『夢中問答』は、臨済禅師夢窓疎石(むそうそせき)が、足利尊氏の弟直義(ただよし)の発した九十三の問いに応えたものであり、二人の親密な関係を語るものである。「問。世情の上に浮かべる喜怒憎愛のやまぬほどは、偏(ひとへ)にこの念を対治することを心にかけて、かやうの凡情(ぼんじやう)皆やみて後に始めて本分の工夫をばなすべきやらむ。答。たまたま人界(にんかい)の生(しやう)を受けて、あひがたき仏法にあひながら、今生(こんじやう)にこれを明らめずば、何の生(※生まれ変わり)をか待つべきや。人の命は出入(いでいり)の息を頼みがたし。暫時なりとも、世事に心を移さむやと、かやうに志を励ます人は、世情にひかれて、工夫を忘るることあるべからず。たとひ境界にあふ時、世情の起こることあれども、その憎愛の念の起こる所について、猛烈に工夫をなす故に、憎愛の念もなかなか修行の力となるべし。然(しか)れども、道心(※求道心)の深切ならぬ故に、順逆の縁(※因縁)に転ぜられて(※妨げられて)、一向に工夫を忘るる人のために、先づ浅近(※卑近)の道理にて、世情を尽くしはてて、然(しか)して後に、始めて本分の修行をなすべしとにはあらず。羅漢果(※修行)を証せる人は、順逆の縁にあうても、憎愛の念は起こらずといへども、これを得法の人とは名づけず。薄地(はくぢ ※苦に追われる)の凡夫より悟入(ごにふ)する人は、喜怒の情は、いまだ尽きざれども、これをば得法の人と名づけたり。されば先づ世情をつくして、後に悟るべしとは申すべからず。妄情(まうじやう)の起こる時、これを和らぐる道理を思ひ出でたる処にも、本分の工夫をば捨つべからず。道心深切なる人は、寝ることを忘れ、食(じき)することをも忘れると言えり。かやうの人は、時々は困ずることもあり、飢ゑたることもあれども、工夫の中にやすみ、工夫の中に食する故に、寝食の時も、さまたげなし。それまでの道心はなき人の、飢ゑを忍び、睡りを念(ねう)ずれば(※がまんすれば)、身も疲れ、病も起こりて、なかなか道行(だうぎやう)の障(さわ)りとなる故に、飢ゑをやすめむために物を食し、身をやすめむために枕をせよとすすむれども、寝食の時は、しばらく工夫をなすことなかれとにはあらず。古人云はく、行(ぎやう)の時は、行の処を看取せよ。見聞(けんもん)の時は見聞の処を看取せよ。覚知の時は覚知の処を看取せよ。喜びの時は喜びの処を看取せよ。嗔(いか)りの時は嗔りの処を看取せよと、云々。これはこれ古人苦口叮嚀(くこていねい)の垂誠なり。かやうに修行せば、悟らずといふことなけむ。」凡人の悟りは、情欲感情を克服してから、改めて始めるものではなく、その克服そのものへの努力が、悟りに至るのであるから、歩く時は、歩くことそのことをよく思え。見聞きの時は、見聞きそのものをよく思え。知り覚える時は、知り覚えることそのことをよく見て思え。喜ぶ時は、喜びの元をよく思え。怒る時は、怒りの元をよく思え。政治知識を身につけていた後醍醐天皇は、国の実権を己(おの)れの手に戻すため鎌倉幕府の討幕を二度企て、二度目の失敗の後、元弘二年(1332)隠岐島に流されるが、翌年脱出し、反幕の武士を集め、幕府の命で兵を挙げた足利尊氏は、後醍醐天皇の意を受けて寝返り、京都六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉北条軍を攻め落し、鎌倉幕府は滅び去る。京都に戻った後醍醐天皇は、新政の元(もとい)に尊氏に命じ、鎌倉で遁世していた世評高い夢窓疎石を呼び寄せ、この三人と尊氏の弟直義の関係はこれより深まるのであるが、公家貴族、武家の言い分を統率出来ず、経済も失敗した後醍醐天皇の新政は三年で潰(つい)え、鎌倉幕府の消え残り北条時行の反乱の鎮圧に、後醍醐天皇の命に背いて向かった尊氏は、朝敵とみなされ、新田義貞楠木正成との戦(いくさ)の末、比叡山に逃げ込んだ後醍醐天皇の座に、光明天皇を据える。後醍醐天皇は、三種の神器を携えて吉野に逃れ、もう一つの朝廷を山の中で始めるのであるが、暦応二年(1339)「只生々(シヤウジヤウ)世々(セゼ)ノ妄念トモナルベキハ、朝敵ヲ悉亡(コトゴトクホロボ)シテ、四海ヲ泰平ナラ令(シ)メシト思計也(オモフバカリナリ)。朕(チン)則(スナハチ)早世ノ後ハ、第七ノ宮ヲ天子ノ位ニ即奉(ツケタテマツ)テ、賢士(ケンシ)忠臣事ヲ謀(ハカ)リ、義貞義助ガ忠功ヲ賞シテ、子孫不義ノ行(オコナヒ)ナクバ、股肱(ココウ)ノ臣トシテ天下ヲ鎮(シズム)ベシ。