善良に公園の薔薇見て帰る 富安風生。一見、何やら飲み込みがたい思いのする句である。その理由は、「見て」に掛かる「善良」という言葉にあり、「善良に見る」という表現が、日常口にしないからかもしれない。先生が子どもを諭す時、善良になれ、不良になるなと言葉を使うことはある。世の中に品行方正な善良者が仮にいるとして、その者がものを見る時、自ら「善良に見る」とは恐らく云わないし、回りの者がそのことを「善良に見ている」とも恐らくは思わない。が、この句では自らが善良な態度で公園の薔薇を見た、と云う。あるいは、善良な態度で薔薇を見ている者がいたということなのかもしれない。であれば、どのような振る舞いがこの聞きなれない「善良に見る」ということなのか、と改めて読み手は疑う。いやそうではなく、ごく普通に見ていただけである、と作者の声は返って来る。であれば、作者は気づいたのである、誰もがするごく普通に薔薇を見る様子、振る舞いが「善良」そのものであると。薔薇の前で、自分は善良に振る舞っている、あるいは誰でも善良に振る舞っているように見える、と大袈裟に表現することを作者は「発見」したのである。俳句の解釈の常道の一つが滑稽であるならば、この普通に「見る」ことを「善良」にして仕舞った言葉の「発見」が、滑稽ということになる。加えれば、善良に行儀よく公園の薔薇を見て帰った小市民の、生真面目に休日を過ごした様子が、どこか物悲しくなくもない。もう一つつけ加えれば、「善良」という言葉を「発見」した作者、富安風生は戦前、逓信省の次官の職にあった高級官僚である。京都府立植物園で、交配を重ねて作った薔薇が幾つも十一月の小春の下で咲いていた。薔薇は、剪定によって一年に三度花を咲かせることが出来るという。薔薇は夏の季語であるが、冬薔薇は冬の季語である。袂には青きバットよ薔薇のみち 下村槐太。小さな印刷屋の主(あるじ)だった下村槐太は、安タバコのゴールデンバット一箱だけを着古した着物の袂に入れ、町中のあるいは町外れの薔薇の咲く道をひとり歩いて行く。この薔薇は、下村槐太にとっては気位の高い花かもしれず、この道は茨の道であるかもしれない。

 「ちょうど沿線沿いに小菊の茂みが満開の箇所が幾つもあるが、光のない沈んだ空間に乾ききってくすんだ小菊の花は、葬式の造花に似て見えた。電車はひっそりと止まっては走り、客たちは静かに乗って降り、丸顔の車掌のひとなつこい声だけが浮き浮きと聞こえる。いまどき、自分の仕事をこんなに楽しんでいる人間を見かけたことはない。たとえば迷える魂を呼び寄せては、それぞれに行く先を決めてやるといったような、超現実的な使命を遂行している番人を想わせる。」(「<私>という宇宙誌」日野啓三『魂の光景』集英社1998年)

 「県産米の抽出検査終了 対象353の旧市町村で基準値超えなし」(令和2年11月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東大路通の色褪せた屋根を連ねる今熊野商店街の間から泉涌寺(せんにゅうじ)に向かう道は泉涌寺道と呼ばれ、二百五十メートル余を緩やかに上ると総門に出る。総門からいまは緑の樹と石垣に両側を囲まれ、曲がりながらまたなだらかな上りが続く参道を上って行くと、左手に瓦葺の大門が現れる。ここが東山連峰月輪山の泉涌寺である。大門は西に向き、門を潜って内に立てば、枝の撓み込む砂利道を下ったやや右寄りに、西向きに入母屋の瓦を滑らせる阿弥陀釈迦弥勒の三尊を祀る仏殿が見える。仏殿の真後ろには仏牙舎利(ぶつげしゃり)を祀る同じ入母屋の舎利殿が建っているが、坂を下るまでは見えず、その後ろの白塀に囲まれた霊明殿も坂の上からは見えない。参道の勾配と樹木と仏殿の屋根の高さが、浅い擂鉢の底を見るような狭い景色を作っているのである。参道の坂を下りて南寄りにある霊明殿は、歴代の天皇昭和天皇皇后までの位牌を祀っている。霊明殿の裏には、宮内庁が柵を廻らす第八十七代四條天皇以降二十数代の天皇皇后らの骨灰を葬る月輪陵(つきのわのみさぎ)があり、最後の火葬となった第百二十一代孝明天皇はその傍らの後月輪東山陵に葬られている。「京都の地古來名勝に富み、四季の風光常に佳なりとへども、觀光の客随って多く、やゝもすれば俗塵に潰されんとす。獨り泉涌寺の靈區は、翠緑滴る如き東山の南端に近く、伏見の半腹を擁し、西の方遙かに嵐山一帯を望み、地域瀟洒にして遠く人寰(じんかん)を絶つが故に、この寺畔に來る者、弔古の人にあらざれば、これ探奇の客人にして遊覧の俗人敢えて近づかず。而(しか)も寺域四萬四千五百二十三坪老松古杉蓊蔚(おううつ)として幾多の堂塔を繞(めぐ)り、清泉滾々(こんこん)として湧出し、清風颯々(さつさつ)として心気自ら爽かなり。