例えば河原町通を下って七条通の手前、整然と幾重にも瓦を埋め込んだ築地塀の上に群がる竹が目に入れば、そこが渉成園(しょうせいえん)である。北は上数珠屋町通、南は下数珠屋町通、西を間之町通に囲まれ、さらに西へ東洞院通烏丸通を越えればこの渉成園の持ち主である親鸞が創始の浄土真宗東本願寺である。渉成園、別名枳殻邸(きこくてい)については2017年9月12日にこのように記した。「織田信長と十一年の間、大坂石山寺で戦った武装教団真宗本願寺は、紀伊鷺森、和泉貝塚、大坂天満と居場所を移し、信長の死後、豊臣秀吉に己(おの)れの目の届く京都七条堀川に移転させられる。信長との和議に応じた十一代宗主顕如の死後を継いだ嫡男教如が、その繼職の顕如の讓状を巡って秀吉と揉め、僅か一年後に顕如の弟准如に宗主を譲り、隠居の命に応じたのであるが、秀吉の死後、徳川家康教如の持つ勢力を見逃さず、七条烏丸に広大な地を与え、よって本願寺は東西に二分してしまう。その政治によって分裂したまま今日に至る巨大な仏教集団の姿は、それを俯瞰して見れば、背を向け合う双子のように奇妙な姿である。浄土教信者徳川家康は、東山の知恩院香華院(ごうげいん)として大伽藍に変貌させ、側近に天台宗南光坊天海、臨済宗の最高位南禅寺以心崇伝(いしんすうでん)を持っていて、法華経信徒の衰えた京都の大寺(おおでら)仏教のすべては、徳川幕府の手の内にあった。寛永十八年(1641)その分派に手を貸した東本願寺から地面の拡張を請われ、三代家光は、東西一九四間、南北二九七間の土地を寄進する。これは云うまでもなく東本願寺の力を示すものである。寛永九年(1632)に出た末寺帖令に従った東本願寺は幕府の手の内にあってなお、積み上げた末寺の数の力を家光に示したのである。その本願寺の二町東、寄進地の百閒四方が十三代宣如が隠居所とした渉成園である。」この時は、舟を浮かべて茶席に向かったという印月池(いんげつち)と名づけられた池に架かる反り橋の工事のため一滴の水もなかったが、「この日」は底の泥を見透かす水を湛えていた。京都に在った「この日」の夏目漱石の明治四十年(1907)四月四日(木)の日記のようなメモにこのような記述がある。「東本願寺 台所 枳殻邸 渉成園 嗽枕居 双梅居 印月池 傍花閣 丹楓渓 滴翠軒 臨池亭 廻棹廊 紫藤岸 五松塢 縮遠亭 臥龍堂」案内図から拾い書きしたような書き振りで、そこには何の感慨も感想も綴られていない。桜はすでに散っていたのであろうか、枳殻(カラタチ)が咲くにはまだ早く、ツツジにも早く葉の繁りも覚束ない梅や桜に色づきもこれからの松の木立ちで、ここに書き並べた茶室などのほとんどが明治十七年(1884)の再建であれば漱石の目にどのように映ったのであろう。一月末の渉成園をあらためて辿っていけば、まだ蕾の小ぶりの白梅が並ぶ塀の裏の細道を抜け屋根を高く上げた門を潜れば目の高さの上に丈を揃えた生垣の内が隠居所から接待の場に様変わりしたことが分かる池に脚を浸した畳広間の臨池亭(りんちてい)と滴翠軒(てきすいけん)で、この名前のない池からいまはまだ裸の幾本もの桜の植わる間を小流れが広い印月池に注いでいて、この桜を見るための階段を犬の耳のように二階の両側から垂らした傍花閣(ぼうかかく)があり、桜が咲いていればその「桜の園」を抜ければ目の前に印月池が現れるのである。印月池には二つの中島があり、その大きな島の土に埋もれかけた石段を上った高みの「小さな」崖に建つのが茶室縮遠亭(しゅくえんてい)であり、モミジや松や低く刈り込まれたツツジが植わり、所々の置かれた石や小岩は目に険しさを思わせる。山間(やまあい)のような険しさは池の淵の丹楓渓(たんぷうけい)にも作られていて、樹の枝の撓みかかるこの「渓」の小径を伝って島へ反り橋で渡り、もう一つの橋、唐破風屋根を中に掲げた回棹廊(かいとうろう)で向こう岸に辿り着く。園の西側の岸は芝地が広がっている。ここに立つまでの間、禅寺に見る波を描いた白砂も苔の上の静謐もなく、岸辺から見渡す築地塀の立つ東と南の内にはビルを隠すには低い竹や樹木が立ち並び、ひそやかに園を包んでいる。日が当たりおおらかな気分にさせるいまは枯れ芝の、その奥に控えている建物群がどれも華美を削ぎ落した簡素な大書院閬風亭(ろうふうてい)とそれに続く、漱石は目にしなかった昭和三十二年(1957)再建の蘆菴(ろあん)、偶仙楼(ぐうせんろう)、園林堂(おんりんどう)であり、前回はこの蘆菴の二階に上がり、その窓辺で昭和三十二年の風を感じたのであるが、「この日」は公開されておらず、阿弥陀如来像を安置する持仏堂、園林堂が公開されていた。この園林堂に足を踏み入れる前に渉成園(しょうせいえん)の名の謂れを改めて「ひも解け」ば、その名は陶淵明の「帰去来辞(ききょらいのじ)」の一節から採られていて、その詩はこのような出だしで始まる。「序 余家貧にして、耕稙するも以て自ら給するに足らず。幼稚室に盈(み)ち、瓶に儲粟無く、生生資する所、まだ其の術を見ず。親故多く、余に長吏為らんことを勧む。脱然として懐(おも)ひ有るも、之を求むるに途靡(な)し。会(たまた)ま四方の事有り、諸候恵愛を以て徳と為す。家叔余の貧苦なるを以て、遂に小邑(しょうゆう)に用ゐらる。時に於いて風波未だ静かならず、心遠役を憚る。彭沢は家を去ること百里、公田の利は以て酒と為すに足れり。少日に及びて、眷然(けんぜん)として帰らん歟(か)の情有り。何となれば則ち、質性の自然は矯励の得る所に非ず。饑凍(きとう)切なると雖(いへど)も己(おのれ)に違(たが)はば交(こも)ごも病む。嘗(かつ)て人事に従ひしは、皆な口腹に自ら役せらる。是(ここ)に於いて悵然(ちょうぜん)として慷慨(こうがい)し、深く平生の志に愧(は)づ。猶(な)ほ一稔(いちじん)を望む、当(まさ)に裳を斂(おさ)め、宵に赴くべきを。尋(つい)で程氏の妹武昌に喪(そう)す。情は駿奔(しゅんぽん)に在りて、自ら免じて職を去る。