西ノ京御輿ヶ岡町の北野神社御旅所にテントが張られ、網で覆った内のテーブルの上に梅が整然と干されていた。これは一度塩漬けされた梅で、今月、七月の下旬に再び北野天満宮の本殿前で天日干しされ、年末に近づく頃御守りと一緒に授与品として巫女の前に並べられる。小遣銭の可愛さ梅干すにほひあり 中村草田男。この小遣銭を握っているのは、銭の意味を知ったばかりのような幼い子どもで、その姿を可愛いと思っているのは父親の草田男である。いま二人がいるのは家の庭先で、日向に干した梅が辺りに匂っている。これは草田男が目にした実景、日常の一コマであろう。この実景であるという以上に、小遣銭と干した梅の匂いとの間に意味は恐らくない。が、「梅干すにほひあり」に意味があるものとして、いまはまだその匂いは漂っているだけで、いずれ幼な子は世間の「酸(す)い」を知ることになる、とするのは下手な解釈である。が、子どもを甘やかす父親に梅を干す母親が目を光らせている、とでもすれば下手な解釈にも別の色がつく。梅干しを己(おの)れで漬ける者もいれば、そうしない者もいる。そうしない者の内でもかつてはそうしていた者もいれば、一度もそうしたことのない者もいる。そうしたことを一度もしたことがなくても、それを見たことがある者もいる。草田男の句の幼な子は、梅を干すのを傍らで見ていた者である。ある日、家にひとりで留守番役でいる。庭先に新聞を敷いた笊に梅が干してあった。留守番役は、外の空模様を絶えず気に掛けていなければならなかった。そこに緩い坂を上って子どもを連れた乞食と思しき男がやって来る。乞食は開いていた玄関先で迎え出た留守番役に、誰かいないですかと通る声で云った。留守番役は誰もいないと応えるしかなかった。乞食はじろりと家の奥に目を遣ってから、黙って後ろを向くと子どもの手を取って来た道を戻って行った。それから間もなく空が陰って嫌な風が吹き始め、大粒の雨がぽつぽつ降って来た。留守番役は急いで干してあった笊の梅を家の中に取り込んだ。その時乞食の父子のことを思ったのは自然な心の動きである。取り込んだ梅は廊下で匂い、仏間にも匂いが漂っていた。それから留守番役は考えた、乞食が来たことを親に云うべきかどうか。云われれば親は留守番役に、何かを応えなければならない。居たら米を遣ったのに、あるいは、何も施すことはない、と親の考えは食い違うかもしれない。黙っていればそもそもそのような食い違いが目の前で起こることはない。留守番役は親が帰って来ると、俄雨が降ったことだけを伝えたのである。

 「さらにくだると、オオカミたちがヒツジを追いかけたあたりに、地を這うようにはえるビャクシンの茂みがあり、私はゴツゴツとした木々のあいだをぬって枯枝を集める。手に入る薪はビャクシンだけだ。発育の止まったカンバもあるが、渓谷の深いところにはえていて、人は寄りつけない。リュックサックに入れてきた紐で薪を大きな束にして背中にかつぐと、私は山をくだり、川を渡り、シェイにつづく断崖をのぼる。僧院は活気づいており、さっきの道であった男も十一頭のヤクを探すためサルダンからやってきた連中の一人だったようだ。夏のあいだここで放牧されたヤクはこの場所になじんでしまい、ごく自然にここに戻ってくる。丘の静面の数頭、もっと草の多い川のなかの島におりたものもいる。」(『雪豹』ピーター・マシーセン 芹沢髙志訳 めるくまーる社1988年)

