アサギマダラが目の前にいる。この蝶は秋の終わる頃、台湾香港までも二千キロを越える海の上を渡って行き、また夏になるとその同じ距離を戻って来るのだという。渡り来れば、夏でも気温の低い高原の葉っぱの裏に卵を産みつけ、蛹から孵(かえ)ればあとは、誰かに命じられているわけでもなく、何事かから逃れるわけでもなく、帰る家もなく、ただひたすら花を求めて飛び続けなければならない。生物学あるいは物理学は、この行動の謎解きに知恵の情熱を燃やすのかもしれないが、アサギマダラには経済学もなく、文学もなく、宗教もなく、善悪もない。が、蝶を目にする人間はこのような習い覚えた物差しを使うことから逃れることが出来ず、それが故にいつまでも蝶のように軽やかになることが出来ない。二匹のアサギマダラが、藤袴の花の間を飛び交っている。この藤袴は自生しているのではなく、すべて鉢植のものである。ここは御所の南東、丸太町通から寺町通を下ってすぐの革堂(こうどう)という名で通る行願寺の境内である。十月半ばの四日間、藤袴祭という催しがあり、革堂はその会場の一つになっているのである。藤袴の鉢は寺町通の歩道にも通りの商店の軒下にもぽつぽつ並べられ、祭りは京都自生の藤袴が絶滅の危惧に晒されているのを憂え、その保存のために始めたのだという。千年を越える歴史を持ちながら移転をさせられる度に狭くなった革堂の境内には、三百余りの一メートル丈の藤袴が通る幅の両側に、列を成して並んでいる。枝の先に白に薄い赤紫色の小さな花が幾つもかたまって咲き、花そのものに匂いはなく、手折られ、あるいは土から引き抜かれ乾き出すとこの花は匂い立つのだという。アサギマダラのオスは、この藤袴と同類の二三の花の蜜しか吸わず、この花の蜜の成分を吸わなければメスを誘い出すことが出来ないというのである。何と世を捨ても果てずや藤袴 八十村路通。芭蕉に見出された乞食路通は、世を捨て乞食に身を落とし、その日暮らしに叢(くさむら)に寝そべっている時、藤袴を目にし、自分が死んでもこの藤袴はこの世にあり続けるのであろうと思う。が、いまは鉢植にして育てなければ、藤袴の生存は危(あや)ういのである。であれば放っておけば旅するアサギマダラの生存も危(あや)うくなるということである。行願寺が革堂と呼ばれる謂(いわ)れは、寺を開いた行円がまだ狩りで暮らしを立てていた時、子を孕んでいた雌鹿を殺し、殺生を悔い、その雌鹿の皮を身に着け仏門に入ったからだという。戦国期の末、京都に一向一揆が迫り来た時、集った町衆は革堂と下京にある六角堂の鐘を昼も夜もなく鳴らし続けた。世の危機に警鐘を鳴らしたこの町衆らは、後には市中で法華一揆を起こすことになるのであるが。

 「祖母は、「おぼくさん」と呼んでいた仏壇に供えたごはんを私に食べさせながらこの歌(明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは)の意味を話してくれた。「おぼくさん」は、朝、ごはんをお櫃に移す時に、真鍮の仏様用の小さな容器に山盛りに盛りつけ、お水と一緒に上げるのである。夜には固くなり、線香の匂いがしみついて、お世辞にもおいしいものではなかったが、祖母は、ご利益があるといっては、必ず私に半分を呉れ、自分も女にしてはしっかりした骨太の掌に受けて食べていた。食べ終ると、私は祖母が仏壇の小抽斗から出してくれる桃の形をした小さい扇で、灯明を消し、ギイと戸をきしませて仏壇の戸をしめて、祖母と私の一日が終るのである。」(「あだ桜」向田邦子『父の詫び状』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出」10月内にも決定、処理水処分、第1原発敷地から軸」(令和2年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都は、坂本龍馬が殺された場所である。その日、坂本龍馬は京都にいる理由があり、殺される理由があった。その日とは慶応三年(1867)十一月十五日である。そのひと月前、坂本龍馬の言葉で云う「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜(ヨロ)シク朝廷ヨリ出ツへキ事。」の通りに、徳川幕府から政権が朝廷に還った。黒船が来て、不平等条約を交わした幕府は外国に対する己(おの)れの無能を世に晒し、自信を喪失してしまったのである。坂本龍馬のこの言葉は、土佐に帰る船で一緒になった土佐藩参政後藤象二郎に語ったという船中八策の第一で、第二以下はこうである。「一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公儀ニ決スヘキ事。一、有材ノ公卿・諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備へ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クヘキ事。一、外国ノ交際広ク公儀ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツヘキ事。一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮の大典ヲ撰定スヘキ事。一、海軍宜シク拡張スヘキ事。一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムヘキ事。一、金銀物貨、宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クヘキ事。」坂本龍馬は、咸臨丸でアメリカを見て来た勝海舟大久保一翁から得た知識と直観で、この船上八策を練り上げた。武器商人でもあった坂本龍馬は、薩摩の名で買った武器を弓を引いて京都を追放された長州に流し、その同盟を取り持つと、徳川幕府薩長の倒すべき敵となる。が、土佐藩山内容堂は幕府と勤王攘夷の薩長討幕派との調停に動き、朝廷と幕府に「大政奉還ニ関スル建白書」を提出する。その案は、後藤象二郎坂本龍馬から聞いた船中八策が基になったものである。