仲秋より冬に至るまで、官に在ること八十余日。事に因(よ)りて心に順(したが)ふ。篇を命じて「帰去来兮(ききょらいけい)」と曰(い)ふ。乙巳(きのとみ)の歳、十一月なり。帰去来兮(かえりなんいざ) 田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる 既に自ら心を以て形の役(えき)と為す 奚(なん)惆悵(ちゅうちょう)として独り悲しむや 已往(きおう)の諫(いさ)むまじきを悟り 来者の追ふ可(べ)きを知る 実に途(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からず 今の是(ぜ)にして昨(さく)の非なるを覚(さと)りぬ 舟は遙遥として以て軽く上がり 風は飄飄(ひょうひょう)として衣を吹く 征夫(せいふ)に問ふに前路を以てし 晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む 乃(すなは)ち衡宇(こうう)を瞻(め)て 載(すなは)ち欣(よろこ)び載(すなは)ち奔(はし)る 僮僕(どうぼく)は歓び迎へ 稚子門に候(ま)つ 三経は荒(こう)に就き 松菊は猶(な)ほ存せり 幼を携へて室に入れば 酒有て樽に盈(み)てり 壺觴(こしょう)を引いて以て自ら酌(く)み 庭柯(ていか)を眄(み)て以て顔を怡(よろこ)ばしむ 南窓に倚(よ)りて以て寄傲(きごう)し 膝を容(い)るるの安じ易(やす)きを審(つまびら)かにす 園は日に(わた)りて以て趣をし 門は設(もう)くと雖(いへど)も常に関(とざ)せり 策(つえ)もて老を扶(たす)けて以て流憩(りうけい)し 時に首(かうべ)を矯(あ)げて游観(ゆうかん)す 雲は心無くして以て岫(しゆう)を出で 鳥は飛ぶに倦(あ)きて還るを知る 景(かげ)は翳翳(えいえい)として以て将(まさ)に入らんとして 孤松を撫でて盤桓(ばんかん)す」私の家は貧しく、田畑を耕しても生活は厳しかった。幼い子どもが家にたくさんいてろくな蓄えもなく、生きてゆくためにこれ以上どうしたらいいのか、もはやどうするすべもなかった。親戚の多くは心配して、私に官吏になることを勧めてくれ、私も決心して仕官の口を捜したのだが、何の当てもなかった。そうこうしていると、世の中が争いごとで落ち着かなくなり諸侯は良い人材に目を掛けるのが己(おの)れの人徳と考えていた。そこで私の貧苦を見兼ねたある叔父が小さな町の役人の勤めに私を口添えしてくれたのである。が、世の中はごたごたしていて落ち着かず、遠い所で役人になる事に躊躇いがあった。その彭沢という所は実家から百里もあるが、支給の田から酒にする分の米も穫れるというので結局仕官することに決めたのである。が、仕官してほんの数日を過ごしただけではっと我に返ったように、私は無性に家に帰りたくたってしまったのだ。どうしてかと云えば、その理由は、私の生まれつきというか身に備わったものであって、後々それを変えることなど出来ないのある。たとえ飢えてもたとえ寒さが厳しくても、身に沿わないことをしていればその仕事もうまくいかないし、しまいには自分も病んでしまう。要は私が人に仕えて来たのは喰うためだったのであるが、いまに至れば情けない思いで胸が詰まり、それまで押し通して来た自分の志からすれば恥じ入るばかりだ。これからやって来る秋の稔りの時期が過ぎたら官服の裾をからげ、とっとと夜逃げでもしたい気分だ。そこへ程氏に嫁いだ妹が武昌で死んで葬儀があったというではないか。私はいますぐ飛んでい行きたい気持ちになって、とうとう自ら官職を辞してしまった。ああ、仲秋から冬までの八十日余よ。私がこうなったのも私の心に従ったまでのことである。これから書く詩を「帰去来兮(かえりなんいざ)」としよう。乙巳(きのとみ)の年の十一月。さあ、帰ろう。故郷の田畑が荒れ果てようとしているのに帰らずにいられようか。いまのいままで目をつぶってきたが、もうくよくよしてもいられない。これまでしたことの過ちを自ら認め、これからすべきことを考える。どうしてよいか迷うほど道を大きく逸れてしまったわけではない。いまの考えを「良し」とし、昨日までの考えを誤りと見なせばよいだけだ。舟が水の上で緩やかに上下に揺れ、風がひゅうひゅうと衣の裾を揺らしていく。行き会わせた旅人に故郷までの道のりを尋ねたが、朝の光はまだ薄暗く見通せないのが残念だ。そしてようやく、我が家の門や屋根が遠くに見えてきて、思わず喜び走り出した。召使いが嬉しそうに私を迎えてくれ、幼子たちは門の前で待っている。庭は荒れかけた様子だが、松や菊はまだまだ大丈夫だ。幼子を抱いて家の中に入ると、樽になみなみと酒が。さっそく徳利と盃を手前に引き寄せ、自分で注いで一口呑み、庭の木を眺めれば、顔がひとりでに綻んでしまう。南の窓辺に凭(もた)れてくつろいでいると、折った膝しか入らないような狭い我が家だからこそ本当に落ち着くのだと思う。それから庭は日ましに味わい深くなり、門を閉ざし、世間との交わりを絶ってしまうまでになった。老いた我が身を杖の助けを借りて歩き回っておもむくままに足を止め、思い出したように顔を上げて景色を眺める。雲は自然のままに山の峰の間から湧き立ち、鳥は飛ぶのに飽きれば塒(ねぐら)に帰っていく。辺りがだんだん暗くなり日が暮れかかってゆくそんな時、私はいつも一本松を撫でながら立ち去りがたい。公開された園林堂の六畳の仏間の内と外四十四面の襖は棟方志功の絵である。「天に伸ぶ杉木」「河畔の呼吸」と題され昭和三十三年(1958)十一月と記されている。大きく斜めに貫いた幹と隣り合う丸い幹はどちらも杉の大木を表し、外の襖の筆をぐずぐず丸めた如くに散らばっているのは牡丹で、薄青く揺れた線を挟んで浮いているのが太陽と月である。これらはすべて猛烈な勢いで描かれたことを感じさせ、寒い畳部屋で目を見張りつつ思うのは、風の如くに描いて立ち去った棟方志功の後ろ姿である。炉辺にある「家の光」の二月号 遠藤梧逸。