 「2地区(小出谷、小伝屋)一体の除染要望へ 葛尾と浪江の復興拠点外、家屋解体も」(令和3年6月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山建仁寺塔頭両足院の主な建物は、方丈とその北奥に並ぶ書院と二つの茶室である。白木屋の寄進によるという方丈の苔の生えた長方の前庭には二本の松と大振りの石が立ち、回った東には土盛りに幾つかの石が寄せられ、方丈の北東角にある簡素な門を抜ければ、書院に沿って地面に飛び石が並び、飛び石は池の縁にも沿っていて、池は翼を広げて飛ぶ鶴の姿をしているといい、その水の翼の端に架かる石橋を渡ればそのままやや高みに建つ茶室に続く石段で、門の潜りより内の歩みは露地を行く歩みである。庭には鶴のほかにもう一匹縁起のいい動物の見立てがある。石を寄せた土盛りが亀の胴体で、石橋から向こうの池の縁に突き出ている石が亀の頭である。いま、飛ぶ鶴を模(かたど)った池の縁の石組を覆うように半夏生(はんげしょう)草が花をつけている。半夏生とは、夏至から十一日を過ぎた日から七夕の頃までをいうといい、半夏生草はその頃に花をつける故の名であり、古い名の別名片白草は、亜麻色の小花の穂を上に伸ばし出すと穂の下の葉の一二枚が白色に変じるからである。半夏生草の、目立たない亜麻色の穂と葉の白以外に何色もなく単純であることは、物足りなくも目に清々しい。この白と緑の清々しさにケチをつけるような紫陽花などは両足院の庭には咲いていない。池の奥の築山一面と所々に植わっている丸い刈り込みは、花の終わった躑躅である。禅寺の庭にある計算高い技の凝らしはここにはなく、書院から眺める穏やかな風情は野原の水辺の景色に近い。半夏生草は茶事に用いる花であるという。両足院の庭の半身を露地にしたのは、茶道藪内流五代竹心紹智である。平凡な雨の一日半夏生 宇多喜代子。「平凡」は、半夏生草に対する云いでもある。半夏生叔母の離れはその奥に 星野椿。この「叔母」は、未婚のままかあるいは出戻りのひとり身で年をとった者かもしれぬ。半夏生灯(ひとも)す頃に足袋を穿き 鈴木真砂女。夕べに台所に立った時の思いであろう。蒸し暑い梅雨時の床の思いの外の冷たさは、半夏生の冷たさである。

 「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。この魔法使いの帽子は長く細く、太陽を起点として遠くの空間を指す。その帽子の縁の直径は八〇〇〇マイルである。帽子の縁は地球の眉の上にぴったりフィットしている。それは地球から八六万マイル先の向点まで延びている。影のつくる魔法使いの帽子は、縁の直径より一〇〇倍もの高さを持っている。それは地球から月の軌道までの三倍の距離にまで達する。そして月が、その軌道運動において、たまたまこの闇の帽の中を通過するようなことがあれば、月蝕が起こる。」(『夜の魂』チェット・レイモ 山下知夫訳 工作舎1988年)

 「第2原発廃炉作業6月23日着手 東京電力、7月上旬から除染」(令和3年6月23日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 山梔子(くちなし)と知ることになる白い花 久乃代糸。たとえば、山梔子の花とは知らず白き花、と詠む時、「知らず」と云いながら「白き花」が山梔子であることを知っている。ある日、辺りに匂いを漂わせている白い花を目にしたが、その時はその花が山梔子であるとは知らなかった。あるいは、山梔子という花の名は知っていたが、目の前の花が山梔子であるとその時は分からなかった。が、その時側にいた者が山梔子の花であると教えたのかもしれない。あるいは、花を目にしてから何年も後に同じ花を目にし、あの時の白い花が山梔子であったと知ったということかもしれない。「知らず」と詠みつつこの句は、「知る」という時間の流れを詠んでいる。が、「山梔子と知ることになる」という句の「知ることになる」という云い表わしには、やや異なる時間の流れを含んでいる。その時間の流れは、白い花を見たという過去があり、花の名を知ることになるのは、はじめて見た時からみれば未来のことであり、山梔子という名を知った現在では、知ることになるという未来は思い返している過去である。「知ることになる」というこの者の山梔子への私的(わたくしてき)思いのこもった云い回しは、運命の指摘のように大袈裟であり、思わせ振りでもある。が、大袈裟なもの云いは俳句の云うところの滑稽振りでもあるのである。花園妙心寺の、放生池を囲む生垣の山梔子が花を咲かせていた。濃い葉の緑に六弁の白い花の点々はいかにも鮮やかである。放生池は、総門を入ってすぐに掘られ、禅宗の並びでは伽藍が三門、佛殿、法堂と奥に続いてゆく。伽藍を除いて見える景色は、砂利と石畳と幾本かの松と塔頭の薄ら白い築地である。この花は、このような禅寺の鼻先で暫く芳香を漂わせるのである。口なしの花さくかたや日にうとき 蕪村。匂いのする山梔子の咲いている方に目をやれば、いかにも無口な花が咲いていそうな日当たりの悪いところである。あるいは、庭で山梔子を咲かせるあの人とは、日に日に疎遠になっている、と蕪村は詠んだが、芭蕉は山梔子の句を詠んでいない。