「宇内ノ形勢古今之得失ヲ鑑シ誠惇誠恐敬首再拝、伏惟皇国興復之基業ヲ建ント欲セハ、国体ヲ一定シ政度ヲ一新シ王政復古万国万世ニ不恥者ヲ以来旨トスヘシ、好ヲ除キ良ヲ挙ケ寛恕ノ政ヲ施行シ朝幕諸侯薄ク此大基本ニ注意スルヲ以方今急務奉存候、前月四藩上京一三献言ノ次第モ有之、容堂義病症ニヨツテ帰国仕候以来、猶又篤ト熟慮仕候ニ実ニ不容易時態ニテ安危之決今日ニ有之哉ニ愚存仕候、因テ早速再上仕右之次第一乍不及建言仕候志願ニ御座候所、今ニ到テ病症難渋仕不得止微賎之私共ヲ以愚存之趣乍恐言上為仕候。一、天下ノ大政ヲ議定スルノ全権ハ朝廷ニアリ、乃我皇国ノ制度法制一切万機必京師ノ議政所ヨリ出ヘシ。一、議政所上下ヲ分チ議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ルマテ正明純良ノ士ヲ撰挙スヘシ。一、庠序学校ヲ都会ノ地ニ設ケ長幼ノ序ヲ分チ学術技芸ヲ教導セサルヘカラス。一、一切外蕃ト之規約ハ兵庫港ニ於テ新ニ朝延ノ大臣ト諸藩ト相議道理明確之新条約ヲ結ヒ誠実ノ商港ヲ行ヒ信義ヲ外蕃ニ夫セサルヲ以主要トスヘシ。一、海陸軍備ハ一大至要トス軍局ヲ京摂ノ間ニ造築シ朝廷守護ノ親兵トシ世界ニ比類ナキ兵隊ト為ン事ヲ要ス。一、中古以来政刑武門ニ出ツ洋艦来港以後天下紛々国家多難於是政権梢動ク自然ノ勢ナリ今日ニ至リ古来ノ旧弊ヲ改新シ枝葉ニ馳セス小条理ニ止ラス大根基ヲ建ルヲ以主トス。一、朝廷ノ制度法制従昔ノ律例アリトイヘトモ今ノ時勢ニ参合シ間或当然ナラサル者アラン宜其弊風ヲ除キ一新改革シテ地球上ニ独立スルノ国本ヲ建ツヘシ。一、議事ノ士太夫人私心ヲ去リ公平ニ基キ術策ヲ設ケス正直ヲ旨トシ既往ノ是非曲直ヲ問ハス一新更始今後ノ事ヲ視ヲ要ス言論多ク実効少キ通弊ヲ踏へカラス。右之条目恐ラクハ当今ノ急務内外各般ノ至要是ヲ捨他ニ求ムヘキ者ハ有之問敷ト奉存候。然則職ニ当ル者成敗利鈍ヲ不顧一心協力万世ニ亘テ貫徹致シ候様有之度若或ハ従来ノ事件ヲ執テ弁難抗諭朝幕諸侯互ニ相争ノ意アルハ尤然ヘカラス是則容堂ノ志願ニ御座候、因テ愚昧不才ヲ不顧大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第全ク御聴捨ニ相成候テハ天下ノ為ニ残懐不鮮候、猶又此上寛仁ノ御趣意ヲ以微賎之私共ト難御親問被仰付度懇願候。慶応三丁卯九月 寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛。」大政奉還は成り、坂本龍馬は喜んだ。が、徳川は政(まつりごと)の主導から手を引いただけで、薩長倒幕派の目標はあくまで徳川の消滅である。十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル塩屋町の醤油商近江屋の二階にいた坂本龍馬中岡慎太郎は暗殺される。薩摩の挑発と謀(はか)りに煽(あお)られた徳川側は、薩摩を討ちに起つ。が、翌慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いが負け戦となり、朝敵とされれば勝ち目はなく、戊辰戦争で徳川側は留めを刺される。が、坂本龍馬の思いは、このようなことで血を流さないこと、戦争の回避にあった。坂本龍馬の額を割って殺害したのは、京都見廻組であるといわれている。京都見廻組は、新撰組と同じ京都守護職松平容保の配下組織である。会津藩出の佐々木只三郎が六人の部下を引き連れて、坂本龍馬の宿に入った。坂本龍馬はなぜ京都にいたのか、佐々木只三郎の見廻組はなぜ坂本龍馬を襲ったのか、言説は巷に溢れている。が、近江屋に坂本龍馬がいることを知っていて、見廻組に殺害を命じた者が本当は誰であるのかは分かっていない。見廻組の生き残り、今井信郎は後の取り調べで、自分は見張り役で何も知らないと応え、夜を待って八時過ぎまで東山の辺りをぶらぶらしながら時間を潰していたとも応えている。坂本龍馬を殺すため、時間潰しに東山の辺りをぶらぶらしていたというもの云いは、どこか心が動く挿話である。

 「辻が花という名のよって来るところは判らない。要するにそれは絞り━━主として模様の輪郭線に沿って縫いこれを引き締めて絞る。縫い締め絞り━━によって多彩な絵模様を現わしたものである。ところで元来絞りというものは、技術的にはこうしたことに最も不適格なものといわなければならない。絞った模様の周辺はぼやけるし、多色に染めるためにはそこだけをつまんで染めるか、絞ったところを解きながら何回にも色をかけなければならない。この制約された技術を用いてひたむきに、この多彩な絵模様への道を追い求めた辻が花染めは、そのさいはての野に咲いた妖しいまでの美しい花とでもいおうか、そこには一種の寂しさの籠った、華やかさがある。」(『日本美術体系 Ⅷ 染織』山辺知行 講談社1960年)

 「二審も国、東京電力に責任、原発生業訴訟判決、10億円賠償命令」(令和2年10月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 七条通は、西は桂川の桂橋の手前で八条通と交わり、東は智積院の門前で果てる。鴨川を東に渡ってすぐの七条通から北に大和大路通を二百五十メートル上がると、正面通がある。百五十メートルの長さだけ道幅を拡げている通りである。この突き当りには、いまは豊臣秀吉を祀る豊国神社が建っているが、この道幅を拡げた時には、秀吉が建てた大仏殿があった。天正十三年(1585)に起きた大地震の翌年、秀吉は奈良東大寺の大仏を真似、京都に天地鎮めの大仏建設を始めるのであるが、その建設途中の天正十九年(1591)唯ひとりの世継ぎだった鶴松が三歳で亡くなり、その菩提寺として祥雲寺を七条通の突き当りに建てる。大地震のあった天正十三年(1585)秀吉は、高野山を下りた分派が築いた新義真言根来寺の僧の武装集団根来衆を、寺ごと焼き払っている。その戦火を逃れ居場所を転々し、秀吉の死後徳川家康から大仏殿跡に建った豊国神社の一部と後に祥雲寺を与えられたのが、根来寺智積院にいた学頭の玄宥(げんゆう)とその弟子らであり、玄宥がつけた寺の名が五百仏山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)である。事を単純に記せばこうであるが、坐禅や念仏でない戦国武将を悩ませた仏教の暴力と、その牙を抜かれてゆく様(さま)への想像は怠ってはならない。「この学侶墓地に群立する墓石は、江戸時代智積院で修行し、志し半ばで亡くなられた方々を祀ったものであります。