大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)という名は、聞いた記憶があるが、何者かよく分からない。蓮月は、江戸幕末の歌人、陶芸作家である。その蓮月焼と呼ばれる、自作の和歌を釘彫りした手でこねたいびつな器は、評判の京土産であったという。蓮月の詠んだ和歌は、たとえばこのようなものである。つれづれと春のながめの手すさびにむすびてながす軒の糸水。明けぬるかほのかすみつつ山の端のきのふの雲は花になりゆく。山ざとは松のこゑのみきゝなれて風ふかぬ日はさびしかりけり。くさの名のおもひのはてはくちてだに野べの螢ともえわたるらん。いにしへを月にとはるる心地してふしめがちにもなる今宵かな。散りつもるこの葉の山をへだてにていとどうき世にとほざかりゆく。柴の戸におちとまりたるかしの実のひとりもの思ふ年のくれかな。明けたてば埴(はに)もてすさび暮れゆけば仏をろがみ思ふことなし。あるいはこんな歌も詠んだ。戊辰のはじめ事ありしをり あた(仇)みかたかつもまくるもあはれなりおなじ御国の人とおもへば。これは、蓮月が勤王派と親交があったとする噂をもとに、西郷隆盛の手にこの歌が渡り、勝海舟との会談後の江戸無血開城に繋がったという作り話を呼ぶことになった歌である。「蓮月、初名は誠(のぶ)、姓は大田垣氏。父光古(てるひさ)は因州大覚寺村の人。中年におよんで京都に入り、華頂王(知恩院門跡)に仕えるうちに誠が生まれた。誠は幼いとき母をうしない、父によく仕えた。うない髪の年頃を脱したので、父は彦根の人で近藤某というものを配して夫婦にした。子女は四人できたが、みな早くに死んだ。また夫の近藤某もそれにつづいて死んだ。このとき、誠は三十二歳。もともと美形の女なので、放蕩者が何べんも言い寄った。誠はわが身をうらめしく思い、そばにあった秤(はかり)を引き寄せると、自分で歯を抜いた。鮮血とびちり、放蕩者はおそれおののき、逃げ去った。ここにいたって、誠は髪をそり、墨染の衣をまとい、名を蓮月とあらため、ひそかに和歌を詠んで、それをたのしみにした。こうして、十年すぎ、父も歿した。尼は悲しみをおさえきれず、こんな歌を作った。つねならぬ世はうきものとみつぐりのひとり残りてものをこそおもへ。たらちねのおやのこひしきあまりにははかにねをのみなきくらしつゝ。ついに岡崎に隠れ暮らした。埴(はに)をこねて茶碗を作り、これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。明治八年十二月三日終焉。行年八十五歳。」(「書蓮月尼」中根香亭『香亭蔵草』大正三年(1914)刊)「大田垣蓮月 寛政三~明治八(1791~1875)幕末・明治初期の女性歌人。名は誠(のぶ)。出家して蓮月と称する。京都に生まれ、大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となる。十七歳で光古の養子望古(もちひさ)と結婚、のち死別し、彦根藩士石川重二郎を婿に迎えたが、蓮月が三十二歳の時に没したので出家した。養父とともに知恩院山内真葛庵に住んだが、四十二歳の時に養父を失い、四人の子供もすでに夭折(ようせつ)して、孤独の身となる。岡崎・知恩院・西賀茂などに転々と庵居し、人に勧められて、自詠の歌を彫りつけた陶器をつくった。線の細い文字を特徴とするこの陶器は蓮月焼と呼ばれて流行したが、一鍋一椀の食べ物以外は貧しい者に施して清く淋しい生涯を送った。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)「蓮月尼隠棲茶所 神光院門内左手にあり、幕末の歌人大田垣蓮月が晩年に隠棲した。蓮月尼は名を誠(のぶ)といい、寛政三年(1791)鴨川西畔の遊廓三本木に生れ、まもなく京都知恩院の寺侍大田垣光古(てるひさ)の養女となった。二度結婚したが、愛児に死別し、文政三年(1820)三十三歳で落髪、蓮月と号した。生活の資として陶器を作り、自詠の歌と号を刻んだ急須や茶碗は、蓮月焼ともてはやされた。孤独を求めて生涯三十数回も住まいを替え、「屋越しの蓮月」ともいわれた。当所には慶応二年(1866)以来住み、明治八年十二月十日、ここで八十五歳の生涯を閉じた。茶所は四畳半の部屋と三畳の台所からなり、窯は土間に設けられているが、わが子同様にかわいがった富岡鉄斎筆の蓮月庵図が往時を思わせる。また蓮月が生前愛して「うぐひすの都にいでん中やどりかさばやと思ふ梅咲にけり」と詠んだ梅が茶所の前にある。」