 「浮世の中の淋しき時、人の心のつらき時、我が手にすがれ、我が膝にのぼれ、共に携へて野山に遊ばゝや、悲しき涙を人には包むとも我れにはよしや瀧つ瀬も拭ふ袂は此處にあり、我れは汝が心の愚なるも卑しからず、汝が心の邪(よこしま)なるも憎からず、過にし方に犯したる罪の身をくるしめて今更の悔みに人知らぬ胸を抱かば、我れに語りて清しき風を心に呼ぶべし。」(「やみ夜」樋口一葉樋口一葉集』河出書房1953年)

 「処理水の海洋放出「社会の合意形成が課題」 原子力学会長が見解」(令和3年6月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紫野大徳寺天正寺と書いた額がある。この字を書いたのは、第百六代正親町天皇(おおぎまちてんのう)である。天皇が書いたものであるから、正式には勅額である。これを正親町天皇に書かせたのは、豊臣秀吉である。が、この天正寺という寺は、この世に存在しない。豊臣秀吉天正十年(1582)十月、この六月に本能寺で自害した織田信長の葬儀を大徳寺で行った。その翌々年の天正十二年(1584)、秀吉は信長を祀る寺の造営を計画する。この寺の名が天正寺である。大徳寺の南西に隣る船岡山と辺り東西百間、南北百二十間をその予定地に、信長の菩提所となった大徳寺総見院の古渓宗陳が銭四千貫文でこの計画を任される。が、寺は建たなかった。天正十年十月の清洲会議の後、秀吉は山城国の京都に足場固めを始めるのであるが、天正十二年十月の天正寺発願の翌十一月、一戦を構えつつあった織田信長の子信雄(のぶかつ)との和解が成り、この翌年の七月に秀吉は関白になる。明智光秀によって堰き止められていた信長の流れが大きく秀吉に傾くのである。この流れを己(おの)れに引き寄せるために、信長を祀る寺の発願の口約束があったのではないかとする者がいる。そうであったから、信長の後継者となった秀吉は最早金のかかる天正寺を造る必要がなくなった。この翌年、秀吉は再び金のかかる方広寺大仏殿の造営に取り掛かるのである。そうであれば大徳寺に残る、無駄となった正親町天皇の勅額は勅額であるが故に、豊臣秀吉を語る何物かではある。船岡山の南西、西陣に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)がある。『都名所図会』には「七の社」として載っている。「七の社は舟岡の南にあり。当社は染殿の后(第五十五代文徳天皇皇后藤原明子)の祈願により、三笠山の春日明神を勧請ましますなり。その後伊勢、石清水、稲荷、加茂、松尾、平野を併せ奉り、七の社と号す。また一説に洛の北に七野あり。内野、北野、柏野、蓮台野、上野、平野等の中に祭れる神なれば、しかいふとぞ。請願あるものは社前に砂を積みて三笠山の状をうつすなり。春日影向の椋の木もこの地にあり。」この「七の社」の前史では、この地に紫野斎院があった。斎院は加茂社に奉仕する斎王、未婚の王女皇女が住まう場所であり、『源氏物語』にその見物の場所取りで争う場面が描かれている加茂祭の斎王の行列はここから出たのである。櫟谷七野神社の由緒と称する文の後半にこのようなことが書かれている。「応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元山名宗全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正九年(1512)二月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」応仁・文明の乱の後も足利、細川の跡目争いは続いていて、永正八年(1511)八月に起きた船岡山での戦いで大内義興のついた足利第十代将軍義稙(よしたね)軍が勝ち、義稙は再び京都室町におさまる。実力者大内義興の命で「七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。」