御室仁和寺の東の築地に沿って緩く上る道の右は仁和寺の駐車場で、その上、仁和寺の東門の向かいに小さな門を構える蓮華寺がある。京都市が立てた駒札を写せば、「平安時代の天喜五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ広沢池の北西にあったが、応仁の乱の後、鳴滝の音戸山(おんどやま)山腹に移され、長く荒廃していたのを、寛永十八年(1641)に江戸の豪商・樋口平太夫翁が再興し、山頂に石造の五智如来像を安置した。その後、火災にかかって焼亡し、昭和三年(1928)に現在地に移された。昭和三十三年(1958)には、離散していた石仏が集められて安置され、境内に並ぶ五智如来五体と観音坐像の十一体の石仏群は壮観である。五智如来とは、薬師、宝生、大日、阿弥陀、釈迦の五仏で、知恵の祈願仏として知られ、現在も学業の守護尊として信仰を集めている。」寺である。数段の石段を上がって門を潜り、敷かれた石を辿ってすぐに視界は右、南に開ける。この高みの真下は駐車場であり、遠望を遮るものは何もない。と思うと同時に何か気配のようなものを感じる。そのまま二三歩右に進めばその気配の意味が分かる。駒札の説明にある石仏が列を作り、整然と皆南に顔を向けて並んでいるのである。前列の五体、薬師如来宝生如来大日如来阿弥陀如来、釈迦如来は半丈六、一・二メートル余の坐像で蓮華の台座に乗り、後ろの十一体はそれらよりひと回り小さく、これらの石仏は大人の腰の高さに刈り込んだ躑躅の生垣に囲まれている。十一体には地蔵菩薩聖観音の内に樋口平太夫の両親と平太夫、但称(たんしょう)と記したどれも穏やかに目を閉じたわずかに前かがみの座像が混じっている。この但称は、仏師木喰但称である。木喰(もくじき)とは火を通したものを一切喰わず木の実と果物だけで生きる修行僧であるという。弟子の手による但称の像以外の石仏は皆、この木喰但称の手によるものである。石仏は木像のような繊細な彫りではないが、野晒しで三百八十年を経ても正確な仏顔の輪郭を保ち、それらが寄せ集めでない恐らくは同じ者の手によっていることで均一となった緊張を辺りに齎(もたら)している。が、その張りつめた空気は室内の奥まった仏像にまつわる息苦しさとはならず、空中に発散され、堂の内にいては味わうことのないようなひとつの確かな気分にさせる。それはこの石仏の一団が「そばにいる」、あるいはこの一団と「一緒にいる」という気分である。同じ地面から如来もまた目の前の同じ景色を見ているということが「そばにいる」ということである。どちらか一方が「そばにいる」のではなく、互いが互いの「そばにいる」という気分にさせているのである。この気分を前向きに解釈すれば、見ず知らずの想像の及ばぬ「浄土に触れている」という思いかもしれぬ。経にある言葉ではなく、石仏というものの群れがそう思わせることを「した」のである。それはいうまでもなく「もの」を超えたということである。「超えた」と思ったのはこちらである。蓮華寺には但称が作った石仏がもう一体あった。その一体は十一面千手観音で、いまは嵯峨広沢池の中に立っている。境内の如来と同じように頬のふっくらした観音である。

 「━━ほら、人間的な神聖と呼ばれ、聖人の神聖ではないものがあるのだ。わたしは、人間的な神聖が神の神聖よりも危険で、俗人の神聖は一層痛ましいことを神すら理解しないことを恐れている。キリスト自身、人びとが彼にしたことを彼にしたとすれば、わたしたちにはずっと悪いことをするはずだということを知ってはいたが、「生の木にさえこうされるなら、枯れた木はいったいどうなるのだろうか?」と彼は言ったのだから。」(「G・Hの受難」クラリッセ・リスペクトール 高橋都彦訳『ラテンアメリカの文学12 G・Hの受難/家族の絆』集英社1984年)