(『京都・山城 寺院神社大事典』平凡社1997年刊)「蓮月は寛政三年(1791)正月八日、京都の三本木に生まれ、誠(のぶ)と名付けられた。父に当たる人は故あって父を名乗らず、母に当る人も母を唱えることが出来ない事情があった。のぶは生後十日余で大田垣伴左衛門光古(てるひさ)の養女となった。………のぶ、のちの蓮月の実父は伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)という人である。良聖は藤堂新七郎家の六代目に当たり、明和四年(1767)に生まれ、寛政十年(1798)八月二日、三十二歳で病歿した。」(杉本秀太郎『大田垣蓮月』青幻舎2004年刊)藤堂良聖と大田垣光古を結びつけたのは、杉本秀太郎によれば囲碁であるという。天明の大火で失った藩邸の再建で上洛した良聖を、藤堂高虎の藤堂家と関係浅からぬ知恩院で光古が囲碁の相手をしたのではないかと杉本は推測している。誠の実母は、藤堂高虎と縁(ゆかり)のあった丹波亀山藩に嫁ぎ、その亀山城に誠は、望古(もちひさ)と結婚する十七歳までの十年間御殿奉公に出ている。長男長女の死の後、「次女が智専童女となった文化十二年(1815)には、この次女の死の二箇月あまりのちに、養子の望古が死亡する。しかも彼はこの死に先立って大田垣家から離縁され、兄の田結荘天民のもとに身を寄せ、そこで病歿したとされる。のぶは二十五歳である。」(杉本秀太郎『太田垣蓮月』)誠の再婚相手は、文政二年(1819)に大田垣家に養子に入った彦根藩士石川重二郎であり、古肥(ひさとし)と名を付けられ、その重二郎古肥は、文政六年(1823)に病死し、文政八年(1825)には、その忘れ形見の女児が七歳で病死する。もう一人いたとされる男児は、文政十年(1827)に死亡したという。蓮月と共に文政六年(1823)落髪して西心と名乗った養父光古の死は、天保三年(1832)、蓮月四十二歳の時である。蓮月の焼き物はこの後に始まり、やがて贋物(にせもの)が出回るほどの人気となり、膳所藩士(ぜぜはんし)黒田光良に器を作らせ、己(おの)れが歌を釘彫りする共同作業になったという。それ以前にも、蓮月の身の回りの世話をしていた者がいる。蓮月が隣りに越して縁となった富岡鉄斎である。鉄斎の絵描きの初めには、蓮月の和歌に鉄斎が画を描き添えていたのである。評判の蓮月焼はよく売れ、売れた分はそのまま蓮月の収入となった。その金にまつわる挿話がある。一つ、嘉永三年(1850)の飢饉に、三十両奉行所に寄付した。一つ、鴨川の丸太町橋を私費で架けた。一つ、手間賃を払って仕立てた古着を、頭巾を被った蓮月が貧しい家々の玄関に投げ込んで逃げ帰った。あるいは、明治八年、この年の十二月に蓮月は亡くなるが、八月十八日の「東京曙新聞」に載った蓮月の記事。「昨十七日の読売新聞に西京の蓮月尼の宅へ近頃泥坊の這入(はい)った事が書いてありますがこの尼さんの風流好きで歌が上手のうえに、手作の瀬戸細工に名の高い技は新聞にある通り、皆さん御承知の事でございますが、西京の人から本社へ知らせてきました所は少々事実が違っています。どちらがうそかほんとうかその段においては分りませんが、皆さん御見合せのための知らせのままにかき載せます。さてその泥坊が尼さんに金を貸してくれよというに、少しも騒がず、手箪笥(てだんす)の中から一包の金(百円包のよし)を取り出し与えますと、泥坊はこれほどまでとは思いもよらず肝(きも)をつぶした様子なりしが、なんとも大胆に今度は腹がすいたから茶漬の御馳走になりたいといい出したので、わたしはひとり暮しだから余分の御膳は炊(た)きませんと、食い残りの御鉢をやると、泥坊たちまち食い尽して、これでは少し足らない、なんぞ外(ほか)に食いものがありませんかと不足をいうにぞ、昨日とか今日とか貰(もら)いし麦粉菓子を出しましたれば、泥坊は食い掛けながら気絶してどっさりその場に倒れたれば、尼さんはこれにびっくりしてうろつき廻り介抱するうち、近所の人も寄集りしに、泥坊は早死に切ってありました。この一件で麦粉菓子の由来を御上からお調べになりました所が、尼さんに金三百円借りている人よりの進物なることが分かりました。泥坊もこわいけれども、毒殺はまた一層こわいではございませんか、あまり奇妙なことゆえ御知(しら)せ申すというてよこした。」(「蓮月焼」服部之総(はっとりしそう)『黒船前後・志士と経済 他十六篇』岩波文庫1981年刊)この記事引用の著者服部之総は、「この記事の調子には、風流できこえている老蓮月尼を、単に金をためているという一事だけで、三面記事的にあばこうとする人情が見える。」