「天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上ゆ なづさひ来にて あら玉の 月日も来経ぬ 雁がねも つぎて来鳴けば 垂乳根の 母も妻らも 朝露に 裳の裾濡(ひづ)ち 夕霧を 衣手濡れて さきくしも あるらむ如く 出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の嘆きは あひ思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散へる野辺の 初尾花 仮廬(かりほ)に葺きて 雲離れ 遠き国辺の 露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ」(万葉集三六九一 葛井連子老(ふぢゐのむらじこおゆ))天地とともにありたいと思いながら生きていたであろうに、いとおしい家を離れ、波の上を漂いながらやって来て、新らしい月日が来ては過ぎ、雁もつぎつぎやって来て鳴けば、母も妻も朝露に上裳の裾を泥で汚し、夕べの霧に袖を濡らして、家を出ては眺めながら待っているであろうに、この世の人の嘆きを思わない君でもなかろうに、秋になって萩の花がしきりに散る野辺で刈り取った初尾花で仮寝の小屋の屋根を葺き、雲の彼方のその遠い国の、露霜の寒々しい山のどこかで寝起きしているのであろうか。原文の表記は「由布疑里尓(ゆふぎりに) 己呂毛弖奴礼弖(ころもでぬれて)」となっている「衣手」は袖のことであるが、「常陸」や「名木」の前に置く枕詞でもある。が、「秋ごとに誰か染むらむ主しらぬからくれないの衣手の杜」(右京大輔顕輔)秋が来るたびに一体誰がこの衣裳を染めているのだろう、誰が着ているのかもわらない深い紅色の衣手の杜よ、と詠うこの歌の「衣手」は枕詞ではなく、「衣手の杜」あるいは「衣手の森」という歌枕、地名である。その場所は、『扶桑京華志』(寛文五年(1665)刊)に、「衣手ノ森、松尾与(ト)嵐山之間ニ在リ。」とあり、『菟藝泥赴』(文政十年(1827)刊)には、「松尾の南の森とぞ、一説に松尾の前の河原ありし洪水に流されて跡もなしといへり。然(しかれ)ども衣手里衣手小野有、猶(なほ)之を尋ぬべし。」、あるいは『都名所図会』(安永九年(1780)刊)には、「衣手杜、いにしへ松尾の東にあり。洪水に漂流し、樹木絶えて河原となる。衣手社は松尾の社内にあり。」、あるいは、『京師巡覧集』(延寶七年(1679)刊)には、「栗隈(クリコマ)ノミヤケト云所ニ秋小鷹狩シ侍ルトキ、女郎花ノタテルヲ見テ、長能(藤原長能)ガヨミケルウタトモ思ヒヤリ、ソレヨリ廻(マハリ)テ衣手(コロモ)ノ名木ノ河邊ニ立ヤスラヘバ、雨ニソボヌレ家オモヘトモアタリニミヘズ、森ノ木陰ヲト尋侍ルニ、人ノイヘルハ衣手ノ森ハ松尾ト嵐山ノ中間ナリ、サイツ頃ノ洪水ニ河原トナリテ跡モナシ。松ノ尾ノ前ノ河原面ニアリトイヘバ、心ノ残コトカギリナシ。」とある。「衣手の杜」には、「衣手の森」と「衣手の杜」に建つ「社」も含まれていて、松尾と嵐山の間の辺りか、松尾の東か南にあったが、洪水で流され、跡形もない。が、いまは新たな衣手の社が松尾社の内にある、というのである。四条通の西の末、桂川に架かる松尾橋から下った一つ目に架かる上野橋と次の西大橋の間の土手の東に、古い欅やムクノキに囲まれたどこの町中(まちなか)にもあるような境内に遊具の鉄棒やタイヤを半分地面に埋めた衣手神社があり、一帯の地名は東西南北のついた衣手町である。この衣手神社は、明治八年(1875)に松尾大社の摂社衣手社をここに鎮座していた三宮社に合祀し、明治十一年(1878)に三宮社から名を改めている。これは三宮社が建っていた東衣手町の辺りこそが「衣手の杜」であったとする松尾大社の考えによるものであるという。