初めて曲がる曲がり角の道のその先の小道が行き止まりであるかもしれぬことは用心をしていても起こり、その小道が思わずも知った道に通じていたということもあるのであるが、太秦広隆寺の手前の三条通を南に曲がって初めて入った狭い住宅道の行き止まりとなった枯草と砂利の空地の端に生えている花を落とした山茶花の木蔭で、腹の突き出た中年の男がサンダルに素足でパイプ椅子に座り、白髪眉の年の入った男とやや腰の曲がった年の入った女の二人掛かりでその男の髪の毛を刈っていた。男は祝いの引出物を包むようなビニールの風呂敷を首から広げて垂らし、動くなという云いつけに我慢をしている様子で、年の入った男が後ろからその男の膝に置いた握り拳に手を当てていて、年の入った女は、盆栽の枝を落としているような動作で鋏を動かしている。藤田敏八監督の『海燕ジョーの奇跡』に、息子が父親に髪を刈って貰う場面があった。息子は沖縄のヤクザで、弟分を殺したある暴力団の組長を射殺して舟を乗り継いでフィリピンまで逃げ、貧民街で暮らしていたフィリピン人の己(おの)れの父親を探し当てると、その父親の店に入って名乗らずに椅子に座り、みすぼらしい姿の父親は怪訝な様子で髪を切りはじめるが、不自由な手元から鋏を床に落とすと、息子は堪(たま)らなくなって店を出て行った。平山秀幸の『愛を乞うひと』では、母親から望んで生んだわけでないと云われ、虐待を受け続けていた娘が、娘を持つ母親となって久しく音信の途絶えていた母親に会いに美容室を訪れ、母親はその前髪を梳かすうちに額の傷に気づいてはっとするのであるが、この娘も母親に己(おの)れを名乗らなかった。ウニー・ルコントの『冬の小鳥』では、父親の手で孤児院に預けられた少女が、父親が二度と迎えに来ることがないと分かると出された食事を払い落し、貰った人形の首を引きちぎり、逃亡を企てるほどの反発をして日が過ぎた後、木の下で髪の毛を切られながら、係の女から、いずれは養子にしてもらうんだよと云われると、少女は、どこにも行きたくないと応える。子ども時代、叔父の理髪店で髪を刈って貰っていた。店は叔父がひとりで立ち、その時に客の相手をしていて、他に客が待っていたり、後から客が入って来られるのが何より苦痛であった。金を払わない客としてどこか後ろめたい思いで番が来るのを待たなければならないのである。店には漫画の揃えもなく、窓の外の通りを眺めるほかに時間の過ごしようがなかった。番か回っても叔父は余計な口をきかない。タダの客であっても甥であればいい加減に済ませることは出来ないのである。為されるままに散髪が終わった後、果たして一度でも口に出して礼を云ったことがあったであろうか、剃刀を研ぐ皮の黒いベルトや開けると軋む戸の音は思い出すことが出来るのであるが。来た道を引き返すことも何事かではあるが。

 「翌(あく)る朝、村は騒動であつた。三歳の太郎が村からたつぷり一里もはなれてゐる湯流山(ゆながれやま)の、林檎畑のまんまんなかでこともなげに寢込んでゐたからであつた。湯流山は氷のかけらが溶けかけてゐるやうな形で、峯には三つのなだらかな起伏があり西端は流れたやうにゆるやかな傾斜をなしてゐた。百米くらいの高さであつた。太郎がどうしてそんな山の中にまで行き着けたのか、その譯は不明であつた。いや太郎がひとりで登つていつたにちがひないのだ。けれどもなぜ登つていつたのかその譯がわからなかつた。」(「ロマネスク」太宰治太宰治全集 第一巻』筑摩書房1955年)

 「1,3号機の格納器「水位低下」 福島第1原発、漏えい増量か」(令和3年2月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 橋早春何を提げても未婚の手 長谷川双魚(はせがわそうぎょ)。たとえば、「早春に」、あるいは「早春の」、何を提げても未婚の手、とすれば、調子は滑らかになり、早春という季節の未婚の、恐らくは女の手の瑞々しさはすっきりする。が、長谷川双魚は、頭に橋という場所を加え、その橋は短い季節のその一時期の橋であるとした。橋は川の両側にある街を繋ぎ、その下を水が流れ、橋の上の四方は遮るものが何もない。この未婚の者はこれから橋の向こうのどこかへ行く、あるいは橋の向こうから戻って来たという移動の途中で、その手元に改めて目がいったのは、冬の間していた手袋のない素手をまだ空気の冷たい日の光に晒していたからであろう。「橋早春」というやや躓(つまづ)くような調子は、橋の上で偶然見かけた者への結婚前のつき合いの高揚した気分の表われである。この長谷川双魚の俳句を私小説(わたくししょうせつ)風に拾ってみれば、雪の降る前の桜の木にもたれ。秋風の吹くところにて婚約す。猫だいて妻の夏痩はじまれり。みごもりの咥(くわ)へぬぎして夏手套(なつしゅとう、手袋)。風邪の子が空泳ぐ魚あまた描く。橋早春何を提げても未婚の手。長谷川双魚は岐阜の出で、岐阜薬科大学の教員であったというから、この橋もその生活を見渡す目の内にあったのであろう。たとえば鴨川に架かる橋に思いを巡らせば、この句の舞台に荒神橋(こうじんばし)が目に浮かぶ。たとえば三条大橋寺町通三条京阪駅の間に架かり、四条大橋河原町通祇園八坂神社の間でどちらも繁華で人の通りが多く、団栗橋(どんぐりばし)と松原橋は車の行き来も頻繁でない落ち着いた橋であるが、飯屋飲み屋の並ぶ木屋町通と花街宮川町がその両側にあり、丸太町橋、御池大橋、五条大橋は車線が広い分だけ自(おの)ずと情緒は損なわれ、七条大橋は、西は中央卸売市場、瓦屋根の商店に昭和のアーケード、東は三十三間堂京都国立博物館とちぐはぐに街を繋いでいる。荒神橋は繁華な三条大橋から北に上がり、西に御所と鴨沂(おうき)高等学校、京都府立医科大学付属病院、東に京都大学薬学部と医学部がある。昭和28年(1953)当時西にあった立命館大学に、東京大学がその設置を取りやめた青銅像「わだつみ像」が設置されることになり、その歓迎に向かった京大生のデモが荒神橋で中立売署の警官と衝突し、木の欄干が壊れ、十数人の学生が川に落ちたことがあったという。学校病院の建つ街の佇まいの中に混じる独特の張りつめた空気は、終わる冬と始まる春の間の早春の時期に、最も強く感じるものかもしれない。橋の上で、未婚の者らはその冷たさの残る空気を胸深く吸うのである。洛中をすぎゆく風も朧にて 長谷川双魚。

 「ま、綺麗やおへんかどうえ このたそがれの明るさや暗さ どうどつしやろ紫の空のいろ 空中に女の毛がからまる ま、見とみやすなよろしゆおすえな 西空がうつすらと薄紅い玻璃みたいに どうどつしやろえええなあ ほんまに綺麗えな、きらきらしてまぶしい 灯がとぼる、アーク燈も電気も提灯も ホイツスラーの薄ら明かりに あては立つて居る四条大橋 じつと北を見つめながら。虹の様に五色に霞んでるえ北山が 河原の水の仰山さ、あの仰山の水わいな 青うて冷たいやろえなあれ先斗町(ぽんとちょう)の灯が きらきらと映つとおすわ 三味線が一寸もきこえんのはどうしたのやろ 芸妓はんがちらちらと見えるのに。ま、もう夜どすか早いえな お空が紫でお星さんがきらきらと たんとの人出やな、美しい人ばかり まるで燈と顔との戦場 あ、びつくりした電車が走る あ、こはかつた。ええ風が吹く事、今夜は 綺麗やけど冷たい晩やわ あては四条大橋に立つて居る 花の様に輝く仁丹の色電気 うるしぬりの夜空に。なんで、ぽかんと立つて居るのやろ あても知りまへんに。」(「京都人の夜景色」村山槐多『村山槐多詩集』彌生書房1974年)

 「深夜に強烈な揺れ、店内散乱 福島県震度6強、原発異常なし」(令和3年2月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 「福島第1原発、第2原発 燃料プールの水あふれる」(令和3年2月14日 河北新報ONLINE・NEWS)  

