬島は『都名所図会』(安永九年(1780)刊)の五條天神社の項に、「節分には白朮・小餅(せふのもち)・宝船を禁裏に上(たてまつ)る。」と宝船を加え記している。『義経記』の中で、横笛を吹き鳴らす牛若丸と千本目の刀を狙っていた弁慶の出会いの場となる五條天神のこの習わしは、いまも続き、節分の二月三日の一日に限り、参拝者は神朮と勝餅と宝船を貰うことが出来る。朮は焚いて疫病を払い、餅は神に供える豊作祈願であり、宝船は縁起担ぎに正月二日枕の下に敷いて寝るものであるが、五條天神の宝船は縦四十センチ横五十センチ余と枕の下に敷くには些(いささ)か大きく、その船には七福神も宝物も乗っていない。描かれているのは、数本の拙(つたな)い線でするすると引いた一艘の舟と、その上に乗せられた四本ばかりの葉のついた稲穂である。舟底に揺れる波の一筋が走り、これが日本で最も古い宝船の図であるという。この宝船は室町の皇族等が枕ではなく床の下に敷き、年の節目に溜まった邪気を夢の中でその舟に乗せて流したというのである。僅(わず)かな稲穂の束を乗せた無人の舟が穏やかな水の上に浮かび、それは動いているのか、留まっているのか分からない。どこから流れ着いたのか、これからどこかへ流れてゆくのかも分からない。人がひとりも乗っていないのは、はじめから乗っていた者はなく、ここは人のいない場所なのかもしれぬ。もしそうであり、そうであるにも関わらず舟が浮かび、刈り取った稲穂が乗せてあるのであれば、それは神が舟を作り、稲を刈ったということなのであろう。以前という言葉があり、そう口に出して云うことがある。この宝船は、誰も知る者のいない以前の世に浮かび、以前は、と口にする者にその生まれる遙か以前を知らしめる。節分や灰をならしてしづごころ 久保田万太郎。これは火鉢で手を温めていたやや以前の世のことである。

 「夕闇がせまってきた。午後の雨で空気も冷え冷えとし、まるで冬のようにわびしく暗い夕方になった。空には星ひとつ見えず、つめたい氷雨がしとしと降りだした。表から見える家々のランプが、悲しげにちらちらと揺れていた。風が、町の沼地側からではなく、北よりの寒い真暗な松林の方角から吹きはじめた。」(「悲しき酒場の唄」カーソン・マッカラーズ 西田実訳『悲しき酒場の唄』白水社1990年)

 「「すべて検査」希望40% 県産米の全量全袋検査、消費者アンケート」(令和2年2月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 年末が近づくと町内会を通して、「平安神宮守護」という札が配られる。これは京都府下の住民は皆平安神宮の氏子であり、この一枚の札により諸々から皆を守護するというものである。「明治二十五年(1892)の初め、文明評論家・歴史家として著名な田口卯吉(1855~1905)が桓武天皇の平安奠都(てんと)の事情を研究するため、京都を訪れた。その際、田口卯吉は京都商業会議所副会頭の中村栄助と会い、来たる明治二十八年(1895)は平安遷都後満千百年に当たる故、京都市としても然るべき記念事業を催してはどうかと勧めた。中村はこの勧めに感動し、自ら陣頭に立って京都府知事(北垣国道)、公爵・近衛篤麿など要路の人々に説き勧め、記念事業の実現に尽力した。こうして桓武天皇奠都千百年紀念祭の施行、平安神宮の創建、第四回内国勧業博覧会の開催が計画されるに至った。」(角田文衛 復刻版『平安通志』解説 新人物往来社1977年刊)この第四回内国勧業博覧会は、明治二十八年(1895)四月一日から七月三十一日まで開催された後、会場は取り壊され、平安神宮だけがその跡地に残ったのである。平安神宮の祭神は、桓武天皇孝明天皇である。創建時の祭神は桓武天皇で、昭和十五年(1940)皇紀二千六百年と称する年に国中が紀元二千六百年を祝い、第百二十一代孝明天皇が新たに祭神としてに加えられる。翌昭和十六年(1941)に太平洋戦争がはじまる前夜の年である。日本海軍が真珠湾を奇襲したアメリカの黒船に誰よりも怯(おび)え、開港を頑(かたく)なに拒んだ者が孝明天皇である。平安奠都千百年の祭りに京都市参事会が編集発行した『平安通志』に、まだ祭神となっていない孝明天皇は明治の文体でこう記されている。「孝明天皇諱(いなみ)ハ統仁(おさひと)、仁孝帝第四子ナリ、母ハ新待賢門院藤原雅子、天保二年六月十四日生ル、煕宮(ひろのみや)ト稱ス、十一年三月十四日、立テ皇太子ト爲リ、弘化三年二月十三日践祚(せんそ)シ、四年九月二十三日紫宸殿ニ即位ス、帝性英邁剛健ニシテ神姿温柔ナリ、祖宗ヲ敬ヒ、神祇ヲ崇ミ、學問ヲ好ミ、名器ヲ重ンジ、最モ心ヲ國家ノ大事ニ盡ス、和氣淸麻呂ノ偉勲ヲ追褒シ、正一位ヲ贈リ、護王大明神ノ號ヲ賜ヒ叉耕作圖ヲ宮障ニ畫カシメ以テ民ノ艱難(かんなん)ヲ視ル、是ヨリ先幕府跋扈(ばっこ)朝廷日ニ衰ヘ、天下唯將軍アルヲ知テ、天子アルヲ知ラズ帝既ニ位ニ卽キ慨然トシテ復興ノ志アリ、會ゝ(たまたま)北亞米利加合衆國使軍艦ヲ率ヰテ浦賀ニ入リ、隣交互市ヲ要求シ、歐魯巴諸國亦互ニ來テ強請スル所アリ、人心恟々タリ、時ニ太平日久ク、天下兵ヲ知ラズ、幕府恐怖、妄ニ其請ヲ許ス、帝深ク之ヲ憂ヒ、堅ク鎖國攘夷ノ旨ヲ取リ、幕府ニ諭シテ海防ヲ嚴ニセシメ、親(みずか)ラ宣命ヲ寫シ之ヲ伊勢大廟及ビ二十二社ニ禱ル、御座ヲ東庭ニ設ケ、七日膳ヲ御セズ、躬(み)ヲ以テ國難ニ代ランコトヲ禱ル、右大臣三條實萬聖體ヲ損センコトヲ懼(おそ)レ之ヲ諫(いさ)ム、帝曰ク、神祖國ヲ肇ムル此ニ一百二十世未タ曾テ外侮ヲ受ケズ、朕ノ世ニ至リ、國體玷辱セバ何ヲ以在天ノ靈ニ謝センヤ、實萬曰ク、陛下獨リ幕府ノ耳目ヲ憚ラズヤ、帝曰ク、朕賊臣ノ手ニ罹ラバ、以テ少シク神靈ニ謝スベキノミト、實萬感泣シテ退ク、幕府擅(ほしいまま)ニ條約ヲ結ブヲ聞キ、悄然トシテ曰ク、朕將ニ位ヲ遜(ゆず)リ罪ヲ大廟ニ謝セントス、左右諫メテ止ム、時ニ天下ノ志士、幕府ノ失政ヲ憤リ、爭テ輦下(れんか)ニ集リ、諸候伯ニ説キ、朝權ヲ囘復スルヲ謀ル、天下騒然タリ、幕府窘窮(きんきゅう)シ、奏シテ皇妹和宮ヲ釐降(りこう)シ、將軍家茂ニ尚シ、以テ物情ヲ鎭シ、朝幕合體以テ攘夷ノ實ヲ擧ゲント請フ、帝已ムヲ得ズシテ之ヲ許シ、躬(みずか)ラ其由ヲ錄シ、宸翰ヲ以テ公卿ニ諭ス、謂フ皇妹ヲ降嫁ス、實ニ忍ビザル所然レドモ之ヲ以テ公武を合體シ、以テ膺懲(ようちょう)ノ典ヲ擧グルヲ得バ、國家ノ爲メ、豈許サゞルヲ得ンヤト、聞ク者感泣セザル無シ、文久二年五月、大原重徳ヲ幕府ニ使シ詔ヲ將軍家茂ニ賜ヒ、諭スニ天下ノ大計三事ヲ以テス、曰ク將軍列侯ヲ率ヰテ入朝シ、内政ヲ釐革(りかく)シ、外夷ヲ處分スルノ方法ヲ議セヨ、二ニ曰ク豐臣氏ノ例ニ依リ、五大藩ヲ以テ、五大老ト爲シ、海備ヲ嚴ニセヨ、三ニ曰ク一橋刑部卿ヲ以テ將軍ノ輔佐ト爲シ、越前中將ヲ以テ大老ト爲シ、以テ幕政ヲ總(す)ベシメヨト、幕府皆勅ヲ奉ズ、三年三月、將軍家茂入朝謁見恩ヲ謝シ、十一日車駕賀茂神社ニ行幸ス、家茂諸侯伯ヲ率ヰテ之ニ扈(こ)ス、四月十一日、車駕石清水八幡ニ行幸シ、躬(みずか)ラ攘夷ノ功ヲ奏センコトヲ禱ル、此日將軍ニ節刀ヲ賜ラントス、將軍疾ヲ以テ從ハズ、事竟(つい)ニ止ム、十二日宮ニ還ル、其儀衛(ぎえい)鹵簿(ろぼ)ノ盛ナル、近古ノ有ラザル所民ニ縱觀ヲ許ス、父老涙下ルモノ有リ、寛永三年二條城行幸ヨリ、此儀斷ルコト二百三十八年、此ニ及ビ將軍ヲ召シ以テ之ヲ行フ、朝廷ノ威權幕府ニ行ハル、復タ此ニ始マル、此時攘夷ノ議益ゝ(ますます)熾(さかん)ニシテ、幕府決スルアタハズ、勤王ノ士其姑息ヲ憤リ、密ニ奏スルニ大計ヲ以テス、八月十三日詔シテ曰ク、大和ニ行幸シ、畝傍山陵ヲ拜シ、春日山ニ於テ親征ヲ議セント、發輦(はつれん)日アリ、勢益ゝ迫ル、而ルニ事俄ニ中變シ、朝議毛利敬親ヲ罪シ、其藩兵ノ堺町門守衛ヲ罷ム、毛利元純等遂ニ兵ヲ引テ國ニ歸リ、三條實美以下七卿共ニ長州ニ走ル、時ニ此月十八日ナリ、之ヲ癸亥ノ變ト云フ、尋(つい)デ元治ノ變ト爲リ、兵闕下(けっか)ニ戰ヒ銃丸禁闕ニ及ビ、京師殆ド焦土トナル、此ヨリ征長ノ師起リ、兵結デ解ケザル數年、外國隙ヲ窺ヒ、兵ヲ擁シテ來リ迫ル、將軍家茂大阪ノ行營ニ薨(こう)シ、時局益艱(えきなん)シ、開鎖ニ黨(とう)紛然相鬩(せめ)ギ、天下収拾スベカラザルノ勢アリ、然レドモ帝堅ク叡旨ヲ執リ、確然動カズ、誓テ外侮ヲ防ギ國難ヲ排シ、以テ邦家ヲ安ンジ祖宗ニ謝セントス、十年一日ノ如シ、是ニ由テ天下ノ人心幕府ヲ去リ翕然(きゅうぜん)トシテ朝廷ニ歸シ、有志ノ士復タ大政ノ王室ヨリ出デシコトヲ望ム、而シテ幕府亦自ラ覇業ノ維持スベカラザルヲ知リ、大機將ニ熟セントス、慶應三年十二月、帝痘瘡ニ罹リ、僅ニ九日ニシテ崩ズ、實ニ十二月二十五日ナリ、年三十七朝野悲慟、考妣ヲ喪スルガ如シ、二十八日、喪ヲ發シ、明年正月廿三日後月輪山陵ニ葬ル…、」史家湯本文彦が筆を執ったこの『平安通志』の孝明天皇の時代年表はこうである。「天保二年辛卯 六月十四日 皇子統仁生ル、煕宮ト號ス、天保三年壬辰 正月 伊能忠敬全國海岸ヲ實測シ、日本全圖ヲ作ル、十月 (光格)上皇密ニ山科勸修寺ニ幸シ、琉球貢使ノ江戸ニ赴クヲ觀ル、是歳 水戸侯齊昭畝傍山陵修造ノ事ヲ幕府ニ建議ス、天保五年甲午 十二月 朝鮮大ニ飢ウ、且ツ京城火ス、幕府金壹萬兩ヲ宗氏ニ貸シ之ヲ賑ハス、天保六年乙未 六月廿一日 皇子統仁ヲ以テ儲君トシ、九月十八日 親王ト爲ス、天保七年丙申 四月七日 (光格)上皇修學院離宮ニ幸ス、九月 凶荒京都飢ウ、幕府町毎ニ米貳斗五升ヲ賑ハス、九月朔 將軍家齊老シ、世子家慶立ツ、大將軍ニ任ス、時ニ年四十五、十月 幕府再ヒ京都ノ飢ヲ賑ハス、天保八年丁酉 二月 大鹽平八郎亂ヲ大坂ニ爲ス、討シテ之ヲ平ク、市街一万八千餘戸ヲ燒ク、天保九年戌戊 十月 蘭人長崎ニ來リ我漂民ヲ護送ス、天保十年己亥 幕府渡邊華山、高野長英ヲ罪ニ處ス、十二月 (光格)上皇勅シテ修學院離宮ノ止止齋ヲ仙洞ニ移ス、是歳 宇田川榕庵舎密開宗ヲ著ハス、化學此ニ始マル、天保十一年庚子 高島秋帆洋式砲術ヲ行ハン事ヲ幕府ニ建議ス、三月十四日 統仁親王ヲ立テ、皇太子トシ、小御所ヲ修メ假東宮トス、十一月 (光格)上皇仙洞ニ崩ス、年七十、水戸侯齊昭、謚號復古ノ議ヲ上ル、天保十二年辛丑 閏正月廿七日 左近衛大將藤原輔煕等ヲ上皇ノ陵ニ遣シ、謚(おくりな)ヲ上リ光格天皇ト云フ、是月 前大將軍家齊薨(こう)ス、年六十九、文恭院ト謚ス、水野忠邦閣老ト爲リ、大ニ幕政ヲ改革ス、天保十三年壬寅 九月幕府令シテ海防ヲ嚴ニス、十二月 幕府旨ヲ奉シ學館ヲ建春門前ニ興ス、名ヲ學習院ト賜フ、藤原貞善、藤原聰長ヲ以テ頭トシ、公卿ニ命シ就テ學習セシム、弘化元年甲辰 十二月二日 改元 弘化三年丙午 正月廿六日 天皇崩ス、年四十七、仁孝ト謚ス、二十三日 皇太子統仁親王践祚ス、弘化四年丁未 九月廿三日 (孝明)天皇即位ス、嘉永元年戊申 二月廿八日 改元 十二月十六日 藤原夙子ヲ立女御ト爲ス、十二月廿一日 