蟬の鳴き声が聞こえなくなると、芙蓉の花が目につくようになる。法輪寺の山門を入ってすぐの庭先で芙蓉が七つ八つ咲きはじめていた。この法輪寺は嵐山の法輪寺ではなく、下立売通御前西入ルのだるま寺である。だるま寺という名の謂(いわ)れは、境内に八千を超えるという大小様々なだるまを収める達磨堂があるからである。普段は滅多に参拝者のいないだるま寺が賑わうのは二月の節分会の時で、西大路通から下立売通に入った中空に高く揚がっただるま寺と書いた横断幕が寒風にはためき、狭い境内にだるまや食い物を売る露店が立ち、日の当たる本堂の縁側にだるまが並べられ、ハト麦茶を甘くした茶が振る舞われる。日本の縁起物の、赤く塗られた鬚面のだるまには手も足もない。面壁九年の坐禅修行の果てに手足が腐ってしまったからだといわれている。が、これはそう云いふらした者のついた嘘である。手足の内の片腕を無くしているのは、達磨の弟子の慧可(えか)である。禅仏教の開祖である達磨の前で、弟子入りを拒絶された慧可という男は、左腕を切り落としてみせた。これは弟子となる覚悟を示したということになっている。そのような覚悟をさせたのが達磨である。御仏にもらふ疲れや花芙蓉 大木あまり。信心の目で仏像を見ても、恐らくは疲れない。仏像を見て疲れるのは、美術鑑賞をする目である。芙蓉一花まづ咲き珠の小家建つ 能村登四郎。肥汲が辞儀して括(くく)る芙蓉かな 渡辺水巴(わたなべすいは)。この家に芙蓉一本のみ残る 宇多喜代子。家と、あるいは人と芙蓉という花との関係を、昭和の俳句はこのように詠んでいる。更地にした端に枯れずに残っていた芙蓉が、念願の家が建った傍らで花をつけたのを見て喜び、その芙蓉も時に便所の汲み取りには邪魔であり、時が経って家族がばらばらになって遂に空き家となっても、丈夫な芙蓉だけは今年も花をつけた。花芙蓉くづれて今日を全(まっと)うす 中村汀女。開いたその日に凋(しぼ)む花を「全うす」とする云いは、日頃から背筋を真直ぐ張って生活をしているような者の言葉である。だるま寺の本堂横のガラス戸を立てた出窓の内に、眠り猫のような白髪の受付の姿があった。芙蓉の花はこの正面で咲いている。もし誰と代わることもなくこの者が受付で一日居るのであれば、その一日は、時折気まぐれな風に薄桃色や白の花弁(はなびら)が揺れ、日が傾けばあっけなく凋む花を眺めるだけの一日である。『今昔物語集』に修行途中の達磨の話が載っている。巻第四の第九。「天竺ノ陀楼摩和尚、所々ヲ行(アル)キ見テ、僧ノ行ヒタル語(コト)。(前略)陀楼摩和尚、二人ノ古老ニ問テ云ク、「此ハ何(イカ)ニ。碁ヲ打ツヲ役ニテ年月ヲ送リ給フト聞ク所ニ、善ク所行ヲ見奉レバ、証果ノ人ニコソ、坐(マシマス)メル。其ノ由(ヨ)シ承(ウケタマ)ハラム」ト。二人ノ古老答ヘテ云ク、「我等、年来、碁ヲ打ヨリ外ノ事ナシ。但シ、黒勝ツ時ニハ我ガ身ノ煩悩増リ、白勝ツ時ニハ我心ノ菩提増リ、煩悩ノ黒ヲ打チ随ヘテ菩提ノ白ノ増ルト思フ。此ニ付テ我ガ无常(ムジヤウ)ヲ観ズレバ、其ノ功徳忽(タチマチ)ニ顕ハレテ証果ノ身トハ成レル也」ト云フヲ聞クニ、涙、雨ノ如ク落テ、悲キ事限リナシ。」(天竺中を修行して回っていた達磨和尚は、ある寺の薄汚い小舎の中で一日中碁を打っている、寺の者から厄介者扱いをされている二人の老僧を目にする。何とこの二人は対局が終わる度に一方が目の前で姿を消したり、また現れたりするのである。)達磨和尚は、思わず二人の老僧にこう訊ねたのです。「一体どういうことなのですか。お二人とも一日中、いや一年中碁をお打ちになってばかりいるとお聞きしました。ご様子を見れば私のような者でも、お二人が悟りを開いたお方であろうことは分かります。そのようなお方がどうしてこのようなことをなさっていらっしゃるのか、私にその理由をお教え下さい。」と。二人の老僧はこうお応えになりました。「あんたが私らをどう思おうが勝手だが、私らは碁を打つこと以外のことは何もする気はない。が、あんたはそのことを説明せよと云う。もしあんたが自分の質問が愚問であることを分かっていてそう訊いているのなら、そうであるのならばこっちも愚か者となって応えてやろう。私らのどっちかが打つ黒の石が勝った時には己(おの)れの煩悩の方が強かったということであり、白の石が勝った時は菩提心が勝(まさ)ったということだ。当然誰だって菩提の白は煩悩の黒に打ち勝ちたいと願っている。が、白が勝つ時もあれば負ける時もある。己(おの)れという存在は勝ったり負けたりする者であるということが分かれば、そう理解出来ることがすなわち悟るということだ。」これを聞いた達磨和尚はぽろぽろと涙をこぼし、止まらなくなってしまったのです。この寺の誰一人もこの二人の老僧を理解していないことが悔しくて悲しくなったからです。

 「「何のとりえもない小さな町です」とアンブローシオが言う。「行ったことはないんですか?」「ぼくは旅行を夢見ながら暮らしてきたんだが、たった一度だけ、八十キロ離れた所まで行ったことがあるだけなんだ」とサンディアーゴが言う。「ともかく、お前は少しは旅行したんだね」」(『ラ・カテドラルでの対話』バルガス=ジョサ 桑名一博・野谷文昭訳『ラテンアメリカの文学 17』集英社1984年)

