雲林院界隈駐車嚴禁のひるや荒鹽の香の西行塚本邦雄が昭和五十年(1975)に出した歌集『されど遊星』三百首の内の一首である。北大路通を挟んだ大徳寺の南東に、雲林院という名の小寺があるが、雲林院は幻の寺である。平安の末から源頼朝の鎌倉が始まる世にあった、平清盛の傍らで武士であって剃髪し放浪に身を置いた西行は、雲林院をこう詠んでいる。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。字面(じづら)をなぞれば、これが噂で聞いていた雲林院なのか、では中に入って桜の花を見たいと思ってやって来た気持ちを休め慰めよう、というひとり言のような歌である。西行はこの歌で、雲林院という寺を聞き知っていると云っている。たとえば雲林院は、紫式部の『源氏物語』の第十帖「賢木(さかき)」にこのように出て来る。「大将の君(「光る君」の源氏)は、宮を、いと恋しう思ひ聞え給へど、「あさましき御心の程を、時々は、思ひ知るさまにも、見せたてまつらん」と念じつゝ、過ぐし給ふに、人わろく、つれづれに思(おぼ)さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に、まうで給へり。「故母御息所(こはゝみやすどころ)の御兄(せうと)の律師(りし)の、こもり給へる坊にて、法文など読み、行ひせむ」と、おぼして、二三日、おはするに、あはれなる事、多かり。紅葉、やうやう色づきわたりて、秋の野の、いと、なまめきたるなど、見給ひて、故郷も忘られぬべく、思(おぼ)さる。法師ばらの、才(さえ)あるかぎり召し出て、論議せさせて、聞(きこ)し召させ給ふ。所がらに、いとゞ、世の中の常なさを、思(おぼ)しあかしても、猶、「憂き人しもぞ」と、思(おぼ)し出でらるゝ。」(父桐壺帝の死があり、その皇子である源氏との間に、そのことを伏し、桐壺帝の子として東宮(後の冷泉帝)を生んだ中宮藤壺は、東宮の立場を守るため、源氏との逢瀬を拒み、後には出家することになるのであるが)「光る君」と呼ばれる源氏は、心底恋しく思う一方、自分を避けようとする不快な態度を取る藤壺に思い知らせようと思って内に籠っていたのであるが、人目にみっともなく、いつまでも藤壺への思いが消えてくれないので、気晴らしのつもりで途中の秋の花野を楽しみながら雲林院に参ったのである。「(三歳の時に)亡くなった母桐壺の兄が高僧として参籠しているこの寺の坊で、自分も経を読み、勤めもしよう」と思い起こして二三日過ごしてみれば、しみじみ思い考えることがいくつもあった。辺りの木々が紅葉しはじめ、野が鮮やかに色づくのを目にすると、洛中の住まいに戻ることも忘れてもかまわないような気持ちになって来る。ある日、秀でた学僧を集め議論するのを聴いたりしたのであるが、このように寺に身を置くと、ますます世にあることの無常を思って夜を明かしてしまったりもしたのであるが、一方で「藤壺を恨めしく思いながら忘れることが出来ない」という思いも沸き上がって来るのである。光源氏雲林院で過ごすうちに世の無常を思った、というのである。ここで光源氏が目にしたのは桜の紅葉であるが、西行は花を見ようと雲林院にやって来たのである。雲林院は、その元は、水辺に集う鳥を狩ったという広大な、第五十代桓武天皇の第七皇子、第五十三代淳和天皇離宮、別荘である。「雲林院は紫野にあり。淳和帝の離宮なり。(第五十四代仁明天皇の御子常康親王(つねやすしんのう)これを伝へ領し給ふ。その後天暦帝(第六十二代村上天皇)の御時、僧正遍昭別当に補せられ、堂塔厳重に建てられたり。今は雲林院(うぢゐ)と唱へてこのほとりの郷名となり。旧跡纔(わず)かに残る。むかしは桜の名所なれば、和歌には雲の林の寺と詠める。」(『都名所図会』)この『都名所図会』の「天暦帝の御時、僧正遍昭別当に補せられ」は誤りで、遍昭は常康親王に仕えていた僧である。常康親王の母紀種子は、雲ケ畑で耕雲入道となった惟喬親王(これたかしんのう)の母紀静子の姉である。天皇になれなかった従兄の常康親王は親から別荘紫野院を貰い、同じくなれなかった惟喬親王は大原に逃れるのである。平安の終わりは天皇の権力の衰えであり、息のかかった寺も衰え、雲林院も衰える。西行が見たのは恐らく、衰えた様の雲林院である。であれば西行の、この歌の思いは違って来る。人に道を教えられ、やって来た西行は、荒れ果てた古い寺を目の前にして思わす足を止める。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。これがあの噂で聞いていた雲林院なのであろうか、中に入って落胆しないように、いまのいままで桜を見たいと思っていた気のはやりをここは一旦落ち着かせよう。衰えた雲林院は後に大徳寺の敷地となって、世から消え、江戸期に観音堂として復活する。塚本邦雄が見たのはこの観音堂であるが、西行の目を通してうらぶれた雲林院の姿も見たのであり、恐らくは西行が思い描いた満開の桜に彩られた雲林院も見たのである。いまの雲林院は車を止めるところすらないと、塚本邦雄即物的に、西行を思って嘆いてみせる。その西行については、荒鹽の匂いがしていると塚本邦雄はいう。が、鹽は匂わない。西行には、このような歌がある。五月雨に干すひまなくて藻鹽草煙も立てぬ浦のあま人。海藻から採った鹽は、磯の匂いがする。藻鹽の匂う西行は、海のある方からやって来て、放浪の途中にあるのである。昭和三十六年(1961)に朝日新聞京都支局が出した『跡・続カメラ京ある記』に、雲林院の記事が載っている。「この寺に町の宗教家?が目をつけた。「私にまかせてもらえば必ず栄えさせますよ」というのだ。「そんな新興宗教の食いものにされてはかなわん」と地元の人たちは大憤慨。━━地元の人々のこの寺への執着は根強い。いまは子供の遊び場となった寺で、チョウチンに描かれた桜の絵を示しながら、昔は桜の名所だったと誇りつづけようとするのだ。」写真は、雲林院の門の前の道端で四人の子どもがボールを突いて遊んでいる。頬に髪の先がはねたオカッパの女の子は短いジャンパースカートを履き、もう一人は吊りスカートで、男の子はどちらも坊ちゃん刈りである。御堂の屋根瓦が覗く築地の前に束ねた薪が山積になっていて、御堂の裏の住宅の二階に洗濯物が干してある。つい先日の雲林院は、裏の住宅は別の建物に変わっていたが、写真と同じように洗濯物が寒風にひらひら揺れていた。「うぢゐ」「うりいん」が、この寺の地元の者の呼び方である。ウヂヰカイワイチユウシヤゲンキンノヒルヤ アラジオノカノサイギヤウ。

 「未開民族はまた、自由に風を吹かせたり鎮めたりすることができると信じている。ヤクート族は暑い日に遠くへ旅行しなければならない時、動物か魚の腹の中から偶然に発見した石を馬の毛で数回巻き、それを棒の先に結びつける。そして呪文を唱えながら、その棒をふりまわすのである。するとたちまち涼風が吹きはじめる。」(『金枝篇フレイザー 永橋卓介訳 岩波文庫1951年)