 「王となるか、王におつきの使者となるか、選択を申し渡されたとき、子供の流儀でみながいっせいに使者を志願した。そのため使者ばかりが世界中を駆けめぐり、いまや王がいないため、およそ無意味になってしまったおふれを、たがいに叫びたてている。だれもがこの惨(みじ)めな生活に終止符をうちたいのだが、使者の誓約があってどうにもならない。」(「アフォリズム集成」フランツ・カフカ 池内紀訳『カフカ小説選集6』白水社2002年)

 「原発の町・志賀「福島のこと、頭よぎった」 能登半島地震ルポ」(令和6年2月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 

 

 一月二十五日の朝、京都も「雪化粧」するほどの雪が降った。蕪村に「宿かせと刀投出す雪吹哉(ふぶきかな)」という印象深い句があるが、芭蕉が詠んだ「雪」の句はどうであろう。「はつゆきや幸(さいはひ)庵にまかりある」待ちに待った初雪を己(おの)れの庵で見ることができた喜び。「初雪や水仙のはのたはむまで」「時雨をやもどかしがりて松の雪」もどかしい思いで見ていた時雨が漸(ようや)く雪となった思い。「しほれふすや世はさかさまの雪の竹」子に先立たれた知り合いに宛てて詠んだ句。「霰まじる帷子(かたびら)雪はこもんかな」ひらひら降ってくる雪が布地の小紋の模様のようだ。「今朝の雪根深を薗の枝折哉」葱が雪表の道案内。「黒森をなにといふともけさの雪」「山は猫ねぶりていくや雪のひま」この二句は「陸奥名所句合」にあり、白と黒の取り合わせの黒森は山形、猫は磐梯山猫魔ヶ岳をいい、雪を舐めて融かしたと詠う。「箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪」「磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花」「ためつけて雪見にまかるかみこ哉」紙衣の皺を伸ばしていざ雪見に出かけよう。「いざさらば雪見にころぶ所迄」その辺りまでの雪見を浮き浮きした気持ちで大袈裟にこう云ったのである。「波の花と雪もや水にかえり花」「富士の雪廬生(ろせい)の夢をつかせたり」中国唐の生きる目的を失った廬生が邯鄲で枕を借りて見た栄華の夢の、続きのような富士山だ。「一尾根はしぐるゝ雲かふじのゆき」「雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛得タリ」端書に、富者は肉を喰い体の丈夫な者は菜根を喰うが私はひとり貧しい暮らしをしていて、とある。干鮭を嚙み切って喰う芭蕉の生きながらえている思い。「夜着(よぎ)は重し呉天に雪を見るあらん」中国宋の閩(びん)僧可士の「笠は重し呉天の雪、鞋(くつ)は香ばし楚地の花」の詩を踏まえた句。「冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす」冬牡丹を目にしながら耳にした千鳥の声はさながら雪の季節のホトトギスのようだ。「馬をさへながむる雪の朝哉(あしたかな)」端書に、旅人をみる、とあり、その主(あるじ)を乗せる馬にまでしみじみ心を寄せている。「市人よ此笠うらう雪の傘」被っている笠を雪がつもったままこの市で売ったら売れるであろうか。「雪と雪今宵師走の名月歟(か)」仲違いの仲裁をした時の句であるという。「雪の中は昼顔かれぬ日影哉」昼顔が日光を浴びたように雪の中で咲き誇っているという芭蕉の想像世界。「きみ火をたけよき物見せん雪まろげ」寒い日に訪れた友よ、炉の火を熱くしてあたっていてくれ、私はその間外に出て雪を丸めて大きくしてみせるから。「酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪」いとゞはますます。「京まではまだ半空や雪の雲」「ゆきや砂むまより落て酒の酔」落馬して雪まみれ砂まきれになった酔っ払い。「二人見し雪は今年も降(ふり)けるか」「米買に雪の袋や投頭巾」入れ物の袋を頭巾のように被って雪の中米を買いに行くのだ。「たはみては雪まつ竹のけしきかな」「ひごろにくき烏も雪の朝哉(あしたかな)」「少将のあまの咄(はなし)や志賀の雪」端書に、智月といふ老尼のすみかを尋ねて、とある。中宮少将は後堀河天皇に仕えた藤原信実の女(むすめ)、歌人。「雪ちるや穂屋(ほや)の薄の刈残し」穂屋は諏訪の収穫祭の薄で出来た仮小屋。蕭条たる景色。「貴(たふと)さや雪降(ふら)ぬ日も蓑と笠」年中蓑と笠を身につけていたという小野小町の晩年の姿。「比良みかみ雪指(さ)シわたせ鷺の橋」琵琶湖を挟んだ比良山と三上山の間を飛ぶ鷺に雪の橋を見た。「雪をまつ上戸(じょうご)の顔やいなびかり」嬉しそうな酒飲みの顔が雷に驚き皆笑う。「初雪やかけかゝりたる橋の上」端書に、深河大橋半(なかば)かゝりける比(ころ)とある。「庭はきて雪をわするゝはゝきかな」庭を掃いて雪を忘れる箒かな。箒を手にしているのは「寒山拾得」の寒山、その箒はもうそこに雪があったことを覚えていない、あるいは雪のことなどもはやどうでもいい。この四十句が芭蕉の詠んだ「雪」の句のすべてである。どこかもの足らぬものがあるのは、芭蕉ですら「雪」を詠み得なかったということか。ちなみに芭蕉の弟子とその頃の「雪」の句はこのようなものである。さればこそ夜着重ねしが今朝の雪 伊藤信徳。薄雪の笹にすがりて雫かな 夏目成美。ながながと川一筋や雪の原 野沢凡兆。はつゆきや雀の扶持の小土器(こかわらけ) 宝井其角。初雪やしぐれの雲の古ふなる 横井也有。初雪や稲の古株一つづゝ 小菅蒼狐。狼の声そろふなり雪のくれ 内藤丈草。馬の尾に雪の花散る山路かな 各務支考。足元も遠山も見よ雪の松 天野桃隣。つめたきは目の外にあり今朝の雪 千代女。うつくしき日和(ひより)になりぬ雪のうへ 炭太祇。遥かなる火にあたりけり夜の雪 大島蓼太。青雲や大虚に雪の降(ふり)のこり 加藤暁台。そして時下れば、雪に来て美事な鳥のだまり居る 原石鼎。下京や風花遊ぶ鼻の先 沢木欣一。犬を呼ぶ女の口笛雪降り出す 西東三鬼。地の涯(はて)に倖(しあわ)せありと来しが雪 細谷源二。

 「もう日は暮れかかっていたが、ついでのことに私は大覚寺まで足をのばした。お寺は既にしまっていたが、白壁の塀にそって右手へ廻ると、「大沢の池」のほとりへ出る。久しぶりに見る大沢の池は、夕靄の中にしっとりと静まって、北嵯峨の山々が夢のように浮び、平安期の雰囲気を満喫させてくれる。」(『西行白洲正子 新潮文庫1988年)

 「デブリ採取、年度内の着手断念 取り出し方法変更で3度目の延期」(令和6年1月26日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵐山、広沢池と京都府立植物園


 

