2023-01-01から1年間の記事一覧

花に暮ぬ我すむ京に帰去来(かえりなん) 蕪村。桜を眺めてあっという間に日が暮れてしまった。そろそろ京の我が家に帰るとしよう。蕪村は陶淵明の詩「帰去来辞」の「帰去来」をそのまま使ってお道化てみせた。が、「帰去来辞」とはこのような詩である。「帰…

啓蟄や叱れば泣きぬ女弟子 梶山千鶴子。師弟の間で師が弟子を叱るということはあるだろう。弟子を叱らない師もいるかもしれないし、師に叱られても泣かない弟子もいるかもしれない。が、この句の師は女の弟子を叱り、叱られた弟子は泣いた。弟子は師の云う通…

道を歩いていて、どこかを通り過ぎようとして匂いに躓(つまず)くことがある。沈丁花匂ふ下京長者町 中村阪子。この作者は沈丁花の匂いに躓いた。場所は「下京長者町」であるという。が、下京に長者町は存在しない。『京都坊目誌』(1915年刊)に「中長…

「南禅寺参拝の栞」に、南禅寺の正称は「五山之上瑞龍山太平興国南禅寺」であると書いてある。南禅寺を「五山之上」としたのは足利義満で、至徳三年(1386)自ら発願した相国寺を五山の二としたためであり、五山の一となったのは足利尊氏創建の天龍寺で…

嵐山の南の松尾大社の二の鳥居から道を左、南に沿って行くと、道は緩やかに上り楽器が奏でる音が聞こえて来る。それはシンバルやタンバリンや太鼓やピアニカが交じり重なり合い歌謡でも雅楽でもないフレーズを一斉に奏でていて、その僅かな起伏の韻律のフレ…

清水寺の「清水の舞台」の真下に、「北天の雄 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之碑」と東北六県を縁取りして刻んだ石碑が建っている。この碑の裏の説明はこうである。「八世紀末まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生…

こういう場面は、恐らくは目にしない方がいいのだろう。赤鬼、青鬼、黒鬼がスリッパのようなものを履いてロープで区切られた内で出番を待っている。スリッパの足元は砂利である。三鬼の前に笙を手にした平安装束の男が二人立っている。本殿前で太鼓が打ち鳴…

哲学の道は、今出川通の銀閣寺橋と冷泉通の若王子橋の間の琵琶湖疏水分流に沿った一・五キロの径とされている。この若王子橋が架かる熊野若王子神社の裏山に「那智の滝」がある。「正東山若王子(しやうとうさんにやくわうじ)は永観堂の北に隣る。天台宗に…

大寒ややおら銀屏風起ちあがる 佃 悦夫。大寒に入ったある日、呼ばれ誘いを受けたその家の畳の上に銀屏風がおもむろに広がり披露され、暖房のない日本家屋のその室の寒さが一層肌身に感じる。か、大寒の時の寒さというのはまるで開いた銀屛風が目の前に現れ…

梅にはまだ早いこの時期、京都府立植物園を巡り歩いても花はほとんど見かけない。まったく見かけないというわけではないのは、薔薇園の背の高く育った薔薇のひとつは枝に濃い桃色の花をつけ、椿園の雪中椿は白く咲き、地べたの水仙に体を伏せるようにして人…

正月三日に八坂神社でかるた始めがあった。この新年行事のはじまりは昭和四十六年(1971)で、八坂神社の祭神素戔嗚尊(スサノオノミコト)が和歌の神であるからであるという。八坂神社の成り立ちには諸説あるといわれるが、『寺院神社大事典 京都・山城…