五月二十一日が「小満」であるという。「陰暦四月の中で、立夏の後十五日、陽暦の五月二十一日ごろにあたる。陽気盛んにして万物しだいに長じて満つるという意である。」(『カラー図説日本大歳時記』講談社1983年刊)たとえば、丸太町通から雙ヶ岡(ならびがおか)の西の裾に沿って国道162号を上り仁和寺の門前から来る一条通を福王子神社の角で越してその先、周山街道となって下りはじめる右手に見える嵯峨野病院の看板の足元に「いづみ谷 西壽寺」という小さな石の道案内が立っている。この案内に従って道を上って行けば民家の間を抜けて山裾の上の嵯峨野病院の入り口に出、そのまま傍らを奥に進めば西壽寺(さいじゅじ)である。尼寺西壽寺は明治初年に一度廃絶し、脇にモミジや松の植わる石段の参道はその後に整えられたようなさほどの年月の手垢のない様子で、それが最も分かるのは本堂手前の緩いスロープから入る急斜面を拓いた墓地のセメントや段々の新しさである。色の新しい土の上に古い石塔や新しい墓石がまばらに建ち、あるいは小さく幾つもに区切った区画のひとコマひとコマに「愛」「感謝」などと文字を彫った薄い石の板が蓋をしたように置かれていて、別の区画ではそのプレートのような石を囲むように丈の短い色とりどりの花を咲かせている草花が植わっている。あるいはまだ幹の弱々しい桜の下に散骨もしているという。このような段々畑のような墓地を縫うように斜面を上ってゆくといつしかこの「山」の頂上で、その狭い天辺まで均され墓地として「売り」出されている。偶々(たまたま)山門を出た帰り際、バイクで戻って来た墨染ヘルメット姿の住職に行き合った。段々墓地はこの尼さんが「喰うため」に為したことである。墓地を上りながら振り返れば西壽寺は山を二つに割ったような谷の根元の上に建っていて、そちこちに切り株がそのまま残る裸になったこの「山」の頂上に立てば、下の谷から家並の一列が広がって市街となってゆく様がよく見える。雙ヶ岡がその広がりに瘤のように些(いささ)かのじゃまをしているが、遠くは京都タワーの姿もはっきり目に入る。図らずも足の向くままこの寺の「山」の頂上まで上り、街を一望するところに立って深呼吸の真似をすれば、天地の「万物しだいに長じて満つる。」という「小満」は、この思いもよらぬ不意の時にこそそう思わせるに相応(ふさわ)しい「思い」であるかもしれぬ。

 「書いたものはすべてではない。それは時に最良の部分を取り逃してしまう。また、書こうとすれば生きることをあきらめなければならない。ヴィルパリジ夫人のサロンのうちに、この二つのパラドックスプルーストは読んだのであった。」(『プルーストの部屋『失われた時を求めて』を読む』海野弘 中央公論社1993年)

 「廃炉、処理水放出へ「インフラ期待以上」 IAEA事務局長が視察」(令和4年5月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)