 「福島県、新たに「14人」感染確認、新型コロナ、県累計1483人」(令和3年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 四条通は、八坂神社の朱塗りの西楼門から色合いの変わる繁華な町を貫(つらぬ)き、右京梅津の長福寺までほぼ真直ぐで、この位置から桂川に架かる松尾橋までやや南に傾きながら繋いで終わる。松尾橋の西詰には、松尾大社(まつのおたいしゃ)の大鳥居が構えているが、四条通が「石段下」と呼ばれることがあるのは、その楼門の階段下から広がる祇園の賑わいがその呼び名の元(もとい)となっているからであり、そうであれば四条通松尾大社からはじまるのではなく、八坂神社の西楼門の「石段下」からはじまるのであり、終わりが松尾大社なのである。この松尾大社の裏山の松尾山の山裾に沿って、一ノ井川という用水路が流れている。いまはかげも形もない田圃のために、桂川から引いた水である。山裾に並ぶ住宅が一軒ずつ玄関前にコンクリートの橋を架けているこの川に沿って、嵐山の方角に暫く行くと、住宅が途切れた斜面の叢に背骨の化石ような細い石段が現れる。面を塗り固めたコンクリートがあちこち剥がれ、斜面からずり落ちるのを持ち堪えているような様の、その石段を上ったところにあるのが梯子地蔵(はしごじぞう)である。正式名は東光山薬師禅寺であるが、斜面を削って均したような敷地に建っているのは、この僧侶が建てたという古びた小さな御堂と本堂とその住まいである。本堂は板を打ちつけただけの掘立小屋の如くであり、軒に何本かつっかえ棒が立っている。梯子地蔵は、御堂の中で赤い衣に包まれていた。座った姿の石地蔵である。この地蔵のご利益は、寝小便封じである。この敷地からも見える比叡山千日回峰行を遂げた恵堯という、下(しも)の病を治す法を身につけた僧が、死んで修行の場であった岩の上に残したのが、御堂に納まる地蔵であるという。もう一つのいい伝えは、比叡山に修行に行かされていた小僧が毎夜寝小便をしたために、漏らした布団を背負って比叡山から追い出され、遂には岩の上で死んで、地蔵となってその兄の夢枕に立ったというのである。梯子地蔵という名は、その岩のある場所が高かったため、梯子を掛けてお参りしなければならなかったからだという。「こんな夢を見ました。小学生の私は、母親に「この手紙を学校の先生のところへ持って行きな。」と言われました。持って行きました。橘君枝先生はその手紙を見ると、みんなの前で、「車谷さんは、ゆうべ寝小便をしました。」と言いました。みんながわッと声を出して、私を見ました。そのあと、橘先生は大きな画用紙に「わたしはゆうべ寝小便をしました、と書きなさい。」と言いました。私は書きました。先生は、その画用紙の両側に穴を開け、そこに紐を通しました。「ほかの七組の教室へ一部屋ずつ、この画用紙を首にぶら下げて行って来なさい。」と言われました。すでにもう授業がはじまっていました。廊下はしんとしています。私は首に画用紙をぶら下げると、一部屋ずつ入って行きました。そして自分の組へ帰って来ました。橘先生がにやりと笑いました。家へ帰ると、私が寝小便をしたふとんが庭に干してありました。母親が出て来ました。その時、母親はなぜか順子ちゃん(私の嫁はん)になっていました。ふとんの前に立たされて、叱られました。この夢が醒めたのちも、恥辱感が残っていました。他の組へ一部屋ずつ入って行った時の恐怖感も残っていました。各教室ごとに笑われたり、小突きまわされたり、その組の先生になじられたりした時の記憶が、よみがえって来ました。お袋が嫁はんに変身したのも恐ろしいことでした。さればこの恐怖感をぬぐい去ること、どうしても出来ないのでした。恐らく一生ぬぐい去ることの出来ない恥辱でしょう。」(「夜尿」車谷長吉『愚か者 畸篇小説集』角川書店2004年刊)子ども時代、預かっていた三つ四つの年の従弟が寝小便をした。その父親、叔父が肝臓かあるいは膵臓に水が溜まって入院をした時である。この従弟は三人兄弟の真ん中で、この上も下も男で、下はまだ一つか二つの年で、恐らくは母親、叔母に負ぶわれ病院で、上の兄も一緒に預かったのかもしれないが、あるいは叔母の実家に預けられたのかもしれない。その三つ四つの従弟は、預かったその日から二晩続けて漏らし、三晩めからは敷布の下にビニールを敷かされた。それだけではなく、おとなしくオモチャで遊んでいても、食事になると、何を出しても首を振って食わず、匙をつけるのは、寿司だねの甘い桜色のそぼろをまぶしたご飯だけであった。寝心地の悪いビニールを下に敷いた布団で一緒に寝るこの従弟がものを食うのを拒むのは、心細さと戦っていたからなのであろうが、そうであれば汗で濡れた髪の毛を額に張りつけて眠る間も、己(おの)れの心細さに慣れなければならなかった。が、この者は、それから何週間後かに亡くなる四十前の父親の死にもまた、慣れなければならなかった。梯子地蔵に供えるのは、模造の梯子である。その梯子には、たとえばこのような願い事が書いてある。部活の合宿に間に合うように治して下さい。本堂の前に、見事な蠟梅(ロウバイ)が下に開く薄黄色の花を咲かせていた。蠟梅は、かぐと鼻の穴にしばらく残って、離れてからでも不意に匂う花である。

 「数日間歩いたのち、ティ・ノエルはようやく見憶えのある土地に辿り着いた。水を口に含むと、昔何度も泳いだことのある川の味がしたが、じっさいに泳いだのはもっと下流で、川が海に流れこむ手前の、大きく蛇行しているあたりだった。」(『この世の王国』アレホ・カルペンティエル 木村榮一・平田渡訳 水声社1992年)

 「「処理水タンク」増設を検討 東京電力、敷地の利用計画策定へ」(令和3年1月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雲ケ畑(くもがはた)という地名は、繁華な町中(まちなか)よりも遠い町外れの名に相応(ふさわ)しく、賀茂川を遡(さかのぼ)って辿り着く、川淵にオオサンショウウオの棲む洛北の山間(やまあい)の地区の名である。この地名の由来の一つに、出雲が絡んでいる。平安京の造営に出雲国からやって来た、あるいは命を受けた大工職人がこの地で木材を調達し、その区切りのついた後も故郷へは帰らず住みつき、はじめは出雲ケ畑と呼ばれていた地が雲ケ畑の名で残ったのだという。第六十八代後一条天皇太政大臣藤原為光(ふじわらのためみつ)が己(おの)れの子松雄君(後の藤原誠信ふじわらのさねのぶ)のために源為憲(みなもとのためのり)に作らせたという教科書『口遊(くちずさみ)』(天禄元年(970))の居処門(居処の項)に「雲太、和二、京三(謂大屋誦おおおくを、しょうしていはく)」という言葉がある。「今案(いまあんずるに)、雲太謂出雲国城築明神々殿(在出雲郡、杵築大社、後の出雲大社)、和二謂大和国東大寺大仏殿(在添上郡そふのかみのこほり)、京三謂大極殿。八省」この世の三大建物の第一は城築明神(出雲大社)で、二番目が東大寺大仏殿で、三番目が天皇大極殿と八つの省の建物であると覚えなさい、というのである。その世の第一の建物を建てた渡来人ともいわれている技能集団が、平安京のために汗を流したということはあり得る。であればこの集団は、愛宕郡出雲郷の出雲一族の後続の者らである。が、別の由来もある。第五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王(これたかしんのう)の剃髪後の名耕雲入道の耕雲から来ているという。第一皇子でありながら紀(き)氏の血を継いでいたため、右大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)の娘が生んだ生後九ヶ月の第四皇子惟仁親王(これひとしんのう、後の清和天皇)を皇太子にされ、気を病んだ惟喬親王は京から大原に逃れ棲み、雲ケ畑の地で剃髪し、その死の時は、御所のある洛中を流れる賀茂川の上流のこの地で死ねば宮城を汚すという理由で、より北の山奥の大森という場所に移されて迎えたという。「雲を耕す」という言葉は、頭の中で跳躍がなければ生まれない。惟喬親王は、歌人在原業平(ありはらのなりひら)と交流があった。その言葉の跳躍に手を貸したのが在原業平だったかもしれない。もう一つの由来は、山の頂上一面に咲く薬草の花が雲が降りたようだったから、というものである。東山六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、正月三が日、参拝者に皇服茶(こうぶくちゃ)を振る舞う。梅干しと結び昆布を沈めた大福茶と呼ばれるものである。空也聖が市中の病人に飲ませ、評判を聞いた第六十二代村上天皇も飲んだことで皇服であるという。昨年までは茶碗であったが、今年は二重にした紙コップに茶が注がれている。緋毛氈に腰を下ろし、紙コップのフチを歯に当てながら、乗り物の便が一日一往復だけの行ったことのない雲ケ畑を改めて思えば、その名の由来は、住みついた出雲の大工でもなく耕雲入道でもなく、山一面に咲いた薬草の白い花を探し当てた、はるばる洛中からやって来た薬草仲買人の思わずの感嘆ぶりが目に浮かぶ。六波羅蜜寺の三が日の参拝者は皆、干乾(ひから)びた一茎の稲穂を頂戴する。後は金を払ってその稲穂に、縁起物の熊手やら金の俵やら七福神の絵馬やら鈴をつけて貰うのである。寺の者がつけてくれた六波羅蜜寺と白抜きされた朱色の短冊だけであっても、殺風景な玄関内には正月の彩りである。

