2022-01-01から1年間の記事一覧

嵐山の方から渡月橋を渡り長辻通を北に下って、JR嵯峨野線の線路を越え、そのまま突き当たるところに嵯峨清凉寺がある。その元(もとい)は『源氏物語』の人物光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)の別業棲霞観(…

「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実(なおざね)は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善(前世でおこなった良い行い、現世で良い果報を受けるという)のうちにもよをしけるにや、幕下将軍(源頼…

御室仁和寺の東の築地に沿って緩く上る道の右は仁和寺の駐車場で、その上、仁和寺の東門の向かいに小さな門を構える蓮華寺がある。京都市が立てた駒札を写せば、「平安時代の天喜五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ広沢池…

冬に鶯の「あの啼き声」を聞くことはない。鶯がどこかに行ってしまって聞かないのではなく、冬には「あの声」を出さないから聞かないのである。チャッ、チャッというのが冬の鶯の鳴く声である。俳句はこの声を「あの啼き声」とは別の、笹鳴という季語にした…

平成七年(1995)一月十七日に起きた阪神淡路大震災のその刻に便所に入っていた俳人永田耕衣は、神戸須磨の二階家が倒壊したにもかかわらずその狭い個室の中で命拾いをした。九十五歳だった耕衣は住まいを失って寝屋川の老人ホームに入り、このような句…

グーグルマップは北野天満宮の一の鳥居から真っ直ぐ南に伸びる御前通の一筋東の狭い通りを相合図子通と記しているが、昭文社の地図(2014年刊)では下ノ森通(しものもりどおり)となっている。下ノ森通という名はいまの上京警察署の辺りの門前一帯が下…

南で梅の花が咲く梅小路公園の北の隅にスケートリンクがある。大きさは縦五十メートル横十四メートルとある、四方をフェンスで囲っただけの野外のリンクである。平日の寒風の吹く午後に誰も滑っている者がいないのは、まだ開く時刻の二時になっていないから…

猫の子にかがみて諭(さと)す京言葉 中戸川朝人。猫は年中子を産むが、俳句では「猫の子」は春の季語ということになっている。わざわざ「京言葉」と詠む作者は、恐らく京都の者ではなく、京都に生まれ育った者にとっては普段自分が使っている言葉以外はすべ…

結核に罹り昭和二十二年(1947)に三十三歳で亡くなる流行作家織田作之助がその前の年、京都日日新聞に「それでも私は行く」という奇妙な題の小説を連載している。その書き出しはこうである。「先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人な…

「節分の翌日が立春で、大槪二月四日の年と五日の年と、二年づつ續けて來る。未だ中々寒いが、禪寺等では立春大吉の札が門に貼られどこやらに春が兆す。陰暦によつた昔は立春卽ち新年で、元日のことを今朝の春・今日の春などといつたものであるが、今ではさ…

紫野大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興(ただおき)三斎が父藤孝幽斎の菩提寺として建てたもので、忠興の歯を埋めた墓には正室だったガラシャも祀っている。この同じ墓所に興津(おきつ)弥五右衛門という男の墓がある。京都町奉行与力神沢杜口(とこう)が書き…

一月十四日の雪は、渡月橋の欄干にも岸に寄る屋形船の屋根の上にも嵐山や小倉山の木々の枝にも降り積もり、その降りしきるさ中、景色は雪の思うままに従いみるみる姿を変えたのであるが、雲が南の方から割れ出すと降る雪の劣勢は太陽に晒され、やがて静かに…

桜の見頃も終わる四月半ばの今宮神社のやすらい祭は、緋色の幕をぐるりに垂らした風流傘を先頭に赤と黒の長いつけ毛と緋色の長い羽織を着た少年らが股を広げた腰構えで跳ねるように舞うのが独特であるが、この風流傘を思わせる「人気笠」が、大和大路通を挟…

昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説…