 車谷長吉に「三笠山」という短篇小説がある。己(おの)れの商売が行き詰まり、一家四人で心中をする話である。京都大学医学部に合格したその日に父親が二人死亡の交通事故を起こしたことで、男は進学を諦めて建材会社に入り、後に独立し、高校の同級生で子連れの出戻りと結婚し、子が一人生まれ、世の景気が傾き出すと取り引き会社が倒産し、会社の借金が膨らみ、遂には身動きが取れなくなり、追い詰められてサラ金で借りた有り金をイチかバチかの競馬につぎ込んで負け、最後の日子どもらを奈良のドリームランドへ連れて行き、その夜宿で子ども二人を絞め殺し、男とその妻は三笠山へ入って車の中に排気ガスを引き込んだ。車谷長吉は、小説の主人公の男のはじめの躓(つまづ)きを父親の交通事故にしたのである。数日前のNHK・NEWS・WEBの特集に、若い親子三人の家族写真を掲げた記事が載っていた。並んだ父親と母親の前に立っているカズヤという男の子は、三歳で父親を交通事故で亡くし、小学三年の時から、心臓に持病のあった母親の代わりに祖母の便所に付き添い、買い物洗濯をし、薬を取りに行き、母親が倒れると中学は休みがちになり、高校は定時制に通いながら祖母と母親の介護にその日その日を費やし、祖母が亡くなり、四年前に母親が亡くなり、三十八歳になったこのカズヤという男は、ただの一人の友人も持ったことがなく、寝たきりになった母親がスープのようなものしか口にしなくなり、別のものを作るのが面倒で己(おの)れも同じものを摂るうちにその習慣が身につき、いまでもそのドロドロにした食べ物を母親の遺骨を納めた小さな仏壇を置いたテーブルの前で匙で掬(すく)って食べているという。いまはスーパーに勤めているというのであるが、父親の交通事故がなければ、この男のこれまでのすべてはそうではなかったのかもしれない。京都駅の西に梅小路公園がある。JR嵯峨野線で、駅を出てすぐ右手に見えるのが梅小路公園である。歴史の元(もとい)では、平清盛一族の屋敷のあったところだといい、源氏に火をつけられてからは長らく田畑のままで、平らなところが国鉄の貨物駅になり、いまは貨物駅の敷地も含め、薄い傾斜地に芝を植えた公園になり、嵯峨野線の曲がりに沿った西側は樹木を生やし池と小川の水辺を朱雀の庭といのちの森と名づけ、大部分を有料の柵で囲っている。かつての梅小路通沿いにあるこの公園の隅で咲き始めている百本余の丈の揃った紅梅白梅は、その名にちなんで開園の後に植えられたものである。この梅の木の間の敷石を通って緩い傾斜を上ると、菜の花が目に入る。菜の花の花壇の向こうが枯れ芝の広い空地である。芝の上で、同じ運動着姿の幼稚園児が一斉に走ったり止まったりしている。端を行き来している襁褓(おしめ)姿の子どもを連れた父親や年寄の二人連れの姿も見える。流れる雲のせいで日が照ったり陰ったりする広場に時どき声が上がるのは、遠くにいる幼稚園児のものではなく、公園の隣りにある京都水族館のイルカショーで客が上げた声である。擂鉢状のこちらに向いた観客席にぽつりぽつり人の姿があり、マイクを通した係の声も聞こえて来る。京都はいま、国が出した二度目の緊急事態という宣言のさ中である。仮にいまこの場で撮った写真は何の変のない広場の写真であろうが、その写真に2021年の緊急事態の宣言下と添えれば、写真の中の景色は忽(たちま)ち緊急事態の景色となる。別の仮の写真がもう一枚ある。水底の深い川の、縁(へり)の一方には柵があり、もう一方の縁(へり)には柵のない写真である。この柵のない縁(へり)を歩かされていたのが最後にドリームランドへ子どもを連れて行った小説「三笠山」の一家であり、カズヤという男である。枯れ芝の広場で、輪になった列から抜け出した幼稚園児が、立って構えていた先生の広げた腕の中に摑まる。「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない━━誰もって大人はだよ━━僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ━━つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなとき僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」(『ライ麦畑でつかまえてジェローム・デイヴィッド・サリンジャー 野崎孝訳 白水Uブックス1984年刊)

 「指切りは、人と人とをつなぐものであるが、そこで結ばれる「約束」はしばしば裏切られる。指切りは約束であって約束ではない。これは他国民にはなかなか理解されない日本人のふしぎなしぐさである。指切りゲンマンは子供のあそびである。あそびであるかぎり、不確かではかないものである。「手をつなぐ」とか、「腕を組む」とかいったものとはまるでちがう。しかし、約束としてはかなく、不確かであればあるほど主情的には、切ない想いがこめられる。」(『しぐさの日本文化』多田道太郎 角川文庫1978年)