と加え書いている。杉本秀太郎の襟を正した行儀のいい評伝『太田垣蓮月』には、このエピソードは出てこない。蓮月に、盗人のいりたるをり、と題した歌がある。白浪のあとはなけれど岡崎のよせきし音はなほ残りけり。「白浪」は、歌舞伎「白浪五人男」の盗賊を、「岡崎」は、もと住んでいた場所であるが、「よせきし音」は、事件の余韻のことかもしれぬが、分からない。富岡鉄斎宛の、蓮月のこのような手紙がある。「この村なども、冬中はどうかたべつづき申べく、春は何もなくなり候よし、みなみななげき居候。何分此年米不出来にて、値だん高ければむづかしく、多分子供多く、としより多く、わるい折には皆ゝ難儀ぞろひにて、毎日いろいろなことのみきゝ候て、ちからの及び丈はいたし居候へども、やくだつほどの事出来不申、一とうの事と存参らせ候。さりともしばゐ顔見せ大入のよし、民蔵と申もの二十日切三百両きふ金のよし、もとこのものかるわざ師ゆゑ、身は軽く候はんなれど、何分にも七十余老人なり、七化に、ちうにつり上のげいをいたし候よし。世渡りもいろいろ。この村近所、盗人のみ多く、全く難儀ゆゑの事と存、きのどくに存候………世渡りは川渡りと同ぜん、ふち瀬もあれば、又あさせも御ざ候、御心長く御世話被遊、御門人方も、おひおひ御出来、御出世のじせつ………」(「太田垣蓮月・消息」『近代浪漫派文庫2富岡鉄斎・太田垣蓮月』新学社2007年刊)七十余歳の老人の私、蓮月に、民蔵という輩(やから)が二十日を期限に三百両を貸してくれと、芝居がかったもの云いをしたことを、さながら大入りの顔見世興行のようだったと、蓮月は書き送っている。この出来事が、泥坊記事の元になったものであるかどうかは不明である、が、蓮月に、金貸しの顔はあったのである。「白浪のあとは」の歌が載る歌集「拾遺集」の、この歌の前に、人の妻にかはりて、かへりごとかきつかはすおくに、のことわり書きがある、つねならぬよはのこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、の歌がある。人によって伝え記された、あるいは調べ上げられた蓮月についての事柄は、なるほど悲運不幸者であり、それを撥(は)ね退(の)け自立した歌人・陶芸作家として成功した者であり、社会にも目を配った者であるということが出来る。蓮月の和歌もその手紙も、そうであろう人が詠むような才能があり、時に知恵を効かせた歌であり、そうであろう人が書くような情愛の文面である。が、この、つねならぬよは(夜半)のこがらしふきしより乳房さむけき夢のみぞみる、には蓮月の生々しい声が残っている。外面(そとづら)のいいよそ行きの言葉ではなく、只一度の吐いた本音の淋しい声として。大正十年(1921)に改修したという、西賀茂神光院にある蓮月が住んだ茶所(ちゃじょ)、参拝者に茶を出した場所は、柱の細い二間だけの粗末な建物である。夜は東を流れる、賀茂川の流れが聞こえたという。蓮月の墓は、神光院を西に行った山裾の小谷(おだに)墓地にある。墓は名の通り、谷になった山肌に建ち、どの墓へ参るのにも石段を上る、村外れの古い墓地である。石の案内のある蓮月の墓までは、狭い石段を二つである。桜の老木の根方に建つ蓮月の墓は、大振りの漬物石のように、驚くほど小さい。墓の字は、富岡鉄斎である。この墓は、蓮月を小さくつましく見せようとする意図があるのかもしれない。たとえ生前本人がそう望んでいたとしても、この西瓜の種(たね)のような墓は、どこか出来すぎの、作りものめいたものに思えるのである。が、この蓮月の墓の前に立った者は、誰もその小ささに、思わずも膝を屈するに違いない。

 「たしかに日に焼かれ、雨に打たれるつらい日もあったが、野に一斉に花が咲き、普請場の川土堤に腰をおろして休んでいると、対岸の雑木林からうつくしい鳥の声が聞こえて来るときもあった。そういう季節には、孫六は会所勤めのころには知らなかった快い解放感に浸ることが出来た。そして年月が経つ間に、孫六も少しは楽をすることをおぼえ、普請組勤めに馴れた。組の人間になったと言ってもよい。」(「浦島」藤沢周平文藝春秋短篇小説館』文藝春秋社1991年)

