紫野大徳寺の坂を上った西の離れの塔頭孤篷庵(こほうあん)の公開は七年振りであるという。孤篷庵は小堀遠州の寺である。小堀遠州は初代の伏見作事奉行で、二条城、後水尾上皇御所などを造作し、江戸期の作庭を語ればその筆頭に名が挙がる人物である。孤篷庵の方丈も書院も茶室も重要文化財であれば自由気ままにうろつくことは許されず、荷物はすべて取り上げられ、撮影も禁じられ、狩野探幽探信が描いた壁襖あるいは障子からは最低三十センチの距離を取り、十人前後が集まると案内の指示に従って室内を進むことになる。はじめの案内で本堂、方丈の縁に坐らされ庭を見る。長方形の庭はただ真っ平らの赤土で苔も白砂も石も池も草木も何もない。が、正確に云えば赤土の上に微かな流れ模様の筋が入り、縁の手前と庭の奥何本かの赤松の足元に丈を違えた二重の植え込みが一直線に低く刈り込まれている。この刈り込みは「波」の見立てで平らな赤土は「海」の見立てである。庭の南の前方にいまは樹木や建物に隠れ見えなくなった船岡山があり、その船岡山がこの「海」に浮かぶ船の見立てであったという。庭の左手に丸みを帯びた屋根の中門がある。これを編笠門といい、それを潜った目の前に何本か植わる幹のひょろりとした檜は土の下に瓦を敷き詰められ成長を止められていると云い、冬、枝に積もる雪を白牡丹に見立てるという。次の案内は茶室「忘筌(ぼうせん、忘荃)」であるが、手前の通りの間でまた腰を下ろす。松や小ぶりの木が植わり苔の生えた手前に玉石を敷いた庭に面して手摺りが設(しつら)えてあり、ここからの眺めは船の中から水辺を見ている、水面に浮かんだ「船」の中にいるという見立てである。玉石と苔土の境に並んだ石は水際に立つ「波」である。「忘筌」は西に向いた茶室で、次の間の書院の庭の様子を隠すように丈の高い植え込みを施した露地の縁の上半分に障子を張って直接西日が入らないようにし、下半分から射し込んだ光が床から砂で擦って木目を浮かせた天井に反射し、壁の全体が余白の如くに七十歳の狩野探幽が墨の舟や松や人を置いた室の明かりとなる。これが千利休の腰を屈めて入る二畳の茶席ではなく、古田織部の流れを汲む小堀遠州の八畳の書院茶席である。露地に据えた手水鉢に日光が浮かべばその光は天井でゆらゆら揺らぐという。臼の形をしたこの手水鉢の胴に「露結」という二字が彫られている。これが「忘筌」と対になっているというのである。「忘筌」は『荘子』外物篇第二十六の「十三」に出て来る言葉である。「荃(せん)は魚を在(い)るる所以(ゆえん)なり。魚を得て荃を忘る。蹄(てい)は兎を在(い)るる所以(ゆえん)なり。兎を得て蹄を忘る。」筌は魚を掴まえるためのものである。魚を摑まえてしまえば筌のことを思い返したりはしない。蹄(わな)は兎を掴まえるためのものである。兎を掴まえてしまえば蹄(わな)のことなど忘れてしまう。「露結」あるいは「露結耳」とは兎のことであり、臼の形をした手水鉢は兎が餅を搗く臼なのである。この「忘筌」という言葉はこの庵を建てた小堀遠州の「境地」であるという。その「境地」とはそのことで何ものかを手に入れたならばあるいは何ごとかを分かったならば、世にあるための役職などというものは「忘れてしまう」ものであるということである、というのが案内の説明である。次の間の書院「直入軒(じきにゅうけん)」は遠州がものを考え床を延べた間である。南面の庭は、遠州の生まれ故郷の近江、琵琶湖の景色を見立てているという。丸い石を二つ三つ置いた赤土は湖で、たとえば手前の赤松を植えた「島」が「唐崎」で、奥の浮見燈籠が「浮御堂」で、緩く曲線を描く「陸(くが)」に架かる小さな石橋が「瀬田の唐橋」である。日を過ごす間(ま)から見る庭を故郷の景色に見立てて作るというのは平凡な発想のように思える。が、他に見立てる景色があるのかと思った時、ここを「孤篷庵」と名づけた遠州は、他のどこかあるいは架空の景色を思い描いたりはしなかったに違いない。「孤篷庵」の「孤篷」は、ぽつんと水の上に浮かぶ一艘の小舟のことなのである。先の「忘荃」の一節には続きがある。「言は意を在(い)るる所以(ゆえん)なり。意を得て言を忘る。吾れ安(いず)くにか夫(か)の言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。」言葉は考えを掴まえるためのものである。考えが実を結べば言葉など忘れてしまってかまわない。わたしはいま使っている言葉そのものを忘れることをしてきた人、そのような「常識」を超える人と出会って思いを通じ合わることが出来ればと思う。が、人生のここに至るまでそのようなことがなかったがゆえに遠州は己(おの)れの庵を「孤篷」と名づけたのであろう。であるが「孤篷庵」の内に遠州は「忘荃」を掲げ、理解し合える者の出現を待ったのである。

 「「木と木と相い摩(ま)すれば則ち然(燃)え、金と火と相い守れば則ち流る。陰陽錯行(さくこう)すれば則ち天地大いに駭(うご)き、是(ここ)に於いてか雷あり霆(てい)あり、木中に火ありて、乃(すなは)ち大槐(だいかい)を焚(や)く。甚憂(じんゆう)あれば両(ふた)つながら陥(おちい)りて逃るる所なく、チンジュンして成(平、たいら)ぐを得ず、心は天地の間に県(かか)るが若(ごと)し。慰暋(うつびん)沈屯(ちんちゆん)して、利害相い摩(ま)すれば、火を生ずること甚だ多く、衆人和を焚(や)く、月は固(もと)より火に勝たず。是に於いてか僓(頽、たい)然として道の尽くることあり。」木と木が摩擦しあうと火が出て燃えあがり、金属と火とをいっしょにしておくと溶けて流れだす。陰の気と陽の気とがその運動を乱すと、天地が変動して、ここに雷鳴がとどろき稲妻が走る。木のなかに火が生まれて、そこで槐(えんじゅ)の大木も焚(や)けおちる。ひどい心配ごとがあると、内外両面ともに悪くなってのがれようもなく、落ちつきなく気づかいをするばかりで安らぎも得られず、心はまるで天地のあいだで宙づりになったようである。沈鬱な混乱のなかで利害の情がせめぎあうと、体内の熱は火となっていよいよ燃えさかり、人々はそのために本来の和気を焚(や)きつくしてしまう。陰性の月はもちろん火には勝てないものだ。こうして、崩れ落ちるようにして体内の真実の道はつき果ててしまうことになるのだ。」(『荘子』外物篇第二十六の「一」金谷治訳注 岩波文庫1983年)

 「第1原発1号機、広範囲にデブリ存在か、堆積物から中性子計測」(令和4年5月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)