紫苑にはいつも風あり遠く見て 山口靑邨。紫苑ゆらす風青空になかりけり 阿部みどり女。「紫苑 しおん、しおに、鬼の醜草(しこぐさ)。キク科に属する、わが国原産の草花。草丈は二メートル以上になるものもあり、葉茎ともに表面がざらついている。葉は大き…

十月の大廃屋に雲離離と 下村槐太。「離離(りり)」を辞書で引くと、このような白居易の詩の例が出て来る。「離離原上草 一歳一枯栄 野火焼不尽 春風吹又生(きれぎれに生い茂る野の草は年に一度枯れては生える。野火に焼け尽くされることなく、春風の吹く…

曼珠沙華かなしきさまも京の郊 石塚友二。北嵯峨の稲刈りの終った田圃の畦に赤い曼珠沙華が咲き出すとニュースになる。カメラが花の群れに近づけば、どの花の黄緑色の茎もどちらかに傾き合っていて、六枚の細く真っ赤な皺のある花弁は割れひろがる如くに反り…

その日の最高気温が京都市の九月の記録を更新する三十六度であれば、三十分余り自転車を漕いだだけでズボンの尻から股の内に汗の染みが出来ている。汗は尻にだけかいているわけではない。下着もシャツも汗で湿ったままいつまでも乾かない。東大路通に立つ知…

左京岡崎の平安神宮は、明治二十八年(1895)の平安奠都(てんと)千百年紀年祭に桓武天皇を祭神として創建された。社殿は平安京の正庁朝堂院を模し、拝殿はその大極殿の八分の五の大きさで、応天門もその応天門の八分の五の大きさである。昭和三年(1…

嵯峨宝筐院(ほうきょういん)の創建は平安期であると伝えられているが、その東に隣る清凉寺を「五台山清凉寺は小倉山の東なり、嵯峨釈迦堂と称す。」と記す安永九年(1780)上板の『都名所図会』にも天明七年(1789)上板の『拾遺都名所図会』にも…

京福電気鉄道、嵐電帷子ノ辻駅のそばの遮断機の下りた踏切りを一両だけの電車が通過すると、ふわふわと目の前に綿毛が舞い上がった。線路沿いに互いを支えるように、あるいは反目するようにゆらゆらと立つ薊(あざみ)の種が飛んだのだ。薊はその葉や花を包…

八朔の雲見る人や橋の上 内藤鳴雪。梅小路公園の西から南を囲むように「朱雀の庭」と「いのちの森」がある。どちらも国鉄の貨物駅の跡地に平成八年(1996)に出来たもので、その中に入るには一旦階段を昇って建物の内に入り、管理事務所の前で二百円の切…

七月二十四日の祇園会後祭の黒主山の今年の巡行の順は七番目である。「謡曲「志賀」にちなみ大伴黒主が桜をあおぎながめている姿をあらわす。御神体(人形)は寛政元年(1789)五月辻又七郎狛元澄作の銘を持つ。山に飾られる桜の造花は粽と同様に戸口に…

鉾を待つ二階手摺の緋毛氈 野村泊月。綾小路西洞院西入の芦刈山の、七月十七日の祇園会前祭の今年の巡行の順は第四番である。芦刈山には、鎌と芦を両手に持った翁が芦原の中に立っている。「山」には賑やかな囃子方は乗り込まず、緋色の縁取りの獅子の段通や…

短夜や一つまきたる草の蔓 玉木北浪。『新歳時記 虚子編』(三省堂1934年刊)の「短夜」はこう記されている、「短い夏の夜である。夏至は最も短い。俳句に於ては、日永は春、短夜は夏、夜長は秋、短日は冬。これはそれぞれ理由がある。先人の定めた所、…

松尾大社の二の鳥居と楼門の間の参道に直径二メートルほどの茅の輪が設けられていた。これを潜ることで半年の穢(けが)れを祓(はら)うことになるという夏越の祓いのためのものである。その傍らに潜り方を記した札(ふだ)が立っている。まず左側から潜っ…

仏性は白き桔梗にこそあらめ 夏目漱石。仏性(ぶっしょう)は、「衆生(一切の生きもの)が本来有しているところの、仏の本性(ほんしょう)にして、かつまた仏となる可能性の意」(『岩波仏教辞典第二版』(岩波書店2002年刊)とされているが、漱石は白…

蕪村忌の心遊ぶや京丹後 青木月斗。与謝蕪村の本姓は谷口で、与謝と名乗るようになったのは、母親の出身地である丹後与謝で四十過ぎに幾年かを過ごした後である。丹後国は「太邇波乃美知乃之利(たにはのみちのしり)」という呼び方をするという。「和銅六年…

水鳥や提灯遠き西の京 蕪村。五七五のこれだけの言葉からどれほどの想像をすればよいのか。水鳥が飛び立つ羽音にはっとして顔を上げると辺りに夜の帷(とばり)が降りていて、向こうに見えるあの提灯の明かりは西の京か。あるいは、不意に灯った提灯の明かり…