 「3月8日から 「立ち入り規制緩和」 大熊下野上、熊地区の一部」(令和3年2月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 一休さん一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は第百代後小松天皇落胤(らくいん)として洛南京田辺酬恩庵、一休寺にある墓は宮内庁によって管理されている。一休宗純の弟子没倫紹等墨斎が書いたという『東海一休和尚年譜』には、酬恩庵で迎えたその最後が「孟冬(初冬、旧十月)の朝、瘧(おこり、熱病)発(おこ)る。三日、駆瘧の薬を服して、瘧散ず。然(しか)れども、衰憊(すいはい)喘々(ぜんぜん)としてこれを殆(あやう)くす。十又九日、江の勅史来り謁(えつ)す。対話すること常の如し。十一月七日、疾病篤く、水漿も口に入らず。二十一日、卯時(午前六時)、泊然(はくぜん、穏やか)として寐るが如くにして坐逝したまう。」と記されている。一休宗純を知ろうとする者はまずはこの『東海一休和尚年譜』を元(もとい)に思いを巡らし、小説家水上勉もまたこれを手許に、ともう一冊、元禄二年(1689)に出た某種本の読み下しとして大正二年(1913)に出た磯上清太夫という者の『一休和尚行実譜』に目を凝らして伝記『一休』を書き、皆が得体の知れぬ者との思いを抱く、その正体を知るためにいまはこの水上勉の『一休』を読み進めれば、後小松天皇に仕えていた楠一族の出というひとりの女が皇妃によって宮廷から追われ、応永元年(1394)嵯峨野の民家で後に一休宗純となる男子を生み、千菊丸と名づけられた。この後後小松天皇に男子は二人生まれ、その第一皇子が後の第百一代称光天皇である。千菊丸は六歳で四条街北大宮西にあった安国寺に預けられ周建として出家し、十二歳で嵯峨宝幢寺の清叟仁(せいそうじん)に「維摩経」を学び、十三歳で建仁寺の慕喆竜攀(ぼてつりゅうはん)に漢詩を学び、『東海一休和尚年譜』は周建十七歳として「中秋無月の詩を賦(ふ)し佳句神(しん)に入る。清叟仁につきて外書経録を学ぶ。謙翁関山派の宗風を唱(とな)うるを聞きて往(むか)いて室に造(いた)る。」と記す。水上勉は己(おの)れの修行時代を思い返し、この間に周建が禅寺の戒律と同時に男色を覚えたのではないかと推測する。禅修行の序列は、童行(ずんなん)、喝食(かつじき)、沙彌(さみ)と上に連なり、師が稚児を傍に置き、喝食沙彌が童行を弄(もてあそ)ぶ当時の「禅林の稚児狂い」の中に周建も身を置いていたに違いないとするのである。「近侍の美妾に寄す 淫乱天然、少年を愛す、風流の清宴、花前に対す。肥えたるは玉環(楊貴妃)に似、痩せたるは飛燕(漢の孝成帝に仕えた)、交りを絶つ、臨済正伝の禅。」一休宗純の詩集『狂雲集』にある世に知られた一篇である。気の赴くまま傍づきのお気に入りと遊んでいる時は臨済の教えなど断ち切っても構わない、と一休宗純は詠っている。文学の戯言(ざれごと)ではなく、このことを隠し事としない一休宗純という男の偽らざる歌い言であると水上勉は云うのである。十七歳の周建は、その評判を聞き知った謙翁宗為(けんおうそうい)を禅の真人と思い定め弟子となり、名を宗純と改める。「(謙翁の)西金寺は貧寺なれば、宗純一日とてたくはつにいでざるはなかりけり、にし山よりとほく都にむかひ、高倉、四条、三条へあるき、まちや、しやうかにこひて米粟をめぐまれての帰庵なり。謙翁臥す日あり、水薬師の水をしよまうしたまふに、宗純たくはつの帰路、御旅所にゆきたまひて清泉の水をいただきての帰参あり。げにこころやさしきことなり。」(『一休和尚行実譜』)「げにこころやさしき」宗純であったが、宗純にはもう一つの顔があった。父親が後小松天皇で、母親が南朝側にあった楠一族という顔である。ある日居合わせた宝幢寺に四代将軍足利義持がやって来て、一段高い所から迎えて幀子(とうす、仏具)を渡そうとした宗純が、同行の赤松越州(満祐)に叱られ、あかんべえをしてみせた。この時宗純は、男色だった義持と連れの満祐の関係を知ってからかったのだという。「いつのころよりかしらねども京に盆踊りはやれり。まい年七月十五日より八月一日までを、みやこはづれの大滝にて、八十間四面のたけやらいゆひつけ、将軍義持公おなりとのさわぎなり。みやこの人さまざまなるくふうこらして将軍のおん目にとまらんとせり。━━(包みの)なかより白もめんとどくろ野ざらし姿ゑがきし衣裳のいでたり。一休(宗純)すばやく衣のうへにかけもめんの三尺にてしめ、白はちまきのうへ、よういの拍子木かちかちとうちならし、てうしとりつつ踊りのなかへ入りたまふ。きらびやかなる男女のなかなれば、どくろ絵の衣裳はめだちたり。一休(宗純)わざわざ将軍義持公のごぜんにすすみいでられ、竹を切るならこころせよ、たまりし水をにごすなよ、手あらくすればにごるぞよ、切らずにおけば出ず入らず、世の彌之助のそでのつゆ、片によらず片よらず、二合の酒ににぎりめし、親身貧苦も常のこと、少しのんだら薬のものよ、それもかじればどくとなる、水とをばなとちぎるなら、あすをちぎりてすゑまでとげよ、秋のもみぢはうすいがちるか、色のこいのがさきにちる、人のまねする鸚鵡でさへも、いやぢやとみえてまねもせず、笛や太鼓の盆踊り、おまへのお気に入るやうに、ねこもしやくしも出て踊れ、なむあみだぶつやつこらさ。将軍目にとめられ、あれは何者ぞ、ととはれけるに側臣、かの一休(宗純)なりとこたへければ、義持公顔いろかへてきさんなり。この翌年とりやめになりたるとぞ。」(『一休和尚行実譜』)この語りは作りごとであるが、弟子墨斎の『東海一休和尚年譜』を元にした話である。宗純は己(おの)れが後小松天皇の子として打ち首になる恐れもなく、将軍義持に絡んでいるのである。中学時代の体育祭で、一学年上のその町の町長の息子が、皆が必死で走っている校庭一周走の途中で突然足を緩め、首に巻いていた手拭を解いて、それを観客に向かって振りながら走ったことがあった。誰ひとり笑わず、拍手をする者もいなかった。その町長の息子が宗純坊主で、校長の義持の前でお道化てみせたのである。「応永二十一年(1414)、甲午、師(一休宗純)二十一歳。臘月(春)、為謙翁寂す。祭を致すに資無し。徒(た)だ心喪する耳(のみ)。辞して清水寺に詣(いた)る。寺の旧法、除日自(よ)り上元に至るまで、人を禁じて断穀焚誦(だんこくふんしょう)す。帰りて母氏に啓し、再び清水寺に詣り、歌の中山を経て、路を大津の駅に出づ。駅亭人、一休の青ざめたる顔を見て餅を施与す、一休之(これ)を喫し終り、即ち石山観音像の前に七日の黙禱をなす。山中に僧あり。師を庵に招き、厚くもてなし、家話一百則を出して之を写さしむ。師すみやかに書き終る。僧喜びて旅費を与う。師、像の前を出で、瀬田橋をすぎ、ひそかに自らに悟って吾れ水中に投身し、若(も)し命を得れば観音の加護疑いなし。若し然らざれば魚腹に葬らるるといえど、他日必ず所志を遂げん。観音あに我を捨てんやと。将に投身せんとするや、母氏の使者来りて、これをとどめていう、身を毀(こぼ)たば孝を失す、道を悟れば他日為す日もあらん。師やむを得ず帰京し、母にまみゆ。」(『東海一休和尚年譜』)師の謙翁を失った二十一歳の宗純は、嵯峨野にいた母親のところに顔を出した後琵琶湖で入水をしかけ、母親の使いの者に止められたというのである。一休宗純が弟子墨斎にそう語ったのであれば、母の使者の真偽を脇に置いても自殺未遂は事実である。この出来事のすぐ後、宗純は琵琶湖畔の堅田にいた禅興庵の華叟宗曇(かそうそうどん)の門を敲(たた)いて拒絶され、数日舟中道端に寝る「庭詰」を経て入門を許される。「華叟和尚はくわんじになりはてたる本寺をきらひたまふ。」官寺となって足利に管理される大徳寺に嫌気がさし、新興町の堅田に道場を構えていた華叟の弟子に、自殺を企てた宗純はなるのである。水上勉はこう云書いている。「古沼のようにくさりはじめていた封建制下の洛中で、詩歌を論じ、公案禅を売り物にする茶坊主、また売僧(商売に精を出す坊主)の汚俗をのがれ、新しい自治体制下で舟を漕いで生きる庶民の町に腰をすえたのだ。」(『一休』)が、新たな修行の場は貧しく、宗純は京へ出て、香包(においつつみ)づくりと雛人形の彩衣づくりなどをして衣食の資とした、という。この内職を宗純は十年続けるのである。「応永二十五年(1418)、師二十五歳。一日、͡瞽者(こしゃ)の祇王寵(ちょう)を失して落飾するの事を演するを聞き、忽(たちま)ち雲門の洞山に三頓(さんとん)の棒を放(ゆる)す因縁に投機す。華叟一日、一休の二大字を書きて師に与え号と為す。」(『東海一休和尚年譜』)ある日、琵琶法師の語る平清盛に捨てられ尼になる祇王の条(くだり)を聴いて、宗純は「洞山三頓棒」を悟ったという。公案「雲門、洞山に三頓の棒を放(ゆる)す」はこうである。「雲門、因(ちな)みに洞山の參ずる次(つい)で、問うて曰(いは)く、「近離(きんり)甚(いず)れの処ぞ」(どこからやって来られたのか)。山云く、「査渡(さと)」。門曰く、「夏(け)、甚(いず)れの処にか在る」(この夏安吾(げあんご)はどこで過ごされたか)。山云く、「湖南の報慈(ほうず、報慈寺)」。門曰く、「幾時か彼(かしこ)を離る」(いつそこを出てこられた)。山云く、「八月二十五」。門曰く、「汝(なんじ)に三頓(さんとん、六十)の棒を放(ゆる)す(食らわせてやりたい)」。山、明日(みょうにち)に至って却(かえ)って上って問訊す。「昨日、和尚三頓の棒を放(ゆる)すことを蒙(こおむ)る。知らず、過(とが、間違い)甚麼(いずれ)の処にか在る」。門曰く、「飯袋子(はんたいす)、江西湖南便(すなわ)ち恁麼(いんも)にし去るか」(この大飯食らいめ、江西だの湖南だのと、お前はどこをうろついていたのだ)。山、此(ここ)に於(お)いて大悟す。」人はどこから来たのでもなく、どこへ去るのでもなく、ただの飯を詰める袋にすぎないのである。祇王の悲話を聴いて、宗純はこの公案を解いたというのである。「有漏地(うろじ、煩悩の俗世界)より無漏地(むろじ、煩悩が消滅した境地)へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け」後の己(おの)れをこう詠んだという、一休のはじまりである。