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目の前に川があり、向こう岸へ渡ろうとする時、水の流れが浅ければ裸足になって渡ることも出来るが、そうすることが躊躇(ためら)われるか、身の危険が及ぶような深さの場合、舟を使うか、あるいは何がしかの金を払って屈強な者に肩車をしてもらう。そこを…

原文はポルトガル語であったとされる、フランス語の訳で1669年に出版された、リルケのドイツ語訳で有名な書簡小説『ポルトガル文(ぶみ)』は、駐留を終えて去って行ったフランスの軍人に宛てたポルトガルの尼僧の五通の恋文である。恋文であるが、中身…

京の三名水と云い伝えられている五条堀川にあった佐女牛井(さめがい)は影も形もなく、御所の縣井(あがたい)はとうの昔に涸れ、梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井の水は、その云い伝えの通りであるとすれば、平安時代から地上に湧き出ている。梨木神社…

建武三年(1336)、自身の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字を許した足利尊氏に、天皇の位を取上げられた後醍醐天皇は、朝廷に偽物の三種の神器を渡して奈良の吉野に逃れ、逃れてなお己(おの)れの正統を主張し、その主張するところが自(おの…

雨か雪という天気予報の朝、晴れ間ののぞく空から吹かれ漂う小さな雪の一粒の発見があり、忽(たちま)ち空が雲に覆われ、その数の数えは最早追いつかない雪の降り現われは、雨とならない大気の冷たさの説明である。寒さの最中に熱さを思うことは、一つの逃…

油小路通(あぶらのこうじどおり)は、その西の堀川通と東の西洞院通(にしのとういんどおり)の間を南北に走り、東西に走る六角通から五条通までの堀川通の間は、醒ケ井通(さめがいどおり)が挟まり、北の紫明通(しめいどおり)から錦小路通の西洞院通の…

「嵯峨に遊びて、去来が落柿舎(らくししゃ)に至る」ではじまる芭蕉四十八歳、元禄四年(1691)の嵯峨滞在の記『嵯峨日記』に、小督局(こごうのつぼね)の遺跡を尋ねる件(くだり)がある。「松の尾の竹の中に小督屋敷といふ有り。すべて(※どれも)上…

季節は、言葉によって作られる。暦の上の一月二十日は、大寒である。探梅や枝のさきなる梅の花 高野素十。四条通の西の外れ、桂川の手前の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)の境内の、早咲きの白梅が花をつけていた。鼻を近づけ冷たい空気と一緒にかぐと、紛れ…

「邸宅を一個の生物に例えるならば、玄関はその頭部に当り客が先ず入って来る所である。玄関の前庭は如何なる客が入って来ても無礼にならぬ程度の特に引き締った式正の格調を要求される所であった。貴人の玄関前の鋪道は正式には石を四盤、亀甲、網代、乱継…

桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王は、慶長三年(1598)に兄である後陽成天皇が云い出した譲位が叶っていれば、第百八代天皇となっていた人物である。その譲位が叶わなかったのは、天正十四年(1586)に豊臣秀吉と猶子、養子縁組を結んで…

後水尾(ごみずのお)天皇は、第百七代後陽成天皇の第三皇子、政仁(ことひと)親王であり、後陽成天皇は慶長三年(1598)、弟八条宮智仁(としひと)親王に譲位し院政の復活を夢見るが、徳川家康らの反対でその夢は一旦挫折する。が、慶長十六年(161…

山径の途中で、夫婦と思しき中年の男女に道を訊かれる。吉田神社へ行く道である。吉田山と呼ばれる神楽岡の頂の、吉田山公園の裾の山径である。中年の男女が登って来たのは、今出川通から入る北参道である。北参道は、入口で曲がり、ほぼ真っ直ぐな緩(ゆる…

夢に知人の男が現われ、その夢を見ている者に何か喋る。二十年以上会っていないその男は、当然その男の現在の姿ではなく、最後に会った時の姿か、それ以前の男の姿である。その男が、今度は身振りで何ごとかを説明する。その男の目は、その夢を見ている者の…