 「新たに塊状の堆積物確認 第1原発1号機格納容器調査」(令和4年3月25日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 冬に鶯の「あの啼き声」を聞くことはない。鶯がどこかに行ってしまって聞かないのではなく、冬には「あの声」を出さないから聞かないのである。チャッ、チャッというのが冬の鶯の鳴く声である。俳句はこの声を「あの啼き声」とは別の、笹鳴という季語にした。笹鳴の人なつかしや忌がゝり 阿波野青畝。作者は鶯の笹鳴きを耳にしてその人のことを想い出し、そういえばその人の命日もいま頃だったなと思う。木の影も笹鳴も午後人恋し 石田波郷。この句の甘さは、若き日の波郷の口から出たものであろうか。後の波郷は兵に召集され送られた中国で結核に罹って帰され、何度も肋骨を切除する手術を受け、たばしるや鵙(もず)叫喚す胸形変、と詠むのである。地蔵院で鶯の「あの啼き声」がしていた。洛西松尾大社の一の鳥居が建つ嵯峨街道を南に下った二又を右に折れ、山田岐れの交叉点を西に緩く上がる山裾の先に地蔵院がある。この道を地蔵院の方に曲がらず真っ直ぐ行けば唐櫃越(からとごえ)の山道で、本能寺の変丹波亀山から明智光秀の軍が夜道を上った老ノ坂に出る。地蔵院は一休宗純と関わりのある寺であるという。一休の弟子済岳紹派が書いたという『祖先詩偈(しげ)』にある「休祖は初め嵯峨地蔵院に御座候也」の一文がそのことを示しているというのであるが、他に地蔵院と一休を結びつけて記したものは恐らく見当たらない。別の弟子没倫紹等が書いたとされる『東海一休和尚年譜』のはじまりにはこう記されている。「後小松帝応永元年(明徳五年、1394)甲戌。師は刹利(さつり、王族階級)種なり。其の母は藤氏。南朝簪纓(しんえい、高位高官)の胤、後小松帝に事(つか)え能く箕箒(きそう、身の周りの事)を奉じ、帝の寵渥(ちょうあく、寵愛)し焉。后宮(后妃)譖(しん、讒言)して曰く、彼に南志(南朝への思い)有り、毎に剣を袖にして帝を伺う(命を狙っている)と。因って宮闈(きゅうい、宮廷)を出でて民家に入編し以て産む。師襁褓の中に処すといえども、龍鳳の姿有り。世に識者あるなし。正月朔、日出づる時出胎。二年乙亥。三年丙子。四年丁丑。五年戌寅。応永六年乙卯。師年六歳、京師安国寺長老像外鑑公に投じ、童子の役を執る。鑑呼んで周建と曰う。」謂(いわ)れのない告げ口で宮廷を追われた一休の母となる後小松天皇に仕えていた女は嵯峨の民家で千菊丸を生み、千菊丸は六歳で四条大宮の安国寺で出家し像外集鑑から周建と名をつけられた。が、千菊丸の二歳から五歳までのことは空白で何も書かれていない。地蔵院は二代足利義詮(よしあきら)、三代義満の管領、執事だった細川頼之が建てた寺である。「管領武州源頼之公、政(まつりごと)の暇、道を師(碧潭周皎、宗鏡禅師)に問ひ、得る所領頗(すこぶ)る多し。故に地を城西に占めて禅刹を剏(はじ)め、師を請して開山の祖となす。然(しか)りと雖(いへ)ども師謙光(碧潭周皎)にして楽しまず、天龍国師(夢想国師)を以て第一世と称し、自ら第二世と称す。」(『宗鏡禅師伝』)細川頼之は一度の失脚を経て再び義満の幕政に戻るが、その失脚の間に出家し、貞治六年(1367)己(おの)れの寺地蔵院を建て、頼之が師と仰ぐ碧潭周皎はその師であった夢想国師を地蔵院の開祖とし、己(おの)れを二世とした、という。が、応仁・文明の乱(1467~1477)で寺は灰になる。白塀を回した瓦葺の小さな総門の手前に庭木の様(さま)に植わっている楓にいまはまだ葉はなく、総門を入れば、参道の両側に孟宗竹が生い茂っている。竹の寺という別名があるが、竹林は周りの宅地に切り崩され辛うじて残っている様子で闇を作るような奥行きはない。鶯はこの孟宗竹の茂みのどこかにいて「あの啼き声」で一声二声啼いた。正面の石積を施した地蔵堂は昭和十年(1935)の建物で、小道を右に折れた方丈が貞享三年(1686)の再建であるという。安永九年(1780)に出た『都名所図会』に「細川頼之当寺を建立して諸堂厳重たり。応仁の兵火に罹りて亡廃す。いま延慶庵のみ遺れり。」とあり、この延慶庵が方丈となったものである。境内は他に庫裡があるだけで、この辺りにも迫る孟宗竹の手前に楓が植わっている。方丈は、庭に面した二間は二十畳足らずで、細川護熙が描いた山水画が襖を飾っている。庭は平らに苔むし、こんもりした大振りの椿の下に躑躅、あるいは楓や五葉松の枝が奥の方で込み合っている。散らばって立つ石は十六羅漢を模しているという。日光が濡れ縁の端と、接する庭の端に射している。受付小屋にいた住職のほかにこの方丈にも境内のどこにも一人の人影もない。時折り聞こえて来るのは風に撓(しな)う竹の音と、鶯の「あの啼き声」だけである。鶯に底のぬけたるこゝろかな 服部土芳。鶯の声を聞いて「心の底」が抜けたのではなく、鶯の「あの声」で春の陽気にぼーっとしていた己(おの)れは我に返ったのである。うぐひすの啼や小さき口明ィて 蕪村。