 「分かりやすく「情報発信」 楢葉で廃炉・汚染水対策福島評議会」(平成29年5月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平安京の東西の通りの一つ、四条坊門小路が蛸薬師通(たこやくしどおり)という名に取ってかわられたのは、通りの東の外れに蛸薬師堂が建った天正十九年(1591)より後のことであるが、その天正十九年には、豊臣秀吉の命で室町通姉小路の北にあった円福寺が、この蛸薬師堂の建つ地に移転し、その同じ年にこの薬師如来を本尊とする永福寺が円福寺に合併し、その子院となっている。が、いま蛸薬師堂に円福寺の名は見当たらない。円福寺は明治十六年(1883)、蛸薬師をここに置き去りにして、三河国額田郡岩津村に移り、その同じ地にあった岩津城主松平親則菩提寺妙心寺が檀家を置いて、居抜きとなった円福寺の空き家に移って来たのである。この蛸薬師堂と円福寺の元の場所は地名として残っている。地図を見れば、二条通とその一つ南の押小路通の間に蛸薬師町、その一つ南の御池通と次の姉小路通の間に円福寺町とあり、二つの町の真ん中を室町通が南北に通っていて、この二つの寺の位置が近かったことが分かる。が、その近さが合併に関わることなのかどうかは分かっていない。現在の妙心寺子院、蛸薬師堂の正式名は、浄瑠璃山林秀院永福寺である。その寺の伝えでは、この名にある林秀という名の者が、剃髪して比叡の薬師如来に参り、老いてその月参りが困難になり、養和元年(1181)、薬師如来に身の傍(そば)で拝める薬師仏を願うと、夢で薬師仏のありかを知らされ、そのお告げの場所で掘り出した石の薬師如来を、林秀は堂に祀る。時経(た)って建長(1249~1256)の頃、僧侶善光が、寺に引き取った病気の母が云った「好物の蛸が喰いたい」の願いを叶えるため、忍んで魚屋で蛸を買うが、見咎(とが)められ、母の病気のためであることをもってその薬師如来に念じ、箱の蓋を開けると、中の蛸のその足が八本の経巻に変身したのだという。別の話がある。林秀が薬師如来を祀った堂が水沢の近くだったため、沢の薬師、沢薬師(たくやくし)と呼ばれるようになった。もう一つは、蛸屋の家の土間に夜な夜な光るものがあり、掘り出すと碓(うす)の壺石で、そこに薬師像が浮かび上がっていた。病気の母の好物が蛸でなくても、魚をタブーとするこの坊主の話は成立する。恐らく語りのはじめにタク、タコの言葉があった。蛸薬師堂の前の、新京極通を上ったところに誓願寺がある。この二つの寺の移転合併の頃の誓願寺の住持は、落噺(おとしばなし)、落語の祖安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)である。タクが蛸になっても蛸薬師の物語りは、世の中に落語のように受け入れられたのである。生臭いのは、円福寺妙心寺の入れ替わりである。『京都大事典』(淡交社1984年刊)は、このことを二つの寺同士が「寺名・寺歴を交換した。」と述べている。居抜きどころではない。奇妙で滑稽な話である。僧侶善光の母は、語りによれば、蛸を喰わなかった。が、病は癒えた。善光が経を唱えると、経巻から姿を戻した蛸が光を発し、その光を浴びて、善光の母は病いが治ったのである。

 「はじめて聞いた。いはれを聞かされても、どうてえことないけど。」(石川淳狂風記集英社1980年)

 「改正福島特措法が成立 帰還困難区域内に「復興拠点」」(平成29年5月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 鳶尾草(イチハツ)や一椀に人衰へて 綾部仁喜。鳶尾草はアヤメを小ぶりにしたようなアヤメ科の花であり、アヤメよりも早く、水のないところに、いま頃の時期に咲く花である。俳句はこの鳶尾草の花、あるいはイチハツという言葉に、人が衰えるというありきたりな様子を並べるのであるが、「一椀に」という言葉は、この俳句をありきたりにさせていない。たとえば、一椀分の食事も摂(と)れないほど食欲が衰えるという切実さは、誰の身にも起こり得る。あるいは、一つの茶碗を使い続けて、ある日ある時その割れもせぬ茶碗に比べ、自分の心身の衰えを自覚するということもあるかもしれない。あるいは、理想の椀、碗を追い求め、その椀、碗を作り得たか、作り得ぬまま肉体が衰えるに至った者を云い表わしたとすれば、俳句はありきたりである。毎日来る日も来る日も、一椀分の飯を食べ続けてきて、いま己(おの)れの身に衰えがやって来た。一椀は食事の単位であり、一杯の飯を食べ続けてきたことで、こうして生き延びたのであり、生き延びたことで、己れの衰えを味わうことになった。衰えを味わうことが出来るほど、その者は生きることが出来たのである。