 「帰還への住民思い複雑 復興拠点外の政府方針、避難先で生活定着も」(令和3年9月1日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 夢窓疎石は、京都に二つの名庭を作っている。一つは天龍寺方丈の庭で、もう一つは西芳寺の庭である。建武元年(1334)、鎌倉にいた夢窓疎石は、前年に鎌倉幕府が滅び朝廷に政治を取り戻した第九十六代後醍醐天皇に請われ、南禅寺の住持に再任されると、その翌年には再び天皇に請われ臨川寺を開き、後醍醐天皇が亡くなった暦応二年(1339)、室町幕府評定衆の摂津守藤原親秀の勧請に応じて西方寺に入り、名を改めて西芳寺を開いた。天龍寺は、夢窓疎石後醍醐天皇に背いた足利尊氏に、後醍醐天皇の死の弔いのために建てさせた菩提寺である。足利尊氏の弟直義(ただより)が問うて夢窓疎石が答えた法話集『夢中問答』に、「萬事を放下(はうげ)せよと勧むる旨」と題した問答がある。「問。萬事と工夫と差別なくは、何が故ぞ教・禅の宗師の中に、多くは学者をすゝめて、萬事を放下し諸縁を遠離せよとしめし玉へるや。」日常の生活も所を限った修行と違いがないのであれば、どのような生活の態度をしていても悟りに向かうことが出来るというのであれば、禅やほかの仏教者はどうしていつも物を捨てよ、日常の物事に執着してはいけないなどと教えたりするのですか。「答。(前略)白楽天小池をほりて、其の辺りに竹をうゑて愛せられき。其の語に云はく、竹は是れ心虚しければ、我が友とす。水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。世間に山水をこのみ玉ふ人、同じくは楽天の意(こころ)のごとくならば、実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。或は天性淡泊にして俗塵の事をば愛せず、たゞ詩歌を吟じ泉石にうそぶきて心をやしなふ人あり。煙霞の痼疾(こしつ)、泉石の膏盲(こうもう)といへるはかやうの人の語なり。これをば世間のやさしき人と申しぬべし。たとひかやうなりとも若(も)し道心なくば亦(また)是れ輪廻の基なり。或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし。しかれども山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。或は山河大地草木瓦石、皆是れ自己の本分なりと信ずる人、一旦山水を愛する事は世情に似たれ共、やがてその世情を道心として、泉石草木の四気にかはる気色を工夫とする人あり。若しよくかやうならば、道人の山水を愛する模様としぬべし。然らば則ち山水をこのむは定めて悪事ともいふべからず、定めて善事とも申しがたし。山水には得失なし、得失は人の心にあり。」中国の詩人白楽天は、庭に小さな池を掘って竹を植え、その景色を愛でていたそうです。心に虚しさを覚える時は竹を友とし、その人の本性が素直ならば水はその人を導く師となるのです、と詠っている。世の中にいる山や川の自然を模した庭を好んでいらっしゃる人で、楽天と同じような考えを持っている人であれば、その人は俗に擦れた人ではないはずです。あるいは生まれつき人つき合いが苦手で俗世間のことには興味がなく、一日中詩歌を詠み、自然に浸って口ずさんで心境を高める人がいます。この人たちは、病的な庭好きや庭作りに夢中になる人です。こういう人は、世にいう優雅な人と云っていいでしょう。ですが、このように俗世間から逃れているような人たちでも、菩提心を持たなければ、六道の輪廻に嵌まってそこから抜け出すことが出来ないのです。あるいは植えた木のざわめきや水音で目覚め、庭を前にすれば何もなく過ぎる一日が紛らわされ、修行の支えとなっている人もいます。この人たちは先に挙げた人のように世間によくいる庭好きの人たちとは違って、尊敬すべき人です。そうであっても庭を愛でることと修行を区別出来たからといって、本物の修行者ということは出来ません。あるいは山や河や大地や草や木や瓦石のような何の値打ちのないものまでも、すべてが己(おの)れ自身と変わるものではない、違いはないと考える人がひとたび庭を好きになることは、俗な振る舞いのようであっても、その俗にも見える思いをそのまま菩提心に繋げ、泉石草木、庭の自然を越えた本質に考えを巡らす人もいます。もしとことんそうであるならば、庭を愛でる仏修行者の手本とするべき人です。そうであれば、庭を愛で楽しむことは、していけないということではないし、それが修行に良いこととして人に勧めるということでもありません。庭そのものは良いわけでも悪いわけでもないのです。善悪はいつも人の心の中にあるのですから。直義の、普段の生活も修行であると考えるならばものなど捨てても捨てなくてもいいのではないかという問いに、庭で例えれば、云うまでもなく庭を好きになって庭作りに金をかけて愛でたとしても、それが修行の妨げになるわけではなく、悟りを得るかどうかは本人次第である、と夢窓疎石は説いたのである。