「師二十七歳。夏の夜、鴉を聞いて省有り。即ち所見を挙(こ)す。先師曰く、「此は是れ羅漢の境界なるのみ、作家(さっけ)の衲子(のうす、僧)に非ず」師曰く、「某は只だ羅漢を喜んで作家を嫌う耳(のみ)」「你(じ)は是れ真の作家なり」(『東海一休和尚年譜』)一休は夜の暗闇で鴉の声を聞いて大悟し、翌朝、華叟にその考えの道筋を云うと、華叟は「それはまだ羅漢の境地で、本当の仏僧の境界には至っていない」と応え、それを聞いた一休は「いまの私が羅漢であるとおっしゃるのであればそれでいいです、偉い坊さんになどなりたくありません」と云った。華叟はそれを聞き「お前こそは本物の仏者である」と一休に告げた。禅でいう大悟とは、迷いが去って真理が身につくことであるといい、大悟は、忽然(こつぜん)と大悟するのだという。鎌倉の尼、安達千代能は水を汲んだ手桶の底が抜けて大悟した。鴉の鳴く声で大悟したと説明をしてしまった一休は、私が羅漢であると云うなら羅漢でも構わない、と、そう心が動いたことが大悟である、と華叟は云ったのである。水上勉は、この大悟したという一休を揺さぶって来る。「室町時代に入ると、下克上の気風が胎動しはじめ、それでなくても洛中は追剥ぎ、強盗とさわがしく、家や係累を失って巷(ちまた)に出た妓娼は、湯屋、妓楼などの公許制を無視、辻々に氾濫した。━━当人(一休)はそれでは、この白昼婚姻に誘惑されなかったのだろうか。」(『一休』)その一休は、口からこう吐き出して紙に書く。「風狂の狂客、狂風を起す、來往す婬坊酒̪肆(いんぼうしゅし)の中。具眼の衲僧(のうそう)、誰か一拶せん、南を画し北を画し西東を画するのみ。」(『狂雲集』)風狂に染まった気狂いが、馴染みの遊女屋呑み屋で荒れ狂っている。どこかにこの気狂いのおれの心根を見通せる禅坊主はいるか、そんな者はどこにもいない。一休の得体の知れなさは、この心根の振り幅である。が、一休の弟子の書く年譜にはこの振り幅のもう一方は出て来ない。「師二十八歳。先師腰疾(や)みて起たず。一榻(とう、こしかけ)に塊坐す。二利共に承器を設けて、左右輪次に穢(え)を除く。衆、皆な籌子(ちゅうし、竹の棒)を用いて刷(のぞ)くも、師独り手指を下して以て之を袪(はら)い雪(きよ)めて曰く、「師翁の穢、何の之を厭(いと)うことが有らん」と。衆、慚(は)ずる有り。」(『東海一休和尚年譜』)持ち回りでする師の便の始末を、皆が竹でするのを、一休ひとりは素手でやっていたという。が、一休の心根は揺れる、あるいは自ら揺らしている。「昔、一婆子(ばす)有り、一庵主を供養す。二十年を経て、常に一りの二八の女子をして飯(はん)を送らしめて給侍す。一日、女子をして抱定せしめて云(いは)く、正恁麼(しょういんも)の時、如何(いかん)、庵主の云く、枯木、寒岩に倚(よ)る、三冬に暖気無し。女子帰って拳似(こじ)す。婆子云く、我れ二十年、只だ͡个(こ)の俗漢を供養し得たり、追い出して、庵を焼却す。老婆心 賊の為めに梯(かけはし)を過す、清浄の沙門に、女妻を与う。今夜、美人、若(も)し我に約せば、枯柳、春老いて、更に稊(てい、カワヤナギの芽)を生ぜん。」(『狂雲集』)「婆子焼庵」という公案がある。ある婆さんが、二十年世話をした坊さんに抱きつくよう、ひとりの娘に仕向け、抱きつかれた坊さんは「枯木が冷たい岩を抱いたみたいで真冬の温もりがない」と云った。これを聞いた婆さんは、とんだ俗物を養っていたものだと云って坊さんを追い出し、庵を燃やしてしまった。一休は詠う、真面目な坊さんに妻を添わせるのは盗人に梯子を貸すようなもの、おれにその妻をよこしてくれたら枯れた柳に春が来て芽吹くだろうに。「応永三十四年(1427)、師三十四歳。後小松帝、神器を称光帝に付して以降、聖念特に師に在り、鍾愛(しょうあい、可愛がる)愈(いよいよ)篤し。故に時々召対し、席を前にして亹々(びび、溌溂として)として道を問い禅を譚(かた)り、大いに宸衷(しんちゅう、帝の心)に称(かな)うた。」(『東海一休和尚年譜』)のであるが、称光帝が危篤に陥ると、密かに相談を受けた一休は後小松帝に、「天の暦数を咨(はか)るに正に彦仁皇の躬(み、自身)に在り、時失すべからず、左右の袒(たん、衣を脱いで肩を出す礼儀)を待つなかれ」と。」応えている。琵琶湖入水の前に母親に会って以来、墨斎の『東海一休和尚年譜』には、一休が母親に会ったという記述はないが、父親の後小松帝には位を称光帝に譲ってから会っていたといい、一休の進言で次の後花園天皇が誕生したというのである。これが一休のもう一つの顔である。その翌年、「後花園皇帝正長元年、戌申、師、三十五歳。六月二十七日、華叟師寂す。訃を聞き倉皇として成子を拉(ともな)いて堅田に赴き、以て祭を致す。十七日、諸徒各々散す。師亦(ま)た京へ還る。」(『東海一休和尚年譜』)永享五年(1433)、後小松帝崩御。この前年の『東海一休和尚年譜』に、一休はこう書かれている。「永享四年(1432)、師三十九歳。冬、沅子(南江宗沅)を携(したが)へて泉(堺)に遊ぶ。時に女子有り、彭(ほう)と名づく。自から其の夫を殺して師に秉炬(ひんこ、引導)を請う。其の語に曰く、「手裡の吹毛、能(よ)く死(ころ)し能く活す。小姑彭郎、一刀に両断す」と。火炬を背後に擲(なげう)つに、荼毘(だび)の会に赴く者、火星、衣に点ず。師一日、檀家に入る。欄に老牛有り。戯れに一偈(げ)を書いて其の角端に掛けて云く、「異類行中、是れ我れ曾(かつ)てす。能は境に依り境は能に依る。出生しては忘却す来時の路、識らず前身に誰か氏の僧なりしを」と。其の夜、牛斃(たお)る。翌日牛主、師に戯れて曰く、「師は吾が牛を頌殺(しょうさつ、讃えてて殺した)せり」師、一咲(いっしょう、笑う)するのみ。」「永享七年(1435)、師四十二歳。曾(か)つて泉南に在り。出でて街市に遊ぶ毎に、一木剣を持って鋏を弾ず。市人争って師に問う、「剣は殺を以て功と為す。師が此の剣を持つは、是れ甚麼(なん)の用ぞ」答えて曰く、「汝等、未だ知らずや。今諸方の贋(にせ)知識、此の木剣に似たり。室に収在するときは殆(ほとん)ど真剣に似れども、室より抜き出すときは、只だ木片なる耳(のみ)。殺すことすら猶お能(よ)くせず、況(いわん)や人を活かすことをや」人皆之を咲(わら)う。」(『東海一休和尚年譜』)一休は堺に移り住んでいた。洪水、一揆、疫病、餓死、殺人が覆う京から逃れるためである。ある日、一休が導師となって夫を殺した女に引導を渡した後、一休は持っていたかがり火を自分の後ろに投げ、集まっていた者の着物にその火の粉が移って燃えたことがあった。あるいは、ある檀家が飼っている牛の角に一休が遊びで、一筆書いた紙をぶら下げ、「私の前世は獣だったかもしれず、そのまた前世が坊主であったかどうかはわからない」云い、次の日その牛が死に、主(あるじ)に責められるが、一休は笑って何も応えなかった。あるいは、一休が木剣を差して町中(まちなか)をぶらつき、それを問われると、「そこらでうろうろしている学者の贋者たちはこの木剣と同じで、部屋の中で抜かずにおけば真剣に思わせることが出来るが、中身を抜いて外に出れば、役立たずの木片なのだ。人を活かすことも殺すことも出来ない。」と云ったという。水上勉はこれらの一休の奇行を、「一休への格別な崇敬心があったかもしれぬ町民に、一休は、さように特別視されるのをきらって、つとめて町民に接近しようとしたことを示すものであろうか。一休にもっとも皇胤らしい行状を嗅ぐのは、四十代前後のこの堺における奇行なのである。」と書く。堺に南宗寺という寺があった。「南坊に示す 偵 勇巴(男色)興尽きて、妻に対して淫す、狭路の慈明逆行の心。容易に禅を説く能(よ)く口を忌む、任他(さもあらば)あれ雲雨楚台の吟(※雲雨、楚の懐王が高唐に遊び、夢の中で巫山(ふざん)の神女とちぎったが、神女が去るに臨み、「妾(しょう)は巫山の陽(みなみ)。高丘の岨(そ)に在り、旦(あした)には朝雲となり、暮れには行雨となる」と云って立ち去ったという故事から、男女の交情)。」(『狂雲集』)この偵は、後に僧侶となる紹偵という一休の子であるという。この詩の水上勉の訳はこうである。「ながいあいだ稚児を賞でて男色にふけってきたが、これも興がつきたので、この頃は女性の方が楽しく、妻と淫にふけっている。まあいってみれば慈明さんの逆行というところだが、たやすく禅々などと口にだしていう修行面(づら)をしておるよりも、女体の肌のきめこまかな汗ばみの中で、こんな馬鹿げた詩を口ずさんでいるのだ。」(『一休』)永享十年(1438)、四十五歳の一休は京に戻り、銅駝坊北の小庵に住み、もっと良い住まい、大徳寺の如意庵に招かれるも十日で出、安衆坊南の草庵に移り、嘉吉二年(1442)、丹波山城の境譲羽山(ゆずりはさん)で山暮らしを始める。京で、第五代将軍義教(よしのり)が、一休がかつてあかんべえをした赤松満祐に諮(はか)られ殺される事件が起こったからである。「山居二首(の一首) 婬坊の十載、興窮まり難し、強いて住む空山幽谷の中。好境雲は遮る、三万里、長松耳に逆らう、屋頭の風。狂雲は真にこれ大燈の孫、鬼窟山里、何ぞ尊と称せん。憶う昔、簫歌雲雨の夕に、風流の年少、金樽を倒せしことを。」(『狂雲集』)山奥に住まなければならなくなったが、十年通った女郎屋に未練が沸く。ここは都から遠く離れたいい所だが、風が耳に鬱陶しい時もある。私は大徳寺開祖大燈国師を継ぐ真の弟子であるが、そんなことはこんな鬼が住むような所では何の意味もない。ああ女や美少年と遊んだ昔が懐かしい。一休は一年で山を下り、大炊御門室町の陶山公源宰相の妾宅の空き家に移り住む。「文安四年(1447)、師五十四歳。龍山(大徳寺)多故にして、数僧獄に繋がれ、一門心酸す。秋九月、師、心疾革(きわ)まり、潜(ひそ)かに譲羽山に入りて将に餓死せんとす。事、宸聴に達す。即ち勅批を降して曰く、「和尚決して此の挙有らば、仏法と王法と俱に滅せん。師豈(あ)に朕を舎(す)つるか、師豈に国を忘るるか」師、勅に答えて曰く、「貧道も亦(ま)た率土の一民なる耳(のみ)。命敢えて辞す可(べ)けんや」と。重陽の日、九偈を述べて以て衆に示し、月尾(月末)に京に帰る。」