「一椀」は、生きるための必要な単位であり、生きることの持続を、俳句作者は「一椀」という単位に託したのである。衰えは変化である。人の衰えは死に向かうが、その変化を面白いと受け止めよ、という思いが「一椀に」の「に」に込められているのではないか。兄桓武天皇に、藤原種継(たねつぐ)暗殺への関わりを疑われ餓死自殺し、「怨霊」となった早良親王(さわらしんのう)は、洛北上高野の崇道神社(すどうじんじゃ)に、崇道天皇と諡(おくりな)を貰い、桓武天皇の命で祀られているが、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)にも早良親王は、怨霊神として祀られている。上御霊神社には、早良親王のほか、桓武天皇との父光仁天皇、白壁王の妃、聖武天皇井上内親王と、藤原百川ももかわ)の策謀で皇太子を廃されたその子他戸親王(おさべしんのう)の他五名の怨霊を、魂鎮めのために祀り、明治天皇は次々の皇子の早死を憂い、霊元天皇の後継で揉め、佐渡流罪となった霊元天皇典侍(ないしのすけ)の父小倉実起(さねおき)公卿一家らの怨霊を祀るよう命じた。その上御霊神社の南の空堀と境内に鳶尾草が咲いている。ここの鳶尾草は、一椀を自分の意思で拒み、強引な衰えを迎えた人魂に添えられたものである。

 「二つの記憶が残っている。最初のは何か格別なものを証明しているわけではない。二つ目は、まあ、革命期の雰囲気を確実に見きわめさせるものだ。」(ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳『カタロニア讃歌』早川文庫1984年)

 「デブリ除去で『新技術』開発 第1原発、レーザーと噴射水活用」(平成29年4月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 喉頭癌を患い職場を去って行った韓国籍の同僚だった者が、天神川の桜が奇麗であると、遠慮深げに云ったことがある。桜の話をしたのは、恐らく去年か一昨年のいま頃である。それより以前には、その者とは見ず知らずの関係であり、その者の退職は去年の夏である。その遠慮深げだった云いは、桜はどこで見ても桜であり、同じように奇麗であるという物云いに対する、些(いささ)かの異議でもあったが、桜について日本人に物云うことへの、韓国人の遠慮であったかもしれない。その元同僚は、二十歳で来日し、京都生まれの韓国人と結婚して二人の子を儲けた後、その夫と死別した六十余歳の女性である。天神川は、北の鷹峯からはじまり、北野天満宮の辺りまでの流れを紙屋川と呼び、南に下って吉祥院天満宮の西で桂川に注ぐまでを天神川と呼ばれている。元同僚の云う天神川の桜は、その口振りによれば、四条通から五条通の間の辺りを指していた。御池通で御室川と合流してからの天神川は、真っ直ぐな幅二十メートル余の、底の深い、浅い流れの川である。桜並木は、東の縁(ふち)沿いにあった。並んで走る葛野(かどの)中通に挟まれ、枝の下の叢(くさむら)には小径が通っている。川の西側は車の往来のある天神川通である。冷たい風が吹くこの日の空は曇り、日の暮れ様(よう)が緩慢な夕刻、並木の外れに並ぶ三つのベンチの内の二つで、数人の者が缶ビールを呑みながら持参のものを喰っていた。宴を張っているのは、その者らだけである。母子三人が、幾枚か写真を撮って帰り、五条通の方からやって来た中年の夫婦らしき者が、空いていたベンチに座り、ニ三分で腰を上げて行った。葱のはみ出た買い物袋を提げた者が、頭上を見上げながら通って行く。その後ろをやって来た者が、家に帰る途中かもしれぬ足を止めて桜を見上げる。その二人が去ると、人の通りが暫(しばら)く途絶える。日中響いていたかもしれぬ、鳥の声もしない。この桜並木の際の枝は、どれも川の底に向って撓(しな)い、それは何者かによってそうさせられたのではなく、人によって植えられた後は、己(おの)れの意思をもって枝を曲げ伸ばした、桜の身体とでもいうべき様(さま)であり、その並びの一本一本が、自らを花で覆っている様(さま)にも、この桜の身体の強靭な意思を思うのである。桜に限らず、大木(たいぼく)は擬人化され易い。ここの桜は、平凡で愚直な桜である。が、愚直でなければ示すことの出来ない意思を、この桜の幹に触(さわ)れば感じることが出来る。そのように感じなければ、日がとっぷり暮れた薄闇の中で、俄(にわか)にしみじみとした気分に襲われたりはしない。通りを挟んで天神川ホールという葬儀場が、東側にある。桜の咲く時期にこの場所で死者を送った者は皆、この愚直な桜を目にすることになるのである。

