「節分の翌日が立春で、大槪二月四日の年と五日の年と、二年づつ續けて來る。未だ中々寒いが、禪寺等では立春大吉の札が門に貼られどこやらに春が兆す。陰暦によつた昔は立春卽ち新年で、元日のことを今朝の春・今日の春などといつたものであるが、今ではさういふ言葉は元日の方に讓つておいて、單に春立つとか立春とかいふべきである。」(『新歳時記 增訂版』虚子編 三省堂1951年刊)春立ちてまだ九日の野山哉(かな) 芭蕉立春の園芸店は旗立てて 佐々木平一。はきはきと物言ふ子供春立ちぬ 山田みづえ。春立つや障子へだてしうけこたへ 久保田万太郎。服地裁つ妻に夢あり春来つつ 伊東宏晃。カレンダーの巻きぐせ未だ春立てり 嶋田麻紀。生まれ育った実家の玄関奥の八畳間の壁に、幾つものカレンダーがぶら下がっていた。商(あきな)いのつき合い先に義理を立ててそうしているというのであるが、炬燵(こたつ)から見るその幾つかのスソは確かに反っていた。立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷。この句には昭和二十一年の句という説明がいる。葛西橋は荒川に架かり、東京から見るその先は千葉である。戦争に負けた翌年のこの橋の上にこぼれている米は、恐らく買い出しの米であろうという。どうにか年を越すことが出来た者らの目に映る僅かばかりのその米は、皆が死に物狂いで手に入れていた米の名残りである。妙心寺道に玉子だけを商う古びた小さな店があり、その店先で白い上着を着た若い女が年の入った店の者から大きな深皿に入れて貰った十ほどの赤玉を抱え、小走りに去って行った。寒玉子は冬の季語であるが、このささやかな光景の深皿の中の玉子は立春の玉子である。あるいは、西陣浄福寺通寺之内西入ルの称念寺(しょうねんじ)は猫寺とも呼ばれ、寺之内通の民家の囲いに下げたその小さな案内板に惹かれ、門を潜った人気のない敷地を人の車置きに貸している、掃除の行き届いたそう古くない小ぶりな本堂の南の濡れ縁に昼下がりの日が差しているのを見れば、ここも立春の寺であろう。門前の駒札にはこう記されいる。「本空山と号する浄土宗知恩院派の寺である。慶長十一年(1606)に現在の茨城県土浦城主・松平信吉が師僧の嶽誉上人のために建立した。当寺に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったことから、徳川定紋三つ葉葵を寺紋としている。三代目住職のころには、寺は松平家と疎遠となり次第に荒廃した。寺伝によれば、この三代目住職は猫好きであったが、寺が貧窮しているにもかかわらず、ある夜、愛猫が美しい姫に化身してのん気に舞を舞ったことに怒り、この猫を追放した。ところが、数日後、猫は住職の夢枕に立って松平家と復縁を取りつけたことを告げ、住職に報恩し、寺は立派に再興したという。以降、寺では猫の霊を厚く守護しており、本堂前の老松はその愛猫を偲び、伏した猫の姿になぞらえて植えられたものであるといわれている。京都市」満月の下で舞を舞う姫の障子に映るその影は、見れば手拭いで頬被(かむ)りした猫の姿をしていて、丁度この時松平家では死が迫った姫が臨終の後は称念寺で葬儀を執り行うよう遺言したのだというのである。頬被りして舞ったこの猫は、命懸けで松平家の姫に乗り移ったのである。何事もなくて春たつあしたかな 井上士朗。

 「たとえば川上村の井光(いかり)は、吉野川を見おろす高い尾根の上にあるが、かつてそのあたりには、しっぽのある人間━━すなわち、有尾人(ホモ・ユウダツス)が住んでいたということだ。その有尾人は、不意に竪穴のなかから出現して、東征の途中にあった磐余彦(いわれひこ)の一行を、ギョっとさせた。」(「力婦伝」花田清輝花田清輝全集 第十五巻』講談社1978年)

 「フクシマ・デリシャス」発信 海外向け動画コメ、あんぽ柿編」(令和4年2月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 紫野大徳寺塔頭高桐院は細川忠興(ただおき)三斎が父藤孝幽斎の菩提寺として建てたもので、忠興の歯を埋めた墓には正室だったガラシャも祀っている。この同じ墓所に興津(おきつ)弥五右衛門という男の墓がある。京都町奉行与力神沢杜口(とこう)が書き残した『翁草(おきなぐさ)』によれば、興津弥五右衛門は三斎の三回忌に殉死したことになっている。が、森鷗外は、短篇「興津弥五右衛門の遺書」の書き足しに「翁草に興津が殉死したのは三斎の三回忌だとしてある。しかし同時にそれを万治寛政の頃としてあるのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年から推(お)せば、三回忌は應安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。」と記している。鷗外は、明治四十五年(1912)九月十三日明治天皇大喪の礼のはじまる弔砲を待って妻と殉死した乃木希典の九月十八日の葬儀に出た後に、この数日で書いた「興津弥五右衛門の遺書」の原稿を中央公論に手渡している。