さればにや四條天皇を始めとし、後水尾天皇以降歴朝の帝陵みなこゝに定められ、以て明治維新に及べり。」(「月輪陵」京都市役所編『京都名勝誌』1928年刊)明治維新を境に、天皇は仏教と決別しあるいは決別させられ、明治天皇の葬儀は神道で行われ、遺体は東京から汽車に乗せられ、泉涌寺と関わりのない伏見桃山に葬られ、京都に縁のなかった大正天皇は八王子の多摩陵に葬られた。「遠く人寰を絶つが故に、この寺畔に來る者、弔古の人にあらざれば、これ探奇の客人にして遊覧の俗人敢て近づかず。」人家から遠く離れていて、陵に葬られた故人を悼む皇族以外、景勝地を巡って旅をするような一般人の立ち寄る場所ではない、普通の者が観光で行くところではなかった、のが泉涌寺である。が、維新で寺領一千三百石余を国に返し、上地として二十三万二千百余坪あった土地も四万一千余に減らされ、宮内省から出ていた位牌を守る永続金も、戦後一銭も出なくなる。「仏法不思議王法に対座す」「王法不思議仏法に対座す」月輪陵に眠る第百十六代花園天皇が、紫野に大徳寺を開かせるため、二十年乞食姿で鴨川の五条橋の下にいた大燈国師妙超を探し出し呼び寄せた。衣を着替えず床にいる妙超のところに、花園天皇が檀上から降りて正面に座り、国を治める王法が仏法と膝突き合わせている、何と不思議なことである、といい、妙超は、民を導く仏法が王法とやらと面(つら)突き合わせている、何とも可笑しなことである、と応えたという。このような軽口を交わし合う関係は前時代のこととして失われ、泉涌寺の仏法は天皇の位牌に線香を灯すだけのものになってしまったのである。が、世間に檀家を持たない泉涌寺は、線香を灯すだけではどこからも収入は得られない。京都の他の寺もそうしたように、泉涌寺も書画骨董を売り土地を売り、昭和三十一年(1956)、百年に一度しかその扉を開けなかったという中国南宋伝来の、玄宗皇帝がその死を悼み作らせたという楊貴妃観音を「遊覧の俗人」に公開するのである。「(楊貴妃観音は)宝相華唐草を透彫りにした宝冠を頂き、手には極楽の花たる宝相華を如意型に仕立てたものを持ち、端然静座せる温顔微笑は、人間が残した芸術の中では最高である。━━慈悲を表わす聖観音の唇の微動、繊糸のように細い眉、口許の髯、顎鬚、額の白毫に粛然と纏め上げられておる。双眸の下には涙が湛えられておる。」(「泉涌寺」中村直勝『カラー京都の魅力 洛東』淡交社1971年刊)楊貴妃観音は、小屋のような堂の奥の扉の中にひっそり置かれている。抑えた照明のせいで、双眸に涙を湛えているかどうかは分からない。が、人をあわれみ救済するのが観音である。泉涌寺の僧もまた自ら、百年の眠りを醒まさせ秘中の楊貴妃観音に縋(すが)ったのである。大門の根元に腰を下ろしていた老人が立ち上がり、背筋を真直ぐに杖を突いて歩き出し、参道を下り、左に道を折れ、桜の繁るその道を暫く行くと、塔頭悲田院の朱の門に出る。内に入り花の終わった萩の庭を横切り、堂の脇に回ると、眺望のきく所に出る。海抜七十メートル余のその高さから市街が見え、老人はペンキの剥げた手摺りを掴みながら、下の家並に顔を向ける。家の建つ下の窪地は皆、泉涌寺が手放した土地である。老人が不意に、「おーい。」と大声を出した。老人の視線の先にある二階家のベランダで、布団を抱えながら女が手を振っている。老人より三回りは歳の離れた女である。女は老人の実の娘か、息子の嫁か、身の回りの世話をしている縁者か、通いの手伝いか、あるいは妻であるのかもしれない。玄宗皇帝は、息子の嫁の楊貴妃を自分の妃にした。手を振った女がそのどれであっても、泉涌寺で微笑む者は楊貴妃である。

 「定住は、女性の地位に関しても問題をもたらした。狩猟採集民は定住すると、事実上、漁労や簡単な栽培・飼育によって生きるようになるが、狩猟採集以来の生活スタイルを保持した。つまり、男が狩猟し女が採集するという「分業」が続いた。が、実際には、男の狩猟は、儀礼的なものにすぎない。定住化とともに、必要な生産はますます女によってなされるようになる。だが、このことが女性の地位を高めるよりもむしろ、低下させたことに注意すべきである。何も生産せずに、ただ象徴的な生産や管理に従事する男性が優位に立ったのである。」(『世界史の構造』柄沢行人 岩波現代文庫2015年)