西芳寺の庭は、すべて夢窓疎石の手に手によるものではなく、譲り受けた西方寺に手を入れた庭である。その元(もとい)は、寺の裏山洪隠山の山裾の起伏と湧き水である。夢窓疎石はこの山裾の一段上にあった、恐らくは不明死体を葬ったもう一つの寺穢土寺にもう一つの庭、洪隠山に築いた渡来人秦一族の墓の石を使って歴史上はじめての枯山水の庭を作った。が、山肌に剥き出しの岩を晒し目に荒涼と見えたかもしれぬその庭は、いまは樹が生え、苔が覆っている。下の心字の池を廻る樹の鬱蒼と立つ庭も、一面の苔である。嘉吉三年(1443)、来朝した朝鮮の通信使書状官、申叔舟(しん・しゅくしゅう)がその七月西芳寺を訪れ、後に「日本栖芳寺遇眞記」という一文を書き残している。「寺の中に渓流を林表に引き、之をめぐらして池となす。周囲三百歩許りなり。池の西に琉璃の閣あり。閣の北より行くに、橋ありて西來堂に通ず。橋の西は皆芙渠(ふきょ、蓮)を植ゆ、時まさに盛に開き、清風微に至り、幽香馥馥(ゆうこうふくふく)として鼻を擁す。橋の東南は則ち之なし。橋之が限隔をなすがごとし。西來堂の後軒を號して潭北(たんぽく)と曰う。渓流の經て潭に入るの處なり。奇岩恠(怪)石を以て、駢列(へんれつ、連なる)して之を激す。清冷愛すべし。試みにその源を窮めんと欲するに、則ち樹木篁竹(しょうちく、竹藪)、潝翳(きゅうえい、蔭に水音)蔽密(へいみつ、濃い闇)して、得て入るべからず。たゞ鏗然(こうぜん、美しい琴の音)、鏘然(しょうぜん、美しい水音)遠くして益(ますます)清く且つ清あるを聞く。湘南亭は池の心に居(すわ)りて、南邊に近し、亭の南にその堤を缺(か)き、以て池水を泄し、その悪を流す。小島有り、亭の左右に羅列して其の数四なり、皆松樹を植え、その枝葉を剪り、縦(ほしいまま)に若きを得ざらしめ、老枯者然たり。四面は嘉花異卉(き、草)を擁し、その枝幹も亦皆縄にて引きて、木にて之を支う、盤結交柯(ばんけつこうえ、曲がりくねった枝が交わり)欝(うつ、薄暗く)窺(うかが)うべからず。僧言う。春和の時に方(あた)れば群花齊く發(ひら)き、宿莽(しゅくもう、自生する草花)競い秀で。蒼然頴然(えいぜん、青々と瑞々しく)。錦の若(ごと)く、綉(しゅう、美しい刺繍)の若し。得て状すべからざるなりと。余之を聞き、惘然(もうぜん、がっかりする)として其に遭わざるを恨む也。池形縈回(えいくわい、すぐれた曲線)して稍(やや)長く、遂に橋を作りて其の腰を横絶し、以て池の東南に往來する者に便にす。橋に因(よ)りて閣有り。扁して邀月(えうげつ)橋と曰う、之に登れば怳(きょう、うっとりする)として長鯨に騎(の)りて溟渤(めいぼく、薄暗い波立ち)に浮ぶが如し。野鴨雙翼あり、方(まさ)に游泳し橋の東に自樂す。人を見れば驚き起ち、簷楹(えんえい、のきばしら)を掠めて西す。顧眄(こべん、見回す)之間、萬象旋繞(せんじょう、ぐるぐる飛び回る)し、悉(ことごと)く池の中に涵(ひた)す。水族に大なる者、小なる者、孤する者、潜りて昭(あきらか)なる者、往きて復る者、躍(とび)て水を出る者、隠れて藻にある者。龞(べつ)にして沙石に暴(さら)す者、能(だい、素早く)にして微泥に伏する者あり、千状萬態。みな目撃を逃れず。又、小艇二艘有り。繋ぎて琉璃の閣下に在り。輕棹を以て往來すべし。凡(およ)洲渚島嶼。回曲直達。天作地設の若(ごと)くにして、山人の閑營巧度之妙に出でざるなし。是に於て冠を投げ佩(はい、腰につけた物)を捐(す)て、襟を披(ひら)きて散歩す。清は以て煩(はん)を滌(そそ)ぎ、幽は以て慮を靜む。怡愉(いゆ、喜び楽しむ)散浪して、飛仙(仙人)を挟み蓬瀛(ほうえい、神仙が住む仙山)の上に遊ばんに擬せん。而(しこう)して忽(たちまち)に身の羇旅(きりょ)の中に在るを忘る也。俄にして斜陽西に隠れ、僕夫門に在り、驪駒(りく、黒馬)道に在り、遂に長老を釣寂の菴に捐(のこ)し、馬に上りて歸る。茫然として失う所あるが如し。」申叔舟がこの時に見た西芳寺の庭は青松白砂の作りであったが故に、目にしていない苔という言葉はこの文には出て来ない。申叔舟が訪れたその二十三年後に起きた応仁・文明の乱と西芳寺川の洪水によって西芳寺は荒廃し、洪隠山に西日を遮られる庭は、誰の手も入らぬまま次第次第に一面の苔に覆われていったのである。いま苔に覆われていないのは池の面だけである。陸に置かれた石にも池の淵の石にも池の中に並ぶ石にも、消えた建物にも夢窓疎石の意図があった。が、それらが苔に覆われれば、その意図もまた覆われ、それが久しくなれば、覆われた意図も久しくなる。が、緑色をした雪の融けない降り積もりのようにも見える苔であっても、この先融けてしまわないとはいえない。そうであれば夢窓疎石の手から遠く離れて久しいこの庭も途中の、仮の姿に過ぎないのである。泉石草木の四気は、人知を超えてうつろうものであるのであるから。