一と日のびし葵祭や若葉雨 高橋淡路女。今年の葵祭の行列「路頭の儀」は天候不順で一日延びた。晴れて気温の上がった五月十六日、北大路通の商店街のアーケードの切れる日陰の下で行列を待っていると、後ろの者が、京都暮らしは四年目だが行列を見るのは初め…

秋の暮辻の地蔵に油さす 蕪村。甲塚橋が架かる宝樹寺で南に折れる有栖川沿いの道を西に向かって六、七人の二十歳を過ぎたあたりの男女が歩いている。皆手ぶらで普段着のようなばらばらの恰好で誰かの命令で同じ歩幅で隊列を組んでいるわけでもなく、だらだら…

都忘滋賀より京へ嫁せし人 今井妙子。都忘れという花の名は、第八十四代順徳天皇が詠んだとされる「いかにして契りおきけん白菊の都忘れと名づくるも憂し」からきているという。どういう理由で毎年きまって花を咲かせる白菊を都忘れ、都にいたころのことを忘…

山吹によき句すくなし今むかし 泉鏡花。松尾大社の境内を流れる一ノ井川の両の淵に山吹がいまを盛りに咲いていて、松尾大社はやまぶき祭の看板を掲げているが、かつて「山城井手(現在の綴喜郡)玉川」が山吹の名所であったといわれ、池西言水が「山吹は人の…

その日紫野大徳寺の境内をぶらぶらしているとどこやらから笛鉦の音が聞こえて来て、耳を澄ませるとその囃しの音はだんだんこちらに近づいて来るようで、待っていると音は次第に大きくなり松の間から行列が見えて来る。先導する二三人の裃姿の年寄りの後ろを…

川沿いの桜が散った天神川に架かる三条通の橋の名は猿田彦橋である。その名の由来は橋の袂にある猿田彦神社から来ている。猿田彦神社の祭神は猿田彦神で、猿田彦神は、「天孫降臨に際し、八衢(やちまた)に立って天孫を迎え、日向の高千穂の槵触之峰(くし…

花に暮ぬ我すむ京に帰去来(かえりなん) 蕪村。桜を眺めてあっという間に日が暮れてしまった。そろそろ京の我が家に帰るとしよう。蕪村は陶淵明の詩「帰去来辞」の「帰去来」をそのまま使ってお道化てみせた。が、「帰去来辞」とはこのような詩である。「帰…

啓蟄や叱れば泣きぬ女弟子 梶山千鶴子。師弟の間で師が弟子を叱るということはあるだろう。弟子を叱らない師もいるかもしれないし、師に叱られても泣かない弟子もいるかもしれない。が、この句の師は女の弟子を叱り、叱られた弟子は泣いた。弟子は師の云う通…

道を歩いていて、どこかを通り過ぎようとして匂いに躓(つまず)くことがある。沈丁花匂ふ下京長者町 中村阪子。この作者は沈丁花の匂いに躓いた。場所は「下京長者町」であるという。が、下京に長者町は存在しない。『京都坊目誌』(1915年刊)に「中長…

「南禅寺参拝の栞」に、南禅寺の正称は「五山之上瑞龍山太平興国南禅寺」であると書いてある。南禅寺を「五山之上」としたのは足利義満で、至徳三年(1386)自ら発願した相国寺を五山の二としたためであり、五山の一となったのは足利尊氏創建の天龍寺で…

嵐山の南の松尾大社の二の鳥居から道を左、南に沿って行くと、道は緩やかに上り楽器が奏でる音が聞こえて来る。それはシンバルやタンバリンや太鼓やピアニカが交じり重なり合い歌謡でも雅楽でもないフレーズを一斉に奏でていて、その僅かな起伏の韻律のフレ…

清水寺の「清水の舞台」の真下に、「北天の雄 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)之碑」と東北六県を縁取りして刻んだ石碑が建っている。この碑の裏の説明はこうである。「八世紀末まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生…

こういう場面は、恐らくは目にしない方がいいのだろう。赤鬼、青鬼、黒鬼がスリッパのようなものを履いてロープで区切られた内で出番を待っている。スリッパの足元は砂利である。三鬼の前に笙を手にした平安装束の男が二人立っている。本殿前で太鼓が打ち鳴…

哲学の道は、今出川通の銀閣寺橋と冷泉通の若王子橋の間の琵琶湖疏水分流に沿った一・五キロの径とされている。この若王子橋が架かる熊野若王子神社の裏山に「那智の滝」がある。「正東山若王子(しやうとうさんにやくわうじ)は永観堂の北に隣る。天台宗に…

大寒ややおら銀屏風起ちあがる 佃 悦夫。大寒に入ったある日、呼ばれ誘いを受けたその家の畳の上に銀屏風がおもむろに広がり披露され、暖房のない日本家屋のその室の寒さが一層肌身に感じる。か、大寒の時の寒さというのはまるで開いた銀屛風が目の前に現れ…