 「福島県内「環境回復」…大幅に速く チェルノブイリと『比較』」(令和2年10月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 アサギマダラが目の前にいる。この蝶は秋の終わる頃、台湾香港までも二千キロを越える海の上を渡って行き、また夏になるとその同じ距離を戻って来るのだという。渡り来れば、夏でも気温の低い高原の葉っぱの裏に卵を産みつけ、蛹から孵(かえ)ればあとは、誰かに命じられているわけでもなく、何事かから逃れるわけでもなく、帰る家もなく、ただひたすら花を求めて飛び続けなければならない。生物学あるいは物理学は、この行動の謎解きに知恵の情熱を燃やすのかもしれないが、アサギマダラには経済学もなく、文学もなく、宗教もなく、善悪もない。が、蝶を目にする人間はこのような習い覚えた物差しを使うことから逃れることが出来ず、それが故にいつまでも蝶のように軽やかになることが出来ない。二匹のアサギマダラが、藤袴の花の間を飛び交っている。この藤袴は自生しているのではなく、すべて鉢植のものである。ここは御所の南東、丸太町通から寺町通を下ってすぐの革堂(こうどう)という名で通る行願寺の境内である。十月半ばの四日間、藤袴祭という催しがあり、革堂はその会場の一つになっているのである。藤袴の鉢は寺町通の歩道にも通りの商店の軒下にもぽつぽつ並べられ、祭りは京都自生の藤袴が絶滅の危惧に晒されているのを憂え、その保存のために始めたのだという。千年を越える歴史を持ちながら移転をさせられる度に狭くなった革堂の境内には、三百余りの一メートル丈の藤袴が通る幅の両側に、列を成して並んでいる。枝の先に白に薄い赤紫色の小さな花が幾つもかたまって咲き、花そのものに匂いはなく、手折られ、あるいは土から引き抜かれ乾き出すとこの花は匂い立つのだという。アサギマダラのオスは、この藤袴と同類の二三の花の蜜しか吸わず、この花の蜜の成分を吸わなければメスを誘い出すことが出来ないというのである。何と世を捨ても果てずや藤袴 八十村路通。芭蕉に見出された乞食路通は、世を捨て乞食に身を落とし、その日暮らしに叢(くさむら)に寝そべっている時、藤袴を目にし、自分が死んでもこの藤袴はこの世にあり続けるのであろうと思う。が、いまは鉢植にして育てなければ、藤袴の生存は危(あや)ういのである。であれば放っておけば旅するアサギマダラの生存も危(あや)うくなるということである。行願寺が革堂と呼ばれる謂(いわ)れは、寺を開いた行円がまだ狩りで暮らしを立てていた時、子を孕んでいた雌鹿を殺し、殺生を悔い、その雌鹿の皮を身に着け仏門に入ったからだという。戦国期の末、京都に一向一揆が迫り来た時、集った町衆は革堂と下京にある六角堂の鐘を昼も夜もなく鳴らし続けた。世の危機に警鐘を鳴らしたこの町衆らは、後には市中で法華一揆を起こすことになるのであるが。

 「祖母は、「おぼくさん」と呼んでいた仏壇に供えたごはんを私に食べさせながらこの歌(明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは)の意味を話してくれた。「おぼくさん」は、朝、ごはんをお櫃に移す時に、真鍮の仏様用の小さな容器に山盛りに盛りつけ、お水と一緒に上げるのである。夜には固くなり、線香の匂いがしみついて、お世辞にもおいしいものではなかったが、祖母は、ご利益があるといっては、必ず私に半分を呉れ、自分も女にしてはしっかりした骨太の掌に受けて食べていた。食べ終ると、私は祖母が仏壇の小抽斗から出してくれる桃の形をした小さい扇で、灯明を消し、ギイと戸をきしませて仏壇の戸をしめて、祖母と私の一日が終るのである。」(「あだ桜」向田邦子『父の詫び状』文藝春秋1978年)

 「「海洋放出」10月内にも決定、処理水処分、第1原発敷地から軸」(令和2年10月16日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都は、坂本龍馬が殺された場所である。その日、坂本龍馬は京都にいる理由があり、殺される理由があった。その日とは慶応三年(1867)十一月十五日である。そのひと月前、坂本龍馬の言葉で云う「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜(ヨロ)シク朝廷ヨリ出ツへキ事。」の通りに、徳川幕府から政権が朝廷に還った。黒船が来て、不平等条約を交わした幕府は外国に対する己(おの)れの無能を世に晒し、自信を喪失してしまったのである。坂本龍馬のこの言葉は、土佐に帰る船で一緒になった土佐藩参政後藤象二郎に語ったという船中八策の第一で、第二以下はこうである。「一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公儀ニ決スヘキ事。一、有材ノ公卿・諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備へ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クヘキ事。