とするのは、一時期船岡山の高台に再建し、「織田信長が遊宴のため社を麓に引き下ろした」ところが、恐らくは元々あったいまの場所であり、「その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞こえ、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。」とする由緒であるが、『寺院神社大事典・京都山城』(平凡社1997年刊)には出典は記されていないが、「織田信長が化野ヶ原(あだしがはら)に再建したが、明智光秀に討たれたため、神罰を恐れた豊臣秀吉が当地に戻したと伝える。」と記している。真贋の霞を払う術は持ち合わせていないが、信長は神罰を恐れず、秀吉は神罰を恐れたということである。が、『寺院神社大事典』も同じように記している「秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石は大名の家紋などが刻まれている。」という云いには、些かの疑問が残る。櫟谷七野神社はいまは人家に取り囲まれ狭まっているが、『都名所図会』に載る図の石垣の様はまったく同じである。二メートルほどの高さの石垣の上に、辺りの民家よりも小さな拝殿と本殿が建っている。この様を目にすれば、秀吉が神罰を恐れたとしても、「各大名に石垣の寄進を命じた」とするのは俄かには信じ難い。天正十四年(1586)、秀吉はこの櫟谷七野神社から南へ二キロ足らずの場所に、己(おの)れの住まう聚楽第を造り、後に子の秀次に住まわせ、秀次が謀反を責められ自害すると、秀吉は文禄四年(1595)に聚楽第を自ら解体してしまう。この時、聚楽第の建物や材の一部は各地に散って使われた。櫟谷七野神社の石垣は、聚楽第の資材の余りかこの解体の時のおこぼれであっても不思議ではない。竹村俊則が昭和五十九年(1984)に出した『昭和都名所圖會』に、このような記載がある。「江戸時代には庶民の崇敬を得ていたが、天明の大火に類焼し、社運は次第に衰微した。今は本殿と末社二宇があるのみで、すこぶる荒廃を極めている。」当時を知る者の話では、事の事情は詳(つまび)らかではないが暫くの間、至る所に落書きされ、ペンキが塗られ、罵詈雑言の紙が貼られていたという。であるが、この神社を知る者は忘れ難い思いに駆られるというのである。北の鞍馬口通からも、南の蘆山寺通からも、東の大宮通からも、西の智恵光院通からも奥に入り組んだ民家の並ぶ内にあって、トタン張りの社務所が建つ他の平地は綱で仕切った駐車場になり、水の出ない手水の石場は傾き、壊れた石灯籠はそのままで、神木と拙い字で書いた板をぶら下げたクロガネモチが、地面に寂しげな影を落としている。ある年代の者の子ども時代の遊び場が大人に穢され、それを洗い流したなれの果ての姿は、積み重なっていたであろう時代の垢までもついでの如くに落としてしまっているのであるが、「自ら」はこの地から流れ去ってはいない。人が去ってもこの地自身は去りようがない。この地に畏敬の念を持った豊臣秀吉には理由があるのである。

 「時間はこっちがいくら必死に走っても夢のように過ぎてゆき、耳をそばだてると、そのあいだずっと世間からはいろいろなことが聞こえてきたけれど、でも、やっぱり私たちがその話を信じたということにはならない。どんなたぐいのことかわかるでしょ。誰かさんのいとこがキング・マクレインを見たっていうの。綿と材木の元締めをしているコーマス・スタークさん、彼、ちょっと遠くまで出かけていくんだけれど、キングのうしろ姿を三、四度見たっていうの。一度はテキサスで散髪してもらってたって。森にいって、二、三発銃をぶっぱなす人があったりすると、これから先もずっと、そういったことをいつも耳にするでしょうよ。たいして意味があるかどうかはわからないけれどね。」(『黄金の林檎』ユードラ・ウェルティ 杉山直人訳 晶文社1990年)