智積院は、代々真言教学(密教)の指導者が住職となり、一般の参詣のお寺とは性格を異にした、学問を尊重するお寺でありまして教学の府(中心地)「学山智山」として名を博しておりました。ここでの修行は、約二十年の歳月を単に真言教学を学ぶだけでなく、ひろく一般仏教も学ぶことに努め、宗派の隔たりもなく、元禄・寛永年間(江戸中期)には、全国から多くの学侶がこの地に集い、その数千六百余人に及んだと伝えられており、朝粥のすする音が七条大橋にまでとどろいたとも言われております。」智積院の、鉄筋コンクリートの金堂の裏の叢に、この看板が立っている。背後の斜面が学侶墓地である。五百を超える大きさの疎(まば)らな墓石が段々に整然と並び、頂上は並べて植えられた百日紅さるすべり)のいまが花盛りである。千六百余人の学侶の朝粥のすする音は、その内からぽつりぽつりと死ぬ者が出ても、天下泰平の音だったには違いない。高野山金剛峯寺の堕落に嫌気が差した覚鑁(かくばん)が、鳥羽上皇の援助で高野山の別地に大伝法院を建て、それを維持するための荘園を得る。身に余る財力を得ると権力が生まれ、財産はそれがいつ誰に奪い取られるか知れず、それは寺も例外ではなく、それを守るために武装する。やがて大伝法院はその権力を金剛峯寺に及ぼすようになり、反発が起き、古義真言と新義真言は戦いにまで発展してしまう。金剛峯寺側に敗れた大伝法院側は山を下り、新たに根来寺を作る。負けを味わった根来衆と呼ばれた武装集団は、その武装を強化するため鉄砲を手に入れ、学侶たちはその内にあって仏教の根本を身につけんとしていたのであるが、根来衆はその屈強さ故(ゆえ)に秀吉に目をつけられて滅び、玄宥たちは彷徨(さまよ)うことになるのである。朝粥をすする音は、それから百年後の音である。昭和四十三年(1968)、学生運動が華やかなりし時、立命館大学も学生によってバリケードが築かれ、学校は封鎖される。教授たちは大学に寄りつかず、授業も行われない。が、毎晩日が暮れると、ひとつの研究室の窓にだけ明かりが灯る。密かにバリケードを潜り、校舎に入っている者がいたのである。大学退職の後、単独で幾冊もの辞典を編み漢字学の第一人者となる白川静である。明かりを見つけた学生がそれを誰とも知らず、摘み出そうかと云うと、それが誰であるか知っていた回級が上の学生は、あの人はいいんだ、と云って止めたという。白川静智積院の学侶というわけではなく、ヘルメット姿の学生らが根来寺武装集団というわけではないが。

 「負い目という感情や個人的な義務という感情はすでに指摘したように、存在するかぎりで最も古く、最も原初的な人格的な関係に根ざすものである。すなわち買い手と売り手の関係、債権者と債務者の関係から生まれてきたものなのだ。この関係のうちで人格と人格が直面し、人格が他の人格との関係でみずからを計ったのである。どれほど低い文明であっても、このよう関係が確認されないような文明はまだみいだされていないのである。」(『負債論』デヴィッド・グレーバー 酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳 以文社2016年)

 「「処理水処分」早期決定求める 双葉町議会、廃炉作業影響懸念」(令和2年9月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵯峨鳥居本愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がある。まだ茅葺屋根がぽつぽつ残り、観光客目当ての土産物屋が軒を並べる鳥居本の地の名の鳥居は、先を登りつめて至る愛宕山の頂上にある愛宕神社の一の鳥居であり、小説家水上勉は時に鳥居本を、京都脱出のとば口と書いている。水上勉は昭和六年(1931)十二歳の時、十歳で預けられた寺の修行に堪えかね、嵐山電車を終点で降り、ここから山陰線の線路に沿って故郷若狭へ帰ろうとしたのだという。が、その夢は果たせず、少年水上勉はその日の夕には亀岡署員に見つかり、寺に連れ戻される。「その時、あり金はたいて嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野屋の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。」(「樒(しきみ)の里、柚の里」水上勉『京都遍歴』立風書房1994年刊)ここに出て来る念仏寺、愛宕念仏寺は、この脱走の九年前まではこの場所になかった。「念仏寺、松原通建仁寺町東北側、等覺山と號し、一に愛宕寺といふ。昔は此の邊を愛宕里といふ、今の此の名は當寺にのみ止まりて、世人愛宕寺と稱す。開基は弘法大師、中興は千觀内供(せんかんないぐ)なり。内供は不退念仏者にして、口に佛號を絶つことなし、世人稱して念佛上人と云ひ、終に寺を念佛寺と稱せしとぞ。古上梁文に文保年間重修すとあり。相傳ふ、本堂は當初創建のまゝにて、最も古代の經營なり、卽ち檜木細組天井等の如き、今の世に多くあるべからざるものにして、亦東山の一古刹なり。宗旨は初め眞言宗なりしが、後天台となり延暦寺に属す。仁王門、南向、元二條觀音寺にありしを、應仁元年の兵火後こゝに移す、左右に安する堅力金剛、密迹金剛各立像七尺許は運慶湛慶の作なりしといふ。本堂、特別保護建造物、南向、千手觀音立像三尺許を本尊とし、左右に毘沙門、地藏、二十八部衆を安す。叉堂内に千觀内供の像を安せり、自作なりといふ、また佛像中湛慶作の不動明王國寶あり、尤も名作と稱せらる。」(『新撰京都名勝誌』京都市役所 大正四年(1915)刊)東山松原通弓矢町にあったこの愛宕念仏寺は、大正十一年(1922)「松原警察署の設置に土地を割いて寺域の不足をきたし、現在右京区嵯峨鳥居本に移転した。」(『日本歴史地名大系27 京都の地名』平凡社1979年刊)警察署の強制に土地を譲って移転した愛宕念仏寺は、それから坂を下り落ちるように太平洋戦争中には無住寺となり、戦後に台風の被害を受け、ついには廃寺と果ててしまう。仁王門の堅力金剛、密迹金剛の二体が映画の小道具を扱う業者の手に渡り、千手観音の四十二本の腕の内の三十八本のばら売りがこの寺の末路であった。喰うに困った坊主は、千手観音の腕を一本折っては金に換えたのである。