一、外国ノ交際広ク公儀ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツヘキ事。一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮の大典ヲ撰定スヘキ事。一、海軍宜シク拡張スヘキ事。一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムヘキ事。一、金銀物貨、宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クヘキ事。」坂本龍馬は、咸臨丸でアメリカを見て来た勝海舟大久保一翁から得た知識と直観で、この船上八策を練り上げた。武器商人でもあった坂本龍馬は、薩摩の名で買った武器を弓を引いて京都を追放された長州に流し、その同盟を取り持つと、徳川幕府薩長の倒すべき敵となる。が、土佐藩山内容堂は幕府と勤王攘夷の薩長討幕派との調停に動き、朝廷と幕府に「大政奉還ニ関スル建白書」を提出する。その案は、後藤象二郎坂本龍馬から聞いた船中八策が基になったものである。「宇内ノ形勢古今之得失ヲ鑑シ誠惇誠恐敬首再拝、伏惟皇国興復之基業ヲ建ント欲セハ、国体ヲ一定シ政度ヲ一新シ王政復古万国万世ニ不恥者ヲ以来旨トスヘシ、好ヲ除キ良ヲ挙ケ寛恕ノ政ヲ施行シ朝幕諸侯薄ク此大基本ニ注意スルヲ以方今急務奉存候、前月四藩上京一三献言ノ次第モ有之、容堂義病症ニヨツテ帰国仕候以来、猶又篤ト熟慮仕候ニ実ニ不容易時態ニテ安危之決今日ニ有之哉ニ愚存仕候、因テ早速再上仕右之次第一乍不及建言仕候志願ニ御座候所、今ニ到テ病症難渋仕不得止微賎之私共ヲ以愚存之趣乍恐言上為仕候。一、天下ノ大政ヲ議定スルノ全権ハ朝廷ニアリ、乃我皇国ノ制度法制一切万機必京師ノ議政所ヨリ出ヘシ。一、議政所上下ヲ分チ議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至ルマテ正明純良ノ士ヲ撰挙スヘシ。一、庠序学校ヲ都会ノ地ニ設ケ長幼ノ序ヲ分チ学術技芸ヲ教導セサルヘカラス。一、一切外蕃ト之規約ハ兵庫港ニ於テ新ニ朝延ノ大臣ト諸藩ト相議道理明確之新条約ヲ結ヒ誠実ノ商港ヲ行ヒ信義ヲ外蕃ニ夫セサルヲ以主要トスヘシ。一、海陸軍備ハ一大至要トス軍局ヲ京摂ノ間ニ造築シ朝廷守護ノ親兵トシ世界ニ比類ナキ兵隊ト為ン事ヲ要ス。一、中古以来政刑武門ニ出ツ洋艦来港以後天下紛々国家多難於是政権梢動ク自然ノ勢ナリ今日ニ至リ古来ノ旧弊ヲ改新シ枝葉ニ馳セス小条理ニ止ラス大根基ヲ建ルヲ以主トス。一、朝廷ノ制度法制従昔ノ律例アリトイヘトモ今ノ時勢ニ参合シ間或当然ナラサル者アラン宜其弊風ヲ除キ一新改革シテ地球上ニ独立スルノ国本ヲ建ツヘシ。一、議事ノ士太夫人私心ヲ去リ公平ニ基キ術策ヲ設ケス正直ヲ旨トシ既往ノ是非曲直ヲ問ハス一新更始今後ノ事ヲ視ヲ要ス言論多ク実効少キ通弊ヲ踏へカラス。右之条目恐ラクハ当今ノ急務内外各般ノ至要是ヲ捨他ニ求ムヘキ者ハ有之問敷ト奉存候。然則職ニ当ル者成敗利鈍ヲ不顧一心協力万世ニ亘テ貫徹致シ候様有之度若或ハ従来ノ事件ヲ執テ弁難抗諭朝幕諸侯互ニ相争ノ意アルハ尤然ヘカラス是則容堂ノ志願ニ御座候、因テ愚昧不才ヲ不顧大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第全ク御聴捨ニ相成候テハ天下ノ為ニ残懐不鮮候、猶又此上寛仁ノ御趣意ヲ以微賎之私共ト難御親問被仰付度懇願候。慶応三丁卯九月 寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛。」大政奉還は成り、坂本龍馬は喜んだ。が、徳川は政(まつりごと)の主導から手を引いただけで、薩長倒幕派の目標はあくまで徳川の消滅である。十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル塩屋町の醤油商近江屋の二階にいた坂本龍馬中岡慎太郎は暗殺される。薩摩の挑発と謀(はか)りに煽(あお)られた徳川側は、薩摩を討ちに起つ。が、翌慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いが負け戦となり、朝敵とされれば勝ち目はなく、戊辰戦争で徳川側は留めを刺される。が、坂本龍馬の思いは、このようなことで血を流さないこと、戦争の回避にあった。坂本龍馬の額を割って殺害したのは、京都見廻組であるといわれている。京都見廻組は、新撰組と同じ京都守護職松平容保の配下組織である。会津藩出の佐々木只三郎が六人の部下を引き連れて、坂本龍馬の宿に入った。坂本龍馬はなぜ京都にいたのか、佐々木只三郎の見廻組はなぜ坂本龍馬を襲ったのか、言説は巷に溢れている。が、近江屋に坂本龍馬がいることを知っていて、見廻組に殺害を命じた者が本当は誰であるのかは分かっていない。見廻組の生き残り、今井信郎は後の取り調べで、自分は見張り役で何も知らないと応え、夜を待って八時過ぎまで東山の辺りをぶらぶらしながら時間を潰していたとも応えている。坂本龍馬を殺すため、時間潰しに東山の辺りをぶらぶらしていたというもの云いは、どこか心が動く挿話である。