 『大鏡』は「さいつころ(先だって)雲林院の菩提講にまうでて侍りしかば(聴聞に参った時)、例人(普通の人)よりはこよなう(格段に)年老い、うたてげなる(薄気味悪いような)おきな二人、おうなといきあひて、同じ所に居ぬめり(座が定まった)。「あはれに(まったくもって)同じやうなる者のさまなる」と見侍りしに、これらうち笑ひ見かはして言ふやう、」と、百九十歳の大宅世継と百八十歳の夏山繁樹が嘉祥三年(880)から万寿二年(1025)までの宮廷における藤原家の華々しい歴史を語り交わすのであるが、その舞台となったいまの紫野大徳寺の辺りにあったという雲林院の菩提講には「それなり」の理由があるのであろう。大寺あるいは桜の名所として名の通っていた雲林院は、五十代桓武天皇の第七皇子五十三代淳和天皇の洛北田園地にあった離宮が時経て、桓武天皇の孫僧正遍照が寺としたものであり『源氏物語』にも登場し、菩提講は毎年五月に極楽浄土を求め一切衆生の救済を説く「法華経」を講説・讃嘆する法会であったという。『宇治拾遺物語』にこのような話がある。この菩提講を聴くためひとりの女が雲林院に向かって西大宮大路を歩いていると━━。「この近くのことなるべし。女ありけり。雲林院の菩提講に、大宮を上りに参りけるほどに、西院の辺近くなりて、石橋ありけり。水のほとりを、二十あまり、三十ばかりの女房、中結ひて歩みゆくが、石橋を踏み返して過ぎぬるあとに、踏み返されたる橋の下に、斑なる小蛇(こくちなは)の、きりきりとしてゐたれば、石の下に蛇のありけると見るほどに、この踏み返したる女のしりに立ちて、ゆらゆらとこの蛇のゆけば、しりなる女の見るに、あやしくて、いかに思ひて行くにかあらん、踏み出されたるを、あしと思ひて、それが報答せんと思ふにや、これがせんやう見むとて、しりに立ちて行くに、この女、時々は見返りなどすれども、わが供に、蛇のあるとも知らぬげなり。また、同じやうに行く人あれども、蛇の、女に具して行くを、見つけ言ふ人もなし。ただ、最初見つけつる女の目にのみ見えければ、これがしなさんやう見んと思ひて、この女のしりを離れず歩み行くほどに、雲林院に参りつきぬ。寺の板敷に上りて、この女ゐぬれば、この蛇も上りて、傍にわだかまり伏したれど、これを見つけ騒ぐ人なし。希有のわざかなと、目を放たず見るほどに、講果てぬれば、女、立ち出づるに従ひて、蛇も続きて出でぬ。この女、これがしなさんやう見んとて、しりに立ちて、京ざまに出でぬ。下ざまに行きとまりて家あり、その家に入れば、蛇の具して入りぬ。これぞこれが家なりけると思ふに、昼はする方もなきなめり、夜こそ、とかくすることもあらんずらめ、これが夜の有様を見ばやと思ふに、見るべきやうもなければ、その家に歩み寄りて、「田舎より上る人の、行き泊るべき所も候はぬを、今宵ばかり宿させ給ひなんや」と言へば、この蛇のつきたる女を、家主と思ふに、「ここに宿り給ふ人あり」と言へば、老いたる女出で来て、「誰かのたまふぞ」と言へば、これぞ家主なりけると思ひて、「今宵ばかり、宿借り申すなり」と言ふ。「よく侍りなん。入りておはせ」と言ふ。嬉しと思ひて、入りて見れば、板敷のあるに上りて、この女ゐたり。蛇は、板敷の下(しも)に、柱のもとにわだかまりてあり。目をつけて見れば、この女をまもりあげて、この蛇はゐたり。蛇つきたる女、「殿にあるやうは」など、物語しゐたり。宮仕へする者なりとみる。かかるほどに、日ただ暮れに暮れて、暗くなりぬれば、蛇の有様を見るべきやうもなくて、この家主とおぼゆる女にいふやう、「かく宿させ給へるかはりに、麻(ま)やある、積(う)みて奉らん。火ともし給へ」と言へば、「嬉しくのたまひたり」とて、火ともしつ。麻取り出して、あづけたれば、それを積みつつ見れば、この女臥しぬめり。今や寄らんと見れども、近くは寄らず。この事、やがても告げばやと思へども、告げたらば、わがためもあしくやあらんと思ひて、ものも言はで、しなさんやう見んとて、夜中の過ぐるまでまもりゐたれども、つひに見ゆる方もなきほどに、火消えぬれば、この女も寝ぬ。明けてのち、いかがあらんと思ひて、惑ひ起きて見れば、この女、よきほどに寝起きて、ともかくもなげにて、家主と覚ゆる女に言ふやう、「今宵、夢をこそ見つれ」と言へば、「いかに見給へるぞ」と問へば、「この寝たる枕上に、人のゐると思ひて見れば、腰より上は人にて、下は蛇なる女の、清げなるがゐて言ふやう、『おのれは、人を恨めしと思ひしほどに、かく蛇の身を受けて、石橋の下に、多くの年を過して、わびしと思ひゐたるほどに、昨日、おのれが重しの石を踏み返し給ひしに助けられて、石のその苦をまぬかれて、嬉しと思ひ給へしかば、この人のおはしつかん所を見おき奉りて、よろこびも申さむと思ひて、御供に参りしほどに、菩提講の庭に参り給ひければ、その御供に参りたるによりて、あひがたき法を承りたるによりて、多く罪をさへ滅ぼして、その力にて、人に生れ侍るべき功徳の近くなり侍れば、いよいよよろこびをいただきて、かく参りたるなり。この報(むく)ひには、物よくあらせ奉りて、よき男などあはせ奉るべきなり』と言ふとなん見つる」と語るに、あさましくなりて、この宿りたる女の言ふやう、「まことは、おのれは田舎より上りたるにも侍らず、そこそこに侍る者なり。それが、昨日菩提講に参り侍りし道に、その程に行きあひ給ひたりしかば、しりに立ちて歩みまかりしに、大宮の、その程の川の石橋を、踏み返されたりし下より、斑なりし小蛇の出で来て、御供に参りしを、かくとつげ申さんと思ひしかども、告げ奉りては、わがためもあしきことにてもやあらんずらんと恐ろしくて、え申さざりしなり。まことに、講の庭にも、その蛇侍りしかども、人もえ見つけざりしなり。果てて出で給ひしをり、また具し奉りたりしかば、なりはてんやうゆかしくて、思ひもかけず、今宵ここにて夜を明し侍りつるなり。この夜中過ぐるまでは、この蛇柱のもとに侍りつるが、明けて見侍りつれば、蛇も見え侍らざりしなり。それにあはせて、かかる夢語りをし給へば、あさましく、恐ろしくて、かくあらはし申すなり。今よりは、これをついでにて、何事も申さん」など言ひ語らひて、後はつねに行き通ひつつ、知る人になんなりにける。さて、この女、よにものよくなりて、この頃は、何とは知らず、大殿の下家司(しもけいし)の、いみじく徳あるが妻になりて、よろづ事叶ひてぞありける。尋ねば、隠れあらじかしとぞ。」(「五十七 石橋の下の蛇の事」)これは最近の出来事であるようである。ある女がいた。その女が雲林院の菩提講を聴くため、西大宮大路(いまの御前通)を上がって西院(淳和天皇の後院、御前通四条通が交わる辺りの西)の辺りの川に架かる石橋を渡ろうとした時、川のほとりを二十はとうに過ぎて三十ぐらいに見える着物の裾をちょっと引き上げるように帯を巻いて歩いていた女が足を掛けた石橋の石の一つが踏み返され、やや持ち上がったまま通って行ったのであるが、その後を通ると裏返ったようになった石橋の石の下にまだら模様の小さな蛇がとぐろを巻いていて、はじめの女が「あっ蛇だ蛇がいる」と気づいた。