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 この時期町中(まちなか)の和菓子屋は、水無月、みなづきと書いた紙を店先に貼り出す。水無月は、外郎(ういろう)の上に小豆を散らした三角形の餅菓子である。半透明の白い外郎は、平安御所の氷献上の行事「氷室の節供」の貴重だった氷を模し、小豆は邪気を祓い、夏越(なごし)の祓いの六月晦日(みそか)に食べれば、厄払いになるという。とある和菓子屋の軒を潜り、声を掛けると、奥から以前応対した初老の女ではなく、白い帽子に白い上っ張りを着た年配の男が現われる。男は固太りの体つきをしているが、いらっしゃいでも、毎度でもなく、どこか落ち着きがない。目は大きく、太い眉で、両頬に薄い赤味がさしている。水無月と草餅を二つづつ頼むと、黙ったまま前屈(かが)みに商品ケースを開け、肩に力の入った手つきで木箱から取り出し、それぞれ二つづつを透明なパックに入れ、輪ゴムで蓋を閉じ、包装紙で包んで袋に入れ、慎重に商品ケースの上に置く。値段を訊くと、一旦開きかけた口を閉じ、両目を宙に漂わせると、次第に男の頬の赤味が濃くなってゆく。男は、値段の合計計算が出来ないか、水無月か草餅の値段を思い出せないか、あるいは覚えていなのかもしれない。そうでなければ、自分が作った菓子の値に、突如疑問を抱いたかだ。男は店の横の壁に掛けたカレンダーの辺りを見ながら、再び口を開きかけては止める。レイモンド・カーヴァーに「スモール、グッドシング(村上春樹の訳では「ささやかだけれど、役にたつこと」)」という小説がある。母親が息子の誕生日のプレゼントにパン屋でケーキを注文し、その誕生日当日の朝、息子が交通事故に遭って意識不明に陥る。駈けつけた病院から一旦戻った家で父親が取った電話の相手は、息子のケーキのことを云うが、父親はそれを知らず、不愉快な思いで切ってしまう。翌日母親が風呂に入りに家に戻ると、また電話が鳴り、相手が息子の名前だけを云うと、母親は恐ろしい思いで電話を切る。三日後息子は亡くなり、夜二人が憔悴しきって家に戻ると、またも電話が鳴り、同じ相手が今度は、息子のことを忘れたのかと云い、母親は漸(ようや)く予約したケーキのことを思い出し、その嫌がらせに怒り、二人はパン屋へ車を走らせる。パン屋は、予約をすっぽかした二人に皮肉を吐くが、事情を知ると非礼を詫び、こういう時こそものを食べてくれ、ささやかだけれど、役にたつと云って、出来立てのパンを二人の前に出し、自分の生きて来た孤独を語り、二人はしみじみ聞き入る。話の筋はこうであり、目の前の和菓子屋の年配の男の沈黙の間に、この話を不意に思い出したのであるが、理由は分からない。男の白い上っ張りの下に履いた黒いズボンに付いている白い粉の汚れは、小説に出て来るパン屋の男のズボンにも付いている汚れであるかもしれない。この小説の筋を、いい話として受け取れば、いい話の小説は飽きられる。たとえば、亡くなった子どもの名前で親の元に届く入学祝商品のダイレクトメールは、不条理に残酷であり、現実に起こる非情を思い知らされるのである。和菓子屋の男の沈黙は、小説一篇とダイレクトメールの非情を思い起こさせて、なお続いている。「ささやかだけれど、役にたつこと」のパン屋を、カーヴァーはこう書いている。「彼は花屋にならなくてよかったと思っている。花を売るよりは、人に何かを食べてもらう方がずっといい。匂いだって、花よりは食べ物の方がずっといい。」和菓子屋の男はついに、水無月と草餅二つづつの合計を口にする。千円で支払うと、和菓子屋はまた、沈黙し、宙に目を漂わせる。

 「まもなく一年間が過ぎようとしている。私は道路の向う側にある木陰の薄暗い場所まで往復するのが習慣になっている。目的地は私が選んだのではないがこの五ヵ月間位は同じ場所におちついた。それ以前は別の場所であった。また、数ヵ所の時もあった。そのころは自分の車で出かけていたのであるが、目的地のせばまった今は歩くことになった。」(「ドッグ・フィールド」若林奮『I.W──若林奮ノート』書肆山田2004年)

 「「凍土遮水壁」山側、凍結拡大へ 海側でセメント注入を追加」(平成28年6月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)