もしかすると、枕元の夢に現れた千手観音が、自分の腕を金にせよと坊主に云ったのかもしれない。昭和三十年(1955)、仏像彫刻師西村公朝が仏徒となって廃寺愛宕念仏寺に入った。西村公朝日中戦争のさ中、行軍中に疲労でうとうとしながら行進する兵隊の列が、あちこちが壊れ傷んでいる仏像の姿に見えて来たという。生きて帰った西村公朝は、この夢の啓示で仏像修理を生業とすることにしたというのである。昭和五十六年(1981)、NHKの番組『新日本紀行』が愛宕念仏寺を取り上げる。佐川一政がパリで人肉事件を起こし、深川で通り魔事件が起こった年である。その前の年にはモスクワ・オリンピックのボイコットがあり、イエスの方舟事件があり、新宿のバス放火事件があり、川崎で金属バットを使った両親殺害事件があり、ジョン・レノンの射殺事件があった。『新日本紀行』は、慣れない手つきで大谷石を彫る参拝者を映し出す。その後ろから手ほどきをしているのが西村公朝である。参拝者が五万円を払って、己(おの)れの彫った羅漢像を寺に寄進し、羅漢五百体で境内を埋めるというのである。番組の後半、五百羅漢の開眼供養に合わせ、修復した仁王門に、人手に渡り後に京都国立博物館に保管されていた二体の仁王が、サラシでぐるぐる巻きにされた姿で帰って来る。寄贈という形にして、西村公朝が五百羅漢の金で買い戻したのである。境内に並ぶ羅漢像は十年で千二百体となり、いまはそのどれもが苔むし、風化し、四十年の雨風にあたったくすみを纏っている。真新しい大谷石に鑿を揮(ふる)っていた者がインタビューに、若くして死んた母親の顔だと応えて笑う。他の者も皆楽しそうに己(おの)れの羅漢を彫っている。参拝者は手を合わせ、ただ五万円の布施をするのではく、鑿を持たされ、恐らくは初めての経験に苦痛を強いられる。五万円の意地があるかもしれぬが、素人にはいささか無謀のようにも思える。途中で鑿を放り出してしまえば、石はいつまでも羅漢像にならない。が、誰も投げ出さないであろうと西村公朝は確信していたに違いない。頭の中の信心は、身体を使って鍛え上げることが出来るからである。素人の彫った千二百の羅漢像が「本物」に見えるのはこのためである。

 「イサカはすばらしいところにあった。ぐるりはどこも森や谷で、渓流がざあざあと鳴りながら湖に注いでいる。病院はファーンストックという教授が所長をしていて、公園のような敷地の一角にあった。今日あったことのように思いだせるよ、とフィーニ伯母は語った。透きとおった空気の小春日和、アーデルヴァルト叔父さんとふたり、叔父さんの部屋の窓辺に立っていたこと、外の空気が流れこんできて、わたしたちはそよりとも動かない木立を透かして、アルタッハの湿原を彷彿とさせる野原を眺めていた。そこへ柄の先に白い網をつけた中年の男の人があらわれて、ときどき、ぴょんぴょんとおかしなジャンプをしているの。アーデルヴァルト叔父さんはじっと眼を据えたままだったけれど、わたしがいぶかしい顔をしたことには気がついて言った、蝶男だよ、ちょくちょく現れるんだ。」(「アンブロース・アーデルヴァルト」W・Gゼーバルト 鈴木仁子訳『移民たち』白水社2005年)

 「「セシウム濃度」…一時上昇 福島大分析、台風19号で土砂流出」(令和2年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山の哲学の道は、琵琶湖疏水沿いの小径をそう名づけたものである。琵琶湖疏水はその名の通り、琵琶湖の水を京都市中に通したものであり、その水は市の水道の九十七パーセントを賄い、残りの三パーセントも琵琶湖を出た瀬田川が注ぐ宇治川の水で賄っている。そのため京都市は大正三年(1914)から滋賀県に毎年感謝金の名目で金を払い、いまのその額は二億三千万円である。が、そもそも琵琶湖から水を引くことは江戸以前からあった願いであり、この疏水は水道のためだけに引いたものではなかった。明治十六年(1883)十一月五日に開催した勧業諮問会に京都府知事北垣国道は、「琵琶湖疏水起工趣意書」を提出する。「夫レ京都ノ繁盛ヲ維持セント欲セハ其策亦少ナカラサルヘシ然レトモ風俗地理ニ因テ之ヲ考フレバ工芸ヲ精巧ニシテ以テ物産ヲ振興シ水利ヲ開通シテ以テ運輸ヲ便ニスルヲ第一トス幸ニ近接ノ地方ニシテ其高低ノ位置ヲ得タル近江国琵琶湖水ノ疎通スヘキモノアリ是レ我カ京都全区ヲ潤沢セシムル一大元素ト謂ハサル可カラス此水利ニ因リテ運輸ヲ便ニシ器械ヲ運転シテ以テ諸製造ヲ盛大ニセハ将ニ衰頽セントスルノ京都ヲシテ忽チ転シテ天府富裕ノ地トナスコトヲ得可シ……琵琶湖疏水ノ工事一挙シテ百益相聯貫シ創興スヘキコト如此是レ此工ヲ起サントスル所以ノ大旨ナリ。其ノ便益、其一、製造機械之事(水車による動力)、其二、運輸之事(大阪湾~淀川~鴨川~疏水~琵琶湖を繋ぐ)、其三、田畑灌漑之事、其四、精米水車之事、其五、火災防眞之事、其六、井泉之事(飲料水)、其七、衛生上ニ関スル事(下水整備)。」この二年前の明治十四年(1881)、「東京湾築港計画」の論文で挫折を味わった工部大学校の学生田邊朔郎が卒業研究の調査に京都を訪れ、北垣国道に「琵琶湖疏水工事の計画」の内容を明かす。田邊の計画はまず竪坑を掘り、そこを起点に長等山のトンネルを東西に、東西からも同時に掘り進めることであった。この田邊の計画に北垣国道の心が動いたのである。福島県の安積疏水を手掛けた南一郎平が調査、島田道生が測量、二十一歳の田邊朔郎を土木の責任者に明治十八年(1885)年琵琶湖疏水の工事は着工し、明治二十三年(1890)その第一疏水が完成する。この工事のさ中、田邊は渡米、コロラド州アスペン鉱山の水力発電を視察し、北垣の「趣意書」になかった日本初の水力発電所を疏水の完成に合わせ造っている。この瞬発力は只(ただ)ならない。疏水完成の年の秋、田邊は榎本武揚の媒酌で北垣国道の長女静子と結婚し、翌明治二十四年(1891)には二十九歳で東京帝国大学の教授になっている。この秀才にして若き成功者は、立身出世の手本のような人物に見える。掘り進んだトンネルに地下水が溢れ出してくると、真っ先に手桶を持って降りて行ったという挿話を聞けば、田邊朔郎は学者というより、地に足のついた土木技師だったのかもしれない。「一身殉事 萬戸霑恩(一身事に殉じ萬戸恩に霑(うる)ほふ(涙に濡れる))。