 「神話的思考の論理は、実証的思考の基礎をなす論理と同様に厳密なものであり、根本的にはあまり異なっていないようにわれわれには思われた。相違は知的作業の質によるというよりは、むしろこの作業が対象とする事物の本性によるからである。久しい以前から、技術の研究者たちは彼らの領分でこのことに気づいていた。鉄の斧は石の斧よりも、「よく出来ている」からまさっているのではない。どちらも同様に「よく出来ている」が、鉄は石と同じものではないのである。」(『構造人類学クロード・レヴィ=ストロース 川田順造他訳 みすず書房1972年)

 「国見、相馬、南相馬震度6強 震源福島県沖、津波注意報も発令/福島第1原発2号機の冷却が停止 外部への影響は確認されず」(令和4年3月17日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 平成七年(1995)一月十七日に起きた阪神淡路大震災のその刻に便所に入っていた俳人永田耕衣は、神戸須磨の二階家が倒壊したにもかかわらずその狭い個室の中で命拾いをした。九十五歳だった耕衣は住まいを失って寝屋川の老人ホームに入り、このような句を詠んだ。白梅や天没地没虚空没。父恋が母恋なりき梅白し。梅花咲き出したというて泣きにけり。或る日父母が居ないと思う梅花かな。桂川を渡った四条通松尾大社の一の鳥居の前で尽きるが、渡る手前を北に折れ奥の鳥居を潜れば梅宮大社である。安産祈願の梅宮大社は受付で肥った白い猫が寝そべっているようなのどかな神社で、塀の内の神苑で漸(ようや)く梅が咲きはじめた。苑にある二つの池は燕子花(かきつばた)で有名であるが、茎はまだ淵の泥に埋まっている。梅はこの池の回りにぽつぽつと植わり枝にもぽつぽつ花をつけていて、明日の三月十一日には晴れの陽気にいまより開くに違いない。が、鷲谷七菜子は、このように梅を詠むのである。天曇るつめたさに触れ梅ひらく。俳句は、天晴るゝ暖かさゆへ梅ひらく、ではないのである。母の魂梅に遊んで夜は還る 桂信子。この句の作者は、しかし日射しの下の梅にこそいまは亡き母の姿が見えるという。夜の梅いねんとすれば匂ふ也 加舎白雄。床に就こうとすると匂う梅とは何という花であることか。「梅宮は四條の西、梅津の里にあり。祭るところ四座にして、酒解神(さかどけのかみ)・大若子(おおわかこ)・小若子・酒解子神なり。相殿(あひどの)には橘贈太政大臣清友(諸兄(もろえ)公の孫、奈良磨(ならまろ)の子)・檀林皇后嘉智子を祭る(この皇后は嵯峨天皇の愛妃なりしかども、太子なきことを常に愁ひて酒解けの神を祈り給へり。すでに感応ありて妊身となりましまし、すなはち当社の清砂を御坐(おまし)の下(もと)に敷き、太子を隆誕し給ふ。仁明天皇これなり。ゆゑに世人産月に臨めば、当社の砂を取りて帯襟(たいきん)に佩(お)ぶるはこの遺風なりとぞ)。」(『都名所図会』)

 「ウクライナ侵攻を続けるロシア軍によって、南東部にある欧州最大級の原発が攻撃され、占拠されました。欧州全体に深刻な汚染をもたらしかねない暴挙に、国際社会は非難の声を上げています。首都キエフでは住宅などへの空爆が継続。ロシアは攻撃の手を緩めていません。」(朝日新聞DIGITAL・2022年3月7日)