後に書く「高瀬舟」も『翁草』に載る話に依っているが、鷗外は二百巻千三百話が載る『翁草』からたまたま興津の話を見つけたのではなく、乃木希典の殉死から興津の殉死を思い出したのであり、僅か数日で書き上げたのはこれを書かずにいられなかったからである。その『翁草』の興津弥五右衛門の話の全文はこうである。「一、細川三斎(松向庵ト号ス、越中守忠興ノ事)は、武に於て最も世の許す(認める)所、其餘力(余技)には歌道を嗜(たしな)み、父幽斎の風流に、をさをさ(全く)劣らず、茶道に心を寄せ、優(まさ)にやさしき大将故(ゆへ)、長崎表異國船入津の折りからに、被地へ家來を遣はし、珍器を求めさせらる。一と年興津彌五右衛門と云士に、相役一人添て差越さるゝ處に、異なる伽羅(きゃら)の大木渡れり。本木(もとき、根に近い部分)と末木(うらき、先の部分)と二つあり、其のころ松平陸奥政宗伊達政宗)よりも唐物を調(ととのえ、手に入れる)ん為、役人下り居しが、彼(かの)伽羅の本木をせり合ひて、三斎の役人と互に勵(はげみ)て直段(値段)を付上る。興津が相役是を氣毒に思ひ、斯(かく)ては直段夥(おびただ)しく高値なれば、所詮同木の事なれば、末木の方にせんと云、興津は是非本木を調んと云募りて、口論に成り彼の相役を打果し(斬り殺し)、終に本木の方を調て、隈本(熊本)に歸り、右の段々を申達(しんたつ、文書で通達する)切腹を願ふ。三斎の云く、某(それがし)へ奉公の為に、相士を討し事なれば、切腹すべき謂(いはれ)なしとて、彼相士の子共を召れ、必ず意趣を遺すべからずとて、自身の前にて、興津と盃を申付られ、互に無事に勤仕せり。其の後三斎逝去あり、萬治寛文の頃、第三回忌の砌(みぎり)、彼彌五右衛門山城船岡山の西麓に於て潔く殉死す。大徳寺清宕和尚引導たり。今も右の山麓に、一堆の古墳残れり。此興津が調へ來りし伽羅は類ゐなき名香にて、三斎特に秘藏せられ、銘を初音と付らる。其の心は、きく度に珍らしければ郭公(ほととぎす)いつも初音の心地こそすれ 此歌によれり。寛永三年丙寅九月六日、二條の錦城へ主上後水尾天皇行幸の事有り。此の時肥後少将忠利(三斎の嫡子)へ、彼名香を御所望に仍(よ)り、則(すなはち)是を獻ぜらる。主上叡感有て、白菊と名付させ給ふ。たぐひありと誰かはいはん末匂ふ秋より後のしら菊の花 此歌の心とぞ、又仙臺中納言政宗卿(伊達政宗)は、役人梢を調へ來りしを大いに残念がられしかども、流石(さすが)名香の事なれば、常に是を賞して、柴船と銘せらる、世の中の憂を身につむ柴船やたかぬ先よりこがれ行らん 此歌の心成べし。其の名とりどりながら、皆心面白し。斯(かか)る所以(ゆえん)を知らぬ人は、白菊初音柴船は、唯同じ香とのみ覚候。或は小堀遠州の所持のよし色々異説を云人有り。皆誤なり。」(『翁草』巻六「細川家の香木」)数日で書いた「興津弥五右衛門の遺書」はこれを小説として形を整えたものであるが、鷗外は間を置かず数カ月後にこれを書き改めている。書き加えたのは興津弥五右衛門の祖父からの家系と切腹後の子孫のことと弥五右衛門の兄弟のことである。「弥五右衛門景吉の父景一には男子が六人あつて、長男が九郎兵衛一友で、二男が景吉であつた。三男半三郎は後作太夫景行と名告(なの)つてゐたが、慶安五年に病死した。其子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告つた。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従つて武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云つて辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に往つて、本多下総守俊次に仕へた。次いで坂下(さかのした)、関、亀山三箇所の奉行にせられた。寛政〔永〕十四年の冬、島原の乱に西国の諸候が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利〔忠利〕と黒田右衛門佐光之〔忠之〕とが同日に江戸を立つた。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之〔忠之〕は一日丈先へ乗り越した。此時寺本四郎兵衛〔右衛門〕が京都にゐる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買ひ締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利〔忠利〕の到着するのを待ち受けて、其人馬を出したので、綱利〔忠利〕は土山水口(つちやまみなぐち)の駅で光之〔忠之〕を乗り越した。