 「宮城県の団体、処理水海洋放出に反対 「理解得られていない」」(令和3年6月8日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)  

 天正十八年(1590)天下統一を果たした豊臣秀吉は、翌十九年京都市中の東西南北を後に御土居と呼ばれる高さ四メートル前後の竹を植えた大堤で囲い、賀茂川から鴨川に沿ったその東の御土居の内、六条通から鞍馬口通の間に、市中にあった百十七の寺院をかつての東京極大路沿いに集め、東京極大路とその南に続く通りは寺町通と名を変える。集められた百十七のおもな寺院の内訳は、浄土宗が五十六、日蓮宗が八、時宗天台宗が五、真言宗がニ、臨済宗曹洞宗が一である。御土居の建設は防衛と洪水を防ぐためとされ、寺の強制移転は、地元町民との切り離しがその理由とされている。「凡(すべ)ての仏僧をその寺院より立ち退かせ、かの溝渠のまはりの一定の場所に集り住ましめたり。かかることは甚だ難渋にして、是人に非ずんば何人も敢てすること能はざりし所なるに、而(しか)も数日の期間にこの事を迅速に行はれたり。仏僧並にその信徒の憤懣は大にして、その困却は甚だしかりき。彼ら民衆との交際を絶たれ、疫病やみ、または癩人の如く隔離せられ、百千の宗派一団とせられたるのみならず、その所得は没収せられ、その寺領より追はれ、糊口の資を得ず、施与を離れ、再びその寺を建つ望もなければ、或は新に他のたつきの道を講じ、或は助なく布施を得ず窮迫せり。されば、都に於けるわが宗門の為めには好都合なりき。」(宣教師ルイス=フロイスからゼススコンパニア総長に宛てた手紙)この寺町の北の外れ、鞍馬口通に天寧寺(てんねいじ)がある。前に立つと比叡山の景色が絵のように見え、額縁門と呼ばれるというその山門脇に、このような京都市の案内札が立っている。「天寧寺 山号は萬松山と号し、曹洞宗に属する。当寺は、もと会津福島県)城下にあったが、天正年間(一五七三~一五九二)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。」「移転された」という云い回しの意味は計りかねるが、この移転には事情があった。天正十七年(1589)伊達政宗会津蘆名義広に攻め込み、この時天寧寺は戦火で堂宇が消失している。翌十八年伊達政宗浅野長政に促され豊臣秀吉に服属し、前年の蘆名との一戦を、私闘を禁じた「惣無事令」を破ったとして得たばかりの旧蘆名領の会津を秀吉に没収される。元亀二年(1571)織田信長比叡山を焼き討ちし、恐らくこの後より天台松陰坊は廃寺となっていた。寺町の御土居には、鞍馬口荒神口、粟田口の三つの出入り口があり、地図を見れば鞍馬口には浄土宗の正善寺と曹洞宗の天寧寺、荒神口には浄土宗の知恩寺天台宗行願寺、粟田口には浄土宗の誓願寺真言宗戒光寺が通りを挟んで向かい合わせに並んでいる。浄土宗でないこれらの寺は、このような配置から御土居の出入りと浄土宗に目を配るという意図が見て取れるのであり、天寧寺も恐らくはその意図を担っていたのに違いない。織田信長を悩ませた本願寺浄土真宗には手をつけず、かつて京都五山と呼ばれた臨済宗からの移転は一寺で、京都に広がりのなかった曹洞宗は没収したばかりの会津から呼び寄せている。寺を失った天寧寺の十代祥山曇吉にとって、京都移転は渡りに舟だったのかもしれない。天寧寺の山内、境内は町中にあって広さはないが、丹精の伝わる庭であり、敷きつめた白砂利とその縁に植えられたひと群れのアヤメの姿は疎(おろそ)かならざる美意識である。天寧寺から寺町通を歩いて一二分のところに、本能寺から持ち帰った織田信長の骨灰を埋葬したという信長の帰依のあった阿弥陀寺があり、その門に立て掛けた看板に「信長忌」とあった。六月二日のことである。向日葵や信長の首斬り落とす 角川春樹。この句以前に、俳句でこのような劇的な詠み方をした者はいなかった。