 「三木さんの行った後、蟬の鳴きしきった晩はついこないだの事の様に思われるが、それから既に十七年たっている。自分は不自由な明け暮れに歳を重ねて来た。もうこの頃は胸の中に縺れた様な、割り切れぬ物は何も残っていない。そう云う気持がいつかほどけて、片づかぬ物が片づいたと云うわけではなく、縺れ合ったなりに、片づかぬ儘に薄らいで、いつの間にか消えてしまった。蚊いぶしの火のぱちぱち撥ねる音に聞き入って、三木さんの出這入りに焦燥した昔は他人事の様に思われる。」(「柳検校の小閑」内田百閒『サラサーテの盤』福武文庫1990年)

 「福島県産米、放射性物質の抽出検査開始 郡山・県農業総合センター」(令和3年8月21日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)を写した古い写真には、その朱塗りの門前に「あの世への入口」と記した提灯が掲げられていた。八月七日から十日は六道まいりの期間で、珍皇寺は市中からの参拝者でごったがいするのであるが、昨年と今年は新盆の者のほかの参拝は遠慮してくれるよう珍皇寺は世間に告げ、露店の出ない六道まいりの境内は薄ら静かである。「河原面を過ゆけば、急ぐ心の程もなく、車大路や六波羅の、地蔵堂よと伏拝む。観音も同坐あり、闡提救世(せんだいぐぜ)の方便あらたに、たらちねを守り給へや。実(げに)や守りの末直に頼む命は白玉の、愛宕(おたぎ)の寺も打過ぬ。六道の辻とかや、実(げに)恐ろしや此道は、冥途(めいど)に通ふなるものを、心細鳥部山、煙の末も薄霞む、声も旅雁の横たはる、北斗の星の曇りなき。」(謡曲「熊野(ゆや)」)鴨川を渡って逸(はや)る心を押さえる間もなく着いた大和大路の向こう、六波羅蜜寺地蔵堂を伏し拝み、観音様の「すべての衆生を救うまでは成仏しない」という教えを思い出し、どうか母を守って下さいと願いました。ですが、先の命のことをいま知ることはできないのです。愛宕寺を過ぎると六道の辻に出ました。ここは冥途の入り口だと聞いていたので俄かに恐ろしく心細くなってしまいました。顔を上げると、死んだ人を葬るという鳥辺山から上がる煙が薄っすらと見え、旅の途中の雁の鳴き声が空に響き渡り、北斗星が煌々と瞬いています。「六道の辻とかや、実怖ろしや此道は、冥途に通ふなるものを」六道まいりをするためには、そのお参りのし方を知っていなければならない。まず境内の露店でお精霊(しょらい)がこれに乗るという高野槇の葉のついた枝を買い求め、次に本堂前の受付で故人の戒名あるいは俗名を告げ経木の水塔婆に書いてもらい、十万億土まで響くという小堂の壁の穴から出ている綱を引いて内の迎鐘を撞き、水塔婆に線香の香を焚きしめて石地蔵が並ぶ賽の河原に納め、高野槇で水を振り掛けながら水回向をし、お精霊(しょらい)の乗った高野槇はそのまま家に持ち帰る。あるいは持ち帰った高野槇を井戸の中に吊るせば、珍皇寺が祀る小野篁(おののたかむら)が井戸から冥府に通って閻魔大王の書記をしたという話になぞらえ、吊るした井戸がお精霊(しょらい)のこの世への戻り口になるという。そして戻ったお精霊(しょらい)は、この世の者たちと暫く時を過ごすのである。珍皇寺はお精霊(しょらい)があの世から帰って来るところであるが、六道の辻は人があの世へ行くところであるから恐ろしい。この六道は、衆生が自らこの世でなした業によって生死を繰り返す六つの世界、あらゆる苦しみを受ける地獄、嫉妬欲望にまみれてもがく餓鬼、弱肉強食で殺し合う畜生、怒りに任せて争いを繰り返す修羅、生病老死の四苦八苦から逃れられない人(にん)、享楽に過ごす天をいう。『今昔物語集』に「天竺人兄弟、持金通山語(てんじくのひとのきょうだい、こがねをもちてやまをとほれること)」(巻第四・第卅四)という話がある。「今ハ昔、天竺ニ兄弟二人ノ人有リ。具シテ道ヲ行ク間、各(オノオノ)千両ノ金(コガネ)ヲ持タリ。山々ヲ通テ行ク間、兄ノ思ハク、「我レ、弟ヲ殺シテ千両ノ金ヲ奪ヒ取テ、我ガ千両ノ金ニ加ヘテ二千両ノ金ヲ持タムト」思フ。弟ノ亦((マタ)、思ハク、「我レ、兄ヲ殺シテ千両ノ金ヲ奪ヒ取テ我ガ千両ノ金ニ加ヘテ二千両ヲ持バヤト」思フ。互ニ如此(カクノゴト)ク思フト云ヘドモ、未ダ思ヒ定ムル事无(ナキ)ガ間ニ、山ヲ通リ出デ、河ノ側ニ至ヌ。兄、此ノ持タル千両ノ金ヲ河ニ投入レツ。弟、此レヲ見テ兄ニ問テ云ク、「何ゾ金ヲ河ニ投入レ給フ」ト。兄、答テ云ク、「我レ、山通ツル間ニ、汝ヲ殺シテ持タル所ノ金ヲヤ取ラマシト思ヒツ。只一人有ル弟也。此ノ金无(ナ)カラマシカバ、汝ヲ殺ト思シヤハ。然(サ)レバ投入ツル也」ト。弟ノ云ク、「我モ亦、如此(カクノゴト)キ兄ヲ殺サムト思ヒツ。此レ皆、此ノ金ニ依テ也」ト云テ、弟モ持タル金ヲ同ク河ニ投入レツ。然(シカ)レバ、人ハ味ヒニ依テ命ヲ被奪(ウバハ)レ、財(タカラ)ニ依テ身ヲ害スル也。財ヲ不持ズシテ、身貧(イヤ)シカラム人、専(モツパラ)ニ不嘆(ナゲクベカラ)ズ。六道四生ニ廻ル事モ亦、財ヲ貪(ムサボ)ルニ依テ有ル事也トナム語リ傳ヘタルトヤ。」昔、天竺にある二人の兄弟がいて、とある同じ道を一緒に歩いていました。この兄弟は二人とも背中に千両の金を背負っていて、どちらもそのことを知っていました。幾つか山を越えて行く間に、この兄弟の兄はこんなことを頭に浮かべました。「いまここで弟を殺して弟から千両を奪えば、おれは二千両の金持ちになることが出来るぞ。」その時弟もまたこんなことを思っていたのです。「いま兄を殺せば、一遍に二千両の金持ちになることが出来るのになあ。」二人は互いに、心にそのような思いを抱きながらそうする決心もつかないまま、ひとつの山を越え、河が流れているところに出ました。すると兄は、背負っていた千両の金を下ろし、河に投げ捨てたのです。びっくりした弟は、兄に訊きました。「どうしてお金を捨てておしまいになったのです。」兄はこう応えました。「おれはさっきの山道で、お前を殺してお前の金を奪おうと思ったのだ。だが、お前はおれのたった一人の弟だ。なまじこんな金を持っていたから、お前を殺そうなどという考えを起こしたんだ。だからおれは捨ててやった。」これを聞いた弟は、こう云いました。「わたしもあなたと同じように考え、あなたを殺してやろうと思っていました。そうなんです。わたしも兄さんも金に惑わされてこんな思いに嵌まってしまったんです。」弟も背負っていた自分の金を河に投げ捨てました。人は喰ったもので命を奪われることもあり、財産で身を滅ぼすこともあるのです。財産といえるようなものが何もなく貧乏だからといって嘆く必要はまったくありません。財産に拘(こだわ)る限り、六道四生(ししょう、母親の胎内から生まれ、卵から孵り、湿ったところから虫のように湧き、何もないところから忽然と生まれることを繰り返す)を永遠にぐるぐる生き廻らされるのです、と後々に語り伝えられたということです。が、この兄弟の兄は、あるいは弟に殺されるかもしれないと思い、その前に金を捨てたのかもしれず、弟もまた同じように兄に殺される前に金を捨てようと思ったのかもしれない。が、かくしてこの兄弟はいま暫くはこの世の「人」に留まったのである。迎鐘撞ききて熱し土不踏 石田あき子。