大嘗會ヲ行フ、嘉永二年巳酉 天皇釋莫ヲ小御所ニ行フ、十二月 西洋種痘術ヲ傳フ、嘉永三年庚辰 二月四日 釋莫ヲ學習院ニ行フ、嘉永四年辛亥 三月十五日 和氣淸麻呂ニ正二位ヲ追贈シ、護王社ノ號ヲ賜フ、嘉永五年壬子 七月 洪水、三條五條橋壊ル、八月叉洪水、舟橋ヲ以テ往來ヲ通ス、九月廿二日 皇子降誕、祐宮ト號ス、嘉永六年癸丑 四月 幕府水戸老侯齊昭ヲ隠居セシメ、藤田彪以下ヲ禁錮トス、北亞米加合衆國水師提督彼理、軍艦ヲ將(ひきい)テ浦賀來リ、國書ヲ奉シ交通貿易ヲ求ム、阿部正弘將軍ノ旨ヲ受ケ、水戸侯齊昭ヲ起シ幕議ニ參セシム、七月 將軍家慶薨(こう)ス、謚シテ慎徳院ト曰フ、家定繼ク、七月十七日 露西亞國水師提督軍艦ヲ率ヰテ長崎ニ入リ、國書ヲ奉シ交通互市ヲ求ム、是歳 大ニ海防ヲ嚴ニシ、兵船軍器ヲ備フ、安政元年甲寅 正月十四日 彼理重テ浦賀ニ來ル、三月 米國ト條約ヲ締結ス、皇宮、仙院火ス、天皇、下鴨ニ避ケ聖護院ニ徒御ス、此日午下仙洞ヨリ出火、皇居其他百百九十四町、六千九百九十三戸ヲ燒ク、七月九日 幕府軍制ヲ改メ、日本國旗ヲ日章ト定ム、十一月十八日 小濵、郡山、膳所、淀、高槻諸藩ニ命シ、京都ヲ守衛セシム、十一月廿七日 改元安政二年乙卯 二月 皇居造營ヲ創ム、九月ニ至テ、成ル、十一月廿一日 車駕新宮ニ還御ス、此ヨリ先キ聖護院ヨリ桂宮ニ遷御シ、此ニ及ヒ儀仗ヲ備ヘ新宮ニ還御アリ、民ニ縱觀ヲ許ス、此時町奉行淺野長祚事ヲ監シ、安政内裏造營記ヲ編纂セリ、是レ現在ノ皇居ナリ、安政三年丙辰 幕府露英佛ト假條約ヲ締結ス、安政四年丁巳 幕府林大學頭、津田半三郎ヲ上京セシメ、外交事狀ヲ陳奏ス、朝廷斥ケテ聽カス、安政五年戊午 正月廿二日 幕府堀田正睦ヲ上京セシメ外交事狀ヲ奏ス、公卿多ク攘夷論ヲ主張シ、兵庫開港ヲ許サス、三月廿二日 幕府ニ勅答シテ三家以下諸大名衆議ヲ盡シ上奏セシム、四月廿三日 幕府井伊直弼ヲ以テ大老職トナス、六月廿一日 高松、松江、桑名三侯ヲシテ京師ヲ守ラシム、六月廿四日 水戸、尾張、越前三侯登營シテ、假條約ノ不可ヲ諭シ、併セテ繼嗣ノ事ニ及フ、大老直弼斥ケテ容レス、七月五日 幕府水戸老侯齊昭ヲ幽閉シ、尾張侯慶勝、越前前侯慶永ニ隠居謹慎ヲ命ス、七月四日 將軍家定薨ス、家茂繼ク、將軍薨去ハ三家罪ノ前日ニ在レト、大老秘シテ發セス、八月ニ及テ發表ス、八月八日 内勅ヲ水戸老侯齊昭ニ下ス、朝議幕府ノ非政ヲ憂ヒ、齊昭ニ命シ諸藩ヲ率ヰ將軍ヲ助ケ外侮ヲ禦(ふせ)カシメントスルニ在リ、是月 佛艦三艘品川ニ入リ國書ヲ奉シ、交通貿易ヲ求ム、之ヲ許ス、是秋 虎列刺病大ニ流行シ、死スルモノ數萬人、九月 間部銓勝上京シ、内勅關係ノ者ヲ捕ヘ江戸ニ押送ス、幕府外國奉行五員置ク、十月廿五日 家茂將軍ニ任ス、安政六年己未 二月十八日 青蓮院宮ニ謹慎ヲ命ス、三月十一日 鷹司父子、近衛、三條ノ四公、水戸内勅ニ關センヲ以テ落飾退隠ヲ乞フ、幕府横濵ハ開港塲タルヲ以テ商戸ヲ移シ大ニ市街ヲ經營ス、五月廿八日 米露英佛蘭五國ニ長崎、箱館、横濵ニ於テ、自由貿易ヲ許ス、幕府水戸老侯齊昭ヲ永蟄居トシ、一橋侯慶喜ニ隠居謹慎ヲ命シ、其他死罪流竄禁錮ニ處スルモノ多シ、之ヲ戊午ノ大獄ト云フ、八月 幕府朝廷ニ金五千兩、攝家其他二萬兩、九條關白ニ家禄千石ヲ加フ、萬延元年庚申 三月三日 水戸薩摩脱藩士十七人、大老井伊直弼ヲ櫻田門外ニ斬ル、三月十八日 改元、六月 高松、松江、彦根、郡山、桑名五藩ニ命シテ京師ヲ警衛セシム、淀、高槻、膳所、篠山四藩ニ命シテ四方要口ヲ守ラシム、九月 祐宮ヲ儲君ト爲ス、是歳 水戸藩民兵ヲ起ス、常野亂ル、文久元年辛酉 二月十九日 改元、九月二十日 皇妹和宮、將軍家茂ニ降嫁シ京師ヲ發ス、文久二年壬戌 正月 浮浪ノ士、閣老安藤信正ヲ城下門外ニ傷ク、三月晦 近衛、鷹司二公ノ謹慎ヲ釋ス、四月晦 獅々王院宮ノ永蟄居ヲ釋ス、五月十一日 大原重徳ヲシテ、朝命ヲ幕府ニ下サシム、五月 幕府尾張、水戸、越前、土佐、宇和島諸侯ノ罪ヲ赦シ、閣老安藤氏ヲ免ス、六月廿三日 九條尚忠ノ關白ヲ免シ、近衛忠煕ヲ以テ之ニ代フ、是月 幕府内田垣二郎、榎木釜次郎ヲ和蘭ニ差ハシ、軍艦製造ヲ督シ海軍ノ事ヲ傳習セシム、七月一日 幕府勅令邁奉ノ請書ヲ上ル、七月六日 一橋慶喜ヲ將軍補佐トス、七月九日 越前老侯春嶽ヲ政事總裁職トス、八月廿一日 島津久光ノ從人、英人ヲ生麥村ニ斬ル、閏八月朔 幕府會津侯松平容保ヲ京師守護職トス、閏八月五日 故水戸老侯齊昭ニ從二位大納言ヲ贈ル、幕府諸藩ノ參覲ヲ三年一度滞在百日トシ、其家眷ヲ封地ニ移スヲ許ス、十月三日 三條姉小路兩卿勅旨ヲ奉シテ東下ス、勅旨ハ攘夷期限ヲ定ムルト、親兵ヲ置クノ二件ナリ、十月 正親町三條、中山、大原諸氏時事ヲ建議ス、之ヲ斥ケ、大原氏ヲ幽閉ス、十二月五日 將軍ニ勅使ヲ延見シ、勅旨ヲ奉ス、十一月廿日 幕府井伊、内藤、間部、酒井、堀田、久世、安藤、松平、脇坂、水野諸氏ヲ譴責シ、或ハ其領地ヲ削ル、十一月 故島津侯齊彬ニ從三位中納言ヲ贈ル、品川御殿山英館火アリ、或ハ云フ脱藩ノ諸士之ヲ燒クト、十二月 朝廷參政寄人ヲ置キ國事掛ト號シ、三條實美専ラ其事ヲ督ス、是レ建武ノ中興ノ時ヨリ、五百年ヲ經テ國政管掌ノ官ヲ再興アリシナリ、文久三年癸亥 正月 青蓮院宮復飾、中川宮ト號ス、一橋慶喜松平慶永、將軍ニ先チ入京ス、二月 近衛忠煕ノ關白ヲ免シ、鷹司輔煕ヲ以テ之ニ代フ、二月十九日 英國公使生麥償金ノ事ヲ諭シ、軍艦ヲ以テ幕府ニ逼(せま)ル、江戸戒嚴、三月五日 將軍家茂上洛參内ス、三月十一日 車駕賀茂神社ニ行幸ス、將軍百官諸侯ヲ率ヰテ供奉ス、寛永二條行幸ノ後、二百三十餘年ヲ經テ此ノ行幸ノ儀アリ、三月 將軍上洛京都町人ニ銀五千貫目ヲ頒與ス、三月十九日 十萬石以上諸藩ヲシテ親兵ヲ貢セシメ、三條實美ニ命シ之ヲ督セシム、建武ノ中興ノ後此ニ及ヒ五百十餘年ヲ經テ、朝廷再ヒ親兵アリ、四月十一日 車駕石清水神宮ニ行幸ス、五月九日 閣老小笠原長行英國公使ニ生麥償金卅五萬兩ヲ交附ス、廷議之ヲ非トシ罪ニ處ス、五月十日 長州下關ニ於テ、外國船ヲ砲撃ス、六月九日 將軍家茂遂ニ海路江戸ニ歸ル、七月 英國軍艦鹿児島ニ至リ、生麥償金ヲ求ム、薩人迎戰之ヲ走ラス、八月 幕府供御料十五萬俵ヲ上ル、八月十八日 勅シテ大和行幸ヲ止メ、長兵ノ宿衛ヲ免ス、三條實美等七人長州ニ走ル、勅シテ其官爵ヲ褫(うば)フ、八月十七日 松本奎堂、藤本鐡石等中山侍從ヲ奉シテ兵ヲ大和ニ擧ク、幕府諸藩ニ命シテ之ヲ伐ツ、侍從敗レテ長州ニ走リ、松本藤木等死ス、十月 平野二郎澤宣嘉ヲ奉シ兵ヲ擧ク、幕府伐チ平ク、十二月廿三日 鷹司輔煕關白ヲ辭ス、右大臣二條齊敬之ニ代ル、十二月 瑞士國ト條約ヲ締結ス、元治元年甲子 正月廿一日 將軍三十八諸侯ヲ従ヘ入朝ス、二月十五日 會圖津侯容保ヲ軍事總裁ニ、越前老侯春嶽ヲ京都守護職トス、二月二十日 改元、二月廿五日 一橋慶喜ヲ禁裏御守衛總督攝海防禦指揮トス、四月七日 越前老侯春嶽京都守護職ヲ罷ム、會津侯容保之ニ代ト爲ル、四月廿日 列藩ノ建議ニヨリ、政事一切幕府ニ委任スルノ勅アリ、幕府奏シテ釐革(りかく)スル所多シ、五月二日 將軍江戸ニ還ル、五月晦 武田耕雲齋等兵ヲ擧ケ筑波山ニ據(よ)ル、水戸内勅奉還ノ事ヨリ激セシモノナリ、七月十一日 脱藩士佐久間象山木屋町ニ殺ス、七月十九日 長藩ノ兵闕(けつ)ヲ犯ス、幕府薩會ノ兵防戰之ヲ敗ル、兵燹(へいせん)三日、京師大半焦土トナル、八月 英米佛蘭四國ノ兵、軍艦ヲ率ヰテ長州ニ逼(せま)ル、應戰連日、遂ニ和ヲ講ス、八月八日 幕府征長ノ師ヲ發ス、徳川慶勝ヲ以テ大將ト爲シ、二十三藩ニ命シテ進討セシム、十一月 長藩三宰ヲ誅シ、首ヲ送テ罪ヲ軍門ニ講ス、將軍家茂奏シテ征長ノ師ヲ班(か)ヘス、慶應元年乙丑 正月 長州高杉晋作奇兵隊ヲ募リ藩諭ヲ一定ス、正月十四日 長州ニ在ル三條以下五卿ヲ筑前ニ移ス、二月四日 武田耕雲ノ黨ヲ敦賀ニ斬ル、四月七日 改元、五月十六日 幕府重テ征長ノ師ヲ部署シ、將軍進發ス、九月 横濵在留各國公使、兵庫開港ノ事ヲ幕府ニ逼(せま)ル、十月 將軍辭表ヲ呈シ、軍職ヲ一橋慶喜ニ命セラレンコトヲ請ヒ、併セテ兵庫ノ勅許ヲ乞フ、充(みた)サレス、慶應二年丙寅 六月 白耳義國ト條約ヲ締結ス、八月廿日 將軍家茂大坂ニ薨ス、奏シテ一橋慶喜ヲ繼嗣トス、八月廿五日 勅シテ將軍ノ薨ヲ以テ征長ノ兵ヲ解カシム、此時幕府ノ軍常ニ利アラス、諸藩傍觀大勢已(すで)ニ去リ、慶喜徳川家ヲ繼クトモ未タ軍職ニ任セス、十二月五日 徳川慶喜大將軍ニ任ス、十二月廿五日 天皇痘ヲ患ヒ崩ス、年三十六、慶應三年丁卯 正月九日 天皇践祚、二條齊敬攝政、正月廿七日 孝明天皇ヲ泉山後月輪山陵ニ葬ル、五月廿四日 兵庫開港ヲ許ス、九月四日 丁抹國ト條約ヲ締結ス、九月六日 意多利亞國ト條約ヲ締結ス、十月十四日 將軍徳川慶喜大政返上ヲ請フ、勅シテ將軍慶喜ノ大政返上ヲ允(ゆる)シ、後命ヲ待タシム、十月廿九日 宣明使ヲ遣ハシ大政復古ノ事ヲ月輪山陵告ク、十一月三日 國事掛近衛忠房太政官再興ノ議ヲ上ル、十二月十日 勅シテ攝政、關白、征夷大將軍議奏、傳奏、守護職所司代等ノ職事ヲ廢シ、更ニ總裁、議定、參與ノ三職ヲ置テ、以テ大政ヲ行ハム、十二月十日 大政復古ノ事ヲ公卿ニ告ク、十二月十二日 徳川慶喜二條城ヲ去テ大阪ニ赴ク、十二月廿二日 勅シテ萬機ヲ親裁シ、博(ひろ)ク公議ヲ採ルコトヲ布告ス、大政不振、朝廷式微ヨリ殆ント七八百歳、此ニ至リ朝綱一振、大政復古、天下再ヒ天日ノ光輝ヲ仰クコトヲ得タリ、十二月廿七日 天皇建春門ニ御シ、薩長土肥四藩ノ練兵ヲ觀ル、明治元年戊辰 正月三日 幕府ノ軍京師ヲ犯ス、官軍之ヲ伏見鳥羽ニ破ル、詔シテ嘉彰親王ヲ征討大將軍トナシ、錦旗節刀ヲ賜ヒ之ヲ討ツ、連日交戰皆勝ツ、正月六日 征討大將軍淀城ニ入ル、徳川慶喜海路東走ス、正月七日 詔シテ徳川慶喜ヲ討ス、正月九日 三條實美岩倉具視ヲ副總裁トス、大坂城火ス、正月十日 詔シテ徳川慶喜以下ノ官位ヲ褫(うば)フ、此日大將軍大坂城ニ入ル、正月十五日 天皇元服ヲ加フ、東久世通禧ニ勅シ外國公使ト兵庫ニ會シ、大政復古ノ事ヲ告ケシム、三月十四日 天皇南殿ニ御シ、公卿諸侯ヲ率ヰテ、天神地祇ヲ祭リ、五事ヲ誓約ス、七月十七日 江戸ヲ以テ東京トス、」黒船が来る。隣国などから既に世界情勢を知る藩はあったが、徳川幕府は慌て、朝廷、孝明天皇は異人に拒否反応を示す。が、朝廷の了解なしに大老井伊直弼アメリカと不利な通商条約を結び、天皇を蔑(ないがし)ろにしたとして一部の公家と水戸藩らは攘夷を掲げて幕府に改革を迫り、井伊直弼は討たれる。が、難局に舵を切る力は幕府にも朝廷にもなく、苦し紛れに公武合体の策に出、京都から追い出された攘夷強硬の長州は、徳川から寝返った薩摩と倒幕に傾き、大政奉還をして生き延びようとした徳川慶喜は、戊辰戦争で息の根を止められる。攘夷を譲らなかった孝明天皇は、慕っていたという妹和宮を嫁した徳川家茂の死の四カ月後に世を去り、大政奉還、王政復古と瞬く間に世は移る。この流れの前に置かれた二人の死を、毒殺とする者がいる。孝明天皇の死は天然痘ではなく、筆を舐める癖のあった天皇のその筆の先にヒ素が塗ってあったというのである。後を継いだ明治天皇の即位は、満十四の歳である。北野天満宮は、菅原道真の無念の祟りを惧れ、その霊を祀っている。アメリカ人、異人を懼れ嫌った孝明天皇は、アメリカと戦争をする前の年に神として祀られた。その丹柱の平安神宮を中国からやって来た観光客が手を合わせ、門の前に植えた松の間では親子が凧を揚げ、隣りのグラウンドでは、ばらばらのユニフォームを着た男らがバットで打った球を受け、裏のいまは花のない二つの池のある広い庭を、韓国人の家族が幾人かの日本人に追い越されながら巡り歩く。修学旅行のコースに平安神宮が入っていた。その日は雨で、ビニール傘を手に数人で辿り着いた平安神宮の本殿は、シートに覆われ工事のさ中で、それはその年の正月に起こった左翼の放火による再建工事であるとは誰も知らず、小降りになって閉じた傘の先を後ろに引き摺りながら、無駄足の徒労を地面に刻み、いささかの反抗を示したのである。