(『東海一休和尚年譜』)大徳寺で僧がひとり自殺し、下獄者が出て、一休は譲羽山に身を晦(くら)まし、身の浄めの断食しようとするが、天皇の耳に入り、使者の説得に思いとどまり、山を下りて京に戻ったという。大徳寺では、一休の師華叟の師兄(すひん、兄弟子)だった養叟(ようそう)が住持二十六世になっていた。養叟は幕府管理の五山から大徳寺を格落ちさせ、林下の禅寺となって、商いの如くに悟りの印可を得法として武士商人町人に与える「禅の世間法」で名利金儲けに走り、かつてない隆盛をみせていたのであるが、その中で下獄騒ぎが起き、一休は己(おの)れの師である大燈国師宗峰妙超、華叟の法脈から遠く隔たった養叟に対して反発の態度をあらわにしてゆく。「今ヨリ後ハ養叟ヲバ大胆厚面禅師ト云ベシ、養叟ガ門ニ入ル者ハ道俗男女ヤガテ推参ニナル、五日十日之内ニヤガテ得法ヅラヲ仕候、面皮厚シテ牛ノ皮七八枚ハリツケタルガ如シ、紫野(大徳寺)ノ仏法ハジマツテヨリコノカタ養叟ホドノ異高(いたか)ノヌスビトハイマダキカズ、比丘尼ニ法門ヲオシユル事モ、比丘尼ノ得法タチモ、養叟ヨリサキハソウジテナシ。」(『自戒集』一休宗純)禅の階段を昇りつめ面の皮が厚くなった養叟に対し、一休は相変わらず地を這うような生活をしている。「享徳(1452~1455)のころ和尚売扇をなりはひにしてかつろ庵(瞎驢庵)に住まはれけるが、洛中さわがしきことおびただし、非人さいみん飢ゑ死ぬはいふにおよばず、洪水のあととて橋落ちたるかもがはらには物乞ふ病みびとの列をなし、女子供の食ひものあさりて泣くを、さらに女ごらより盗みとる男のあさましきありさま、末世地獄なり。」(『一休和尚年譜』)「迷悟 無始無終我が一心、不成仏の性(しょう)、本来の心。本来成仏、仏の妄語、衆生(しゅじょう、すべての人間)本来迷道の心。地獄 十万世界尽乾坤(けんこん、天地)、水火寒温人の命根。看(み)よ看よ米穀の閑田地、是れ衆生の地獄門。三界(この世) 餓鬼畜生に菩薩無し、劫空(ごうくう、無限の時間)の法習吾が臍(ほぞ)に徹す。無色の衆生、涙雨の如し、月は沈む望帝(ぼうてい、ホトトギス)一声の西。」(『狂雲集』)一休が目にしているのは、米の穫れない田圃が地獄である庶民である。この世は無限の地獄であり、そうであるからこそ無限の仏修行の道を進まなければならない。生気を無くした人々は雨のように涙を流し、月は西に沈むのを繰り返し、時は流れ、応仁元年(1467)、京に細川、山名の動乱が起こり、戦火が起こり、百余町三万余宇が焼け、死者が溢れ、七十四歳の一休の目の前は、いまも地獄である。「寛正(1460~66)の年無数の死人、輪廻す万劫の旧精神。涅槃堂裏懺悔(ざんげ)無し、猶お祝う長生不死の春を。極苦飢寒一身に迫る、目前飢鬼は目前の人。三界の火宅(かたく、煩悩まみれの俗界)五尺の躰、是れ百億須彌(しゅみ、果てのない高さ)の苦辛。黄泉の境界幾多か労す、剣は是れ樹頭、山は是れ刀。朝打三千暮八百、目前は獄卒(ごくそつ、獄死)目前は牢。」(『狂雲集』)一休の口から出た世の呻きである。が、この世は別の口を開けている。「洛下に昔紅欄古洞の両処有り。地獄と曰い、加世(別世界)と曰う。又安衆坊の口(ほとり)、西の洞院に諺に所謂小路なる有り。歌酒の客、此の処を過ぐる者、皆風流の清事を為すなり。今街坊の間、十家に四五は娼楼なり。淫風の盛んなる、亡国に幾(ちか)し。吁(ああ)、関雎(かんしょ)の詩、想う可(べ)き哉(や)。嗟嘆するに足らず。故に二偈一詩を述べ、以て之を詠歌して曰う。に曰う 同居す牛馬犬と鶏と、白昼の婚姻十字街。人は道(い)う悉く是れ畜生道と、月は落つ長安半夜の西。仏露柱に交って一つに途を同じゅうす、邪法此の時扶(たす)くること得難し。栄樹の徒作家(さっけ、禅の高僧)の漢に似たり、仏法胸襟に一点も無し。詩に曰く 婬風家国喪亡の愁、君看(み)よ雎鳩(しょきゅう、ミサゴとハト)彼の洲に在り。例に随って宮娥(美人)主恩の夕、玉盃夜々幾春秋。」(『狂雲集』)かつての色街の焼け跡にいち早く建った小屋の十軒に四五軒は安淫売屋である。これこそ畜生道である。国が終わるのも間もなくだ。仏教も邪教になり果て、学を鼻にかける禅坊主の汚れた襟元には、仏法の誇りのかけらもないのである。ぼさぼさの短い髪の毛に鬚をはやした一休がこちらを見ている。一休が、一休の生きた世の中からこちらを見ている。弟子墨斎が描いた、恐らくは見たままの肖像画の一休である。一休はそのように云いつけているはずである。が、墨斎の書いた『東海一休和尚年譜』の一休の最後の十年に、盲女森は出て来ない。一休七十七歳、「文明二年(1470)仲冬(旧十一月)十四日、薬師堂に遊んで盲女の艶歌を聴く。因(よ)って偈(げ)を作って之を記す。優遊且喜ぶ薬師堂、毒気便々是れ我が腸。愧慚(きざん)す雪霜の鬂(びん)に管(かえりみ)せざるを、吟じ尽くす厳寒愁点の長きを。」(『狂雲集』)思いがけない盲女の歌を聴き、こびりついていた毒気が抜かれ、年をとったことを悔やんだが白髪の己(おの)れを忘れてしまった。「今、薪(たきぎ)園の小舎に寓すること年有り。森侍者、余が風彩を聞きて、已(やむ、やむにやまれぬ)に嚮慕(きょうぼ)の志有り。余も亦(ま)たこれを知る。然(しか)れども因循として今に至る。(文明三年)辛卯(しんぼう)の春、墨吉(住吉)に邂逅して、問うに素志を以てすれば、則ち諾(だく)して応ず。因(ちなみ)て小詩を作ってこれを述ぶ 憶う昔、薪園去住の時、王孫の美誉聴いて相思う。多年旧約即ち忘じて後、更に愛す、玉堦(ぎょくかい)新月の姿。」(『狂雲集』)薬師堂で会った森女は一休を慕って薪園の小舎(酬恩庵)にやって来たが、その時は別れ、住吉で再会し、「更に愛す」ということになった。「王孫の美誉」は、自分は天皇の血をひいているということである。それを聞いても森女は臆することがなかった。これより一休と森女は一つ屋根の二人となる。「盲森夜々の吟身に伴う、被底の鴛鴦(えんおう、おしどり)私語新たなり。新たに約す慈尊三会の暁、本居古仏万般の春。木は凋(しぼ)み葉落ちて更に春を回(かえ)す、緑を長じ花を生じて旧約新たなり。森也(陰部)が深恩若し忘却せば、無量億却畜生の身。恋法師一休自賛 生涯の雲雨、愁にたえず、乱散の紅糸、脚頭に纏(まつ)わる。自ら愧(は)ず狂雲佳月を妬むことを、十年の白髪、一身の秋。美人の陰に水仙花の香あり 楚台まさに望むべし更にまさに攀(よ)ずべし、半夜玉床愁夢の顔。花は綻(ほころ)ぶ一茎梅樹の下、凌波の仙子(女仙人)腰間を遶(めぐ)る。辞世の詩 十年、花の下、芳盟(美しい約束)を理(おさ)む、一段の風流、無限の情。惜別す枕頭児女の膝、夜深うして雲雨、三生を約す。」(『狂雲集』)どれも赤裸々な一休と森女の交情の様である。文明六年(1474)、「師八十一歳。広徳寺柔中隆和尚、勅黄を捧げ来りて、大徳寺住持の請を致す。辞す可(べ)からざるなり。」(『東海一休和尚年譜』)一休は、大徳寺第四十八世となった、が、寺には入らず、森女と弟子らとでその最後まで酬恩庵にあった。『一休和尚行実譜』の作者は、その一コマをこのように書いている。「日なたにてぬひものすとて、和尚のしたぎふんどし、たびなどのやぶれたるもちいだし、めくらの身で針つかふもいとほしげにみえたり。」文明十三年(1481)、「師八十八歳。十一月二十日、卯時、泊然として寐るが如くにして坐逝したまう。」森女は、一休の十三回忌と三十三回忌の大徳寺であった法事に出たと、一休の塔頭真珠庵の文書に残っている。「海に入って沙を筭(かぞ)うる底、甚(じん、何に)に因(よ)ってか、針鋒(しんぼう)頭上に足を翹(つまだ)つ 土を撒(さつ)し沙を筭(かぞ)えて、深く功を立つ、針鋒に脚を翹(つまだ)てて、神通を現ず。山僧が者裡(しゃり、この私)、無能の漢、東海の児孫、天沢(てんたく)の風。」(『狂雲集』)どうして海に入って砂粒を数えるような、針の先の上でつま先だつようなことをやっているのか、気の遠くなるような努力をすればいつか神通力が宿るからだ、山坊主のような私にはまだその能力がないが、日本の皇統を継ぐ者として、光る風を受けている。「(室町幕府禅宗制度の)五山の隆盛は、他面、しだいに文化の末端を走って禅の本命を忘れたり、形式化するようになって批判を浴びるようになる。そのなかで勢力を伸ばすのが大広派の南浦紹明(なんぽじょうみん)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)・関山慧玄(かんざんえげん)の系統で、妙心寺に拠った関山の系統が近世の臨済禅の主流となる。また、宗峰の大徳寺の系統からは一休宗純(一三九四~一四八一)のような特異な僧が出ている。」(『日本仏教史』末木文美士 新潮文庫1992年刊)落胤、出家、漢詩、男色、奇行、内職、自殺未遂、女犯、大悟、風狂、盲女森が、一休宗純のこの「特異」さであろうか。水上勉水上勉らしく伝記『一休』の末近くに、「人間の自然を否定して何処に人生があるのか。煩悩を罪悪視して何処に人間があるか。」と書く。が、その「人間の自然」を戒(いまし)めることが、そもそもの仏教の教えである。禅は修行による自らの悟りを重んじ、念仏教は他力本願念仏次第と説いた。一休宗純は早くから禅門の塀から出て庶民と交わり、念仏教の思想に傾いたのではないかという者がいる。一休宗純は、親鸞の二百回忌の法事に出て、蓮如に会い、親鸞の肖像を求めて得たという。「一日、普化、僧堂前に在って生采(さんさい、生野菜)を喫す。師見て云く、大いに(まるで)一頭の驢(驢馬)に似たり。普化便(たちま)ち驢鳴を作(な)す。師云く、這(こ)の賊(悪党)。普化、賊賊と云って、便(たちま)ち出で去る。」『臨済録』の有名な一節である。これをどう受け、どう考えるのか。禅の公案は難しく、これをどうにかして説くため、巷で公案の実際をやってみせたのが一休の奇行ではなかったか。一休は咲(わら)われる。が、念仏で人は咲(わら)わない。教えでは、煩悩は禅に反する。が、その禅に反する「人間の自然」をすることで、禅という教えが本物の教えであるかどうか、一休宗純は己(おの)れの全身で見定めようとしたのではないか。森女の、一休宗純の十三回忌の時の布施は五百文で、三十三回忌の布施は百文である。その銭の温もりは、森女の懐(ふところ)の温もりだったのであろう。

