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 後鳥羽上皇の女房松虫と鈴虫の姉妹が、法然の弟子住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)の手により剃髪したと知った上皇は、建永二年(1207)、住蓮と安楽を斬首する。あらゆる階層に広まった、南無阿弥陀仏を唱えるだけで極楽浄土に往生出来ると説く法然の教えによって時代遅れにされた、教義と戒律で現世利益を説く叡山延暦寺と南都興福寺が、専修念仏排斥へ朝廷に圧力をかけていた最中のことであり、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪になる。この時期延暦寺の最高位にあった慈円が、件(くだん)を記した文章は些(いささ)か生々しい。「又建永ノ年、法然房ト云(いふ)上人アリキ。マヂカク京中ヲスミカニテ〔住まいを持って〕、念佛宗ヲ立テ専宗〔専修〕念佛と號(ごう)シテ、「タゞ阿彌陀佛トバカリ申(まうす)ベキ也。ソレナラヌコト、顯密〔顯教・密教の読経、礼拝の行〕ノツトメハナセソ」ト云事(いふこと)ヲ云(いひ)イダシ、不可思議〔異様な〕ノ愚痴無知〔ぐちむち・理非のわからぬこと〕ノ尼入道ニヨロコバレテ、コノ事ノタゞ繁昌ニ世ニ〔ことのほか〕ハンジヤウシテツヨクヲコリツゝ、ソノ中ニ安樂房トテ、泰經(やすつね)入道ガモトニアリケル侍、入道シテ専修ノ行人〔ぎやうにん・修行僧〕トテ、又住蓮トツガイテ〔組んで〕、六時禮讃〔ろくじらいさん・一昼夜を六分し仏を礼拝懺悔すること〕ハ善導和上(ぜんだうわじやう)ノ行(おこなひ)也トテ、コレヲタテゝ〔言い出して〕尼ドモニ歸依渇仰〔きえかつがう・心傾け深く信仰する〕セラルゝ者出(いで)キニケリ。ソレラ〔尼ども〕ガアマリサヘ〔その上に〕云(いひ)ハヤリテ〔言いふらして〕、「コノ行者〔修行者〕ニ成(なり)ヌレバ、女犯ヲコノムモ魚鳥ヲ食(くらふ)モ、阿彌陀佛ハスコシモトガメ玉(たま)ハズ。一向専修ニイリテ念佛バカリヲ信ジツレバ、一定〔いちぢやう・必ず〕最後ニムカヘ玉(たま)フゾ」ト云(いひ)テ、京田舎サナガラ〔すべて〕コノヤウニナリケル程ニ、院ノ小御所ノ女房、仁和寺(にんなじ)ノ御(お)ムロ〔道助法親王〕ノ御母〔後鳥羽上皇妃坊門局〕マジリニコレヲ信ジテ、ミソカニ〔ひそかに〕安樂ナド云物(いふもの)ヨビヨセテ、コノヤウトカセテキカン〔専修念仏の様を説明させて聞こう〕トシケレバ、又グシテ〔連れて〕行向(いきむかふ)ドウレイ〔同輩〕タチ出(いで)キナドシテ、夜ルサヘトゞメナドスル事出(いで)キタリケリ。トカク〔あれやこれや〕云(いふ)バカリナクテ、終(つひ)ニ安樂・住蓮頸(くび)キラレニケリ。法然上人ナガシテ京ノ中ニアルマジニテヲハレニケリ。」(『愚管抄』日本古典文學大系86岩波書店1967年)院の女房の住まいに出入りして念仏を声明(しょうみょう)教授する住蓮と安楽を、女房らは「夜ルサヘトゞメナドスル」までに至り、遂には出家を請(こ)う女房の松虫と鈴虫を前にした住蓮と安楽は、己(おの)れの死が避け得ぬことを思ったに違いない。が、唱え続けて来た極楽浄土を目の前にして、松虫と鈴虫の髪を剃る剃刀を持つ二人の手が震えたはずはない。震えを想像するのは、いまの生死観である。松虫と鈴虫は、瀬戸内海の生口島(いくちじま)の光明坊に身を寄せ、尼として一生を終える。鹿ケ谷の安楽寺に住蓮と安楽、松虫と鈴虫の供養塔がある。松虫と鈴虫は、住蓮と安楽が唱える六時礼讃の美声に惹かれ、出家をしたとも云われている。姉の松虫は十九歳、鈴虫は十七歳だった。門を開けた安楽寺の客殿では、参拝者にコーヒー紅茶を出し、モダンジャスを流していた。

 「時の移ろいというものは不思議である。この人と私は一回りも年が離れているのに、⦅あの時代⦆への思いだけは、いつの間にか接近してしまっているのだ。あのころ、私はさほど不幸ではない子供であり、この人は決して幸福ではない二十歳だった。」(山田風太郎『戦中派虫けら日記』ちくま文庫1998年)

 「【復興の道標・復興バブル後】除染の仕事…先細り 転職の「受け皿」課題」(平成28年5月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)