 「日毎夜毎(ひごとよごと)を入り乱れて、尽十方(じんじつぽう)に飛び交はす小世界の、普(あま)ねく天涯を行き尽して、しかも尽くる期(き)なしと思はるゝなかに、絹糸の細きを厭(いと)はず植ゑ付けし蚕(かいこ)の卵の並べる如くに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半(よは)を背中合せの知らぬ顔に並べられた。」(夏目漱石虞美人草(ぐびじんそう)』岩波漱石全集第三巻1966年)

 「浪江・請戸の慰霊碑に「氏名」刻まれず 町民以外の津波犠牲者」(平成29年4月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平清盛の長男平重盛次男平資盛(すけもり)との恋愛の歌で知られる和歌集『建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)集』の右京大夫(うきょうのだいぶ)は、高倉天皇の中宮として安徳天皇を産んだ平清盛の次女平徳子建礼門院に仕えた女房である。仕えた時期は承安三年(1173)から治承二年(1178)の十七八の年からの五年ほどであり、久寿二年(1155)生まれの建礼門院とは二、三の年下である。年下の恋人であった平資盛(すけもり)は、元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いの果てに入水(じゅすい)し、右京大夫(うきょうのだいぶ)は「弥生(やよひ)の廿日(はつか)余りの頃、はかなかりし人の水の泡となりける日なれば、れいの心ひとつに、とかく思ひいとなむにも、我が亡からむのち、たれかこれほども思ひやらむ。かく思ひしこととて、思ひ出(い)づべき人もなきが、たへがたくかなしくて、しくしくと泣くよりほかのことぞなき。我が身の亡くならむことよりも、これがおぼゆるに、いかにせむ 我がのちの世は さてもなほ むかしの今日を とふ人もがな」(『建礼門院右京大夫集』)水の泡となった資盛(すけもり)の命日を、自分のように思い出す人がいないことが、自分が死ぬことよりも悲しい、自分が死んだ後も誰か資盛(すけもり)を弔って欲しい、と素直な己(おの)れの心境を書き残す。同じ壇ノ浦で我が子安徳天皇と入水(じゅすい)し、源氏方に引き上げられた建礼門院徳子は、京に連れ戻され、剃髪し、大原寂光院に設けた庵で隠棲する。その翌年文治二年(1186)の春、裏山に花摘みに行っていた建礼門院の元を、後白河法皇が密かに訪れ、「互ひに御涙にむせばせ給ひて、しばしは仰せ出(い)ださることもなし。ややありて、法皇御涙をおさへ、「この御ありさまとは、ゆめゆめ知りまゐらせ候はず。」」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おおはらごこう))と、後白河法皇は息子高倉天皇の中宮徳子の変わり果てた有様を嘆き、建礼門院は「生きながら六道を見てさぶらふ」と、平家の滅亡、身に降りかかった生き地獄を切々と後白河法皇に語るのである。同じ年のその秋、右京大夫(うきょうのだいぶ)が建礼門院を訪ね来る。「女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは、まゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにて、わりなくてたづねまゐるに、やうやう近づくままに、山道の気色よりまづ涙は先立ちていふかたなきに、御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目もあてられず。昔の御ありさま見まゐらせざらむだに、おほかたの事がら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふかたなし。秋深き山颪(おろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染の姿して、わづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人々にも、「さてもや」とばかりぞ、われも人もいひ出(い)でたりし、むせぶ涙におぼほれて、言(こと)もつづけられず。今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき。 あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき。」(『建礼門院右京大夫集』)大原にいると聞いていたが、簡単に会いに行くことは出来ず、建礼門院を慕う、已(や)むに已(や)まれぬ己(おの)れの気持ちに従って訪ねると、その侘しい山道に足を踏み入れただけで涙が零(こぼ)れ、住まいの生活の様子は見るに堪(た)えられるものではなく、昔を知る者には信じ難(がた)く、辺(あた)りの様子もこれほど悲しく感じられる山里もなく、かつて着飾って仕えていた者たちも、いまは墨染を着た三四人だけで、その者たちと「それにしてもまあ」と口にしただけで、涙が零(こぼ)れ落ちて仕舞う。宮中では仰ぎ見ていた、とても現実の出来事と思うことのできないいまの建礼門院の様子が、ただただ悲しいのである、と右京大夫(うきょうのだいぶ)はかつて仕えた建礼門院との再会を思うのである。建礼門院は、大原の寒さに耐えられず、あるいは人目を避けての隠棲暮しが困難になり、山を下り、洛中東山で余生を送ったともいわれている。右京大夫(うきょうのだいぶ)は、四十年(しじゅう)前の建久六年(1195)、再び宮中に入り、後鳥羽天皇に仕えている。食うため生きるための他に、出仕した理由があったのかどうかは分からない。が、栄華の絶頂を極めた建礼門院の、変わり果てたみすぼらしいその姿を見て涙を零(こぼ)した右京大夫(うきょうのだいぶ)が、またしても宮仕えをしたことを思うのである。その心の割り切りを、思うのである。慶長四年(1599)、豊臣秀頼の母親淀君によって改修された寂光院の本堂は、平成十二年(2000)の放火によって焼失したが、再び同じ場所にいまは再建されている。寂光院は、山門の内にではなく、山門に至る石段の石の中にある。狭い荒れた石段を上がりきるまでの参拝者の頭の中にこそ「本物」の寂光院はあり、建礼門院の物語りも恐らく、参拝者が踏む足元の石段にあるのである。

 「あまり問題にされないことだか、日本神話で、神は「人」を創らない──生まない。伊邪那岐伊邪那美の男女神が生み出すものは、「国」であって「神」であって、「人を創る」ということはしていない。「人」は。神によって生み出されることはなく、いつの間にかこの日本に存在している。」(橋本治小林秀雄の恵み』新潮社2007年)

 「528品目の基準値超『ゼロ』 16年度・福島県産農林水産物検査」(平成29年4月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大原三千院の城のような石積の門の左右に、「梶井門跡三千院」と「国宝往生極楽院」の二つの名が下がっている。天台宗三千院は、安永九年(1780)刊行の『都名所図会』では梶井宮円融院梨本房の名で載り、三千院と名乗るのは、明治四年(1871)門跡廃止により最後の門主・昌仁入道親王が還俗(げんぞく)し、御車路広小路にあった本房が大原に移ってからである。その大原の地は、保元元年(1156)より延暦寺が、叡山を下りた天台隠者の動きを取り締まる政所を置いたところであり、応仁の乱で焼けた折の、洛中にあった本房の移転先であり、門跡の主(あるじ)を失い、仏像仏具だけで再び戻った場所なのである。往生極楽院は、高松中納言実衡の妻・真如房尼(しんにょぼうに)が実衡の死を悼んで寛和元年(985)に建てた庵(いおり)であり、梶井本房の移転の後に、叡山政所の傍(そば)にあった庵は、本房に組み入れられ、遂にはその本堂となるのである。この経緯(いきさつ)のため往生極楽院は、苔生(む)した境内の片隅に、毛色の違う貰われ子のようによそよそしく建っている。その往生極楽院の、平安藤原時代の阿弥陀三尊像は国宝である。極楽から、死ぬ者を迎えに来た阿弥陀如来は足を組んで座り、立てた右手の掌(たなごころ)をこちらに向けている。左右の脇侍(きょうじ)菩薩、手を合わせる勢至(せいし)菩薩と、蓮台を捧げ持つ観音菩薩は折った両膝の間を広げ、背を前に傾けていて、このように座る菩薩の姿は珍しいのだという。観音菩薩の持つ蓮台が内側、腹の方に僅かに傾いているのは、往生者を乗せ終え、彼岸に帰る姿であるという。この両の菩薩の太腿の太さは、生きては見ることの出来ない極楽浄土からやって来た者として、信ずるに足ると思わせるような迫力、説得力を持っている。観音菩薩の表情は、薄く開けた両の目を手の蓮台の上に向けているように見える。であれば、蓮台に乗せた往生者を零(こぼ)さぬように内に傾けているという説明は、なるほどそうなのかもしれない。が、この阿弥陀三尊は拝み見る者の前に、このように常にいるのである。極楽からの来迎の姿として、常に見える所に在るのである。常に在るということは、念仏往生者をいつまでもここで待っている、ということなのではないか。往生は死であり、黄金の阿弥陀三尊は、有無を云わさぬ何人にも来る死を待つ姿であり、唯一人の死を待つことを許されている姿なのではないか。