綱利〔忠利〕は喜んで、後に江戸にゐた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱へた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持二十石を給はつて、中小姓組に加はつて、元禄四年に病死した。作右衛門の子登(のぼる)は越中守宜紀(のぶのり)に任用せられ、役料共七百石を給はつて、越中守宗孝の代に用人を勤めてゐたが、元文三年に致仕(辞職)した。登の子四郎兵衛(右衛門)は物奉行を勤めてゐるうちに、寛延三年に旨に忤(さか)つて知行宅地を没収せられた。其子宇平太は始め越中守重賢の給仕を勤め、後に中務大輔治年(はるとし)の近習になつて、擬作髙(ぎさくだか)五十石を給つた。次いで物頭列にせられて紀姫(つなひめ)附になつた。文化二年に致仕した。宇平太の嫡子順次は軍学、射術に長じてゐたが、文化五年に病死した。順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給はり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属(きくごくだいぞく)になつて、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷(きづつ)けて行歩不自由になつた。宗春と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでゐて、播磨国の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。」(「興津弥五右衛門の遺書」森鷗外『鷗外選集 第四巻』岩波書店1979年刊)弥五右衛門が切腹に至る件(くだり)はこうである。「某(それがし)熟(つらつら)先考(せんこう、亡父)御当家に奉仕(つかへたてまつり)候てより以来の事を思ふに、父兄悉く出格の御引立を蒙りしは言ふも更なり、某一身に取りては、長崎に於いて相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿(しようかうじどの、三斎)一命を御救助被下、此再造の大恩ある主君卒去被遊候に、某争(いか)でか存命いたさるべきと決心いたし候。━━正徳〔保〕四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入つた。畳の上に進んで、手に短刀を取つた。背後(うしろ)に立つて居る乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切つた。乃美は項(うなじ)を一刀切つたが、少し切り足りなかつた。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云つた。併(しか)し乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。」乃木希典の殉死に森鴎外は浮き足立った。殉死という前時代の亡霊を目の当たりにしたからである。それから己(おの)れが浮き足立ったことの意味を考えた。ほんの一時代前の主従の繋がりがもたらす社会の緊張に敬意を払い、失われたものを懐かしむように鷗外は浮き足立ったまま、続けて「阿部一族」を書いた。夏目漱石乃木希典の殉死は何事かであった。大正三年(1914)に書いた『こゝろ』は、語り手である「私」に「先生」が手紙の遺書を残して自殺する。その内容は、「先生」が密かに心を寄せていた下宿先の娘を幼馴染が好きになったことを知ると、先手を打つように自分の妻にし、幼馴染はそのことに衝撃を受け自殺してしまうが、彼が残した遺書には「先生」とその娘に関することは一切触れておらず、そのことが一層「先生」を苦しめ、仕事にも就かず腑抜けのように生きて来たのである。が、「━━すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな氣がしました。最も強く明治の影響を受けた私(わたくし)どもが、其後に生き殘つてゐるのは必竟(ひつきやう)時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻(さい)にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、では殉死でもしたら可(よ)からうと調戯(からか)ひました。私は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいぜい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘(まま)、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談(ぜうだん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答も無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持がしたのです。