 「葬列は道を辿りつづけた。墓穴のふちに達すると、司教はもういちど祈りを繰り返した、聖歌隊の少年たちがそれに和し、墓掘り人夫たちは小さな棺を穴におろした、墓穴はただちに埋められた。霊柩車は司祭を乗せて走り去った。聖歌隊の少年たちも、大理石の墓窟の後ろへ引っ込み、草むらの中でムハの弁当を食いだした。あとには二人の墓掘り人夫と若い女中だけが残された、そして女中は、しばらく、墓と向かいあってとどまっていた、それは巣の中で囀(さえず)る雛たちを見守りながら、せわしない羽ばたきで支えられ、その技の高さのところに彼女を静止させる、その不思議な飛び方のなかで静止している鶯と同じ姿勢だった。」(『葬儀』ジャン・ジュネ 生田耕作訳 河出書房新社1980年)

 「タンク満杯「22年秋以降に」 東電試算、第1原発敷地の処理水」(令和3年1月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 油屋にむかしの油買ひにゆく 三橋敏雄。俳句は季語を使って詠むものであり、そうでないものは俳句ではないとする者がいるが、この俳句には季語がない。「油屋に」「買ひにゆく」ものは油であり、三橋敏雄が買いに行ったものは「むかしの油」である。たとえばガソリン車を走らせるために入れる石油は、人の手で作ることの出来た「新しい石油」というものがこの世にないとしても、何億年か何千万年前に地球にあって滅んだ生物の成れの果てであるという石油は、大昔から地中深く埋まっていた「むかしの油」である。いま寒空の下、ポリ容器を下げガソリンスタンドまで買いに行く者が買う灯油は「むかしの油」である。が、恐らく三橋敏雄のいう「むかしの油」は、このような硬直した意味ではない。たとえば同じ三橋敏雄の、ぶらんこを昔下り立ち冬の園、という俳句の「昔」は、「むかしの油」よりも柔らかな手つきで詠んだ「昔」である。目の前にいる子どもが漕いでいたぶらんこから飛び降りたのを見て、ハッと己(おの)れがそのようにして飛び降りた時の気分を、その時に見た冬の景色と着いた地面の感触までもが蘇った、あるいは実際にぶらんこを漕いでいて、酔いの勢いで飛び降りると、途端に目の前が子ども時代に過ごした冬の遊び場に変わってしまった。あるいはこの句が、「むかしの油」に直接道をつけるものかもしれない。くりかへす花火あかりや屋根は江戸。三橋敏雄にとって、夏の夜空に打ち上って開く花火が照らす時に見える屋根瓦の波は、それがいつであってもそこがどこであっても、それは江戸の家並でなければならない。油屋にむかしの油買ひにゆく。三橋敏雄は、油を量りで売っていた頃の失われた「あの日」を思い出している。あるいは粘り気の強い油を前に、量を胡麻化すかもしれない油売りとそれを見張る客との間に独特の時間が流れた江戸の人間を思っている。それは、米屋にむかしの米を買ひにゆくでも、豆腐屋にむかしの豆腐買ひにゆくでも、薬屋にむかしの薬買ひにゆくでもなく、買うのは「むかしの油」でなければならないのである。上京の下立売通智恵光院西入ルに文政年間(1818~30)創業という山中油店がある。上の表に虫籠窓を切った町家の店舗が国の文化財であるのは、三橋敏雄の「むかしの油」を買いに行く油屋に相応しいのであるが、この店の出窓に売り物の油ではなく「西陣の空襲」というおよそ相応しからぬ展示物が置いてある。中身は錆びた四五十センチの鉄の破片二つである。昭和二十年(1945)六月二十六日の朝、米軍の爆撃機B29の編隊が落としていった爆弾の一部である。その説明には、爆弾は七発で五十名の者が犠牲になったと書いてある。当時を知る者が云うその犠牲者の一部は、酒屋の家族が八名であり、牛乳販売店の妻であり、薬局の家族と使用人の四名である。空襲は東山でもあり、太秦三菱重工業の工場でもあり、御所のそばでもあった。十代の三橋敏雄はこのような句を詠んでいる。射ち来る弾道見えずとも低し。ガムを噛みながらB29を操縦する兵隊の姿は、牛乳販売店の妻に見えるはずがなかった。戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄。