 「震災11年、亡くなった人の分まで 語り部、記憶と教訓を後世へ」(令和4年3月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 グーグルマップは北野天満宮の一の鳥居から真っ直ぐ南に伸びる御前通の一筋東の狭い通りを相合図子通と記しているが、昭文社の地図(2014年刊)では下ノ森通(しものもりどおり)となっている。下ノ森通という名はいまの上京警察署の辺りの門前一帯が下ノ森と呼ばれていたからで、かつてはその一条通から仁和寺街道の間を又之辻子、仁和寺街道から下長者町通の間を三太夫辻子、下長者町通から下立売通の間を藍屋辻子と呼ばれていたが、『京都坊目誌』は「藍屋辻子、北は一條に起り、南は下立賣通一町下るに至り、葛野郡界に接す。開通年月及び街名起原詳(つまびらか)ならず。一に相合ノ辻子に作る。」と云い、一条通から下立売通の先まで藍屋辻子で、この通りの一部は相合辻子であるとしている。藍屋辻子の謂(いわ)れは西に紙屋川の流れが近く、水を流す染物屋の名から来ているようであり、三太夫辻子は三太夫という名の知られた者が住んでいたのかもしれぬ。相合辻子の相合で思いつくのは相合傘である。鈴木春信に「雪中相合傘」と題する浮世絵がある。頭巾から着物まで黒ずくめの男と白ずくめの女が雪降る柳の傍らで斜めに差した一本の傘の下に身を寄せ合っている絵である。立本寺は「又之辻子」沿いにある寺であるが、この寺の墓地に灰屋紹益の墓がある。灰屋紹益は吉野太夫を身請けして評判をとった藍染用の紺灰を商う商人だった。灰屋紹益と吉野太夫の差す傘は、世を憚(はばか)らぬ相合傘である。「「赦す事はいい。実際それより仕方がない。……然(しか)し結局馬鹿を見たのは自分だけだ。」下の森から京電に乗る習慣で、その方へ行つたが、丁度北野天神の縁日で、その辺は大変な人出だつた。彼(時任謙作)は武徳殿の裏から終点の方へ行つた。然しそこも大変な人で、飴売り、風船売り、玩具屋、アイスクリーム屋などで馬場の方まで賑はつてゐた。覗絡繰(のぞきからくり)が幾つか鳥居の前の広場に並んでゐた。「八百屋お七」が「金色夜叉」や「不如帰(ほととぎす)」に更(かは)つてゐるだけで、人物の眼ばりをした緞帳くさい顔や泥絵具の毒々しい色彩まで、昔と少しも変らなかつた。彼は千本通から市電に乗るつもりで上七軒へ入つて行つた。「つまり、此記憶が何事もなかつたやうに二人の間で消えて行けば申分ない。━━自分だけが忘れられず、直子が忘れて了(しま)つて、━━忘れて了つたやうな顔をして、━━ゐられたら━━それでも自分は平気で居られるかしら?」今はそれでもいいやうに思へたが、実際自信は持てなかつた。お互いに忘れたやうな顔をしながら、憶ひ出してゐる場合を想像すると怖しい気もした。」(『暗夜行路 後篇』志賀直哉志賀直哉全集 第四巻』岩波書店1999年刊)志賀直哉は、下ノ森から真西へ五百メートル余のところに大正四年(1915)の一月から四月の間住んでいた。『暗夜行路』のこの場面は、時任謙作が用を足しに朝鮮に行っている間に、初めて産んだ子をひと月で亡くした妻直子が従兄と「間違い」を犯していたことを聞いた翌日の場面である。時任謙作は、己(おの)れの母方の祖父母が養父母の母をよく知る女の娘で幼馴染みだった愛子との結婚の意思を父親に伝えると、愛子は謙作の父親の仕事で通じた者のところへ忽(たちま)ち嫁にやらされ、謙作はそのことなどもあって尾道へ居場所を移し、今度はそれまで東京で一緒に暮らしていた祖父の妾だったお栄に、兄信行を通して結婚を申し込むが、お栄に断られる。その兄の手紙から謙作は、己れが祖父と母の間に出来た子であることを知るのである。その果てが謙作の京都行きであった。直子は府立医大に治療に来ていた叔父に付き添い、鴨川に架かる荒神橋の袂の宿に泊まっていた女で、謙作が河原から見かけ、一目惚れし、伝手をたどって手に入れたのである。「私、文学の事は何も存じませんのよ」と直子は云った。謙作は、「知らない方がいいんです」と応えるが、「寓居へ帰つて二人は暫く休んだ。直子は次の間の本棚を漁りながら、「どういふ御本を読んだら、よろしいの?」とまたこんな事を云つて居た。」(『暗夜行路 後篇』)二人は初めの住まいの南禅寺北の坊から衣笠村の新築二階建に移る。「彼は二階に書斎をきめた。机を据ゑた北窓から眺められる景色が彼を喜ばした。正面に丸く松の茂つた衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峯の一部が見えた。それから左に高い愛宕山、そして右に、一寸首を出せば薄く雲を頂く叡山が眺められるのである。彼はよく机に向つたまま、何も書かずにさふ云ふ景色を眺めて居た。」