それから約一ヶ月程經ちました。御大葬の夜私は何時(いつ)もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云ひました。私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんの死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能(よ)く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確(たしか)かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の叙述で己(おの)れを盡(つく)した積(つもり)です。」(『こゝろ夏目漱石漱石全集 第六巻』岩波書店1966年刊)漱石も浮き足立ったのである。が、漱石は浮き足立った気持ちを冷静に理屈で鎮めようとしたのである。昭和が終わった時、テレビから笑いと音楽が消えレンタルビデオ屋に人が列を作ったが、誰も浮き足立たなかった。平成が終わった時には笑いも音楽も消えなかった。高桐院の客殿の南面の庭には池も一個の石もなく、平らに苔むし、奥の築地を手前に生えた竹と太からぬ木立の群れが影のように見せ、髙からぬ心細い太さの楓がぽつぽつとこちらに向かうように立っている。この竹と木立ちと楓を従えるように庭の中心にあるのは丈の低い石灯籠である。あるいは石灯籠はこれらの木々に守られているのかもしれぬ。客殿から大きく見上げるこの竹と木立ちは手入れによって飼い慣らされた様子でなく、一線を越えるかもしれぬ向こう側の集団の佇まいで、秋の終わりにはこの群れを背景にそちこちの楓が紅く色づくのである。五十メートルあるという中門から玄関前の唐門までの真っ直ぐな敷石の道の両側もこの庭と同じ苔の地に竹と木立ちであるが、柵と生垣の直線の刈り込みは人の存在に従った景色で、「見せる」ことに徹したようなやや息苦しい美意識である。

 「もし同時には両立するはずがない複数の空間が、にもかかわらず同時に与えられたとき、その「非現実性」を矛盾なく解消するために、時間的な秩序が要請されるようになるのは予想されるとおりである。すなわちその二つの空間は時間的に隔たっている。それを空間的に言い直せば、この二つの空間は同時に立つことはできない「拡がり」としてある。時間という観念はこうした根源的な隔たり、差異から生み出され、言いかえれば、この隔たりにおいてこそ時間と空間は一つに結びつく。空間の発生と時間の発生は同時である。」(『ルネサンス 経験の条件』岡崎乾二郎 文春学藝ライブラリー2014年)

 「汚染水1日当たり150トン 福島第1原発、21年1年間の発生量」(令和4年1月28日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 一月十四日の雪は、渡月橋の欄干にも岸に寄る屋形船の屋根の上にも嵐山や小倉山の木々の枝にも降り積もり、その降りしきるさ中、景色は雪の思うままに従いみるみる姿を変えたのであるが、雲が南の方から割れ出すと降る雪の劣勢は太陽に晒され、やがて静かに已(や)み一面の雪景色はいよいよ光り輝いた。翌日には雪景色は醒めて元に戻ったが、嵯峨の黄色く葉の萎びた大根畑の畝の日陰に僅かばかりの雪が残っていた。日ごろ見慣れた者の目には何ほどの思いも起こさぬかもしれぬが、そうでない者にはこのような景色にも些(いささ)かの思いを起こさせる。流れゆく大根の葉の早さかな 高濱虚子。「大根の葉が非常の早さで流れてゐる。之を見た瞬間に今までたまりにたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである。」(句集『虚子』序)と、虚子は書いている。覗き込んだ冬の小川の水の上をうねりながら大根の葉が流れて行った。寒さに縮こまる気持ちに一本筋が通ったような胸のすく思いがあるにはある。が、蕪村に、易水(えきすい)に葱(ねぶか)流るゝ寒哉(さむさかな)、という句がある。虚子の頭のどこかにこの句があったかもしれない。蕪村のこの句は、虚子の句のように見たままを詠んだのではなく頭でこしらえた作りものである。司馬遷の『史記』の「刺客列伝」に記されている荊軻(けいか)は、秦王の暗殺に失敗して殺される。「居ること之を頃(しばら)くして、会(たまたま)燕の太子丹秦に質たるも亡(に)げて燕に帰る。燕の太子丹は故(もと)嘗(かつ)て趙に質たり。而(しこう)して秦王政は趙に生まれ、其の少き時丹と驩(よろこ)ぶ。政立ちて秦王と為るに及びて、丹秦に質たり。秦王の燕の太子丹を遇すること善からず。故に丹怨みて亡(に)げ帰る。帰りて為に秦王に報(むく)ゆる者を求むるも、国小にして能はず。其の後、秦日兵を三東に出だし、以て斉・楚・三晋を伐ち、稍(ようや)く諸侯を蚕食し、且(まさ)に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐れる。