糸桜こやかへるさの足もつれ 芭蕉。ゆき暮れて雨もる宿や糸桜 蕪村。影は滝空は花なり糸桜 千代女。糸桜下の方より咲きにけり 正岡子規。糸桜夜はみちのくの露深し 中村汀女。また風が鳴らす卒塔婆糸桜 皆川盤水。遠ざかるほど糸ざくら風の見え 阪上多恵子。遠くより見つつ来て立つ糸桜 阿部ひろし。暁闇の揺るると見しは糸桜 和田和子芭蕉の句は、花見の酒に酔い、お道化調子の大袈裟なもの云いが口から出た時の気分が見えて来る。蕪村の云いは、日が落ちてどこでもいいと思って入った宿は雨漏りがするおんぼろ宿だった、庭先に咲く糸桜に見惚れたのが失敗だったということであるのかもしれないが、蕪村の美意識は、垂れる枝を雨に見立て、散り出した糸桜の木をその下に立って雨漏る宿としたのかもしれぬ。千代女の句柄は大きい。滝の姿と満開の花が同時に見えているというのである。子規は、見たままを詠むという実践であり、汀女は、糸桜の華やかさの裏にみちのく東北の気候の厳しさを実感したと詠んでいる。盤水の句は、所を限ったうら淋しさの実写であり、多恵子は、揺れる枝のそばでは感じるだけだった風が、糸桜から遠ざかるほどその姿が見えて来たと云い、夜明け前の暗闇が不気味に揺れているように見えたのは糸桜が揺れていたのだ、と和子は気づく。糸桜は枝垂れ桜の別称である。御所の北の端にある近衛邸跡の枝垂れ桜は近衛の糸桜と呼ばれ、早咲きの名所である。枝垂れ桜の古木巨木は各地にあるのであろうが、近衛の糸桜は六七メートルの高さから枝を垂らし、それは音もなく流れ出すこともない滝のようでもあり、内に入って見上げれば図太い雨漏りのようでもあり、確かに風は枝を揺らして己(おの)れを現わし、闇のさ中に迷い来るならば、闇が動いていると思い違いをするかもしれぬ。遠くより見つつ来て立つ糸桜。阿部ひろしは、様々な糸桜への思いは胸に潜め、素っ気なくこう詠む。ああ、あそこで糸桜が咲いている、と思い、いまこうして傍らに立って見ているのは、只々心が惹かれたからである。そうであるから入れ代わり立ち代わりやって来る者らは皆、立ち去りがたい思いでいるのである。

 「曖昧な形のまっ黒な巨大な三角形が、塔のように積み重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車のように走ったり、それがいくつかにくずれ、立ち並ぶアラビア杉の梢と見えたり、じっと動かぬようでいながら、いつとはなく、まったく違った形に化けて行った。蜃気楼の魔力が、人間を気ちがいにするものであったなら、おそらく私は、少なくとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることができなかったであろう。」(「押絵と旅する男江戸川乱歩ちくま文学の森6 思いがけない話』筑摩書房1988年)

 「行方不明者につながる手掛かりを 震災10年、浜通りで一斉捜索」(令和3年3月12日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)