 「私はアイスランドにはいったけれど、グリーンランドは知らない。いったことがないのである。ただし、グリーンランドの釣りのことをよく知っているスウェーデン人の釣師にそういう話を耳に吹きこまれてくらくらとなったことがあり、それがどうしたものか話をしているうちにふいに暗部で発芽して、たちまち空までとどく豆の木になってしまったのである。」(「渚にて開高健ロマネ・コンティ一・九三五年』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出の方が確実に実施できる」 政府小委、処理水提言案」(令和2年2月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 浄土宗の開祖法然法然源空の幼名は勢至丸(せいしまる)という。勢至は勢至菩薩の勢至であり、勢至菩薩智慧をもってすべての生きものを救い導く、阿弥陀如来の脇侍であり、阿弥陀如来のもう一方の脇侍は慈悲をもって救う観音菩薩である。法然は建永二年(1207)、七十五歳で後鳥羽上皇から流罪を申し渡される。「後鳥羽院御宇(ぎよう)法然聖人他力本願念仏宗ヲ興行す 于時(ときに)興福寺僧侶敵奏之上御弟子中狼藉子細あるよし 無実風聞によりて罪科に処せらるゝ人数事 一、法然聖人幷(ならびに)御弟子七人流罪 又御弟子四人死罪にをこなはるゝなり 聖人は土佐国番田といふ所へ流罪 罪名藤井元彦男云々生年七十六歳なり 親鸞越後国 罪名藤井善信云々生年三十五歳なり。」(『歎異抄』)旧仏教に成り下がった興福寺法然の教えを目の敵にし、弟子の振る舞いに罪をでっち上げ、法然は藤井元彦と改名させられ島流しにされたと親鸞は云い残した。極楽往生に修行も金もいらない、口に出して念仏を唱えるだけでよい。この法然の教えを止めるのに旧仏教は己(おの)れの教えではなく、上皇の命令を必要とした。それほどに法然の言葉には説得力があり、人が死後にしか希望が抱けない生き世だったのである。法然は五年後京に戻ることを許され、東山大谷に居所(いどころ)を与えられるが、その二か月後に世を去る。その居所だったところが、知恩院の奥まった山裾にある勢至堂である。この堂の上の崖に建つ御廟に登る石段脇に勢至丸の銅像が建っていた。数年前にその写真を撮った記憶があり、そのデジタルデータを探したが、ない。その像を見に行く前に目にしたはずの、その顔を撮ったモノクロ写真が載っていた本も、探せども見つからない。写真を撮ったのが肌寒い曇りの日で、勢至堂に登る石段の白塀の内に柚子のような実がなっていたことも、質の粗い写真のページの紙の手触りも覚えているのに、である。頭の中の記憶は薄れ、あるいは入れ替わるということはある。インターネットで調べれば、知恩院の勢至丸の銅像は二枚出て来る。が、どちらもその背景が違っている。一枚は背後の傍らが坂道になっており、もう一枚はガラス張りの建物で、御廟に登る石段ではない。然(しか)らばと先日、記憶の真偽を確かめるべく勢至堂に至る石段を登った。途中、記憶の通り柚子のような実を幾つもつけた木の枝が白塀から撓んでいる。が、登りきった門の内の勢至堂に、勢至丸の銅像は見当たらなかった。御廟に登る石段の左手に、法然が死の床で書いたという「一枚起請文」が掲げてあるのは記憶の通りである。が、その右手にあったはずの銅像はない。石段を戻り、巡回をしていた警備の者に銅像のありかを訊くと、私は分からない売店ででも訊いてくれ、と応える。そうであれば知恩院の直接の者に訊けば、直ちに「正解」を知ることは出来るのであろう、がこの際は警備の者がそう云うのであればその云いに従い、御影堂の前の売店に入り年配の女店員に訊けば、勢至丸様は和順会館の前に建っていると云う。それはインターネットで見た一枚がその建物の写真であり、境内にはないかといま一度訊いても、ない、幼稚園の中にも勢至丸様はいはりますが、と応える。境内にあったことは一度もないかともう一度訊くと、ありまへん、ときっぱり云うのである。和順会館は山門を出た向かいに建つ、知恩院が経営する宿泊施設である。<せいし丸さま>と台座の正面に刻まれた勢至丸の銅像は、その入り口の横にあった。記憶では、長い髪の先を後ろで束ねた勢至丸はもう少し凛々(りり)しい顔立ちをしていたのであるが、この像はやや思いつめた、思いに沈んでいるような顔をしている。が、この銅像はインターネットで見たもう一枚の写真の銅像と瓜二つであり、台座の<せいし丸さま>の文字も同じである。同じものが境内に二つないとすれば、女店員は記憶違いをしているか、女店員が売店に勤める前に、この銅像は境内の坂の傍らにあったかもしれないということである。その「動かし」がその通りであれば、その「動かし」た理由はともかく、その前に勢至堂からも「動かし」があった可能性がないとは云えないのであるが。法然は九歳の時、父親を殺されているという。法然の母親は、法然が生まれる前に剃刀を呑む夢を見たともいわれている。「抑々(そもそも)上人は、美作国久米の南條稲岡庄の人なり。父は久米の押領使、漆の時国、母は秦氏なり。子なきを嘆て夫婦心をひとつにして佛神に祈申すに、秦氏夢に剃刀を呑むと見てすなはち懐妊す。時国が曰く、「汝がはらめるところ、さだめてこれ男子にして一朝の戒師たるべし」と。秦氏そのこころ柔和にして身に苦痛なし、かたく酒肉五辛をたちて、三宝に帰する心深かりけり。つゐに宗徳院の御宇、長承二年四月七日午の正中に、秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」(『法然上人行状絵図』)この『法然上人行状絵図』よりも前に書かれた『源空上人私日記』は、父親の殺害の前後までのことを簡潔に記している。「夫(そ)れ以(おもんみ)れば、俗姓は美作国庁の官の漆間時国の息なり。同国の久米南條稲岡庄は誕生の地なり。長承二年癸丑聖人始めて胎内を出づる時、両幡天より降る。奇異の瑞相なり。権化の再誕なり。見る者は掌を合はせ、聞く者は耳を驚かす云々。保延七年辛酉春比(ころ)、慈父は夜打のために殺害せられ畢(おわ)んぬ。聖人は生年九歳なり。彼は矮の小箭を以て凶敵の目前を射る。件(くだん)の疵を以てその敵を知る。即ちその庄の預所の明石源内武者なり。ここに因(よ)りて迯(に)げ隠れ畢(おわ)んぬ。その時聖人は同国の菩提寺院の観覚得業の弟子となり給ふ。天養二年乙丑に初めて登山の時、得業観覚の状に云ふ。「大聖文殊像一躰を進上す、観覚、西塔北谷持法房禅下」と。得業の消息を見給ひ奇(あやし)み給ふに小児来たる。聖人は十三歳なり。然(しか)る後十七歳、天台六十巻これを読み始む。久安六年庚午十八歳にして始めて師匠に暇を乞請して遁世す。」法然の死の百年の後に書かれた『法然上人行状絵図』の「秦氏なやむ事なくして男子をうむ。」の続きはこうである。「時にあたりて紫雲天にそびへ、館のうち家の西に、もとふたまたにして、すゑしげく、たかき椋の木あり。白幡二流とびきたりて、その木ずゑにかゝれり。鈴鐸天にひゞき、文彩日にかゞやく。七日を経て天にのぼりてさりぬ。見聞の輩奇異のおもひをなさずといふことなし。これより彼木を、両幡の椋となづく。星霜かさなりて、かたぶきたふれにたれど、異香つねに薫じ、奇瑞たゆることなし。人これをあがめて、佛閣をたてゝ誕生寺と号す。影堂をつくりて念佛を修せしむ。昔応神天皇御誕生の時、八の幡くだる。正見正語の人正道に往したまふしるしなりといへり。いま上人出胎の瑞、ことの儀あひおなじ。さだめてふかきこゝろあるべし。所生の小児、字を勢至丸と号す。竹馬に鞭をあぐるよはひより、その性かしこくして成人のごとし。やゝもすれば、にしの壁にむかひゐるくせあり。天台大師童稚の行状にたがはずなん侍りけり。かの時国は先祖をたづぬるに、仁明天皇の御後西三条右大臣(光公)の後胤、式部大郎源年(みなもとのみのる)、陽明門にして蔵人兼髙を殺す。其科によりて美作国に配流せらる。こゝに当国久米の押領使神戸の太夫漆の元国がむすめに嫁して男子をむましむ。元国男子なかりければ、かの外孫をもちて子として、その跡をつかしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号す。盛行が子重俊、重俊が子国弘、国弘が子時国なり。これによりて、かの時国聊本性に慢ずる心ありて、当庄(稲岡)の預所明石の源内武者定明(伯耆守源長明が嫡男堀河院御在位の時の滝口なり)をあなづりて、執務にしたがはず、面謁せざりければ、定明ふかく遺恨し、保延七年の春時国を夜討にす。この子ときに九歳也。にげかくれてもののひまより見給ふに、定明庭にありて、箭をはぎてたてたりければ、小矢をもちてこれをいる。定明が目のあひだにたちてけり。この疵かくれなくて、事あらはれぬべかりければ、時国が親類のあたを報ぜん事をおそれて定明逐電して、ながく当庄にいらず。それよりこれを小児矢となづく。見聞の諸人感歎せずといふことなし。時国ふかき疵をかうぶりて死門にのぞむとき、九歳の小児にむかいていはく。汝さらに会稽の耻を思ひ、敵人をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ家を出て我菩提をとぶらひみづからの解脱を求めんにはといひて端座して西にむかひ、合掌して佛を念じ眠がごとくして息絶えにけり。」法然の父時国は、息を引き取る前に、自分がこうなったのは前世の報いで、お前がこの復讐をすれば復讐が復讐を呼ぶことになる。お前は仏門に入り、私の菩提を弔い、煩悩を逃れ解脱せよと告げたといい、法然はこの事件を機に九歳で菩提寺に預けられ、十五歳で比叡山に登ったというのである。が、最も早い時期に書かれた法然の高弟勢観房源智の筆になると思われている『法然上人伝記』は、法然の父時国の死は法然が十五歳の時であるとしている。