 「西来祖道我伝東 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中 西からやって来た祖の道理を私は東に伝え 月を釣り雲を耕すような古(いにしえ)の風流を慕い 俗世間の紅く染まった塵はここまで飛んで来ない 私はいま山奥の雪降る夜の草庵にひとりでいる」(「山居」道元「永平広録、巻十」)

「双葉・伝承館に「原子力PR看板」 福島県負の遺産…記憶継承」(令和3年1月6日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 押入の奥にさす日や冬隣 草間時彦。映画監督小津安二郎は、普段の日常を芸術にしたといわれている。最早一日の日は短く、低く空を巡っている日の光がたまたま開けた押入の中に射し、その不意打ちのような光に思わず戸を持つ手が止まり、寸前まで押入を開けてしようとしていたこと、ではない、頭に浮かんだ取り留めのないことに思いが摑まるという、よくあることがよくあることとして懐かしく、その懐かしさはもしかすると己(おの)れの父母もあるいはそのまた父母も感じた懐かしさかも知れず、見知らぬ誰でもが思う懐かしさかも知れず、冬隣という言葉は、その一瞬の懐かしさを永遠の一瞬として云い止めている。僧の夢僧を離るる冬隣 廣瀬直人。この句は頭の中で作っている。僧であっても夢を見る。その夢は煩悩のことかも知れず、煩悩が無くなれば悟るということであり理に落ちた、理の勝った句である。冬隣夜に入りて雨谷を埋め 角川源義。冬隣は押入の奥にだけあるのではく、山にもある。葉を落とした冬山に射していた日は西に去って、夜に冷たい雨が降り出せば最早冬の寒さから逃れることは出来ず、山に住む者はその覚悟をしなければならない。金閣寺の参道からそのまま西大路通を東に渡れば、目の前が鞍馬口通で、この通りに沿って賀茂川まで来ると、出雲路橋に出る。この橋の名は、橋の西詰の出雲路の地名から来ていて、出雲路松ノ木町、出雲路立テ本町、出雲路俵町、出雲路神楽町の四町が川沿いの賀茂街道に並んでいる。この地名を目にした者は、あの山陰の出雲地方と関係があり、恐らくはその出雲の国からやって来た者らが移り住んでいたのだろうと思いを巡らす。情緒的に思いを巡らせば、その者らは故郷を捨てる理由があってやって来たのだろうと。『続日本紀』の大宝二年(701)にこういう記述がある。「八月丙申(一日)、薩摩、多褹(たね)、化(おもふけ、天皇の徳)を隔てて命(おほせ)に逆ふ、是(ここ)に兵(いくさ)を発(おこ)して征討し、遂に戸を校(しら)べ吏を置く。出雲狛に従五位下を授く。」「九月乙酉(二十一日)、従五位下出雲狛に臣の姓を賜ふ。」この出雲狛は、壬申の乱大海人皇子(第四十代天武天皇)側にあって功名を成した武将であったという。弘仁六年(815)、嵯峨天皇の命で編纂した京と畿内に住む者の名鑑『新撰姓氏録』に、次の五名の出雲臣の名が載っている。「左京、出雲宿禰、神別(神武天皇より以前)、天穂日命(あめのほひのみこと)子、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)の後。左京、出雲、神別、天穂日命五世孫、久志和都命(くしわつのみこと)の後。右京、出雲臣、神別、天穂日命十二世孫、鵜濡渟命(うかつくぬのみこと)の後。山城国、出雲臣、神別、天穂日命神子、天日名鳥命(あめのひなどりのみこと)の後。山城国、出雲臣、神別、天穂日命の後。河内国、出雲臣、神別、天穂日命十二世孫、宇賀都久野命(うかつくぬのみこと)の後。」この内の山城国の出雲臣は、直接に従五位下の出雲臣と繋がりがあると思われている。奈良正倉院神亀三年(720)の「山背国(山城国愛宕(おたぎ)郡出雲郷計帳」という郷民に課した税の台帳が残っている。「正六位下出雲臣大嶋、従八位下勲十二等出雲臣真足、出雲臣麻呂、出雲臣山村、出雲臣安麻呂、出雲臣忍人、出雲臣嶋麻呂、出雲臣沙美麻呂、出雲臣深嶋、出雲臣古麻呂、出雲臣冠、出雲臣阿多、出雲臣千依、出雲臣吉事━━。」この者らが『新撰姓氏録』に載る、都が平安京に遷(うつ)る前に山背国に住んでいた出雲一族であり、その一部は官職に就いていて、高麗人を表わす狛の名を持っていた従五位下出雲臣と同じように、軍役で功のあった者らであるといわれている。愛宕郡出雲郷には、雲上里と雲下里の二つの里があり、雲上里に出雲寺という大寺があった。が、平安の後期にはその荒廃していた様子が『宇治拾遺物語』に記されている。「今は昔、王城の北、上つ出雲寺といふ寺、たててより後、年久しくなりて、御堂も傾きて、はかばかしう修理する人もなし。この近う、別當侍(はべり)き。その名をば、上覺となんいひける。これぞ前(さき)の別當の子に侍(はべり)ける。あひつぎつゝ、妻子もたる法師ぞしり侍(はべり)ける。いよいよ寺はこぼれて、荒れ侍(はべり)ける。さるは、傳教大師のもろこしにて、天(台)宗たてん所をえらび給(たまひ)けるに、此寺の所をば、繪にかきてつかはしける。「高雄、比叡山、かむつ寺(上津出雲寺)と、三の中にいづれかよかるべき」とあれば、「此寺の地は、人にすぐれてめでたけれど、僧なんらうがはし(乱りがわしい)かるべき」とありければ、それによりて、とゞめたる所なり。いとやんごとなき所(重要な場所)なれど、いかなるにか、さなり果て、わろく侍(はべる)なり。それに、上覺が夢にみるやう、我父の前別當、いみじう老て、杖つきて、いできて云やう、「あさて未時(ひつじのとき)に、大風吹て、この寺倒れなんとす。しかるに、我、この寺のかはらの下に、三尺の鯰にてなん、行方なく、水もすくなく、せばく暗き所に有て、淺ましう苦しき目をなんみる。寺倒れば、こぼれて庭にはひありかば、童部打殺してんとす。其時、汝が前にゆかんとす。童部に打せずして、賀茂川に放ちてよ。さらばひろきめもみん。大水に行て頼もしくなんあるべき」といふ。夢さめて、「かゝる夢をこそみつれ」と語れば、「いかなることにか」といひて、日暮ぬ。その日になりて、午(うま)のときの末より、俄(にわか)に空かきくもりて、木を折り、家を破風いできぬ。人々あはてゝ、家共つくろひさはげども、風いよいよ吹增りて、村里の家どもみな吹倒し、野山の竹木倒れ折れぬ。此寺、誠に未時(ひつじのとき)斗(ばかり)に、吹倒されぬ。柱折れ、棟くづれ、ずちなし(どうすることもできない)。さる程に、うら板の中に、とし比(ごろ)の雨水たまりけるに、大なる魚共おほかり。其わたりの者ども、桶をさげて、みなかき入れさはぐほどに、三尺ばかりなる鯰の、ふたふたとして庭にはひ出たり。夢のごとく、上覺がまへに來ぬるを、上覺思ひもあへず、魚の大にたのしげなるにふけりて(肥えて旨そうな様子に夢中になって)、かな杖の大なるをもちて、頭につきたてて、我(わが)太郎童部をよびて、「これ」といひければ、魚大にてうちとられねば、草苅鎌といふものをもちて、あぎとをかききりて、物につゝませて、家にもて入ぬ。さて、こと魚などしたゝめて、桶に入て、女どもにいたゞかせて、我(われ)坊にかへりたれば、妻の女、「この鯰は夢にみえける魚にこそあめれ。なにしに殺し給へるぞ」と、心うがれど、「こと童部の殺さましもおなじこと。あへなん、我は」などといひて、「こと人まぜず、太郎、次郎童など食たらんをぞ、故御房はうれしとおぼさん」とて、つぶつぶときり入て、煮て食て、「あやしう、いかなるにか。こと鯰よりもあぢはひのよきは、故御房の肉(ししむら)なれば、よきなめり。これが汁すゝれ」など、あひして(美味しがって)食ける程に、大なる骨喉にたてゝ、えうえう(げぇげぇ)といひける程に、とみに出ざりければ、苦痛して、遂に死侍(はべ)り。妻はゆゝしがりて(気味悪く思い)、鯰をば食はずなりにけりとなん。」(巻十三ノ八「出雲寺の別當、父の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事」)昔、宮城の北に上出雲寺という寺があり、年数が経ち、御堂なども修理されないまま傾いていたが、父親から別当を引き継いだ上覺という妻子持ちの代になって、寺はますます荒れ果てていた。この寺は伝教大師最澄が、唐から帰った後布教の場を定めようとした場所の一つでもあったが、僧の規律を乱すに違いないとして止めた貴重な寺であった。上覺は昼寝をしていて父親の夢を見た。あさっての午後二時大風が吹いて寺が倒れ、閉じ込められていた瓦の下から鯰となった私が出て来るので、子どもに殺される前に賀茂川に放してくれ。その日が来て、夢の通りに大風が吹き荒れ、辺りの家も野山の木も倒され、手の打ちようもなく御堂が倒れ、屋根裏の板に溜まっていた水の中から大魚が何匹も出て来て、その中に紛れて夢で父親が云った通りに三尺の大鯰が現れた。上覚は鉄の杖を鯰に突き立て、長男に草刈り鎌を持って来させて鰓を切って包んで家に持ち帰り、妻に、その鯰はお父様の生まれ変わりではないか、なせ殺したのですか、と咎められたが、どこかの子どもに殺されても私が殺しても同じことだ、息子二人にだけ食わせれば父親も喜ぶのではないか、と応え、煮て口に入れると、父親の肉だからこんなにも旨いにちがいないと云っているうちに骨が喉に刺さり、苦しそうにのたうち回って死んでしまった。それから、上覺の妻は鯰を気味悪がって二度と口にしなかったということである。出雲寺は、鯰となった父親を食うような坊主がいたから荒廃したのではない。「山背国愛宕郡出雲郷計帳」に載っている出雲臣真足は、四十一名の大家族である。が、その内の十一名が筑紫に、一名が近江に、一名が行方不明の逃亡をし、九名の奴婢の内の七名が行方不明の逃亡と記されている。大勢力となった出雲一族は、外部の異姓の者との婚姻関係がほとんどなかったといわれている。が、二方を、平安京との結びつきを強める賀茂一族と秦一族に囲まれていた。承和十一年(844)、上賀茂と下賀茂の大神宮を結ぶ賀茂川沿いを禁護する徭丁(労役人)の差発を命じられた愛宕郡司は太政官に、「郡中の徭丁数少なく、差宛つる人無し」と応えている。この時出雲郷の出雲一族は、最早そのどの一家にも労役に出せる者がいなかったのである。それぞれの家族が縮小してゆき、田の耕し手の埋め合わせをしていた奴婢までもが天平十五年(743)の墾田永年私財法の発布からますます流動化し、官職という地位も一族を増やすことにはならず、信仰の手を合わせ続けた出雲寺までもが傾くほど、遥か山陰出雲からやって来た出雲一族はその勢力を失っていくのである。出雲路橋にあったガソリンスタンドが潰れていた。敷地を金網のフェンスで囲まれ、セメントの地面の隙間のところどころに枯れ草か立っている。シャッターを下ろした店とは違う、殺伐とした独特の無慚な光景である。一年前には、事務所の前に突き出た屋根があるだけのがらんとしたこの隅に、ボロ布を持った従業員が前の賀茂川を見ながら立っていた。名も知らぬここにいた者らは皆、どこかに散り散りになってしまったのである。冬隣は、潰れたガソリンスタンドに当たる日射しにもあった。衰えをとどめることが出来なかった出雲一族の住む出入りの戸口に射す日にも、冬隣はあった。出雲郷から逃亡した奴婢の頬に当たる日射しにも、冬隣はあった。