(『暗夜行路 後篇』)が、初めて産まれた子は丹毒が体中に回って死に、直子は従兄と「間違い」を犯してしまったのである。謙作は蟠(わだかま)りを失くすことが出来ず、直子にも後悔から先の為す術(すべ)がない。直子の再びの妊娠が分かった時、謙作はゾッとして自分の指を折ってみたのである。それで生まれた子は自分の子に違いないのであったが、心の収まりのつかない謙作は直子もその子も見捨てるように鳥取の大山に行き、寺の一間を借り、その生活に馴染んだある日御来光を拝む夜の登山に挑むのであるが、体調を崩して山腹で夜を明かし、「彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したような事を考へてゐた。彼は少しも死の恐怖を感じなかつた。然(しか)し、若し死ぬなら此儘(このまま)死んでも少しも憾(うら)むところはないと思つた。然し永遠に通ずるとは死ぬ事だといふ風にも考へてゐなかつた。」(『暗夜行路 後篇』)日が昇り目下の平地に出来た大山の影に感動して山を下りた謙作は正体を失くしたようにそのまま床に就き、寺が知らせた電報で直子が駆けつける。「(謙作が)大儀さうに、開いたままの片手を直子の膝のところに出したので、直子は急いで、それを両手で握締めたが、その手は変に冷めたく、かさかさしてゐた。」(『暗夜行路 後篇』)大山に来る前同じ床の中にいて謙作が直子の手を探した時、直子は応じなかったのであるが。『暗夜行路』に謙作と直子の相合傘の場面はないが、引っ越ししたての頃にはよく散歩をしたと書かれている二人は、下ノ森で雨に遭い、借りた傘に入って衣笠の家に帰り着くことがあったかもしれぬ。嵐電北野白梅町駅の南にあった志賀直哉の衣笠の住まいは、令和元年(2019)の八月まで人が住んでいたが、翌月取り壊され更地になった。東山低し春雨傘のうち 高濱年尾。春雨や何からいはむ嵯峨戻り 内藤丈草。

 「出口まで行けるだろう、遅かれ早かれ、もしわたしがそこに出口がある、どこかにあると言えれば、ほかの言葉はやってくるだろう、遅かれ早かれ、そして出口へ行くのに必要なもの。そしてわたしは出口へ行く、出口を通り過ぎる、そして空のさまざまな美しさを見る、そしてもう一度夜空の星を眺めるのだ。」(「反古草紙」サミュエル・ベケット 片山昇訳『ベケット短編集』白水社1972年)

 「賠償「実態に見合わず」 避難者集団訴訟東京電力の責任確定」(令和4年3月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 南で梅の花が咲く梅小路公園の北の隅にスケートリンクがある。大きさは縦五十メートル横十四メートルとある、四方をフェンスで囲っただけの野外のリンクである。平日の寒風の吹く午後に誰も滑っている者がいないのは、まだ開く時刻の二時になっていないからであるが、いまこの辺りを歩いているのは犬を連れた老人の夫婦らしき者と、よちよち歩きの着ぶくれの子と手をつないでいる若い男だけである。遠くの北の空に晴れ間があっても、真上にある日は暫く雲の陰になっていて、スケートリンクは工事の中断した空地の現場のように寒々しく佇んでいる。山口誓子に、スケートの紐むすぶ間も逸(はや)りつゝ、という世に知られた句があるが、「紐むすぶ間も逸りつゝ」はなるほどそうであると思わせるが故(ゆえ)に、こう詠んでしまえば平凡な歌謡の一節のようで俗な後味を免れない。スケート場沃度丁幾(ヨードチンキ)の壜がある。これは教科書で憶えた同じ誓子の句であるが、ものがあるだけの異様な詠みっぷりが忘れがたい。スケートの濡れ刃携え人妻よ 鷹羽狩行。俗の最たるような「人妻」という言葉は、作者が自分の妻をそう詠んだことで、俗であることから際どく免れている。作者はスケート場で息弾ませる妻の若さを改めて感じ、その女が自分の「人妻」であるということを誇らしく誰に恥じることなく詠んでいることがこの句の新鮮さであった。鳶の翼スケートの人ら遥か下に 渡辺水巴。この句のような野外のスケートリンクでは、このような光景もテレビのニュースで流れたりする。神官のスケート履きて湖祓ふ 須賀允子。マイケル・クレトウが率いるエニグマの曲、「ビヨンド・ジ・インビジブル」のミュージック・ヴィデオに印象深いスケートの場面があった。