 「細長い屋根のついた桟橋に立つ人は、もはやこちらとはいえずさりとてあちらともいいかねる国にいるようなものだ。薄黄色の天井はこだまする人の叫び声でいっぱいだ。あたりは荷物運搬車のごろごろいう音や、トランクを置く重い音、起重機のたえずきしる音、それに、はじめてかぐ湖のかおりが流れている。たっぷり時間があるのに、人々は急いで通りぬける。過去の世界、あの大陸はすでにうしろにとり残され、未来は船腹にきらきら光る口を開けて待っている。薄暗くてそうぞうしいこの小路だけが、はなはだ困ったことに、現在にほかならぬ。」(『夜はやさしフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド 谷口陸男訳 角川文庫1960年)

 「「復興五輪」…発信わずか 新型コロナ拡大にのみこまれた理念」(令和3年8月10日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 東山南禅寺塔頭金地院(こんちいん)の書院に、長谷川等伯が描いた「猿猴捉月図」という襖絵がある。長く伸ばした片方の腕で樹の枝に摑まり、もう一方の腕を伸ばして一匹の猿が池に映った月を掬おうとしている。この「猿猴捉月図」は、仏典『大蔵経』の「魔訶僧祇律巻第七」から題を取ったものである。「於空閑處有五百獼猴。遊行林中。到一尼倶律樹。樹下有井。井中有月影現。時獼猴主見是月影。語諸伴言。月今日死落在井中。當共出之。莫令世間長夜闇冥。共作議言。云何能。時獼猴主言。我知出法。我捉樹枝。汝捉我尾。展轉相連。乃可出之。時諸獼猴即如主語。展轉相捉。小未至水。連獼猴重。樹弱枝折一切獼猴堕井水中。」人がいまだ踏み入らない原野に五百匹の大猿の群れが棲んでいた。ある日この猿の群れが林を巡っていて、尼俱律(にくり)という樹が一本生えているところにやって来た。その樹の下には井戸があって、水の面に月が浮かんでいた。この月を見て驚いた群れの先導者が皆にこう云った。「月が井戸に落ちて溺れて死にかかっている。われわれはこれを救い出さなければならない。真っ暗闇の夜がこのまま続いてしまうことになってはだめだ。」これを聞いて群れの者どもはああだこうだと話し合ったが、うまい方法が浮かばず、先導者にどうすればいいのか訊くと、「こうすればいいんだ。まずおれが樹の枝にぶら下がる。それからお前らのひとりがおれの尻尾を掴んでぶら下がる。これを続けてゆくんだ。そうすれば月を救い出すことが出来る。」猿たちは早速先導者の云う通り、次々に相手の尻尾を掴んでぶら下がってゆく。が、もうすぐ水面に触れるすれすれまで来たところで、連なった猿の重みに耐えかねた枝がボキッと折れ、猿の群れは一匹残らず井戸の中に堕ちてしまった。この原文には続きがあり、愚か者には愚か者が従ってしまう、迷う者が迷う者を救うことは出来ない、と述べている。猿のこの場面だけを見れば、実体のないものを掴み損ねて溺れてしまった、ということである。身の程を知らぬ者が冷静な判断をせずに大失敗をしてしまう、という教えであるともされている。笊で水に映った月を掬うことは出来ない。が、水ごと両手で掬うことは出来る。が、その月は本当の月ではない。車谷長吉の『贋世捨人』にこのような一節がある。「それから谷内氏は、次ぎのような話をした。ある日の午後、谷内氏が勤務する精神医学研究所の廊下を歩いていると、研究所内の風呂場の戸が開いていた。中を覗くと、服を着た一人の男の患者が、汲出し桶の尻に坐り、水のはってある浴槽の上に釣竿を垂れている。かねて谷内氏とは顔見知りの男である。氏は「どうだ、釣れるか。」と声を掛けた。が、男は振り向きもしない。釣糸を垂れた風呂桶の中を一心に見詰めている。谷内氏はそのまま廊下を通り過ぎた。所用をすませて、ふたたびもとの廊下を通過する時、風呂場を覗くと、男は先程とまったく同じ姿勢で、浴槽に釣竿を差し伸べている。氏はまた、「どうだ、その後、何か釣れたか。」と声を掛けた。すると、男は矢庭にこちらを振り向き、「馬鹿ッ、風呂桶で魚が釣れると思っているのかッ。」と呶鳴った。血走った、凄まじい目だった。谷内氏は、はッとした。頭の先から足の先まで、電気が走り抜けたような衝撃を受けた。」溺れている月を救おうとした猿が愚かであれば、釣れるはずのないことを知って浴槽に釣糸を垂らす人間は何であろうか。金地院は、以心崇伝の寺である。以心崇伝は、長く徳川家康に仕え名を残している。「伴天連追放之文」、禁中並公家諸法度武家諸法度、寺院法度を書いたのが以心崇伝である。徳川幕府は、朝廷も武家も寺も取り締まりの対象にしたことで二百六十余年続いたのである。小堀遠州が作った、名庭といわれている大方丈南面の二千坪の鶴亀の庭の、白砂に浮かぶ石を組んだ鶴島と亀島の間に長さ十二尺幅六尺の平たい石が据えられている。これは拝石と呼ばれ、ここに立って境内の南西の木の茂る傾斜の先の東照宮を拝むための石である。東照宮に祀られているのは徳川家康である。以心崇伝は家康のため、公家からも寺からも様々な書物を搔き集め、それを書き写させたという。万が一にも、家康に井戸の中の月を救うような気を起こさせないために。界隈という言葉の意味を狭く使えば、曲れば蹴上に抜ける緩やかな上り道の向かいに、南禅寺山を背にした南陽院の白築地が続く金地院の門前の界隈は、どこかで見かけたような思いのする景色でありながら、恐らくはここにしかない典型的な昔の風が通う界隈である。この昔とは、江戸からはじまる昔のことである。