 「幾月かして、私は山鳩が二羽で飛んでいるのを見た。山鳩も遂にいい対手を見つけ、再婚したのだと思い、これはいい事だったと喜んだ。ところが、そうではなく、二羽のが他所から来て、住みつき、前からの一羽は相変わらず一羽で飛んでいた。この状態は今も続いている。」(「山鳩」志賀直哉志賀直哉短篇集』岩波書店1989年)

 「県外避難者2万9307人 前回調査比52人減、福島県が発表」(令和2年12月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

  神宮道は、平安神宮の應天門の前からはじめれば、冷泉通二条通を越え、左右に府立図書館、国立近代美術館、京セラ美術館を見、大鳥居を潜り、琵琶湖疏水に架かる慶流橋を渡り、仁王門通を越え、三条通を超え、青蓮院(しょうれんいん)を過ぎ、知恩院の山門の前を過ぎ、円山公園の北口に到る。このまま円山公園を南に突っ切り、ねねの道に入って抜ければ、ニ年坂に出る。逆に辿れば、名の通りの平安神宮への参拝道である。神宮道で最も古い歴史を持つのは青蓮院である。年表によれば、平安末延暦寺の東塔青蓮坊(しょうれんぼう)に居を持った天台座主藤原師実(ふじわらのもろざね、摂政関白)の子行玄(ぎょうげん)が、鳥羽天皇の第七皇子覚快(かくかい)法親王を弟子に迎え入れた粟田口の里坊(別坊)が青蓮院門跡の元(もとい)であり、その第三代が四度(よたび)天台座主となった、藤原忠通(ふじわらのただみち、摂政関白)の子慈円である。慈円のもとで青蓮院で得度したのが九歳の親鸞である。親鸞のもう一人の師法然比叡山を下り庵を結んだ場所でもある知恩院の元の地が、青蓮院の土地である。慈円法然親鸞いづれ劣らぬ日本仏教の大物である。青蓮院にまつわるこの顔ぶれの重さを青蓮院にあって背負うのが、神宮道沿いに廻らした築地の盛り土に立つ大楠である。胴回り六メートル、丈二十六メートルの身体を持つ築地の内外の五本の楠は、どれも天を突く様ではないが、地を這う千本の根と中空に広がる千本の枝が、それが仮に自由自在に動くならば、人間が束でかかっても逃げ回ってもひとたまりもない様相を漂わせている。一説には、樹齢が八百年であるという。鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和を丸ごと飲み込む時間である。この世で八百年突っ立って生きることは樹木にしか出来ない。青蓮院の江戸の格調漂う門を潜って通される書院から見える庭は、銀閣寺と同じ河原者相阿弥(そうあみ)の手によるものであるという。が、何度かの境内の全焼火災で形を変じる手が加わっているという。ニ方に手足を伸ばしたアメーバのような池があり、その腹に小岩が一つ浮かび、尾の付け根に反った石の橋が架かり、庭の姿を作る石が飛び飛びに池の淵回りに置かれ、刈り込まれた躑躅(つつじ)が生(は)え、石を組んだ見立ての滝の後ろは樹の繁る粟田山の山裾で、続きの奥の庭の大楓を巡り、その山裾を庭に沿って緩く上ってゆくと、木の枝の遮らない庭建物の屋根を見下ろすことの出来る所に出る。このように庭を巡る流れで見るこの景色の様子に見覚えがあった。思い出したのは相阿弥の銀閣寺である。銀閣の観音殿を見下ろす大文字山の山裾を取り込んだ庭径(こみち)の高さが、相阿弥の作った高さであるのであれば、元の形を留めていない青蓮院の庭であっても山裾に残る瓜二つのこの径の高さも、相阿弥という者が恐らくは何度もこの辺りに立ち留まって為した高さであるのかもしれぬということである。蓮に青い花を咲かせる蓮はなく、青蓮院の青蓮は青紫の花をつける睡蓮の青花のことで、青花は仏陀の目を指しているという。が、諸仏を供養し随えば必ず仏になることが出来ると説く道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』新草第五の「供養諸仏」にはこのような青蓮が出て来る。「おほよそ三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう、菩薩が仏になるまでの長大な時間)の供養諸仏、はじめ身命より、国城妻子・七宝男女等、さらにをしむところなし、凡慮のおよぶところにあらず。あるいは黄金の粟(ぞく)を白銀の埦にもりみて、あるいは七宝の粟を金銀の埦にもりみてて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の華、あるいは栴檀(せんだん)・沈水香等を供養したてまつり、あるいは五茎の青蓮華を、五百の金銀をもて買取て、燃燈仏を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる。おほよそ供仏は、諸仏の要枢にましますべきを供養したてまつるにあらず、いそぎわがいのちの存せる光陰を、むなしくすごさず供養したてまつるなり。ひとたび金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香華なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん、しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんがための大慈大悲なり。」仏になるための永遠とも思える間諸仏を供養する時には、自分の命も国も妻子も宝も惜しまないのであるが、凡人の思いはここまでには至らない。が、金銀のような粟や小豆や青蓮を供養するのは、短い自分の命の時間を無駄にしてしまわないためで、それは仏の利益のためではなく、供養そのものが衆生の功徳を願う仏の慈悲なのである。この五百の金銀で買い取ったという「五茎の青蓮華」は、釈迦の次の話から来ている。「至於昔者(そのかみ)、定光仏(燃燈仏)興世したまひき。聖王有り。名を制勝治と曰(い)へり。