「別伝記に云はく、法然上人は美作州の人なり。姓は漆間氏なり。本国の本師は智鏡房(本は山僧なり) 上人十五歳に師云はく、直人(ただのひと)にあらずと。山に登らんと欲するに、上人の慈父云はく、我に敵あり、登山の後に敵に打たると聞かば後世を訪ふべし云々。即ち十五歳にして登山す。黒谷の慈眼房を師と為して出家受戒す。然(しか)る間に、慈父は敵に打たれ畢(おわ)んぬと云ふ。上人はこの由を聞きて、師に暇(いとま)を乞ひて遁世せむとするに、云はく、遁世の人も無智なるは悪く候なりと。これに依りて談義を三所に始む。謂く、玄義一所、文句一所、止観一所なり。毎日に三所に遇(あ)ふ。これに依りて三ヶ年に六十巻に亘り畢(おわ)んぬ。その後、黒谷の経藏に籠居して一切経を披見す。」法然の父時国は、十五歳で比叡山に登る法然に、自分には敵があって、もし殺されたら弔ってくれと云い、その言葉通りになり、法然は衝撃を受けて比叡山から下りようとするが、師から無智のままの遁世は止めよと断じられ、仏学に励んだというのである。伝記の法然は二人いる。父親を殺されて出家した法然と、当時仏教最上の比叡山に登って間もなく父親を殺され、仏門を捨てて遁世しようとした法然である。和順会館の勢至丸は九歳で父親を殺され、思いつめたような陰りのある顔つきをしている。記憶にある勢至堂にあったはずの勢至丸は、膝を折り合掌をする同じ姿であるが、凛々(りり)しかったのである。が、その前後で撮った写真は残っているにもかかわらず、勢至丸の銅像だけはないのである。記憶と別のところに「正解」はある。が、記憶の中のあの勢至丸の銅像を再び目にすることは、恐らくない。女店員の云った幼稚園は、知恩院が運営する華頂短期大学附属幼稚園で、勢至丸の銅像には記憶にない光背があり、園児はその前を通る行き帰りに、必ず挨拶をしてゆくのだという。

 「一枚起請文。源空述。もろこし我がてうに、もろもろの智者達のさたし申さるゝ、観念の念ニモ非ズ。又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ズ。たゞ往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て、疑なく往生スルゾト思とりテ、申外ニハ別ノ子さい候ハず。但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルゾト思フ内ニ籠リ候也。此外ニをくふかき事を存ぜバ、二尊ノあハれみニハヅレ、本願ニもれ候べし。念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道ノ無ちノともがらニ同(おなじう)しテ、ちしやノふるまいヲせずして、只一かうに念仏すべし。為記以両手印。浄土宗ノ安心起行、此一紙ニ至極せリ。源空が所存、此外ニ全別義を存ゼズ。滅後ノ邪義ヲふせがんが為メニ、所存を記し畢(おわんぬ)。建暦二年正月二十三日 源空。」

 「福島第2原発廃炉に「44年」 東京電力、燃料取り出し22年目」(令和2年1月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 川端茅舎(かわばたぼうしゃ)に、都府楼趾(とふろうし)菜殻焼く灰の降ることよ、の句がある。この都府楼趾は筑紫大宰府の趾のことであるが、その都府楼趾とはだだっ広い叢(くさむら)に礎石の散らばるばかりのところである。京都の南を流れる木津川沿いの加茂甕原(みかのはら)に、かつて恭仁京(くにのみや)があった。第四十五代聖武天皇は大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐に左遷した藤原広嗣に、天平十二年(740)召喚の詔勅を出す。天災・疫病の流行の原因が、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が重用する吉備真備・僧玄昉にあるとして朝廷からの追放を訴えた広嗣の上表を、橘諸兄が謀反と断じたからである。橘諸兄は、天平九年(737)天然痘に罹って死んだ藤原四子に代わって権力の座に就いた皇族である。四子の一人藤原宇合(うまかい)は広嗣の父である。その四子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合、麻呂の父親藤原不比等(ふひと)は、天皇をその頂点に置いた律令国家を揺るがぬものとした豪族であり、その女(むすめ)宮子は文武天皇に嫁した聖武天皇の母親であり、宮子の異母妹光明子聖武天皇の夫人を経た皇后である。従兄弟であり、義理の兄弟でもあった広嗣は、聖武天皇の召喚に従うことなく九月三日北九州で兵を挙げる。聖武天皇は直ちに軍を差し向けるが、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を残し、奈良平城を出、反乱に背を向けるが如くに居場所を次々と移し、十一月反乱は鎮圧され広嗣は殺されるが、聖武天皇は関東を巡って恭仁に留まり、翌天平十三年(741)、ここを大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とし、新京とするのである。「現神吾(あきつかみわご)大君の、天の下八洲(やしま)の中(うち)に、国はしも多くあれども、里はしもさはにあれども、山並みの宣(よろ)しき国と、川並みの立ち合ふ里と、山城の鹿脊山(かせやま)の間に、宮柱太敷(ふとし)き立てて、高知らず布当(ふたぎ)ノ宮は、川近み瀬の音(と)ぞ清き。山近み鳥が音(ね)とよむ。秋されば、山も轟(とど)ろに、さ雄鹿は妻呼びとよめ、春されば、岡べも茂(しじ)に、巌には花咲きををり、あなともし。布当(ふたぎ)ノ原。いと尊(たふと)。大宮処。宣(うべ)しこそ、我(わご)大君は、神のまに聞(きこ)し給(たま)ひて、刺竹(さすたけ)の大宮ここと奠(さだ)めけらしも。」(『万葉集』巻第六、久邇(くに)の新しき宮を讃(ほ)むる歌)地勢に富んだ山城の鹿脊に御所の柱を据えた、そこでは川の瀬音がし、鳥が鳴き交い、雄鹿が雌鹿を呼び、花が咲く神の御心の通りに定めた尊い内裏である、と万葉集に詠まれた新都恭仁京であるが、聖武天皇は翌天平十四年(742)には近江紫香楽(しがらき)に、二年後には摂津難波に、再び紫香楽にと居所を移し、これらの居所は都として建設を進めたにもかかわらず、天平十七年(745)平城京にまた戻ってしまう。この間の『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記載はこうである。「天平十二年(740)八月癸未(二十九日)、大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣、表(へう)を上(たてまつ)りて時政(じせい)の得失を指(しめ)し、天地の災異を陳(の)ぶ。因(より)て僧正玄昉法師、右衛士督(うゑじのかみ)従五位上下道(しもつみち)朝臣真備を除くを以て言(こと)とす。九月丁亥(三日)、広嗣遂に兵(いくさ)を起して反く。十月己卯(二十六日)、大将軍大野朝臣東人らに勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(ことや)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」とのたまふ。壬午(二十九日)、伊勢国行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、山辺(やまのへ)郡竹豁(つけ)村堀越に到りて頓(とど)まり宿る。癸未(三十日)、車駕(きよが、天皇及び天皇の乗る車)、伊勢国名張郡に到りたまふ。十一月甲申の朔(一日)、伊賀郡安保頓宮(あほのかりみや)に到りて宿る。乙酉(二日)、伊勢国壱志郡河口頓宮に到る。これを関宮(せきのみや)と謂ふ。車駕(きよが)、関宮に停りて御(おは)しますこと十箇日。是の月、大将軍東人ら言(まう)さく、「進士(しんじ)无(無)位安倍朝臣黒麻呂、今月廿三丙子(二十三日)を以て逆賊広嗣を肥前国松浦(ひのみちのくちまつら)郡値嘉嶋長野(ちかのしまながの)村に捕獲へき」とまうす。詔(みことのり)して報(こた)へて曰(のたま)はく、「今、十月廿九日の奏(そう)を覧て、逆賊広嗣を捕へ得たることを知りぬ。その罪顕露(あらは)にして疑ふべきに在らじ。法に依りて処決し、然(しか)して後に奏聞すべし」とのたまふ。丁亥(四日)、和遅野(わちの)に遊猲(みかり)したまふ。丁酉(十四日)、進みて鈴鹿郡赤坂頓宮に到る。丙午(二十三日)、赤坂より発ちて朝明(あさけ)郡に到る。戊申(二十五日)、桑名郡石占(いしうら)に至りて頓まり宿る。己酉(二十六日)、美濃国当伎(たぎ)郡に到る。十二月癸丑の朔(一日)、不破郡不破頓宮に到る。甲寅(二日)、官処寺(みやこでら)と曳常泉(ひきつねのいづみ)とに幸(みゆき)したまふ。丙辰(四日)、騎兵司(きひやうし)を解きて京に還し入らしむ。戊午(六日)、不破より発ちて坂田郡横川に至りて頓まり宿る。是の日、右大臣橘宿禰諸兄、在前(さき)に発ち、山背国相楽(さがらか)郡恭仁郷を経略す。遷都を擬(はか)ることを以ての故なり。己未(七日)、横川より発ちて犬上に到りて頓まる。辛酉(九日)、犬上より発ちて蒲生(がもう)郡に到りて宿る。壬戌(十日)、蒲生より発ちて野洲(やす)に到りて頓まり宿る。癸亥(十一日)、野洲より発ちて志賀郡禾津(あはつ)に到りて頓る。乙丑(十三日)、志賀山寺に幸して仏を礼(をろが)みたまふ。丙寅(十四日)、禾津より発ちて山背国相楽郡玉井に到りて頓まり宿る。丁卯(十五日)、皇帝在前(さき)に恭仁宮に幸したまふ。始めて京都(みやこ)を作る。太上天皇・皇后、在後(あと)に至りたまふ。十三年(741)春正月癸未の朔(一日)、天皇(すめらみこと)始めて恭仁宮に御(おは)しまして朝(でう、元日朝賀の儀)を受けたまる。宮の垣就(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。癸巳(十一日)、使(つかひ)を伊勢大神宮と七道の諸社とに遣(つかは)して幣(みてぐら)を奉らしめて、新京(あらたしきみやこ)に遷(うつ)れる状を告す。丁酉(十五日)、故太政大臣藤原朝臣不比等)の家、食封五千戸を返し上(たてまつ)る。三月乙巳(二十四日)、詔(みことのり)して曰(いは)く、「朕(われ)、薄徳を以て忝(かたじけな)くも重き任を承(う)けたまはる。政化(せいくわ)弘まらず、寤寐(ごび、寝ても覚めても)多く慙(は)づ。古(いにしへ)の明主(めいしゆ)は、皆光業(くわうげふ)を能(よ)くしき。国泰(やす)く人楽しび、災除(わざはひのぞこ)り福(さきはい)至りき。