 「数学の世界で第二次大戦の五、六年前から出てきた傾向は「抽象化」で、内容の細かい点は抜く代わりに一般性を持ったのが喜ばれた。それは戦後さらに著しくなっている。風景でいえば冬の野の感じで、からっとしており、雪も降り風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない。そこで私は一つ季節を回してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思い立った。その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげたみたが、あのころわからなかったことがよくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開けるということだろうと思う。」(『春宵十話』岡潔 毎日新聞社1963年)

 「国と東電に10億円賠償命令 (浪江町)津島住民訴訟、原状回復は退ける」(令和3年7月31日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 嵯峨小倉山の山裾に細長い姿の小倉池がある。東側の縁(ふち)を辿って南へ上がれば大河内山荘で、北に歩を進めれば常寂光寺の門前に出る。朝日が昇れば西の縁の小倉山を目指して光が射し込み、その日が中天を過ぎれば忽ちに陰って静まり返り、辺りの竹林が風に戦(そよ)いだりすれば不気味さを漂わせる池である。池の水の上一面をゆらゆら揺れる葉で覆った蓮が、いま白や桃色の花を咲かせている。蜻蛉をしづかにどけて蓮ひらく 金尾梅の門。朝日に照らされた蕾が開こうと微かに動いた瞬間、止まっていた蜻蛉がサッと飛んで行った。「どけて」という云いからは、蓮の花の大きさと高貴さのようなものが伝わって来る。が、極楽浄土の阿弥陀仏が池の縁から腕を伸ばし、開き始めた花弁(はなびら)に止まっていた蜻蛉を払ったのかもしれない。黄金の蓮(はちす)へ帰る野球かな 攝津幸彦攝津幸彦の句はどれも縄一筋で捉えることは出来ない。「黄金の蓮」は仏像の前に供えられた造花の蓮であろうか。その造花の蓮が活けてあるところへ「野球」が帰るとはどういうことか。確かに野球は、打者が球を打って本塁に還って来ることを目標にしている。が、本塁への生還は黄金の蓮が咲く極楽浄土にでも着いたような気分であるなどと生真面目に解釈をする必要はない。攝津幸彦の詠む句は、言葉のおかし気で馬鹿々々しい気分そのものの面白さであるのであるからである。小倉池の山裾の畔に御髪神社(みかみじんじゃ)という小さな社が建っている。昭和三十六年(1961)に理髪学校の教員だった児玉林三郎という者が建てたものであるという。ソ連ガガーリンボストーク1号に乗り込んで初めて地球を一周した年である。御髪神社が祀っているのは藤原采女亮政之(ふじわらのうねめのすけまさゆき)という髪結いである。第九十代亀山天皇の警護をしていた政之の父藤原基晴が宝刀「九王丸」を盗まれ、恐らくはそのことで失職し、基晴政之父子はその盗まれた刀探しの旅に出る。蒙古襲来に備えるために人が集まっていたという下関に父子は目星をつけ、政之は生活を助けるため新羅人から髪の結い方を習って下関で商売を始める。これが髪結いという職業の始まりであるという。後に政之は髪結い職人として鎌倉幕府に仕え、没後に従五位が贈られる。それで、基晴政之父子は肝心の「九王丸」を見つけることが出来たのか。これは見つかったとも見つからなかったともされている。が、後々世間に知れ渡ったことは、刀を見つけた父子の美談ではなく政之の髪結いの腕前である。政之は刀が見つからなくとも、己(おの)れの腕で飯が喰えるようになった。目的地、生きる場所は同じでも目的、生き方が変わったのである。平凡な蓮へ帰る野球かな。

 「眠れぬままに、私はここへ来て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した様々な地点の押し重なつて来る眺望の底に沈み込んで、搔き分けても搔き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ来てから長年暮しつづけて来たのと同様である。しかし、この忘却を払ひのけようとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に対する感謝であつた。」(「榛名」横光利一『筑摩現代文学大系 31 横光利一集』筑摩書房1976年)