宝暦十一年(1761)四月十二日の朝、桂川東岸のこの辺りに男女の遺体があがった。二人の身元はまもなく、白川辺に住む商人長右衛門四十九歳とその近所に住むお半十四歳と分かった。二人は互いの体を帯で縛っていたため心中と思われた。が、事実はそうでなかった。明治二十一年(1888)に出た藤谷虎三の「大岡政談、於半長右衛門実説」によれば、こうである。京都白川辺に住む琴鼓の師匠橘成のもとに、花嫁修業中のお半と、店を弟に任せて半ば隠居の身の道楽者長右衛門が通っていた。お半は二歳で実母に死なれて以来父親の再婚相手の継母に育てられ、十二歳で父親が死ぬと継母はいよいよ金づるに取りつくため、お半に金をかけて仕込み、四条通の金持ちの某との縁談話が舞い込む。その某は望み通りの調度金を出すというではないか。しかし祇園の茶屋でお半が見たその相手は、呆れるばかりの醜男で、お半は「化け物に等しき夫を持つのは死ぬより一層悲しい」と思い、直ちに何とかしなければと考え、山城八幡山橋本に住む叔母に相談することを思いつく。が、一人で叔母の元に行くには心許なく遠いと思ったお半は、師匠の橘成に同行を頼みに行く。が、橘成は留守で、その妻も隣家にお産があって呼ばれ、たまたま居合わせた長右衛門に留守を頼んで家を空けていたのである。切羽詰まっていたお半は、幼い時から可愛がってくれていた長右衛門に事情を話すと、長右衛門は話を聞き入れ、叔母への口添えも約束し、二人は九条の外れで待ち合わせることにした。深夜、待ち合わせ場所に遅れてやって来たお半と長右衛門は伏見街道を下って行く。が、お半は次第に疲れてしまう。が、夜中で籠もなく、桂川に架かる淀橋は壊れていて、渡し船もやっていない。が、よく目を凝らして見ると、蘆の茂りの中に船が一艘あり、その近くに四五人の男が火にあたっているではないか。長右衛門は走って行って男の一人と交渉する。男は、「酒手(酒代)を呉れれば乗せてやる」と云い、船を川面に引き出し、お半と長右衛門を乗せる。すると男は長右衛門に、「娘はもとより懐中にせし路銀衣類残らず置いて行かば生命ばかり助くべし」と云う。長右衛門が拒むと、男は二人の首を櫂で殴り殺し、帯で縛って川に放り込んだ。お半は継母が貰った調度金三百両から百両を盗み出し、長右衛門も兵庫に急用が出来たと身内に告げていて、二人の遺体があがった当初、伏見奉行所は百両の金を持っての情死に疑いを持っていた。それからほどなく、かねてから目をつけられていた盗賊、九人姥喜三郎が大岡越前守が繰り出した網に掛かり、吟味のさ中にお半と長右衛門の殺害を自白するのである。この「事件」を元に、菅専助が浄瑠璃桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」を書く。初演は安永五年(1776)、大坂北堀江市の側豊竹此吉座である。柳馬場押小路虎石町の帯屋長右衛門三十八歳が遠州の得意先からの帰りの途次、伊勢参りを終えた隣家信濃屋の娘お半十四歳と石部でたまたま同じ宿になる。その夜、同行していた丁稚の長吉に言い寄られたお半が長右衛門の部屋に逃げ込み、二人は一夜の「契り」を結んでしまう。二人の関係を知った長吉は密かに、長右衛門が得意先の大名から預かった刀を偽物とすり替える。それから五ヶ月後、お半に、長右衛門の妻お絹の弟仏壇屋才次郎との縁談が持ち上がる。長右衛門が五歳で養子となった帯屋の後妻おとせの連れ子儀兵衛が結納品を信濃屋に持参すると、そこで丁稚の長吉から長右衛門とお半の関係を耳にする。儀兵衛は日頃密かに帯屋の家督とお絹を手に入れようと思っていたのである。結納までかわされてしまったお半は長右衛門に妊娠したことを伝える。