工夫頭山野治平、火夫大川米藏、工夫福岡浪藏、仝(同)久保時藏、仝米山泰一郎、仝山田幾次郎、仝中川久次郎、仝大槻市藏、仝斎藤寅吉、仝吉木榮吉、仝砂子三五郎、仝宮崎徳松、仝藤井重介、仝下郡忠治、右自明治十八年至廿三年工事中重傷至死、京都府六等属土岐長寛、京都府七等属内藤義次、仝九等技手服部晉、右工事中罹病而死。」疏水を見下ろす山裾に建つ、琵琶湖疏水の工事中に命を落とした十七名の慰霊碑の文面である。これは明治三十五年(1902)田邊が四十歳の時に、己(おの)れの金で建てたものであるという。碑は二メートル余の高さがある。初めて任された大仕事に、これだけの死者が出た。その者らの家の者と、その者らを知る者は皆涙を流して悲しんだ。田邊は明治三十三年(1900)、北海道庁鉄道部長から京都帝国大学の教授になり、京都に戻って来ている。碑を建てたのはその二年後である。その時の田邉の胸の内は知る由もないが、この者らの死を田邊は、己(おの)れがいつの日か忘れてしまうことを懼(おそ)れたのではないか、それを申し訳なく思ったのではないか。これは犠牲を称(たた)えるためのものではない。田邊は己(おの)れのために建てたのである。南禅寺参道前に、水を噴き上げる疏水の深い溜まりがある。南禅寺には、苦肉の策で疏水を空中に通した水路閣がある。溜まりを出た一方の疏水は、真っ直ぐ西に向かい、一旦鉤型に折れ、そのまま鴨川に注いでいる。この溜まりから疏水に沿って京都市動物園がある。いま疏水の縁に立って向こう岸を見ると、その幅は二十メートル足らずなのであるが、赤や黄や青の建物が遠い様に目に映る。動物のいる檻は見えない。背高の観覧車はゆっくり回り、水際のテラスに並ぶ白いテーブルに家族連れの姿があり、ぞろぞろ動いている姿も見える。が、子どもの声が聞こえて来ない。キリンを見ても何も口に出さない子どももいるかもしれないが、歓声を上げる子どももいるはずである。が、動物園は静かである。人に近づかないように、人の傍で大声を出さないように、人前で口を開かないように、後ろからマスクをした親が云っているのかもしれない。動物園に限らず、町中でもどこでも子どもは守らされているのである。いまは見えないものが靄がかかったように辺りを、世の中を覆っている。黙って息を詰めている方が、子どもには獣の毛並みの一本一本までもがその目に見えて来るであろうか。

 「しょうがいがあります ◯2500えんはふうとうにいれます ✕おかねのけいさんはできません ◯1たい1ではおはなしできます ✕ひとがたくさんいるとこわくてにげたくなります ◯となりにかいらんをまわすことはできます ◯ひととあったらあたまをさげることはできます ✕いぬとかねこはにがてです ✕ごみのぶんべつができません ◯自てんしゃはのれます ◯せんたくはできます ほすこともできます ◯どこでもすーぱーこんびにはかいものできます ◯くやくしょびょういんにはいけます ✕かんじやかたかなはにがてです ◯けいたいでんわはつうわのみです」(「「おかねのけいさんはできません」男性自殺、障害の記載「(班長選を断ると)自治会が強要」」毎日新聞令和2年7月31日)

 「東日本大震災から「9年5カ月」…浜通り6署が管内を一斉捜索」(令和2年8月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 梶の葉を朗詠集のしをり哉 蕪村。この句の季語は梶の葉で、織姫彦星と同じ七夕の季語の一つであるが、機織りの上達を願い歌を書いた七枚の梶の葉に針で五色の糸を通して星の下に供えたという平安の風習、乞巧奠(きっこうでん)の知識のない者にはこの梶の葉の意味するところは分からない。朗詠集、『和漢朗詠集』は正二位権大納言藤原公任(ひじわらのきんとう)が己(おの)れの娘婿藤原道長の五男教通(のりみち)への結婚の引出物にしたという詩歌集で、公任自らが漢詩漢詩に倣った本朝詩と和歌を撰り集めた平安王朝が匂い立つ教養の書であり、当時蕪村の仲間内でも古典となっていたものに違いない。蕪村が梶の葉のしをりをどの頁に挿したのかは分からぬが、『和漢朗詠集』の巻上秋の「七夕(しつせき)」の項には次のような詩歌が載っている。「憶(おも)ひ得たり少年にして長く乞巧(きつかう、乞巧奠)せしことを 竹竿の頭上に願糸多し 白(白居易)」竹竿の枝に結んだ幾本もの五色の糸を見上れば、子どもの頃にはいつも七夕に願い事をしていたことを思い出す。「二星(じせい)たまたま逢へり いまだ別緒依々(べつしよいい)の恨を叙(の)べざるに 五更(ごかう)まさに明けなむとす 頻(しきり)に涼風颯々(りやうふうさつさつ)の声に驚く 美材(小野美材おののよしき)」年に一度逢う牽牛と織姫は瞬く間にやって来る別れに恨み言を云いたくても、夜明けの肌を撫でる風の冷たさにはっと驚いてしまう。「露は別れの涙(なんだ)なるべし珠空しく落つ 雲はこれ残んの粧ひ髻(もとどり)いまだ成らず 菅(菅原道真)」地に置く露は牽牛と織姫の別れを惜しんで落とした涙で、空の雲は寝乱れたままの髪のなりのようだ。「風は昨夜より声いよいよ怨む 露は明朝に及んで涙禁ぜず」昨夜から吹き已(や)まない風音はますます七夕の別れの恨み節のようで、夜明けに見る露は抑えきれない別れの涙に違いない。「去衣(きよい)浪に曳いて霞湿(うる)ふべし 行燭(かうしよく)流れに浸して月消えなむとす 菅三品(くわんさんぼん、菅原文時)」天の川を渡る織姫の霞の衣の裾は波に濡れるに違いなく、捧げ照らす月の灯も流れに浸され消えかかっている。「詞(ことば)は微波(びは)に託してかつかつ遣(や)るといへども 心は片月を期して媒(なかだち)とせんとす 輔昭(ほせう、菅原輔昭)」向こう岸へは言葉は天の川のさざ波に託すほかないのだけれど、それよりも早く心はこの欠けた月のようだと伝えることが出来れば。「あまの川とほきわたりにあらねども君が舟出は年にこそ待て 人丸(柿本人麻呂)」天の川の向こう岸がそれほど遠いわけではないのに、牽牛が舟を出すのは一年に一度だから、その一年という時を待たなければならない。「ひとゝせに一夜と思へど七夕にあひみむ秋のかぎりなきかな 貫之(紀貫之)」一年に一度の逢瀬ではあるが、秋が巡って来る限り牽牛と織姫は永遠に逢うことが出来るのです。