鉢摩大国に在り、民、寿楽多くして天下太平なりき。時に我れ(釈尊)菩薩為(た)り。名を儒童(じゅどう)と曰(い)へり。幼懐聡叡、志大包弘なり。山沢に隠居し、守玄(道理)行禅しき。世に仏有りと聞きて、心、独り喜歓し、鹿皮衣を披(ひ)して行いて国に入らんとせり。道すがら丘聚(きゅうしゅう、小高い村)を経るに、聚中の道士五百人有り。菩薩之(ここ)を過ぐるに、終日意夜(ひねもすよもすがら)論道説義し、師徒皆な悦せり。別るべき時に臨みて、五百人、各(おのおの)銀銭一枚を送りき。菩薩之(こ)れを受け、域に入りて民を見るに、欣然怱々(きんぜんそうそう)として、道路を平治し、灑掃(さいそう)焼香す。即ち行く者に問はく、「何等を用(もつ)ての故ぞ。」行く人答へて曰(いは)く、「今日仏、当(まさ)に来りて域に入りたまふべし」菩薩大きに喜び、自ら念ずること甚だ快なり。今、仏を見ることを得て、当(まさ)に我が願を求むべし。語る頃ほひ、王家の女、過ぎたり。厥(そ)の名は瞿夷(くい)なり。水瓶を挟(こわき)にし、七枚の青蓮華を持せり。菩薩追ひて呼びて曰(いは)く、「大姉、且(しばら)く止(とど)まるべし。請ふ、百銀銭を以て手中の華を雇(か)はん」女の曰(いは)く、「仏、将(まさ)に域に入りたまはんとす。王、斎戒沐浴し、華もて之(これ)に上(たてまつ)らんとす。不可得也」又請ひて曰(いは)く、「姉更に取り求むべし」。二百、三百をもて雇(か)ふに不肯なり。即ち嚢中五百の銀銭を探りて、尽(ことごと)く用て之(これ)に与ふ。瞿夷(くい)、華を念ずるに極めたる直(あたひ)も数銭なり。乃(ここ)に五百にて雇(か)へり。其の銀宝を貪(むさぼ)り五茎の華を与へ、自ら二枚を留めり。廻(はる)かに別れてのち意に疑ふ、此れ何(いか)なる道士ぞ。鹿皮衣を披して、裁(わづか)に形体を蔽(おほ)ひ、銀銭宝を惜しまず、五茎の華を得て憘怡(きい)たること恒に非ず。追って男子を呼び、誠を以て告げしむ、「我が此の華、得べし。不(いな)ならば卿(おんみ)を奪はん」と。菩薩顧みて曰(いは)く、「華を買ふこと百銭より五百に至り、以て自ら交決せり。何ぞ宜しく相奪ふべき。女の曰(いは)く、「我れは王家の人なり。力能く卿(おんみ)を奪はん」。菩薩匿(かく)れて然(しか)も曰(は)く、「以て仏に上(たてまつ)りて、所願を求めんとするのみなり」。瞿夷(くい)曰(いは)く、「善し。願はくば我れ後生に、常に君が妻と為らん。好にも醜にも相離れず、必ず心中に置き、仏をして之(これ)を知らしめたまへ。我れ今女にして弱く、前(すす)むこと得ること能(あた)はず。請ふらくは二華を寄せて、以て仏に献(たてまつ)らんことを」。菩薩許せり焉。須臾(しゅゆ)にして仏到りたまひ、国王臣民、皆、迎へて拝謁し、各名華を散ぜしに、華、悉(ことごと)く地に堕(だ)しぬ。菩薩、仏を見たてまつることを得て、五茎の華を散ぜしに、皆な空中に止まり、仏の上に当りて根の生ぜるが如く、堕地する者無し。後に二華を散ずるに、又仏の両肩の上に挟住せり。仏、至意を知ろしめて菩薩を讃(ほ)めて言(のたま)はく、「汝、無数劫に学ぶ所清浄にして、心を降し命を棄て、欲を捨てて空を守り、起せず滅せず。無猗(むい)の慈もて徳行の願を積みて、今、之(これ)を得たり矣」。因(ちな)みに之(これ)に記して曰(のたまは)く、「汝、是(これ)より後九十一劫、劫を号(なづ)けて賢と為すとき、汝、当(まさ)に作仏して、釈迦文と名づくべし」(「太子瑞応本起経・上」)釈迦が儒童と呼ばれていた時の世に、民が平和に暮らしていた鉢摩大国に定光仏(燃燈仏)と呼ばれていた仏がいて、儒童はこの仏に会いたさに鹿皮の衣を身につけ、鉢摩大国に入り、議論を交わした学徒ら五百人と出会って銀銭五百枚の餞別を貰い、その村から別のある地区に足を踏み入れると、住人たちが浮き浮きと総出で道路の掃除をしていて、聞けば会いたいと念じていた定光仏がこの日この地区にやって来るのだという。その時七本の青蓮を差した水瓶を持った王家の瞿夷(くい)という女が通り掛かり、儒童が後を追ってその花を譲ってほしいと云うと、瞿夷は、王が定光仏を迎えるのに供えるものだからだめであると一旦はことわるが、問答の末、五百銀で五本の青蓮を儒童に譲る。が、瞿夷は別れてから、年の若い鹿皮のようなみすぼらしい恰好の学徒が、五本の花のために五百銀もの金を使うのはおかしいと思い直し、儒童に追いつき、青蓮を返してほしい、だめなら無理をしてでも奪い返しますよと云うと、儒童は、お金を払って買ったものをなぜ奪い返すなどと云うのかと問い返すと、瞿夷は、自分は王家の娘だからしようと思えば出来るのだと応える。困った儒童は人目を避け、この花を供え定光仏に願い事をするのだと告げる。すると瞿夷は、残りの二本もあなたに託すので、私の代わりに後の世で自分を妻にすると定光仏に願い誓って下さいと云う。それから暫くして定光仏がやって来ると、民らは拝謁し仏に向かって供えの花を投げると、それらはすべて地に落ち、儒童が投げた五本の青蓮だけが定光仏の頭上で根を生やしたように空中に留まり、瞿夷から預かった二本は仏の両肩の上でピタリと留まった。これを見た定光仏は、儒童を、その身につけた修学の態度を誉め、これより後仏となったならば釈迦と呼ばれるであろうと告げる。「五茎の青蓮華」は、釈迦が釈迦となる前の世ですれ違った女から買った花であり、その王家の女は釈迦の妻になることを願い、釈迦となる菩薩儒童は、この五本の青蓮を定光仏(燃燈仏)に供養し、定光仏から釈迦と呼ばれる仏になるとの予言を受けた、というのである。青蓮院の庭の池に青睡蓮はない。キャンバスに青い睡蓮を描いた画家モネは、己(おの)れの庭の池に浮かぶ青い睡蓮を夢見たというが、咲かせることが出来なかった。青蓮坊青蓮院と寺を名づけた当時の日本でも咲かない花だった青睡蓮は、慈円法然親鸞もまだ見ぬ花であった。