 「辻が花という名のよって来るところは判らない。要するにそれは絞り━━主として模様の輪郭線に沿って縫いこれを引き締めて絞る。縫い締め絞り━━によって多彩な絵模様を現わしたものである。ところで元来絞りというものは、技術的にはこうしたことに最も不適格なものといわなければならない。絞った模様の周辺はぼやけるし、多色に染めるためにはそこだけをつまんで染めるか、絞ったところを解きながら何回にも色をかけなければならない。この制約された技術を用いてひたむきに、この多彩な絵模様への道を追い求めた辻が花染めは、そのさいはての野に咲いた妖しいまでの美しい花とでもいおうか、そこには一種の寂しさの籠った、華やかさがある。」(『日本美術体系 Ⅷ 染織』山辺知行 講談社1960年)

 「二審も国、東京電力に責任、原発生業訴訟判決、10億円賠償命令」(令和2年10月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 七条通は、西は桂川の桂橋の手前で八条通と交わり、東は智積院の門前で果てる。鴨川を東に渡ってすぐの七条通から北に大和大路通を二百五十メートル上がると、正面通がある。百五十メートルの長さだけ道幅を拡げている通りである。この突き当りには、いまは豊臣秀吉を祀る豊国神社が建っているが、この道幅を拡げた時には、秀吉が建てた大仏殿があった。天正十三年(1585)に起きた大地震の翌年、秀吉は奈良東大寺の大仏を真似、京都に天地鎮めの大仏建設を始めるのであるが、その建設途中の天正十九年(1591)唯ひとりの世継ぎだった鶴松が三歳で亡くなり、その菩提寺として祥雲寺を七条通の突き当りに建てる。大地震のあった天正十三年(1585)秀吉は、高野山を下りた分派が築いた新義真言根来寺の僧の武装集団根来衆を、寺ごと焼き払っている。その戦火を逃れ居場所を転々し、秀吉の死後徳川家康から大仏殿跡に建った豊国神社の一部と後に祥雲寺を与えられたのが、根来寺智積院にいた学頭の玄宥(げんゆう)とその弟子らであり、玄宥がつけた寺の名が五百仏山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)である。事を単純に記せばこうであるが、坐禅や念仏でない戦国武将を悩ませた仏教の暴力と、その牙を抜かれてゆく様(さま)への想像は怠ってはならない。「この学侶墓地に群立する墓石は、江戸時代智積院で修行し、志し半ばで亡くなられた方々を祀ったものであります。智積院は、代々真言教学(密教)の指導者が住職となり、一般の参詣のお寺とは性格を異にした、学問を尊重するお寺でありまして教学の府(中心地)「学山智山」として名を博しておりました。ここでの修行は、約二十年の歳月を単に真言教学を学ぶだけでなく、ひろく一般仏教も学ぶことに努め、宗派の隔たりもなく、元禄・寛永年間(江戸中期)には、全国から多くの学侶がこの地に集い、その数千六百余人に及んだと伝えられており、朝粥のすする音が七条大橋にまでとどろいたとも言われております。」智積院の、鉄筋コンクリートの金堂の裏の叢に、この看板が立っている。背後の斜面が学侶墓地である。五百を超える大きさの疎(まば)らな墓石が段々に整然と並び、頂上は並べて植えられた百日紅さるすべり)のいまが花盛りである。千六百余人の学侶の朝粥のすする音は、その内からぽつりぽつりと死ぬ者が出ても、天下泰平の音だったには違いない。高野山金剛峯寺の堕落に嫌気が差した覚鑁(かくばん)が、鳥羽上皇の援助で高野山の別地に大伝法院を建て、それを維持するための荘園を得る。身に余る財力を得ると権力が生まれ、財産はそれがいつ誰に奪い取られるか知れず、それは寺も例外ではなく、それを守るために武装する。やがて大伝法院はその権力を金剛峯寺に及ぼすようになり、反発が起き、古義真言と新義真言は戦いにまで発展してしまう。金剛峯寺側に敗れた大伝法院側は山を下り、新たに根来寺を作る。負けを味わった根来衆と呼ばれた武装集団は、その武装を強化するため鉄砲を手に入れ、学侶たちはその内にあって仏教の根本を身につけんとしていたのであるが、根来衆はその屈強さ故(ゆえ)に秀吉に目をつけられて滅び、玄宥たちは彷徨(さまよ)うことになるのである。