「としごとに逢ふとはすれど七夕の寝(ぬ)る夜のかずぞすくなかりける 躬恒(凡河内躬恒(おほしかふちのみつね))」必ず一年に一度牽牛と織姫は逢うことが出来るというけれど、その逢瀬が一夜限りというのはやはり男と女には耐え得ないのである。梶の葉をしをりとして持ち出した以上蕪村は、『和漢朗詠集』のこの「七夕」の項をこの時に読んだか、あるいは以前に読んだことがあるには違いない。梶の葉は大人の手の平の大きさがあり、その青々とした葉はおよそしをりに相応しいものではないが、蕪村は本に挟んでしをりとしたという。蕪村は実際に、手許にあった梶の葉をそのようにしたのかもしれない、あるいは誰か知り合いの者がそのようにしていたものを見たことがあるのかもしれない。あるいは目の前には梶の葉も朗詠集もなく、想像でそう詠んだのかもしれぬ。が、いずれであってもしをりに相応しいとは思えぬ梶の葉をしをりにすることの意味するところは、演出である。七夕は、頭上遙か天の川を挟んだ牽牛と織姫の年に一度の逢瀬である。蕪村は、あるいは蕪村の知り合いかもしれぬ者は七夕の句を考えあぐね、近くにあった朗詠集を手元に引き寄せ、これは女が、正確には女の父親が用意したものであるが、結婚相手の男に贈ったものであることに思い当たる。なるほど朗詠集は、そもそも男女の絡んだ本である。このささやかな発見の嬉しさを云うために、蕪村は梶の葉をそのしをりとして演出したのである。梶の葉が挟まれている朗詠集の頁は、云うまでもなく「七夕」である。七月一日から月の半ばまで、千本ゑんま堂で風祭りという催しがある。薄暗い本堂の内でも外でも幾つもぶら下がった風鈴が鳴り、その風は千本通商店街に赤い提灯を並べ掲げる入口から、月極駐車場になっている境内を通って来る。七夕は星祭りともいうが、千本ゑんま堂は風祭りと名づけ、日が沈むと提灯に明りを灯し、閻魔大王の前で梶の葉に願い事を書かせる。願いを書いた梶の葉は、本堂の前に張った麻紐に逆さに吊るされゆらゆら風に靡(なび)き、日に日に丸まって文字は見えなくなり、カサカサに乾き、終(つい)にはサインペンの字もろとも粉々に砕け散ってしまう。梶の葉に書いた願い事は、雨晒しの絵馬の板切れのようにいつまでもこの世に留まるのでなく、風に乗ってしかるべきところまで飛んで行くのであると諭されれば、そうかもしれぬと人の信心は、情こそは萎(しな)びた梶の葉の方に傾くのである。

 「杏の実が熟れる頃、お稲荷さんの祭が近づく。雄二の家の納屋の前の杏は、根元に犬の墓があって、墓のまはりには雑草の森林や、谷や丘があり、公園もあるのだが、杏の実はそこへ墜ちるのだ。猫が来て墓を無視することもある。杏の花は、むかし咲いた。花は桃色で、花は青空に粉を吹いたやうに咲く。それが実になって眼に見え出すと、むかし咲いた花を雄二は憶ひ出す。」(「貂(てん)」原民喜原民喜全集 第一巻』芳賀書店1969年)

 「海洋放出、13市町村議会「反対」 福島第1原発・処理水意見書」(令和2年7月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 明月院ブルーという色がある。北鎌倉明月院に咲く紫陽花の花の色を指して、そういうのだという。その青色は咲き始めの薄水色ではなく、枯れる前のひと時の濃い水色をいうのであろう。明月院の境内一面に植えられている紫陽花は七月に入ると、まだ水色の盛りでも枯れ始めていても、花の首をすべて刎(は)ねられてしまう。来年も間違いなく咲かせるためにそうするのだと、鋏で刎た首を大袋に集めていた庭師の一人が教えてくれた。この庭師はわざわざ庭の手入れに京都から四五人で、明月院にやって来ていた。その時だけでなくある年から毎年、庭師らはこの時期に紫陽花の首を刎ねに来ているのである。昭和六十二年(1987)一月三十日、明月院の住職が船橋のホテルで自殺をしている。血縁に寺を継ぐ者がなく、花園妙心寺の僧侶がこの住職の空けた穴を埋めに入り、己(おの)れの寺事(こと)の手始めに旧知の庭師を呼び寄せたのである。自死した住職が書いた卒塔婆を見たことがある。盂蘭盆に備え裏山の墓地の草毟(むし)りの手伝い作業をしていた時、稚拙でばらばらの大きさの字が並ぶ異様な卒塔婆が目に入り寺の用務の者に訊くと、それが自死した住職が書いたものであった。その下手な字の古びた卒塔婆は、まだ何本も辺りの墓石に寄りかかり立っていた。年のいった用務の話によれば、自死した住職は前住職だった父親の跡を継いで住職になった、前住職の父親には妾がいて、母親が死んだ後に父親はその妾を寺に入れ、息子はそれを嫌って寺を出、父親が死ぬと戻って来た、駒沢出の人の良い住職だったが女遊びが好きで金遣いが荒く、宝籤に金を注ぎ込んだり、パラジウム先物取引きで一千万すり、砂糖相場にも手を出して失敗し、果ては寺の地所を担保に借金をして詐欺まがいの事件に巻き込まれてしまった、と云うのである。週刊誌沙汰にもなったという、住職が自死に追い詰められた事件の裁判判決文はこうである。「主文。被告(田村初ニ他二名)らは原告(嶋村豊他二十五名)らに対して、各自、別紙請求目録「原告名」欄記載の各原告ら該当の同目録「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対するいずれも昭和六一年一二月一一日から各支払い済みにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。事実及び理由。━━原告らは主文第一、第二項と同旨の判決及び主文第一項につき仮執行の宣言を求め、請求原因として次のとおり述べた。1、当事者。(一)原告らはいずれも訴外和興抵当証券株式会社(以下「和興」という。)から抵当証券を購入した者である。(二)被告田村初ニ(以下「被告田村」という。)、被告鈴木一郎(以下「被告鈴木」という。)及び分離前の被告足利誠三(以下「足利」という。)は、昭和六一年六月二日に和興の取締役に就任し、被告田村は同年八月一八日まで代表取締役として、足利は右同日から代表取締役として、また、被告北田一廣(以下「被告北田」という。)は和興の幹部職員として、いずれも和興の経営に参画し、業務を遂行していた者である。2、本件不法行為の経緯。(一)いずれも分離前の被告株式会社東証ファクタリング(以下「東証」という。)の取締役である分離前の被告波平春夫(以下「波平」という。)