するとその蛇はさっきの女の後をにょろにょろとついて行くではないか。その後ろをついて歩く女は「何を思って蛇は後ろをついて行くのか。踏まれたことで姿がばれてしまったことを恨んで仕返しをしようとしているのか、どうするのか様子を見てやろう」とそのままついて行くと、前を行く女は時々後ろを振り返ったりするのだが、自分の後ろをついて来る蛇には気がついていないように見える。それに、ほかの通行人も誰も蛇が目に入らないのか口に出す者もおらず、はじめに見つけた女にだけ見えているようで、女は「この蛇が何を仕出かすのかこのままついて行って見てやろう」と思い、女の後ろを離れずついて行くと、雲林院にまで来てしまっていたのである。寺の板の間に上がってその女が坐ると、蛇も上がって女の傍らでとぐろを巻いてうずくまっているのに、これを見つけて大騒ぎをする者もいない。「何と不思議なことだ」と思って目を離さず見ていると、やがて講が終わり、女が立ち上がって出て行けば蛇も従うように出て行った。後をつけて来た女はまたも「この先蛇のすることを見届けるのだ」とまた後をつけ、京の町なかに入ってゆき、下京の辺りまで来て、ある一軒家の前で足を止め、女が入ってゆくと蛇もつき従うように入って行った。「ここが女の家なのだ」と思い、「日が高かったから蛇は何もしなかったのだろう。夜になれば何かを仕出かすにちがいない。こうなったらこの蛇の夜の様子も見なければ」と思ったが、このままではそうすることも出来ないので、その家の戸口に立って「私は田舎から上京して来たばかりの者で右も左も分からず今晩どこに泊まったらよいのかもわかりません。一晩だけでもこちらに泊めていただけないでしょうか」と願い出ると、蛇につきまとわれていたその女をてっきり家の主と思っていたのであるが、女は「ここにお泊りしたいという方がおいでですよ」と奥に向かって声をかける。と、年を取った女が出て来て「どなた様でいらっしゃいますか」と訊く。「ではこの老女が主なのだな」と思って、「今晩一晩だけ宿をお借りしたいのですが」と云えば、「よろしゅうございます。どうぞお入り下さい」と云った。その言葉にうきうきして中に入ると、座敷の板の間に上がった女が坐っていて、蛇はその板の間の下の方の柱のそばでとぐろを巻いていて、よく見ると、傍らの女をじっと見上げているではないか。蛇につかれた女は「御殿のご様子は━━」などと老女に話していて、「きっと宮仕えをしている者にちがいない」と思える。そうしている内に、日がたちまち暮れきって家の中が暗くなってしまい、蛇の様子を見るのが難しくなった。それで宿を借りた女は主と思われる老女に「こうしてお泊めいただきましたお返しに、もし麻がおありでございましたら撚(よ)って差し上げます。火を灯して下さい」と申し出ると、老女は「うれしいことをおっしゃって下さる」と云って明かりを灯した。そして麻を取り出して来て渡したので、それを撚りながら気をつけていると、蛇つきの女はいつの間にか寝てしまったようだ。「いまこそ女に近寄っていくのではないか」と思っていたのであるが、蛇は寄っていかない。「この蛇のことをいますぐにでも教えて差し上げたいのに」と思うのだが、「もし教えて差し上げたりして、自分の身に悪いことが起きたらどうしよう」と考えると、口に出せず、しかし「この蛇はこれからどうるすのだろう」と夜中過ぎまでも見守っていたのであるが、灯していた火が消え何も見えなくなったので宿を借りた女も寝入ってしまった。夜が明けて目を覚ました女は「あれからどうなったのか」と思って慌てて起き上がれば、蛇のついた女はぐっすり眠って目が覚めた様子で、何事もなく、主と思われる老女にこんなことを云ったのである。「昨晩夢を見たのですよ」「どんな夢をご覧になられました」と訊くと、「私の寝ている枕元に人の気配がして、見ると腰から上が人間で下が蛇の姿をした清らかな女がいて私にこう云ったのです、「私はある人を恨めしく思ったためにこうして蛇の姿にされ、石橋の下でとても長い年月をつらい思いで過ごしていました。が、昨日、私を押さえつけていた石をあなた様が踏み返してくださったおかげで、その苦しみから逃れることが出来て本当に嬉しく思いました。それでこの人がお着きになる所をお見届けし、お礼を申し上げようと思い後ろからお供いたしましたところ、あなた様が菩提講の席においでなさりましたので、私はあなた様のお供に参ったおかげで人であった時でさえめぐり合うことの出来なかったような仏法をお聞きすることが出来、身に沁みついていた数々の罪が消えてなくなり、その法の力でもう一度人に生れ変わることの出来る功徳も遠からぬこととなりましたので、いよいよ嬉しく思われこのように参った次第でございます。このお礼にあなた様にお幸せを思いのままに差し上げ、良き夫にもお娶(めあわ)せて差し上げましょう」と云うのを見たのです」と語った。話を聞いていた宿を借りた女は肝を冷やすほど驚き、二人の前でこう口を開いたのである。「本当は、私は田舎から上って来た者ではございません。しかじかの所に住んでいる者でございます。実は昨日、菩提講に参ります道すがらあなたにお会いし、後ろをついて歩いておりましたのでございます。西大宮大路のあのところで川に架かる石橋を踏み返した下からまだらの小蛇が現れ、あなたの後ろをついて行きますのを、そうであると教えて差し上げようとも思ったのですが、もし教えて差し上げたりすると私に悪い事が起きるかもしれないと思い、恐ろしくなって申し上げられませんでした。それが通り、あの菩提講の席にもあの蛇がおりましたが、私と同じように思ってか誰も見つけて声を上げた者もおりません。講が終わってお出になった時も蛇はあなたの後をついていたので、どのようなことになるのか見届けてみたくて、そのまま後をつけ、御存じの通り思いもよらず昨夜はここで明かすことになりました。夜中過ぎまで蛇は柱のもとにおりましたが、夜が明けて再び見ますと、蛇の姿はどこにもありませんでした。このことと符丁を合わせたようにあなたがいまそのような夢の話をなさいましたので、本当に驚き恐ろしくなり、こうして打ち明けた次第でございます。これからはこれも何かの御縁と思って、何事によらずお話しすることにいたしましょう」などと語り合い、互いにつね日頃行き来をする間柄となった。それからのこと、この蛇につかれた女は大変幸せ者となり、この頃は何とかという大臣家の下家司の裕福な家の妻となって万事思いのままの暮らし振りである。誰に聞いても、あああのお人かとすぐに分かるだろうということだ。ちなみに西院から雲林院の間は四キロの距離である。罪を負った蛇はこの距離をにょろにょろと這って、導かれる如くに触れた「法華経」の功徳によってまた人間に戻ることが出来たというのである。きっかけは着物の裾を持ち上げ水辺を戯れていた女が石橋の石を踏み返してくれた偶然である。そしてこの女も幸せになった。━━が、女と蛇の後をつけたもう一人の女はそれからどうなったのであろう。その女はこの「話」のはじめの語り部となったのである。冬日射わが朝刊にあまねしや 日野草城。