 「沿線の水銀灯のため、ここでは星の光もだいぶ薄らいで思え、反対に海の上はいよいよどす黒く感じられる。かなたの島の灯台の光が一定周期で水面を掃いているが、その明かりはあまりにも弱い。ただ、岸近くで崩れる波の線が一本、二本と、そこだけ白く浮き上がる。何者かの見えない手が、大きな黒板にチョークで真一文字に太い線を引いては消し、引いては消ししているみたいだった。」(「星」阿部昭阿部昭集 第四巻』岩波書店1991年)

 「1日最大500トン放出 東電方針、第1原発処理水満杯23年春に」(令和3年5月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 下京の梅雨の紅殻格子かな 室積徂春(むろづみそしゅん)。「上京」でも「中京」でも「右京」でも「左京」でもない、明治十九年(1886)生まれの室積徂春の口から出る「下京」は、恐らく「中京」も「右京」も「左京」も行政区としてまだ存在しない「上京・下京」時代の「下京」の町である。「小雨」や「雪」や「日照り」は写真にすることが出来るが、紫陽花が写り込んだりしていなければ時間を含む「梅雨」は写すことが出来ない。が、この句の印象は、紅殻格子に焦点が絞られる限りカレンダーに使われる季節の写真とそう違いがない。町角を曲れば梅雨も曲り降り 上野泰。人を喰ったような句である。が、これはひとつの試みである。たとえばまだ若い作者は、曲り角の向こうに別の世界を夢見ている。が、いざ曲ってみれば、その町も梅雨のさ中である。角を一つ曲ったとしても、梅雨の季節から逃れることは出来ないのである。若い作者が別の己(おの)れを夢見ながら、いまの己(おの)れから逃れられないように。梅雨晴に加はる星の夥(おびただ)し 相生垣瓜人(あいおいがきかじん)。下京の町中から夜空を見上げても、そこに夥しい星を見ることはない。が、星は空のものとは限らない。下京四条堀川の交差点の角に「雨庭」と名づけられた空間がある。石を置き、小石を敷いて、蛇の髯や笹や山桜桃梅(ゆすらうめ)や錦木などが植わっている。下水に直接流れ込む雨水を、少しでもこの場所に吸わせるのだという。車の行き交う交差点では草木を自然に成長させることは望めず、そうであればこの空間が景色になじまぬ、取ってつけたようなものにならざるを得ないのはいたしかたない。が、詩的な名前の「雨庭」が取ってつけたような空間だとしても、梅雨が晴れて朝日の上る頃には、その「雨」の粒が星の如くに輝いて来るのである。

 「等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。」(『資本論カール・マルクス 向坂入逸郎訳 岩波文庫1969年)