、同奈良敦(以下「奈良」という。)、東証の幹部である分離前の被告藤原襄(以下「藤原」という。)及び被告田村は、昭和六一年二月一〇日東証から出資金を借り受けて、抵当証券の販売を目的とする資本金三〇〇〇万円(発行済株式数六〇〇株)の和興を設立し、同社の代表取締役に被告田村(昭和六一年八月一八日退任)を、取締役に被告鈴木及び足利を、監査役に藤原をそれぞれ就任させた。波平、奈良、藤原は和興の株式を各一一〇株ずつ、被告田村は一二〇株、被告鈴木は一〇〇株、被告北田は二〇株をそれぞれ所有している。(二)和興は東証から三〇〇〇万円を借り受け、その資金をもって、昭和六一年三月ころ東京都中央区日本橋本町一丁目六番地所在のビルの一室を賃借し、内装工事を行ったうえ一流金融機関のような外装を整え、従業員一六名(男女各八名)で営業活動を開始し、また、同年六月ころ札幌市中央区北一条西二丁目一番地所在の建物を賃借して札幌営業所を開設し、従業員八名(男二名、女六名)で同営業所の活動を開始した。(三)波平は昭和六一年二月初め訴外宗教法人明月院(以下「明月院」という。)の代表役員である訴外近藤杏邨(以下「近藤」という。)に対し、明月院が所有する神奈川県鎌倉市山ノ内字明月谷一九〇番ほかの山林、宅地約四万平方メートルの土地(以下「本件土地」という、)につき、和興を抵当権者とする債権額一二億円の抵当権設定登記をすれば、和興が右抵当権について登記所から抵当証券の交付をうけてこれを販売し、東証が和興からその販売により得た資金を吸い上げ、明月院に貸し付ける旨の申し出を行ったろころ、近藤はこれを承諾した。(四)東証代表取締役波平は、和興の代表取締役被告田村との間において、架空の金銭債権を作り出すため、和興が東証に対し一二億円の貸付を行った旨の昭和六一年二月一七日付金銭消費貸借契約書を作成し、同月二四日近藤をして、明月院所有の本件土地につき、横浜地方法務局鎌倉出張所受付第二八四〇号をもって、債権額を一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権設定登記手続を行わせ、同年三月一五日この抵当権に基づき、右法務局出張所から一二億円が一二口に分割された一二億円の抵当証券(以下「本件抵当証券」という。)一二枚の交付を受けた。(五)被告ら及び足利、波平、奈良、藤原(以下「被告らほか四名」という。)は、和興の営業活動として、本件抵当証券を販売して資金を集めることを決定したが、抵当証券自体の裏書、交付は行わず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面を作成して、これを購入者に交付することにし、昭和六一年三月ころから本件抵当証券の販売のための宣伝活動を開始した。右宣伝活動は、新聞の折り込みや電車内広告によるもので、その内容は、一年ものの確定利率六・二パーセント、二年ものの確定利率六・四パーセント、三年ものの確定利率六・六パーセント、五年ものの確定利率七・〇パーセントという当時の低金利の金融状況下においては有利な投資と思わせるものであり、しかも、元利金の支払いは抵当証券により担保されたうえ、和興が保証するので二重に安全で、税金面においても節税商品であると「安全」、「確実」、「有利」を宣伝するものであった。(六)原告らは、他の多くの投資家と同様に和興の右宣伝を信じて、本件抵当証券を買い受けモーゲージ証書の引渡しを受けた。(七)和興は多額の宣伝費をかけて本件抵当証券を販売したが、その販売代金のうち宣伝経費及び事務管理費を除いた資金は、まず、東証が和興の設立のために出資した六〇〇〇万円の返済にあてられ、また、東証に貸付金の形で送金され、東証において、その事業のために使用されたほか明月院への貸付金にあてられたが、三億円以上にのぼる宣伝経費、事務管理費、購入者の途中解約による解約金等により大半が費消されてしまった。そして、新聞等の報道機関が、昭和六一年五月ころから抵当証券会社の中に悪質な詐欺まがいのものがあることを報道した結果、一般投資家の警戒心が高まり、和興は売上の減少した都内を避け、千葉県、埼玉県、神奈川県、茨城県等の関東一円に販売の手を広げ、さらに、同年六月ころ札幌営業所を開設して本件抵当証券の販売を行った。しかし、首都圏では同年六、七月ころから解約申請が相次ぎ、和興は手持資金或いは新たな購入客から得た販売代金をもってこれに対応していたが、新聞等の報道機関による報道の浸透から関東地区はもとより北海道においても売上が低迷し、解約金に支払いも思うにまかせなくなり、同年一〇月半ばころに至って解約にも応じられない状態となり、同年一二月二五日を解約金支払予定日とする解約金返金確認書を交付して、返金の猶予を求めるだけの状態となり、同年一二月一一日破産宣告を受けた。本件抵当証券の売上高、解約金、宣伝費は、次のとおりである。売上金額、解約金額、宣伝費。昭和六一年三月 三億〇三五〇万円、一七〇〇万円、四八〇〇万円。四月 二億三六五〇万円、三三〇〇万円、四八〇〇万円。五月 一億八五〇〇万円、七三〇〇万円、四八〇〇万円。六月 一億三二五〇万円、七三五〇万円、四八〇〇万円。七月 一億二七二〇万円、一億円、四八〇〇万円。八月 二九一〇万円、二七〇〇万円、四八〇〇万円。九月 二五五〇万円、二九〇〇万円、四八〇〇万円。一〇月 不明、二九八〇万円、四八〇〇万円。(八) 明月院は、原告らの代理人である山本安志が昭和六一年一〇月三〇日ころ抵当証券登記の抹消をすると和興から本件抵当証券を購入した多数の者が損害を被ることになるので右登記の抹消を中止して欲しい旨懇請したにもかかわらず、同年一一月一日、和興の占有下にある本件抵当証券の返還を受けて、本件土地に設定された右抵当権の設定登記の抹消手続きをした。3、本件不法行為。(一)被告らほか四名は、抵当証券会社が不動産に抵当権を設定して融資を行い、この抵当権を証券化し、証券を投資家に販売して融資金利と投資家への利息との利鞘を稼いでいるものの、実際の抵当証券取引は、購入者が抵当証券を買っても抵当証券自体の裏書、交付がなされず、抵当証券の売渡証書と保護預かり証の双方の性質を有するモーゲージ証書なる書面が交付されるにすぎないことに注目し、昭和六一年初めころ、当初から元金はもとより利息を支払う意思も能力もないまま、架空の貸金を被担保債権とする実体のない抵当証券を作り出してこれを販売し、一般大衆から金員を騙し取ることを計画(以下「本件計画」という。)