父親に叱られ家を飛び出した少女が森に迷い込み、そこでは若い男と女がそうしていなければ死んでしまうような切実さで舞うように樹の回りを滑っている。森には邪悪な森の精がいたり、何者とも分からぬ異星人のような者らもその二人の滑りを見守っている。少女は見てはいけない、そうであるが故に美しい二人の姿に目を奪われ、やがていまはまだ見ることの出来ない森の、心惹かれるその向こうへ異星の者に導かれ行く。二時を待つ梅小路公園スケートリンクには、屈んで靴紐を結んでいる者も人妻とその夫も神官も森の精も氷の精もいない。二時になってもこのまま打ち捨てられたようなままであるのかもしれぬ。が、管理者の手を煩わせることなく氷は今日の寒さに氷でいることを保ち続けるには違いない。

 「そのヒトが私の家へきたのは日曜日のしずかな午後だった。梅の花が咲いていた頃だから二月のはじめだったろう、陽ざしが強く暖かい日で私は退屈していて外にいたから玄関の前で顔を合わせてしまった。「そこの工場へ出稼ぎに来ている者です。用事があるのではないのですが」というような挨拶を言っている。東北なまりの発音で、だいたいの意味はわかるが、東北弁の丸だしをきくと、はじめて逢ったヒトだがなんとなく安心した。」(「みちのくの人形たち」深沢七郎『みちのくの人形たち』中央公論社1980年)

 「「3.11クロック」震災4000日の節目刻む 三春・コミュタン福島」(令和4年2月22日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 猫の子にかがみて諭(さと)す京言葉 中戸川朝人。猫は年中子を産むが、俳句では「猫の子」は春の季語ということになっている。わざわざ「京言葉」と詠む作者は、恐らく京都の者ではなく、京都に生まれ育った者にとっては普段自分が使っている言葉以外はすべて方言であるから、あえて京言葉と云うことはしない。さて、この猫の子はどんな京言葉で諭されたのであろうか。たとえば『京ことば辞典』(東京堂出版1992年刊)にはこのようなもの云いの例が載っている。「きょうはオシトがみえてるし、静かにオシヤ」京都より妹来てゐる春炬燵(はるごたつ) 山田弘子。句をそのままに読めば、作者と妹はいまは別々に暮らしていて、この日京都にいる妹が姉の家に来ていて炬燵にあたっている。作者の山田弘子は兵庫の出身ということであるが、たとえば姉は実家を継ぎ、妹は京都に嫁いでいて、この日妹は姉のいる実家に帰って来ているのではあるが、「京都より」「来てゐる」という云いは妹が客として来ているという改まった感じがある。妹の方はどうかと云えば、京都の商家あたりに嫁いで久しい証拠として京言葉をしゃべれば、そこにはどことなく「京都」が漂う。時は、まだ炬燵のとれない春のある日である。ここが兵庫で姉妹二人の実家であれば、妹はこの正月にも家族を伴って挨拶に来ていたかもしれぬ。が、いまは妹はひとりで来ているのである。春炬燵とはそのような時期の炬燵である。妹は遊びで来たのではない。正月の時には出来なかった姉に相談事があったのである。それは夫の事か金か子どもの事であるかもしれぬ。が、妹は肝心なことは何も話さず、出された茶を飲み、炬燵を出て姉に暇(いとま)を告げる。妹が姉に沈むような暗い思いを齎(もたら)さないのが春炬燵であろう。が、心配になった姉は後日、京都の妹のところを訪ねる。妹には遅く出来た幼い子どもがいる。妹が襖の陰で子どもにこう云っている声が聞こえて来る。「きょうはオシトがみえてるし、静かにオシヤ」。

 「とにかくこの雰囲気にうながされて彼は語り出したのですが、後で分かったところによると、それは今話せば効果的だと判断したからではなく、心の中の幸福感がいっぱい過ぎて、思わず外にあふれ出てしまったということだったらしく、その点にわたしは注目しました。つまり、これ以黙っていられなくなってしまったのです。」(「モード・イーヴリン」ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳『嘘つき』福武文庫1989年)

