雑巾の道まつしぐら十一月 赤松ケイ子。新年を迎える十二月でもなく、一月二月の寒さのさ中でも春でも夏でもない十一月を雑巾がけの句にこの作者は選んだ。「まつしぐら」であるのは、学校の生徒か、禅寺の修行僧あるいは己(おの)れ自身の姿だろうか。一年十二ヶ月の内の十一月の後ろには過ぎた十ヶ月があり、目の前にある十二月でこの年は終わる。それがいやいやさせられている雑巾がけであったとしても、「あとひと月よそ見をしている場合ではない」というひたむきな思いを作者は「まつしぐら」という言葉に託したのだ。十一月花を扱ひ荒れし手よ 大井雅人。これも忙しなくなる十二月を翌月に控えた商いに携わる者のしばしの感慨であろう。霜月夜細く細くせし戸の隙間 橋本多佳子。この隙間を「細く細くせし戸」は家の内にある戸ではなく、外に接した戸であろう。時は十一月の夜、どの家も隙間風を嫌がり戸をきちんと閉めるものである。が、作者が「細く」隙間をつくることで、物語は生まれる。作者はいま病床にあり、熱で目が覚め、家の者にほんの少し戸を開けさせたか、戯れに月明かりを入れさせた。もうひとつの想像は、男女の行為の後に「細く細く」戸を開け、まだそう寒くはない十一月の風にあたったのだ。霜月や鯨入り来し伊勢の海 宇佐美魚目。このような詠みは「句柄が大きい」と評される。新年が早まって来たような戸惑いも目出度い句である。霜月の晦日(みそか)よ京のうす氷 池西言水。
「「今頃行くと、たしかあの邊の煙草畑の畦道で、ぽつかりと天狗様に出遇ふかもしれないよ。」━━私は、祖母に手をひかれて行つた頃から、そこで屡々(しばしば)、大槍を曳き、一本齒の高下駄を穿いた天狗に出遇つた。神輿の先に立つてゐる天狗なのだが、神輿はあちこちを練り廻つてゐたから、天狗はたつた獨りで半里も先を歩いてゐるわけだつた。遠くに太鼓の音が響いてゐるだけで見える限りは青々としてゐる畑だから、そんな中にぽつくりと天狗が現れるのが夢のやうである。」(「熱い風」牧野信一『牧野信一全集 第一巻』人文書院1962年)
「デブリ格納容器外に 原発事故後初、回収へ5日に線量測定」(令和6年11月3日 福島民友ニュース・みんゆうNet掲載)
鴨川、十一月。