是に於いて太子予(あらかじ)め天下の利なる匕首(ひしゅ)を求めて、趙人徐夫人の匕首を得て、之を百金に取る。工をして薬を以て之を焠(にら)かしめ、以て人に試みるに、血縷を濡らせば、人たちどころに死せざる者無し。乃(すなは)ち裝して為に荊卿を遣はさんとす。燕国に勇士秦舞陽なるもの有り。年十三にして人を殺し、人敢(あ)へて忤視(ごし)せず。乃ち秦舞陽をして副と為らしむ。荊軻待つ所有り、与(とも)に俱(とも)にせんと欲す。其の人遠きに居りて未だ来ず。而(しか)るに行を治むるを得ず。之を頃(しばら)くするも、未だ発せず。太子之を遅しとし、其の改悔(かいかい)せしを疑ふ。乃ち復(ま)た請(こ)ひて曰はく、「日已(すで)に尽く。荊卿豈(あ)に意有りや。丹請ふ、先づ秦舞陽を遣はすを得ん。」と、荊軻怒り、太子を叱して曰はく、「何ぞ太子の遣はすや、往きて返らざる者は、豎子(じゅし)なり。且(か)つ一匕首を提げて不測の強秦に入る。僕の留まる所以(ゆえん)の者は、吾が客を待ちて、与に倶にせんとすればなり。今太子之を遅しとす。請ふ、辞決せん。」と、遂に発す。太子及び賓客その事を知る者は、皆白装束冠を以て之を送る。易水の上(ほとり)に至り、既に祖して、道を取る。高漸離(こうぜんり)筑を撃ち、荊軻和して歌ひ、変徴(へんち)の聲を為す。士皆涙を垂れて涕泣(ていきゅう)す。又前(すす)みて歌を為(つく)りて曰はく、「風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒く、壮士一たび去りて復た還らず。」と。復た羽聲(うせい)を為して慷慨(こうがい)す。士皆目を瞋(いか)らし、髪盡(ことごと)く上がりて冠を指す。是に於いて荊軻車に就きて去る。終(つい)に已(やむ)に顧(かえり)みず。」荊軻が燕に来てからしばらくして、秦で人質になっていた太子丹が燕に逃げ戻って来た。太子丹ははじめ趙の国に人質に取られていて、趙で生まれた政とは子ども時代に仲がよかったが、その父が死んで秦王となってからも丹は秦の人質にされ、その扱いに腹を立て、秦王を怨んで逃げ帰ったのである。そしてすぐに秦王に復讐を誓ったのであるが、弱小の己(おの)れの国の中にそれを叶えてくれる人材は見つからない。それからというもの秦は連日兵を山東に出撃させ、斉・楚・三晋に攻め込んで勝利し、いよいよ燕に攻め入ろうとしていた。燕の太子に仕える者らは皆戦々恐々とし、追い詰められた太子は最後の用意に世に二つとない匕首を探し、趙の徐夫人の手になる匕首を百金で手に入れ、職人に毒を塗って鍛え直させた。その匕首を試された者は皆血をひと雫垂らしただけで死んだ。それから太子は人を介して荊軻にその役目を託し、十三の時に人を殺して以来誰もその者の顔を見返すことが出来ない秦舞陽という猛者(もさ)を一人つけることにした。が、荊軻には別の考えがあった。荊軻は己(おの)れの友と事をなそうと思ったのである。が、その友は遠くにいて便りを送ってもまだやって来ない。そう決めた以上荊軻は待つほかなく、腰を上げることが出来ずにいると、太子は荊軻が心変りしたのではないかと疑い、改めて問い正した。「もう日は沈んでしまったぞ。荊軻殿、何か考えがあるのであれば、秦舞陽を先に遣ってはどうか。」これを聞いた荊軻は忽ち怒り、「こんな青二才を遣っても帰って来られないことぐらい太子はご存じなはずです。匕首一つで強国秦に入ることがどれだけ危険なことか。ある客人を待っているんです。その者と一緒にやるつもりでした。しかし太子がもう待てないとおっしゃるのであれば、分かりました。出発します。」太子とその取り巻き達は覚悟を秘め全員葬式で着る白装束姿で見送りに来、易水(中国河北省易県辺りに発する川)の畔に出て、道祖神荊軻の成就を祈った。高漸離が筑(楽器)をかき鳴らし、荊軻がそれに合わせて歌を歌うと、もの悲しい声の響きにその場にいた者は皆涙を流した。荊軻は改まって前へ進み出、即興の詩を詠んだ。「風がもの寂しく鳴って易水は寒々としている。ここからいまひとりの若者が去ろうとしている。恐らくこの若者は二度と還って来ない。」激しい調子で何度も繰り返す荊軻の心は昂り、それにつられた者らは目が吊り上がり、髪が逆立った。ついにその時が来た。荊軻は馬車に乗り込むと一度も後ろを振り返ることはなかった。蕪村は、荊軻が心を昂らせた易水の流れに葱を投げ込んでその寒さを詠んだ。蕪村が心の中で投げ入れたのは葱ではなく、荊軻匕首であったのかもしれぬが。虚子が川に流したのは大根の葉である。虚子は目の前を流れて行った大根の葉で救われるのである。鹿王院(ろくおういん)の裏の通りの、北向きに玄関のある何軒かの家の前に同じような融けた雪の塊があった。通り過ぎ暫くしてからそれが雪達磨の成れの果てであることに気づいた。恐らくはこの家々の子どもらが薄く積もった雪を搔き集めて作ったのである。それも前の日の、雪の日の出来事である。