 「大熊「戻りたい」3.5ポイント増 復興庁、住民の意向調査」(令和4年2月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 結核に罹り昭和二十二年(1947)に三十三歳で亡くなる流行作家織田作之助がその前の年、京都日日新聞に「それでも私は行く」という奇妙な題の小説を連載している。その書き出しはこうである。「先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人なら誰でも知っていよう。しかし、なぜその町━━四条大橋の西詰を鴨川に沿うてはいるその細長い路地を先斗町とよぶのだろうか。「ポントというのはポルトガル語で港のことだ。つまり鴨川の港という意味でつけた名だと思う」とある人が説明すると、「いや、先斗町は鴨川と高瀬川にはさまれた堤だ。堤は鼓だ、堤の川(皮)はポント打つ。それで先斗町という名が出たのだろう。小唄にも(鼓をポント打ちゃ先斗町)とあるよ」と乙な異説を持ち出す人もある。鼓がポンと鳴れば、やがて鴨川踊だ、三階がキャバレエ「鴨川」になっている歌舞練場では三年振りに復活する鴨川踊の稽古がそろそろはじまっていた。「君の家」の君勇は稽古に出掛けようとして、「…通り馴れたる細路を…」と昔、はやったが今はもう時代おくれになってしまっている鴨川小唄の一節を、ふと口ずさみながら、屋形の玄関をガラリとあけて出た途端、「あらー」と、立ちすくんだ。路地の奥から出て来た、まだうら若い美貌の学生の姿を見つけたのだ。」(『定本織田作之助全集 第六巻』文泉堂出版1976年刊)織田作之助先斗町界隈を舞台にした軽薄なドタバタ小説をこのようにはじめているのであるが、ここにあるように先斗町は通り一帯の名で先斗町という町名はない。安永九年(1780)に出た『都名所図会』には次のように記されている。「先斗町は鴨川の西岸、三条の南なり。川辺には水楼の如く軒端をつらね、坐(ゐながら)にして洛東の風景を賞し、酣歌の英客(かんかのえいかく、酒を飲み上機嫌で歌う人)こゝに群す。」角川書店版『都名所図会』の校注者竹村俊則はその注にこう書いている。「先斗町とは北は三条通の一筋南より、南は四条通まで、東は鴨川に臨み、西は高瀬川に沿うた木屋町通の間をいう。南北五〇〇メートル、東西五〇メートル余の細長い街衢(がいく、まち)で、京都市内の花街の一つである。もとこの地は鴨川の洲であったが、寛文十年(1670)に護岸工事を行なって、石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ち始めたが、それらはすべて川原に臨む片側のみで、あたかも先ばかりあったから先斗町と呼ばれたという。一説に先斗はポルトガル語のポント、英語のポイントにあたり、いずれも先を意味する。この地があたかも川原の崎であったから、その頃世上に流行した「うんすんかるた」などによってかかる外来語をもじったのだろうともいわれ、諸説あって明らかでない。因みにこの地に水茶屋がはじめて設けられたのは正徳二年(1712)のごろで、次いで文化十年(1813)に芸妓渡世が認められた。爾来幾多の変遷を見て今日に至っている。」(『新版都名所図会』角川書店1976年刊)この「幾多の変遷」を、大正四年(1915)に出た『京都坊目誌』はやや詳しく記している。「先斗町遊郭 地は鴨川護岸に沿ふて、新河原町通三條一筋以南に起り、橋下町、若松町、梅ノ木町、松本町、鍋屋町、柏屋町、材木町、下樵木町の數町より成立し、第十四學區西石垣通、四條下る齋藤町を加へて一郭たり。始め寛文十年(1670)の秋、鴨川沿岸磧地を開き、石垣を築く。延寶二年(1674)二月、建家設置を許可す(所司代戸田越前守、町奉行前田安藝守たり)、僅かに五戸を建築し、同年八月に至り、漸次家屋立連ね、繁昌日に增す。正徳二年(1712)五月、生洲株を差許し、三條より四條迄、茶屋株、旅籠屋株を許し、茶立女を置くことを免す。文化十年(1813)以來許可を得て、藝子取扱を開始す。是より公然の遊郭となる。同十一年十一月、宮川筋六町目旅籠屋株のもの、鍋屋町町尻を借受け、先斗町通に始めて格子附渡世を爲す。天保十三年(1842)幕府改革に際し、當町水茶屋、藝者渡世等を禁止す。