何(いか)なる政化を脩(をさ)めてか、能(よ)くこの道に臻(いた)らむ。頃者(このころ)、年穀(ねんこく)豊かならず、疫癘(えきれい)頻(しき)りに至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯労(いたつ)きて己(おのれ)を罪(つみな)へり。是を以て、広く蒼生の為に遍(あまね)く景福(けいふく)を求めむ。故に、前年(さきのとし)、に使(つかひ)を馳(は)せて、天下(あめのした)の神宮(かみのみや)を増し飾りき。去歳(こぞ)は普(あまね)く天下(あめのした)をして、釈迦牟尼仏尊像の高さ一丈六尺なる各々(おのおの)一鋪(いちほ)を造らしめ、并(あは)せて大般若経各々(おのおの)一部を写さしめたり。今春(このはる)より已来(このかた)、秋稼(あきのみのり)に至るまで、風雨順序(をりにしたが)ひ、五穀豊かに穣(みの)らむ。此れ乃(すなは)ち、誠を徴(あらは)して願を啓(ひら)くこと、霊貺(れいくゐやう)答ふるが如し。載(すなは)ち惶(おそ)れ載(すなは)ち懼(お)ぢて、自ら寧(やす)きこと無し。恭敬供養し、流通(るつう)せむときには、我ら四王(四天王)、常に来りて擁護(おうご)せむ。一切の災障も皆消殄(せうてん)せしめむ。憂愁・疾疫をも亦(また)除差せしめむ。所願心に遂げて、恒に歓喜を生ぜしめむ」といへり。天下(あめのした)の諸国をして各々(おのおの)七重塔一区を敬ひ造らしめ、并(あは)せて金光明最勝王経・妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕(われ)また別に擬(はか)りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎(たふごと)に各々(おのおの)一部を置かしめむ。冀(ねが)はくは、聖法(しやうほふ、仏法)の盛(さかり)、天地(あめつち)と与(とも)に永く流(つたは)り、擁護の恩(めぐみ)、幽明(いうみやう、来世と現世)を被(かがふ)りて恒に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華(こくくゑ)とせむ。必ず好き処を択(えら)ひて、実(まこと)に久しく長かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆(もろもろ)を労(わづら)はして帰集することを欲(ねが)はず。国司等(ども)、各々(おのおの)務めて厳飾を存(たも)ち、兼ねて潔清を尽くすべし。近く諸天(しよてん、仏法を擁護する神々)に感(かま)け、臨護を庶幾(ねが)ふ。遐邇(かじ、遠近)に布(ふ)れ告げて、朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ。また毎国(くにごと)の僧寺(ほふしでら)に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺(ほふしでら)は、必ず廿(二十)僧有らしめよ。その寺の名は、金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。その名は法華滅罪之寺とせよ。両寺(ふたつのてら)は相去りて(離れて)、教戒を受くべし。若(も)し闕(か)くること有らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月(つきごと)の八日、に必ず最勝王経を転読すべし。月の半ばに至る毎に戒羯磨(かいかつま、菩提戒羯磨文一巻)を誦(じゅ)せよ。毎月(つきごと)の六歳日(ろくさいにち)には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。国司等(ども)、恒に検校(けんけう、寺社の監督職)を加ふべし」とのたまふ。七月戊午(十日)、太上天皇(元正)、新京(あらたしきみや)に移り御(おは)します。天皇(すめらみこと)河頭(かはぎし)に迎へ奉る。八月丙午(二十八日)、平城の二市を恭仁京(くにのみやこ)に遷(うつ)す。九月己未(十二日)、賀世山(鹿脊山)の西の路より東を左京とし、西を右京とす。丁丑(三十日)、宇治と山科とに行幸(みゆき)したまふ。冬十月己卯(二日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。十一月戊辰(二十一日)、右大臣橘宿禰諸兄奏(まう)さく、「此間(ここ)の朝廷(みかど)、何(いか)なる名号(な)を以てか万代(よろづよ)に伝へむ」とまうす。天皇(すめらみこと)勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「号(なづ)けて、大養徳恭仁大宮(やまとくにのおほみや)とす」とのたまふ。十四年(742)八月癸未(十一日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)、近江(ちかつあふみ)国甲賀(かふか)郡紫香楽(しがらき)村に行幸(みゆき)せむ」とのたまふ。即(すなは)ち、造宮卿(ざうぐきやう)正四位下智努王(ちののおほきみ)、輔外従五位下高岡連河内(かふち)ら四人を造離宮司とす。甲申(十二日)、車駕(きよが)、石原宮に幸(みゆき)したまふ。己亥(二十七日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。九月壬寅の朔(一日)、刺松原(さすのまつばら)に幸(みゆき)したまふ。乙巳(四日)、車駕(きよが)、恭仁宮に還(かへ)りたまふ。癸丑(十二日)、大風ふき雨ふる。宮中(うち)の屋墻(やかき)と百姓の廬舎(いほや)とを壊(こぼ)つ。十二月丁亥(十六日)、地震(なゐ)ふる。庚子(二十九日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。十五年(743)春正月辛丑の朔、右大臣橘宿禰諸兄を遣(つかは)して在前(さき)に恭仁宮に還(かへ)らしむ。壬寅(一日)、車駕(きよが)、紫香楽より至りたまふ。夏四月壬甲(三日)、紫香楽行幸(みゆき)したまふ。乙酉(十六日)、車駕(きよが)、宮に還(かへ)りたまふ。五月乙丑(二十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「如聞(きくな)らく、「墾田(こんでん)は養老七年の格(きやく)に依り、限満つる後は例(ためし)に依りて収受す。是に由(よ)りて農夫怠り倦(う)みて地を開きし後荒(すさ)みぬ」ときく。今より以後(のち)、任(ほしきまにまに)私(わたくし)の財(たから)として、三世一身を論(あげつら)ふこと無く、咸悉(ことごと)く永年に取ること莫(なか)れ。親王の一品と一位とには五百町、二品と二位とには四百町、三品・四品と三位とには三百町、四位には二百町、五位には百町、六位已下八位上には五十町、初已下庶人に至るまでには十町。但し郡司は大領・少領に三十町、主政・主帳に十町。若(も)し先より給(たま)ひし地茲(ちこ)の限に過多すること有らば、便即(すなはち)公に還(かへ)し、姧昨(けんさ)隠欺(おむこ)は罪を科(おほ)すこと法(のり)の如し。国司任に在る日は、墾田一(もは)ら前(さき)に格(きやく)に依れ」とのたまふ。七月癸亥(二十六日)、紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。冬十月辛巳(十五日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ)薄徳を以て恭(ゐやゐや)しく大位(たいゐ、天皇の位)を承(う)け、志兼済に存して勤めて人物を撫(な)づ。率土(そつと)の浜已(すで)に仁恕(じんしよ)に霑(うるほ)ふと雖(いへど)も、普天の下法恩洽(あまね)くあらず。誠に三宝の威霊に頼りて乾坤相ひ泰(ゆた)かにし、万代(ばんだい)の福業を脩(おさ)めて動植咸(ことごと)く栄むとす。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏の金銅像一軀(たい)を造り奉る。国の銅(あかがね)を尽して象(かたち)を鎔(い)、大山を削りて堂を構へ、広く法界に及(およぼ)して朕(わ)が智識とす。遂に同じく利益(りやく)を蒙(かがふ)りて共に菩提致さしめむ。夫(そ)れ、天下(あめのした)の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天下(あめのした)の勢を有(たも)つは朕(われ)なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らしむ。事成り易(やす)く、心至り難し。但(ただ)恐るらくは、徒(ただ)に人を労すことのみ有りて能(よ)く聖に感(かま)くること無く、或(ある)は誹謗(ひぼう)を生(おこ)して反(かへ)りて罪辜(ざいこ)に堕(おと)さむことを。是(こ)の故に智識に預かる者(ひと)は懇(ねもころ)に至れる誠を発(おこ)し、各(おのおの)介(おほき)なる福(さきはひ)を招きて、日毎(ひごと)に三たび盧舎那仏を拝むべし。自ら念(おもひ)を存して各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如(も)し更(さら)に人有りて一枝の草一把の土(ひぢ)を持ちて像を助け造らむと情(こころ)に願はば、恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)せ。国郡の司、この事に因(よ)りて百姓を侵し擾(みだ)し、強(し)ひて収(をさ)め斂(あつ)めしむること莫(なか)れ。遐邇(かじ、遠近、国の至る所)に布(ふ)れ告(つ)げて朕(わ)が意(こころ)を知らしめよ」とのたまふ。乙酉(十九日)、皇帝紫香楽宮に御(おは)しまして、盧舎那仏の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是(ここ)に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶(もろもろ)を勧め誘(みちび)く。十一月丁酉(二日)、天皇(すめらみこと)、恭仁宮に還りたまふ。車駕(きよが)紫香楽宮に留連すること凡(おほよ)そ四月なり。十二月己丑(二十四日)、始めて平城(なら)の器仗(きぢやう、武器)を運びて、恭仁宮に収め置く。辛卯(二十六日)、初めて平城の大極殿を并(あは)せて歩廊を壊(こほ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。