 「それから一時間かそこら空白の時間が過ぎた。再び気づくと、太陽は西の果てにすっかり沈んでいた。四時半ごろだ、と彼は思った。今では雲がもくもくと広がり、紫がかった黒い圧迫感のある空だった。冬の匂いがした。雪そのものではないものの、雪の原型のような匂いがした━━雪の組成の匂いだ。」(『失踪』ティム・オブライエン 坂口緑訳 学習研究社1997年)

 「福島第1原発2号機、低圧水で堆積物の一部除去 東電「一定効果」」(令和6年1月19日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 北野天満宮から上七軒へ。

 

 自由律俳句と称する句がある。五七五の定まった型を持たず、季題としての季語を使わない。その定型を持ち、季語を必ず句に含めるのが俳句であり、その俳句は発句(ほっく)として俳諧連歌から独立したものである。江戸の頃、五七五七七の和歌を複数の者で詠む遊びがはじまって流行った。はじめの五七五の発句に次の者が七七の脇句をつけ、その座にいる別の者が次の上句五七五を詠む。俳諧であるから滑稽戯れであり、その時々の季節の語を詠み込み、教養をもって座の「主人」を誉めたりもする。発句はこのような遊びの場から生まれ、俳句と名を変え、自由律俳句はその名の通り、決まり事から「自由」であろうとした。たとえば河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は「正月の日記どうしても五行で足るのであつて」と詠み、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は「湯呑久しくこはさずに持ち四十となる」と詠み、種田山頭火は「どうしようもない私が歩いている」あるいは「まつすぐな道でさみしい」と詠み、尾崎放哉は「いれものがない両手でうける」と詠んだ。確かにこれらの俳句は、俳句形式から「自由」に見える。では芭蕉、一茶、蕪村は果たして不「自由」であったのか。「自由は多くの意味をもつ概念であるが、一般的には何かをするのに障害・拘束・強制等の妨害的条件がないことをいう。自由は<…からの自由>である。これに対し<…する自由>はその何か(例えば結婚)を明示し、それに対する妨害的条件がないことをさす。<…からの自由>と<…する自由>は不可分の両面をなしている。行為の目的と条件によって自由は多様な意味をもつ。それらを明示しないかぎり、自由という概念は空虚である。」(『岩波哲学小辞典』岩波書店1979年刊)人は「身体」という自分で作り決めたものでない肉体から出られず、生きてゆくにはそこに家族を含めた「社会」があり、「社会生活」には様々な規律法律がある。が、その中にあって人は頭の中で「自由」にものを考える。その考えそのものを外から絞めつける「国」が世には存在するが、この先それぞれのその頭の中を強制的に支配する「メカニカル」が現れないとも限らないが、脳機能が患わない限り頭の中でものを思い考えることは「自由」である。大学の初歩的哲学の授業で「自由」には三つの段階があると習ったことがある。一つ目は何々からの自由、次は何々の中での自由、最後は自由自在である。とにかくこの場からこの事々から逃れたい。しかしついて回る物事からどうやっても逃れられないのであれば、その中でやってゆくしかない。そしてそうしていくうちに、ついにはその回りの事々も自分自身についてもそれを「(差し)障り」と思わず、何の「(差し)障り」でもなくなる。映画『PERFECT DAYS』の便所掃除夫の役所広司は「自由」のどの辺りにいたのだろうか、と日が経って思う。昨年、左京正往寺町の大蓮寺の臘梅(ろうばい)を見に行った時にはすでに花が終わっていて、それではと昨日見に行けば、寺は何々寿々子という名を世に受けた者の葬式のさ中であった。臘梅の花にある日のありとのみ 長谷川素逝。

 「頭のうしろには、貧弱な部屋の平凡な壁などは描かずに、無限を描くのだ、僕の作れるかぎり最も強烈で豊かな青の単純な背景にする、こうした単純な組合せによって、豊かな青の背景の上に浮き出したブロンドの頭は、深い紺碧の空に光る星のように、神秘的な効果をあげることになる。」(『ゴッホの手紙』フィンセント・ファン・ゴッホ 硲伊之助訳 岩波文庫1961年)

 「除染土「日本全体の課題」 環境省福島県外最終処分など協議」(令和6年1月18日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 大蓮寺のある仁王門通から大豊神社、真如堂まで。

 