 「はったいの粉(こ)は真夏の匂いがする。かんかん照りのひなたの匂い、むせかえるような雑草のにおい、はるかに遠い、わら屋根の村のにおい、物音が死んだような町の午後の匂い。」(「はったいの粉」平山千鶴『京のおばんざい』光村推古書院2002年)

 「浪江、川俣・山木屋、飯舘「避難指示」解除、帰還には課題山積」(平成29年3月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身に危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを渡る者や屈強な者の力では耐え得ぬ物を、ある頻度で一定の間渡す場合には、筏(いかだ)や舟を並べた上に板を置く浮橋を、流れの上に架けるかもしれない。その岸から岸へ人や物の往来が頻繁になる、あるいは頻繁にしようとする場合には、金を投じて木や石やコンクリートで恒久的な橋を架けることになる。その場合、誰もが恒久を願うのであるから、橋は頑強に造られる。が、それほど頑強でもなく造られた木の橋が、大山崎に近い木津川に架かっている。橋の名は上津屋橋(こうづやばし)、あるいは木津川流橋(きづがわながればし)、あるいは短く「流れ橋」と呼ばれ、全長356.5メートル、幅3.3メートルで八幡市(やわたし)と久世郡久御山町(くみやまちょう)を結んでいる。人と自転車だけを通すこの橋は、その時の予算の都合で、橋脚の上に組んだ板を載せただけの造りになっている。手摺も、夜照らす明りもない。川の水位が上がると、板は水の上に浮かんで流されるので「流れ橋」と言う、という。板はワイヤーで橋脚と繋がっていて、流れ去ってしまうことはないが、大水で橋脚から流れ落ちることがあっても「やむなし」という、およそ人間の造るものらしくない、鳥が作る鳥の巣のような橋なのである。その歴史は、昭和二十八年(1951)三月に完成し、その年の七月に流されて以降、平成二十六年(2014)八月の流出まで二十一回、「流れ橋」は橋脚の上から「やむなく」板を失っている。久御山町の側の、ひと息では上れない土手の下には田圃と茶畑が広がり、どの田圃も鍬入れが終わっている。板を失えば半年の間使えないというこの橋は、この田畑道の延長なのである。この辺りに住む者でない者が、時代劇にも使われる「流れ橋」を渡りに来る。見上げる土手の先には空以外に何もなく、土手の上に立って田圃を見下ろし、あらためて向こう岸まで橋脚の連なる「流れ橋」に目を遣る。単純な景色であり、橋を渡ろうとする者の心は、景色の明快さにつられるように、明確になる。敷かれた板の、幾つも空いた古い留め孔の跡をそのまま古い留め孔の跡と見、下の浅い水の流れをただ浅い水の流れと見、川の大方を占める草の生えた砂地を砂地と見たままに受け入れ、興味をどこかの一方に傾ければ忽(たちま)ち落下してしまう可能性があるのであるから、足と目の感覚は明確であるはずの心を素通りして、明確にならざるを得ない。橋を渡りに来ただけの者は、渡り終えると、向こうの土手を上ってひと眺めし、土手を下り、橋を渡って戻って来る。向こう岸から来た者は、こちら側まで渡って来ると、踵(きびす)を返し、戻って行く。何枚か撮った「流れ橋」の写真のうちに、若い家族の姿が写っている。河原に下り、橋を遠目に撮った一枚である。その橋の上を歩く家族の母と娘の長い髪が、風に巻き上げられている。この日、それほどの風が吹いていた記憶はないのであるが。

 「しかし今のかれはすぐその手を止めて放心状態に入った。かれはテーブルの木目を細い目でぼんやりとみつめ、その形のリズムを楽しんでいるように視線をうごかしていた。かれはあるいは、木目を遠浅の海水浴場に擬し、それを崖の上から見下ろしている気持になっているのかもしれなかった。」(三木卓『野いばらの衣』講談社1979年)

 「格納容器水中「1.5シーベルト」 第1原発1号機、強い線源か」(平成29年3月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)