 「それから、地元のテレビ局で報道されたとたん、お年寄りが(経営する)本屋に次々いらっしゃった。手に手に持っているのは畑で抜いた大根やブロッコリー、ニンジン、白菜なんです。それを新聞紙に包んで「うれしどなぁ。いがったなぁ」と。「震災がら悲しくて辛ぇごどばっかりだったげんちょ、昨日はうれしぐで泣いじまったわ」と、お年寄りがマスク越しに涙ぐんで震えているんです。畑を持っていない方の中には、とにかく駆けつけたいので冷蔵庫から納豆を取り出して持って来て下さる方もいました。」(柳美里『JR上野駅公園口』全米図書賞翻訳文学部門受賞インタビュー、朝日新聞DIGITAL2020年12月12日)

 「「中間貯蔵施設での保管反対」双葉町長が見解 第1原発処理水」(令和2年12月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 谷崎潤一郎は小説『細雪(ささめゆき)』で、一家の四人姉妹の次女の幸子を「鯛でも明石鯛でなければ旨(うま)がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。」と書き、毎年姉妹で見る平安神宮の「神苑の花が洛中における最も美しい、最も見事な花である」と書いている。「その年の春」も、嫁いだ長女鶴子を除く幸子、雪子、妙子と幸子の夫貞之助と長女の悦子とで京都に出掛ける。「幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣りで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪の中の径(こみち)を、「悦ちゃん、雀のお宿よ」と云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵(えんりあん)の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。それからもう一度清凉寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三たび渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向かった。」ここに出て来る厭離庵(えんりあん)は、一年の内の秋の紅葉の時期にしか門の内を公開していない。厭離庵(えんりあん)は、大堰川(おおいがわ)を挟んだ嵐山の向かいの小倉山の麓にあり、かつては『小倉百人一首』を編(あ)んだ藤原定家(ふじわらのさだいえ)の山荘のあった場所であるといわれている。受付で貰った厭離庵(えんりあん)の栞には、「その后(ご)、久しく荒廃せしを冷泉家(れいぜいけ)が修復、霊元法皇より、「厭離庵(えんりあん)」の寺号を賜り、安永(一七七二年~)より、臨済宗天竜寺派となり、男僧四代続いたが、明治維新后(ご)、再び荒れ、明治四十三年、貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き、それ以后(いご)尼寺となる。」とあるが、これより旧い栞には、最後に「平成十八年九月、男僧、玄果入山。」の一行が印刷されている。清凉寺二尊院を結ぶ通りから、狭い住宅の間を入り、藪を切って角石を並べた露地を十メートル余辿って行くと、垣を立てた古びた山門に突き当たる。頭上は竹と木の枝で覆われ、漏れ日が薄ら明るく射していて、山門を潜ると、左手に並べた石伝いに短い石段があり、上れば両脇が丈の低い生垣の、触れば倒れそうな茅門(かやもん)が待っている。これは寺の境内に足を踏み入れたのではなく、茶庭の作りの様(さま)であり、その通り茅門(かやもん)の右手の飛び石の先に、斜面に迫り出すように広縁を設(しつら)えた時雨亭(しぐれのちん)と名づけられた茶室が建っている。茅門(かやもん)の正面は、楓と紅葉(もみじ)で囲った石灯籠の立つ苔庭である。庭に面しているのは、時雨亭(しぐれのちん)の西に隣る八畳と六畳間の書院で、書院の角を巡った裏にやや奥まって庫裡(くり)があり、庫裡(くり)の出入りの前の緩い石段を上がれば、小ぶりの仏堂である。大人の足で十歩も歩けば一巡り出来る庭の木々が、いまはその葉を落とす前に紅や黄に燃え染まっている。鳥の声もする。このような藪の中の絵姿は、ここから歩いて数分の祇王寺(ぎおうじ)と同じであるが、祇王寺(ぎおうじ)は洗練に力を注いだ息の詰まるような手入れを怠らず、厭離庵(えんりあん)は洗練の心掛けを途中で止めたと思しき様子で、書院の縁側に腰を下ろして見渡せば、その景色の綻(ほころ)びの気易さが分かる。後ろの八畳間にも六畳間の畳にも、開けたガラス戸から吹き込んだ萎(しお)れたもみじ葉が幾つも散らかっているのである。「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ 我がころも手は露にぬれつつ。春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山。あしひきの山どりの尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかもねむ。田子の浦にうちいでて見れば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ。おく山に紅葉ふみわけなく鹿の 声きく時ぞ秋はかなしき。かささぎのわたせる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける。天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも。我が庵は都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり。花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに。これやこの往くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関。わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよあまのつり舟。天津風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ。つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる。陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに。君がため春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪はふりつつ。立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとしきかば今かへり来む。千早(ちはや)ぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは。住(すみ)の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ。難波潟みじかき芦のふしの間も あはでこの世を過ぐしてよとや。わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしても逢はむとぞ思ふ。今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな。吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ。月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど。このたびは幣(ぬさ)も取りあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに。名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな。小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ。みかの原わきて流るる泉川 いつみきとてか恋しかるらむ。山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば。心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花。有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし。朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里にふれる白雪。山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり。久かたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ。誰をかも知る人にせむ高砂の 松もむかしの友ならなくに。人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける。夏の夜はまだよひながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ。白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける。忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな。浅茅生(あさぢう)のをののしの原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき。しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで。恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか。契りなきかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは。逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり。逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし。あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな。由良のとをわたる舟人かぢをたえ 行く方も知らぬ恋の道かな。八重むぐらしげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋はきにけり。風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな。御垣守(みかきもり)衛士(ゑじ)のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ。君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな。かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを。明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな。嘆きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る。忘れじの行末までは難(かた)ければ 今日をかぎりの命ともがな。滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ。あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな。巡りあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな。有馬山猪名(いな)のささ原風吹けば いでそよ人を忘れやはする。やすらはで寝なましものを小夜更けて 傾くまでの月を見しかな。大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立。いにしへの奈良の都の八重桜 今日九重に匂ひぬるかな。夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ。今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな。朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木。恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ。もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし。春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ。心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな。あらし吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川のにしきなりけり。寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづこもむなし秋の夕暮。夕されば門田の稲葉おとづれて 芦のまろやに秋風ぞ吹く。音にきく髙師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ。高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山の霞たたずもあらなむ。うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを。契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋も去(い)ぬめり。わだの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖の白波。瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ。淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守。秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ。ながからむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝はものをこそ思へ。ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞのこれる。思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり。世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる。ながらへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき。夜もすがらもの思ふ頃は明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり。なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな。むらさめの露もまだひぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮。難波江の芦のかりねの一夜ゆゑ 身をつくしてや恋ひわたるべき。玉の緒よ絶えなば絶えぬながらへば 忍ぶることのよわりもぞする。見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れれにぞ濡れし色は変らず。きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む。わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし。世の中は常にもかもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも。みよし野の山の秋風小夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり。おほけなくうき世の民におほふかな わが立つ杣(そま)に墨染の袖。花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり。来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ。風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける。人も惜し人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は。百敷(ももしき)や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり。」和歌の理論者藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、権中納言の職を罷免された後、「嵯峨を以て本所とす」(『明月記』)とここに隠居所を定め、人の世に耐える百人一首を撰んだ。撰ぶまでどれほどの和歌を、口の端にのぼらせたかは分からない。ある一首を撰ぶことは、その一首の理解者であるということである。理解者となることには、喜びがある。その喜びは、地に足がついた、己(おの)れの拠り所を得たような喜びである。百首を撰んだということは、定家は百の地に立つ喜びを得たということである。山門を出ると、受付の者のいる傍らの垣根に置いた自転車の向きが逆になっていた。露地を入って来た時の恰好ではなく、出るのに都合のいい向きである。受付にいる者は、ナイロンの上着を羽織った四十ほどの坊主頭の男である。男の足元で、同じ四十ほどのセーターを着た女と三つほどの子どもがしゃがんでいる。子どもは冷たそうな手で、地面の小石をいじっている。さっきまで書院の襖の奥で、何事か唄っていた子どもかもしれない。この三人が親子であれば、この坊主頭の男が、貰った栞では消されている玄果という僧侶なのか。行き止まりの狭い露地で、狭い場所であるからこそ自転車の向きを変えてくれたのはこの男であろう。サドルに跨ると、女が立ち上がり、黙って頭を下げた。が、男は飄々(ひょうひょう)とした顔で前を見ていた。