 「6月にも「廃炉」着手へ 福島第2原発全4基、楢葉は了解方針」(令和3年5月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨やどりやがて立ちゆく遍路かな 清原枴童(きよはらかいどう)。この俳句の季語は遍路で、季節は春である。車谷長吉に『四国八十八ヶ所感情巡礼』と題する紀行文がある。「私はいま六十二歳である。六十歳の時、うちの嫁はん(高橋順子)の発案で船で世界一周旅行に行った。こんどもまた嫁はんが言い出しっぺで四国八十八ヶ所巡礼に来た。」(「お四国巡礼の記」車谷長吉四国八十八ヶ所感情巡礼』文藝春秋2008年刊)このような事の次第で、平成二十年(2008)二月十五日に阿波の第一番札所霊山寺から車谷夫妻の巡礼がはじまる。紀行文もこの日からはじまるのである、が、肝心の文章にかつてのような根気がない。「平成二十年二月十五日(金)快晴。空気が冷たい。━━四国巡礼ということを思い立つというのは、この女もまた死後、極楽へ行きたいという考えがあるのだろう。私は東京の家に独りぼっち放っておかれるのが厭だから、付いて来たのだった。孤独に堪えられない男なのである。さらに私は二十五歳の時から私小説(わたくししょうせつ)を書いて来て、身の周りの多くの人をさんざん傷つけて来たので、いまさら極楽へ行きたいという風なことは考えないのだが、生きている間に少しは謝罪したいという虫のいい気持があって、付いて来たのだった。私の小説のモデルになった人は、みんな怒っているのである。」「二月十八日(月)晴。冷たい日だった。きのう藤井寺から二つも三つも標高八百メートルほどの山を越えた。山の登り口に、焼山寺まで健脚の人、五時間、普通の人、六時間、足弱の人、八時間と書いてあった。朝六時に宿を出て、第十二番札所・焼山寺に着いたのは午後三時過ぎだった。山道はきのう降った雪が積もっていて、山のてっぺんでは十センチぐらい積もっていた。山道は凍結していた。ニ度も三度も雪道で転んだ。ために左足の膝を痛め、順子さんに膏薬を貼ってもらったが、下り坂になると、ずきずき痛んで何度も何度も立ち止ってしまった。順子さんはどんどん先へ行ってしまう。心細かった。今日も山道で一遍野糞をした。焼山寺の手前の「遍路転がし」と呼ばれる山道はきつかった。今夜の宿のおばさんの話では、午後三時過ぎになって予約を取り消す電話を寄こす客がいるとか。晩飯の用意はもう出来ているのに。こういう人は四国遍路に来ても、地獄へ行くに決まっている。」メモ書きの体裁を整えただけのような文である。「三月朔(土)━━今夜の宿の相客三人は、三人とも俗物だった。宿代が高いとか、途中の老麺(ラーメン)屋がどうだったとか、団体で来た時の方が楽しかったとか、言うことに品がなかった。何のためにお遍路に来ているのか。死ぬためではないのか。宿の女将さんの話。「健康、観光、信仰。」と嘯(うそぶ)いていた男が、途中の道で百姓のおじさんに呼び止められ、おじさんは鎌を持っていたので、身構えていたら、おじさんは懷から百五十円出して呉れたので、以後、泪が止まらなかったとか。」「三月四日(火)晴。午後雨。━━大阪で職を失ない、嫁に逃げられ、家も失ない、遍路に来た男。この男は乞食遍路で泊る宿もなく、人家で洗面器を借りて、道に立ち、お遍路さんにご喜捨を乞うのだそうだ。そうすると、一日一萬円ぐらい集まるとか。そしてまた大阪に戻り、また嫁を貰い、その嫁に逃げられ、また乞食遍路。さらに再び大阪に戻り、またまた嫁を貰い、また嫁に逃げられ、再度、乞食遍路。そういうことを一生くり返して、四国のどこかで野垂れ死にしたとか。このお遍路道では野垂れ死にする人が何人もいるのだそうだ。」「三月二十四日(月)快晴。━━今日は大岐(おおき)海岸という美しい浜辺を通った。ここの砂浜で、けさ宿の女将から頂いた焼きおにぎりを食べる。昨夜の宿は禁煙だったので往生したが、女将さんは親切な人だった。大岐海岸は波打ち際に、白砂と銀砂とが見事な幾何学模様を作っていた。印象が深い。」「三月二十七日(木)朝、晴。午後、曇り。夜、激しい雨。三原村から山道を越えて宿毛(すくも)の宿「米屋旅館」に入る。宿に着くまでは、家を一軒も見なかった。山道で一度、宿毛の田んぼ道で一度、合計二回うんこをする。宿毛の町はシャッターを閉めた店が多く、街路でバドミントンをしている人たちもいたが、活気がない。