之(コレ)ヲ思フ故ニ、玉骨(ギヨクコツ)ハ縦(タトヒ)南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄(コンパク)ハ常ニ北闕(ホクケツ ※北の宮城)ノ天ヲ望(ノゾマ)ント思フ。若(モシ)命(メイ)ヲ背(ソムキ)義ヲ軽(カロン)ゼバ、君モ継体(ケイタイ)の君ニ非ズ、臣モ忠烈ノ臣ニ非ジ。」(『太平記』巻二十一「先帝崩御事」)とする凄(すさ)まじい怨念の綸言を残してこの世を去る。「政道一事モ無キニ依テ、天モ災ヲ下ス事ヲ不知(シラズ)。斯(カカリケ)レ共道ヲ知(シル)者無レバ、天下ノ罪ヲ身ニ帰シテ、己(オノレ)ヲ責(セム)ル心無リケルコソウタテ(※ますますひどい)ケレ。サレバ疾疫飢饉、年々ニ有テ、蒸民ノ苦ミトゾ成ニケル。──夢窓国師左武衛督(足利直義)ニ被申(マウサレ)ケルハ、「近(年)天下ノ様ヲ見候ニ、人力ヲ以テ爭(イカデ)カ天災ヲ可除(ノゾクベ)候。何様(イカサマ)是(コレ)ハ吉野ノ先帝崩御ノ時、様々ノ悪相ヲ現(ゲン)ジ御座(ゴザ)候(サフラヒ)ケルト、其神霊(ジンレイ)御憤(オンイキドホリ)深クシテ、国土ニ災ヲ下シ、禍(ワザハイ)ヲ被成((ナサレ)候ト存(ゾンジ)候。──哀(アハレ)可然(シカルベキ)伽藍一所御建立候テ、彼御菩提ヲ吊(トフラ)ヒ進セラレ候ハゞ、天下ナドカ静(シズマ)ラデ候ベキ。」(『太平記』巻二十四「天龍寺建立事」)憤死した後醍醐天皇の怨念を恐れ、その魂を鎮めるため、夢窓疎石の進言で足利尊氏と直義は、天龍寺を建立する。が、その光厳上皇の勅として幕府が建てる伽藍は、壮大でなければならない。「此為ニ宋朝(※元)ヘ宝ヲ被渡(ワタサレ)シカバ、売買利ヲ得テ百倍セリ。」として、直義は貿易船の上納金でその資金を賄ったのである。康永四年(1345)、後醍醐天皇の七回忌、天龍寺落慶法要に尊氏は「衣冠正ク」、直義は「巻纓老懸(マキフサノオイカケ)ニ蒔絵(マキエ)ノ細太刀帯(ハイ)テ」共に出るのであるが、文和三年(1352)、直義は敵(かたき)となった尊氏の軍に降伏し、その一カ月後不自由の身で急死する。幕府の実質の政務と所領の沙汰を取り仕切る直義と、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は、勝ち戦(いくさ)の所領の互いの配分の遣(や)り口が気に入らず、直義は師直の暗殺を企(たくら)む。が、密告で露見し、この関係を憂慮した尊氏は師直を解任する。師直はその翌月軍を引き連れ、尊氏直義兄弟に弓を弾く構えを見せ、直義は失脚する。失脚し夢窓疎石の授戒で出家した直義は、吉野の南朝に出向いて降伏し、尊氏の庶子である直義の養子直冬の九州討伐に向った、師直を執事に復帰させた尊氏に対して挙兵する。この室町幕府を二分する戦いは、一度(ひとたび)は、尊氏が出した師直・師泰兄弟の出家を条件に幕を閉じ、師直・師泰兄弟はその二日後、直義派の者に殺される。その火種は、師直に担がれていた尊氏の嫡子義詮(よしあきら)に残り、政務に就いた義詮と補佐役の直義とが上手くいく道理はない。引退を表明した直義は、各地で起こる反幕挙兵への尊氏らの対応に不穏を察し、一派を引き連れて京を脱出する。尊氏は、直義を追討する条件を受け入れて南朝と講和を結び、北陸から鎌倉に下り、伊豆に追い詰められた直義は、尊氏に降伏する。天龍寺の庭園は、天下の名園であるという。天龍寺開山の夢窓疎石の作である。この名園に対して、言葉で決着をつけようとするとこうなる。「夢窓国師が作庭した独特の瀑布、石橋、岩島などは巨然、馬遠、夏圭らの宋、元の画家が画いた唐様山水を想わせる石組である。それは独立する意思も、組み合わされた石も、平安時代の「こゝかしこの立石どもゝ、皆転びうせたるをわざとつくろふもあいなき(※つまらない)わざなり」(源氏物語、松風の巻)とする石組、遣水、前裁の風情に調和した、和風の、草の自然描写的石組とはまったく異質な、禅的な立石法であった。これは国師の長い禅僧生活の中にはぐくまれた感覚が日本の造庭法に画期的変革を齎(もたら)したものであった。滝口右(北)上の、主護石「被雲石」は全庭第一の高所に立ち、その形は高峯、峻嶽の象であるが、また一段と別格な石で、白衣の観音大士が結跏趺坐(けっかふざ)の姿とも察せられる。