いわゆる西陣と呼び馴らわされている地域の、茶道総合資料館、裏千家今日庵表千家不審菴などの一角を挟んだ東に大心院町という名の町がある。上京区新町通寺之内上ル三丁目の両側町である。町の名の謂(いわ)れは、この地に大心院という寺があったことによるものであり、大心院は管領(かんれい)細川政元修験道を志した時の号、大心院守貞からその死後、邸が寺になってつけられた名である。細川政元は、応仁文明の乱の東軍細川勝元の長男であり、その相手方の西軍山名宗全の張った陣地が「西陣」である。「応仁の乱に始まった戦国の争乱のなかから、各地方では、地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。9代将軍義尚が近江の六角氏征討中に病死すると、義視(よしみ)の子の義稙(よしたね、義材(よしき))は10代将軍についたが、管領細川政元と対立し、1493(明応2)年に将軍の地位を追われ(明応の政変)、政元は堀越公方足利政知(まさとも)の子義澄を新将軍の座に据えた。この政変によって将軍の権威は完全に失墜し、室町幕府における主導権は細川氏の手に移った。しかし、その政元も細川氏内部の対立から暗殺され、以後、激しい権力争いが続いた。」(『詳説日本史研究』山川出版社1998年刊)修験者大心院細川政元は生涯女を寄せつけず、故(ゆえ)に子がないことが仇(あだ)となり、迎えた二人の養子澄之と澄元に家臣が分れ、澄元派の家臣一味に風呂に入っていたところを襲われたのである。大心院町のいまはマンションと戸建ての並ぶ小さな町であるが、その謂(いわ)れとなった大心院はここにはない。大心院は天正年間(1573~71593)に、花園妙心寺塔頭として移っている。その大心院に戦後間もなく、福島相馬生れの彫刻家佐藤玄々が住んでいた。が、その玄々の名は、大心院の門を潜るまで知らぬ名であった。「佐藤朝山、明治二十一~昭和三十八(1888~1963)彫刻家。福島県の宮彫師の家に生まれる。本名清蔵。玄々とも号す。東京に出て山崎朝雲に師事。院展同人・帝国芸術院会員となる。昭和二十二年より右京区妙心寺塔頭大心院に住み、団体展などにはあまり出展しなかった。京都在住中の作品は三越本店の大作「天女像」など。墓も大心院にある。」(『京都大事典』淡交社1984年刊)佐藤玄々は戦時、馬込のアトリエが空襲の火を浴び、持ち出せなかった作品の多くを灰にし、その失意の底を舐めた死の前の十年を費やしたのが、いまも日本橋三越本店本館の吹き抜け中央ホールの階段途中にそそり立つ「天女(まごごろ)像」である。それは「天女が瑞雲に包まれ、花芯に降り立つ瞬間の姿」であるという。全長三十六尺(十・九一メートル)、重さ六千七百五十キロ。両の目を見開き歯を見せて笑う羽衣の裾を靡かせた顔の白い天女が、その身の丈の数倍の火焔のような幾重にも折り重なる無数の極彩色の雲の渦に取り囲まれていて、その雲の間を四十八羽の鳥が舞っている。それは、そちこちの寺に鎮座する有名無名の仏像をあざ笑う如く、あるいはたて突く如く只々馬鹿らしいまでに豪華絢爛であり、これでもかという激情憤情がいまにも吹き出す如く、グロテスク、醜悪と紙一重の見映えと目に映る。この「天女(まごごろ)像」の作制途中とその完成披露が、日本映画新社の製作でモノクロフィルムに残っている。大心院の本堂の縁と渡り廊下で繋がる塔のようなひょろ長い建物がその製作現場で、薄暗い内側は丸太のままの四本の柱を板で囲ってあるだけで、いまその天井ぎりぎりまで雲を纏(まと)った天女像が立っている。ぼさぼさの白髪に長い白髭を生やした佐藤玄々は車椅子に体を沈め、机の上のマイクロフォンで足場の上に立つ門弟らに何かを指示し、それを確かめるため頭上から下りてきた双眼鏡を覗く。