 「心の不調リスク高く 県民健康調査、旧避難区域は全国上回る」(令和3年7月27日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 また『宇治拾遺物語』に「渡天の僧、穴に入る事」という話がある。「今は昔、唐(もろこし)にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただもののゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。ある片山に、大きなる穴あり。牛のありけるが、この穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。はるかに行きて、明き所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色いみじきが、咲き乱れたり。牛、この花を喰ひけり。試みにこの花を一房取りて喰ひたりければ、うまきこと、天の甘露もかくやあらんと覚えて、めでたかりけるままに、多く喰ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。心得ず、恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、はじめはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へがたきこと限りなし。前を通る人に、「これ助けよ」と、呼ばはりけれど、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。人の目にも、何と見えけるやらん。不思議なり。日ごろ重なりて死にぬ。のちは、石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。玄奘三蔵(げんじやうさんざう)、天竺に渡り給ひたりける日記に、このよし記されたり。」その昔、唐という国のひとりの僧侶が、天竺に渡り、仏修行のようなことではなく、天竺というところがどんなところであるのか知りたいと思って、とにかくあちこち歩き回っていろいろなものを見物したのだという。この僧侶、山の一方に大きな穴があいているのを目にして足を止めた。なんとその穴に牛が一頭入って行くではないか。これを見た僧侶は居ても立っても居られず、牛の後に従って穴の中に入って行った。どれくらい歩いたのか見当もつかぬほど歩いて行くと、急に視界が開け、明るいところに出たのである。思わす見渡すと、そこはこの世と思えぬ別世界のようで、見たこともない美しい色をした花が咲き乱れていて、さっきの牛がその花を喰っているではないか。その様子を見て思わずそそられた僧侶は、試しに花を一房ちぎって口に入れると、それはとびきりの味で、あの不老長寿の甘露というものを思い出させるようないままで口にしたこともない味だったので、僧侶は喰うのが止まらなくなり、ふと我に返ると、身体がぶよぶよに肥ってしまっていた。僧侶はそんな風になってしまった自分の姿が訳が分からず恐ろしくなって、さっきの穴のところに戻ると、来た時は問題なく通り抜けることが出来た穴が、肥ったせいでぎゅうぎゅうになってうまく進まず、それでもどうにか穴の出口まで頭を出すことが出来たのであるが、それから身体はにっちもさっちもいかなくなり、息が苦しくて青ざめ、油汗が滴り、やって来た人に向かって「助けてくれ」と叫んでも、誰もこちらを振り返ってくれない。わたしの姿が見えないのであろうか、理解が出来ない。僧侶はそれから何日かして、遂に死んでしまう。後には穴から頭を出したままの姿で石になってしまったということである。玄奘三蔵が天竺にお渡りになられた時の日記に、この話が記されております。仏教を教える「十牛図」というものがある。その第一は「尋牛」、牛を尋ねるである。第二は牛の足跡に気づき、第三で牛を見つけ、第四で牛を手に入れ、第五で牛を牧に放ち、第六で牛に乗って家に帰り、第七で牛を掴まえたことを忘れ、第八で牛を掴まえようとしたことも、その牛そのものも忘れ、第九で「返本還源」、何もなくなったまっさらなところからはじめてありのままの世が見え、第十で第九の悟りから世に戻って悟りを導く存在となる。これが「十牛図」の教えである。牛は、「一切衆生悉有仏性」の「仏性」を表しているという。物見遊山で天竺に行った僧侶が見た牛が「仏性」であるとするならば、僧侶は僧侶として求めるべき「仏性」から美しい花に目先が移り、その花を喰ったことで石にされてしまったのである。井伏鱒二の小説「山椒魚」は、岩屋の穴に入って二年過ごすうちに、成長した己(おの)れの身体がその穴の口につかえ、外に出ることが出来なくなってしまう話である。ある日岩屋の上の小さな窓から入り込んだ蛙を、山椒魚は閉じ込める。絶望と孤独にあった山椒魚は、そのような心が働いたのである。小説の後半は閉じ込めた者と閉じ込められた者が交わす話になり、結末の近くにこのような一文が置かれている。「更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。」井伏鱒二は生前に出した自選全集の「山椒魚」では、この一文を以て小説を終了させ、この先にあった結末までの文章を削除している。それまで親しんだ、削除された結末の文章はこうである。「ところが山椒魚よりも先に岩の窪みの相手は、不注意にも深い嘆息をもらしてしまつた。それは「あゝあゝ」という最も小さな風の音であつた。去年と同じくしきりに杉苔の花粉の散る光景が、彼の嘆息を教唆(きょうさ)したのである。山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかつた。彼は上の方を見上げ、且つ友情を瞳にこめてたづねた。「お前は、さつき大きな息をしたらう?」相手は自分を鞭撻て答へた。「それがどうした?」「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい。」「空腹で動けない。」「それでは、もう駄目なやうか?」相手は答へた。「もう駄目なやうだ。」よほど暫くしてから山椒魚はたづねた。「お前は今どういふことを考へてゐるやうなのだらうか?」相手は極めて遠慮がちに答へた。「今でもべつにお前のことをおこつてはゐないんだ。」」晩年の井伏鱒二は、若い時に書いた「山椒魚」のこのやり取りを「甘い」と思ったのである。この「山椒魚」に比べ、「渡天の僧、穴に入る事」の僧侶はただただ非情である。「仏性」である牛は、僧侶を救うというようなことをしない。仏は同じ口から慈悲浄土と破戒地獄を教えるからである。七月下旬に入った京都は、二年振りに建った祇園会前祭の山鉾が解体され、後祭の山鉾が建った。が、町を曳き歩く巡行はない。宵山で聞こえて来る占出山(うらでやま)の「安産のお守りはこれより出ます。常は出ません、今晩限り。ご信心のおん方は、受けてお帰りなされませ。お蝋燭一丁、献じられましょう。」と唄う子どもらの声は、今年もない。

 「こわし屋が来て、建物がなくなった地面に、白い、つるつるした陶製の便器がむきだしになったまま長いあいだ投げだされていた。高木タマは、この便器に跨ったまま、いのちを落としたらしい。脳溢血であった。そのあたりにペンペン草が生えて、風に揺れ動いていたころ、どこからともなく、主人は町工場の経営者で、若い女とできたためにタマと別れたのだという噂が流れて来たりした。」(「接木の台」和田芳恵『昭和文学全集 14』小学館1988年)