が、二人が「夫婦(めおと)」になることは叶うはずはなく、絶望したお半は剃刀で自害しようとするも未遂に終わる。儀兵衛から長右衛門とお半の関係を聞いたお絹は、それでも長右衛門を信じ、長吉に、お半を信濃屋から連れ出し一緒になったら金の援助をすると耳打ちする。一方お絹の弟才次郎には云い交わした舞子の雪野という女がいて、その兄に百両で田舎に嫁に行かされてしまうということをたまたま知った長右衛門は、集金したばかりの為替百両をその兄に渡し嫁入りを取り止めさせる。が、その百両の入金がないことを怪しんだ儀兵衛は母おとせと長右衛門を責め、そのさ中にお半が長右衛門に宛てたとされる付文までもが出て来る。が、お絹は、付文はお半が長吉に宛てたものだと主張し、呼び出された長吉も「お半は自分の女房」とお絹に沿った応えをする。その裏でお絹は長右衛門に、「あたしを見捨てないでおくれ」と云うと、長右衛門は為替の百両をお前の弟才次郎の女雪野のために使ったことを白状し、お半との過ちを謝罪する。が、長右衛門はお半の妊娠と行方知れずとなった刀の問題を抱えたままなのである。その刀は長吉が密かに自分の兄に預けていて、預かり賃五十両を兄に渡して刀を受け取ると、その法外な金を不審に思った兄が長吉に問い質す。長吉は、刀は儀兵衛に渡すのだと云い、儀兵衛は自ら刀を持って遠州の大名に持参すれば長右衛門の顔が潰れ、職を解かれれば帯屋の家督が儀兵衛のものになると云う。それを聞いた兄は自分の父親共々、義理のある帯屋の主長右衛門の義父に恥をかかせるようなことをするなと長吉を叱った。その夜、お半が長右衛門の部屋に忍び込み、嫁に行くつもりはないと改めて訴え、去り際に、お腹の子が世間に知られたら長右衛門にもお絹にも自分の母親にも申し訳がたたないので桂川に身投げする、としたためた書き置きを落として行く。それを読んだ長右衛門は、かつて岸野という芸子と桂川で心中をするはずが、岸野だけを死なせ己(おの)れは逃げ帰ったことを想い出してはっとし、もしやお半は岸野の生まれ変わりではないか、とお半を探しに桂川に向かう……。その翌日、二人の遺体が桂川にあがったという知らせが帯屋に届く。桂川の土手から衣手神社に出る道の端に、表に法華塔、裏に文化十年(1816)梅津講中と刻んだ供養塔があり、傍らに「お半長右衛門供養塔」と書かれた看板が立っている。が、竹村俊則は『昭和京都名所圖會 洛西』(駸々堂1983年刊)で、「おそらく桂川の氾濫による犠牲者の供養のために建立されたものであろう。それがお半・長右衛門の供養塔といわれるに至ったのは、義理人情にしばられた二人が、桂川にて心中するという悲恋物語を戯曲化した人形浄瑠璃桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」に負うところが大きい。」と書いている。松尾という「衣」から洪水で切り離され流された袖、「衣手の杜」は、桂川を挟んでいまも離ればなれのままであるが、「桂川連理柵」の長右衛門という「衣」は、その生まれ変わりであるお半と体を帯で縛って心中することで、再び岸野という「袖」とひとつになったのである。

 「(明治村の)門を入ったすぐ右手の小山の上に国の重要文化財になっている聖ヨハネ教会堂が見事に復原されて立っている。明治四十年に米人ガードナーの設計で京都賀茂川に建てられた煉瓦造りの純洋風聖堂だということで、小ぢんまりと締った姿もいいし、場所もいいので、いつ行ってもアヴェックがそれを背景としてさかんに写真をとりあっている。」(「聖ヨハネ教会堂」藤枝静男『異床同夢』河出書房新社1975年)

 「高線量の土のう回収、23年度から 第1原発建屋内26トン分」(令和4年10月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)