 「荊軻がはじめて秦王の顔をまともに見すえたのは、王の地図を開き終ったその時である。あたりに声一つない。ふいに、床へ落ちる小さな金属音が沈黙を砕いた。地図に巻き込まれてあった匕首である。と同時に、荊軻のまるくなって走る躰と秦王とが交錯した。」(「犯行」高橋隆(「私の文章修行」(車谷長吉『錢金について』朝日新聞社2002年)収録))

 「都民1000人風評調査、放射線誤解浮彫り 「健康に影響」4割」(令和4年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 桜の見頃も終わる四月半ばの今宮神社のやすらい祭は、緋色の幕をぐるりに垂らした風流傘を先頭に赤と黒の長いつけ毛と緋色の長い羽織を着た少年らが股を広げた腰構えで跳ねるように舞うのが独特であるが、この風流傘を思わせる「人気笠」が、大和大路通を挟んだ東山建仁寺の惣門のはす向かいにある恵比須神社のゑびす祭で売られている。「人気笠」は麦わらで作った車輪のような輪の回りに風流傘と同じ緋色の布を垂らしたもので、吉兆笹と同じように縁起物の熊手や俵や千両箱を下げてもらうのであるが、「人気大よ世(にんきおおよせ)」と書いた黄色い紙をひと際大きくぶら下げ、それを見上げて読めば、時代をのぼった商人(あきんど)の心に触ったような気分になる。ゑびす祭は八日九日が宵ゑびす、十日が十日ゑびす、十一日十二日がのこり福である。四条通から頭上に渡した案内を潜れば、大和大路通の両側に喰い物の露店がずらりと並び、どこの祭りでも見掛けるような焼き鳥、たい焼、たこ焼、いか焼、焼きトウモロコシ、焼きそば、大判焼、綿あめ、りんご飴、フルーツ飴、べっこう飴、どんぐり飴、バナナチョコ、ベビーカステラ干し柿、肉まん、フランクフルト、牛すじ煮込み、ホルモン焼、どて焼、甘酒の匂いが漂う人混みの流れに行きつ遅れつ漸(ようや)く恵比須神社の鳥居に辿り着く。境内に浮かぶ人波のあちこちで吉兆笹が揺れている。長い列の先を見れば、鉦笛太鼓の音に合わせ繰る繰ると二度三度巫女が舞い、目の前の棚に載せた青笹の枝を一本一本祓っている。笹に縁起物を下げて貰ったら寄り道せずに帰るのが云い習わしであるという。途中で金を遣うと福が落ちるというのである。通りの隅でしゃがみながら二三人でものを喰っている者らで吉兆笹を抱えている者は見掛けない。この云い習わしに従って笹を手に入れる前に金を遣って喰っているのかもしれぬ。が、その者らの一見した見掛けは商人(あきんど)からはほど遠い、吉兆笹には目もくれぬ「愛すべき」者らである。「愛すべき」者らと云ったのは、この者らはたとえば「ダチ」仲間や小さい子どもを抱えた家族で、その背を丸めて買い喰いをする姿が時に切なく、いとおしく思えるからである。福笹をかつげば肩に小判かな 山口青邨

 「母、夕飯を運び来る。験温器を検するに卅七度五分なり。膳の上を見わたすに、粥と汁と芋と鮭の酪乾少しと。温き飯の外は粥を喰ふが例なり。汁は「すまし」にて椎茸と蕪菜の上に卵を一つ落としあり。菜は好きなれどこの種の卵は好まず。」(「明治卅三年十月十五日記事」正岡子規『飯待つ間』岩波文庫1985年)

 「第1原発1号機、1月12日から格納容器調査 水中ロボット使用」(令和4年1月7日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説では「美納子」と書かれている中西美乃生は昭和二十八年(1953)(他の資料では昭和二十七年(1952)となっているが)1月15日に青森の自宅で生まれ、なかにしが産婆を連れて戻った時には寒い部屋で脱脂綿の山に埋もれていたという。終戦の年に父親を満州で亡くし、戻った小樽の自宅を抵当にして兄が金を注ぎ込んだ鰊漁の事業が失敗した中西一家は間もなく東京に移り、この姪が五歳の時、夏祭りで転んで箸が喉に突き刺さったアイスキャンディを口のまわりを血だらけにしながら舐めていた、ともなかにし礼は忘れがたい童子の様子を書いている。陸軍の特別操縦見習士官として戦争を生き延びた、女にだらしない十四歳年上の兄の姿を描いた『血の歌』は、「教師の恋」となっているが森田童子の「ぼくたちの失敗」が主題歌に使われたテレビドラマ「高校教師」を映しているテレビの画面をカメラで撮る童子の父、中西正一の姿からはじまっている。中西正一は森田童子として自分の娘が世に出る時、己(おの)れが実の父であると世間に名乗ることを弟なかにし礼から封じられ、この翌年の平成五年(1993)に亡くなるまでその約束を守らされた。森田童子のレコードデビューは昭和五十年(1975)である。その前の年、中西正一となかにし礼が重役をしていた芸能事務所にいた風吹ジュンをテレビ局から連れ出してホテルの一室に閉じ込め、引き抜きにあい事務所を移るのを翻意させようとして世間を騒がせたのが中西正一となかにし礼と、後に森田童子のマネージャーとなり夫となる社長の前田亜土であれば、森田童子は頑(かたく)なにその出自を伏せ、その回りも一切口を閉ざしたのである。森田童子、中西美乃生は十五歳から十九歳までなかにし礼と同じ屋根の下で暮らしていた。