 「家は道路に面して、間口をひろくとつて、何屋といふか、米もあり酒もあり、もめんの反物もあり、箒わらぢなんぞの荒物いろいろ、たばこまで賣つてゐようといふ柱の太い店がまへで、横手にはペンキ塗二階建の西洋館が別棟になつてつづいてゐた。そして、奥行はさらにふかく、廊下がのびてゆくにつれて、木石をあしらつた庭がひらけ、庭はしぜん畑につながつて、一見して土地の舊家と知れた。そこの奥ざしきで、どぶろくにうどん、おもひがけぬ鰒(フクと清(ス)んで發音してください)の煮たのまで、豐後なまりのおしやべりを聞かされるといふ趣向になると、これはどうしても藤原のホトケサマとは縁がきれた。」(「越天樂」石川淳石川淳選集 第九巻』岩波書店1980年)

 「原発事故、国の責任否定 東京高裁・避難者訴訟、東電賠償は拡大」(令和3年1月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雲林院界隈駐車嚴禁のひるや荒鹽の香の西行塚本邦雄が昭和五十年(1975)に出した歌集『されど遊星』三百首の内の一首である。北大路通を挟んだ大徳寺の南東に、雲林院という名の小寺があるが、雲林院は幻の寺である。平安の末から源頼朝の鎌倉が始まる世にあった、平清盛の傍らで武士であって剃髪し放浪に身を置いた西行は、雲林院をこう詠んでいる。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。字面(じづら)をなぞれば、これが噂で聞いていた雲林院なのか、では中に入って桜の花を見たいと思ってやって来た気持ちを休め慰めよう、というひとり言のような歌である。西行はこの歌で、雲林院という寺を聞き知っていると云っている。たとえば雲林院は、紫式部の『源氏物語』の第十帖「賢木(さかき)」にこのように出て来る。「大将の君(「光る君」の源氏)は、宮を、いと恋しう思ひ聞え給へど、「あさましき御心の程を、時々は、思ひ知るさまにも、見せたてまつらん」と念じつゝ、過ぐし給ふに、人わろく、つれづれに思(おぼ)さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に、まうで給へり。「故母御息所(こはゝみやすどころ)の御兄(せうと)の律師(りし)の、こもり給へる坊にて、法文など読み、行ひせむ」と、おぼして、二三日、おはするに、あはれなる事、多かり。紅葉、やうやう色づきわたりて、秋の野の、いと、なまめきたるなど、見給ひて、故郷も忘られぬべく、思(おぼ)さる。法師ばらの、才(さえ)あるかぎり召し出て、論議せさせて、聞(きこ)し召させ給ふ。所がらに、いとゞ、世の中の常なさを、思(おぼ)しあかしても、猶、「憂き人しもぞ」と、思(おぼ)し出でらるゝ。」(父桐壺帝の死があり、その皇子である源氏との間に、そのことを伏し、桐壺帝の子として東宮(後の冷泉帝)を生んだ中宮藤壺は、東宮の立場を守るため、源氏との逢瀬を拒み、後には出家することになるのであるが)「光る君」と呼ばれる源氏は、心底恋しく思う一方、自分を避けようとする不快な態度を取る藤壺に思い知らせようと思って内に籠っていたのであるが、人目にみっともなく、いつまでも藤壺への思いが消えてくれないので、気晴らしのつもりで途中の秋の花野を楽しみながら雲林院に参ったのである。「(三歳の時に)亡くなった母桐壺の兄が高僧として参籠しているこの寺の坊で、自分も経を読み、勤めもしよう」と思い起こして二三日過ごしてみれば、しみじみ思い考えることがいくつもあった。辺りの木々が紅葉しはじめ、野が鮮やかに色づくのを目にすると、洛中の住まいに戻ることも忘れてもかまわないような気持ちになって来る。ある日、秀でた学僧を集め議論するのを聴いたりしたのであるが、このように寺に身を置くと、ますます世にあることの無常を思って夜を明かしてしまったりもしたのであるが、一方で「藤壺を恨めしく思いながら忘れることが出来ない」という思いも沸き上がって来るのである。光源氏雲林院で過ごすうちに世の無常を思った、というのである。ここで光源氏が目にしたのは桜の紅葉であるが、西行は花を見ようと雲林院にやって来たのである。雲林院は、その元は、水辺に集う鳥を狩ったという広大な、第五十代桓武天皇の第七皇子、第五十三代淳和天皇離宮、別荘である。「雲林院は紫野にあり。淳和帝の離宮なり。(第五十四代仁明天皇の御子常康親王(つねやすしんのう)これを伝へ領し給ふ。その後天暦帝(第六十二代村上天皇)の御時、僧正遍昭別当に補せられ、堂塔厳重に建てられたり。今は雲林院(うぢゐ)と唱へてこのほとりの郷名となり。旧跡纔(わず)かに残る。むかしは桜の名所なれば、和歌には雲の林の寺と詠める。」(『都名所図会』)この『都名所図会』の「天暦帝の御時、僧正遍昭別当に補せられ」は誤りで、遍昭は常康親王に仕えていた僧である。常康親王の母紀種子は、雲ケ畑で耕雲入道となった惟喬親王(これたかしんのう)の母紀静子の姉である。天皇になれなかった従兄の常康親王は親から別荘紫野院を貰い、同じくなれなかった惟喬親王は大原に逃れるのである。平安の終わりは天皇の権力の衰えであり、息のかかった寺も衰え、雲林院も衰える。西行が見たのは恐らく、衰えた様の雲林院である。であれば西行の、この歌の思いは違って来る。人に道を教えられ、やって来た西行は、荒れ果てた古い寺を目の前にして思わす足を止める。これやきく雲の林の寺ならん花をたづぬるこころやすめむ。これがあの噂で聞いていた雲林院なのであろうか、中に入って落胆しないように、いまのいままで桜を見たいと思っていた気のはやりをここは一旦落ち着かせよう。衰えた雲林院は後に大徳寺の敷地となって、世から消え、江戸期に観音堂として復活する。塚本邦雄が見たのはこの観音堂であるが、西行の目を通してうらぶれた雲林院の姿も見たのであり、恐らくは西行が思い描いた満開の桜に彩られた雲林院も見たのである。いまの雲林院は車を止めるところすらないと、塚本邦雄即物的に、西行を思って嘆いてみせる。その西行については、荒鹽の匂いがしていると塚本邦雄はいう。が、鹽は匂わない。西行には、このような歌がある。五月雨に干すひまなくて藻鹽草煙も立てぬ浦のあま人。海藻から採った鹽は、磯の匂いがする。藻鹽の匂う西行は、海のある方からやって来て、放浪の途中にあるのである。昭和三十六年(1961)に朝日新聞京都支局が出した『跡・続カメラ京ある記』に、雲林院の記事が載っている。「この寺に町の宗教家?が目をつけた。「私にまかせてもらえば必ず栄えさせますよ」というのだ。「そんな新興宗教の食いものにされてはかなわん」と地元の人たちは大憤慨。━━地元の人々のこの寺への執着は根強い。いまは子供の遊び場となった寺で、チョウチンに描かれた桜の絵を示しながら、昔は桜の名所だったと誇りつづけようとするのだ。」写真は、雲林院の門の前の道端で四人の子どもがボールを突いて遊んでいる。頬に髪の先がはねたオカッパの女の子は短いジャンパースカートを履き、もう一人は吊りスカートで、男の子はどちらも坊ちゃん刈りである。御堂の屋根瓦が覗く築地の前に束ねた薪が山積になっていて、御堂の裏の住宅の二階に洗濯物が干してある。つい先日の雲林院は、裏の住宅は別の建物に変わっていたが、写真と同じように洗濯物が寒風にひらひら揺れていた。「うぢゐ」「うりいん」が、この寺の地元の者の呼び方である。ウヂヰカイワイチユウシヤゲンキンノヒルヤ アラジオノカノサイギヤウ。