十六年閏正月乙丑の朔(一日)詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。是(ここ)に、恭仁宮の便宜を陳(のぶ)る者(ひと)、五位已(い)上廿(二十)四人、六位已下百五十七人なり。難波宮の便宜を陳ぶる者(ひと)、五位已上廿三人、六位已下一百卅(さんじゅう)人なり。戊辰(四日)、従三位巨勢朝臣奈弓麻呂(なでまろ)、従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣(つかは)し、市(いち)に就きて京を定むる事を問はしむ。市の人皆恭仁京を都とせむことを願ふ。但し、難波を願ふ者(ひと)一人、平城(なら)を願ふ者(ひと)一人有り。乙亥(十一日)、天皇(すめらみこと)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。是(こ)の日、安積親王(あさかのみこ、聖武天皇の皇子、母県犬養広刀自)、脚の病に縁(よ)りて桜井頓宮(さくらゐのかりみや)より還(かへ)る。丁丑(十三日)、薨(こう)しぬ。時に年十七。二月乙未(朔日、一日)、少納言従五位上茨田王(まむたのおほきみ)を恭仁宮に遣して、駅鈴(やくりやう)・内外(ないぐゑ)の印(おして)を取らしむ。また諸司と朝集使(でうじふし)らとを難波宮に遣る。丙申(二日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弓麻呂、留守(るしゆ)の官(つかさ)に給(たま)へる鈴・印(おして)を持ちて難波宮に詣(いた)る。甲辰(十日)、和泉宮に幸(みゆき)したまふ。丁未(十三日)、車駕(きよが)、和泉宮より至りたまふ。甲寅(二十日)、恭仁宮の高御座(たかみくら)并(あは)せて大楯を難波宮に運ぶ。また使(つかひ)を遣(つかは)して水路を取りて兵庫(武器庫)の器仗(きぢやう)を運び漕がしむ。乙卯(二十一日)、恭仁京の百姓(はくせい)の難波宮に遷(うつ)らむと情(こころ)に願ふ者(ひと)は恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)す。丙辰(二十二日)、安曇江に幸(みゆき)して、松林を遊覧したまふ。戊午(二十四日)、三嶋路を取りて紫香楽宮行幸(みゆき)したまふ。太上天皇(元正)と左大臣宿禰諸兄とは留まりて難波宮に在り。庚申(二十六日)、左大臣勅(みことのり)を宣(の)りて云(のたま)はく、「今、難波宮を以て皇都(みやこ)とす。この状を知りて京戸(きょうこ)の百姓意(こころ)の任(まま)に往来すべし」とのたまふ。三月甲戌(十一日)、石上・榎井の二氏、大き楯・槍(ほこ)を難波宮の中と外との門(みかど)に樹(た)つ。丁丑(十四日)、金光明寺大般若経を運びて紫香楽宮に致す。夏四月丙午(十三日)、紫香楽宮の西北の山に火あり。城下の男女数千餘人皆趣(おもぶ)き山を伐(う)つ。然(しか)して後に火滅(き)えぬ。天皇(すめらみこと)これを嘉(よみ)して布を賜(たま)ふこと人ごとに一端。己已(八日)、車駕(きよが)、難波宮に還りたまふ。十一月壬申(十三日)、甲賀寺に始めて盧舎那仏の像の体骨柱を建つ。天皇(すめらみこと)、親(みづか)ら臨(のぞ)みて手(てづか)らその縄を引きたまふ。十七年春正月己未の朔(一日)、朝(朝賀の儀)を廃(や)む。乍(たちま)ちに新京(あらたしきみやこ、紫香楽宮)に還り、山を伐り地を開きて、以て宮室(きうしつ)を造る。垣墻(みかき)未だ成(な)らず、繞(めぐら)すに帷帳(ゐちやう)を以てす。兵部卿従四位上大伴宿禰牛養、衛門督従四位下佐伯宿禰常人をして大きなる楯・槍を樹(た)てしむ。己卯(二十一日)、詔(みことのり)ありて、行基法師を大僧正としたまふ。夏四月戊子の朔(一日)、市の西の山に火あり。庚寅(三日)、寺(甲賀寺)の東の山に火あり。乙未(八日)、伊賀国真木山に火あり。三四日滅(き)えずして、延び焼くこと数百餘町。即ち、山背(やましろ)・伊賀・近江(ちかつあふみ)等の国に仰せてこれを撲(う)ち滅(け)たしむ。戊戌(十一日)、宮城の東の山に火あり。連日(ひつづ)きて滅(き)えず。是(ここ)に、都下(みやこ)の男女、競ひ往きて川に臨みて物を埋(う)む。天皇(すめらみこと)、駕(が)を備(まう)けて大丘野の幸(みゆき)したまはむとす。庚子(二十三日)、夜、微雨(こさめ)ふりて火乃(すなは)ち滅(き)え止む。甲寅(二十七日)、是(こ)の日、通夜(よもすがら)、地震(なゐ)ふる。五月戊午の朔(一日)、地震(なゐ)ふる。已未(二日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の日、太政官、諸司の官人等(くわんにんども)を召して、何(いづれ)の処(ところ)を以て京とすべきか問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。庚申(三日)地震(なゐ)ふる。造宮輔従四位下秦嶋麻呂を遣(つかは)して恭仁宮を掃除(はらひきよ)めしむ。辛酉(四日)、地震(なゐ)ふる。大膳大夫正四位下栗栖王を平城(なら)の薬師寺に遣(つかは)して、四大寺(大安・薬師・元興・興福)の衆僧を請(こ)ひ集(つど)へしめ、何(いづれ)の処(ところ)を以て京(みやこ)とすべきかを問はしむ。僉(みな)曰(まう)さく、「平城(なら)を以て都とすべし」とまうす。壬戌(五日)、地震(なゐ)ふる。日夜止まず。是(こ)の日、車駕(きよが)、恭仁宮に還りたまふ。癸亥(六日)、地震(なゐ)ふる。車駕(きよが)、恭仁宮の泉橋に到りたまふ。時に百姓、遥かに車駕(きよが)を望みて、道の左に拝謁(をが)み、共に万歳を称(とな)ふ。是(こ)の日、恭仁宮に到りたまふ。甲子(七日)、地震(なゐ)ふる。右大弁従四位下朝臣飯麻呂を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)を掃除(はらひきよ)めしむ。乙丑(八日)、地震(なゐ)ふる。四月より雨ふらず。種藝(ううるわざ)を得ず、因(より)て幣(みてぐら)を諸国の神社(かむやしろ)に奉(たてまつ)りて雨を祈(こ)ふ。丙寅(九日)、地震(なゐ)ふる。近江(ちかつあふみ)の国民(くにのたみ)一千人を発(いだ)して、甲賀宮の辺の山の火を滅(け)たしむ。丁卯(十日)、地震(なゐ)ふる。大般若経平城宮(ならのみや)に読ましむ。是(こ)の日、恭仁京の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接(あひつ)ぎて絶ゆること无(な、無)し。戊辰(十一日)、幣帛(みてぐら)を諸(もろもろ)の陵(みささぎ)に奉(たてまつ)る。是(こ)の時に甲賀宮(かふかのみや、紫香楽宮)空しくして人无(な)し。盗賊充ち斥(み)ちて、火も亦(また)滅(き)えず。仍(より)て諸司と衛門の衛士らとを遣(つかは)して、官物(くわんもち)を収めしむ。是(こ)の日、平城(なら)へ行幸(みゆき)したまひ、中宮院を御在所とす。旧(もと)の皇后(おほきさき)のを宮寺(みやてら)とす。癸酉(十六日)、地震(なゐ)ふる。乙亥(十八日)、地震(なゐ)ふる。是(こ)の月、地震(なゐ)ふること、常に異なり。往往(しばしば)坼(ひら)き裂けて水泉(いづみ)湧き出づ。六月庚子(十四日)、是(こ)の日、宮門(きうもん、平城宮の門)の大楯(おほきたて)を樹(た)つ。秋七月庚申(五日)、使(つかひ)を遣(つかは)して雨を祈(こ)はしむ。壬申(十七日)、地震(なゐ)ふる。癸酉(十八日)、地震(なゐ)ふる。八月己酉(二十四日)、地震(なゐ)ふる。癸丑(二十八日)、難波宮行幸(みゆき)したまふ。甲寅(二十九日)、地震(なゐ)ふる。九月丙辰(二日)、地震(なゐ)ふる。己已(十五日)、三年の内、天下(あめのした)に一切の宍(しし、生獣)を殺すことを禁断す。辛未(十七日)、勅(みことのり)したまはく、「朕(われ)、頃者(このころ)、枕席(しむせき、体調)安からず、稍(やや)く旬日に延(ひ)く。以為(おもひみ)るに、治道失有りて、民多く罪に罹(かか)るにあらむ。天下(あめのした)に大赦(たいしや)すべし。常赦の免(ゆる)さぬ所も咸(ことごと)く赦除(ゆる)せ。その年八十以上と、鰥寡惸独(くわんくわけいどく、妻夫父子の無い者)と并(あは)せて疹疾(しんしつ)の徒(ともがら)との自存(じぞん)すること能(あた)はぬ者(ひと)には、量(はか)りて賑恤(しんじゆつ、困窮者の金品支援)を加へよ」とのたまふ。癸酉(十九日)、天皇(すめらみこと)、不豫(みやまひ、病気)したまふ。平城(なら)・恭仁の留守に勅(みことのり)ありて、宮中(みやのうち)を固く守らしめたまふ。悉(ことごと)く孫王等(そんわうたち、天武ないし天智の孫王)を追(め)して難波宮に詣(いた)らしむ。使を遣(つかは)して、平城宮(ならのみや)の鈴・印(おして)を取らしむ。また、京師・畿内の諸寺と諸(もろもろ)の名山・浄処とをして薬師悔過の法を行はしむ。幣(みてぐら)を奉(たてまつ)りて賀茂・松尾(まつのを)等の神社(かむやしろ)を祈(ね)ぎ禱(の)む。諸国をして有(も)てる鷹・鵜を並(ならび)に放ち去らしむ。三千八百人を度して出家せしむ。己卯(二十五日)、車駕(きよが)、平城(なら)に還りたまふ。是(こ)の夕、宮池駅(みやいけのうまや)に宿(やど)りたまふ。庚辰(二十六日)、平城宮(ならのみや)に至りたまふ。十二月戊戌(十五日)、恭仁宮の兵器(つはもの)を平城(なら)に運ぶ。」僅(わず)か五年の内に都を三度奠(さだ)め、そのどれも形が整わぬまま打ち捨ててしまったことに理由がないわけがない、が『続日本紀』にその理由は一言も記されていない。聖武天皇が首(おびと)の名だった七歳の時、父の第四十二代文武天皇が死去する。位を継いだのは、第三十八代天智天皇の皇女であり、天智天皇の弟第四十代天武天皇とその次を継いだ第四十一代持統天皇との間に生まれた草壁皇子に嫁して文武天皇を産んだ元明天皇であり、その次を継いだのは文武天皇の姉の元正天皇であり、皇太子首(おびと)ではなかった。「因(より)てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よはい)幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷髙内親王(ひたかのひめのみこ、文武天皇の姉)は、早く祥符(しやうふ、天の授けるよいしるし)に叶ひ、夙(つと)に徳音(とくいむ、よい評判)を彰(あらは)せり。天の縦(ゆる)せる寛仁、沈静婉變(ちむせいゑんれん、もの静かで美しい)にして、華夏載せ佇(とま)り、謳訟(おうしよう)帰(おもむ)く(国中が推載し徳をたたえる)ところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉(ことごと)く祇(つつし)みて、朕(わ)が意(こころ)に称(かな)ふべし。」