朝粥をすする音は、それから百年後の音である。昭和四十三年(1968)、学生運動が華やかなりし時、立命館大学も学生によってバリケードが築かれ、学校は封鎖される。教授たちは大学に寄りつかず、授業も行われない。が、毎晩日が暮れると、ひとつの研究室の窓にだけ明かりが灯る。密かにバリケードを潜り、校舎に入っている者がいたのである。大学退職の後、単独で幾冊もの辞典を編み漢字学の第一人者となる白川静である。明かりを見つけた学生がそれを誰とも知らず、摘み出そうかと云うと、それが誰であるか知っていた回級が上の学生は、あの人はいいんだ、と云って止めたという。白川静智積院の学侶というわけではなく、ヘルメット姿の学生らが根来寺武装集団というわけではないが。

 「負い目という感情や個人的な義務という感情はすでに指摘したように、存在するかぎりで最も古く、最も原初的な人格的な関係に根ざすものである。すなわち買い手と売り手の関係、債権者と債務者の関係から生まれてきたものなのだ。この関係のうちで人格と人格が直面し、人格が他の人格との関係でみずからを計ったのである。どれほど低い文明であっても、このよう関係が確認されないような文明はまだみいだされていないのである。」(『負債論』デヴィッド・グレーバー 酒井隆史・高祖岩三郎・佐々木夏子訳 以文社2016年)

 「「処理水処分」早期決定求める 双葉町議会、廃炉作業影響懸念」(令和2年9月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵯峨鳥居本愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がある。まだ茅葺屋根がぽつぽつ残り、観光客目当ての土産物屋が軒を並べる鳥居本の地の名の鳥居は、先を登りつめて至る愛宕山の頂上にある愛宕神社の一の鳥居であり、小説家水上勉は時に鳥居本を、京都脱出のとば口と書いている。水上勉は昭和六年(1931)十二歳の時、十歳で預けられた寺の修行に堪えかね、嵐山電車を終点で降り、ここから山陰線の線路に沿って故郷若狭へ帰ろうとしたのだという。が、その夢は果たせず、少年水上勉はその日の夕には亀岡署員に見つかり、寺に連れ戻される。「その時、あり金はたいて嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野屋の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。」(「樒(しきみ)の里、柚の里」水上勉『京都遍歴』立風書房1994年刊)ここに出て来る念仏寺、愛宕念仏寺は、この脱走の九年前まではこの場所になかった。「念仏寺、松原通建仁寺町東北側、等覺山と號し、一に愛宕寺といふ。昔は此の邊を愛宕里といふ、今の此の名は當寺にのみ止まりて、世人愛宕寺と稱す。開基は弘法大師、中興は千觀内供(せんかんないぐ)なり。内供は不退念仏者にして、口に佛號を絶つことなし、世人稱して念佛上人と云ひ、終に寺を念佛寺と稱せしとぞ。古上梁文に文保年間重修すとあり。相傳ふ、本堂は當初創建のまゝにて、最も古代の經營なり、卽ち檜木細組天井等の如き、今の世に多くあるべからざるものにして、亦東山の一古刹なり。宗旨は初め眞言宗なりしが、後天台となり延暦寺に属す。仁王門、南向、元二條觀音寺にありしを、應仁元年の兵火後こゝに移す、左右に安する堅力金剛、密迹金剛各立像七尺許は運慶湛慶の作なりしといふ。本堂、特別保護建造物、南向、千手觀音立像三尺許を本尊とし、左右に毘沙門、地藏、二十八部衆を安す。叉堂内に千觀内供の像を安せり、自作なりといふ、また佛像中湛慶作の不動明王國寶あり、尤も名作と稱せらる。」(『新撰京都名勝誌』京都市役所 大正四年(1915)刊)東山松原通弓矢町にあったこの愛宕念仏寺は、大正十一年(1922)「松原警察署の設置に土地を割いて寺域の不足をきたし、現在右京区嵯峨鳥居本に移転した。」(『日本歴史地名大系27 京都の地名』平凡社1979年刊)警察署の強制に土地を譲って移転した愛宕念仏寺は、それから坂を下り落ちるように太平洋戦争中には無住寺となり、戦後に台風の被害を受け、ついには廃寺と果ててしまう。仁王門の堅力金剛、密迹金剛の二体が映画の小道具を扱う業者の手に渡り、千手観音の四十二本の腕の内の三十八本のばら売りがこの寺の末路であった。喰うに困った坊主は、千手観音の腕を一本折っては金に換えたのである。もしかすると、枕元の夢に現れた千手観音が、自分の腕を金にせよと坊主に云ったのかもしれない。昭和三十年(1955)、仏像彫刻師西村公朝が仏徒となって廃寺愛宕念仏寺に入った。