 「福島県産品「安全です」 東京五輪契機に風評崩す」(令和3年7月20日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)

 信心のある親が幼な子を仏壇の前に座らせ、「まんまんちゃん、して」と云う。神社の鳥居を潜って、「まんまんちゃん、あん」と我が子を促す。道端でも手を合わせ、「あん、して」と拝むものを教えられる。幼な子が自分からそうし始めれば、「まんまんちゃん、あん」の出番はなくなる。その時を境に、「まんまんちゃ、あん」は親の口からも幼な子の耳からも消えてなくなる言葉である。『宇治拾遺物語』に「日蔵上人、吉野山にて鬼に逢ふ事」という話がある。「昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥に、行ひありき給ひけるに、長(たけ)七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、首細く、胸骨はことにさし出でて、いらめき、腹ふくれて、脛はほそくありけるが、この行ひ人にあひて、手をつかねて、泣くこと限りなし。「これは何事する鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申すやう、「われは、この四五百年を過ぎての昔人にて候ひしが、人のために恨みを残して、今はかかる鬼の身となりて候ふ。さて、その敵(かたき)をば、思ひのごとくに、取り殺してき。それが子・孫・曾孫・玄孫にいたるまで、残りなく殺し果てて、今は殺すべき者なくなりぬ。されば、なほかれらが生れ変りまかるのちまでも知りて、取り殺さんと思ひ候ふに、つぎつぎの生れ所、つゆも知らねば、取り殺すべきやうなし。瞋恚(しんい)の炎は、同じやうに燃ゆれども、敵の子孫は絶え果てたり。ただわれ一人、尽きせぬ瞋恚の炎に燃えこがれて、せん方なき苦をのみ受け侍り。かかる心をおこさざらましかば、極楽天上にも生れなまし。ことに恨みをとどめて、かかる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せん方なく悲しく候ふ。人のために恨みを残すは、しかしながら、わが身のためにてこそありけれ。敵の子孫は尽き果てぬ。わが命はきはまりもなし。かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし」と言ひ続けて、涙を流して、泣くこと限りなし。そのあひだに、頭(かうべ)より、炎やうやう燃え出でけり。さて、山の奥ざまへ歩み入りけり。さて、日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪滅ぶべきことどもをし給ひけるとぞ。」その昔、幼い時から奈良の吉野山で幾つもの修行を積んで回っていらっしゃった日蔵上人が、ある日山奥で、身の丈が二メートル以上もある紺青(あお)鬼に出喰わしました。鬼は火のような真っ赤な髪で、首はひょろ長く、胸骨が飛び出るように硬く浮き出し、両の脛も細っているのに腹だけは膨らんでいて、この上人に逢った途端に、両手を擦り合わせながらわあわあと泣き出したのです。「鬼のくせに何でそのように涙を流して泣くのだ。」と上人が問い質すと、鬼は泣き止まずしゃくり上げながらこのように申したのです。「わたしは生まれた時は人の姿をしておりましたが、あることで人を恨んで四百年五百年その者を恨み続け、御覧の通りの鬼の姿になってしまいました。ことのはじまりはこうです。わたしはその相手を、恨みにまかせ、自分の手で殺してしまったのです。それからその者の子も孫も曾孫も玄孫までも血の繋がった者は全員殺し、ついに殺すべき者はいなくなりました。一旦はそう思いました。が、わたしの恨みはやつらの生まれ変わりの先のその果てまでも見つけ出し、一人残らず殺さなければ収まらなかったのです。そう思っていたのですが、その先の先の転生を突き止めることが出来なければそもそも殺すことなど出来るわけがありません。いまも消えないあの者に対する憎悪の炎で、わたしはこの世で生きていたあの者の子孫までをも絶え果てさせてしまったのです。そうしてわたし一人が生き残り、尽きない憎悪の炎を消すすべもなく燃え上がらせては、どうすることも出来ない苦しみだけを味わっております。あのような気持ちを起こさなかったなら、天の浄土に生まれ変わることも出来たでしょうに。人一倍恨みを溜めてこのような鬼の姿になり果て、気の遠くなるような苦しみを受け続けなければならないことが、どうしよもなく悲しくてなりません。人交わりがもとである者を恨み続ければ続けるほど、自分の身に跳ね返って来るということだったんです。恨んだ敵の子孫はわたしのせいで尽き果ててしまいましたが、わたしの苦しむだけの命は果てしないのです。はじめからこうなることを知っていたならば、あんなに恨み続けることはしなかったのに。」鬼はこう云って涙を流しながらいつまでも泣き続け、やがて頭から火が燃え出し、炎に包まれながら山の奥に帰って行った。日蔵上人は非常に心打たれ、鬼が負った罪を滅ぼす様々な祈禱を施されたということである。「かねて、このやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし。」無知のせいでこのような苦しみを味わうことになってしまった、と鬼は思っている。これは誠実な改心の情ではない。が、永遠に続くであろうその鬼の苦しみを、日蔵上人は憐れんだ。それ故(ゆえ)に、日蔵上人は呪法を使って鬼の身体を燃やしたのである。ひとりの幼な子の前に、日蔵上人の絵と青鬼の絵がある。どこからか、「まんまんちゃん、あん、するんやで」という声が聞こえて来る。幼な子は夢中で手を合わせる。上人様に「まんまんちゃん、あん」、青鬼にも「まんまんちゃん、あん」。

 「ある日、おれは森へ行った。迷ってやろうと固く決意して行ったんだ。木々のあいだで道に迷ってしまったと感じる楽しみがある。おれは歩いていった。木の枝の音、鳥たちの歌だけを耳にする幸福に浸りながら。日が落ちると道に迷ったが、本当に、決定的に迷ってしまった。」(『不在者の祈り』タハール・ベン・ジェルーン 石川清子訳 国書刊行会1988年)

 「「突然奪われた日常」展示 富岡に震災アーカイブ施設開館」(令和3年7月13日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)