 「未開民族はまた、自由に風を吹かせたり鎮めたりすることができると信じている。ヤクート族は暑い日に遠くへ旅行しなければならない時、動物か魚の腹の中から偶然に発見した石を馬の毛で数回巻き、それを棒の先に結びつける。そして呪文を唱えながら、その棒をふりまわすのである。するとたちまち涼風が吹きはじめる。」(『金枝篇フレイザー 永橋卓介訳 岩波文庫1951年)

 「福島県、新たに「14人」感染確認、新型コロナ、県累計1483人」(令和3年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 四条通は、八坂神社の朱塗りの西楼門から色合いの変わる繁華な町を貫(つらぬ)き、右京梅津の長福寺までほぼ真直ぐで、この位置から桂川に架かる松尾橋までやや南に傾きながら繋いで終わる。松尾橋の西詰には、松尾大社(まつのおたいしゃ)の大鳥居が構えているが、四条通が「石段下」と呼ばれることがあるのは、その楼門の階段下から広がる祇園の賑わいがその呼び名の元(もとい)となっているからであり、そうであれば四条通松尾大社からはじまるのではなく、八坂神社の西楼門の「石段下」からはじまるのであり、終わりが松尾大社なのである。この松尾大社の裏山の松尾山の山裾に沿って、一ノ井川という用水路が流れている。いまはかげも形もない田圃のために、桂川から引いた水である。山裾に並ぶ住宅が一軒ずつ玄関前にコンクリートの橋を架けているこの川に沿って、嵐山の方角に暫く行くと、住宅が途切れた斜面の叢に背骨の化石ような細い石段が現れる。面を塗り固めたコンクリートがあちこち剥がれ、斜面からずり落ちるのを持ち堪えているような様の、その石段を上ったところにあるのが梯子地蔵(はしごじぞう)である。正式名は東光山薬師禅寺であるが、斜面を削って均したような敷地に建っているのは、この僧侶が建てたという古びた小さな御堂と本堂とその住まいである。本堂は板を打ちつけただけの掘立小屋の如くであり、軒に何本かつっかえ棒が立っている。梯子地蔵は、御堂の中で赤い衣に包まれていた。座った姿の石地蔵である。この地蔵のご利益は、寝小便封じである。この敷地からも見える比叡山千日回峰行を遂げた恵堯という、下(しも)の病を治す法を身につけた僧が、死んで修行の場であった岩の上に残したのが、御堂に納まる地蔵であるという。もう一つのいい伝えは、比叡山に修行に行かされていた小僧が毎夜寝小便をしたために、漏らした布団を背負って比叡山から追い出され、遂には岩の上で死んで、地蔵となってその兄の夢枕に立ったというのである。梯子地蔵という名は、その岩のある場所が高かったため、梯子を掛けてお参りしなければならなかったからだという。「こんな夢を見ました。小学生の私は、母親に「この手紙を学校の先生のところへ持って行きな。」と言われました。持って行きました。橘君枝先生はその手紙を見ると、みんなの前で、「車谷さんは、ゆうべ寝小便をしました。」と言いました。みんながわッと声を出して、私を見ました。そのあと、橘先生は大きな画用紙に「わたしはゆうべ寝小便をしました、と書きなさい。」と言いました。私は書きました。先生は、その画用紙の両側に穴を開け、そこに紐を通しました。「ほかの七組の教室へ一部屋ずつ、この画用紙を首にぶら下げて行って来なさい。」と言われました。すでにもう授業がはじまっていました。廊下はしんとしています。私は首に画用紙をぶら下げると、一部屋ずつ入って行きました。そして自分の組へ帰って来ました。橘先生がにやりと笑いました。家へ帰ると、私が寝小便をしたふとんが庭に干してありました。母親が出て来ました。その時、母親はなぜか順子ちゃん(私の嫁はん)になっていました。ふとんの前に立たされて、叱られました。この夢が醒めたのちも、恥辱感が残っていました。他の組へ一部屋ずつ入って行った時の恐怖感も残っていました。各教室ごとに笑われたり、小突きまわされたり、その組の先生になじられたりした時の記憶が、よみがえって来ました。お袋が嫁はんに変身したのも恐ろしいことでした。さればこの恐怖感をぬぐい去ること、どうしても出来ないのでした。恐らく一生ぬぐい去ることの出来ない恥辱でしょう。」(「夜尿」車谷長吉『愚か者 畸篇小説集』角川書店2004年刊)子ども時代、預かっていた三つ四つの年の従弟が寝小便をした。その父親、叔父が肝臓かあるいは膵臓に水が溜まって入院をした時である。この従弟は三人兄弟の真ん中で、この上も下も男で、下はまだ一つか二つの年で、恐らくは母親、叔母に負ぶわれ病院で、上の兄も一緒に預かったのかもしれないが、あるいは叔母の実家に預けられたのかもしれない。その三つ四つの従弟は、預かったその日から二晩続けて漏らし、三晩めからは敷布の下にビニールを敷かされた。それだけではなく、おとなしくオモチャで遊んでいても、食事になると、何を出しても首を振って食わず、匙をつけるのは、寿司だねの甘い桜色のそぼろをまぶしたご飯だけであった。寝心地の悪いビニールを下に敷いた布団で一緒に寝るこの従弟がものを食うのを拒むのは、心細さと戦っていたからなのであろうが、そうであれば汗で濡れた髪の毛を額に張りつけて眠る間も、己(おの)れの心細さに慣れなければならなかった。が、この者は、それから何週間後かに亡くなる四十前の父親の死にもまた、慣れなければならなかった。梯子地蔵に供えるのは、模造の梯子である。その梯子には、たとえばこのような願い事が書いてある。部活の合宿に間に合うように治して下さい。本堂の前に、見事な蠟梅(ロウバイ)が下に開く薄黄色の花を咲かせていた。蠟梅は、かぐと鼻の穴にしばらく残って、離れてからでも不意に匂う花である。

 「数日間歩いたのち、ティ・ノエルはようやく見憶えのある土地に辿り着いた。水を口に含むと、昔何度も泳いだことのある川の味がしたが、じっさいに泳いだのはもっと下流で、川が海に流れこむ手前の、大きく蛇行しているあたりだった。」(『この世の王国』アレホ・カルペンティエル 木村榮一・平田渡訳 水声社1992年)

 「「処理水タンク」増設を検討 東京電力、敷地の利用計画策定へ」(令和3年1月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)