アーユージャパニーズ。目が合って一方的に話を始めたその者はその前に、あの氷のようなものは何を意味しているのか、とひとり言のようなものいいで云った。首に身分証をぶら下げた七十前後の痩せた小柄な女である。その氷のようなものは、山門の石段に伸び…

太秦蜂岡の広隆寺に国宝弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)がある。「十一月(しもつき)の己亥(つちのとのゐ)の朔(ついたちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ、厩戸豐聰皇子(うまやとのとよとみみのみこ)、聖徳太子)諸(もろもろ)の大…

蛇いちご魂二三箇色づきぬ 河原枇杷男。昭和四十八年(1973)青木八束は小説「蛇いちごの周囲」で第三十六回文學界新人賞を受賞し、その年の第六十九回芥川賞の候補になるが受賞しなかった。青木八束は、脚本家田村孟の筆名である。昭和四十四年(196…

昭和四十二年(1967)立命館大学の一回生だった高野悦子の、六月十五日の日記に紫野大徳寺の塔頭大仙院が出て来る。「きのう長沼さんと山川さんと酒井さんとの四人で大徳寺へ行く。黄梅院と大仙院をみる。季節はずれらしく人がいなかった。黄梅院の庭石…

鳥羽城南宮の門前に店を構えるおせきもちの折りに添えられる栞に、「江戸時代この地に「せき女」と申す娘が居て、その大道(鳥羽街道)をのぼって来た旅人に茶屋を設け、編笠の形をした餅を笠の裏にならべて、道ゆく人に食べさせていました。大変心の美しい…

江戸の絵師鈴木春信に、「夜の梅」と題する錦絵がある。暗い夜に手摺りのある張り出しの上に細い目の振袖姿の娘が立ち、振り向く様で頭上に伸びる白梅の枝に手燭をかざしている。あるいは「風流四季哥仙、二月、水辺梅」は、若い男が神社の朱い柵の上に登り…

繁華な市街、高辻通室町西入ル繁昌町に繁昌神社がある。朱の板囲いの立つ、大人が並んで五六人も詣でれば動きが取れなくなるような境内である。その高辻通に面して立つ鳥居の傍らに、京都市が書いた駒札が立っている。「繁昌社(はんじょうしゃ)。繁昌社の…

阿呆と煙は高いところを好む、あるいは高いところへ行きたがるという時の煙は、火によって燃えたものが二酸化炭素まで変じなかった炭素の姿であり、その火によって出来た上昇気流に押し上げられ、高いところを好むと云い表せば、生きもののようにも目に映り…

元日に届いたある者の賀状に、謹賀新年まだ京都ですか、とあった。含みのある言葉である。もしかするとこの宛先の主は住まいが変わっているかもしれないと、賀状をしたためながらこの者の頭を掠(かす)める。平成三十年の賀状は確かに京都の住所から届いて…

円山公園を背に、飲み食いや雑貨の店が立つ繁華なねねの道を南に下(さが)ると、左の塀が途切れて、石段が現れる。上(のぼ)った先には高台寺(こうだいじ)があり、石段は台所坂と呼ばれている。物売りに目も止めずやって来た白人の、リュックサックを背…

紅葉が終われば、末枯(うらが)れが目につくようになる。街中の寺の庭先でも、町家の失せた空地でも、鴨川の河原でも、東山三十六峰の山の端でも生えていた草木は、自(みずか)らの意思とも違うただならぬ変化を己(おの)れに齎(もたら)し、雨風に砕け…

そのどちらもその木の名前を知らないようだった。硬い緑の葉の繁る枝に黄色い実が幾つも生(な)っている。蜜柑の一種のような実である。これは食べられへんのどすか、と初老の男が手押し車で身体を支えている老婆に訊く。昔もろてジャム拵(こしら)へまし…

「此世は自分をさがしに來たところ 此世は自分を見に來たところ」あるいは「物買つて來る 自分買つて來る」「おどろいて居る自分に おどろいて居る自分」これらは陶芸家河井寛次郎(かわいかんじろう)が書き残した言葉である。(『いのちの窓』東方出版20…

洛西小倉山にある二尊院のニ尊は、その本尊である釈迦と阿弥陀のことである。中国唐の善導の『散善義』に、「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」という喩(たと)え話がある。「人が西に向かって行くと、忽然として二つの河に出会う。火の河は南、水の河は北…

白河夜船(しらかわよふね)という言葉がある。この言葉は四つの漢字から成り立っており、それぞれの漢字にも、その漢字を組み合わせた言葉にもそれぞれの意味を持ち、しらかわよふねといま読めば、白い河と夜の船あるいは白い河に浮かぶ夜の船という意味で…