した。(二)右計画に基づいて、波平、奈良、被告村田及び藤原は、東証代表取締役、取締役ないし幹部であることから、東証の事業活動として、抵当証券会社である和興を設立することを決め、東証の資金六〇〇〇万円をもって和興の設立準備資金及び開業資金に当て、また、東証幹部である被告田村、藤原を和興の取締役及び監査役に派遣し、さらに、和興の発行済株式数六〇〇株中、被告田村らが五七〇株を所有し、和興の事業活動全般にわたって東証の指示のもとに業務運営がなされるような形態で、昭和六一年二月一〇日和興を設立した。(三)ついで、波平は見せ掛けの抵当証券を作るため、昭和六一年二月初めころ、明月院の代表役員である近藤に対し、明月院所有の本件土地につき、一二億円の架空債権を担保するための抵当権設定登記手続きをして、本件計画に加担することを求め、近藤は、東証から明月院に対する融資を条件としてこれに応じ、後記のとおり、昭和六一年二月二四日本件土地に和興の東証に対する架空の貸金債権を被担保債権とする抵当権設定登記手続(債権額一二億円、債務者を東証、抵当権者を和興とする抵当権)を行なった。(四)さらに、被告らほか四名は本件抵当証券を作り出すため、和興が東証に一二億円を融資した事実はないにもかかわらず、昭和六一年二月一七日付で一二億円を貸渡した趣旨の金銭消費貸借契約証書を作成し、同月二四日近藤の協力を得て、本件土地につき和興の東証に対する右架空の貸金債権を被担保債権とする債権額一二億円の抵当権設定登記手続を行い、同年三月一五日登記所から一二億円の本件抵当証券一二枚の交付を受けた。(五)被告らほか四名は、本件抵当証券が以上のように架空の貸付金に基づき交付されたもので実体がないものであり、被告らほか四名には本件抵当証券の購入者に対し、元金はもとより利息を支払う意思も能力もないにもかかわらず、昭和六一年三月ころから、新聞折り込みや電車内広告等により「安全・確実・高利回りの確定利率なので確実である。法務局発行の抵当証券を和興が保証するので二重に安全である。」などと虚偽の宣伝をし、これを信用した原告らに次のとおり、本件抵当証券を売渡してその売買代金を受領し、売買代金と同額の損害を被らせた。原告名、購入年月日、購入金額。嶋村豊、昭和六一年五月七日、二五〇万円、同年八月二九日、二五〇万円。千田春夫、同年四月二五日、六〇〇万円、同年五月七日、一〇〇〇万円。番澤政吉、同年四月七日、一〇〇〇万円。伊東一郎、同月二六日、三〇〇万円、同年五月二九日、一〇〇〇万円。石川謙三、同年三月一九日、一五〇万円。中村誠、同年七月二六日、一五〇万円、同年九月一日、一〇〇万円。橋本清美、同年三月二八日、一〇〇万円。相田信子、同年四月二日、六〇〇万円。井上孝子、同年五月九日、二〇〇万円。荒川竜三、同月二一日、三〇〇万円。高橋政雄、同月二八日、一〇〇万円。丹羽菫、同年三月二〇日、一〇〇万円。須藤和子、同年四月一四日、三〇〇万円、同月一七日、一〇〇万円。長美津江、同年七月一〇日、三〇〇万円。金津光一、同月九日、三〇〇万円。藤野忠、同年三月二五日、二〇〇万円。荒木堯、同年六月二五日、三〇〇万円。佐々木弘、同年七月二三日、三〇〇万円。中村貞子、同年八月一五日、三〇〇万円。林柳子、同月八日、三〇〇万円。藤沢三郎、同年七月一一日、二〇〇万円。松田与吉、同月二五日、二〇〇万円。山下清、同年六月二一日、二〇〇万円。小林ひろ子、同月二三日、二〇〇万円。高野宮、同月一三日、三〇〇万円。内藤亨、同年七月一日、三〇〇万円。4、責任。被告らは、波平、奈良、藤原及び足利らと共謀して、本件計画を立案、遂行して原告らに損害を与えた当事者であるから、民法七〇九条、七一九条に基づき、原告らに対し、連帯してその被った損害を賠償すべき責任がある。5、損害。(一)原告らは、被告らの本件不法行為により別紙請求目録の「実損額」欄記載の各金員を騙取られ、同額損害をそれぞれ被った。(二)一、原告らは、被告らに右損害を賠償させるため本件訴訟を原告ら訴訟代理人らに委任し、その報酬として別紙請求目録の「弁護士費用」欄記載の各金額をそれぞれ支払う旨を約した。よって、原告らは被告らに対し、民法七〇九条、七一九条に基づき、各自、別紙請求目録の「請求金額」欄記載の各金員及びこれに対する不法行為後である昭和六一年一二月一一日から各支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。二、被告らは、適式の呼出を受けながら本件口頭弁論期日に出頭せず、答弁書その他の準備書面も提出しないので、請求原因事実を明らかに争わないものと認め、これを自白したものとみなす。右事実によれば、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。(裁判長裁判官 川上正俊、裁判官 宮岡章、西田育代司)」(横浜地方裁判所 昭和62年(ワ)1216号判決)住職の自死は、この判決の出る前である。明月院の紫陽花は、檀家の前でうろ覚えの経をあげ、下手な卒塔婆を書き、果ては詐欺の片棒を担がされたこの者の父親が、太平洋戦争の後に植え育てたものである。南禅寺の境内の人に踏まれそうなところに数本、濃い桃色の捩花(ネジバナ)が咲いていた。が、そもそもその踏みそうな人びとの姿は、この境内にも市中にもまだない。

 「僕の絵はまず画用紙の中央に、森に包みこまれた谷間を描きこんでいました。谷間の中央を流れる川と、そのこちら側の盆地の県道ぞいの集落と田畑に、川向うの、栗をはじめとする果樹の林。山襞にそって斜めに登る「在」への道。それらすべての高みをおおって輪をとじる森。僕は教室の山側の窓と、川側の廊下をへだてた窓を往復しては、果樹の林から雑木林、色濃い檜の森、杉林、そして高みに向けてひろがる原生林を、ていねいに写生したものでした。」(『М/Tと森のフシギの物語』大江健三郎 岩波書店1986年)

 「【風評の深層・処理水の行方】処理水…宙に浮く「国民議論」」(令和2年7月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)