 「忠男は小柄で体の寸法がどこも短かった。台風で小川が溢れると水浸しになる庭には村では珍しい一本のスモモの木が植えられていて、スモモが赤くなる夏には忠男は急に仲間の人気者になった。すでに、四人兄姉の長兄は、町場に来た「大衆演劇」を追いかけて出奔して何年も消息が無かった。私が村を出た頃には、末っ子の忠男も名古屋の工場に就職して、スモモのある家には両親だけが暮らしていた。」(「箱メガネとスモモの家」鬼海弘雄『誰をも少し好きになる日』文藝春秋2015年)

 「「町に戻りたい」横ばい 復興庁調査、富岡8.3%・双葉10.8%」(令和2年11月30日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 清少納言の『枕草子』には、世の中の気に入っているもの、気に入らないものが筆のおもむくままに記されている。例えば、「第百九十段 島は八十島。浮島。たはれ島。絵島。松が浦島。豊浦の島。籬(まがき)の島。第百九十一段 浜は、有度浜(うどはま)。長浜。吹上の浜。打出の浜。諸寄の浜。千里の浜、広う思ひやらる。第百九十二段 浦は、大(おほ)の浦。塩釜の浦。こりずまの浦。名高の浦。第百九十三段 森は、殖槻(うゑづき)の森。石田(いはた)の森。木枯の森。転寝(うたたね)の森。磐瀬の森。大荒木の森。たれその森。くるべきの森。立ち聞きの森。ようたての森といふが耳とまるこそ、あやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、なにごとにつけけむ。第百九十四段 寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。石山。粉河。志賀。第百九十五段 経は、法華経、さらなり。普賢十願。千手経。随求経。金剛般若。薬師経。仁王経の下巻。第百九十六段 仏は、如意輪、千手、すべて六観音。薬師仏。釈迦仏、弥勒、地蔵。文殊不動尊、普賢。第百九十七段 書(ふみ)は、文集(もんじふ)。文選(もんぜん)、新賦。史記、五帝本紀。願文。表。博士の申文。第百九十八段 物語は、住吉。宇津保、殿移り。国譲りは憎し。埋れ木。月待つ女。梅壺の大将。道心すすむる。松が枝。狛野の物語は、古蝙蝠(ふるかはほり)探し出でて、持ていきしが、をかしきなり。物羨みの中将。宰相に子生ませて、形見の衣など乞ひたるぞ憎き。交野(かたの)の少将。第百九十九段 陀羅尼は、暁。経は、夕暮。」あるいは、「第百二十四段 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかに射し出でたるに、前栽の露は滾(こぼ)るばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅文・軒の上などは、掻いたる蜘蛛の巣の毀れ残りたるに雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。すこし日闌(た)けぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに枝うち動きて、人も手触れぬに、ふと上ざまへあがりたるも、「いみじうをかし」といひたる言どもの、「ひとの心には、露をかしからじ」と思ふこそ、またをかしけれ。」止めどない独り言のようでもあり、無邪気な思い込みのようでもあるが、この詠むような書き振りには、宮中に住まう平安人の読んだり見聞きをして知識を得た時の喜びや、蜘蛛の巣に掛かる露の美しさを発見した嬉しさがそのまま現れている。「寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。」寺であれば、奈良高取の壺坂南法華寺、京都南の端笠置の笠置寺、嵐山の法輪寺、釈迦如来を祀る東山霊山の正法寺(あるいは釈迦仏が住んで教えを説いた霊鷲山(りょうじゅせん))は立派で有り難いところである。順番を付ければ、第三番目に心惹かれる寺であるという嵐山法輪寺は、江戸の案内書『都名所図会』にはこう書かれている。「智福山法輪寺渡月橋の南にあり。真言宗にして、本尊は虚空蔵菩薩の坐像なり(道昌法師の作)。脇士は明星天・雨宝童子なり。それ当寺は天平年中の建立にして葛井寺(かどゐでら)といへり。(天慶の頃、空也上人こゝに住みて旧寺を修造し、念仏常行堂とす)中興の開基は道昌僧都、姓は秦氏にして讃州香川郡の人なり。弘法大師真言密教をうけ、虚空蔵求聞持の法を修せんとて、この寺に一百日参籠し給ふ。五月の頃、皎月西山に隠れ、明星東天に出づる時、閼伽水(あかのみづ)を汲むに光炎頓(にはか)に輝きて、明星天衣の袖の上に来影し、忽ち虚空蔵菩薩と現はれ給ふ。縫(ぬひもの)の如く染むるが如く、数日を経るといへどもその体滅せず。これ生身の尊影なりとて、道昌則ち虚空蔵菩薩の像を刻み、袖の像を腹内に収めらる。この時弘法大師を請じて開眼供養し給ふ。これ当寺の本尊なり。貞観十六年(874)に阿弥陀堂を改めて法輪寺と号す。」嵐山の山裾にある法輪寺の本尊は虚空蔵菩薩である。空海の『三教指帰(さんごうしいき)』に「余に虚空蔵求聞持を呈す。その説に説く、もし人、法によつてこの真言百万遍を誦すれば、すなはち一切の教法の文義、暗記することを得る。」とある。虚空蔵を本尊としてその呪文、真言言葉を一日一万遍を百日続ければ、見聞覚知したことのすべてを忘れずにいることが出来るというのである。虚空蔵は、一切の礙(さまた)げのないところで、利益安楽の元となるものが自在に変化し動き続ける有り様であるという。菩薩は、自ら釈迦の次をゆく者として悟りを求めつつ衆生仏道に導く者である。虚空蔵菩薩空海を実行者として、祈願の果てに知恵と記憶を授ける者であるとこの世にお墨付きを与えられたのである。石段の途中や境内のあちこちで紅葉のはじまった法輪寺の本堂脇に、白地に「十三まいり」と書かれた看板が立っている。十三詣りは、虚空蔵菩薩との結縁の日としている旧暦三月十三日に、数え年十三の男女が着飾って参拝し、知恵と福徳を授けてもらう行事である。漢字一字を書いて納め、参拝した後は、渡月橋を渡り終えるまで後ろを振り返ってはならないとされている。十三詣りをした子どもは、本当に知恵と福徳が授かったかどうかの実感はない。が、振り返るなと云われれば、それを何ごとかとして実感するのである。子どもは日頃この歌で、後ろという言葉を身近に敏感に感じている。「かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ」籠の中の鳥はいつになったら籠からお出になるのか。夜が白みはじめると、閉じ込められている鷭(ばん)のところに鶴と亀が集まって来た。鷭よ、お前の顔は鶴のようでもあり、躰は亀のようでもあるが、お前が連なっているのは鶴の後ろなのか、それとも亀の後ろなのか。朝になって明るくなればきっとわかることだろう。十三詣りの振り返るなという呪いは、後ろに正解があるが、前を向いて探せということではないか。子どもの希望は、それを身をもって知ることである。渡月橋の元の橋の名は法輪寺橋で、大堰川を渡りきるまでが法輪寺の境内だった。橋を渡り終えれば、嵯峨野である。「野は、嵯峨野、さらなり。」清少納言は云う、野の第一は云うまでもなく嵯峨野である。遠い嵯峨野を戻れば、洛中である。