帰る家あるが淋しき草紅葉 永井東門居。永井東門居は、小説家永井龍男の俳号である。帰る家はあるのであるが、足元の草紅葉のうら淋しい様よ、と平凡に読まなければ、この「あるが」の「が」は二つに働く。帰る家があるということそのことが淋しいと、帰る家…

ルイ=フェルディナン・セリーヌの小説『なしくずしの死』の日本語の直訳は、「信用販売の死」「分割払いの死」であると、翻訳者の滝田文彦は書いている。なしくずし(済崩)は、『言海』によれば、「借リタル金高ノ内ヲ若干ヅツ次第二返済スル。」であり、『…

東福寺を己れの菩提寺として造営した摂政関白九條道家の姉立子と順徳天皇の娘懐成親王は、四歳で第八十五代仲恭(ちゅうきょう)天皇となるが、その承久三年(1221)、祖父後鳥羽上皇と父順徳天皇が北条追討に敗れ、僅(わず)か四カ月で天皇の座から下…

花村萬月の小説『百万遍(ひゃくまんべん)』の中で、百万遍は知らない土地として出て来る。百万遍のある京都という街自体も主人公は知らない。「百万遍という言葉に反応して、とじていた目をひらいた。百万遍──。記憶の底にのこっている。地名だ。岩尾から…

野菊道数個の我の別れ行く 永田耕衣。自分、己(おの)れをそうであると意識するのは、同じ年頃の集まる中で初めて自分の名を呼ばれる保育園、幼稚園の時であろうか。その時の道は、その行き帰りの道であり、道草を覚える道であろうが、そのような子ども時代…

庇の下のベンチに腰を下ろしている小奇麗な身なりの老婦人に、顔の似た娘と思しき者が、「退屈してるの」と声を掛ける。堂を廻(めぐ)って祈る千度参りをさっきまでは二人でしていたのであるが、老婦人は途中で止め、庇の陰に入っていた。千度参りは、数え…

例えば、地下鉄烏丸御池駅から京都駅までは六分であり、京都駅から宇治駅までは奈良線快速で十九分、普通で二十七分であり、この電車の所要時間が平安時代に貴族の別業〔別荘〕があった宇治までの現在の距離である。宇治川に架かる宇治橋は、宇治駅から三分…

カメラを首からぶら下げた男が、一枚のプレートを読んでいる。プレートは、京都四条病院の救急口の横にあり、病院の場所は、堀川四条の交差点のそばである。男は恐らく、遠くから来た者である。近くの者は、男のようにプレートの前で足を止めたりはしない。…

芭蕉の『野ざらし紀行』に、梅林と題した「梅白しきのふや鶴を盗まれし」の句がある。童謡の一節と云われれば、口ずさむことに抵抗は起きないが、この句には「京にのぼりて三井秋風が鳴滝の山家をとふ」の前書がある。三井秋風(みついしゆうふう)は、豪商…

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)、四代目伊藤源左衛門が画師若冲となるのは、高倉錦小路の青物問屋枡屋の家督を弟に譲った宝暦五年(1755)、四十歳の時である。はじまりの遅い若冲は、その遅い分、その一筆から絵とは何かと問わざるを得なかった。明和…

昭和三十四年(1959)の京都新聞の連載企画「古都再見」に、物理学者湯川秀樹は、「大仏殿石垣」の題で文を寄せ、二、三十年前のこととして、「博物館から豊国神社・方広寺の鐘のあたりまで、以前よく散歩したことがある。このあたり一帯の閑寂というよ…

一本の木も植わっていない墓地の、日照りの暑さは独特である。上京七本松通仁和寺街道上ルにある具足山立本寺(ぐそくざんりゅうほんじ)に、灰屋紹益(はいやじょうえき)の墓がある。紹益は、六条三筋の遊女二代目吉野太夫を身請けした町衆である。町衆粋…