緑蔭をよろこびの影すぎしのみ 飯田龍太。緑蔭は単なる木蔭ではなく、空間としての広がりを持ち、太陽が位置を変えても、その空間の大方は保たれ、緑蔭を乞うのは夏であるから、緑蔭を通して見る外の世界は燦たる日光に個々の輪郭を失い、緑蔭が深ければ、内…

ジム・ジャームッシュの日本の公開が2017年の映画『パターソン』のパターソンは、アメリカ・ニュージャージー州にある市の名であり、市営バスの運転手をしている主人公の名でもある。パターソンは、朝六時過ぎに目を覚ます。同じベッドの傍らに妻が寝て…

生まれ育った町にある二つの神社の例大祭は七月二十四、二十五日に行われ、神輿が出、後には町内各地から笛太鼓の山車も出るようになったのであるが、子ども時代の祭りの記憶は貰った小遣いを遣う露店と境内でやっていた民謡のど自慢であり、そののど自慢の…

停滞し続けた梅雨前線により、数十年ニ一度ノ大災害ガ起キルゾと皆に迫った、コレマデニ経験シタコトノナイヨウナ大雨が京都にも降った。桂川に架かる渡月橋の橋脚が濁流に飲み込まれ、橋の北詰から小倉山に沿う参道にも泥水が溢れ出て、境の印だった街灯が…

御室仁和寺(おむろにんなじ)と呼ばれる大内山仁和寺は、仁和四年(888)の本堂落成であるが、その歴史は、上皇となった後の、昌泰二年(899)に出家し第一世となった宇多法皇から始まる。仁和寺第二世性信入道親王は、三条天皇の第四皇子であり、第…

安永九年(1780)に世に出た『都名所図会』の神泉苑の記述を読めば、その文間に隠れ潜む事柄があるとしても、この池にまつわる来し方のあらましの元(もとい)は知ることが出来る。「神泉苑は御池通大宮の西にあり。(真言宗にして、東寺宝菩提院に属す…

借景庭園でいの一番に名の挙がるその庭に面した濡れ縁を、三人の女が仏殿の角を曲がって一人ずつ現れ、その端まで歩いて行く。先頭の老婆は九十手前の様子で杖を突き、その後ろを七十ほどの女、六十ほどの女が続き、前の二人の面立ちは目鼻に似たところがあ…

西洞院通(にしのとういんどおり)一条上ルの大峰図子町(おおみねずしちょう)に、大峰寺跡と説明札(ふだ)を立てた黒い門構えがある。平安時代、大峰殿とも呼ばれた、修験者の坊舎が立ち並ぶ大峰寺がこの地にあったのであるが、後に荒廃し、その証拠の、…

京都府立植物園発行の、週刊植物園五月四日号の週刊見頃情報に、ハンカチノキの名があった。この木の名前に記憶はあったが、実物はまだ見たことがない。東京上野桜木に住まいのあった頃、休みの日に木蔭のベンチに座りに行った小石川植物園に、ハンカチノキ…

西陣聖天雨宝院の庭の空を蔽うように枝を回(めぐ)らす赤松を「時雨の松」と呼ぶのは、幕末に参拝した久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)が雨に遭って、その下に宿ったからだという。その当時の名は中川宮であった久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家…

御衣黄(ぎょいこう)はソメイヨシノに遅れて咲く桜であるが、その際立つ特徴は、花弁の色にある。御衣の黄、とは朝廷の貴族らが着るものに好んだ萌黄であり、花弁がその萌黄のような薄緑をしているからであるが、この桜を知った者は萌黄桜とも緑桜とも名づ…

『宇治拾遺物語』に「聖宝僧正(しやうぼうそうじやう)、一条大路渡る事」と題して次のような話が載っている。「昔、東大寺に、上座法師の、いみじくたのもしきありけり。つゆばかりも、人に物与ふることをせず、慳貪(けんどん)に罪深く見えければ、その…

まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生。桜の花開くこの時期に、この句のような光景はそこここで見ることが出来るであろうが、このように見たとしても、誰でもがこのように言葉に出来るわけではない。見たままを詠めとする写生俳句は、詠む者を試すよう…

謡曲「東北」は、とうぼくと読む。世阿弥元清の作である。京に上った東国出の三人の僧が、京の鬼門に当たる北東の地に建つ寺、東北院(とうぼくいん)に咲く梅の香に誘われやって来る。東北院は、三人の娘を次々に天皇に嫁がせて世の頂点を極め、死後浄土に…

その日の日の出過ぎに雨があり、天気予報は終日の曇りで頭上には青空があり、これから向かう西風を吹き下ろして来る嵐山の上空は、灰色い雲に覆われていたのであるが、丸太町通が西に尽き、南へ下れば渡月橋に至る長辻通で雪が舞い出し、向こうに常寂光寺(…