前妻と離婚したなかにし礼は、「知りたくないの」「恋のフーガ」「天使の誘惑」などの詞が当たり、昭和四十三年(1968)中野に百十坪の家を建て、そこに脳溢血の後遺症で半身不随となっていた母と中西正一の一家が移り住んだ。が、兄正一の度重なる事業の失敗で保証人となっていたなかにし礼は億の借金を背負い、その家も数年後には人手に渡り、ということの顛末を作りものとして書かれているのが平成十年(1998)の直木賞の候補にもなった『兄弟』である。生前になかにし礼が表に出さなかった出来の生硬な『血の歌』は、この『兄弟』の前に書かれたものである。書くきっかけとなったのは、ドラマ「高校教師」で使われた己(おの)れの姪が唄う「ぼくたちの失敗」である。正一の妻が介護をしていたなかにし礼の母が昭和五十二年(1977)に亡くなり、なかにし礼は兄正一と縁を切ったという。『兄弟』の終わりになかにし礼、中西禮三が口にするセリフはこうである、「兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう」。「高校教師」がテレビで流れた平成四年(1992)、その十年前に芸能界から足を洗っていた森田童子は自分の曲が使われても再び表に出ることはなく、平成二十一年(2009)夫の前田亜土、本名前田正春に先立たれ、平成三十年(2018)に誰に看取られることもなく退院して戻った自宅で息を引き取るのである。十代の終わりに、結局世に出ず幻に終わった森田童子のファン向けの会報誌の編集に加わり、森田童子とも前田亜土とも幾度か言葉を交わした者としてその当時何も知らなかったことを思えば、この期に及んでこれらのことごとは、正月早々胃の中がどんよりするような何事かであった。大晦日から年を跨いで京都にも雪が降って積もったが、元日の晴れの日射しで午後には消えてなくなった。初雪や上京は人のよかりけり 蕪村。下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆。

 「八重の桜も、色あせて、花のにぎわいはすでに無けれど、新緑に浮き立つ心は、犬猫ばかりならず、街道の往来もはげしく、茶店、旅籠、いずれもはんじょうの気色みえたり。われら五人のうち、死のくじ引き当てるは、ただ一人、残る四人は、無事生きのびて、蝦夷地に生業を約束されてあるといえども、各人、おのれこそ死すべきものと覚悟をかためてか、路傍の笑いさんざめき、すべて無縁のことと、さらに振り向くこともなし。ただ、佐々木源弥のみ、しきり出牢の夢を語り、あるいは蝦夷地の寂寥にふれるなどして、閑々たり。」(『榎本武揚安部公房 中央公論社1965年)

 「廃炉、新たな局面 22年にはデブリの試験的な取り出し」(令和3年12月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 その日のちょうど正午近く西陣の外れにいると、西から東から消防車のサイレンが上がり、自転車の足を止めて聞けばそれはどちらもこちらに近づいて来る響きである。ほどなく南の方角からも聞こえて来る。五辻通(いつつじどおり)に何人か人が出ていて、通りを北に入ると直ぐの脇道の突き当りの建物の裏の窓から白煙が上がり、異臭も漂っている。が、人の騒ぐような声は聞こえず、辺りは不穏な静かさである。五辻通に着いた消防隊員が道路の消火栓の蓋を開け、積んだ台車を転がしながら繋いだホースを伸ばして行く。ドアの開いた消防車の運転席から現場や状況の無線のやり取りの声が響いている。救急車が来てストレッチャーを降ろす。五辻通に出ている者には火の手も白煙も見えず、年の入った二人の女は目の前の出来事ではなく病気で入院した知り合いの話をしはじめる。昼飯の支度や仕事の手を止め、大勢が野次馬となってざわつくような気配は、いまのところこの火事にはない。火事は冬の季語である。火事遠し一人が入りてみな家に 白岩三郎。家に入ってテレビが点けっぱなしの茶の間に戻れば、中断していたこの家の者らの団欒は何事もなくもとに戻る。椿散るあゝなまぬるき昼の火事 富澤赤黄男。もっと燃えろ、という内なる後ろ暗い声がこの者には聞こえている。同じ火事の夢を何度か見たことがある。空は晴れ渡り、生まれ育った実家の東の方角にある家屋から急に火の手が上がると、煙も上がらず壁が崩れ瞬く間にその一軒を燃え尽くし、火は隣りの家にも移り、その隣りも同じ勢いで燃え出した。どこにも人影は見当たらず、稲刈りの終わった田圃の向こうで、見慣れた人家が「燃えるべく」して燃えているのである。火事跡の貼紙にある遠い町 林菊枝。この者の同級生は誰に知らせることもなく、この遠い町に行ってしまったのかもしれない。抽斗(ひきだし)に螢しまひし夜の火事 齋藤愼爾。暗黒や関東平野に火事一つ 金子兜太。どちらの句も詩的作為を持って読む者を刺激するが、片や一つの火事は螢となって抽斗に仕舞われ、もう一方は暗黒の世にあっては、上がる真実の声という火事は関東平野の広さをもってしてもただ一つである、というのである。学生時代に通っていた定食屋でボヤ騒ぎがあった。厨房と二階の住まいの一部が燃えたという。半月ぐらいで再開した店に行って、帰りがけに目のぎょろりとした初老の主人から熨斗(のし)に包(くる)んだ豆絞りの手拭いを貰った。が、それから一年足らずで店は閉じた。理由は分からぬが、恐らくは火事によって店の潮目が変わってしまったのである。西陣の火事は、その日の新聞沙汰にはならなかった。