 「今昔(イマハムカシ)、天竺(テンジク)ニ世間旱颰(カンバツ)シテ天下ニ水絶テ、青キ草葉モ无(ナ)キ時有ケリ。其ノ時ニ一ノ池有リ。其ノ池ニ一ノ龜住ム。池ノ水、旱(カハキ)失テ、其ノ龜可死(シスベ)シ。其ノ時ニ、一ノ鶴ノ、此ノ池ニ耒(キタリ)テ喰フ。龜出耒テ、鶴ニ値(アヒ)テ相語(アヒカタラヒ)テ云(イハ)ク。「汝ト我レト前世ノ契有テ鶴龜ト一雙ニ名ヲ得タリト、佛説(トキ)給ヘリ。経教ニモ万ノ物ノ譬(タトヒ)ニハ龜鶴ヲ以テ譬(タト)ヘタリ。而(シカ)ルニ天下旱颰(カンバツ)シテ、此ノ池ノ水失セテ、我ガ命チ可絶(タユベ)シ。汝ヂ助ケヨト。」鶴、荅(コタヘ)テ云(イハ)ク、「汝ガ云フ所二(フタ)ツ无(ナ)シ、我レ理(コトワリ)ヲ存ゼリ。實(マコト)ニ汝ガ命、明日ニ不可過(スグベカラ)ズ、極(キハメ)テ哀レニ思フ。我レハ天下ヲ高クモ下(ヒキ)クモ飛ビ翔(カケ)ル事、心ニ任セタリ。春ハ天下ノ草木ノ花葉(クヱエフ)、色ゝニシテ、目出タキヲ見ル。夏ハ農業ノ種種(クサグサ)ニ生(オ)ヒ榮エテ、様ゝナルヲ見ル。秋ハ山ゝノ荒野ノ紅葉ノ妙ナルヲ見ル。冬ハ霜雪ノ寒水、山川・江河ニ水凍テ鏡ノ如クナルヲ見ル。如此(カ)ク四季ニ随(シタガヒ)テ何物カ妙ニ目出カラザル物ハ有ル。乃至(ナイシ)極樂界ノ七寶ノ池ノ自然㽵嚴(シヤウゴン)ヲモ我レ皆見ル。汝ハ只此ノ小キ池一ガ内ダニ難知(シリガタ)シ。汝ヲ見ニ實(マコト)ニ糸惜(イトホシ)。然(サ)レバ汝ガ不云(イハ)ザル前ニ水ノ邊(ホトリ)将(ヰテ)行ムト思フ。但(タダシ)、我レ汝ヲ背(オフ)ニモ不能(アタハ)ズ、抱(イダ)カムニモ、力无(ナ)シ、口ニ咥(クハ)へムニモ便(タヨ)リ无(ナ)シ。只可為(スベ)キ様(ヤウ)ハ一ノ木ヲ汝ニ令咥(クハヘシ)メテ我等二(フタリ)シテ木ノ本末(モトスヱ)ヲ咥ヘテ将(ヰテ)行カムト思フニ、汝ハ本(モト)ヨリ極(キハメ)テ物痛ク云フ物也(※よくおしゃべりをする者である)。汝ヂ我ニ問フ事有リ、亦(マタ)、我レモ誤(アヤマリ)テ云フ事有ラバ、互ニ口開キナバ、落テ汝ガ身命ハ被損(ソコナハ)レナム、何(イカニ)」ト云へバ、龜荅(コタヘ)テ云(イハ)ク、「将(ヰテ)行カムト宣(ノタマ)ハゞ我レ口ヲ縫テ更ニ云フ事不有(アラ)ジ。世ニ有ル者(モ)ノ、身不思(オモハ)ズヤハ有ル」。鶴ノ、「付(ツキ)ヌル痾(ヤマヒ)ハ不失(ケセ)ヌ物也。汝ヂ猶信ゼジト。」龜ノ云(イハ)ク、「猶、更ニ不云(イハ)ジ。猶将(ヰテ)行(ユ)ケ」ト云へバ、鶴二(フタリ)シテ龜ニ木ヲ令咥(クハへシ)メテ鶴二(フタリ)シテ木ノ本末(モトスヱ)ヲ咥へテ高ク飛ビ行ク時ニ、龜、池ノ一ガ内ニ習(ナラヒ)テ(※住み慣れて)、未ダ見モ不習(ナラ)ハヌ所ノ山川・豁峯(タニミネ)ノ色ゝニ目出キヲ見テ、極(キハメ)テ感ニ不堪(タヘ)ズシテ、爰(ココ)ハ何(イド)コゾト」云フ。鶴モ亦(マタ)、忘テ、「此(ココ)ヤト」云フ程ニ、口開(ヒラキ)二ケレバ龜落テ身命ヲ失ヒテケリ。此ニ依テ、物痛ク云ヒ習ヌル物ハ身命ヲモ不顧(カヘリミ)ザル也。佛ノ「守口攝意身莫犯(シユクセツイシンマクボン ※身口意のはたらきを謹んで十悪を犯さないようにせよ)」等ノ文ハ此レヲ説給(トキタマフ)ナルベシ。亦、世ノ人「不信ノ龜ハ甲破ル」ト云(イフ)ハ、此ノ事ヲ云フトゾ語リ傳へタルトヤ。」(「龜、鶴ノ教へヲ信ゼズシテ地ニ落チ甲ヲ破ル語(コト)」『今昔物語集』日本古典文學大系 岩波書店1959年)

 「地下水から「トリチウム」検出 第1原発敷地外、基準値下回る」(令和2年11月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)