 木洩れ日の素顔にあたり秋袷 桂信子。この句の季語は秋袷で、恐らくは夏の薄地から袷(あわせ)に着るものを替えたばかりの様子であろう。「素顔」の語には、「秋袷心すなほに生きのびて 池内たけし」や「つつましや秋の袷の膝頭 前田普羅」などの句も思い起こさせるが、公開中のヴィム・ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』の中で公衆便所の掃除夫を演じる役所広司が何度も「木洩れ日」を見上げる。映画の前半は、掃除夫役所広司の一日の生活を淡々と丁寧に写してゆく。舗装道路を竹箒で掃く音で掃除夫平山に扮する役所広司は目が覚め、起きるとすぐに布団を六畳ほどの畳部屋の隅に畳み、階段を降りた流しで歯を磨き、髭を剃り、ツナギに着替え、アパートを出て空を仰げば近くに東京スカイツリーが見え、敷地にある自動販売機で缶コーヒーを買って一口飲み、駐めてあるライトバンに乗り込み、カセットテープをカーステレオに差し込み、車を出す。音楽が鳴り出し、車は首都高速に入り、渋谷にある便所にはとても見えぬ外観の便所の清掃を始める。便所の清掃はそう複雑ではない。床や窓枠や便器の隅のゴミを拾って床を水拭きし、紙を補充し、洗面台便器鏡出入り口扉の汚れを拭うだけである。その間に利用者が入って来ればただちに作業を止め、外に出て役所広司は空を見上げて待つ。そうしている限り利用者との間に問題は起きない。利用者同士で問題が起きることもあろうが、あるいは犯罪めいたこともあるには違いないがいまは起きない。若い同僚がひとりいるが、熱心さに欠け、女とつき合うための金を役所広司にせびったりする。が、この者ともさしたる揉め事も起きない。昼飯は小さな神社の境内のベンチでコンビニエンスストアで買ったサンドイッチですませる。食べる前に役所広司は必ず木洩れ日を見上げ安いフィルムカメラで写す。仕事を終えると自転車を漕いで隅田川に架かる桜橋を渡り、銭湯の一番風呂に入る。六十を過ぎた裸の役所広司は窓から湯気の中に差し込む光を見上げる。それから浅草駅地下道の呑み屋でテレビの野球中継を見ながら焼酎を飲み、部屋に戻り、寢床の枕元の明かりで本を読み、うとうとしてくればそのまま眠る。この直後からしばしの間画面のトーンが一変する。夢の入口であるのかモノクロの木洩れ日のきらめきのような、何かの影が背後でちらつき揺れながら不安げに歪んで流れていく。そしてまた竹箒の音で目覚め、一日が始まる。週に一日ぐらいであろうか、役所広司に思いを寄せる仕草の石川さゆり扮する女将のいる居酒屋に通い、古本屋で安い本を一冊買う。どこにいてもほとんど自分から口をきくことはなく、話しかけられれば愛想笑いを返すだけである。それを趣味といえばいえるのかもしれぬが、部屋の窓際に並べた小さな鉢植えに毎朝霧吹きで水をやり、留守の間も紫外光線のような明かりで照らしている。神社の楓の根元から掘ってきた実生の苗もそこにある。映画の前半の六十分はこのような「事」の起きない掃除夫役所広司の日常が撮られているばかりであるが、ある日仕事から戻ると、アパートの表に女子高校生がいる。何年も会っていなかった姪、自分の妹の娘である。姪が目の前に現れた事情は描かず、姪はアパートに泊まったようで、いつもの朝のことごとを始めると姪は部屋の床の中で目覚めて気づき、一緒に仕事に連れていけと云う。はじめは伯父役所広司の仕事振りを便所の外で見ていた姪は、翌日には同じツナギを着て手伝うようになり、二人で仕事を終えてアパートに帰ってくると一台の黒塗りの車が駐まっている。役所広司の妹が娘を迎えに来たのだ。車の中には「おつき」の運転手がいる。そのような暮らし振りを思わせる妹は兄が好きだったという好物の土産を渡し、「もうそうでもないから」入院している父に会ってやってほしい、と、でも云う通りにはしないでしょうねという思いの籠った半ば諦めの口振りで云う。役所広司ははにかむような笑いを浮かべるばかりで返事はしない。が、妹を抱きしめると悲しみとも申し訳なさとも違う苦悶の表情をする。さしたる悶着もなく伯父である役所広司の言葉に従って姪は運転手がドアを開けた車に乗り込み、車は出て行く。それからこのような出来事も起こる。その日いつもの時間に石川ひとみが女将をしている居酒屋に行くと、支度中と出ていて戸が開かず、向かいのコインランドリーに入って待っていると、石川ひとみ三浦友和扮する中年の男とやって来て、店の中に入って行く。それを見た役所広司が二人の後を追うように外に出て店の戸を開ける。と、二人は抱き合っていた。役所広司は慌てふためいたように自転車でその場から去り、コンビニエンスストアで缶ビールと煙草とライターを買って隅田川に出る。この慌てふためき振りは役所広司が女将に秘かな思いを寄せていたというより、関わり合いになりたくなかったからであろう。が、煙草を吸って他愛無くむせたのは久し振りに吸ったからだけではなさそうだ。夜の川面を見ていると三浦友和がやって来て、さっき店を覗いた人ですねと訊いて役所広司の傍らに寄り、自分は女将の元夫で、再婚していていま癌を患い、元妻に急に会いたくなって会いに来たのだと話す。役所広司は黙って聞いている。三浦友和がこの歳になっても分からないことばかりだと云ってから、不意に影というのは重なると濃くなるものなのかと訊く。役所広司は何も応えない。が、外灯の下に行って三浦友和を呼び寄せ、後ろに立つように云い、二人の影が重なるのを見て濃くなっていると云うが、三浦友和はそうかなと同意はしない。それから二人は影踏みをしてしばしはしゃぐのだ。たぶんその翌朝、役所広司は朝日の上ったばかりの首都高速を走っている。光を浴びて涙を流したその顔は笑っているようでもあり、やや陰って悲し気な顔にも見え、また笑みを湛えた顔に戻り、再び陰が差し、また微笑みに戻って映画は終わる。画面ではルー・リードの「パーフェクト・ディ」が流れている。このような歌詞の歌である。「これ以上ない一日、公園でサンガリアを飲んで、暗くなったらぼくらは家に帰る。これ以上ない一日、動物園で餌をやり、映画も観て、そして家に帰る。これこそまったく理想の一日」映画の後半で、掃除夫役所広司の日常にささやかな波風が立つ。それは妹との再会であり、人となりの一端、たとえば大会社の社長の息子だったといったようなことを役所広司にも思い起こさせることであるが、その後の日常に変わることはない。居酒屋の女将の癌患者の元夫が現れても、それを思い出せば何かしらの気懸りにはなっても、己(おの)れの日常はいままで通り続いていく。ヴィム・ヴェンダースはインタビューで、知り合いの僧から便所掃除の修行の話を聞いたことを思い出したと云う。が、坊主がする便所掃除は自分が使う便所を掃除するのであり、それでもそれを修行といえば修行なのかもしれぬが、便所掃除夫の便所掃除はそれが仕事であり、そのことで金を貰い、その金で生活を成り立たせているのである。であるから便所掃除夫の役所広司は修行僧でも何でもない。自らの意思で、しかも「熱心」に仕事をしているだけである。便所掃除は汚れを落とし「はじめ」の清潔感を「保つ」ためだけにするものであるから「生産性」はない。同じことを来る日も来る日も繰り返すだけである。およそ誰とも口をきかない。これらのことを以って役所広司はこの便所掃除を仕事に選んだのかもしれない。短絡的にいえば「人」と関わり合いにならなくてすむ仕事。が、掃除という単純な仕事になどとても耐えられぬ者もいる。そして人に「見下され」もする仕事である。誰でも出来る仕事として金も最低限の額しか得られない。それでも役所広司扮する平山は、妹から「本当にやっていたんだ」と驚かれても、ずっと仕事としてやってきたのである、日に一度木洩れ日を見上げ、微笑みながら。恐らくは大学を出ているであろう役所広司は、「はじめから」便所掃除夫になりたくてなったのではあるまい。が、便所掃除夫ぐらいにしかなれなくてなっているのでもない。仕事中も仕事以外の時でも、役所広司の顔に不満はない。眠りについた時の映像が胸の内の気懸りとして朝の目覚めた時の顔つきを些(いささ)かのその不安の表情と見て取ることもできるが、寝床を出てからは孤独に堪えている様子でもなく、判で押したような日日に恐らくは腹の底から不満はないように見える。このような生き様をもしかすると「薄っぺらな思いで」羨ましいと目に映る者があるかもしれぬ。が、過去に何事かがあったのだとしてもこれは役所広司扮する平山にとって「禅修行」でも人生を「悟った」のでもなく、便所掃除夫としてのひとりのささやかな「生き方」にすぎない。かつて鎌倉の寺や東京の私立高校の便所掃除を仕事としていた者として、便所掃除夫を演じる役所広司をあたかもドキュメンタリー風に撮ったこの映画をしばし懐かしさをもって観たのである。

 「外へ出ると、街は雨で輝いていた、彼女は古い茶いろのレインコートを着てきてよかったと思った。電車は満員だったので、いちばんうしろにある丸腰かけに、爪さきがやっと床にとどくようなかっこうで、乗客の全部に向いてすわらなければならなかった。心の中でこれからすることをすっかり考えてみた。そしてだれの世話にもならないで、自分のお金をちゃんとふところに持っていることは、どんなにいいかわからない、と思うのだった。」(「土くれ」ジェイムズ・ジョイス 安藤一郎訳『ダブリン市民』新潮文庫1953年)