「鵜飼はいとほしや(※あさましい) 万劫(まんごふ)年経(としふ)る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世(げんぜ)はかくてもありぬべし 後生(ごしやう)わが身をいかにせん」(『梁塵秘抄』巻第二)「湿る松明(たいまつ)振り立(たて)て 藤衣の玉襷 鵜籠を…

鵺(ぬえ)は鵼とも書き、トラツグミの別名であり、トラツグミと同じ声で鳴く頭が猿、胴が狸、足が虎、尾が蛇(くちなは)の化け物の名である。二条城西北の二条児童公園の隅にある鵺大明神の祠は、その化け物鵺を祀っている。平安の末、夜な夜な内裏に住ま…

昨年五月に急死した私小説家車谷長吉は、短編集『金輪際』の最後に置いた短編「変」に、「私は夕食後、二階の自室に引き取って、明治の内閣総理大臣樞密院議長陸軍大将元帥従一位公爵山縣有朋(やまがたありとも)関係の資料を読んでいた。この世の悪を極め…

「こんなものがあっても禅宗とは何のかかわりもない。」こんなもの、とは鹿苑寺舎利殿金閣のことであり、これは昭和二十五年(1950)七月二日午前三時、運び込んだ自分の布団に火を点け、金閣を焼失させた修業学僧林養賢が取り調べを受けた西陣署での言…

JR嵯峨野線の花園駅の北西に、こんもりとした緑の丘陵があり、それが雙ヶ岡(双ヶ丘、ならびがおか)で、樹木の根の下は雙ヶ岡一号墳、二ノ丘谷古墳、三ノ丘古墳と名づけられた古墳群である。南北朝の頃、この西麓に『徒然草(つれづれぐさ)』の作者兼好…

「花柳の巷と六道の辻の間にあるのが建仁寺、昼下りにはこどもらの遊園となる」と言葉を添えたモノクロ写真には、滑り台で遊ぶ子どもらと、傍らの乳母車の赤ん坊をあやす子どもの背後に、仏殿がぽつんと写っている。この写真の掲載は、昭和三十七年(196…

この時期町中(まちなか)の和菓子屋は、水無月、みなづきと書いた紙を店先に貼り出す。水無月は、外郎(ういろう)の上に小豆を散らした三角形の餅菓子である。半透明の白い外郎は、平安御所の氷献上の行事「氷室の節供」の貴重だった氷を模し、小豆は邪気…

一枚のモノクロ写真に、右膝を立て、左手を床について座る着物姿の男が写っている。厚ぼったい着物の背はやや前に傾き、髪を剃った才槌(さいづち)頭は心もち右にかしいでいるように見える。男は手前のやや先に目を落し、そこにあるであろうと思われるもの…

昭和六年(1931)、京都市五区に右京区伏見区の二区が加わり、百万に手の届く人口となって京都日日新聞が、京都の中心場所を当てるクイズを出した。『京都の精神』と大上段に構えた梅棹忠夫がその論で、「日本にはめずらしいことだが、京都のひとの心の…

大学も葵祭のきのふけふ 田中裕明。田中裕明は当時、京都大学の学生であったが、学生が行列のアルバイトをするようなことがあるとしても、京都大学と葵祭に直接の関係はなく、葵祭の昨日あるいは今日大学敷地を歩いても、行き交う学生にも校内にも葵祭の気分…

後鳥羽上皇の女房松虫と鈴虫の姉妹が、法然の弟子住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)の手により剃髪したと知った上皇は、建永二年(1207)、住蓮と安楽を斬首する。あらゆる階層に広まった、南無阿弥陀仏を唱えるだけで極楽浄土に往生出来ると説く法…

五月五日は、藤森(ふじのもり)神社にとって特別の日、藤森祭の日である。「藤の森の祭は毎年五月五日にして、当地の神、蒙古退治の為出陣し給ふ日なり。産子(うぶこ)は宵宮より神前に鎧を錺(かざ)り、祭の日は一ノ橋、稲荷、藤の森にて朝より走り馬あ…