天女の顔や手に鑿を入れ色を塗る門弟の姿もカメラは写し、この作制は二十数人いたという中年青年の門弟たちとの分業によっていたことが分かる。昭和三十五年(1960)「天女(まごごろ)像」の披露の日を迎え、依頼主三越社長岩瀬英一郎の挨拶の後、武者小路実篤が祝辞を述べるといよいよ像を覆っていた白い幕が開き下ろされる。カメラが招待客の顔を撮る。皆、感動というより、驚き面食らっているような顔をしている。その中に吉田茂の顔もあり、吉田茂も「何だこれは」とでも云いたげな顔をしているのである。この「天女(まごごろ)像」の実物をこの目で見たことがあったろうか、と振り返れば、見たような気もするし、見た記憶がないという思いもする。三越本店には入ったことがあるような気もするが、そうであれば間違いなく見ていたであろう。あれがそうだったのかという思いも微かにないではない、が、それも思い返そうとすればするほど夢ででも見たようで覚束(おぼつか)ない。が、佐藤玄々のもう一つの代表作「和気清麻呂像」は見た記憶がある。皇居大手濠緑地にこの像はあり、その作者が誰であるとも知らず、陽気の良かったその日に一巡りして見上げ、写真に収めたかもしれない、が撮らなかったのかもしれない。この「和気清麻呂像」で、佐藤玄々にひと悶着が起きた。昭和十四年(1939)、大日本報国会が紀元二千六百年記念行事の一つとして「和気清麻呂像」を造ることになり、その作制候補に北村西望朝倉文夫、佐藤朝山の名が挙がる。この時朝山の師であった山崎朝雲が「銅像のような大作は北村か朝倉の方がいい」と云ったというのを耳にした朝山は頭に血が上り、師の「朝」の一字のついた「朝山」を毟り取るように朝雲と絶交してしまう。これは福島県人に時折り見受けられる反応態度の一つである。が、結局世事に長じていた北村・朝倉は辞退し、佐藤の手によって戦意昂揚のための「和気清麻呂像」は作られるのである。「天女(まごころ)像」のフィルムの最後に、その仮設アトリエの戸口に杖をついて立つ佐藤玄々が写っていた。その姿は現代の「仙人」のようでもあり、これで終りではない、まだやり残したことがあるかの如くにくるりと半身を返し、戸の内の薄暗がりに姿を消すのである。仮設アトリエは玄々の死の後取り壊されたのであろう。いまその同じ場所に、木造二階屋の宿坊が建っている。この宿坊と本堂を繋ぐやや下りぎみの、強く踏み駆けたりすればぶち抜いてしまいそうな渡り廊下は、仮設アトリエを繋いでいたものである。宿坊の濡縁も仮設アトリエにあったものと同じものかもしれない。その南側に中根金作の手になる「阿吽庭」がある。洲浜のゆるい曲がりに白砂の小波が立ち、苔むす築山には丈の低い紅葉しない樹木が植えられ、置かれた石は仏であり菩薩であり、白砂の海に浮かぶ石の島にもまた小波が寄せている。が、手入れが行き届かないのか、庭も軒下も落葉で汚れている。硝子戸の内に見える障子の破れも目に入る。が、本堂裏の、庫裡の曇硝子を嵌めた木のガラガラ引き戸の出入りの傍らのポンプのある井戸端は、久しく目にしなかった光景のようで、「阿吽庭」の濡縁よりも長くその場に足を止めていたのである。

 「五、六人寄って、火鉢を囲みながら話をしていると、突然一人の青年が来た。名も聞かず、会った事もない。全く未知の男である。紹介状も携えずに、取次を通じて、面会を求めるので、座敷に招じたら、青年は大勢いる所へ、一羽の山鳥を提げて這入って来た。初対面の挨拶が済むと、その山鳥を座の真中に出して、国から届きましたからといって、それを当座の贈物にした。」(「永日小品 山鳥夏目漱石夢十夜他二篇』岩波文庫1986年)

 「富岡2地区の復興拠点解除 福島県内6町村全て完了」(令和5年12月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)