(『続日本紀』巻第六)この時十五歳だった首(おびと)皇太子は、まだその位に値する人物ではないと判断されたのである。首(おびと)皇太子が第四十五代聖武天皇となるのは神亀元年(724)、二十四歳の時である。神亀四年(727)九月二十九日、藤原安宿媛(あすかべひめ、光明子)との間に皇子基王が生まれるが、翌神亀五年(728)九月十三日、満一歳の日を待たずに亡くなってしまう。「天平元年(729)二月辛未(十日)、左京の人従七位下漆部(ぬりべ)造君足、無位中臣宮処連東人ら密(ひそかこと)を告げて称(まう)さく、「左大臣正二位長屋王(ながやのおほきみ)私(ひそ)かに左道を学びて国家を傾けむと欲(す)」とまうす。━━長屋王の宅(いへ)に就きてその罪を窮問せしむ。癸酉(十二日)、王をして自ら尽(し)なしむ。」(『続日本紀』巻第十)天智天皇の孫に当たる左大臣長屋王が、国家体制に反する思想を持ち、その思想を以て皇子基王を呪い殺したとされ、長屋王は自害し、聖武天皇に以後皇子が生まれなければ次の皇太子天皇の可能性のあった長屋王の子らも自害する。「天平元年(729)八月戊辰(十日)、詔(みことのり)して正三位藤原夫人を立てて皇后としたまふ。」(『続日本紀』巻第十)「天平六年(734)戊申(十七日)、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「地震(なゐ)ふる災は、恐るらくは政事(まつりごと)に闕(か)けたること有るに由(よ)らむ。凡(おほよ)そ厥(そ)の庶(もろもろ)の寮(つかさ)、勉めて職(しき)を理(をさ)め事を理(をさ)めよ。今より以後(のち)、若(も)し改め励まずば、その状迹(ありさま)に随ひて必ず貶黜(しりぞ)けむ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十一)「天平七年(735)、是(こ)の歳、年(今年の穀物)頗(すこぶ)る稔らず。夏より冬に至るまで、天下(あめのした)、豌豆瘡(わんとうさう、天然痘)俗に裳瘡(もがき)と曰ふ、を患(や)む。夭(わか)くして死ぬる者(ひと)多し。」(『続日本紀』巻第十二)天平九年(737)、この天然痘に罹(かか)って藤原四子が死亡し、この年の詰まった十二月丙寅(二十七日)、不可思議な奇跡が起こる。「丙寅(二十七日)、大倭(やまと)国を改めて、大養徳(やまと)国とす。是(こ)の日、皇太夫人(くわうたいぶにん)藤原氏(宮子、聖武天皇の母)、皇后宮に就きて、僧正玄昉法師を見る。天皇(すめらみこと)も亦(また)、皇后宮に幸(みゆき)したまふ。皇太夫人、幽憂に沈み久しく人事を廃(や)むるが為に、天皇(すめらみこと)を誕(あ)れましてより曾(かつ)て相見(あひまみ)えず。法師一たび看(み)て慧然(けいぜん)として開晤(かいご、精神が正常に戻る)す。是(ここ)に至りて適(たまたま)天皇(すめらみこと)と相見(あひまみ)えたり。天下(あめのした)、慶(よろこ)び賀(ことほ)がぬは莫(な)し。」(『続日本紀』巻十二)皇子首(おびと)を産んでから精神を病み、三十七年間会うことがなかった母藤原宮子が、玄昉の祈禱を受けると忽(たちま)ちに覚醒し聖武天皇との対面を果たしたというのである。が、この話には裏があるという。「文武天皇元年(697)、八月癸未(二十日)、藤原朝臣宮子娘(みやこのいらつめ)を夫人(ぶにん)とし、紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)・石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)を妃(ひ)とす。」(『続日本紀』巻第一)この藤原朝臣宮子、藤原不比等の娘が、云われているところの賀茂比売(かものひめ)が母ではなく、紀州九海士の浦の海人(あま)の娘を不比等が養子にした上で、文武天皇に嫁したとするのが梅原猛の云いで、藤原四子の死で宮子の「禁」が解け対面が叶ったというのである。皇統でない藤原不比等の娘は法律の上で皇后になることは出来ない。が、たとえ養子であっても子を嫁がせて天皇と関係をつけなければならないというのが不比等の思いであり、県犬養三千代との間の実子安宿媛(あすかべひめ、光明子)を文武天皇の皇子聖武天皇夫人としたのは、なりふり構わぬ不比等の執着である。が、己(おの)れの母も夫人である光明子も皇統でないことに、不比等による雁字搦(がんじがら)めに聖武天皇が思うところが何もなかったとは思えない。「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往(ゆ)かむ。その時に非ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」(『続日本紀』巻第十三)藤原広嗣の反乱に決着のつく前に、聖武天皇は関の東の伊勢神宮に向かう。この道筋が天智天皇の子大友皇子天皇の座を争った壬申の乱天智天皇の弟大海人皇子聖武天皇の曽祖父、天武天皇)の通った道筋とも重なるといい、恭仁の地が、紫香楽に建てることになる盧舎那仏のための資材荷揚げの中継地の役割りがあったのであれば、熱心な仏教信者であった聖武天皇は大仏を、国の命あるいは己(おの)れの力財力ではなく、知識と呼ばれた民衆信徒の意思で建てるという志を以て、その布教活動をかつては法で弾圧していた僧行基(ぎょうき)を招き入れ、その任に当たらせ、紫香楽により近い恭仁に都を移したとことは、自らも知識という信徒の一人であるという証(あかし)を示し、後のちの紫香楽京への筋の通し方であり、このことはそのまま藤原家支配の平城京から一刻も早く抜け出したいという意思、「意(おも)ふ所」にほかならない。が、「天平十五年(743)十二月辛卯(二十六日)、初めて平城(なら)の大極殿并(あは)せて歩廊(ふろう)を壊(こぼ)ちて恭仁宮に遷(うつ)し造ること四年にして、茲(ここ)にその功(わざ)纔(わづ)かに畢(をは)りぬ。用度の費(つひや)さるること勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。是(ここ)に至りて更に紫香楽宮を造る。仍(より)て恭仁宮の造作を停(とど)む。」(『続日本紀』巻第十五)と筋が至り、「天平十六年(744)閏正月乙丑の朔(ついたち)、詔(みことのり)して百官を朝堂に喚(め)し会(つど)へ、問ひて曰(のたま)はく、「恭仁・難波の二京、何(いづれ)をか定めて都とせむ。各(おのおの)その志を言(まう)せ」とのたまふ。」(『続日本紀』巻十五)と、その先の聖武天皇が思い描いていたであろう道筋が歩みを止める。自ら止めたのではなく、恐らくはその道筋を心良く思わぬ者らが止めさせたのである。が、聖武天皇は平城へは戻らず、反対勢力に逆らうが如くに難波に京を遷(うつ)し、その翌年には新京紫香楽に遷(うつ)っていく。が、その紫香楽で火災が相次ぐ。この火災を放火と疑えば、聖武天皇の心はいよいよ尋常であるはずはなく、「天平十七年(745)五月己未(二日)、太政官、諸司の官人等(ども)を召(め)して、何(いづれ)の処を以て京(みやこ)とすべきかを問ふ。皆言(まう)さく、「平城(なら)に都すべし」とまうす。」と朝廷の役人らにその意思を示されれば、聖武天皇は思い描いた雁字搦めの平城京脱出から紫香楽での大仏建立までの筋書きを事ここに至って終えざるを得なかったのである。が、大仏は建った。東大寺盧舎那仏である。この寺の元(もと)いは、聖武天皇光明子との間に生まれ、一歳足らずで亡くなった唯一の皇子基王菩提寺若草山の麓にあった金鍾寺(こんしゅうじ)である。『続日本紀』の巻第二十二にこのような記述がある。「天平宝字四年(760)六月乙丑(七日)、天平応真仁正皇太后(てんひやうおうしんにんしやうくわうたいごう、光明皇太后)崩(かむあが)りましぬ。姓は藤原氏。近江朝(あふみのみかど、天智の朝廷)の大織冠内大臣鎌足の孫、平城朝(ならのみかど)の贈(ぞう)正一位太政大臣不比等の女(むすめ)なり。母を贈(ぞう)正一位県犬養橘(あがたいぬかひのたちばな)宿禰三千代と曰(い)ふ。皇太后、幼くして聡慧にして、早く声誉(せいよ)を播(し)けり。勝宝感神聖武皇帝儲弐(ちよじ)とありし日、納(い)れて妃(ひ)としたまふ。時に年十六。衆御(しゆうぎょ、多くの人)を接引(せふいん)して、皆、その歓(よろこび)を尽し、雅(まさ)しく礼訓に閑(なら)ひ、敦(あつ)く仏道を崇(あが)む。神亀元年聖武皇帝位に即(つ)きたまひて、正一位を授(さづ)け、大夫人(だいぶにん)としたまふ。高野天皇(たかののすめらみこと、孝謙)と皇太子を生む。その皇太子は、誕(うま)れて三月にして、立ちて皇太子と為る。神亀五年、夭(いのちみじか)くして薨(こう)しき。時に年二。天平元年、大夫人(たいぶにん)を尊びて皇后とす。湯沐(たうもく、食封)の外、更に別封一千戸と、高野天皇(たかののすめらみこと)の東宮に封一千戸とを加ふ。太后、仁慈にして、志、物を救ふに在り。東大寺と天下(あめのした)の国分寺とを創建するは、本(もと)、太后の勧めし所なり。また悲田・施薬の両院を設けて、天下(あめのした)の飢ゑ病める徒(ともがら)を療(いや)し養(ひた)す。」東大寺の大仏と国分寺の創建のそもそもの発想は光明子であったという。そうであれば聖武天皇はこの大仏建立を己(おの)れの信心からではなく、平城京出の理由に仕立て上げたのかもしれぬということである。「天平十八年(746)九月戊寅(二十九日)、恭仁宮の大極殿国分寺に施入す。」(『続日本紀』巻十六)木津川市加茂に恭仁宮跡並びに山城国分寺跡の碑が立つ場所がある。恭仁小学校裏の石垣の上の原っぱが大極殿、金堂の跡であり、その東側の広い原っぱにある幾つかの礎石が国分寺七重塔の跡である。そのぐるりは景観保存のために田圃や畑のままにしてある。三方は山である。「天平十七年(745)五月丁卯(十日)、是(こ)の日、恭仁宮の市人、平城(なら)に徒(うつ)る。暁夜(あかときよ)も争ひ行き、相接ぎて絶ゆること无(無)し。」京(みやこ)が平城に戻ることが決まると、東西の市の住人は夜が明けるのも待たずに、先を争うように恭仁宮から出て行った。翌年ここを国分寺としても、人が住み栄える場所にはならなかった。聖武天皇は四十八歳で長女の孝謙天皇に譲位し、孝謙天皇天武天皇の孫である淳仁天皇に譲位した後、天皇にふさわしくないとして位から下ろし、再び称徳天皇として位に就き、己(おの)れの病を治した僧弓削道鏡を法王とし、天皇の位を譲るまでの思いに至るのであるが、その思いは潰(つい)え、孝謙天皇の異母妹井上内親王を妻とした天智天皇の孫の光仁天皇が後を継ぎ、第五十代桓武天皇平安京に遷(うつ)した頃は、すでに恭仁京は忘れられた都であったに違いない。