西村公朝日中戦争のさ中、行軍中に疲労でうとうとしながら行進する兵隊の列が、あちこちが壊れ傷んでいる仏像の姿に見えて来たという。生きて帰った西村公朝は、この夢の啓示で仏像修理を生業とすることにしたというのである。昭和五十六年(1981)、NHKの番組『新日本紀行』が愛宕念仏寺を取り上げる。佐川一政がパリで人肉事件を起こし、深川で通り魔事件が起こった年である。その前の年にはモスクワ・オリンピックのボイコットがあり、イエスの方舟事件があり、新宿のバス放火事件があり、川崎で金属バットを使った両親殺害事件があり、ジョン・レノンの射殺事件があった。『新日本紀行』は、慣れない手つきで大谷石を彫る参拝者を映し出す。その後ろから手ほどきをしているのが西村公朝である。参拝者が五万円を払って、己(おの)れの彫った羅漢像を寺に寄進し、羅漢五百体で境内を埋めるというのである。番組の後半、五百羅漢の開眼供養に合わせ、修復した仁王門に、人手に渡り後に京都国立博物館に保管されていた二体の仁王が、サラシでぐるぐる巻きにされた姿で帰って来る。寄贈という形にして、西村公朝が五百羅漢の金で買い戻したのである。境内に並ぶ羅漢像は十年で千二百体となり、いまはそのどれもが苔むし、風化し、四十年の雨風にあたったくすみを纏っている。真新しい大谷石に鑿を揮(ふる)っていた者がインタビューに、若くして死んた母親の顔だと応えて笑う。他の者も皆楽しそうに己(おの)れの羅漢を彫っている。参拝者は手を合わせ、ただ五万円の布施をするのではく、鑿を持たされ、恐らくは初めての経験に苦痛を強いられる。五万円の意地があるかもしれぬが、素人にはいささか無謀のようにも思える。途中で鑿を放り出してしまえば、石はいつまでも羅漢像にならない。が、誰も投げ出さないであろうと西村公朝は確信していたに違いない。頭の中の信心は、身体を使って鍛え上げることが出来るからである。素人の彫った千二百の羅漢像が「本物」に見えるのはこのためである。

 「イサカはすばらしいところにあった。ぐるりはどこも森や谷で、渓流がざあざあと鳴りながら湖に注いでいる。病院はファーンストックという教授が所長をしていて、公園のような敷地の一角にあった。今日あったことのように思いだせるよ、とフィーニ伯母は語った。透きとおった空気の小春日和、アーデルヴァルト叔父さんとふたり、叔父さんの部屋の窓辺に立っていたこと、外の空気が流れこんできて、わたしたちはそよりとも動かない木立を透かして、アルタッハの湿原を彷彿とさせる野原を眺めていた。そこへ柄の先に白い網をつけた中年の男の人があらわれて、ときどき、ぴょんぴょんとおかしなジャンプをしているの。アーデルヴァルト叔父さんはじっと眼を据えたままだったけれど、わたしがいぶかしい顔をしたことには気がついて言った、蝶男だよ、ちょくちょく現れるんだ。」(「アンブロース・アーデルヴァルト」W・Gゼーバルト 鈴木仁子訳『移民たち』白水社2005年)

 「「セシウム濃度」…一時上昇 福島大分析、台風19号で土砂流出」(令和2年9月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山の哲学の道は、琵琶湖疏水沿いの小径をそう名づけたものである。琵琶湖疏水はその名の通り、琵琶湖の水を京都市中に通したものであり、その水は市の水道の九十七パーセントを賄い、残りの三パーセントも琵琶湖を出た瀬田川が注ぐ宇治川の水で賄っている。そのため京都市は大正三年(1914)から滋賀県に毎年感謝金の名目で金を払い、いまのその額は二億三千万円である。が、そもそも琵琶湖から水を引くことは江戸以前からあった願いであり、この疏水は水道のためだけに引いたものではなかった。明治十六年(1883)十一月五日に開催した勧業諮問会に京都府知事北垣国道は、「琵琶湖疏水起工趣意書」を提出する。「夫レ京都ノ繁盛ヲ維持セント欲セハ其策亦少ナカラサルヘシ然レトモ風俗地理ニ因テ之ヲ考フレバ工芸ヲ精巧ニシテ以テ物産ヲ振興シ水利ヲ開通シテ以テ運輸ヲ便ニスルヲ第一トス幸ニ近接ノ地方ニシテ其高低ノ位置ヲ得タル近江国琵琶湖水ノ疎通スヘキモノアリ是レ我カ京都全区ヲ潤沢セシムル一大元素ト謂ハサル可カラス此水利ニ因リテ運輸ヲ便ニシ器械ヲ運転シテ以テ諸製造ヲ盛大ニセハ将ニ衰頽セントスルノ京都ヲシテ忽チ転シテ天府富裕ノ地トナスコトヲ得可シ……琵琶湖疏水ノ工事一挙シテ百益相聯貫シ創興スヘキコト如此是レ此工ヲ起サントスル所以ノ大旨ナリ。其ノ便益、其一、製造機械之事(水車による動力)、其二、運輸之事(大阪湾~淀川~鴨川~疏水~琵琶湖を繋ぐ)、其三、田畑灌漑之事、其四、精米水車之事、其五、火災防眞之事、其六、井泉之事(飲料水)、其七、衛生上ニ関スル事(下水整備)。」