平安京の碁盤の正方形の枡目に南北の線、新しい通りを加え、一部の枡目を長方形にしたのは、天下人豊臣秀吉であり、その線引きは天正の地割といわれている。地割は、正方形に区切られた内の風通し、人流れを作る都市計画の実行であったが、例えば五条天神社…

鬱金(ウコン)桜は遅咲きで、ソメイヨシノがあらかた散った後に花をつける。花弁は八重で、色は鬱金、生姜(しょうが)を切った薄黄色である。そのデジタル写真のデータは、2012年4月15日13:01となっている。場所は、東京の新宿御苑である。新…

ある物事が、この世ならずと云う時、それは大袈裟であると同時に、そう云い表わす以外に仕様のない驚き、畏敬に圧倒されている。葉を落していた骨のような枝に桜が花をつけ、数日の昼夜を経た後に、その満開を迎える時が来る。花開くことが一年に一度きりで…

九条通は、平安京の碁盤の目の南の端に引かれた通りであるが、その九条通に面して立つ東寺、教王護国寺の南門の位置が、延暦十五年(796)の創建以来変わっていないとして、その位置を基準に、明治二十八年(1895)平安遷都千百年の記念に、同じ九条…

死ぬまでは転ぶことなく寒雀 三橋敏雄。雀のはね跳び歩きは、罪を負ってのことである。病気の親の元に急ぎ帰った雀は、勢い余って寝ていた親の頭を蹴り、兄弟の燕は、化粧をして帰ったために、親の死に目に間に合わなかった。死ぬ間際の親の遺言は、雀に歩行…

昭和二十八年(1953)版の公認野球規則の守備に関する規則のその一、ピッチング部のその一には次のような規則が置かれている。「正式な投手の投球。二つの正式の投球姿勢がある。(一)ワインドアップ・ポジション。(二)セット・ポジション。どちらも…

是枝裕和監督の映画『海街diary』は、再々婚の果てに死んだ父親の葬儀で始まり、馴染みの食堂の女店主の葬儀で終わる。その父親は、初婚の妻との間に三人の娘、再婚の相手との間に一人の娘、再々婚の相手との間に一人の幼い息子を残している。映画の主…

懸想は、思いを掛けることであり、懸想文は、恋文、艶書と解されるのであるが、江戸時代に懸想文売りが売り歩いた懸想文は、艶書もどきに縁起を願い言祝(ことほ)ぐものである。懸想文売りは、黒川道祐が著した『雍州府志』(貞享三年(1686)刊)に、…

平安の法典「延喜式」の神祇の巻の「神名式」に二千八百六十一の神社が官幣社として記載され、祈年祭に国から幣帛(へいはく)を受けるのであるが、その四時祭以外の臨時祭祀の一つの祈雨(アマゴヒ)神祭では、その神社の内の八十五座の祭神が指定され、京…

聖護院の門内に、数十人の修験者男女が集い、その幾人かは二三の者らと談笑している。修験者は山伏とも呼ばれ、常日頃は山野で修する者らである。一月のこの時期、この修験者らは七日の内に、市中三千五百の信徒の一軒一軒を托鉢して回るという。午後一時一…

鉄棒に少年二人二日の朝 佐藤鬼房。二日は、約束事として正月の二日である。物語の一場面として、このような場景はあるかもしれない。テレビCMであれば、この直前に年始の賑やかな家の様を置いて繋げれば、少年二人の何かしらの気分は否応なく場面に現れる…

白朮(をけら)詣りを知ったのは、子ども時分にテレビで見たニュース映像で、その大晦日の夜、八坂神社の境内に吊るされた燈籠の火を細い縄に移し、火の点いたその赤い縄の先を手元で回しながら町中の夜道を歩いていたのは、自分とその年恰好の同じ子どもで…

詩仙堂の庵主石川丈山は、徳川幕府の間諜隠密であったかもしれない、と歴史学者中村直勝がその著書『京の魅力』(淡交新社1959年刊)に書いている。「(詩仙堂の二階の)窓は鷹峰の方にも開いて居るが、それよりも寧ろ、京都御所の森が指呼の間に見え、…