後醍醐天皇の御菩提を弔う国師の本願大慈悲の顕れであろう。説明の便宜上、寺伝の石名によると、石橋前の岩島は補陀落山(ふだらくせん)を意味し、その主石を「補陀石」という。主人岬(主人島、北岬)と客人岬(客人出島、南岬)との石組の対称的地割の面白さは、「主人岬」の主石は陸上に立ち、横石は岸より水へ這い降りる状態、岬の端石は岸から離れようとするところにある。これに対し「客人岬」の主石は水の中より立上り、これにつぐ量の横石は岬の鼻石となり、端石は岸からすでに離れて独立している。庭に向って左右(南北)の抑えの役を果たす石を、秘伝書(※作庭秘伝の書)では「二神石」あるいは「二王石」という。これに相当すつ天龍寺の庭石は左(南)に屏風石様に側立する大石「光禅石」があり、右(北)には主人岬の東に礼拝石を兼ねる黄褐色の大石「臥月石」がある。「月見石」とも呼ばれる。この「臥月石」の東に数組の石組とさつきの植え込みがある。これは方丈と書院を双方より限る目的で筋違(すじか)いに大石二個が立ち、離れて見れば一連の目をさえぎる石組となり、近づけば園路を挟む左右の石となる。この立石法は滝口の左(南)側にある「不即不離の石組」とまったく同じ手法で、その上客人岬にある馬瑙石(大理石)の形に見られる独特の感覚とも共通している。これにより国師が自ら全庭にわたって手を下されていたことがわかる。云々。」(「天龍寺の庭」久恒秀治『京都名園記』誠文堂新光社1969年刊)あるいは、『太平記』の決着は短い。「石ヲ集メテハ煙嶂(エンシヤウ)ノ色ヲ假(カ)リ、樹ヲ栽ヱテハ風濤ノ声ヲ移ス。慧宋(エサウ)ガ煙雨ノ図、韋偃(ヰエン)ガ山水ノ景ニモ未ダ得ザリシ風流也。」言葉で決着をつけないのであれば、足元、方丈軒下の雨落から白砂が始まり、緩(ゆる)い弧を幾度か描く池の縁には芝が生え、池は水を湛え、池の向こう岸は、松楓の繁る築山が迫り、水辺にはこちらを向いて立ったままの石の群が並ぶ。築山には登り道があり、その頂上から京都の市街を見ることが出来るほど築山は大きく、その後ろは地続きの亀山であり、南の山が嵐山である。夢窓疎石は、作庭の後に天龍寺十境と題する詩を詠み、大堰川(おおいがわ)に架かる渡月橋をその一つとしているのであるが、方丈の縁からは大堰川渡月橋も見えない。見ることの出来ない川と橋を、夢窓疎石はこの庭の景色に隠し持たせたのである。後醍醐天皇側の軍を破り、光明天皇を据えた建武三年(1336)八月十五日から二日後の十七日、足利尊氏清水寺に「願文」を奉納している。「この世ハ夢のことくに候。尊氏にたう心(道心)たハ(賜わ)せ給(たまい)候て、後生たすけをハしまし候へく候。猶なおとくとんせい(遁世)いたしたく候。たう心たハせ給候へく候。今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさせ給候へく候。今生のくわほうをハ直義にたハせ給候て、直義あんおん(安穏)にまもらせ給候へく候。」この十四年後の観応元年(1350)、直義の誅伐相手となった師直・師泰側を率いた尊氏は、天龍寺で撤退途中の軍の休息を乞うが、夢窓疎石はそれを拒絶する。尊氏と直義が着飾って落慶法要に出たのはその五年前の康永四年(1345)である。『太平記』は、直義の死を尊氏による毒殺としている。尊氏と直義の和議を何度も図った夢窓疎石の死は、観応二年(1351)である。天皇も公家も武家も殺し合い、領地をぶん取ることに血眼(ちまなこ)になっていた時代に作られたのが、天龍寺の庭である。尊氏と直義の目に映った庭景色に、容易(たやす)く近づくことが出来ると思うのは、間違いである。

 「ぼくの三人の登場人物を前にして、彼らを行動させるという問題が生じてくる。例の騎士は森を通ってやってくる。猫は妖精に向って進んでいく。ただひとり妖精は、林間の空地で踊っている。もし期待の方が実際に起こることよりも豊かで、手段の方が目的よりも確かであるなら、彼女は骨折り損とはいえないだろう。」(「メリュジーヌの本」アルベール・カミュ 高畠正明訳『直観』新潮社1974年)

 「原発事故「国にも責任」 福島地裁判決、5億円の賠償命令」(平成29年10月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)