この二年前の明治十四年(1881)、「東京湾築港計画」の論文で挫折を味わった工部大学校の学生田邊朔郎が卒業研究の調査に京都を訪れ、北垣国道に「琵琶湖疏水工事の計画」の内容を明かす。田邊の計画はまず竪坑を掘り、そこを起点に長等山のトンネルを東西に、東西からも同時に掘り進めることであった。この田邊の計画に北垣国道の心が動いたのである。福島県の安積疏水を手掛けた南一郎平が調査、島田道生が測量、二十一歳の田邊朔郎を土木の責任者に明治十八年(1885)年琵琶湖疏水の工事は着工し、明治二十三年(1890)その第一疏水が完成する。この工事のさ中、田邊は渡米、コロラド州アスペン鉱山の水力発電を視察し、北垣の「趣意書」になかった日本初の水力発電所を疏水の完成に合わせ造っている。この瞬発力は只(ただ)ならない。疏水完成の年の秋、田邊は榎本武揚の媒酌で北垣国道の長女静子と結婚し、翌明治二十四年(1891)には二十九歳で東京帝国大学の教授になっている。この秀才にして若き成功者は、立身出世の手本のような人物に見える。掘り進んだトンネルに地下水が溢れ出してくると、真っ先に手桶を持って降りて行ったという挿話を聞けば、田邊朔郎は学者というより、地に足のついた土木技師だったのかもしれない。「一身殉事 萬戸霑恩(一身事に殉じ萬戸恩に霑(うる)ほふ(涙に濡れる))。工夫頭山野治平、火夫大川米藏、工夫福岡浪藏、仝(同)久保時藏、仝米山泰一郎、仝山田幾次郎、仝中川久次郎、仝大槻市藏、仝斎藤寅吉、仝吉木榮吉、仝砂子三五郎、仝宮崎徳松、仝藤井重介、仝下郡忠治、右自明治十八年至廿三年工事中重傷至死、京都府六等属土岐長寛、京都府七等属内藤義次、仝九等技手服部晉、右工事中罹病而死。」疏水を見下ろす山裾に建つ、琵琶湖疏水の工事中に命を落とした十七名の慰霊碑の文面である。これは明治三十五年(1902)田邊が四十歳の時に、己(おの)れの金で建てたものであるという。碑は二メートル余の高さがある。初めて任された大仕事に、これだけの死者が出た。その者らの家の者と、その者らを知る者は皆涙を流して悲しんだ。田邊は明治三十三年(1900)、北海道庁鉄道部長から京都帝国大学の教授になり、京都に戻って来ている。碑を建てたのはその二年後である。その時の田邉の胸の内は知る由もないが、この者らの死を田邊は、己(おの)れがいつの日か忘れてしまうことを懼(おそ)れたのではないか、それを申し訳なく思ったのではないか。これは犠牲を称(たた)えるためのものではない。田邊は己(おの)れのために建てたのである。南禅寺参道前に、水を噴き上げる疏水の深い溜まりがある。南禅寺には、苦肉の策で疏水を空中に通した水路閣がある。溜まりを出た一方の疏水は、真っ直ぐ西に向かい、一旦鉤型に折れ、そのまま鴨川に注いでいる。この溜まりから疏水に沿って京都市動物園がある。いま疏水の縁に立って向こう岸を見ると、その幅は二十メートル足らずなのであるが、赤や黄や青の建物が遠い様に目に映る。動物のいる檻は見えない。背高の観覧車はゆっくり回り、水際のテラスに並ぶ白いテーブルに家族連れの姿があり、ぞろぞろ動いている姿も見える。が、子どもの声が聞こえて来ない。キリンを見ても何も口に出さない子どももいるかもしれないが、歓声を上げる子どももいるはずである。が、動物園は静かである。人に近づかないように、人の傍で大声を出さないように、人前で口を開かないように、後ろからマスクをした親が云っているのかもしれない。動物園に限らず、町中でもどこでも子どもは守らされているのである。いまは見えないものが靄がかかったように辺りを、世の中を覆っている。黙って息を詰めている方が、子どもには獣の毛並みの一本一本までもがその目に見えて来るであろうか。

 「しょうがいがあります ◯2500えんはふうとうにいれます ✕おかねのけいさんはできません ◯1たい1ではおはなしできます ✕ひとがたくさんいるとこわくてにげたくなります ◯となりにかいらんをまわすことはできます ◯ひととあったらあたまをさげることはできます ✕いぬとかねこはにがてです ✕ごみのぶんべつができません ◯自てんしゃはのれます ◯せんたくはできます ほすこともできます ◯どこでもすーぱーこんびにはかいものできます ◯くやくしょびょういんにはいけます ✕かんじやかたかなはにがてです ◯けいたいでんわはつうわのみです」(「「おかねのけいさんはできません」男性自殺、障害の記載「(班長選を断ると)自治会が強要」」毎日新聞令和2年7月31日)

 「東日本大震災から「9年5カ月」…浜通り6署が管内を一斉捜索」(令和2年8月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)