安政六年(1859)六月、ニ條新地より此地に移住し、遊女渡世を許され、慶應三年(1867)九月、冥加金(みょうがきん)上納の故を以て、祇園町と同じく、無年限に許可地と爲す。維新に際し多少盛衰ありしも、今尚繁華の遊里と爲り、四時遊人日夜に跡を絶たず。其鴨川に面する地所は槪ね官有に係り年限を定め借用許す。明治七年(1874)郭内に女紅場を設け、婦女子に必要なる教育を藝娼妓に施し、又歌舞練場を置き舞技音曲を研究せしめ、春季は鴨川踊を催し秋季には温習會を開き以て京觀を添へり。郭内に五業組合事務所の設けあり。是明治十九年(1886)七月府令に基き、前記の九箇町を區域とし、事務を取扱へるものたり。近年歌舞練場を改築して名を翠紅館と附し時々餘興を開催す。」平成二十七年(2015)杉本重雄が自費出版した『先斗町地名考』は、先斗町という名の謂れに一つの決着をつけた。竹村俊則のいう「その頃世上に流行した「うんすんかるた」によってかかる外来語をもじったものだろうともいわれ」る説を、トランプ賭博で真っ先に金を賭けるポルトガル語の賭博用語「ポント」であると特定し、鴨川に突き出た(先)面積の小さい(斗)花街を洒落てポントと呼び「先斗」と字を当てたと結論をつけた。昭和三十四年(1959)発行の朝日新聞社京都支局編『カメラ京ある記』にボードビリアンのトニー・谷が一文を寄せている。「この町をつらぬく道はカサをさしたままではすれ違えぬほどにせまい。往来する芸者と、カサをかたむけ合って通り抜けるのもここならではの風情だろう。━━昭和の初めごろは、お茶屋は百五十軒もあったそうだが、年々減る一方で、いまは七十軒。べにがら格子の町並に、歯がぬけたようにバーや喫茶店がふえている。先斗町お茶屋組合の谷口さださんは「お茶屋はもう古おす。新しいことを考えんとあきまへん」という。この町は、祇園のかげに隠れて目立たぬようだ。映画にもほとんど登場してないし観光客にも、祇園ほど花やかな名を売っていない。祇園が格式の上にあぐらをかいて保守的なのに比べ、先斗町は新しいものを大胆にとり入れようと試みる。」(『カメラ京ある記』淡交新社1959年刊)昭和三十九年(1964)東京オリンピックのこの年に、和田弘とマヒナスターズの「お座敷小唄」が流行った。「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変りはないじゃなし、溶けて流れりゃみな同じ」広島流川のスタンドバーにいたホステスが唄っていた元歌は「雪に変りがあるじゃなし」であったという。飲食店風俗店の並ぶ繁華な木屋町通の裏道の如く肩身を寄せ合う今日の先斗町お茶屋は三十軒足らずで、舞妓は十名足らずである。鴨川に出れば、見えるのはその並ぶ店々の裏側であるが、鴨川から流れを引いた禊川(みそぎがわ)の上に夏は床を建てる東に向いた開き窓で、昼近い日の射す河原にいま、その並びの一つから三味線の音が響いている。行きつ戻りつする同じその弾き音は、舞妓かあるいは芸妓の今夜の準備の音である。三味線に千鳥鳴く夜や先斗町 正岡子規。軒に灯る提灯の先斗町の紋章の飛ぶ鳥と底に引いた三本線は、千鳥と鴨川、禊川、高瀬川である。が、木屋町通三条下ルの瑞泉寺にこのように記した「千鳥碑」がある。「鴨川流域に棲息し清楚な姿と可憐な声は遊子都人に愛され、詩歌に俳諧に、又、画材ともなって名鳥の聞こえが高かったが、近来都塵に絶えて見ることを得なくなった。云々 昭和四十二年仲秋」

 「そして、その狭い薄明の空間が上方から閉じられくる瞬時のまた瞬時といえるほどの極微な時間のなかで、「立ちどまれ、瞬間よ!」と念じながら、まさに自己の思いいだくひとつの想念を紋章をつけた楯のごとくにさつとつき出すことこそ、私の意志によつて見られるところの夢の出発にほかならないが、その出発点は、さながら深い海中から手をあげ、水面の上にやや高くつきだしながら、素早く曲げた指のかたちで暗い海面の向う側にいる何者かにサインするさまにも似ているのだ。」(「暗黒の夢」埴谷雄高『闇のなかの黒い馬』河出文藝選書1975年)

デブリ可能性の堆積物 福島第1原発1号機、圧力容器下部に塊」(令和4年2月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)