第三十九番札所・延光寺にお参りする。」「四月六日(日)午前中、曇天。午後、晴。ゆうべは隣室の男の鼾(いびき)がうるさくて、よく眠れなかった。古い宿なので、隣りとは襖一枚。━━午前中、鴇田(ひわだ)峠を越える。この峠道はいったん急峻を登り、また降りて、さらに急峻を登り降りするようになっていた。一番高いところで八百メートル。いったん急峻を降りたところの田んぼで、うんこ。午後、第四十四番札所・大宝寺にお参りする。お遍路の札所はこれで半分終わった。」「四月十五日(火)快晴。雲一つない。昼過ぎに横峰寺の山から西条に降りて来る。途中、石鎚(いしづち)山がくっきりと見えた。山の上に雪。山道でうんこ。山の色が季語に言うところの、山笑う。西条の郊外は蓮華畑、麦の穂が美しい。麦畑を過ぎて町に入ったところで、二ヶ月前、徳島県で足を引き擦りながら歩いていた順子さんに、足に巻くテープを下さった男の人にまた逢った。すると、こんどは手製の絵はがきを下さった。歩き遍路の人は。八割が足を痛めているとか。西条の小川の水は四国で一番の美しさだ。第六十四番札所・前神寺にお参りする。本堂は、お寺なのに神社のような建物だった。宿から片道二キロぐらい歩いて、床屋に行く。今日は播州で言うところの「天気が大きい。」ので、明日は雨だろう。」「四月十七日(木)曇天。━━今夜の宿に泊まっている夫婦者の妻が、こんなことを言うていた。「夫は待っている振りをして休んでいるんです。私がやっと辿り着くと、腰を上げて先へ行ってしまうんです。私は休んでいないから、そこで喧嘩になるんです。でも、夫は先へ行ってしまうんです。そういう人なんです。」「四月二十二日(火)晴。初夏というより夏日。歩くのは桜の頃が一番よい。━━第七十八番札所・郷照寺、第七十九番札所・高照院、第八十番札所・国分寺にお参りする。高照院の近くの「八十場(やそば)の水」という小さな池は、昔、京の都から流されて来ていた崇徳(すとく)上皇薨去(こうきょ)した時、京へ使いを出し、指示を待っている間、上皇の屍を浸けていた池だ。三十数年前、後藤明生さんといっしょに来たことがある。後藤明生さんも亡くなった。私はいつ死ぬのだろう。国分寺の境内の松が美しかった。」「四月二十八日(月)晴。朝食に大きな生卵が出る。割ると黄身が二つ。おばさんが「お大師さまと二人連れですよ。」と言うた。今日は第八十八番札所・大窪寺まであと三キロの宿「竹屋敷」まで歩く。━━夕食にお赤飯が出た。結願(けちがん)の前祝いなのだそうだ。」この巡礼の四年前の平成十六年(2004)、車谷長吉は二つの名誉毀損で裁判を起こされ、翌年、「凡庸な私小説作家廃業宣言」という一文を発表している。この後生前に世に出た小説は短篇集が一冊だけで、これが小説家車谷長吉の一つの区切りであり、このことで車谷長吉は自ら力の衰えの引鉄を引いてしまったのである。御室仁和寺の裏山成就山に、八十八ヶ所霊場がある。標高二百三十六メートル約三キロの山道に建つ、四国八十八ヶ所の札所の名をつけたお堂を一巡りすれば、本場四国の遍路と見なしてもらえるというのである。杉木立や雑木や竹藪の中の曲がりくねったセメントを張りつけた小道や崩れかかった石段の上り下りを行けば、先々に畳一枚二枚の大きさのお堂が現れて来る。シダが生い茂り、崖の岩に触れ、眺望がきくところでは足を止め、クロアゲハが舞い、頭上では鳥が鳴き交わしているが、山道の景色は行けども行けども代わり映えがなく単調であり、時にジョギング中の者に道を譲らねばならない。が、車谷長吉が二ヶ月半をかけた結願は、この裏山では三時間で済むのである。五月十七日が車谷長吉の命日である。

 「私が望んでいるのは、どんなものでもなにかが不意に起こるのを見られることです。どんなものでもというのは、すべてのものであって、これとかあれとかの特別なものではありません。問題は、なにかが突如現れるということなんです。けれどこのなにかを支配しているはずの法則は、まだそこにはないのです。」(『小鳥たちのために』ジョン・ケージ 青山マミ訳 青土社1982年)

 「コロナ禍生活…8割「原発事故後と重なる」中通りの9市町村調査」(令和3年5月14日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)