秋草に佇(た)てば心も吹かれやすし 岡本 眸。己(おの)れよりさびしきものに秋の草 鈴木真砂女。どちらの句も説明を要しない、「繊細」な心情を詠んだものであろう。秋草と云ふと雖(いへど)も荒々し 相生垣瓜人。この句は高濱虚子の、白牡丹といふといへども紅ほのか、の形を借りたということも含めて、「雑な」詠みっぷりで秋草の「荒々し」さを詠んだとも云えなくもない。秋草の中や見事に甕割れて 波多野爽波。作者は実際にたまたまこのような情景を目にしたのであろう。「情」を込めやすい存在の秋草の傍らで、無機質の大甕が真っ二つに割れているということに作者は胸を衝かれる。硬いものが脆(もろ)いことは誰でも分かっているが、この大甕はほれぼれするほど見事な割れ方、あるいは死に方をしたものだ、決して「割れない」秋草がそよぐ傍らで。
「私は夏学期もHにいられるように思いを通した。家の中でなく、私たちはほとんどいつも川ぶちの庭で過ごした。すもうにみごとに負けた日本人は去り、トルストイ信者もいなくなった。デミアンは馬を飼い、毎日根気よく乗っていた。私はしばしば彼の母とふたりきりでいた。」(「デミアン」ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 『ヘッセ著作集』人文書院1954年)
「デブリ採取また中断、福島第1原発2号機 カメラ映像確認できず」(令和6年9月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)
北嵯峨広沢池、京都御苑。