 「夜になると、キッチンは祖母の城になった。そこで祖母は、よく知られた不眠症と根気よくつきあっていた。絶滅した哺乳類についての本を読み、子供のころに集めた鳥の骨格標本を眺めた。「わたしの猫が持ってきた鳥の死骸ですよ」煙草を吸い、チェスの詰め問題を解き、古いフルートを吹いた。そのフルートは日中には使い道のない広い玄関ホールのテーブルの上に置いてあった。この楽器もときおり光を反射した。」(「おばあさん」イーディス・パールマン 古屋美登里訳『双眼鏡からの眺め』早川書房2013年)

 「処理水の海洋放出、政府が行動計画 海外での風評被害調査ほか」(令和3年12月29日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 九条東寺の講堂と食堂(じきどう)の間の空き地に、夜叉神堂という紅殻格子の二つの小堂が建っている。二つ建っているのは、夜叉に男と女があるからである。この日は弘法市の二十一日で、十二月は終(しま)弘法と呼ばれ境内中に露店が立ち、夜叉神堂の回りは業者の車で埋まり、お堂は駐車場の公衆便所と見間違えそうな様子である。その神堂の東側雄夜叉の前で、足元に黒鞄を置き手を合わせている中年を過ぎた辺りの男がいた。男は背広にネクタイ姿で、弘法市のごったがえする中でも目立つ格好である。深く傾けた顔を上げると、男は雌夜叉の方は拝まず、露店に足を止めるでもなく人混みに紛れて行った。夜叉という鬼はサンスクリットのヤシャあるいはヤクシャの音に漢字を当てたもので、漢字の並びに意味はなく、もとは森の神霊で邪神であったが、釈尊の教えを受けて後、八部衆の一尊として仏法を守護する者となったという。尾崎紅葉の未完の小説『金色夜叉』の、銀行の頭取の息子が嵌めていたダイヤモンドに目が眩んだお宮を蹴った貫一は、許嫁だったはずのお宮が夜叉に見え、蹴られたお宮は両親が引き取って一緒に育ったはずの貫一が夜叉に思えた。はじめからお互いにそう見えていたのではない、熱海の夜に夜叉が現れ出たのである。が、貫一という夜叉はこう云う。「来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が…月が…月が…曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ。」この貫一という夜叉は泣いているのである。お宮は生んだ子にすぐに死なれ、金で人を追い詰める夫との結婚を後悔し続ける夜叉で、高利貸しとなった貫一も夜叉のままである。金輪際この夜叉は夜叉を許さないのである。仏法を守護するはずの夜叉は、仏法を守護するはずの夜叉を許さないのである。これが未完の貫一とお宮である。雄夜叉の仏像に手を合わせていた背広姿の男は、終弘法のざわつく中で熱心に何を祈っていたのであろうか。「今ハ昔、元興寺ノ中門ニ二天在(マシ)マス。其ノ使者トシテ夜叉有リ。其ノ夜叉、霊験ヲ施ス事限リナシ。然レバ其ノ本ノ僧ヨリ始メテ、里ノ男女、此ノ夜叉ノ許ニ詣デ、或ハ法施ヲ奉リ、或ハ供身ヲ備へテ、心ニ思ヒ願フ事祈リ請フニ、一ツトシテ叶ハズト云フ事ナシ。」(『今昔物語集』巻第十七、第五十)夜叉はこのように願いを叶える実績がある。そのためには、夜叉が叶えたいと思うことを願うことである。東寺は北に総門と大門があり、この二つの門を結ぶ参道を挟んで洛南高校と三つの塔頭と東寺保育園がある。この参道にも野菜やお茶や反物や陶器やバッタモノのズックや古着の露店が並び、観智院と保育園の間の日陰の路地には古道具や玩具や古銭や浮世絵や掛け軸や模造刀の古物の業者が毎月の市と同じ場所に店を出している。客はいつもまばらであるが、この日は賑やかな声がしていた。「せーの、ヨイショ。せーの、ヨイショ。」保育園の玄関先で餅搗きを見ている園児の掛け声である。掛け声に合わせ杵を振り下ろす年配の園長の顔は、つつがなく新年を迎えるために真剣で真っ赤であった。門並や只一臼も餅さわぎ 一茶。

 「オトコはすぐに頭の中では二つのことをやりたがるけど、実際たいていはいっときにできひんもんどす。オンナは何か他のことをやってても、子どもが話しかけてくるのを聞くことに慣れてます。子どもが何か質問しかけてくる間にケーキをつくったりしますしね。かばん工場のフェルト加工職人グレース・クレメンツ談」(『仕事!』スタッズ・ターケル 中山容他訳 晶文社1983年)

 「日本海溝地震、最悪想定で死者19万9000人 福島県1200人犠牲」(令和3年12月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)