桓武天皇が奈良仏教と決別するために平城京を見捨て遷(うつ)った平安京は、千二百年天皇の住む都であり続けた。血が継がれゆく天皇に統治能力があるとは限らない。藤原不比等はそれを不問に己(おの)れ一族で維持する権力体制を築き上げた。聖武天皇は藤原一族の傍らで生まれ育ち、夫人光明子は幼馴染である。藤原不比等の意思が反映されているともいわれている『日本書紀』は、天皇はこの世を作った神々の裔(すえ)であるとされているが、この世で息する者として己(おの)れの立場を改めて思わざるを得なくなった時、聖武天皇は、「朕(われ)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月(このつき)の末、暫(しまら)く関東(せきのひむかし)に往かむ。その時に非(あら)ずと雖(いへど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず。」と言葉を吐き、その「暫く」は五年に及んだ。疫病の流行や広嗣の反乱に惧(おそ)れをなしたのであれば、それが沈静すれば戻ればいいのであるが、伊勢神宮参拝の後も戻らず、国の悪状況を変えるため都を遷(うつ)し、あるいは紫香楽を仏都にする考えを持っていたのであれば、あらかじめ理由を明らかにしないのは不可思議である。都を遷(うつ)すには莫大な金がかかる。そのための綿密な計画がいる。聖武天皇の思い描いた筋書が遷都にあったとしても、資金に詰まり打ち切ったことを思えば 天皇の「意(おも)ふ所」の本心は、遷(うつ)った先の都にあったのではない。相楽郡恭仁の目と鼻の先の玉井に橘諸兄の別荘があった。天皇が常住の宮を出て他所に泊することが行幸であり、仮にその場所に留まり続けることとなれば常住の宮は天皇不在となり、それが長引くほど宮のある京は都としての体をなさなくなる。恭仁京は、新しい計画の元で都となったのではなく、聖武天皇が暫く住むこととしたため京としたのである。聖武天皇の描いた筋書は遷都という理由で平城京から出ることにあった。聖武天皇の新都宣言は、行幸の延長の方便であり、それが通じなくなれば、元に戻るより仕方がないのである。方便を使ってでも平城京を出たかったのが聖武天皇の已(や)むに已(や)まれぬ本心であり、その「意(おも)ふ所」とは、天皇とは何かということであり、天皇である己(おの)れについてである。「天平四年(732)七月丙午(五日)、春従(よ)り亢旱(かうかん)して、夏に至るまで雨ふらず。百川(はくせん)水を減(へ)し、五穀稍(やや)彫(しぼ)めり。実(まこと)に朕(わ)が不徳を以て致す所なり。」(『続日本紀』巻第十一)「朕が不徳を以て致す所なり」が、詔(みことのり)を発する時の形式的な言い回しであるとしても、聖武天皇にとっては本音であったに違いない。その座に就くまでに学び諭されたであろう天皇についての教えは、藤原一族の囲いがあっての教えであった。が、その囲いは藤原四子の死で綻(ほころ)び、教えへの信頼は天皇の内より損(そこ)なわれてゆく。綻(ほころ)びはきっかけとなり得る。聖武天皇は意(おも)ふ、いまこそ天皇について自ら考えるきっかけとしなければならぬ、と。

 「木下は大きな鯉を手元に引寄せる方法を知つてゐると言つた。鯉を釣りに行くときは、破れ傘で結構だが雨傘を持つて行く。先づ大きな魚が来た手応へがあると、半ば閉じた傘を向側に向けて破れ目に糸の手元を挟み、傘が鯉を呑込んで行くやうにして糸をたぐり寄せる。鯉は暴れやうがないのである。」(『荻窪風土記井伏鱒二 新潮社1982年)

 「31年末まで「燃料搬出」明記 福島第1原発廃炉工程表改定案」(令和元年12月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 つげ義春の漫画『無能の人』に、石を売る話がある。多摩川の河原にボロ布で小屋を掛け、棚や足元に赤ん坊の頭ほどの石を並べ、中で身を縮めるようにして男が店番をしている。男は己(おの)れの描く漫画に行き詰まった漫画家である。小屋を通りがかった者が男に、この石の出どころを訊くと、男はこの河原で拾ったものだと応える。ただで拾った石にお金を出して買うヤツはいない、と通りがかりの男が云う。漫画家の男もそう思っている。が、売り物である石は、河原に転がる無数の石から「選ばれた石である」と称することは出来る。選んだのはこの男である。丸みを帯びた形や表面の模様を、面白いと思う者がこの世にいないとは限らない。黄色い模様が星の形に見え、白い線の上下を引繰り返せば山奥に瀧が現れて来る。ある者が石一つを部屋に残してある日失踪する。その黒茶色の石はどこか猫が蹲(うずくま)っているように見えなくもない。その者の失踪の理由は借金かもしれないし、人間関係の縺(もつ)れかもしれないが、回りにいた者らにはその理由が分からない。住人が消えてガランとした六畳間に、その猫のような石が置いてあった。ある者が、その石は失踪した男がある男から貰ったもので、その男も行方不明になっていると云う。いやその男は刑務所に入っているだけだ、人殺しで。その刑務所に入っているという男は、その石をどうして持っていたのか、同じように誰かから貰ったのか、それともどこかで拾ったのか。その男も貰ったんだ、と別の男が云う。そんな話を聞いたことがある。それが恩のある者で、捨てるに捨てられなかったそうだ。その恩のある者はどうしてその石を持っていたのかは、その男は聞いていたのか。その嫁の父親から貰ったんだ、結婚の祝いに。たとえば一つの石には、このような謂(いわ)れがあるかもしれず、ある石を手に入れた者がそのことが理由で幸福の階段を上がり、それを手離した瞬間に不幸の坂を転げ落ちる。あるいはその逆の語り話も、この世には星の数ほどある。神社や寺の境内にあるものの一切は持ち帰ってはならないという言い伝えを子ども時代に聞いたことがある。草花、木の枝、木の実、木の葉、砂の一粒でも黙って持って帰るとバチが当たるというのである。が、融仙院良岳寿感禅定門の戒名を刻んだ石川五右衛門の墓石は削り取られ、持ち去られるという。削り取った者はバチが当たることを覚悟してでもそのご利益の夢に縋(すが)るのである。嵯峨車折神社(くるまざきじんじゃ)は、持ち帰り用の小石を売っている。手に入れた者はその小石を身から離してはならず、その日常を金で買った神の分身と共に過ごすのである。それから幾日か幾十日か幾百日の後、その者の願いが叶ったならば、身の回りに石がなければ河原から石を一つ拾い、その石に神への言葉を書いて報告する。車折神社の本殿の前にはその言葉を記された石が積み重なり、小山となっている。ことは、祇園の茶屋の女将が売掛け金の回収を願ったことにはじまるという。願い事はどうてもいい。ここに願い事を聞き入れてくれる神がいるということを、その女将は石ころをもって目に見えるように証明したのである。

 「新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這つて歩いてゐるのを見たのだ。石が這つて歩いてゐるな。ただそう思うてゐた。しかし、その石塊(いしころ)は彼のまへを歩いてゐる薄汚い子供が、糸で結んで引摺つてゐるのだということが直ぐに判つた。子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天變地異も平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかつたのだ。」(「葉」(『晩年』)太宰治太宰治全集 第一巻』筑摩書房1955年)

 「「台風19号」福島県内7人死亡 25河川氾濫、中・浜通り浸水多数」(令和元年10月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 刈稲を置く音聞きに来よといふ 飯島晴子。田圃に実る稲穂の実物を、見ることも触ることもないまま一生を終える者はいるかもしれない。海から大網を引き上げる時の漁船の揺れや、屠殺場の豚の悲鳴を知らない者はそれ以上にいる。変わった句である。刈った稲を置く音を聞きに来い、と云っているのは農家である。この農家は作者に対して、新米を食べに来いとも、稲刈りを手伝ってくれとも云っていない。風が吹いて揺れ撓っている時にも、稲は音を立てる。が、水を抜いて乾いた田圃で、根元から鎌で刈り取って地に置いた稲束の立てる音を、農家の者は聞きに来いと云うのである。機械が袋詰めまでする今日の田圃で、この稲の音はしない。この稲の音は機械化される前の音か、機械が入ることの出来ない不便な田圃の音である。一年に一度きりの、農家には耳慣れた音であり、収穫に思うところがあるのは当たり前のことであろうが、腰を屈め黙々と刈ってゆく農家の者は、その稲の重みが立てる音にいちいち耳を傾け、手を休めることはしない。仮にその音に、他所者(よそもの)に対して説明がつく思いがあったとしても、総じて農家の口は重い。いつであっても農家にとっての重要事は刈稲の地に置く音ではなく、それは天候でありここに至るまでの技術のはずである。それらの説明は音では出来ない。稲を寝かせた音で説明をつけようとする者が俳人である。ある日稲刈りを見た作者の飯島晴子は、その稲の音が耳に残った。それがどうして耳に残ったのかは、その時には分からなくても後のち思いつくかもしれない。その後のちの考えの手立てとして、飯島晴子は農家の口を借り、その口が聞きに来よと云ったとしたのである。飯島晴子は、京都の人である。子ども時代に御室仁和寺(おむろにんなじ)のそばに住み、家の裏は田圃であったという。仁和寺前の一条通を西に向かえば、広沢池(ひろさわのいけ)に出る。広沢池の西側、北嵯峨の田圃で稲刈りが始まっていた。烟は籾殻を燃やしているのである。飯島晴子は、七十九歳で自死している。稲刈り機の響く田圃に立って、稲束の地に置く音が聞こえるとすれば、それは飯島晴子の耳を通った音である。

 「雨戸の隙間からさし入った光が障子をほんのりと明るくしている。船溜りに漁師どもの声がする。しのびやかな櫓の音もする。帆を上げるためにきりきりと滑車を滑らせる綱の音もきこえる。おっつけ夜は白むであろう。けさも川は霧でとざされているだろうか。夜具にくるまり、目をつむっている私に川が見えてくる。名前のない川である。」(「諫早菖蒲日記」野呂邦暢野呂邦暢作品集』文藝春秋1995年)

 「福島県の高校生が六ケ所村訪問 核燃料の課題向き合う」(令和元年9月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)