 「福島第1原発2号機の堆積物除去開始 東京電力、突き崩し確認」(令和6年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 雨上がりの御池通

 

 北嵯峨四景。

 「嵯峨は王朝貴族遊覧の地である。鎌倉中期、後嵯峨上皇が小倉山の東南、南に大堰川下流桂川)や嵐山を望む地に、亀山殿を造営した。上皇は出家後大覚寺に入り、ついでその子の亀山法皇もここに住いする。一四世紀はじめには、亀山の子後宇多上皇大覚寺に入って院政をおこなったので嵯峨御所と呼ばれ、伽藍や僧房も新営された。以後も、亀山・後宇多両天皇の皇統に属する上皇や皇子が住む。それでこの皇統を大覚寺統(のちの南朝)と称する。明徳三年(1392)、南北朝内乱を終わらせた両朝合体のとき、南朝後亀山天皇は、同寺で北朝持明院統)の後小松天皇に、皇位のしるしである三種の神器を引き渡した。暦応(りゃくおう)二年(1339)、足利尊氏は、無念の思いをいだいて吉野山で亡くなった後醍醐天皇の怨霊を恐れ、その冥福を祈るため、天龍寺を建立しはじめる。そこは天皇に伝えられた亀山殿の跡地だった。造営費用として、尊氏は荘園を、光厳上皇は官職を売ってえた収益を、また幕府は天龍寺造営を名目とする中国(元)向け貿易船(天龍寺船)でえた利益を、それぞれ寄進した。貞和元年(1345)、後醍醐天皇七周忌の年に、落慶法会が営まれた。」(高橋昌明『京都<千年の都>の歴史』岩波新書2014年)

 「「野生トキ」福島県内で初確認 南相馬、草地に餌を求め飛来か」(令和6年1月11日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 たとえばある時、経験のない自然の大異変が起こり、口に入れる食い物の量が半分に減る。この土地に住む二つの部族はどうするか。二つの部族はもとは一つの部族から二つに分かれたのであるが、それぞれの人の数に差はなく、どちらにも子どもがいて年寄りがいる。はてさて、どちらの部族のその半分の口に食い物が回らない。一方が力づくで一方の食い物を奪うのか。その時この双方には死人が出るかもしれない。あるいは一方が別の土地を目指してこの土地を離れるかもしれない。あるいは戦いの後、負けた一族が勝った一族の奴隷になるかもしれない。あるいはそうなるのが嫌で残った者すべてが死を選ぶかもしれない。が、勝ったのもつかの間、見たこともない武器を持った部族がこの土地に攻め入って来る。「最大震度7を観測した能登半島地震の被災地では水や電気、燃料などが不足し続けており、避難生活に追い打ちがかかる。半島北部にある石川県輪島市の市役所では5日、米谷起代志さん(83)が2リットルのぺとボトル5本に給水車の水を入れていた。計10キロとなったバッグをかかえ、約1キロ先のアパートに持ち帰るという。「車を持ってないから、水も食べ物も歩いてもらいに行くしかない。何をするにも厳しい。」(「何をするにも厳しい」水も電気も届かず、長引く避難生活に募る不安」朝日新聞DIGITAL2024年1月6日)「珠洲市宝立町鵜飼の宝立小中学校に避難している住民によりますと、この小学校には最大でおよそ700人が避難しています。5日は近所のスーパーマーケットなどからおにぎりやパン、飲料水といった支援物資が届き、全員に行き渡る量になったため住民たちに配布しました。70代の男性は「食べるものが底をつきてきている中でおにぎりをもらうことができてうれしい」と話していました。また、70代の女性は「お米を食べることができてうれしいです。生活は不便ですが、頭が真っ白でこれから先のことを考えることができません」と話しました。別の70代の女性は「気分としてはおなかがすかないが、食べないとフラフラしてしまうので無理やり口にいれています。今はとにかくお風呂に入って頭を洗いたいです」と話していました。」(「石川 珠洲 届いた支援物資  住民たちが分け合いしのぐ状況続く」NHK NEWSWEB2024年1月5日)「大震災は、ぎりぎり一番大切なものを教えてくれる。生きているだけでありがたいとか、絆が大事だとか、たしかにそれは真実だが、究極の真理だけで、私たちは自分をいきいき生きていけないのだと思う。哀しいといえば哀しいが、それが生きているということなのだと思う。」(山田太一 多摩川新聞2012年1月1日掲載『夕暮れの時間に』河出書房新社2015年刊)「能登半島地震、石川県の死者202人に 102人安否不明」(朝日新聞DIGITAL2024年1月9日)死んだ人の口に食い物は入らない。生き残った者の耳に入るのは人の言葉で、人の口から出すのも言葉である。現実的に「いきいき生きて」いくための慾を満たす言葉のなれの果てが、人殺しの武器を手に持つ人の姿である。「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法を証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇(きうけつ)なる悟迹(ごしやく)を長長出ならしむ。」(道元正法眼蔵』第一、現成公案)仏教者としての生き方を学び身につけるとは、己(おの)れを学び覚え身につけるということである。己(おの)れを学び覚え身につけるということは、言い方を変えれば、己(おの)れを忘れることである。己(おの)れを忘れるということを別の言い方で表せば、この世の理(ことわり、すべての存在現象事象の真理)そのものによって、それを考えることではじめて自分という存在が浮かび上がるということを実践証明することである。この世のすべての理(ことわり)そのものによって、それを考えることではじめて自分という存在が浮かび上るということを実践証明するということは、身体と心を持つ自分自身と他者、自分を取り巻くすべての存在という「関係」から積極的に脱け落ち、空っぽになることである。が、この「脱落(とつらく)」を「悟り」と思っても、あるいは思ったとしても、そう思うことはあえて言えば「本物」とは言えぬ「悟り」の一瞬の痕跡でしかなく、すでに痕跡となった「悟り」は仮の「悟り」であるからこの「脱落(とつらく)」を休むことなく永遠に続けなければならないのである。一月やほとけの花のゆきやなぎ 久保田万太郎

 「たしかな計算を立てて、少し耕しかけた用地を安くある人から買って、日傭取(ひようとり)に頼んで開墾に着手し始めた。自分はやはり薬売に遠く出かけていってはいたが、とにかく勇吉は百姓になろうと決心した。それよりほかに自分の出ていく道はないとすら思った。旅から帰ってきて自分の荒蕪地が少しずつでも開墾されていっているのを、見るのは楽しみであった。しかし、半年と経たないうちに、たしかな計算だと堅く信じていた数字が数字どおりになっていかないのを勇吉はだんだん発見した。一年間に規定された荒蕪地を完全に開墾するにはなお多くの金と力とを要した。天然と戦うのについて思いもかけない障碍がたくさんに一方にあるとともに、日傭取(ひようとり)たちは何のかのと言っては怠けて遊んだ。」(「トコヨゴヨミ」田山花袋『日本文学全集7田山花袋集英社1972年)

 「「福島への責任を全う」 デブリ取り出しへ東電社長、年頭訓示」(令和6年1月5日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 京都御苑にて。